安心立命
2017年03月31日 (金) | 編集 |
照ノ富士への「モンゴル帰れ」に広がる波紋 相撲協会の対応は?
2017/3/30(木) 13:00配信 BuzzFeed Japan
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170330-00010002-bfj-soci

 過去エントリーにも書きましたが、とにかく気分が悪いのが高じて、3月(大阪)場所は私は取り組みをほぼ見ていません。
 ので、この記事にあるような発言があったかどうかは私自身は未確認です、ということは申し上げるとして。
 今回の発言は聞いてませんが、そういう「雰囲気」はもう——いつ頃からかな、気分が悪い、と言って相当以前からぶーたれてましたから、そういう発言があったとしてもなんの不思議もない、と思ってます。

 相撲に関してはお客さんもそうだし、記事にあるように相撲協会もそれを是正する態度は見せなかったし、何よりも、NHK自身がひどかった。解説の北の富士さん、舞の海さんなどには何度私の血圧が上がったかわからないほど。

 新聞の見出しでも記事でも「日本人頑張れ」だし、外国出身から日本国籍を取った人もいるので、その後には「日本出身の力士」と言い出して、あれはもう……目の前にいたら思わず張っ倒す、というくらいに私も頭にきてたんでした。

 現在、ヨーロッパでも露骨に問題になってきていますが、「移民排斥」、こうなることはわかっていたでしょうというのが私の思うところだし、相撲については「相撲の国際化」には私は昔から反対でした。
 だから言わんこっちゃないんだ。そう思ってます。

 実現不可能な理想を掲げて現実を無視すればその反動は大きなツケとなって帰ってくる、ということは、歴史を見ればわかるはず。

 門戸開放は人間にとっては難しいことです。差別というのは「みんなとは違う」ものを排斥(=拒否する。追い出す)しようとする心の状態ですが、「みんなと違う」という時の「みんな」は、どこまでも細分化できる。
 国内の政治が不穏なときにはあえて外国の脅威を示し、内部の団結を図る、というのの、逆の作用ですね。

 外国と争い、国内では都道府県で争い、市町村で喧嘩し、町内で反目し、隣ん家とは仲が悪い、家族内では殺しあう。
 人間はどこまでも「他者」を排斥する。このとき、何を他者とするか、誰を他者とするかの、意識の細分化には限りがない。

 ということで、「自分とは違う」何かや誰かとうまくやっていこうというのは相当な難題であり、デリケートな問題であり、やたらには手出しできないことなんですよ。やるなとは言わないけど、かなり慎重に進める必要がある。
 でも、大抵の人間には、慎重に進める能力も、慎重にやったとしてもうまく対応できるだけの能力もないと考えていい。それくらいの難題だと言うことです。
 それを、グローバル化だかコスモポリタンだかなんだか知りませんが、お綺麗な理想を掲げて安易に「無理」を通してきた。
 今は、そのツケがきてる、と思ってます。

 労働市場の開放の問題が、なぜ一足飛びに移民という話になるのか。その危険性をきっちり理解している人が多かったようには私には思えない。
 同じく、「相撲の国際化」とは、ものスッッゴイ文化ギャップをこちらも受け入れる、ということであり、自分たちこそが国際化しなければならないのであり、ただでさえ内向き志向と言われる日本人には、相当な困難であるという「覚悟」もせず、安易にグダグダにやってきて、挙げ句の果てには、言葉にならないほどの苦労をして頑張ってきた人を、「故国に帰れ」と罵ったというのは、これはもうね。

 ——恥を知れ
 
 としか、私には言いようがありません。

 国籍がどこであろうと、「神事」に奉仕する人なら同等に扱うし、その奉仕人として如何なものかということがあるのなら、これもまた国籍は関係ありません。
 そういう心構えのひとつもなしに国際化だなんて言っていたのか?

 とりあえず、私はこの発言をした客を特定して(今の技術なら特定可能ですよしかも升席の客でしょ?)(どうかしたらお茶屋さんの筋からわかることなんじゃないの)、出入り禁止にすべきだし、こういう事態を招いた相撲協会も、同類の発言を繰り返してきたNHKやその解説者も相応の処分をすべきだと思いますね。

 ただでさえモンゴルには阪神淡路、東日本大震災の折の恩義がある。——恥ずかしいやら申し訳ないやらで泣けてきますよ本当に。
 
 ……ということを言っていて、移民政策には反対、相撲の国際化にはもともと反対、って、意味わかんないって思う人、いるんでしょうねえ…。
 説明してもいいけど話が長くなるし、書いているうちに私自身が情けなくて泣けてきそうなので、いちいち言うのは嫌です(きっぱり)。

 心理学ではパーソナルスペースと言うものがあります。人の心の安定のためには、自分だけの、安全な空間が必要。
 このパーソナルスペースが他者に侵されるとき、人は不安になるし攻撃的になる。
 このパーソナルスペースは、その人の「心の根」とも言えるもの。
 安易な移民政策や国際化とやらには、その心の根をズタズタにする危険性がある、と私は考えます。だから、安易な理想論には反対してきた。
 それだけなんですけどね。

 移動の自由はあっていい。でも、自分の心が安らぐ場所は、守らなければならない。そう思います。


 ………どうもここのところ、怒ったことばかりをしゃべってますよね…、すみません。
 明日にはもう少し、気を取り直していきたいと思います。
 
 

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「よみうり」の終わり
2017年03月30日 (木) | 編集 |


 身元不明者の情報を求めるときとか、事故のニュースを聞けば安否を知りたいという人が大勢いるだろうとかいう場合は、被害者・犠牲者の氏名が報道されるのは仕方のないことだとは思いますが、それ以上の必要はないんですよね。

 これまでもたびたび言われてきているはずですが、加害者は法律で保護されるのに、なぜ被害者には人権のカケラも認められないんだろう。

 昨日も私がこの手の「報道」、ワイドショーには文字どおりブチ切れるとお話し致しましたが。
 なぜ、被害者・犠牲者にはなんの権利も認められないと思うのか、一度、報道機関からの、まとまった見解を求めたいところですね。

 ちなみに。
「知る権利」というのは認めないものとします。

 少なくとも加害者と同等に、本質的には加害者以上に保護されるべきところ、なぜ、報道という「権力」が、ああも寄ってたかって被害者を虐待・迫害するのか、その正直なところを聞きたいですね。
 どうせもう何を聞いても腹がたつだろうとは思っているので、(^^;) そういう意味での「申し開き」を求めているわけではございません。

 私の脳みそもなかなかのもので、「それも一つの理屈である」と思えば、自分の賛否は別にして、一応、記憶するしその「筋道」は「理解」するんですよね。
 我ながらすごいなと思うのは、例えば「放射脳」みたいに、物事の筋道としては崩壊しているものについては「何言ってんの?」で終わってしまいます。

 盗人にも三分の理、と申します。報道機関のああいうふざけた「伝統」にも、それなりの「理屈」はあるんだろうと推測しますが、それがどんなものかは私には想像できない。
 いいんですよ別にそれが俗臭(ぞくしゅう)芬々(ふんぷん)たる、身もふたもない、お金やドロドロの現世利益の話でも。
 それも一つの筋道だと思えば、私は飲み込む。
(理解する、という言葉は、同意も賛意も意味しない)
(意味すると思っている人も多いようですが、そういう筋道の理屈なんですね、とわかることと、賛意同意は全く別問題です)

 何をどうすればああいう、地獄よりもさらに下った魔界レベルのひどいことが平然とできるのか、その道筋を聞いてみたい。
 だから、知る権利がどうとかいうキレイゴトや建前は要らない。
 たとえ、聞いた方が思わず反吐を吐くようなことでも、それが「現実」ならそれでいい。とにかく、「現実」にあるその筋道を聞かせてもらいたい。

 それを聞けば、少なくとも今よりは、幾らかの対処法も見つかるかもしれない。
 
 被害者で作る団体などもこれまでもさんざん、ああいう情報を好き放題に垂れ流し、人を苦しめることには反対してきたはずですが、全くなんの効果もないというのが、残念だけど現実。
 それはつまりは、反対の声をあげても、その非を指摘しても、それらは「的外れ」でしかないってことでしょう。
 報道側の非道の「筋道」を知れば、幾らかでも効果的な何かを見つけられるかも知れない——というのが、私の目的とするところです。

 で、冒頭に引用しましたツイートで、ああそうだなぁと思ったのは(自称・報道における)「物語は要らない」「望むならもう自分たちで発信できる時代だ」というご指摘。

 これはこれで問題も危険も含んでいることなんだけど、でもこうなりますと、「望めば自分で発信できる」というのは、これまでにはなかった武器になり得るんだな、と。

 もういい加減、江戸時代の「よみうり」(かわら版とよく言われる)意識を終わらせるべきところへきているのかなと思います。

 震災以後、安心・安全という言葉が大嫌いになったんだけど、報道・情報という言葉も、聞けばクソクラエと思うようになりましたねえ。(^^;)
 
 
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不定期に爆発
2017年03月29日 (水) | 編集 |
 マスコミというのは一度ぜんぶ、業界そのものを「ゼロベース」にしなきゃいけないんじゃないか、と、非現実的なことを、でもかなり真剣に考えてしまいます。

 栃木県那須町での雪崩事故。
 日経新聞の記事を読んで我が目を疑ったのは、お亡くなりになった方についての部分。
 正確に文章を思い出せないので要旨のみですが、
「亡くなった〇〇さんの父親、〇〇さんは、その心情を聞かれ、しばらく無言ののちに『今はこれが現実だとは思えない』と言った」
 というもの。
 読んだ一瞬、は? と思い、思わず二度見、三度見し。
 思わず新聞を持つ手が震えましたわ。
「『その心情を聞かれ』って、………そんなことをこの人に聞いたのか!」

 久々に大爆発しました私も。

 この「発作」、何年かに一度はあるんですよね。
 とはいえ、東日本大震災以後はその発作の規模も回数も半端じゃないことになっていて、もうまともに、いわゆるメディアなんてもんは見聞きしなくなっていたので、その結果として、しばらくは静かだったんですが。

 一人息子さんを亡くしたお父様に「どんなお気持ちですか」とでも聞いたのか。どんなツラ下げてそんなことを聞けるんだ。そんなことを聞かなきゃわかんないのか、そもそも聞く必要が1ミリでもあるのか。
 ——貴様、それでも人間か。と。
 手が震え、声も出せない大爆発。

 テレビをつければ、ネット上では庶民が呆れ果てて見切りをつけた籠池氏の虚言、詐欺をめぐる話を続けているし、本当に、頭か精神のどちらかあるいは両方がイカレているとしか思えません。

 先日は放射能についてのデマを垂れ流したマスコミは何の反省もない、この連中が反省などしたことは一度もない、反省がないなら進歩も改善もあるわけない、と、マスコミの「体質」を一刀両断にしているご意見を拝見して、その通りだねえと思っていたところですが。

 結局、どこかで関わる人が変わることによって新陳代謝が起こればいいのですが、新しいはずの細胞さえその業界の中にいることで古い細胞に同化してしまい、おかしいことをおかしいと感じることさえなくなっていくようです。
 であるならば、現在のマスコミやそれに関する人々を一斉に「消去」するしかないんじゃないだろうか、と、——現実的ではないことは承知しながら、考えてしまう。

 私は高校生のときにはすでに朝日新聞を毛嫌いしていた記憶があるんだけど、あれはどうしてだったのかなあ……。何か、不信感を持つようなことがあったんでしょうけども。
 ワイドショーとやらについては、やはり20年ほどの前のことでしょうか、なぜか民放各社、朝っぱらから毎日、通夜と葬式の録画中継してたんですよね。で、参列者や関係者、ご家族に無礼にマイクを向けて「今どんなお気持ちですか」。

 言霊信仰というほど強いものではないけれど、私も言葉や、言葉がもたらす「イメージ」の影響力はあると思っています。
 そういうところから考えると、毎日毎日、朝に晩に人の気持ちを暗いものにさせる、——無神経に他人を傷つけて回るものを見聞きしていて、精神衛生に良いわけないんですよね。

 何年かに一度は爆発する私ですが、現在もそんな感じ。

 どうしてこれほど人間性を破棄できるのか、いつものことだけれど信じられない気持ちになります。
 どうせ中身のないものを垂れ流すなら人の心を明るい方へ向けるようなものをと、それくらいの心がけもできないのか。その言葉の大半が嘘と虚飾であるなら、同じことならせめて、人の心を軽くできるようにしたらどうなのか。

 他人の不幸は蜜の味というのがマスコミ連中ではありますが、結局、ああいうものを許しているのは、彼らの「商品」を買っている人々ですから…。
 マスゴミなどと言って見下す気持ちもわかるけど、結局、マスゴミは、その国の人々の姿を映しているものでもある。

 そう思うとなかなか、これまた暗い気持ちにもなります。

 自分にできることは、せめてああいうものに染まらないこと。
 孤塁を守ると言ったら大げさですが、
 自分の中にある小さな良心。
 せめてこれだけは守っていきたいと、願う次第。

  
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美人各種
2017年03月28日 (火) | 編集 |
 美人と言ってもいろいろありますようで。
 単に美人とだけ言えば容貌の美しい人、ということでこれが「オリジナル」。
 ですが、お人柄のうるわしい性格美人とか立ち居振る舞いの美しい姿勢美人とか、言葉遣いの美しい言葉美人とか、——古い言葉だと思いますが、むかーしには「バックシャン」という言葉がありまして、バックは背中のことでシャンは美人を意味する。
 つまり、後ろ姿が美しい人ということですね。
 まあこの「美人」は、褒めているようであり、そうでもない場合もあるのかな。(^^;)

 余談ですが、バックシャンを「和製英語」と説明しているところがありましたがこれ、和製英語とも言えないように思います。日本語俗語としか言いようがない。
 バック back は英語ですが、シャンはドイツ語の schön (美しい)が訛った言葉だそうです。わけがわかりません(笑)

 容貌の素質には恵まれていなくても、他のところで補えることはあるってことで、それを一つの心の慰めにしているってのも、いいんじゃないでしょうか。
 容貌の美人については、私も一度そういう人になってみたいなーと思うこともありますが、でもまあ、あれも他の才能と同じで、素材が良くても磨いて生かすかどうかは本人次第ですから、その辺にはとくに妬みはなく、むしろ、それを磨いたり活かしたりする人には、すごいなあ、と思います。

 ということで我が身の素材の方はとっくに諦めていますが、ありがたいことにはそういう人間でも美人扱いしてくださる方というのがあるものでして。
 恐縮することですが、たぶん私は「めでたい」雰囲気があるようで。

 昔のことではありますが、タクシーに乗って行き先を告げたら、運転手さんがミョーに嬉しそうに「今日はいい日です、美人が乗ってきて」とおっしゃる。
 そりゃまたお世辞というにはあまりにも、と笑っていたら、
「いえほんと。お客さんみたいな人が乗ってくれるとね、すごく縁起がいいんです」
 タクシーの場合はなんていうんでしょうか、ようするに売り上げが良くなる、ということだそうで。

 ああ、まあ、お多福みたいな顔だしねえ、と納得してましたが、でもまあ、そういう意味合いであっても美人と言われて気分が悪いはずもない。
 それが自分が望む通りの意味ではなくても、褒める意図でナントカ美人と言われたら、にっこり笑ってありがとうございますと言っておくのがよろしいと思いますよ。

 私はそういう人に直接会った(というか、『見た』)のは1回だけですが、容貌そのもののことではないにしろ、せっかく「なんとか美人」と褒められたのに、ものすっごいぶすくれた顔で「怒った」人がいまして。
 モッタイナイなあ、と思った思い出です。
(あれをやられると周囲もどんより気まずくなる。そばにいる人間としては、つらい。(^^;))

 コンプレックスはコンプレックスで仕方がない、その痛みは私にもわかるけれど、でも、相手はあくまでも無邪気に褒めてくれている、という場合は、にっこり笑ってそのまま「受け取る」のがよろしかろうと思います。褒めてもらったことには変わりないんだしさ。

「呼び込み」の縁起の良さを持つ人、というのは確かにあるようです。
 割と空いているなと思ってお店に入って、お会計していたら後からどやどやと人が来たとか、そういう経験、ありませんか。

 私はわりとそういうことが多くて、面白いな、と思います。
 私としては単に人混みが苦手なので空いてる店をわざわざ探すくらいなんですが(行列を見ると回れ右して帰るのは基本)、そう思って空いているカフェとかレストランを選んで入ったのに、後からかーなり賑やかになってしまってちょっとがっかり…ということもよくあります。

 もちろんご商売のお店側としては、千客万来は歓迎することなので、まあいいか…と思うことにしてますが。
  静かなお店でゆっくりお茶したかったんだけどなあ、と思いつつ、店の外で席が空くのを待っている人がいるとなればそうもいかず、ちょっとガッカリではありますが。
 でも、お客さんを呼び込む人って「運気」はいいんだよ、という話も聞けば、ああそんならいいかとも思えますよね。(現金…)


 そういう美人だって(ある種の)美人には違いない、と思って。
 容貌以外のことで美人と言われても、どうか、怒らないでにっこり受け取ってやってくださいまし。(^^;)
 
 
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年度末、雑話
2017年03月27日 (月) | 編集 |
 年末も慌ただしくてうっぎゃー! と思いますが、年度末のうっぎゃー! もなかなかのものがあります。

 年末の場合は「年内に(片付けよう)」というのがキーワード。
 冷静になって考えてみると、じつは、実情としては、そう年内にこだわる必要はないという案件が多いんですよね。
 必要はないけれど、この「年内に」というキーワードが効いている。
「できれば」そうしたい、というミョーな心理が働いて、どうかすると強迫観念と化す。必要もないのに自分を追い込む。

 でも、年度末というのはそういう「気分」の問題では全くなくて、物理的な「締め切り」の問題——てことが多い気がする。

 ああこれでなんとかなるかと思った瞬間、やはり締め切りに追われた誰かの「ごめん! ちょっとお願いしていい?!」を持ち込まれることもあるしなー……。(^^;)
 今ここでそれを言う?! と思うこともあるけれど、このへんはもう武士は相身互い、お互い様ですよね。
 協力というのはこういうもんだと思いつつ、年度末を迎え撃つ、と。
 ことに人事異動を伴う締め切りがあると優先順位1位くらいにするしかない、ってこともあります。

 今、そんな感じで、ちょっと気分的にも物理的にも落ち着かないんですよね、正直なところ。
 皆様はいかがでしょうか。穏やかにお過ごしでしょうか。
 体調も不安定になりがちな季節なので色々厳しいですが、どちら様も無事に乗り切って行けますように。(切実)

 ということで今週来週、ちょっとばかりバタバタして、いきなり休むこともあるかもしれませんが、そういうときは、ああドタバタしてんだなと思ってやってください。
 たぶんそれでもツイッターでは何かやっていると思います…。

 RT(リツイート)の嵐、ということであっても、何かをいじれば、とりあえず生存確認できるところがいいですよね、ツイッターは。

           ●

 年度末怒涛といえば、……明日ですか「けものフレンズ」の最終話。
 もうすでに阿鼻叫喚の気配が上がっているので、他人事ながらちょっと心配してます…。(^^;)
 無事に年度末年度はじめを迎えられますように;;

           ●

 パクチー、というのをよく見聞きするようになりました。

 香菜と同じく、ずいぶん好き嫌いが分かれるもののようで、何かと思ったらいわゆるハーブ、コリアンダーだと聞きまして。

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 パクチーって平気? と、嫌いだという人が顔をしかめつつ聞いてくるんですが、……や〜、食べた記憶がないので好きも嫌いも、今のところはなんとも言えない。
 パクチーと聞くと記憶は全然ナイんですが、コリアンダーと言われれば、「ああ、あるんじゃないかなあ…」と。

 というのは一時期は結構、ハーブ料理に凝って、乾燥葉のふりかけみたいな奴ですが、そういうのをあれこれ試していたことがあるし、神戸の布引ハーブ園のレストランには一時期通いつめたし、料理のメニューなら結構、コリアンダーがどうたらという説明を見たことがある、「気がする」。

 嫌いな人にはどうにも嫌なものらしいですね。
 私どもが匂いを感じるときというのは、その物質の微粒子を直接、上鼻道の嗅粘膜というところにくっつけることで知覚するんだそうで、かなり脳に近いところで感知するんですね。
 そのせいかどうか、匂いの好みというのはかなり強烈ではっきり分かれるし個人差も大きい。

 好き嫌いは理屈じゃないからしょーがないですよねえ…。友人には、リラックスアロマと言われるラベンダーの匂いで吐き気を催すという奴がいますが、こればっかりは本当に、しょーがないよね、と。

 私みたいに、別に嫌いじゃないけど匂いを聞くとお腹が痛くなる、ということもある。(ミント系の匂いがダメで、ああいう匂いに10分以上接していると腹痛が…。でも、匂いとしては嫌いじゃないんですよ;;) これは、もう脳に直接取り込むのに近いくらいの感覚だからかな。

 ということでコリアンダー、パクチー。

 好きか嫌いかくらいはわかっていた方がいいんだろうな。今はパクチー味のお菓子とかもあるのだそうで(パクチー嫌いは涙目になってましたよ・笑)、そういうものでもいいのでちょっと試してみようかな。

 でも、野菜のセロリの匂いが好きだったり、そういうわけで大抵のハーブの匂いは抵抗なかったり、……何よりも正露丸のあのいかにも漢方薬! という匂いも平気というより「好き」なので…(これを言うとものすごいヘンタイを見つけたみたいな目で見られることがある)たぶん、パクチーも平気なんじゃないかなあ、と予想してます。
 
 
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長命寺と道明寺
2017年03月26日 (日) | 編集 |
 昨日はくだらないことで腹を立ててちょっと疲れたので、今日は日曜日でもあるし、ごくお気楽なところで、「桜もちの種類」について。

 道明寺(どうみょうじ)は知ってたんだけど、「長命寺」というのは、じつはごく最近知りました。
 以前ざっと調べたときは、「桜もち」の中でも、関東タイプと関西タイプがあり、関西タイプを「道明寺(どうみょうじ)」っていうんだよ、というのはありました。
 が、いわゆる関東タイプにもそういう名称があって「長命寺」というのは、今回調べていて初めて知りました;;

 伝統もあって知名度もあるらしいのに、なんともお恥ずかしいことで;;

 こちらが関東風ともいう、「長命寺」。

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 長命寺のは、小麦粉を水に溶いて焼いたもの。和製クレープ皮って感じですかね。
 餡子を包んで塩漬けの桜の葉を巻いたもの。享保二年(1717年)、山本新六さんという方が考案して、これに「桜もち」という名前をつけて販売を始めたんだそう。

        ※

 関西風とも言われる道明寺は、「道明寺粉」で餅を作り、桜の葉で包んだもの。

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 道明寺粉は、もち米を蒸して干した「道明寺糒(どうみょうじ・ほしい)」を、さらに挽いて粉末にしたもの。
 で、この粉から作ったのが道明寺のもちなんですね。

 けれども道明寺粉は高価なので、もち米を代用することがある……とのことですが現在はほぼもち米でしょうねえ?
 糒(ほしい)は昔の保存食ですが、今はそういうのを作る方が手間だしコストかかりますもんねえ。

 和菓子の世界では、もち米を搗いたお餅じゃなくても餅っていうことがままあるんですね。小麦粉を溶いて焼いたものなら餅とは言えないと思ってしまいましたが、道明寺粉からの餅もそうだし、白玉団子や、求肥(ぎゅうひ。白玉粉から作る)を、「餅」と称することも多いし。
 まあその辺にはこだわらないで、ってことで。(^^;)

        ※

 はたと思ったのは「長命寺」の読み方。
 漢字だけでポンと登場するので、「ちょうめいじ」なのか、呉音になって「ちょうみょうじ」なのか? とちょっと迷いました。 

 素直に読めば「ちょうめいじ」でいいはずですが……、読み仮名まで丁寧に書いてあるところがない。
 こうなると気になってしまうのが私の性分。
 桜もちは、向島にあるお寺さんの門前で売られたものが祖ですから、そのお寺さんの名前で呼ばれたんだろうなと推測。
 向島・長命寺さんは「ちょうめいじ」さんとお読みするそうなので、桜もちの方も「ちょうめいじ」でいいんだろうな——ということに落ち着きました(笑)

 ……そんなところについこだわる。(^^ゞ

        ※

 桜もちの葉っぱですが、私は俄然、「葉っぱも食べる」派です。

 とは言え、長命寺のときは外すことが多いです。
 元祖桜もちのお店、「向島長命寺 桜もち」さま公式HPによりますと、お店としては、これが「正しい」食べ方というものはないけれど、作る側としては、
「桜の葉は外し、その香りが移ったもちと餡の風味を楽しんで」
 とのこと。
 桜の葉は、香りづけと乾燥を防ぐためのもの、という位置づけだそうです。

 とは言え、葉っぱごと食べちゃうのが「間違い」ってことはない。各人各位、お好みでどうぞってことですね。

 個人的には道明寺の時は葉っぱ丸ごといただきますが、長命寺のときには外すことが多いです。というのは、「もち」の強さの違いによるようです。
 道明寺のもちは、いかにも餅らしくしっかりしてますから(現在市販のものはもち米使用でしょうし)、葉っぱまるごとを一緒に食べても、葉っぱに負けないんですよね。

 でも、クレープの皮状のものですと、さすがに、歯ごたえやらはやや弱いので、桜葉に「当たり負け」する気がする。風味にしろ、歯ごたえにしろ。

 ということで長命寺のときは葉を外し、道明寺ではそのままいただく。
 
        ※
 
 ちなみに、塩漬けされた桜葉には、生葉には存在しない「クマリン」という物質が生成されています。この物質が、桜葉のあの風味です。
 抗菌性、抗酸化性があって保存料の役割も果たしてくれますが、「大量に摂ると」肝毒性があるとか。

 毒性がある、なんて聞くとビビる人もあるでしょうが、しかし大量にってどんくらいよ、って話。
 桜もちなんぞ食べたって多くても2個3個でしょうから気にすることもないでしょう。葉っぱばかり何十枚も食べるなんてないんだし。
 よほど体調面で気をつける必要があるということでなければ、塩漬けの桜葉、気にする必要もありません。

 桜もちは、これから咲く桜を待ちながらいただく季節のお菓子。

 長命寺と道明寺。どちらも美味しくいただきたいと思います。



 ………昨日は断食していたからなおさら、食べ物の話には力が入ってしまいました(笑)
 
 
 
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獅子身中の虫
2017年03月25日 (土) | 編集 |
 そろそろ私も我慢の限界でございますよ。
 私の「我慢力」なんぞはもともと大したことないですけど、(^^;)
 それにしたってね

自民、昭恵氏喚問を拒否=民進要求に「必要ない」
2017/3/24(金)15:05 時事通信社

 東京都の築地市場移転の話よりなお悪い。
 野党の皆様は一体このクソ忙しい年度末に何をやってんの。
 
 民進党=民主党はなんとしてでも安倍総理に嫌がらせをしたいようですが、そんなことをしてもまともな日本人は支持はしませんよ。そりゃ民主党の皆様は無念でございましょう、もうちょっとで日本という国を滅ぼせるところまで行っていたのに、安倍政権になってかなり持ち直してきてしまいましたからね。
 なんとしてでも安倍政権を潰したい、という怨念を持つのは無理もないでしょう。

 無理もないけどそんなものをね、滅ぼされようとしている日本国民自身が支持するわけないでしょうが。
 
 今朝の日経新聞「春秋」も相変わらずひどかった。
 籠池氏の「お願い」に対して、まあ当たり前でしょうがそのお願いをきかなかった(つまり総理夫人はなんであれシロ)、ということを認めつつ、春秋子の結論は「お願いされること自体が口利きになるのでは」だそうですよ。
 ………頭イカレてんじゃないの

 お金持ちだったり、そうではなくても何かの組織の長やそれに近い役員とかね、やってごらんなさいよ。こんなド庶民に置いてすら、あれをどうにかしてくれないか、それは見逃してくれないか、特別にこういう計らいをしてくれないかって持ち込んでくる奴っているんですよ。
 しかも総理大臣ともなれば、一体どれほどの人たちが、あわよくばと「たかって」くるかは想像に難くない。

 ど庶民クラスの小さい組織の運営ですら、何がしかの権限を持っていると集(たか)られることがあるわけですが、「集られる方が悪い」というのが、野党や日経新聞の言い草ですよ。
 そんな話がありますか

 今回の話、聞けば聞くほど籠池氏というのは信用ならない人物だという印象であり、「有力政治家にたかった」のであり、たかることになんら心理的抵抗感のない、そのモラルの程度を疑わざるを得ない人だという印象を深めおります。

 交通事故を装って金をたかる「当たり屋」( =故意に自動車にぶつかって,治療費などをおどし取る人【大辞泉】)というものがありますが、籠池氏はそれに近いものがあるんじゃありませんか。
 であるにもかかわらず、野党や日経新聞がいうのは、「当たり屋に当たられたから『有罪』」ってこと。
 被害を受けた「から」有罪って、どういう理屈ですか。

 野党や日経新聞は、当たり屋の言い分だけを聞いている。そのうえで、当たり屋被害者をまるで人殺しのようにいう。

 …………私の我慢も限界です。

 日経新聞はまあ別にいい。メディアが寝言を言うのはいつものこと。
 
 でも、野党のあれはなんですか。
 こんな連中に一人当たり年間で約3千万円もの金をかけているのかと思うと、血圧が上がってきそうですよ。
 私は普段が低血圧気味なのでちょうどいい——ってわけにはいかないのは残念なところ。

 総理夫人の証人喚問など必要ありません。

 そうとまで言うならもはや刑事訴追を視野に入れてしかるべき機関に捜査を委ねればいいだけのこと。
 少なくとも、その疑惑立証の責任は安倍夫人にはなく、そこまで言うのなら野党側が自分たちで調査をして「証拠」を出すがいい。それが筋というものでしょう。
 日本を滅ぼそうとあれほど熱心に働いてくれた民主党=民進党さんのことですから、それくらいのことはもちろんできるでしょう。過去には証拠を偽造した実績もおありのことですし。

 とにかく国会でこんなくだらないことで時間を使って29年度予算案が未だ通過してないなんてのはもうねえ——国民としては看過できないところへきている。そう思います。

(本日はほぼガチギレ状態のため、お聞き苦しい点がございますことをお詫び申し上げます)
 
 
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非人情
2017年03月23日 (木) | 編集 |
 明日はお出かけのため、こちら、お休みいたします。m(_ _)m

        ●

受動喫煙が死因の事例は年間1万5000件。「受動喫煙防止対策」に迫る
2017/033/21(火) 18:30配信 ホウドウキョク
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170321-00010013-houdouk-soci

 飲食店における全面禁煙への動きがある中、例によって喫煙者からはものすごい罵倒が寄せられておりますが。
 ……本当に飲食店で全面禁煙にするとお客さん減る、売り上げダウン、になっちゃうんですかね? どういう構造なのか私は存じませんが。
 飲食することと喫煙がなぜそれほど強く結びついている(というイメージ)なのか、一度ちゃんと説明を聞いた方がいいんだろうなあ。
 ちょっと私には想像ができませんで…、いわば「逆・風が吹けば桶屋が儲かる」に聞こえるというか…、なんで? と。(^^;)

 それはともかく。

 喫煙者の方の発言では驚くことがよくありますが、そのうちのひとつが、「タバコは臭い」ということを認めないこと。
 個人的にはこれ、すごく不思議で…。

 香水の使い方を間違うと臭いことがあるというのには同意するのに、「タバコは(少なくとも非喫煙者にとっては)ものすごく臭い」というと、認めてもらえないどころか「怒られる」んですよ…。
 あれ、どうしてなんでしょう……。

 口臭がちょっとありますね、ともし言われたら(私も他人に言ったことはないけど)、そうなの、とびっくりしてちょっと気にしますよね。通常の神経なら。
 こちらからするとそれと同じことなのに、気にしてもらえるどころか、
「タバコがクサイなんていう方がおかしい」
 と言ってすごい勢いで「怒られ」たことは、1度2度ではありません。
(1度2度ではないのに、懲りない私も私ですが)
(でも怒られたってクサイものはクサイんだもの)

 自分が他人からしたらクサイと分かれば、ショックだし気にするしごめんね、という気持ちになるものなのになぜ、スモーカーは、タバコがクサイわけないだろうと言って怒るんだろう…。

 飲食店での喫煙規制についても同様で、その規制の目的は「受動喫煙をなくす」ことにある。
 正確にいうなら、喫煙者を迫害することが目的ではなく、「健康被害をなくす」ことが目的なんですよね。

 受動喫煙の害についていうとこれまた喫煙者は「タバコを吸っても健康被害があるとは限らない」「ものすごいヘビースモーカーでも健康で100歳まで生きる人だってある」などと言い出す。

 ……アンタらの話なんかしてないよ。と、思わず憮然としてしまいます。

 感受性、という言葉がありまして、同じ化学物質の被曝でも、ひどく影響されてしまう人もあれば、あんまり害らしい害もない、という人もいる。感受性の違い、ですね。
 多分、スモーカーになるような人は、——どういう仕組みかは存じませんが、その感受性が鈍……もとい、強い方ではないのでしょう。

 でも、同じ量を浴びたら発作を起こして死んでしまうという人も、世の中にはあるわけでして。

 受動喫煙で健康被害となる人は感受性が強いんでしょうね。もともと、体質的には「合わない」ので、害も大きくなるんでしょう。

 ということで、受動喫煙を減らそうというのは、そういう人たちの健康を守ろうということが主題。
 でも、スモーカーたちはあくまでも、自分のことしか、フォーカスしないし話さない。
 いや、アンタが耐性があるのはわかってる。ここでは耐性のない人を守ろうという話をしてるんで、はっきり言えばアンタのことなんぞどーでもいい。好きなだけ吸って100でも200でも生きてくれ。

 と思うことも多いんですよねー…。
 そりゃまあ人間てのは誰でも、自分の利益を第一に考えるものではあるけれど、ことにスモーカーという人たちは、ほんのちょっとも他人の立場を考えない………ように思える。
 もしかしたらこれがすでに脳みそを化学物質でヤラレている証拠なのかもしれませんが(脳への血流量が減るんですってね、喫煙すると)。

 おめーの話なんかしてねーよ……ということがあまりにも多いので、どうにもねえ……と思います。

 とは言え。
 実はこれ、私もツイッター上でRT(リツイート)されてきたものを見て、この記事を読んだんですよね。で、自分もRTを、1度はしてしまいましたが、すぐにやめました。
 RTするのではなく、自分が、この記事をツイートしなおました。

 というのは、その元のツイートは、この記事を示しながら、喫煙者を虐待する一言を添えていたため。

 昨日も書いたけど、どーしてそういちいち感情的なことを言うんだろう…。

 私も立派な嫌煙家ですが、でも、だからって喫煙者の死を願うようなことはしない。それとこれとは話は別です。
 他人の「好き」は可能な限り邪魔したくない、と言うのが私の思うところ。
 ただし他人への暴行・傷害も認めがたい(=受動喫煙による被害)。

 双方折り合って解決策を見つけるべきところ、いちいち怨念と憎悪をむき出しにするのは問題解決に寄与しないどころか、品性下劣で人間失格となることなので、支持しません。

 感情的になるとますます話がややこしくなるので、嫌煙家の方々にもそのあたり、お考えいただきたい。

 あいつはバカだと言って罵る言葉がそのまま自分も当てはまる、ということについて、もうちょっと考えてもいいんじゃないでしょうかねえ……。
 品性下劣だからということもあるけど、そんなもん、問題解決には何の役にも立たない、それどころかかえって妨害行為となることなので、そのようにお願いしたい。

 あくまでも実利主義の立場で考えるとそうなる……と思うんですが。(^^;)
  
 
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人民裁判の愚とみる
2017年03月22日 (水) | 編集 |
 東京都の築地市場移転に関する問題、第3者の立場で聴いてますが、もーわけがわかりませんね。
 結局、何がどこから問題になったんでしたっけこれ? と、もうそこからわからない。(^^;)

 環境基準の何倍とか何十倍とかいうが、その基準はなんのためなのか? 何についての基準なのか?
「基準値を超えても問題ない」という人があって、「問題ないならなんのためにある基準値なの?」と、私などは混乱しておりました。

 聞けば、あの環境基準値というのは地下水を飲用にする際の基準値、とのこと。
 基準値を超えても問題ないというのはつまり、それを飲用水にするわけではないので問題ない、ということなんですね。
 そうならそうと言ってくださいよ;;

 どちらにせよ私が気になるのは、皆さんがひどく感情的になっていること。
 感情的であり公私混同していること。



 なんでいちいち「怒る」んだろう、というのが私の不思議に思うところです。
 怒ったってしょーがないし、まして個人を「憎んで」、何かいいことあるんかい、と。

 怒ったり憎んだり恨んだり呪詛したりしていれば問題が解決するならそうすればいいと思うけれど、そんなもん、こういう時にはクソの役にも立たないでしょう。

 問題が起きたときはむしろ感情はあえて排して、冷徹なほどに、現実現状、諸条件に「対応」する必要があるわけですね。
 誰か一人を吊るし上げてギャーギャー騒いで。
 そんなことがなんの役に立つっていうんです?

 でもこういうこと、本当に多いですね。

 問題が起きたり、利害関係が対立したりすれば、感情的に相手のことが不快になるのは仕方のないところですが、でも、その不快な感情に自分で負けると、冷静な判断力は失われますよ?
 頭にきてカッカしている人が、冷静に、適切な判断ができるわけないんで。

 感情は感情でしょーがないけれど、こういうときは無理にでもそのことと現状、現実とを切り離して考えないと、物を見誤りますよ? それでは問題解決は遠のくばかり、自分にとっての利益も遠ざかるばかり。
 たとえ自分が不利益を被っても、憎い誰かを叩ければそれでいいとでも?

 どうも不思議ですね。
 罪を悪(にく)んで人を悪まずという言葉がありますが、そういう心構えでいないと問題を処理するための能力は発揮できないでしょう。

 何か一つ問題が起こると、たちまちそれを人格と結びつける、というのはよく見られますが、これはやめたほうがいい。
 
 上記のツイートを見て、私も初めて、石原さん、そんなことを言われていたのかとびっくりしたんですが、これはよくないですね。
 で、石原さんの言動・行為への批判はまあいいとしても、ご病気のことをあげつらって嘲笑うということは、同じご病気の方々を嗤うことになる、この非礼を指摘されて
「石原愼太郎さん自身が差別的なことを言ったことがあるんだ」
 というリプもついていますが、これも典型ですね。公私混同の。
 だいたい感情的な人はこういうことを言うんですよね。理屈にも理由にも言い訳にすらならないことを強引に結びつけて正当化しようとする。
 味噌も糞も一緒って言うんですよ、それ。

 石原愼太郎さんが過去に無神経な発言をしたとして(してるんだろうなああの人なら、と、私も納得してますが)、だから自分が彼に同じことをしていいという理屈は成り立たない。
 相手がそうだからと言って、自分が彼と同じことをすれば、自分も軽蔑しているはずのレベルに落ちることになる。——それでよろしいの?

 自尊心というものがあるなら、こういうところでこそ発揮してもらいたい。

 相手本位ではなく自分本位で考えたほうがいいですね、こういうときは。

 ともあれ。 
 築地市場移転問題と、石原愼太郎さんのご病気はまるで別のことで、この問題についての石原さんの「言動を」非難するのはともあれ、そこで人格そのものを「バカにする」、病気であることを「差別」する(結果的に、同じご病気の方々を侮辱する)——こういうのは立派な「公私混同」になるので、やめてもらいたい、と思いました。

 ただでさえ入り組んだ問題だというのに、感情的になってあいつが嫌いだの憎いだのと喚き始めると、もう収拾つかなくなるでしょう。
 まともな判断力があるなら、感情的なものは持ち出さないように願いたい。

 科学的に、法的に、かつ、ビジネスとして、何が優先されることが妥当か。その冷静な視線を、関わるどなたにもオススメしたい。
 感情論ははっきりいってどーでもいい。
(ドウデモイイ、というよりむしろ百害あって一利なし)

 都議のツッコミが足りなかったのは、そのせいでしょう。
「悪人」を作って吊るし上げようという「感情」に負けて、本来の問題を解決する、という最大のミッションを取り落としましたね——、というのが、新聞やネットの記事で拝見した、私の百条委員会への「感想」です。
 
 

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100年インタビュー・前奏
2017年03月21日 (火) | 編集 |
 時代は変わりましたよエエ…、と思わず感慨にふける。
 小田さんがNHKで長々と喋る日が来ようとは。

100年インタビュー
 時は待ってくれない「アーティスト 小田和正」

http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/588/2387159/

 予約録画をして、最初の20数分しかまだ見てないのですが…、その冒頭部分だけでも、思うことがありまして。

 その昔——中学生の私は、小田さんはファンとの距離をあまりにも広く取る人なんだなと思っていました。
 馴れ合わない、というのはいい。でも小田さんの場合はそういうことよりももっと距離がある——冷たいとは言わないけれど、ファンという人々を「信用していない」感じ。
 アーティストとファンというものの関係を、ビジネスライクに割り切っている人。そう思っていました。
 
 それが今や、ライブでも長々喋るわ、笑いを取るわ、ツアーではいく先々で「ご当地紀行」をやるわ、——会場では花道があるわ、360度お客さんに囲まれているわ、走り回るわで……。
 中学時代の私があの小田さんを見たら、顎が外れんばかりに驚くでしょうね。

 私は別に、ビジネスライクで割り切っているアーティスト、それはそれでいいと思ってましたが、それが大きく変わったのは、あの大きな交通事故の後。

 あの時を境にしての心境の変化を語るのを聞くのは今回が初めてではありませんでしたが、今回は、デビュー前から続くお話の流れの中で聞いたので、なるほどなあ、と腑に落ちるところがありまして。

 ご本人はインタビューの中で、あの事故のとき、命さえ危ぶまれた大怪我で、もう音楽はできないのかなと思っていた、とお話しなさいまして。
 そういう中で、「いわゆる」ファンの人たち(小田さんのお言葉。こういう表現でしたね)から、「とにかく生きていてくれるだけでいい。助かってよかった」というメッセージをたくさんもらった、と。
 感動した、と。

 ああいう方なので訥々(とつとつ)とした言い方ですが、本当に、それは、生死の境をさまよう人には強く響いたようです。
 で、以後、あの冷たさはなくなり——「素直になった」、ということでした。

 今や私も30年前の小田さんよりも年上になり(笑)、そうなると、見えてくるものがありまして。

 小田さんは——若かりし日の小田さんは「冷たかった」のではないのだな、と。
 この人は、誰かから愛情を寄せられても、それを「受け取れない」ところがあったんだな、——そう思いました。

 理由はいろいろあると思いますが、それが何にしろ、小田さんは、大勢の人からの好意を寄せられても、それは自分が、例えばその人たちに「受ける」音楽を届けているからであり、この条件がなくなれば、つまり音楽が作れなくなったり、あるいは彼らの求める好みの音楽ではなくなったりすれば、たちまち見捨てられるのだという思いが強かった——のではないかと、ふと、思いました。

 そういう側面もあるでしょう。でも、ファンというのは不思議なもので、そういう「自分にとってのメリット」を与えてくれるなら好きでいましょう、というところを超えちゃうものなんですね。
 それをよく表したものが「(音楽家としては再起不能でも)(とにかく)生きていてくれるだけでいい」、という山のようなメッセージだったんでしょう。
 これが、小田さんの何か頑なだったものを溶かしてしまった——、そういうことかな、と思います。

 これはもうずーっと以前から私が考えているテーマの一つなんですが、「愛情を受け取る」問題。
 人から愛情を与えられても、
「自分にはそんな資格は本来はない」
「この人の好意は、自分がこの人にメリットをもたらしているからだ」
「利用価値がなくなれば打ち捨てられるのだ」
 という、不信感と警戒心から、どうぞと言われても、どうもとは受け取らない。
 こういうことは、結構あるんだなあ、と。

 こういう人は、自分は誰からも愛されない、なんていう。はたから見ている他人からしたらびっくりですよ、あれだけ愛されまくってんのに何を言ってんの? と思うくらい。
 でも結局、何を差し出されても本人が受け取らないなら、本人からすれば、それは「自分には与えられない」、ということになる。

 素直になれば——心を開けば、ちょっと尋常ではないほどの愛情があることに気づく。
 それなのに。——

 小田さんが経験したのは、そういうことだったんじゃないかな、と思いました。

 与えられていても、本人が受け取らないなら、与えられていないのと同じことになる。
 でも、自分が受け取り拒否をしているのに、誰も与えてはくれない、ってそんな言い草があるか、と、他人は思う。

「主観」のスゴイところですよね。自分の心ひとつで、あるはずのものが、なくなってしまう。
 自分で自分を追い詰めているだけなのに、どうかしたら他人を恨むことさえある。
 
 素直になる、心を開く。
 簡単なことのはずだけれど、でもなかなか、難しいところでもある。

 愛情を求めて、強い飢餓感で苦しむ人は多いけれど。
 せっかく誰かが差し出してくれたものがあるのに、顔を背け、かたく目をつぶり、手をぎゅっと握りしめて受け取ろうとしていない。
 それなのに、誰も自分には与えてくれない、と嘆き、恨む。

 ギブアンドテイクと言いますが、この「テイク」ができないばっかりに、多くのものを取りこぼしている。
 テイクは誰にでもできることだと思ってるけど、そうじゃないのかもしれない。受け取るには、受け取るための姿勢がないとね。

 そっぽを向き、両手を固く握り締めたままの人に、どうやって与えたらいいのか、と、与える側も途方にくれて、最後にはあきらめて立ち去ってしまう。
 これはあまりにももったいないことですよね。
(それでもあきらめないで、いいから持っていきなと言って服についているポケットというポケットに飴ちゃんを押し込んでいくおばさん、という「強い」存在も、世の中にはあるっちゃありますが・笑)
 
 あの交通事故は、そういう意味では、「ありがたい」出来事だったな、と思いました。
 
 与えることと受け取ること、双方のバランス。
 そこに開眼して以降の小田さんの柔らかさを、あらためて、ファンとしてはありがたく思う次第。
 
 
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他人のことより自分のこと
2017年03月20日 (月) | 編集 |
 本日はお彼岸のお中日、そして春分の日。
 なんとなくおめでたいような気がしているのは……ちょっと変でしょうか。(^^;)
 でも毎年このへんから、本格的に春らしくなるというイメージがあるんですよね……なごり雪に降り込められた思い出もあるけど…。



 思ったことは2つありまして。

 ひとつは、じっさい、どんな悩みであっても自分で答えは得るものだと言うこと。
 そうでないと、その結果が思わしくなかった場合は他人を恨むことになったりしますもんね。
 アドバイスや「参考意見」はいくらでも聞けばいいけれど、最終的には自分で決めるしかない。これは普遍的なことなんだな、と。

 このボケボケした顔がいいのか、どうしたわけか昔から、人様のけっこう深刻なお悩みを聞くことがおおいんですが、でも、「聞くだけ」なんですよね。
 色恋の話にしろ、お金の話にしろ、私に何を言えるわけでもない。なのに、そういう話を聞く機会が多くて。
 なぜ私にいうのかと不思議に思うこともありましたが、——話すこと自体にセラピー効果もあるし、本人が話すことで自分の感情を整理整頓できる。そういう効果の方が高いんですね。

 だいぶ年数が経ってから、ボランティア活動の中に「傾聴」というものがあることを知りまして、ああ私がやってたのは、これなんだな、と。
 男性には割と多いと思うんですが、ただの愚痴にしか思えない誰かの話を聞いて、一生懸命「アドバイス」したら、なぜかかえって怒られた——という経験、ある人も多いのでは。

 アドバイスなどは実は必要ない。ただ話を聞くことが大事だし、悩むにしろ時間がかかるにしろ回り道になるにしろ、答えは最終的には、本人にしかわからない。
 アドバイスを求められるときというのは滅多にない。
 おまけに——、〇〇すればいいじゃん、とアドバイスするついでに「それはお前も悪いよ」などと、相手を裁くことをいう人、結構いますよね。
 申し訳ないんですが、これ、最悪です。(^^;)
 
 それは親切でもなんでもない。怒られて理不尽に思うでしょうけれど、でも、相手にしてみれば「傷口にナイフ刺してグリグリした上に塩をすり込」まれたも同然のこと。——やめてやってくださいそういうの;;

 黙って話を聞く、そうですかと受け入れる(受け流すのも却下)、これは——案外、実現してくれる人って少ないのかもしれませんね。

 そうですかと話を聞いて、寸評もせず非難もせず裁きもせず、ただ、それはお辛いですねとかしんどいですよねとか、相手の感情にこそ同意して聞く。
 答えは、その人が持っている。
 他人から「指示」されたことだと、どうしても、どこかでその他人の責任に負わせてしまう心理も働く。
 自分で決めて自分で選んだ答えだということが、うまくいってもいかなくても、一番大事なことかもしれない。


 2つ目は。
 そういうわけなので「説得は無意味」。ゆえに、「ツイッターでよく見かける不毛な論争してる人に捧げたい言葉だな」というのは、もっともな感想ですねえ、…と思わずうなずいておりました。

 ツイッターも難しいところで、つまらないデマや悪意あるデタラメの悪口を聞いたとき、思わず自分もそれを「叩き」たくなりますが、非難するにはそのデマやデタラメの内容に触れないわけにはいかない。
 つまり、それを叩こうとすると、そのデマやデタラメの拡散を、自分がすることになるんですね。

 この矛盾。

 そういうくだらないものを見るとどうしたって腹は立ちますが、「黙ってシカト」するのが、最大の良策、ということになります。

 相手を言い負かそうと必死になる人もあるけれど、人間てのはそうそう自分の考えを変えるものではない。まして、そういうデマやデタラメを吹聴するような人間の知的レベルは知れているのでなおさらです。
愚かな人ほど頑迷になるものです。
 自分で考えて咀嚼し消化し、自分で考え、判断し、必要があれば訂正する、というのはなかなか高度なことですから。

 仮に相手を論争でもって「黙らせる」ことができても、それは黙らせたというだけであって、相手が納得しているわけではない、そういうことがほとんどでしょう。
 とすれば、相手を言い負かすことができたとしても、デマ・デタラメを訂正させることは、できてはいないわけですね。

 ゆえに、一番いいのは、そういうのは相手にしないこと。腹がたってもなんでも、そのこと自体には触れない。
 ただ、自分はこう思う、ということはあるし、デマではない、確かなことを発信することはできる。
 それらを見てもらって、どう思うか、どうするかの判断は、結局は、人に委ねるしかない。
 これが正解だと他人に押し付けることはできないんですよね。

 他人のことをいちいち言うな、自分のことを語れ——と言うのが、一番の「正しい態度」であるように思います。

 何を選ぶかは他人に任せるしかないんですよね。選んでもらえるように工夫をすることはできるけど、それを強要することにエネルギーを注いでも無駄だし、余計な争いになるばかり。

 どんなことでも、「人のことをとやかく言ってないで、まず自分で自分のことをきっちりやってろ」ってことなんだろうなあ。
 でも、その逆のことをついやっちゃう。——なんででしょうね。(^^;)
 
  
 
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ドレスといえばベルばら
2017年03月19日 (日) | 編集 |
 連休という方も多いかと思います。幸いこの3日ほどはお天気もまあまあ、季節外れの極寒ということもない(暖かいとも言い難いけど)お出かけ日和となっているようですね。
 ということで今日はもう私も、肩の力を抜きまくっております。別に外出のようもないけど。(^^;)

『ベルばら』の池田理代子50周年記念展で大興奮、感激、そして涙。
2017.03.17 TRIPS
https://trip-s.world/berubara-event-50years

『デビュー50周年記念展 池田理代子-「ベルばら」とともに-』が、明日3月20日(月)まで、日本橋タカシマヤさんにて開催中。
 50年というのもすごいことですよねえ…。その軌跡を省みるとほぼ、少女漫画の歩みにもなっている、という。
 
 少女漫画は不当に評価されない、どんな名作良作であっても、少女漫画というジャンル分けをされている以上はユーレイのように存在を無視される、という傾向があるのは確かなこと。それをいちいちなぜと問うのもアレなんでここでは言いませんが、でも——最近はそういう傾向も(昔よりは)良くなってきてるかな。

 私が小学生だった頃は、少年漫画少女漫画というのはかなりきっぱり住み分けができていたようで、女の子で少年漫画雑誌をほぼ全部読んでいるという人は珍しかったかもしれない。
 私がそれをできたのは従兄弟が結構なマンガ好きで、毎号必ずではないにしろ、ほぼ、全種類を買って読んでいたんで、遊びに行くとまずはそれをかたっぱしから読んでいたから。

 今から40年近くも前のことになります。あの頃は水島新司さんの「ドカベン」が好きで、本屋さんでちょっと立ち読みしていたら、隣の中学生か高校生かのお兄さんに、なにやらジロジロ見られたという記憶がございます。

 その後、女の子でジャンプ読んでるなどは珍しくなりましたが、男の子で少女漫画雑誌を見る人って——これは現在も、ほぼ見かけないものでしょうか? 単行本になったものは読むかもしれないけれど、雑誌自体を店頭でパラパラ見てる男の子は、——いないかなあ、そういえば。

 話が逸れました。
 世間からは顧みられない中でも少女漫画は確実にその黄金時代を築いていた、と、しみじみ思ったりするわけですが、その中の押しも押されもせぬ名作ですね、ベルばらは。

 今回のこの展覧会についての上記記事も興味深く拝見しましたが、おやと思ったのは、「ドレスコードキャンペーン」。
 今は大相撲の方でもやってますね、和装デイと銘打って着物を着て行くといろいろ、記念品があったりイベントがあったり。

デビュー50周年記念展 池田理代子 2017,3月

 この展覧会でもそういうのがあるそうですが、「フルレングス・ドレス」つまり足首も隠れるくらいの裾の長いドレスを着ていくと、記念品のクリアフォルダがもらえるという。

 こういうの結構好きで♡ 何を貰える、ということが問題じゃなくて、ドレスコードで「遊ぶ」感じにワクワクする♡
 
 しかし、改めて考えると、足首まで隠れるくらいの長さ、って持ってないなあ、と。
 通常のロングのワンピースとかスカートとかでもさすがに足首くらいは見える。
 足首も見せないようなものはマキシ(丈)と言いますが、スカートでも滅多にない。

 着物であれば簡単ですがなんせベルばらの世界ですから当然、洋装でということ。
 着物を着ていくよりもハードル高いんじゃないかな。
 このドレスコードで会場に来る人、ちょっと見てみたいなと思いました。

 ちなみに。
 ワンピースというのは和製英語。ワンピースはドレスと言います。上下で繋がって一着の服になっているもののことなのでカジュアルでもドレス。

 ドレスと言われて私どもが連想する、豪華でひらひらキラキラなものは(つまりフォーマルな方は)ガウンとかローブとかいうらしい。イブニングドレスならevening gown 。

 ベルばらの世界であれば「ワンピース」ではなく「ガウン」の方が似つかわしいように思いますが、そんなもん着て外を歩くのかと考えたら、………なかなか楽しい(笑)

 この企画に関しては、自分が参加するより人様のようすを見る方が楽しそうだなと思ったり(笑)
 
 
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評価の進歩
2017年03月18日 (土) | 編集 |
『第20回文化庁メディア芸術祭』大賞に『シン・ゴジラ』『君の名は。』など
2017/03/16 17:47 CINRA.NET



 2016年は邦画の当たり年と言われてましたね。いい作品がそろったことも大きかったけど、ようやく、評価の仕方も変わってきたのかなとも、思います。

 以前であれば特撮やアニメ作品などは「子供向け」ということで、作品が良かろうがなんだろうが、こういう賞からは「対象外」扱いされていたところ。

 日本の映画なんぞ寒風吹きすさんじゃってお話にならなかった時代、異彩を放った良作は何と言っても「パトレイバー劇場版」(1作め)だったんですが(断言する。だった、のです)、アニメだというだけでろくにノミネートもされず、私もいい加減、頭にきていました。

 そもそも、アニメ=子供向け、の発想が意味不明なうえ、子供向け作品は大きな賞の受賞対象にならないというのはさらに意味不明。
 子供向けであれば、だからこそ良作である「必要」がある。子供向けだから「くだらない」というレッテルをいきなり貼る方がくだらない。——と思ってきました。

 また、これは日本の悪いところだと思うんですが、何かっつーとすぐに業界全体で「カルテル」化する。
 そうすると、そのカルテルの中だけで「しか」通用しない評価や価値観を作り、これに頼るんですよね。

 北野たけしさんが最初に映画を作ったとき——まだ海外での評価も受ける前の時点では、カメラワークがどーたらと偉そうにこき下ろす声を聞きました。
 従来の日本映画界とやらではカメラワークも決まりきった定石があるのか(私は存じませんが)、それを外れているということのようでした。

 こういう時はこうやって撮るというのが暗黙のうちに、そうも詳細に決まってんの? あらまあ。日本の映画が絶望的にツマラナイのも道理だよね〜、などと私も憎まれ口を叩いておりまして。
 その後、その作品が海外で高評価を得ると、いきなり静かになったのはもう大笑いというほかはない。

 一時期は、日本映画界とやらでまともにコンテ切るのは(アニメじゃなくて実写の方ですが)黒澤明監督くらいだと聞いて——嘘か本当かは存じませんが、本当だったらエライことだな、と卒倒しかけたこともある。

 ということで、上記、文化庁メディア芸術祭、シンゴジラ受賞についてのコメントが、まともなので感心しました。
邦画の作り方がここから変わっていくのではないか
作品制作現場における思考停止及びルーティン化していた部分を破壊し、新しいステージに進んだ

 変わっていくことをよしとする、というところに、まずは「へー」と思います。
 たぶん以前には、決まりきった手法や紋切り型のテンプレートから外れればそれだけで意味不明の非難があったことを思うと、だいぶ「進歩」したんですね、と思います。(^^;)

 評価する人たちがまず軸を変えている、というところが、私には興味深いし、ぜひ、そのようであってもらいたい、と思います。
 結局どれほどいいものが世に現れたとしても、それをきちんと評価してくれる人がいないと、せっかくの宝物も活かしきれないことになるので。

 昨年ヒットした作品群が素晴らしかったのはもちろんですが、それを評価する側も、少なくとも20年前よりは、「まとも」になってくれたのだとしたら、それはありがたいことだな、と思って拝見しました。

 日本アカデミー賞も変わっていたんだなあと思ったのは、最優秀アニメーション作品賞が「この世界の片隅に」だったり、「君の名は。」が最優秀脚本賞というのも、へー! という嬉しい驚きでした。

「君の名は。」の脚本、実際、すごいなと思いました。私も途中で思わず時計を見て、「ここから、この広げた風呂敷を畳めるのか?!」と変な心配していたんでしたが、終わってみれば、おお、見事な、と感動するばかり。(^^;)

 でも、そういうものをアニメ作品だからとラベルを貼って切り捨てず、評価した、ということを、評価したい。

 文化庁メディア芸術祭のこのコメントも、評価する側の変化があったということを示して、ありがたいな、と思います。
  
 
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