21世紀のカリスマ

 いっときはやたら「カリスマ」という言葉が使われました。
 
 ある種のリーダー的な存在、あるいは新たな試みで注目されている誰か、あるいは業界なり店舗の中でのトップ、人気者、——というのを誇張して「カリスマ〇〇」という言い方をする。
 カリスマ経営者、カリスマ美容師、カリスマ店員、……カリスマも大安売り。

 本来のカリスマは、そういう身近な存在ではなく、むしろ「近寄りがたい」というニュアンスを持つので、そんなご近所にいるご近所での人気者という存在に、カリスマって言われてもなー。と思ってました。

 カリスマ charisma は、元はギリシャ語で、「神から授けられた特別な能力」を意味するものだそう。
 予言者とか(預言者とは違うよ)、あるいは特殊な能力で病気を治すとか、超自然的な能力があって、それゆえに人から崇められるようなもの。

 そういう超自然の能力(者)は、人々に慕われつつもどこかで畏れられるもの。
 だからカリスマというのは「近寄りがたい」存在でもある。
 本来の意味でのカリスマはイエス様とかお釈迦様とか、あれくらいのレベル。
 現代では宗教はある意味、滅びつつあるので、カリスマも大安売りされても仕方がないのかもしれませんねえ……。

 依然として、そのカリスマと信者の関係を色濃く残しているのは、宗教じゃなくて芸術かもしれません。
 なかんずく、音楽。

 私はここまでロックというジャンルには興味がなく過ごして参りまして、最近、そういう世界を垣間見るようになりましたが、あれは——正直、最初はちょっと引きました。(^^;)
 あの熱狂あの興奮、ミョーに統率のとれた一連の「ノリ」は集団催眠のように見えるし、なにか欲求不満でもあるんですか? と言いたくなるような、暴力的でさえある振る舞い。
 強い恍惚感が人々を浸していくのを見て、音楽は宗教に近いものなんだなと感じました。

 そんななかで、
「このバンドのために頑張るとか、このバンドがないと生きていけない、なんて事言うな。一緒に頑張って自分たちの夢叶えろ」
 といった主旨の「カリスマ」からの発言に、戸惑うファンの「感想」を、ここんとこ、いくつか連続でお見かけしました。

 突き放されたように感じたり、あるいは(私もそうですが)べつに夢も希望もない、生活すること、今、この生活を送るだけで精一杯、という人間には、ならば「ファンでいる資格はないのか」と落ち込んだり。
 わかります。——と、私も思わず。(^^;)

 でも、それでいいんじゃないでしょうかね。双方にとって。

 イエス様でもお釈迦様でも、おやさしいことはおやさしいけれど、基本的には「馴れ合わない」。突き放しているように見えることが多い。

「依存」するなと言われて戸惑う人もあったようですが、依存、という言葉の意味は、あの「宗教指導者」の伝記あたりを見ると、わかりやすいと思います。

 その依存状態を野放しにするのは、危険なことなんですよね。
 双方にとって。

 宗教団体を名乗るほどではないけれど、「信者」さんを何十人とか100人くらいとか、持っている宗教者——俗に「拝み屋さん」などと言われる、そういう人って結構いらっしゃいます。
 いわゆる霊能者ですね。そういう方のお話を聞いたことがあります。

「信者さんのいうことを全部が全部、聞いていては、こちらが殺される」
「人の欲にはキリというものがない。何でもかんでも甘い顔をしてハイハイと聞いていたら身が持たない。相手にもよくない」
「信者のいうことなど聞かない、という(冷たい)態度をときどき見せておく。それくらいでちょうどいい」

 私は現代人の中では信仰心というものを比較的、濃厚に持っている方だと思いますが、それゆえに「信心」と、「ご利益信仰」の違いには敏感なところがあります。
 当時は私は中学生でしたが、その拝み屋さんの仰ることに、なるほどその通りだろうな、と納得してました。
 同時に、信者さんを突き放すのも、「ときどき」ってところが、ポイントだろうなとも(笑)


 カリスマと見なされる側は、突き放すくらいでちょうどいいし、「信者」さんも、「ときどき」冷や水を頭から被って、我と我が身を振り返り、人生を振り返り、考えてみる、というのは、いいこと——というより、「必要」だと思います。

 資格があろうがなかろうが、ファンでいるというその人の気持ちは、誰の指図を受けるものじゃないし、指図されたって本人にもどうにもならない。
 これがなければ生きていけない、と思うときも、人生の中にはありますよねそりゃ。
「藁にもすがる」ことで、やっと命を繋いでいける時期もある。そういうものを一概に非難できるものではない。それでやっと、自分で自分を殺す誘惑から逃れている人にとっては、文字通りの「命綱」です。誰がそれを否定できますか。

 でも、そういう「緊急事態」というのは永遠に続くものではない。何年かかるかはともかく、いつかはまた、違う季節へ移っていく。
 そういう辛い時期を乗り越えるためなら、命綱でも生きがいでもなんでも、すがっていればいい。
 自分で自分を大事にできるなら、その命綱を後ろめたく思う必要もない。

 ただ、カリスマさんにはカリスマさんの事情なり大変さなりがあるので、そのあたりを、信者さんも、わかってあげられるといいんでしょうね。(^^;)

 いかな「神の恩寵」といえど生身の人間であることには変わりはないので、このへんはねえ——、紀元前とか紀元ごろの人類よりは、「進化」「進歩」した態度を示してもいいはずだと思います。

 ニーチェが神の死亡宣告を出し、カリスマはそこのショップにいる時代ですからね。(^^;)

 自分がしていることは熱狂なのか、それとも「依存」になってしまっているのか、と、立ち止まって考えることに意味があるのかもしれませんね。

 実際、本当にシャレにならない依存をしている人は、こういう言葉すらまともに聞きゃしない——何を言われても自分を正当化するだけ——そういう姿を、比較的最近、私も見ている。

 カリスマの言葉を聞いて、え、アタシそんななのかな? と戸惑い考えるなら、大丈夫、「健康」ってもんだと思います。
 
 まったくのところ、今日日(きょうび)、カリスマさんも信者さんも、楽じゃないですよねえ。( ̄▽ ̄;) 
 
 
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All you need is LOVE



 日本でももちろんですが、世界全体で見ても、このうつ病の患者数は増加しているそうです。

 お役所や学会が新たな病気を認定やら設定やらするから、データ上、病人が増えるのだ、という批判もありますが——現在では喫煙者が『病人』扱いされるのが気に入らない人が多くこれを言うようですが——、ま、そんなことはともかく(といきなり、うっちゃりで土俵外へ投げ捨てる)。
 あと、——うつ病なんか甘えだ、みたいなことを言う人もこの際だからうっちゃってしまいましょう。話を面倒にするだけでク■の役にも立たないんだよなああいう人。

 憂鬱な気分になったり、抑うつ状態が続いてしまうというのは誰にでもあることでしょうが、うつ病というのはもはや、日常生活に支障が出る状態。
 医学的に脳の機能や神経の障害がある状態、と、ここでは考えておきたいと思います。

 私もかなり危ないところへ行っていたと思いますが、私の場合は神経障害よりまえに、内臓機能の方がやられてしまい、原因不明のまま3ヶ月ほども寝たきりに近いくらいになっていたりしました。
 体の方が先にストレスで参ってしまったんでしょうね。
 だから逆に、それ以上の消耗を避けることができ、本格的に脳神経の障害までには至らずに済んだのかもしれません。
 何が幸いするかわからないもんです;;

 一言でうつ病といっても、単純にビタミンやミネラルという微量栄養素が不足して症状に至っている場合もあるし、その場合は「栄養不良」を改善すれば回復する。そういう軽度のもの(でも原因は掴みにくい)から、本当に脳の機能が失われてしまう重度のものまで、いろいろ複雑なんだそうですね。

 上記のツイートは、加藤諦三先生のご著書からの引用botアカウントのもの。
 きちんと本を読まないとかえって誤解を生む可能性もあるのでやたら引用もできませんが、でも、このツイートは、その核心を突いているように思われまして。

 栄養面や、物理的に脳神経等にアプローチしていく治療法、行動認知療法はかなり有効だということも最近では聞きますし、いろいろありますね。そういう治療をしていくのももちろん大事ですが、「うつ」の心理の最大の原因は、これなんだろうなあ、と思ったツイートでした。

 簡単に言えば、「愛情不足」。

 最近では自己肯定感とか、承認欲求とか、よく聞くようになりました。少し興味のある人なら、これらの言葉に遭遇しないということはないはず。
 言葉になると何がいいかって、「あれは幽霊じゃなくて枯れ尾花」だと、「具体的に」「わかる」こと。
 正体不明のモヤモヤ、というのは全く、それだけで人を不安にさせるもの。でも、あれはススキです、と分かればなんだススキか、ですむ。

 そういう具体的な言葉があるというのはいいことだな、と思いつつ。

 うつの原因は愛情不足と言える。

 これをいうと、大抵の人は親のことや、育ってきた環境のことを持ち出して、そういう人たちを責め始めます。
 実際、その愛情不足がどういう種類のものかをわかりやすく言おうとすると、上記ツイートのような「たとえ話」がわかりやすいので、あんな風になっちゃいますけども。

 でも、自分に愛情を注いでくれるべき人は、結局、誰なのか、というと。
 ——自分自身なんですよね。

 親ではない。

 世の中には親の顔を知らずに育つ人もある。親とは呼べない人を保護者としながら育つ人もある。それを思えば「親のない人はみんな愛情不足で鬱になる」という仮説は、成立しない。

 上記の例えでは、親がその子を抱きしめるかどうかの話になってますが、じっさい、うつの原因の愛情不足は、「自分で自分に注ぐべき愛情」の不足なんで、自分が自分を抱きしめるというのが本当のところ。

 親といえども他者は他者なんで、——経験者はわかると思いますが、本格的にうつ状態になるともはや、誰がどんなふうに自分を愛しているかなんて関係なくなるんですよね。
 転んで膝を擦りむいた自分を、誰かが愛情豊かに抱きしめてくれても、ありがたいなとは思うにしろ、でも、それで気持ちが動くということはない。

 私などはそういうの、ありがたいとさえ思えなくて、ただ重くて邪魔なものという感じでした。

 なぜ幼いときに親の愛情を受けることが大事かというと、子供は親の行動から「学習」するからです。
 自分では何もできない状態なので学習も何もない。親が自分にするこということを見て聞いて、なるほどああやるんだな、というふうに覚えていく。

 そういう意味で親が重要視されますが、重要ではあっても「絶対」ではない。

 親が自分にしていたことを、子供は、自分で自分に行うようになる。
 ちょっと諸問題あってろくでもない行為を「学習」することはあって、これだとやはり苦労することにはなりますが、でも、よーするに、一番の「核心」は親に愛されたかどうかじゃない。
 自分で自分を愛すること。
 これができるなら、別に親はなくても問題ないわけです。(極論ですが)

 学習する、と言いましたが、本来、自分で自分を愛するということは天与、生まれつきに誰でも持ってる。
 学習するというのも一つの方便で、他者のカタマリである社会の中で、自分を愛することとの折り合いをつける、その方法を、学習しているだけじゃないでしょうか。

 学ぶまでもなく、自分で自分を愛することは本来だれでも持っている。
 誰でも本来は、愛する、という「能力」がある。
 これを仏教でいうなら「仏性(ぶっしょう)」になるんじゃないかと思います。
 
 行動認知療法が薬物治療よりも効果が高いというのは、行動によって、その仏性を「思い出す」からかもしれない。
 持っていないものではないし失われているわけでもない。
 ただ、「忘れている」。

 なんで忘れちゃうのか、というと、育った環境以外にも、今度は「エゴ」というものがあって——、時代が進むほどにうつ病者が増えるのは、このエゴの増大とほぼ比例してるんじゃないかな。
 近代になればなるほど、エゴは増大し、鬱も増えていく。

 愛情は忘れられていく。

 どんな人にも心のうちにはごく幼い子供である自分がいるそうで(インナーチャイルド)、……その子が、今も、痛みをこらえて泣いているのかもしれません。
 親などなくてもいいんで、自分が、その子を抱きしめてあげればいい。

 口で言うほど実は簡単じゃないんですが、でも、そういう認識が、世の中に少しずつ浸透していけば、また違ってくるかもしれませんね。


 また愛ですか、と言われそうですが。
 ——愛ですとも。(真顔)
 
 
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人を生かす

女の子を拘束する「呪い」、親が解かねば / 駒崎弘樹さん
2017年2月24日06時52分 朝日新聞 DIGITAL

 女は女らしく男は男らしくという「呪い」をかけるのは通常は親。
 であるので、その親御さん自身が、
「女のくせに、などといわれても耳を貸すな。女だからといってできないことは何もないのだ」
 と、6歳の娘さんに語るというのは、まさしくその呪いをかけられた身としては、「いいなあこういう人が親だったら楽だったよなー」と思ってしまいます。

 と、私はそのままさらっと通過していたのですが、この「耳を貸すな」に反発しているご意見をお見かけして、へー。と思いまして。
 本来の、おおもとのフェミニズムは「男性に人権があるなら女性にも人権がある」という概念なのであり「女性であることを放棄する」ことや、「女性には特有の権利がある」とすることではない、というご主旨のようでした。

 よう、というのは、やはり行間や、言葉と言葉の間にまだ不足が感じられて、私も、筆者の主張を汲み取り切れていないと思うからです。
 だからさー、やっぱりツイートって入り組んだ話の説明や議論には向いてないですって;;
 注意して書いていらしゃるんでしょうが、それでもどうしても何か、「抜け」があるようです。

 ともあれ。

 私は、現行のフェミは従来の男尊女卑のアンチテーゼに過ぎず、つまりは写真のポジとネガの関係であり、そこにある画は同じだからどっちも嫌だ、ともうしてまいりました。
 どちらがどちらを嫌っているにしろ、鏡に映った自分の姿を見て、わあわあ怒っているだけですから、話にならない、そう思います。

 上記記事で「耳を貸すな」というのは、相手がまだ幼い子供であり、これは発達心理学でもいう通り、このくらいの子供は「催眠状態」にある。
 ので、理性の発達した年齢であればいざ知らず、催眠暗示にかかりやすいことを考えて、「あんなものは聞いてはいけない」と教えたのだと思いますね。

 対して、反対意見をおっしゃった方は、耳を貸すな=女性性の否定を「与えた」、という解釈もあるようです。
 でも、主張の一番の核は「たとえ呪いでも、その呪いもまたひとつの”意見”として、冷静に受け止め、吟味することが必要」ということなんでしょう。

 ……が、ともあれここでは、6歳の子供にはそれはちょっと;; ということで。
 
 実際、従来の男尊女卑思想にしろ現行のフェミにしろ、なんでそういちいち極端なところへ行くんだろう、とは、私も思うところ。

 男女平等とは、男性は男性のままで、女性は女性のままで、あるべき権利はある、という概念。
 性を「正義」にすることも、またそれを「放棄」することも、やりすぎいき過ぎ、的外れだ、と思いますね。

 性差は健康面を含めても無視できることではないし、そうすべきでもない。
 性というものを人が持ち、これが人生ではかなりの重要性を持つことも、否定できることではない。

 男尊女卑思想は変に性別を正義にするし、フェミはそれを変に「悪者」扱いするし。
 性差というものを語る人がいるかと思えば、その性差を言い訳にして結局は「男女差別」を正当化しようとする。

 性差の扱いをどうするかについては私もつらつら考えておりますが、私自身はこのように考えて扱っているなと思うのは。

 早い話、その人を「生かす」ことに、性差というものを「使う」。

 つまり、男性だからこれをするな、女性だからそれをするな、というのは、その人を「殺す」もの。

 逆に、男性ならそれが魅力、女性ならこれが魅力、——同じことを表現するのでも、その肉体ひとつとってもぜんぜん「要素」が違うわけで、その要素をどう「生かす」か、という視点で考えればいい。

 あれをするなこれをするなというときは本当に危険で、特に、自分じゃなくて他人に向かって、あれをするなこれをするなというときって、本人が言うのとはぜんぜん違うところに目的や思惑や欲望がある。

 人はそう言うものを自分自身にさえ嘘をついてごまかし、もっともらしいような顔をしたり「正義」ぶったりする。

 こういうときは、それこそ、「耳を貸すな」でいい。

 同じことを——例えば舞踊でも、同じような振り付けで踊っても、男性が踊る時と女性が踊るときでは、「美しく見せる」目的は同じでも体の使い方がぜんぜん違いますよね。

 性差というのは、そういう時に考えればいい。そういう(程度の)もの。
 私の扱いはそうなります。

 性差を語るのは、その人を「生かす」ことを考えるときだけでジューブンです。

 人を殺したいがために、もっともらしい言い訳になるから性を持ち出す、というのは、最低とかいうよりも、言語道断だと思いますね。

 で、まあ、多くの男性女性にはそういうことで。
 いわゆる性的少数派の方々は。
 もうそれこそ、「自分を生かす」要素として、考えていけばいいだけ、と考えます。

 生かす、というのは基本であり、同時に、完成し難い「課題」でもありますね。

「デカいことをしてやる」と言って何をするかと思えばただの人殺し、というバカは世の中に絶えませんが。
 殺すだけなら10歳にもならない子供にだってできる。
 人を生かすことは、100歳まで生きたって、身につくかどうか。

 そういうわけで、私としては、人を生かす、ということを最優先課題とし、性差もまた、「その人を生かすためにあるもの」と捉えます。
 その人の才能のひとつ。そういう捉え方。

 何にしても、こういうことでいちいち、あれこれ、考えないといけない、という事態がそもそも情けない。
 けれども、考えることすらしなかった時代よりは、マシになったよね、とも言えますね。

 
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愚痴をとめる方法

 昨日はプレミアムフライデーとのことでしたが、いかがでしたでしょうか。
 よーするに変な残業至上主義や行き過ぎた滅私奉公(……古い言葉のはずなんだけどなあ;;)カルチャーを打開したり、とにかく消費にお金を回したりしてほしい、ということでしょうが、メリットはちゃんとあることなので、定着してくれるといいなと思ってます。

 経済の「本体」は内需にあるというトランプ米大統領の考えは私も賛成なんですよね。そういうもんだと思います。………ただ、あの方の場合は言葉と手法に問題があるんでいまのところ賛成か反対かすら、言われていませんが。(^^;)

 仮にお金があっても時間がなければお金も使いようがない。時間がある人を少しでも増やしていけるといいですよね。

         ●

 昨日はNHKさんの5時台の番組を見ておりましたが、人生相談のコーナーがあって、寄せられたお悩みというのが、
「自分はどうしても愚痴っぽい。つい、人のことなどであれこれ悪口を言い、愚痴を言ってしまう。いうのをやめようと思うが、我慢するとストレスになってしまい、そういう自分がほんと情けない」
 ということで。

 聞けばお年は18歳とのこと。——いや、その年齢でそういう風に考えられるのはエライですよ。世の中には80を数えても反省のはの字もない人がいますよ。うちのしょーもない親戚だけど。

 自分で、つい悪口言ったり愚痴言ったりはいかん、と思うだけえらい。
 とはいえ、おっしゃる通りで「我慢」は所詮、「我慢」なんですよね。我慢、抑圧というのはむしろストレスになり、かえって悪い結果になることもあるので、オススメはしない。短期間だったらまだいいけど、この先何年も何十年もあることなら、我慢、てのは無理がある。

 回答者それぞれのお答えも面白かったですね。ただ、私、壇蜜さん好きなのでつい、相変わらずおキレイで♡ って喜んでいたら回答を聞き損ないましたが(笑)
 面白かったのは予防医学の先生で、
「女性はストレスを受けると、なんとかという女性ホルモンが出る。これは人との繋がりを求める作用がある。でもストレスを受けている状態のときに人に会うとどうしても、話は愚痴っぽくなる。
 ゆえに、その女性ホルモンを出さなければいいので、筋トレをするといい。筋トレをすると男性ホルモンが出て、女性ホルモンの方は抑制されるから」

 面白い(笑)

 ここで話題に上った女性ホルモンは「オキシトシン」だったような気がしますが、うろ覚えではあぶないので「だったかも」にとどめておきます;;

 ストレスを受けると、人との繋がりを求めるホルモンが出るというのは、でも、個人差がありそうです。
 私はそういう状態になるとむしろ引きこもりモードになるので、人に会いたいどころじゃなくなる。
 筋トレするまでもない(笑)

 私も自分の愚痴っぽさと怒りっぽさには悩んでいたこともありまして。おかげさまで現在はだいぶ改善されています。
 つまるところは「習慣」だな、というのが今は思うところ。
 
 あとは——些細なことですぐイライラしたり、あるいは愚痴になる、本来どうでもいいはずの他人のことでいちいち愚痴になる、というのは、結局は、自分のことを認めていないから。
 承認欲求とかそういうことを言うほどのことでもないレベルだと思いますが。

 自分で自分を見下しながら、人さまのことを認める、敬意を払うと言うのはできることじゃないです。

 このへんはまったく「心の反射の習慣」なので、理屈はいい。原因が何とかなぜそうなるとか、考えなくてもいいし考えても無駄。

 私のオススメは、「鏡で自分の顔を見たら、目と目を合わせてニッコリ笑う」です。

 これがすぐにできる、と言う人は、精神面にはおおむね、問題らしい問題はない人でしょう。
 私は自分に向かって笑いかけるなんてことは、殺されてもできない、と思ってましたからね、最初は。
 それくらい、自分が嫌いだったし、鏡で自分の顔を見ていると、言葉で人を殺せるレベルのことならいくらでも言える。そんなところにいました。

 そう言う怒りとも恨みとも憎しみとも言えるものを持ちながら、人様のことを素直に認めるとか、できるわけないですよ。
 つい、イライラして愚痴になる、と言うのは、他人に対していっているわけじゃない。
 本当に怒っている相手は、他人じゃなくて自分。
 
 自分で自分が嫌いで気に入らなくて、もうとにかく文句と悪口を言いたくて仕方がない。
 でも、なぜか、それを他人に「投影」してしまうんですね。
 その愚痴の「水源地」は自分の中にある。
 自分で自分を、気に入らない、キライだ、という感情がある。それはいつも出口を探してる。一番てっとり早い出口は、他人、なんですよね。

 ぐちぐちいうのを「我慢」しても、3日と持たないでしょう。
 それよりも、愚痴の「源泉」から手当てした方がいいし、確実。

 鏡を見てニッコリ笑う。難しいなら無理矢理でいい。1秒も持たなくてもいい。とにかく、たとえ百分の1秒でも自分に向かってニッコリする。

 これが最初の、でも最大の関門かもしれませんね。ここを通り抜けると、「自分を嫌っている感情を乗り越える」という経験の元になり、なんとなくですがコツみたいなものが見えるので。

 それができたら鏡の中の自分を褒める。かわいいね、でもキレイだね、でも、かっこいいねでもなんでもいいんで。
 そこから改善していくステップはいくらでもありますが、とにかくこの、「自分で自分にニッコリ」が最大のポイントになるので。

 へんな怒りは自分の中から。——他人に向けて出るのは「ガス抜き」でしかない。ガス抜きしてやっと日常のバランスを取っているのにそれをすら止めてしまったら、そりゃもう爆発くらいは起こします。
 放置もいかんし我慢も良くない。

 怒りの源泉をとめてしまおう。

 安全確実な方法として、「鏡の中の自分にニッコリ」、オススメです。
 
 
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歌のいのち



 昨日はちょっと面白いところから、大晦日のあの紅白歌合戦に、好きなアーティストには出て欲しいかどうか、なんて話題になりまして。
 
 12歳の頃からずーっとファンをやってます小田和正さんは、あれはもう明らかにご本人のポリシーとして、テレビ番組には出ない、ということだったようです。
 何がどう気に入らないのかは存じませんが、ともかく当時はにぎやかだった「歌番組」はひたすら無視。ちらりと聞いたところでは、テレビでは小田さんが満足できるような、設定なのか設営なのか演出なのかその全部か、ができないから、とにかくイヤだ、ということでした。
 ——が、これも噂程度の話なので事実かどうかは存じません。

 オフコースとして出演で記憶があるのは、確かTBSさんの特番で「NEXT」。
 これはべったりオフコースだけの番組でした。今でも、あれってなんだったのかなと不思議に思う…。
 で、NHK教育テレビの「若い広場」(でしたっけ?)での、アルバム制作密着ドキュメントみたいなもの。
 ………くらいしか記憶がない。

 驚くほど職人気質(かたぎ)の方だし、ファンとしてはある意味達観せざるを得ない。ま、別に紅白歌合戦に出て欲しいとも思わないしな——と、過ごしていました。
 が、1991年でしたか、「ラブストーリーは突然に」が、CDシングルとしては初の100万枚を超えるヒットとなり。
 あのときばかりはさしもの小田さんも、紅白ではありませんが他の年末の音楽賞にご出演となりました。

 おお、ついに小田さんが「陥落」したか、と思ったんですが、でもそれも結局——ご自分のコンサート会場からの中継という形だったので、笑ってしまったのを思い出します。
 ………そんなに嫌なんですか、テレビ局って(笑)

 その大きな音楽賞も権威を失墜させてから久しいし、紅白歌合戦は、毎年、視聴率が伸び悩んでどうこうと騒がしい。

 それでもなくならないし、まだこうやって、紅白に出てほしいという声も、消え去ることもない。

 考えてみれば面白い現象なんですが、それでふと思い出したのは冒頭にあげました、シンガーソングライターの佐藤龍一さんのツイート。

みんなのものであることが、歌の命だった

 こちらは、例の、JASRACさんの件に絡むツイートの中のひとつですが、印象に強く残りまして。

 権利保護自体には反対ではないが、極端な規制はその命を消してしまう、という危惧ですね。

 歌は、人に歌われてこそその輝きを得る。
 なるほどなあ、と。
 紅白歌合戦がいまも継続するのは、ここに理由があるかもしれないな、と、ふと思いまして。

 なんだかんだ言っても未だに「紅白歌合戦に出る」ことを「成功」基準とみなす人も多い。
 それはなぜかというと、紅白歌合戦はかつては「誰もが知っている歌」が一堂に会する、そんな「贅沢な」「夢の舞台」だったから。
「みんなのうた」の祭典だったんですよね。
 その祭典に参加することはつまりは、その歌が「みんなもの」となり、いのちの輝きを得られたことを意味したから。

 価値観の多様性をよしとする世の中になってきつつある現在は、どんなに大ヒットした歌であろうとも、その「クラスタ」(区域)は細分化してしまい、クラスタに属さない人、そもそもそんなクラスタがあるとさえ知らない人は、「そんな歌があったの?」みたいなことになってるんですよね。

 ほんの少しでも、そういうクラスタ同士を集められる場所。
 それが、紅白歌合戦がいまもまだ残っており、同時に、なにかしらの「権威」を保っていられる理由。

 ………ではないかなと思ったんでした。昨日。
(ああ長かった。(^^;))

 昔は、好きか嫌いかは別にして、「みんなが知っている歌」があった。
 現在はなかなか、そういう歌も曲もない。
 ディズニーの「レリゴー」くらいなもんかなあ……「誰もが知っている」と言われて私が思いつくのは。

 レコ大であれ(……あ。言っちゃった)紅白であれ、そういう「歌の本質」に立ち戻れれば、今の惨状から抜け出せるかもしれませんね。

 ま、価値観の多様性、という時代の流れみたいなものは変わりませんし、別に変える必要があるわけでもないので、無理に、「みんなが知っている」状況にしようとする必要もないでしょう。

 でも、歌の本来の姿も、忘れずにいたい、とも思います。

 なにごとも「行き過ぎ」はよろしくない。
 ………JASRACさんみたいに道を踏み外されても困るんだよなー……(ボソッと)
 
 
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「敷居が高い」

 ときどき「発作」のように言いたくなってしまうのが、日本語の誤用。

 たまたまなのか、一度気になりだすとますます気になるという現象なのか、耳にする機会が重なってしまい、ちょっとイラついているのは「敷居が高い」。

 少なくともこの1週間の間、数回にわたって、
「〇〇店さんは高級、というイメージがあって、ちょっと敷居が高いんですけども…」
 という表現を耳にしまして。

 個人の会話じゃなくて、テレビ番組中で。

 これが本なら「この(版元の)会社には校閲がないんか!」と怒るところですが、テレビ番組ではなんといえばいいのでしょうか。
 情報番組っていうのかなぁ、そういう中での会話に登場するんですが、これを数回にわたって聞いてしまいまして。

 1回2回なら、ちょっとした「言いまつがい」かな、で通過できるんですが、あんまり回数が多くなると、もしや誤用がそのまま広まってるんだろうか? と不安になりまして。

 他に、これもう絶対違うんだけどなあ、という誤用が「悩ましい」。あと「何気に」。
 後者は完全に口語ですから(……そのはずだけど今後、文語にも入り込んできたらやだなあ;;)まあいいとしても。

 敷居が高い、は、でも、今のうちに直せる人には直しておいてほしいなあ。

 高級店だから敷居が高いよね、というような場合は、お高い店なのでそう気軽には入店できない、行きづらい、という意味なんでしょうが。

 敷居が高いってそういう意味じゃないですから!

 これは、たとえば仲の良かった友人がいたとして、でも些細なことで大げんかしちゃって仲違い、こうなるともう友人宅にも気軽には行けない、顔を出しにくい……という場合。
 すっごく恩義がある人で本来なら挨拶にも行くべきところ、でもまだ借りたお金を返してなくて、合わせる顔がない……という場合。

 そういうときに使う表現なんですよね「敷居が高い」って。

 確かに、気軽に行けない、という意味ではある。あるけれども理由がぜんぜん違います。
 不義理をしている、あるいは申し訳ないことをしてしまって後ろめたい、顔を出せない…というときに、敷居が高い、と申します。

 それくらいいいじゃない、と言われそうですが、でも、こういう「解釈」の違いから、ものすっごい誤解が生じることもあるんですよね。
「御門違い」という言葉は本来、相手の見当違いを指摘する言葉なので、「オマエ何をバカなこと言ってんだよ」くらいのニュアンスになる(ことがある)。

 でも、ただ単に「担当部署が違います」くらいの意味だと思って「御門違い」を使った人がいまして。
 あたしゃ危うくその人と喧嘩になるところだったですよ;;
 念のためと思って確認をとったらそういうことで、解釈が違っているのだとわかって収まりましたが、……カンベンしてくれと思いましたわ;;

 こういう誤用を指摘されても、でもだって、と変な言い訳をして訂正しようとせず、「そんなどーでもいーことにこだわってバカじゃない」みたいなことを言って開き直る人もいますが、——そういうものでもないんですよねえ…。

 言葉は変化するものであるというのも、これは言葉をちゃんと使える人がいうことなんであって、ただ勉強不足なだけの人が言い訳にするにはあまりにも見苦しい。

 ただ、どのみち言葉でのやり取りには、そりゃどーしたって精度の限界はあるもので、多少の理解の齟齬があっても、言いたいことがなんとか通じればいいやとも思うので、普段はいちいち指摘はしないんですけど。

 私も時々——花粉症が発症するには、ある限界量を超えたときに発症する、みたいに——ある程度までの許容量があり、それを超えると我慢の限界でわっと喋り出すことがありまして。
 だから自分では「あー、また例の発作だ…」と思うんですが。(^^ゞ

 でも、小さな行き違いから大きな喧嘩になることも、あるっちゃあある。気をつけていて損になることでもないと思います。
 ので、意味の解釈に気がついたら、そのあたり、ご配慮いただければありがたいです。

 あと、「馬鹿の一つ覚え」という言い方がありますが、誰かがポンと言った言葉がやけにウケたので、みんながみんな同じことを、しかも回数を重ねていう現象にも、私は耐性がありません(笑)

 最近は良くなりましたが、以前には「絶景」と「絶品」の乱用がホンッッットに酷かった;;
 地元テレビ局の情報番組で、絶品絶景を繰り返すばかりで何も説明しないという事態が続いていたとき、さすがに頭にきてしまい、「絶品もしくは絶景を3回言ったらチャンネル変えるから」と言っていたら、ものの10分ともたなかったということが。(^^;)
 あれは酷かったなー……。

 最近はそう耳障りなこともないので助かっております。ありがたいことです本当に;;

 ああいうのって流感みたいなものかなあ;;

 私も、この発作、少しでも爆発する回数を減らせるように精進したいと思います;;
(人間が練れていないのは認めます;;)
 
 
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不滅にも近く

 本日は222(にゃんにゃんにゃん)で猫の日でございます。
 だから何をすることもないのですが、ねえやっぱり可愛いよねえと呟いておこうかなと。(^^ゞ
 私は単なる猫バカでして、この上にある「猫キチ」様には叶いません。でもって、その猫キチさえもひれ伏すのが、岩合光昭さんという、「猫の神様」という存在。(^^;)

      ●

ペットの生前の姿、ずっと そっくり人形が飼い主癒やす
2017年2月21日07時54分 朝日新聞 DIGITAL / 祝迫勝之

 これは動物でも人間でも同じことなんですが、「形」に執着する人ってあるんだなあ。と。
 形、あるいは物質。

 可愛がっていたペットのクローンを作る、というのは実際すでにあることで、あれは、私には不思議な気がしました。
 たとえ遺伝子情報は「完コピ」されたものであっても、命というのはひとつそれ限りですから、以前にいた子と今いる子は、別の存在。
 その辺についての「整合性」ってどう取ってるんだろうと思ったら、以前、テレビ番組のインタビューで聞いた答えは、「とにかく”形”が同じであること」が大事で、これが満足されているならいい、ということでした。

 この「ペットの生前の姿そっくりの人形」も、それと同じなんでしょうか。

 私は仏教的世界観・価値観が骨髄まで行き渡っているようで、こういうあたり、ちょっと理解が及ばない。

 肉体を持って存在している、その奇跡と重大性はよくよくわかってはおりますが、でも、物質面さえ満足されれば満足だという感覚はない。

 むしろ、クローンでは、「別の個体の”身代わり”にされ、その子自身としては愛されない」ことに、なんとも寂しい気持ちになる。
 人形であればその辺の配慮は不要になるので、まあ、クローンよりはいいか。と思ったり。

 これは動物のみならず人間にありますよね、ご遺骨を加工してダイヤモンドにし、それを手元に残したり実際、身につけたりする、という。

 物質って、そこまで大事なものだろうか? というのが私の疑問。
 
 物質に執着することを非難してるんじゃなくて、物質に執着しすぎることで、すでに世に無い「本人」を、置き去りにしているように思えるから。

 脳死に至った方について考えても、全く、この世の存在というのは、物質と、物質「以外」が揃ってこそ、であり、双方が揃うことは本来は凄まじいほどの低い確率であり、その微小な確率を獲得した存在はすべてが「奇跡の存在」なのだ——と実感されます。

 いろんな別れかたがあって、その別れかたによってはあまりにも心残りで、もういない、ということが受け入れがたく、物質への執着になってしまう、というお気持ちは、わかる、と思います。

 でも、物質に「だけ」固執するのは、物質「以外」の部分を、かえって置き去りにしているように思えるんですよね、私には。

 私はお墓にはいません、という歌もありますが、どこか違う場所なり、ものになりして、存在している——そちらの方へ、意識を向けてあげた方がいいんじゃ無いかなと思います。
 と申しますのは、物質「以外」のものの方が、その存在の「本質」に近いだろうと思うゆえです。

「本質」はあくまでも、物質と物質以外のものの融合ですが、それが解けた状態であるなら、物質「以外」の方が根元に近い。
 物質はいずれ必ず滅びるけれど、物質「以外」のほうは、不滅の存在によほど近いところにいるから。

 物質が滅んだときの別れが辛かったのに、クローンなり人形なりで、またその別れを繰り返す(その可能性を引き込む)のは、——自分がつらくなるだけでは?

 物質が滅ぶときの別れは仕方がない。そのあとは、物質「以外」の、不滅に近いところにあるものに目を移せば、もう、別れは二度とない。

 こっちの方が相手にも自分にも、幸いなんじゃないだろうか? ——と思うわけです。

 死は2度訪れる。まずは肉体の死。そうして人々から忘れられていくという「2度目の死」。
 ………なんてことを言いますが、物質に執着すると、この1度目の死の別れを何度も自分の経験として繰り返しかねないわけで。

 自分が生きて覚えている限り、2度目の死はなく、別れは2度とない。

 私がこの手の「物質に執着する」人を見るとなんとなく落ち着かない気持ちになるのは、もちろんご本人の精神衛生が気になることもありますが、どっちかつーと、物質にこだわる間に放置されている存在の方が、気の毒になってしまうから。

 ……でもまあ、どっちにしても大きなお世話なんですけどね。(^^;)
 
 
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名言の我田引水

 本日はちょっとばかり、お休みでもないんですがあっさりめで参ります。
 
 昨日はなかなか派手な低気圧が来ておりました。台風や低気圧の影響でめまい、立ちくらみを起こすのはよくあることですが、昨日は1〜2秒、失神したらしくて、なかなか派手にぶっ倒れまして。
 席から立ち上がり、伸びをしたらふーっと立ちくらみのような感覚が来た。
 と思った次の瞬間には倒れていた、という次第。
 幸い打ち身くらいで大したことはありませんでしたが、昨夜はさすがに痛くて、あんまり書けなかったので;;

 昨夜はライブレポというより単なる感想をだらだら書いていたのと、初めてやってみたんですが、記事に公開制限をかける設定をしておりました。
 ということで、本文はほぼ、何にも書いておりません。(^^;)

        ●

 ご本人はそれほど深い考えもなく言ったことが、でも他人からするとなかなか感銘を受けるもので、それが人から人へ伝わり、名言とか格言になっていく、ようですね。

 最初から名言なり格言なりにしようという意図で書かれたものってあんまりないんじゃないかな。

 でも、これは発言者本人からしたら、相当、不本意だ、ということも多いかもしれません。
 伝言ゲームをやればわかる通りで、人から人へ伝えていく、というのはアブナイものですよね。尾ひれがついたり、肝心なところを省かれて意味が違ったり。

 ひどいときには本人が言ってもないことを言ったことにされている。これはひどい。(^^;)
 寺田寅彦博士の「天災は忘れた頃にやって来る」、夏目漱石が I love you を「月がきれいですね」と訳した——というのはいずれも『伝承』に過ぎません;;

 マリーアントワネットの、「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」も事実無根だそうですから、これはもうお気の毒としか言いようがない。

 ということで、名言とか格言とかって、あんまり他人に向けてひけらかしたり、自分の主張したいことの補強に引用するなんてことは可能な限り、避けた方がいいなとも思います。

 格言や名言の意味は、他人に対してどうこうするよりも、自分の中で何か響くもの、そうなのかと思えるもの、迷いをふと払ってくれるものであり、だから大事にする。そういうところにあるんじゃないでしょうかねえ。

 たとえその言葉が「偽物」「誰かの作り話」だとしても、その言葉に自分なりにそうかと思えるものがある、それを自分なりの「教本」としておく——、格言は、そういう程度にしておいた方がいいでしょうね。

 私としては名言格言との「距離感」はそういうものなんですが、——発言者の意図をちょっと聞きたい、と思うものがひとつ、ありまして。

 マリリン・モンローの言葉だそうですが。

男性と平等でありたいと求めるような女性は、野心が足りていない
Women who seek to be equal with men lack ambition


マリリン・モンロー名言まとめ(日本語、英語)より


 これ、どういう状況でどういうときに、どんな文脈の中で語られた言葉だったのか。
 どういう「意図」を持って放たれた言葉だったのか。

 いくつか考えられることはあるけど、発言周辺の事情がわからないと、推定もできない。

 であるにもかかわらず——格言に「されてしまう」ことの怖いところだなと思ったのは、この言葉を引用して、従来型の「男尊女卑」社会を正当化するご意見を見てしまったため。
 
 いやそりゃいくら何でも無理があるんじゃないすか?(困惑)

 マリリン・モンローは確かにフェミニストが訴えるように、女性性を「放棄」する趣味はなかったようですが、だからって、彼女の人生を見たとき、伝統的な、保守的な、男尊女卑の、男性にとって都合のいいばかりの女になることで生き延びようとした人だとも、とーてーもー、思えないんですけどねえ……。

 この言葉を引用してのフェミ叩きは無理がありすぎじゃないですかね。

 フェミ叩きはべつに構いません。そんなのは昨日今日の話じゃないしこの先もなくなりゃしないでしょうから、好きに言ってろと思うだけですが。
 ただ、あまりにも、発言内容に合っていないものを無理矢理に持ってこられると、その「理屈として成り立たない」ところが気になってしまいます。
 フェミ叩きの主張なんかどーだっていいけど、言葉といえども「他人のもの」を、自分勝手に扱おうという態度は認めがたい。
 これは私の性分です。
 
 彼女自身の人生を見れば、そういう意味で言ってんじゃないだろこの言葉、とは思うけれど、でも、どういう意味なのか、とは——なかなかこれだけでは推測すら難しい。

 上記でご紹介したページには、彼女の「名言」がいくつか紹介されています。
 他の言葉を参考に考え合わせてみると、おぼろげに見えてくるものもあります——、が。
 確定的には、こういう意味だろう、とは、言えませんよねえ……。

 厳密に考えれば、他人の「言いたいこと」を正確に理解するなんて、滅多にあることじゃない。
 まして、伝言ゲームになっていく、「名言・格言」は、本人の意図とはまるっきり違う解釈で、世間に広がることもあるだろうな——と、あらためて思いました。

 この言葉の、前後の文脈くらいは、ちょっと聞いてみたいな。(^^;)

 自分が言った言葉が理解されないときの、寂しい、虚しい気持ち。
 それを思い出すと、過去の偉人といえど、あんまりひどい扱いはするもんじゃないと思うので。
 
 
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袋井たまごふわふわ

 昨日は、 「ONE OK ROCK 2017 “Ambitions” JAPAN TOUR」ということで、エコパアリーナへ行ってまいりまして。
 本当ならそれについて書きたいところ、セットリストはもちろん具体的なことを書く、「ネタバレ」はご法度、とのことなので、書くに書けない;;

 どうしても舞台美術や演出、演奏について書かないわけにはいかないところがあるし、それを避けて書くには至難の技だし、やってもいいけどものすっごい「思わせぶり」な仄めかしの連続になってしまう。
 久米仙人が陥落したチラリズム的なものは嫌いではありませんが、もったいをつけるというのは気分が悪いもの。私自身がそういうのが本来的には嫌いなんですよね。
 そんなの書いていたらかえってストレス溜まりそうだし。

 何より、あんまり遠回しに書いていると、自分で後で読み返したときに、「なんだっけこれ?」と自分でもわからなくなっていることがあるので(本当;;)、やっぱりそんなの書きたくない。

 ということで、ちゃんとバレバレなのを書いて、それを「限定公開」にしようと思います。
 限定公開って今まで一回もやったことないけど。(期間限定ならある)

 ブログ全体ではなく、エントリー単体でも、いわば「鍵付き」の設定はできるはず。
 パスワードを設定しておけば、いくらなんでも「うっかり目に入った」はないでしょう。
 設定方法を調べてきます。

      ●

 ということで今日のところは袋井名物「たまごふわふわ」を。

 東海道五十三次、袋井(ふくろい)宿の本陣(ざっくり言えば殿様の宿泊施設)で提供されていたものだとか。
 本陣の宿泊者のためとなると、どこまで一般的だったでしょうか…。本陣は地元の有力者、庄屋さんなどがその任を請負うので、現在の旅館のようなものとは性質が違うんですよね。
 一般庶民は利用することはなかったでしょう。
 袋井市観光協会さんの「たまごふわふわパンフレット」を見ても、将軍に供された料理でもあり、豪商や武士が食べたものであって庶民には関係なかった旨、書いてありますね。
 ………ま、そうだろうな。卵自体が、現在と違ってちょっとした贅沢品でもあったでしょうし。

「袋井宿 たまごふわふわ」
袋井市ホームページより

 簡単な料理のようでいて、一度はその作り方の伝承も絶えてしまい、「まぼろしの名物」でした。
 が、それが再現されて現在ではいくつかのお店でいただける、とのことでしたので。

 エコパまでいくなら、たまごふわふわを昼食にいただきましょうか、ということに。(^-^)

 たまごふわふわは現在、その昔のレシピを再現したものをいただけるお店と、これを元にアレンジした創作料理やお菓子をいただけるところがあるとのこと。

 まあせっかくなので。今回は「再現系」で、と思い、袋井駅から徒歩3分の「山梨屋寿司店」さんへお邪魔しました。

ご当地グルメ特集 袋井たまごふわふわ(各店の情報)

 山梨屋さんから1、2ブロック先にある「遠州味処とりや茶屋」さんにも再現したものがあるとのことでしたが、あいにく昨日は貸切になっておりました。

「山梨屋寿司店」さんでは「たまごふわふわセット」がありましたので、こちらを。
 まずはお寿司から♡
 なんでこうお寿司屋さんの卵焼きって美味しいのかな♡

袋井たまごふわふわ - 1

 そして、こちらが「たまごふわふわ」!

袋井たまごふわふわ - 2

 このフワフワ感、泡のクリーミーな質感、……お分かりいただけるでしょうか;;

袋井たまごふわふわ - 5

 時間が経つとこのふわふわはどんどんなくなって行くのであんまり悠長に写真ばかり撮ってもいられない(笑)

 作り方としては、だし汁(すまし汁)の上に撹拌した卵をのせて、蓋をして蒸す、というのですが、これ、簡単そうでなかなか難しいそうです。再現もかなり苦労したそうですね。

 同じ再現系でも少しずつ各店でお味も異なるようですが、山梨屋さんのものは、まず卵自体にちょっと甘さがあり、お出汁との塩気とあって飽きないお味。
 出汁がよく取れていて美味しい。うっかりするとこれだけで一気に食べてしまいそうでした(笑)

 完食!
 ごちそうさまでした!

袋井たまごふわふわ - 6


 ライブ会場での限定販売CDは買い損ねましたが(涙)、でも、たまごふわふわ、念願かなっていただけましたので、これはありがたいことでした。

 今回同行してくれたTさんは、同じ再現系のたまごふわふわでも、「遠州和の湯」さんの「とらふぐ入りたまごふわふわ」に強く反応していたので(笑)、また機会があれば行ってみましょうか(笑)
 和の湯さんは駅からはちょっと離れるので、今回は見送ったんですが。

 パンフレットにもありますが、こちらの幟(のぼり)が、たまごふわふわがあるお店の目印。

袋井たまごふわふわ - 7

 ちなみに、再現系のものは大抵がごく軽いもので、これ単品でお食事になるわけではないので(茶碗蒸しがわりに頼む人もいるとか)、お食事とともにぜひお試しを。
 
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教養とは何か

 明日はお出かけのため、こちら、おやすみいたします。m(_ _)m

      ●

 うちの猫が風邪をひきまして。
 猫風邪といえどバカにはできないものでして、また猫エイズ陽性の子なのでなおさら気を使うところがあり、ちょっとドタバタしていて時間がないので、あっさり目ですが。

 簡単に口にするしよく耳にもするけれど、説明してみろと言われると、びっくりするくらい何も説明できない、そういうものがあります。

 自分の日常に馴染みすぎていると、こと改めて、なぜとかどうしてとか考えないものですね。

「教養」というのも、そのうちの一つ。
 あの人には教養があるとか、教養が足りないとか、わりと簡単に口にしますが、しかし——「教養とは何か?」と言われたら、なんと説明しますか。

 単純に「教育による知識」だけなら簡単ですが、あの人には教養がある、というときは必ずしも知識量のことではない、それこそ品位だか品格だかをイメージすることもあるし、学歴ではなく、その人のなんらかの「魅力」を、そんなふうに表現することもある。

 言われてみると教養の説明ってできないなあ、と思っていたら、西洋史(中世)の阿部謹也先生が、ズバリ、「「教養」とは何か」という本を書いていらして、こういう先生が丸々本1冊書いちゃうようなテーマなんだな、と思ったら、そりゃー通常の人の手に負えるわけないわ、と。(^^;)

 単純に見えるものほど、「本質」を探ると複雑な「回路」に入っていく。

 それはわかるけど、でも、何か、本質をズバリと言い当てることってできそうな気がするんだけどな——と思っていたところへ、こちらの画像を見つけまして。

人の心がわかる心を教養という
http://yukafukuoka.tumblr.com/post/107992498708

 私はまずはピンタレストで見つけたんですが、この名言、「出所不明」とは…。

 ともあれ、見た瞬間、「それだ!」と思いました。
 単純に知識というときは別としても、それ以外のとき——誰かの品位品格を褒めるとき、認めるとき、心惹かれるものを表現したいときに使われる、そういうときの「教養」は。
 突き詰めればこれになる。

 思いやり、というのとは、またニュアンスが違う。
 わかる、というとき、思いやりとさえ他人には気づかなせない振る舞いや言動になるんじゃないでしょうか。

 必要な言葉、必要な沈黙、必要な手配——、それらを受けた人さえ、その場では、「わかってもらえている」とは気づかないくらいの、「見通す目」。

 それを、教養、と言っていいんじゃないだろうか。

 これは必ずしも知識や経験とは関係なくて、その人の天与の感性としか、言いようの無いときもある。だから、教養とは何か、と、その定義を具体的に考え出すと、何やら正体不明でわけわからん、という感じになるんですが。

「人の心が わかる心を教養という」

 なるほど、これだ、と思いました。

 阿部先生のお考えでは教養というものは「世間」つまりは人間の社会があって初めて存在するもの。他者がないところに教養はない、ということが含まれているんですが、「人の心がわかる心」であれば、教養は「世間」「他者」との関わりの中に現れる、という考え方にも合致する。

 思いやりとは違う、——なんていうとまたややこしく思われるかもしれませんが。(^^ゞ
 思いやりは「情」ですが、人の心がわかる心は、情だけではなく、ある程度の学識なり経験なり合理的な判断をも「根拠」としている。

 情以外のもの——知なり理なりをも、育ての親とするもの。

 だからなんだと言われると困りますが、これ、長い間の「考えごと」の一つなので、「それだ!!」と、わかったときは嬉しくなるものでつい。(^^ゞ

 私にとってはこういうことも立派な「遊び」になるので、またこんなことで遊んでいるのかと聞き流してやってください(笑)


 それでは、皆様良い週末を。
 週明け月曜日にお目にかかります。m(_ _)m

 
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ご褒美をくれる人

 まだどーでもいい話になりますが。
「自分にご褒美」というのが、どーにも違和感ありまして。

 で、たまたまテレビを見ているときにこの「褒美」なるものがどういう言葉かを解説していましたが、やはりこれは、「上位の人から、下位の人へ贈る」という意味のことばなんですね。
 今はテレビ時代劇もほぼなくなっているので見聞きする機会もないんでしょうが、昔のエライ人が「褒めてとらす」なんていうの、あれが「褒美」。

 褒めてくださるのはいいんですが、それ、現代口語でいう「上から目線」なんですね。素晴らしい、と感動した感じというより、わーすごいね、よくできたね〜。という感じかな。

 で、その「褒美」がさらに丁寧語になって「ご褒美」になった場合、この「御」は誰に向かってかしこまっているかというと、当然、その褒美をくれる人(=偉いさん)に対して丁寧に言っているわけで。

 そういう感覚——「語感」があると、「自分で自分にご褒美」って、「はあ?」ということになります。

 かーなり以前から「自分にご褒美」ってのは変だなあと思いつつも、なぜ変だと思うのかが掴みきれなくて、モヤモヤしてたんですよね。
 で、褒美という概念、「ご」がくっつく上下関係が「自分」に持ち込まれる、というところで、概念として混乱したんでしょうね。

 ということで私自身は「自分にご褒美」という言葉は使いませんが、行動としてはやってると思いますね。
 ただ、それをいちいち認識しないというか——ちょっと緊張する場面を含む、ややこしい案件があってそれが片付いたときは、もう軽くお祝いしたい気分でふだんはやらないようなことをしたり買ったり食べたり飲んだり。

 そうやって自分なりにアクセントをつけるというのか、ちょっとした「解放」をする、というのは、名前をつけてはいませんが、まあ、やってることだよな、と。

 それにいちいち名前をつけるという発想がない。
 故に、「自分にご褒美」というのを聞いたときは、なんでそんなこと言うの? と少々、驚きました。言い訳、口実、と言う人もいたけど、でも——だとしても——だとしたら——、かなり自分で自分をぎちぎちに縛っている、ストイックな人なんじゃないだろうか、と思いまして。

 自分へのご褒美、というのを語義に従って解釈すると、上位の自分が下位の自分に「よくやった」ということになる。
 一言で自分といってもいろんな「層」があるので、上位の自分、下位の自分というの、なんとなく、わかるような気もしますが。
 自分で自分を厳しく律したり、縛っていたり、あるいは「監視」している。
 そういう緊張感がある人には、(私が持ったような)違和感どころか、「実感」なのかもしれない。

 何かと抑圧が強いのかもしれません。ああするべきこうするべき、そうする「べきじゃない」、そうしなければならない、……そういう声に、支配されていることが多いのかも。

 ストレスは健全なレベルならむしろ必要ですが、抑圧となるとろくなもんじゃない、というのが私の思うところ。
 自分の行動のほとんどが、「〜したい」ではなく「〜するべき」「〜しなければならない」から始まっている、と気が付いたときは結構、ショックでした。
 口癖が、「〜しなくちゃ」「〜しないと」になっている方、このへん要注意かもしれませんよ。(経験者は語る)

 上位の自分から下位の自分への「束縛」「抑圧」と考えると、その「上位の自分」てなんなのか?
 その「正体」は?

 全部が全部じゃないでしょうが、「〜しなければならない」を「命じる」「上位の自分」の正体は、親、ということが多いようです。

 実際の親がそうかどうかとは関係なくて、子供のころ、何気なく親が言ったことに衝撃を受けていたり、「こうしないと親に見捨てられてしまう」という思い込みのこと。
 そういうのは本当に無意識に、「思いクセ」として刷り込まれてしまうことが多い。

 上位の自分は、自分がイメージとして持っている親や先生といった人々かもしれません。

 子供の間はそういうものに支配されてしまうとしても、もう大人になった今は、そういうところから自分の意思で抜け出せる。
 その感覚を覚えると、「自分へのご褒美」という言葉を、自然と使わなくなるかもしれませんね。


 本来なら自分の自由意志でできることにさえいちいち「ご褒美」という「言い訳」を持ってくることを不思議にも思っていましたが、そんなふうに考えると納得できる——という、そんな程度のお話なので、ま、気軽に聞き流してやってください。(^^;)

 ただ、自分にご褒美ってのはオカシイよ、という、その点についての意見を変える気はございません。(^^;) ……意固地のつもりはないんですけど;;

 自分にご褒美、というのを多く設ける人は、本来、すごく真面目だと思うんですよね。自分では、その制約を外すと、自分がとんでもないことをしそうな気がしてちょっと怖いかもしれませんが、根が真面目なんだから大丈夫。
 ご褒美なんて言わなくても、ちゃんと自分でそのへん調整できる人ですから、「上位の自分」なんかつくらなくていい、自分が好きなふうにしていい。

 そんなふうに思いながら、現在では、あの「自分にご褒美」という言葉を聞き流しております(笑)
  
 
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メモ:言いわけ

あんまり「昔話」をするものじゃない、しても意味ないのかもしれないけれど。
たぶん、ご存知ではないことを少し。

あの頃、私がどんな話を聞かされていたか——それを聞いたら、ずいぶん驚くかもしれない。
最初は笑っていられるとしても、度重なるとそうもいかなくなって。
否定できる材料を何も持っていないことに気づいても、質問もできなくて。
頼みの綱は、細くなっていくばかりだったし。
否定する材料どころか、むしろ、耳にした話は事実なのだと証明するかのようなものさえ、
そこにはあった。
疑いが濃くなって何をしているのかわからなくなって。

何があったのかとでも、聞いてもらえたら、少しは違っていたかな。
それとも、
それでも、
同じことだったかな。
でも、きっと迷惑をかけていた。

暗い穴に落ちて、頭上からは土が落ちてくる。

正気を失っていることは自分でもわかっていたけど、他にどうしようもなかった。

許しを願えるような資格はない。
それくらいはわかってる。

それでもなお、立ち去ることも動くこともしない自分に驚いている。
ばかだと思うでしょう。
じっさいばかだけど。

やさしいうたを、ありがとう。
あんなふうに言ってもらえる資格はないけど
嬉しかった。ありがとう。

私は相変わらず、ここにいます。

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