SNSあれこれ

 美容院で週刊誌をパラパラ見ていたら、女性芸人さんによるコラムで、「Facebookは”自慢”の場」だと書いているものがありまして。
 リア充てんですかね、自分の私生活や人間関係の華麗なることを自慢し合う場所。
 今の自分は全然だけど、いつかきっと、自分もああいうキラキラな生活になるんだ、と言い聞かせつつ、ギリギリ歯ぎしりしながら見るのだ——という、もちろんジョーク交じりですが、そういう「分析」でした。

 ミクシィが人気だなーと思っているうちに、何だかいろんなものが出てきて、今はいろんな種類のものがありますよねえ、SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)も。

 それぞれの特徴や指向性はあって、そのサービスと人間との間には「相性」がある、というのが私の見るところ。
 自分はどのサービスとは好相性で、どのサービスとはイマイチか、ということがわかると、ここからまた自分が持っている指向性、好み、性格の特徴が見えてきて、面白い、と思ってます。

 私の場合は基本、ブログというのが一番居心地はいいようです。このブログは本当に自分の息抜きの場所なので、そこへたまさか、どなたかがおいでになっても、「何のお構いもできませんで」という挨拶が、謙遜でも何でもないというくらい本当に何もお構いなし(笑)
 コメントやトラバを止めているのは、いっときスパムが酷すぎて、面倒になって止めてしまって、それっきりです。(^^ゞ

 止めた当時はweb拍手をつけていたので、何かご用件の際には拍手の方からコメントでもいただければ、と言っていましたが………そのうちにはメールフォームもあるからいっかー、と、拍手も止めてしまって;;

 ツイッターは、ブログ更新のお知らせができればありがたいやと(一時は流行ったRSSも、ほぼ使われなくなって、大きな支障はなかったけれど、更新のお知らせが届かないのは、それはそれで、ちょっと不便だったため)始めたんですが、これは意外なまでに面白くてハマってしまいました。

 顔本ことFacebookは、これはもう「見る」だけのもの。小田和正さんのページを見たいがためだけに登録し(動機が不純)、使えれば使ったほうがいいかなあと言いつつも何となく馴染めずそのまま放置。

 ピンタレストは一回はユーザーインターフェースをぜんぜん理解できず挫折するも、模様替えがされたあとは「あー、なるほどわかった」ということで使用中。
 現在では、自分がアカウントを持っているSNSの中では一番気楽に遊んでいられる場所となっております。

 インスタグラムは、ものすごくくだらない理由で手を出しませんでしたが、昨年夏くらいから使用を始めまして。
 まあ顔本よりは使えるけれど、ツイッターほどにも面白いとも思えず(すみません;;)、使っていてときどき何かこう…違和感があるなー、と。
 
 でもそれも小さな違和感だったので、気にせずにおりましたが、ここへきて、そのシステムの指向性、構造が見えてきて、なるほど顔本ほど馴染めないってことはないにしろ、ツイッターほどには面白いとも思わずにいた理由がわかった、と。

 ツイッターは、その特徴は拡張性。
 いわゆる拡散というだけではなくて、自分でツイートや情報をリンクリンクで繋げ、つなげた先でまた「おお、こんなものがあった」というものが見つかるのでまた繋げ…ということができる。

 繋がる先は主には情報なりツイートなりであり、人と人との繋がりはむしろごくごくゆるい。
 濃厚にしたければそうできないことはないので、ユーザー自身で、その辺は使い方を変えられる。割と融通が効くんですね。

 インスタは。
 これってよーするに「個人事業主」なんだなー、と。(^^;)

 ツイッターは基本的に、提出した情報・ツイートは、見ず知らずの人さまに「利用」されるという前提。
 けれどもインスタには(いまだに)他ユーザーによる再投稿の機能はない。ということはインスタグラムの運営は、本来は、その使い方を推奨しないってことですね。

 最初は、何でこんなものがTLとして表示されるの? と戸惑った、「〇〇さんがいいねしました」という、大変大きなお世話じゃないかと思われた仕様も、「他人による情報の再送信はナシで」「オリジナル投稿自体を広めるように」という意図だと思えば、なるほどなーと。

 何か面白い本があったとき、その内容をコピーしては再配布しているのがツイッターだとすれば、インスタではあくまでも「この面白い本を読んだよ」ということを知らせていくんですね。

 インスタでは特にビジュアルに関わるお仕事の方が、ちょうど名刺やカタログのようにインスタを使うんだな、と書いたこともありますが——なるほどその通り。
 インスタは情報の「交流」が主体ではない。「個人事業主」が「店舗」を構える、という感覚の方が近い。

 だからあくまでもオリジナルを守ることが大事であり、拡散には限界はあるけど、「違法コピー」を減らすことを重視している。あくまでオリジナル情報の発信をサポート、支援するよ、というものなんですね。
 どんなシステムにも根幹となる「考え方」がありますが、インスタのそれがやっとわかった——と思いました。

 もちろん実際にはどう使うにしろそれはユーザー次第ですが、でも、システムを作った側には「このように作ったのでこのように使って欲しい」という「理念」がある。
 だから、リポストや画像の取得、加工、編集のための外部ソフト(アプリ)がどれほど充実してこようと、インスタ自身はそれらを取り入れるふうもない。

 なるほどねえ。と。

 私がツイッターに意外にハマったのは、自分のホームのTLを「スクラップブック」にできるから、でした。
 自分のツイート、RTしたものがTLとして並んで行きますが、これには雑誌や新聞を切り抜いて自分の好きな本を作るような感覚がある。これが楽しい。

 しかしインスタではこれが推奨されないどころか、ゆるやかながら「禁止」されているわけですね。
 いわば、お店の店頭にある商品を勝手に持って行ってはいけない(窃盗ですから;;)、という感覚で。
 なるほど、何となく感じてきた違和感はこれか——とわかりました。

 ピンタレストもそうですが、自分の「好き」を「収集」するのが好き、というところがあるんですよね私。
 現実の世界ではあんまりコレクションには興味ありませんが、ああやって、見ること聞くこと知ることを集めるのは好き。

 ピンタレストとツイッターは、その「集める楽しさ」サポート(ピンタレストは特にそう)、「情報をリンクさせて、リンクした先でまた拡張」という面白さを許容している。だからハマった。

 顔本やインスタは、そういう意味では確かに——リア充の自慢合戦の場所かどうかはともかく(笑)、現実の社会を反映する性格が強い、と言えるようです。

 生身の人間とはあんまり深く関わらずに生きてきた身としては、そりゃーツイッターの方が性に合うわな、と、今更に納得した次第。

 これでいくと、ツイッターよりもさらにゆるやかであり、かつ拡散性も高い(らしい)マストドン Mastodon についても、不肖わたくし、イケル気がします(笑)
  
 
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お金というエネルギー

 ツイートを引用させてもらおうかなと思って見たら、どうも削除されたようで見つからない。
 ということでこの頼りにならない記憶を頼りに書きます(;;)。

 生活苦というものがない、十分以上にお金がある人はもちろんこの世にいるわけですが、そういうのってどんな感じだろう? と。
 お金の心配をして、やりくりをして、その苦しさに思わずため息をつく。
 そういうことが全く必要ない。そんな心配はなにひとつない。
 ——そういうのってどんな気持ちだろう、と。

 まあ実際、考えてみると、人生の悩みの多くは、無尽蔵のお金があるなら苦にもならないようなことなんですよね。
 十分にお金をここに使えるなら、こんな苦労も気苦労も心配もしないで済むんだな——と考えたら、私もちょっとめまいがしたことがありますので、お気持ちはお察しします。

 人間はやはり、自分の経験、体験のないことは、想像力を働かせたとしても充分には「わかる」ものではないんですよね。
 生活苦を感じない生活ってどんなだろう——というのはなかなか、素朴だけれど切実なつぶやきで、思わず私もうーんと唸って、そうですよねえ、と思ったんでした。

 でも、お金があって生活の心配がない境涯になれたとしてもですよ——お金持ちにはお金持ちの、悩みも苦しみも苦痛も心配もあると思うんですよね。
 心配というのは目で見えるものじゃないけど、もしもそれを可視化できるとしたら——、案外、お金があってもなくても、自分が感じる苦しみの「量」は変わらないかもしれません。

 仕事の上でも成功して、お金もあって、ご家族にも恵まれていて、なんの不足もないと見える人が薬物中毒になったり、自死したりということもあるのがこの世という場所。

 たしか何かのお経にある例え話だったと思いますが(お釈迦様はたとえ話がお上手なんですよねえ…)、人間のこの世に存在することとは、杭に繋がれた犬のようなものだと。
 動かせない杭に、縄で繋がれている。その綱の長さは違いがあって、本当に身動き取れないくらい短い綱で縛られていることもあれば、ある程度——何メートルかは動ける、という長さのこともある。
 けれども、綱につながれて制限されている、という苦しみ自体は同じ。という。

 私個人のかすかな経験としては、——私はその昔は、家事をやってくれる家政婦さんとか来てくれたら楽だろうなと漠然と思っていましたが——、父の病気の関係でヘルパーさんが来てくださるようになったとき、私は、浅はかだったと思いました。
 
 もちろんヘルパーさんが来てくださるありがたさというのは言葉では言い表せないほど。
 とはいえ、家の中に、家族でもない「他人」がいる、ということにはストレスがある、ということを、初めて知ったんでした。
 私には、予想もしていなかった驚きでしたねあれは。

「源氏物語」中には身分ある姫君に必要な素養というものを源氏君があれこれ喋る場面がありますが、なるほどなあ、と思ったのは、人に対して(いい意味で)鷹揚であることというのがありまして。
 身分あるお姫様となれば周囲に常に人がいる。大勢の人が自分に仕えている。偉い人だから威張っていればいいというのは庶民の考えで、いかなエライ人といえども、身近な人とうまくいかないようでは、生活にも支障が出る。

 あまり他人に対しての好き嫌いを言わず、おおらかに対応する。これは「人を使う」立場にある人に必要なことなんですね。
 使われる側も苦労があって大変ですが、人を使う側にだって、苦労も心配もある。

 そう思ったとき、しみじみと、お金持ちにはお金持ちなりの苦労、心配、心労もろもろがあるんだろう、庶民の気楽さ、これはこれでいいものなんだな——と思いました。

 その立場にならなければわからないことって山ほどある。
 であれば、やたら人さまについて羨ましがったり妬んだり嫉んだりってのは意味ないな、と。


 余談ですが、お金についていうと、これ、そのうちにはだんだんこの世からその苦労は消えていくという予測があるんですよね。
 今、ベーシックインカムなんてことが一部で言われ始めていますが、お金は誰もがふつうに手にするようになっていく、と。
 インターネットが「情報の公平性」を実現した(しつつある)ように、お金もまた、誰にも流れていくようになる、と。

 これは寝言を言ってるわけじゃなくて、物理学の方で大真面目に、ビッグバンから始まって拡張を続ける宇宙という視点から、知的生命体をこの宇宙の中で探すとき、エネルギーを活用する「文明」の「痕跡」を手掛かりにする、というものがあるんですね。ホントですって;;
 1960年代にロシアの物理学者ニコライ・カルダシェフ博士が提唱したものがそれです。

 文明が発達した星ほどエネルギーを活用しているのでその痕跡を見つけやすくなる、という理屈らしいんですが(エントロピーの法則から)、——タイプ1〜3に文明をランク付けしています。
 高度の文明であるほどエネルギーを活用できる、というのはわかりますよね。その分類では私どもの地球はタイプ1ですらない、そうです。(^^;) あたしら未開の原始人なんですな。

 高度文明はエネルギーを偏りなく使用する、ということはつまり、情報であれお金であれ、広く公正に活発に利用する。
 実際、いま、お金は仮想通貨なんてものも出て来て、兌換紙幣という「物体」の状態から、電子化されたエネルギーになって来ている。そのうちには現金なんてなくなる、そうです。

 そういう時のお金の概念は現在のものとはまるっきり違うものになるでしょうしその時には、それこそ「お金の苦労」なんてものも——高度な文明においては——なくなる。と。

 それはもう、相当、遠い未来の話でしょうけれども、まあ、そんなことを考えて、お金から一瞬でも苦しい心を離すのもいいかなと。

 そう思って、こんな戯(ざ)れ言。(-∀-)
 
 
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談志師匠のお言葉

 読んだ瞬間抱腹絶倒。ヾ(●^▽^●)ノわはは♪


「国会議員はあなたがたの代表なんだ、頭のいいはずがねえだろ」は至言!

 そういえば、代議士という言葉については国語辞典にちょっと面白い記述がありまして(大辞泉)。

だいぎし【代議士】
直接選挙で選出され,国民を代表して国政を議する人。国会議員。一般には衆議院議員をさしていう。



 代議士に似た言葉で代議員というのもありましたがこれもちょっと意味が違う(ものがある)。
 へー。初めて知った。

だいぎいん―ゐん【代議員】
① ほかの人々の代表として議事や議決に参加する人。
② 米国で,大統領候補を指名するため各州から選ばれた人。



 代議士というのは直接選挙で選ばれた人のこと、というのはいいんですが、「一般には衆議院議員をさす」というのは、初耳。——参議院は?
 それをいうと納得しがたいのは現行の、小選挙区と比例代表の併用で。
 人がせっかく小選挙区での当選を阻んだものを比例の方で復活当選されると、なんかこう、納得しがたいものがあるんですが。いつもじゃないけど。

 しかし、何にせよ、代議員は「自分(たち)の代表」という意識を持つ人は、じつはそう多くはない、という気がしますね。 
 なんせ投票に(行けるのに)行かないのを「自慢」して、投票に行ったやつをバカ呼ばわりするのがいるくらいですからね。
 あれは一体どういう了見なんだか意味がわからない。

 代表として頑張ってほしいと思う人がいません、というのなら、白票でも投じてくるのが議会制民主主義の市民の責任であり義務である。
 義務と責任を放棄しておきながら権利と自由だけは確保しようというビンボー人根性は、何をどうしたって擁護できるものではない、と思っております。

 実際、権利や自由とやらに比べると、責任と義務の方がはるかに大きい。

 民主主義民主主義って、まるでこれが世界最高、神聖にして絶対不可侵の至高の存在であるかのようにいう人がいますが、そこまでいうなら当然、自分たち一人一人がどれほど重いものを背負っているのか、わかってるんでしょうねえ?
 ——とイヤミのひとつも言いたくなるときがある。

 そういう意識があれば、あれほど政治家に対して無責任なことは言えないだろうと思うので。

 政治家というのは私どもが曲がりなりにも選んだ、代表権を与えた人たちだからまだ我慢もしましょうけれども。
 ——マスコミ。
 あれは一体なんですか。
 
 彼らは選挙で選ばれた人ではない。あんなもの、選んだ覚えもない。
 なのに彼らは自分たちが国民の代表みたいな顔をする。
 さらにその上、通常では考えられないくらいバカなことを言う。私としては「こんなバカと同類だなんて思われたくない」と、もう、泣くしかない。

「リコール」できるんなら一番リコールしたいのは、政治家よりもマスコミですわ。(←だんだん目が据わってくる)

 実際、マスコミの政治家の揚げ足取りぶりには驚く。
 彼らの要求するのはつまりどんなレベルにある人のことかと「逆算」して考えると、——マスコミ連中って、政治家をどんな聖人君子様にしておきたいんだ? と呆れるばかり。
 また、彼らの扇動にあっさりのって、そうだそうだという「有権者」も。

 そういう中で、この談志師匠のお言葉は、さすがだなあ、と(笑)
 バカが寄り集まって選んだ代表なんてバカに決まってら——というのはおっしゃる通りで、返す言葉もございません(笑)

 民主主義なんてそんなにいいもんか? と、民主主義とはどんなものかを考えたことすらないだろうその「信者」さんの顔を見て疑問に思うわけですが、それでも、なるほど、「バカの代表はバカに決まってる」とまでは思ったことがなかった。
 我ながら、まだまだ見る目が甘いです(笑)

 マスコミを代表として選んだ覚えはないけど、あれだって「群愚」の中にあるものだと思えば、当然のものではあるんでしょう。
「仲間」だとしても、代表ヅラはして欲しくないですけどね(←頑固)

 あんまり妙にお高くとまった「理想」を「基準」にせず、自分の代表なんだからそりゃそんなもんだろ、というところから入っていく。
 それくらいでいいはずですね。確かに。

 政治家に腹が立ったら、「自分(たち)の代表だからこんなもん」、マスコミの首を絞めたくなったら「バカの群生(ぐんじょう)」だものと深呼吸する——そんな感じでやっていくしかないんでしょう。
(群生を「ぐんせい」と読んだら生き物の生態のお話、「ぐんじょう」は仏教の言葉で「一切衆生」のこと、と(ざっくり)お考えください)

 また、民主主義についてはわりとドライなものの見方をしていて、私は民主主義を「神聖にして不可侵のもの」とは考えません。
 優れたリーダーがいるなら独裁の方がいい、というくらいでして(誤解されるんですけどね、この言い方)。
 
 フィギュアスケートの採点法なんて見ていれば顕著ですが、よーするに制度が問題じゃないんですよね。
 関わる人間の程度こそが問題。
 どんなに優れたシステムを作っても、運用する人間のレベルがどうか、の方が、結果に影響する。

 遺伝子でその人の病気リスクがわかるようになってきましたが、目下のところでは、実際に罹患するかどうかは遺伝子より生活習慣等の方が影響が大である、という結果になってますよね。
 そういうことだと思います。

 談志師匠、やはり、さすがだったんだなあ、と、しみじみ思いました……。
  
 
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本日お休み

 今日はこちらお休みいたします。
 
 昨日のエントリー後半でちょこっとお話ししました猫が、今朝、午前4時半過ぎに永眠いたしました。
 
 昨日の昼間までの様子だともう少し持つかなと思っていたのですが……。
 ——ただ、ここで新月でしたし、以前からどーも低気圧のときは体調良くないなあということが多かったし、もしかしたらとも、思っていたんでした。

 先ほど、動物霊園へいってきました。
 楽にして、ゆっくり休んでほしいと思います。

 人間の方も、今日のところはお休みにいたします。
 この3日くらいかな、あんまり眠れていない。
 
 こんなときにいつも思い出すのは、夏目漱石の「猫」の通知。
 さすが文豪は簡潔にして過不足のない通知を書くんだなーと思います。(^^;)

http://www.geocities.jp/sybrma/322nekonoshiboutuuchi.html

 
 明日にはまたいつも通り、お目もじいたします。
 今日のところはこれにて失礼を。m(_ _)m
 
 
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何事もバランス重視で

 ライザップさんのテレビCMを見た人が、あの体の変わりようって、なんとなく圧倒されるねー、というようなことを言ってました。
 ただ痩せる、減量する、というのではなくて、筋肉をつけて体そのものを「作り直す」感じですよね。
 ほんと、人によっては見違えるようだ、って比喩でもなんでもないし。

 食事だけではもちろんなくて、生活の内容、時間の管理、当然、運動、トレーニング諸々必要ですよというあのメッセージは、なるほどと思わせてくれます。

 とはいえ、庶民には、そういうことにお金や時間を注ぎ込むことはそう簡単なことではないので、あのCMを見ても、「へーえ」と、ほぼ人ごとですが(笑)
 それでも、「体重を減らせばいいってもんじゃない」というメッセージやイメージが、確実に、世間に広まっていくのはいいことなんじゃないかな。

 私どもは体重を気にするとつい、食事の量を減らすとかカロリーを減らすことに熱心になっちゃうけど。
 ……じっさい取り組んだことがある人ならわかるでしょうが、カロリーって、あんまり関係ないですよね〜。(^^;)
 ちゃんと計算してやっても、カロリーを減らしても体重は変わらない。せいぜい、増加はしないという程度。
 カロリー減らしてんのになんで? と思ったとき、「人の体はカロリーだけじゃない」ということが実感されるわけですね。
 事実、がっつり食べていても減量する、ということはある。それにはやはり栄養管理や運動は不可欠。

 最近の「流行り」では糖質制限ですか。

 現代人はあまり体を動かさないので、糖質の摂りすぎになっている。故に糖質を減らす(カロリーではなく)と効果がある、と。
 とはいえ。
 どーしてそんなに極端になるのさ、と思わず頭を抱えてしまうのは、糖質を減らすといいとなったら今度は極端に減らしすぎて、体調を崩したり病気になったりって。ねえ;;
 脂肪を分解するにも糖分はいるので、ゼロはいかんのですゼロは。
 なんでそう極端なんだ…。納豆といいバナナといい;;

 その一方で。
 代替医療、漢方、東洋医学、栄養学といったものをバカにする医療関係者。
 じつは私は、あの手の発言、言い草がキライなんですよ。たいそう傲慢な考え方がうかがえるときがあるので。

 でも、ああいう「お偉い」「医療関係者」に、ああいうことを平気で言わせてしまうのは、何かひとつがいいとなると、もンの凄く極端に走る人たちの「おかげ」なんだよなあ、と、ムカムカしているときがあります。
 ああいう極端な人を見てその結果を見たとき、なんでそんな馬鹿なことをするのかと思わない方が難しいですからね;;

 何事も、過ぎたるは猶及ばざるが如し。ダイエットでも診療、治療法でも、大事なのはバランスでしょう。
 私は私で、現代の西洋医学のお医者さんがたの、栄養面の軽視ぶり、知識のなさには危機感を覚えているほどです。じょーだんじゃないですよ本当に。エラそうに人のことを言えた立場なのか。
 がんで亡くなる患者の8割は「餓死」している、これについてはどうお考えか。
(栄養面のサポートをしてくれる病院もありますが数は多くない)
 

 ライザップさんのCMが語るように、人の健康は何かひとつだけを突出させてりゃいいってもんじゃないわけで。
 健康を考えるのは、ダイエットも医学も同じだと思いますね。
 食事でも医療でも生活習慣でもメンタルでもなんでも、バランスが崩れれば、当然、体調だって崩れますよ。
 何か、どれか、ひとつだけが「悪役」ってことはないし、何かひとつだけが効果的ってこともない。

 ダイエットにしろ医学というものにしろ、人の健康は、面倒なようでも「全方位」で考えていく必要がある。
 何か、どれかひとつだけではいけませんよ——という「イメージ」が、もう少し浸透していくといいだろうなと思います。

 それをライザップさんにだけお任せするのもちょっとアレかと思いつつ。(^^;)
(言いにくいことは全部『アレ』にする/笑)

        ●
 
 私ごとで恐縮ですが。
 じつはここのところ、飼い猫の容体がよくありません。

 昨年の11月から半年ほど、少しずつ少しずつ体調を崩していて、最近はもう、いよいよお別れだろうかという感じになっております。

 猫エイズ持ちなのですが、たぶん、そのせいかと思われます。
 もう病院にもいかず、できるだけ本人(?)のいいように、家でゆっくりさせようと思います。

 もう猫は何匹も看取ってきましたが、でも、やっぱりこういうことには「慣れ」ってないもんですよねえ。(^^;)
 猫エイズの発症と思われる状態を看取るのは以前にもありましたが——、どうも、ついつい、ジタバタしてしまいます。
 今日はちょっとばかり、ああいよいよか、という気分が濃厚になったところで、私もダウン気味;;

 こういうときは無理をせず、「こんな状況なんで、あんまりまともに書けません」と正直に言っておく方がいいなと思いまして、こんなところで、こっそり言い訳です。(^^ゞ

 猫もその他動物も人間も同じ——、どうかどなた様も、お元気でありますように。
 
 
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時間の向こうの永遠

 永遠の愛を夢見る人は少なくないと思われますが、現実は厳しい、ということを知る人もまた、少なくないことと思います。
 中には、まあいろいろあったり無かったりで、永遠の愛どころか愛と聞いても鼻の先で笑うような人もいますが、でも、「難しい」ことだからって、それが即座に「存在しない」と決め付けることはない。
 よーするに自分にはできないというだけのことで、世の中にはそれを実現する人もあるんだろうし、であれば、自分の狭い考えだけで「永遠だなんてそんなもの」と冷笑するのは心得違いというもの。

 ということで私としては「永遠」を否定しない。
 しないどころか、「あるんじゃないすか」という。
 永遠というものは私どもが考えるような「時間」のことではなく、もう少しべつのところにある「記憶」ではないだろうか——

 そんなことをこのブログでもいつぞや書きましたが(探さなくていいですよ;;)、同じような結論に至った方をお見かけして、ですよねえ、と。



 永遠なんて「嘘」だと言って、自分がその永遠を裏切ったと思い、傷ついた人に、永遠だと思ったその一瞬に嘘がなかったのだから嘘ではない、その永遠はちゃんとある——などと言ったことがありますが。
 やはり似たような結論になる人っているんだな、やっぱりそういうものじゃないのかな、と思ったツイートでした。

 ただ、永遠の一瞬は「ある」というのと、「永遠は一瞬にしかない」というのとでは、だいぶ、気持ちの向きが違うようだとは、言えますけども。

 これは私どもがこの三次元の、物質の世界に、物質として存在している以上は仕方のないことだろうな、と思います。

 永遠を願ってみたところで、死なない人などいない。考えてみればこの段階で既に、物質としての永遠性はない、と決められている。

 それでも私としては、永遠だとした瞬間があったなら、それはもう永遠なのだ、という感覚が消えることもなかったんですよね。
 でもまあ誰に説明してもわかってもらえそうもないことだし……、と思ってきましたが、そういうときに量子論を知ったときは嬉しくなりましたねえ。

 物質はどんどん小さくしていくことができる。私どもは義務教育中には、物質の、分子、原子、なんて話を聞きますね。でも実際にはこれが物質の最終単位ではなくて、原子もさらに、中性子、陽子、と細かくでき、それらを構成する「最小の物質」、これが量子です。
 超ひも理論はまだ実証されてはいないものの、この理論によりますと、その最小物質の大きさは、(プランク長程度とすると) 10のマイナス35乗メートル、とのことなんですが………まあ、わかりませんよね;;

 この量子の世界にまで入り込むと、時間が崩壊する。
 私が大いに気に入っているのはこの点です。そもそも物質は「ときに波動でありときに粒子であり」とのことで、実にいい加減で、揺らぎまくっているわけです。
 この考え方も面白くて好きですが、これを推し進めてたら、とうとう「時間」までなくなったよ! と、——最初に聞いたときは「わけわかんない!」と喚きつつも楽しかったですね。

 ああそれは面白い、と思った本があったんですが今ちょっと見つからないので…ひとまずこちら↓の記事で。

時間は実在するか?(日経サイエンス)

 時間なんてものは本当はこの宇宙にはなくて、ただ、それだと人間がこの物質の世界に適応して生きていくのには不便なので、人間が、時間という「概念」を作っているだけではないかという「仮説」ですね。

 仮説でもいい、面白い(笑)

 時間が、人の考え出した「幻想」に過ぎないなら、一瞬だろうが永遠だろうが、同じことではないか。
 
 私がぼんやり昔から思い描いていたのは、時間という概念とは違うところにある、「真実」のようなものだったかもしれない。
 時間の長さは人間のご都合なので、それは問題じゃない。時間の中で私どもは必要なことを必要なように経験することになっているので、実際には永遠をつかみつつも、時間によって「失う」経験もするようになっている、だけ。なのかも。

 時間の長さが問題ではなく、その人が、確かに永遠だと思うものがあり、あって、これから有るなら、永遠を疑う必要はない。

 確かに有るなら、なぜ、私どもはそれを失うのか、数ヶ月や数年くらいで喪失するのか、という懐疑論者の言うこともわかるけど、でも、それはしょーがない。

 万物は流転する、とはヘラクレイトスの言葉でしたか。生まれた瞬間から死に向かって変化し続ける、物質の私どもの、それはもう、宿命というものじゃないかと思います。こればっかりはしょーがないです。
 物質として存在するのをやめたとき、その時こそ、時間という概念から自由になった永遠と出会うのかもしれませんね。

 なんだか凄まじいくらいの寝言になってますが、でも、私の思うところを言葉にするなら、こんな感じ、です。
 
 
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母、デビューす

 電子とつくものとはとにかく縁がなく、使えるのはファックスくらいといううちの母が、とうとう、交通系ICカードを手にいたしました。早い話がSuicaですが。

 先日、外出先から帰ってくるなり開口一番、
「あんたが使ってる、あの、ピッてやるだけのカード、どこで買えるの?」
「……ピッてやるだけの…(考え中)、 ……あー。Suicaですか」
「あれあたしでも使えるよね?」
「そりゃ使えますよピッとやるだけだもん。……いいよ、んじゃ今度買ってくるよ、Suicaでいいよね?」
「なんでもいいよ使えれば。東京でもこっち(静岡県)でも使えるよね?」
「使えます。——電車を使うときの注意事項として熱海駅をまたがなければ問題ナイです」

 聞けば、出かけたとき、行きも帰りも、駅の券売機で券を買っている間に電車が目の前で発車していったそうで。
 往復のどちらかだけならまだしも、両方でそれをやったので、かなり頭にきたらしい。(^^;) 気持ちはワカル。
 田舎のことなので電車といえばJRさんしかないし、1本逃すと、時間帯にもよりますが10〜20分待つことになる。これはなかなか大きいですよね。

 で、私があのSuicaで券も買わずに改札を通過するのを思い出したようで。
「あれを買おう!」となったんですな。(*´-`)

 そういうわけなので昨日、自分が出かけた先で買ってきましたが。
 静岡県民なのにまたSuica(笑)

2017/04/14 Suica

 地元にいるときは車移動ばかりでそもそも駅に行かないんですよね。
 駅周辺は意外と車を置きにくくて、面倒なので駅へ行って用足しをすることもない。
 出張で行った先の方がよほど電車・地下鉄の利用機会は多い、という状況。
 静岡県民、というか、JR東海さんの管内住みなのに、持っているカードは東日本さんのSuica(笑)、というのはそういう事情によります。

 東海さんのICカードは、「TOICA(トイカ)」っていうそうです。(……そうです、って;;)

 新しい技術というだけで敬遠して、人の話そのものを聞かない、ご高齢の方も多いんですが、本当は、こういう便利な新技術は、お年寄りにこそ便利なんだけどなあ……と思います。

 駅の券売機で、枚数と料金を選ぶ、お財布を開ける、お金を取り出す、切符を受け取ってお釣りをとる………というのでも、もう時間がかかって大変そうにしている方、いらっしゃいますよね。
 思わずお手伝いをしたくなるくらいですが、他のことはともかく現金を扱うことだと、他人としては言い出しづらい。
 大変そうだなあ……、あ、小銭落とした……、うーん;; となったことは幾度かあります。

 見ているとさすがに都心部ではご高齢の方でもカードを颯爽と使いこなす人が多いようですが、まあ、こちらは田舎なもんですから。(^^;)

 なんでしょうね、それこそICカードなどはもはや接触させる必要さえなくなって、本当に簡単になっているのに、「新しいもの」というだけで尻込みする。
 小難しい設定が必要なものなら、まあしょーがないかなと思うけど、「ピッとやるだけ」とわかっているのに「いいよ別に…」と尻込みする。
 便利だし簡単だし自分が楽だから、使えばいいのになあ…と思うことは、他もちょこちょこあります。

 ときどき「便利」を否定する人もいて、そんなもん要らん! という主張もありますが、これはこれで、ちと傲慢かな、と思います。
 たしかに、若くて健康な人にはむしろ不要と思われるようなものですが、でも、なんらかのハンディキャップがある人には、これさえあれば一人でも外出できるとか、体に負担にならないで済むとか、あるわけですよね。

 便利というのは、ハンデがある人には「必要」と言ってもいいくらいです。それを、健常者「だけ」の視点で見て「要らない」と大上段から斬って捨てるのも、いささか傲慢だなと思うことはあります。

 新技術は今後とも、より便利・簡単、あとこれは日本人の「習性」で、「軽くて小さい」ものを目指す方向性に進むだろうと思われる。
 ので、私としては、新しいものを敬遠しない年寄りになろう、と、心中ヒソカに決意しております(笑)

 基本、加齢にはあんまりネガティブなイメージを持っていない方なんですが、でも、好奇心が衰えることにだけは気をつけよう、とは思っているんでした。
 知るは楽しみなり。楽しい上に便利だったらありがたいじゃない、ってことで。
 
 
 
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この世の名残に

 明日はお出かけのため、こちら、たぶんお休みします。
 出かけなくてもいいかもしれないんですが、ちょっと定かではない。行かないで済むかもしれないけど……その可能性は低いかな。(^^;) てことで。

         ●

「#自分の葬儀でかけてほしい曲」
 先日ツイッターのハッシュタグでこれ↑ を見つけて、へー、と思いまして。
 皆様の回答が、真面目なものから大喜利化しているものまでいろいろで、なかなか楽しい♡ よかったらちょっと覗いてみてください。

 私もちょっと考えてみたけど、特に希望はない。というのは、葬儀というのは生きている人間に必要な儀式だと思っているから。生きている人が好きな曲で、楽しんでね、という感じ。

 葬儀なんぞなくていいという人もありますが、それも心得違いというもの。本当に天涯孤独、誰とも関わることなく世を去るひとならいいですが、そういう人ってあんまりいないと思いますね。
 近親者や友人などを思い浮かべるから、自分にはそういうのはないので「無縁さん」だと思っちゃうんでしょうが、深い森の中で隠棲しているとかではない限り、——アパート住まいででもあるいは入院中ででも、周囲に完全に人がいないということはありえない。

 人はどこでどうお世話になったりなられたりするかわからないもの。親しいということはなく、ただ時折、近所のスーパーでお見かけするだけ、みたいな「関係」でも、「関係」であることにはかわりない。
 うまいこと葬儀の日時を知らせることができるかどうかはともかくとしても、でも、お亡くなりになったと聞いて、ひとまず香典を持って伺いたい、という人はあるかもしれない。

 日本は儀式となると大抵はオープンではありませんが、こと葬式だけは例外で、ほとんどゆきずりみたいな人でも訪ねられればさあどうぞと受け入れることになっている。

 これは故人がどこでどういう付き合いがあったかは遺族でも完全に把握しているわけではないということもあるし、それこそ、顔見知り程度の人であっても、お別れのご挨拶をしたい、という人がいる場合もあるから。

 葬儀というのは、人生最後の締めくくり。
 別れの儀式であればなおさら、「けじめ」というものが、生きている人には必要。

 けじめなんていうと嫌な顔をされるかもしれませんがでも、人の気持ちというのは、理屈や合理主義とは別次元のことだからしょーがない。
 さほど親しくもない近所の人でさえ、やはり、最後のご挨拶に行けたときとそうできなかったときとでは、こちらの「モヤモヤ」ぶりが違う。私もそういう経験をしているので。

 親しい親しくないではなく、確かにあった存在とはこれ限り、という気持ちの区切りは、必要なんですよね。

 面白いなと思うのは、死後の世界は信じない、というのに、「自分が死んで、夫と同じ墓に入るのはイヤ」だというような人。
 私は輪廻転生も死後の世界も信じていますが、「自分はもう死んじゃっててこの世の人じゃないんだから、生きている人のいいようにすれば」と思う。
 反対に、人は死んだらそれっきりという人が、死後の自分のお骨の心配をしている。

 どうしてなんでしょうね(笑) 

 だって死んじゃったらそれっきりだと思ってんでしょ? なのにどうして「夫と同じ墓はイヤ」だなんていうのさ。死んだらもう関係なくなってんじゃん? ——と思わずケタケタ笑ってしまい、イヤな顔をされたことがあります(笑) ………ごめんよ、でも実際そうでしょ?(笑)

 ちなみに、遺灰を撒いてしまって墓など持つな、ということに私が反対するのは、親のそういう遺言に従ってはみたものの、これはもう人としての本能的なものじゃないかと思いましたが、どうにもこうにも、「親の遺骸を”捨てた”」罪の意識に苦しむ人をみたことがあるからです。

 なんて罪深いことをするのだ、と、私は故人に対して無茶苦茶腹が立ちましたね。
 墓を持たずに済ませるかどうかは、子孫がいるならそちらに任せればいい。あとは任せたよとだけ言えばいいのに、律儀な孝行息子なればこそ、泣きながら親の遺言に従い、そうして、理屈ではない、心の深いところから湧き上がる、取り返しのつかない罪の意識と後悔に苛まれていく。
 何という不合理。
 何という自分勝手。

 ……テメエの死んだ後のことなど、もう自分には関係のないこと。生きてこの世にいる人のいいようにしてもらえばいいはず。
 まして自分は日頃から、霊も魂も信じないと言ってるのに。

 あれはいったい、何の執着なんだろう。

 
 なんてことをつい、思い出してしまったタグのお題でした。

 私も生きることには熱意はなくても、この世を去ることについてだけは熱心で、もう葬儀の手配も何も準備万端状態。おそらくは無縁さん状態であろうとは思われるものの、昨今はやりの「家族葬」というのがかなり「感じ悪い」ものであったので、小さくてもいいので従来型のオープンな葬儀コースで組んであります。

 あの家族葬ってねえ——、あるいは葬儀会社によって違うのかもしれませんが、感じ、悪かったんですよね。
 たとえこの世での付き合いは浅いようでも、最後のご挨拶をと思ってきてくれた人を門前払いにするなんてのは感心しませんやね。
 ということで、私自身は従来のオープン型で。

 で、BGMはというお題だったので、「いやそりゃもう、そこにいる人が好きな音楽でもかけてくれればいいよ」と思いました。
 特にないというのなら、静かにしていてもいいし。

 人の矛盾は多くありますが、これもまた、その辺が見えて面白いことだな、と思ったハッシュタグでした。
 ツイッターのハッシュタグって、ときどき面白いものや考えさせられるものがあります。

 皆様は、ご希望の音楽、おありでしょうか? (*´ω`*)
 
 
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私の主な居場所

 青息吐息の金曜日。(^^;)

 時間に余裕があるつもりでいたらちと急用ができてしまいまして、本日はこのまま退散いたします。m(_ _)m
 でもツイッターではたぶん何かしらやってますんで、生存確認はそちらで(笑)

 こうしてみるとツイッターはそういう意味ではありがたいです。「生きてるよ!」と叫ぶだけでもいい気楽さがあるし、RTでもいいねでもあれば、ああなんかやってんだな、とはわかる。
(乗っ取りでもされてない限り)

 全世界のツイートの中で、日本語のツイートってかなりの割合を占める、という話を聞いたことがあります。
 日本語話者の絶対数は少ないんだから、割合が高いたって知れているんでしょうが、でも、円グラフにしたときに判別不能なほどに小規模でもない。
 むしろ、日本語話者の総数から考えるととんでもない日本語ツイートがあると言えるそうで。

 日本人はなんだかんだ言って、歌を詠んだり短詩を作ったりという伝統があり、テキストによる情報発信やら「表現」やら、好きなんじゃないかなあ。……識字率、というのも関係はありそうですが。

 ツイッターを始める時のわたしは、まあそんなにハマるつもりもなくて、ブログよりは小回りきくから「生きてるよ!」と叫ぶにはちょうどいいやくらいのつもりだったんですよね。
 でも意外と「使える」ものだなと感心しております。

 これも「相性」なんでしょうが、顔本はダメでしたねえ…。うーん。何がいけないのかしら。
 インスタは……これはここだけの話、たぶん、 ONE OK ROCK さんのことがなければ、現在ほどにも使用していないと思われます。(^^;)
  ONE OK ROCK さんに関してはインスタが一番情報を取りやすいからちょこちょこ自分も顔を出しているという感じ。
  Instagram は日本においては ONE OK ROCK さんには感謝状くらい出してもいいんじゃないか? と勝手に思っております(笑)

 でも、そうは言っても、投稿したものの管理のやりやすさはブログが一番だし、何より、「生きてるよ」以外の、いささか入り組んだ話をするなら、もう、圧倒的にブログですね! やっぱりツイート連投には限界がある。ただでさえ世間の読解力には不安があるのに、細切れにされるツイートは、テレビニュースで流れる「大臣の失言」映像と同じで、誤解誤読よりもタチの悪い、「恣意的解釈」に晒される危険性がなお高いですから。

 ブログはそれでも、みる人が直接見てくれれば、まあまだ救いがある。

 私の「主な居場所」はブログ、というのは、ツイッター以前も以後も同じです。

 そんなわけで本日はこれで失礼をいたします。m(_ _)m

 今日から伊勢市で開催されるという「お伊勢さん菓子博2017」では、赤福ならぬ白福があるとのことで、それがすんごい気になってます(笑)
 ツイッターでウロウロしていれば、そのあたりの感想とか食レポとか、見られるかな?

白い赤福、食べてみた お伊勢さん菓子博の限定品
2017年4月20日 17時13分 朝日新聞デジタル
2017お菓子博 赤福と白福
 
 
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【自己流・和訳】Artist Spotlight: One OK Rock April 19, 2017

こちらの記事↓ を自己流和訳いたしました。
http://www.whatsin-storemusic.com/single-post/2017/04/18/Artist-Spotlight-One-OK-Rock

たぶん、公式にちゃんと日本語訳した記事が出そうな気がしますが…。
いわゆる「下訳」程度のものなので、ざっと内容がわかればいいや、くらいでご覧いただければと思います。
誤訳等ございましたらこっそりツイートかメールフォームででも教えてやってください。

公式の日本語記事がもし出たら、このエントリは削除するつもりですけども。(●´ω`●)ゞ

---------------------------------------
ONE OK ROCK は日本のロックバンドで、日本武道館や横浜アリーナのような(大型の)会場でコンサートを行うくらいに、彼らの母国では極めて人気が高い。ワンオクはアメリカにおいてもすでに大きな印象を残し、2014年のVans Warped Tour のほか、世界中の音楽フェスを回っている。 ONE OK ROCK はアメリカのファンの間でも人気を広げていて、シングル『American Girls』は週ごとに何千もの再生回数を記録している。
(訳注:これは多分、アメリカンガールズのPVの再生回数のことを言っているかと思われます)

このバンドは、ヴォーカルのTaka、ギターのToru、ベースRyota、そしてドラムは Tomoya である。

——どうやってこのバンドは生まれたのでしょうか? メンバーそれぞれのバックグラウンドは?

Taka:トオルがこのバンドを作りました。僕は最初は別のバンドで歌ってたんですが、トオルがアプローチしてきました。最初は僕は辞退したんですが、でもトオルはしつこくって、結局、加わることになりました。みんなそれぞれバックグラウンドは違います、トオルとリョータは元々はダンサーでしたし、僕は(別のところで)歌っていたし、トモヤも別のバンドにいました。

——あなたの音楽に影響を与えたのは?

Taka:最初にリンキンパークを聞いた時は衝撃を受けましたね、それから The Used, Good Charlotte, Story of the Year も。

Toru: Linkin Park, Good Charlotte, Sum41, Hoobastank, Story Of The Year.

Ryota: Flea from RHCP. I discovered RHCP in high school, and was really taken aback.

Tomoya: The Used

——”アメリカンガールズ”について教えてください。この曲はどこから思いついたんですか?

Taka: この曲は(他の ONE OK ROCK の曲とは)かなり違ったサウンドで、これまでの作品とは違う感じだけど、でも、みんなで一緒に歌える歌を作ろうと思いついたんです。

——バンドのなり立ち、名前の由来は?

Taka:僕らのリハーサルはいつも午前1時から始めていて名前はそこからきています。” ONE OK ROCK
”は日本語では、これで「ワン・オクロック(1時)」と読みます。でも他ではスペル通りに「ワン・オーケー・ロック」と言っていて、いいロックは午前1時にスタートするんですって言ってる。

——アメリカでのツアーにかなりの時間をかけてきましたね。ここアメリカで演奏するときの一番の楽しみはなんでしょうか? ここで皆さんが達成するべきゴールはどんなものだと考えていますか?

Taka: ゴールですか。僕らはまだまだアメリカでたくさんの公園、演奏をしていく必要があります。観客はいつも僕らと一緒になって(楽しんで)くれる、それがすごくいいですね!

Toru: 皆んなが一体となってくれるのが楽しいですね、オーディエンスはすごく盛り上がって( 訳注:is pumped upはやる気満々という感じの言い方ですね)、インスト演奏のときも身を乗り出して絡んでくる、そういうのを楽しんでいます。ゴールは、それぞれの国や地域に僕らの音楽をもっと広めていって、それぞれの場所でコンサートを通じてコミュニケーションをとること。

Ryota:ゴールは、どの国でもアリーナツアーができること。

Tomoya:ヘッドライン・アリーナツアーですね。



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信じること

 思わず「そーなんですよねー……」と、心当たりがありすぎでグサグサ突き刺さって痛いなんてーもんじゃない、となりましたツイート。



 ここでは主に対人関係における「信じること」のお話になってますが、でもまあ、他のこと全般に当てはまること。

 何かと出会ったとき、まず疑いから入る、というのも、エゴのなせるわざ。
 エゴなんてろくなもんじゃない、と私も思うところがありますが、しかし本来のエゴの役割は人間を惑わせたり傷つけたりするのではなく、むしろ、その人を「守る」ためのもの。
 過去の経験から、再び「危険なこと」にあわないよう、危険な状況に陥らないための「機能」なんですよね。

 ただ、エゴが過剰に発達した現代人は、自分を守るどころか、逆に、その恐怖反応ゆえに自分を傷つける。
 アレルギー反応と似てますね。
 本来は免疫機能なのに、過剰になって自分を傷つける。

 対人であれ何かの状況についてであれ、とにかく疑い深くてなかなか信じようとしない人は結局、この世で一番何を信じていないか、というと、それは自分自身なんですよね。
 
 他人に簡単に騙されるバカな自分。
 誰でもわかるはずのことを見落として自分で自分を危険な状況に追い込む。
「何をやってもダメ」な、「無能」の自分。
 自分は無力だと感じ、それゆえに、自分は簡単に「殺される」と思い込み、「枯れ尾花」にさえおびえる。
 なんであろうと「ろくなことにならない」自分というものへの、こればかりは絶対的と言いたいくらいの強い不信感。

 他人のことが信用できないとか、世の中の仕組みは不公平だとか、ああだこうだと言いますが、じゃあこの世でいちばん信じられないものって何か? と突き詰めると、結局、「自分自身をいちばん信用できない」。
 他人や世の中のことをああだこうだいうのは「投影」であり、こんな時さえ「自分自身から逃げている」。
 この状態ですからねー。そりゃあ他人を信用なんかできるわけない。

 ということで、そういう不信感を乗り越えるには、「自分に自信を持つこと」以外には対策も何もないんですが、この自信というのも、考えてみると、世間じゃずいぶん誤解があるようで。

 根拠のない自信というのを嗤う人がいますが、自信には根拠なんか必要ない。
 というより、根拠を待っていたら自信なんかいつまでたっても生じない。
「逆」なんですよね。

 根拠を作るためにはなんであれ行動が必要ですが、自信がなくて怯える人は行動できない。怖いから足がすくんで動けない。
 根拠があるから自信が持てるんじゃない。自信があれば行動ができて、たとえそれが失敗してもとにかくなんらかの結果は得られる。
 それがまた次の行動の足がかりになる。

 自信というのは、「自分への希望」。根拠なんかないけどこんな風になると信じてる、期待してる。きっとこういうことになる、過程がどうなるかはもちろんわからないけど、必ず「希望」は叶うと信じている。
 なぜなら——自分はそれに見合っているから。

 自信というのは、そういうもの。

 期待というのは他人にすることじゃなく、自分自身に寄せるもの。
 楽しいと感じること、自分自身にワクワクすること。

 他人には期待しないほうがいいです。期待とは、自分の思い通りになることを押し付けることですが、他人が自分の思い通りになるわけがない。相手にだって自分の自由意志というものがあるんだから、それをどうこうできるわけがない。
 他人には、明るい希望を信じてあげる、くらいの気持ちでいい。
 きっと自分の思うようになるという「期待」は、自分自身に持つもの。

 ………ということに気がつくのにも私も相当の時間をかけたわけですが、気がついて、それでサッと自信が持てるようになるかというと、そうもいかない。
 他人や世の中を恨んでいた時期よりははるかにマシになりましたが、それでもまだまだ、ですね。

 自分はどうしようもないビビリだという自覚はあったんですが、これがもう、自分の予想をさらに超えて、その臆病さは根の深い、頑固な、絶対零度近くまで冷え込んで固まったものだとは、——気がついたのも最近のこと。

 上記ツイ主様は、その、臆病などなたかについては、
「どんな方法で、自信を持たせればいいのかはわからない。でもそれを伝えられることが愛情かもしれない」
 とおっしゃるけれども、やはりこれは——ご本人がどう望むか。それ次第でしょうね。

(ツイ主様のこの案件につきましては、以前から、はるか遠目に、勝手に見守りつつ応援しつつ拝見している次第で;;)(じつはフォローすらしていない;;)(リストにあるけどフォローしてないことにさっき気がつきました;;)(フォローの意味って;;)

 意外に思う人もあるかと思いますが、臆病で怯えるのも極度に至るときは、自分で自分の救いを拒否することがあるんですよね。
 精神分析では「自己破壊衝動」といいます。
 物事がうまくいきそうになると、かえって不安感が出てくる。うまくいきそうだ、ということが「怖い」んです。だから自分で、せっかく積み上げられたものをぶっ壊してしまう。

 例えば、改善された状況はその人にとっては、「馴染みがない」「新しい」「見知らぬ場所」です。
 そういう、「新しいもの」へと進むことの方が恐ろしくてたまらない。だから、ひどい状況でも馴染みのある場所の方が「安心」できる。そこに留まろうとする。

 そんなバカなと思うかもしれませんが、そういう心理も、人にはあります。

 こういうところで誰かからの愛情は意味をなすのか、役に立つのか。——それはわかりません。
 本人が、自分の恐怖や怯えを自分で解消したいと、まず、望むことの方が、「必須」だと言えます。

 こんなときでさえ、「他人には期待するな」なんですよねえ…。
 でも、幸いであれ、という「希望」を、他者は寄せることができる。
 愛情とは、期待ではなく、希望のこと。

 その愛情に恵まれているのなら、幸せですね。
 幸せであることにさえ気づかないことも、ままありますが。

 私もそのへんの「構造」がわかったのはごく最近のことで、いまだ強い恐怖と怯えから自由になったとは言えない状態なので……、ツイートを拝見したときは、「そうなんですよねえ………」と思わず、図星を指されてグサグサきていたんでした;;

 ただ、これが誰かと関わることの「奇跡」だろうな、とも思うのは。



 自分の怯えは自分を傷つけるだけではなく、結局、他の誰かにまで刃をむけることになる。
 自分の傷にはもう慣れっこになってほぼ無感覚になっていても、人の傷を見れば、はっとする。
 巻き添えにされる方はたまったもんじゃないでしょうが、でも、それは、一人では得られない貴重な気づきになる。

 これがきっと、他者と関わることの大事な意味になるんだろうな、と思います。
 
 
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マストドン新興国

 昨年10月から、ドイツで始まったSNS、「マストドン Masutodon」が盛り上がっているようです。
 形態としてはツイッターに似ていつつも、ツイッターよりもゆるやかでもあり、また「中央集権」ではなくて各個が独立しつつ、これまたゆる〜い繋がりがある、いわば「連邦制」である……ということなんですが、なかなか面白そう。

話題の新興SNS「マストドン」 ツイッター超えられる?記者が試してみた
2017/4/18 19:18  J-CAST ニュース
http://www.j-cast.com/2017/04/18295921.html

 マストドンの運営は、目下のところ企業体ではなく、ドイツの技術者、オイゲン・ロッコさんが開発したサービス。ドイツ、フランスでユーザーが多かったそうですが、日本では大学院生の「ぬるかる」さんが個人で「mstdn.jp」というインスタンス(フォーラムのようなもの)を作り、これが日本語サービスってことで登録者がすでに6万人。

 ドイツ、フランスのユーザーをあっという間に抜き去り、マストドン全体の中でも「mstdn.jp」が世界最大のインスタンスだそうで。
 
 ツイッターでも、そういえば、日本語ユーザーってかなりの割合を占めているそうですね。世界全体から見た日本語話者(わしゃ)の比率からすれば異常なくらいの数字になるとか(笑)
 なんだかんだでテキストによる情報交換、好きなんですかね。

 で、mstdn.jp に続く、世界2位の規模のインスタンスが「Pawoo (パウー)」で、Pawoo の運営はPixiv社。



 マストドンに目を向けたのはさすがの先見性といえますが、あいにく、マストドンの「分散しながらも、ネットワークはゆるく広く」が仇となり、パウー内での萌え絵、はっきりいえばエロイラストが、ゆるやか〜に広〜く流れてしまった、と。

 分散型SNSのマストドンでは、別に誰のこともフォローしなくても、「ローカルタイムライン」というものは見えるんだそうですね。ということで、まったくなんの知識も好みもない人にまで、萌え絵が見えてしまった。
 日本では(法的に)問題がなくても外国では立派に犯罪ということはあるし、あっという間にパウーはマストドンから「断交」されてしまった。と。

 マストドンは小さい国がいくつもあり、その国を「インスタンス」といい、Pawoo もそのインスタンスの一つ。さりながら、Pawoo から変なイラストが送られてくるので、他の国からブロックされ、マストドンからもブロックされちゃった、わけですね。

 私が興味深く思ったのは、断交(国でいうなら国交断絶)したマストドンの対応と、断交された側の反応。
 ……Pawoo民、喜んでる(笑)


 喜ぶPawoo 民の声として、
「エロ見たくない人の目により入りにくくなるならむしろ好都合やん!」
「ワイらも誰にでも見せびらかしたいわけじゃないしな!」
「むしろ隔離、区別で住み分けしやすいマストドン高評価!」

 なるほどもっともだと思っていたら、さらに目を引く一言が。

「一方的に凍結してくる青い鳥とは大違いパウ!」

 聞けばツイッターさんの場合はいきなりアカウント凍結とかしてくるらしいですね…。

 結局、萌えの人々も「同好の士」で楽しみたいだけであり、それを見れば不快に思う人がいることもわかっているし、そういう人については悪意はないし、むしろ迷惑かけてすみません、というところでもある。
 彼らにとっても「すみわけ」は、いきなり「弾圧」されるよりははるかに理想的な対応、ということですね。

 まあ、タバコでもお酒でも、昨日も申しました二次創作の話でも、好きな人もあれば目にするのも嫌という人もある。
 それぞれを守りつつ社会を保つことはできるはずで、そのためには住み分け、隔離、望むところだというのは、あるんじゃないかな。

 嫌いな人って過剰に反応して、住み分けとルールづくりでかなり目障りさも解消できても、「そこに存在すると思うだけで嫌」だといい「迷惑」だから「全滅」させようとする。これはよろしくございません。
(私自身は嫌煙家ですが、タバコについてもこういう考え方でおります)

 ブロックされてむしろ喜ぶ声が、もちょっと理解されるといいなあ。この人たちだって他人に迷惑かけたいわけじゃないんだもの。

 結局、なにごとも「少しずつの譲り合い」がなければ社会というのは成り立たないってことだと思うんですよね。
 なんらかのハンディキャップがある人が外出するのを、通りすがりの人々が手助けする、ということもそうだし。

 このPawoo についてはルールづくりも進んでいるようです。結構なことだと思います。

 運営が個人というのは大変だろうなーと思いつつ、またツイッターや顔本とも連携とりつつ、SNSが使いやすくなってくれればいいな、と願う次第。
 私自身は今のところはマストドンに登録予定はございませんが、応援はしてます、ということで。

 それにしても、Mastodon。
 この怪獣っぽい名前の由来を聞いてみたいな。(*´ω`)
 
 
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私欲で目がくらむ

 諸般の事情から、ツイートの引用も記事の引用もためらわれるので、私の心もとない要約のみで話を進行させてしまいます。意味不明瞭のところが多々あると思いますが、ざっくりした「あらすじ」がわかればいいやくらいのおつもりでお付き合いください。

「けものフレンズ」というアニメ番組がございまして、こちら、大変人気もございます。

けものフレンズプロジェクト公式サイト

 で、その作品のファンである人々の中には、この作品を元にパロディ作品(小説や漫画、デジタルコンテンツなど)を作っている人々がいる訳ですね。
 こういう作品を「二次創作物」と総称します。

 一次はもちろんオリジナル作品のことで、二次創作は、ここでは主に個人が自分の好きなようにパロディとして作ったもの。

 このパロディの中にはエロ作品も含まれます。二次創作=エロ、ではありませんが、二次創作物には珍しくないものでもあります。

 この二次創作物のエロ作品を「公式に禁止にしてもらうための署名活動」を立ち上げた方がいらしたそうです。
 どの程度署名を集めていたかは存じませんが、署名人数がツールによって水増しされていたことが発覚し、署名活動は終了。現在は署名活動は行われてないとのこと。

 早い話、オタク腐女子と呼ばれる連中のやることを全面的に「公式によって」禁止しよう、という、思想統制の発想なんですね。

 この発起人という方のツイートもいくつか拝見しましたが、今回は「けものフレンズ」だけど、ゆくゆくは、「すべての」成人向け二次創作へと、この活動の対象を広げていきたい、とのことでした。

 ここで一つ確認したいのは「猥褻物」と「成人向けコンテンツ」は違う、ということ。
 前者は完全に法律違反。
 後者は合法、適法のものです。

 エロ作品、と言ってしまうと違法のイメージも強くなるかもしれませんが、同人業界(……業界っていうのかな)では、適法であることを厳格に守るように指導も自主規制もされていますので、エロと言っても適法のものである、とご理解願います。

 適法の作品は「18歳未満」の方には販売できませんが、それ以上の方(成人)には販売できるもの。
 違法の猥褻物は何歳であろうと関係なく販売、それどころか所持自体でお縄になるもの。

 二次創作物に好意的な人ばかりではないことは重々承知しておりますが、エロ作品は法に従ったものであれば、製作・頒布に問題はありません。

 いわば、一般の書店でゾーニングされつつも販売される成人向け雑誌と同じもの。
 そういうものを「とにかく禁止」にする、「禁書」にしようという訳ですね。
 これが妥当なことかどうかは、すぐにわかるでしょう。

 思想統制する気なんですねこの発起人は。
 しかもその根拠は「自分が不愉快だから」。
 ……自分一人の好き嫌いの話か

 どうにもあきれた話ではありますが、でも、多いんですよねえ…。自分の嫌いという感情で目が眩んで、自分が何を言っているのかもわからなくなっている人ってね。

 二次創作物に問題があるとすれば、エロかどうかではなく(これは法律に従っていれば問題ない)、むしろ、二次創作物の頒布にあたり「金銭の授受」があること。

 個人が好きなアニメのキャラを落書きして、友人に見せて、上手だね〜と言っているぶんには、権利者も口出しするところではありません。
 同人とは「同好の士」のことであり、その友達というのがもう少し規模を広くしたもの。
 ……ということで始まったのが同人誌であり、ただ落書きを見せ合うばかりとは言えない規模に広がったので、本を作る実費とかはもらってもいいかな、ということになり。

 同人のほとんどは儲けなどない状態ではあるものの、金銭の授受があるとなれば、権利者は介入する余地がある、と言えます。
 ここんところはもう法的にはグレーゾーンというほかはない。ゆえに、オタク腐女子は息を潜め、自分たちの行動を自ら監視しながらここまで来たという事情がある。

 署名の発起人がつつく余地があるとすればこの点でしょう。

 エロかどうかではない。二次創作物自体を否定する、ということなら理解できますし、公式による禁止も、現実的なものと言えます。
 でも、発起人自身は「二次創作そのものを規制するつもりも成人向けの表現を規制するつもりもありません」というツイートもしている。
 正直言えば、私には意味不明です。

 結局、自分が気にいるような作品ならOKだが、自分の好きなキャラを使ったエロ作品は許せない、ということでしょうかね。この文脈だと、そのようにしか「理解」できないんですが。

 なんにしろ。
 二次創作物の頒布が法的にグレーなのは認める。この点から禁止を訴えるのなら理解できる。
 でも、二次創作は禁止じゃなくていい、エロパロディをやめさせよう、と言っていながら「ゆくゆくはこの”公式によって二次創作物の禁止”を全面的に広げたい」とは………どうも私には、この人の「話の筋」が見えません。
 見えるとすれば「要は自分が気に入らないからやめさせるってことでしょ?」ってこと。

 自分の好き嫌いでしかないのに、他人を巻き込んで「正義漢ヅラ」する、というの、本当に多いなあ、とうんざりしてます。

 この手の話にはもうそれこそ、私も30年ほども見聞きしているので……「またか」というのが正直な感想です。
 で、こういう手合いをまともに相手にして、表現の自由がどうしたのこうしたのと言うのも嫌なんですよね。だからあんまりそういうことを言って反論したくもない。

 なんせ私は日頃から、「二言目には自由と権利を持ち出す人間は信用しない」と言っているので、自分がそれらの単語を引っ張り出して話すのってかなり抵抗感がある(笑)
 私がそういう言葉を使っていたら、そりゃもう相手は相当なアレだと思ってください(笑) そんなの相手にもしたくないけど(笑)

 自分の好き嫌いとものの道理をごっちゃにする人が多いけど、物事の筋道を考えたいのなら、自分の好きとか嫌いとかいう感情を排除しないとできませんよ、と。
「私心」「私欲」を離れる、とは、要はそういうことよ?

 政治家のことなんかを私欲の塊みたいにいう人は多いけど、自分自身が自分の利益や感情に振り回されている「私欲の人」であるという自覚を持って欲しいなと思いますね。
 自分はいいけど政治家はダメだなんていうんじゃないでしょうねまさか。


 ところで今回はなぜツイート等を引用しなかったかというと、どうもねえ……この署名発起人にせよ、「署名に反対する署名」の側にせよ、どうしても言葉にいらんものが混ざっていて、私には、適切な言葉だとは思えなかったので。

 聞き苦しい、見苦しい言葉は、特に誰かを非難しているときには気をつけたほうがいい。ただでさえ第三者から見れば非難というのは聞き苦しいのに、言葉そのものが「お里が知れる」ような下品なものだと、嫌悪感を持たれるほうが先で、主張などをまともに聞いてもらえなくなるから。

 共同通信の記者が、取材を断ったお宅に器物損壊の暴挙に及んだという話、この記者の行動を告発した人は、でも、取り乱した言葉を使っていない。
 あくまでも自分の品位や尊厳を損なうことのない態度を維持していらした。偉い、と思いました。
 ——汚い言葉遣いは自らを汚す。
 私も心しておきたいと思います。(←育ちに問題がある;;)
 
 
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