おおつごもり 2016

 大掃除、概ね完了。

 今日はもう「ブログ休みます!」と叫ぶことになるかと思いましたが、まあまあなんとかなったようです。
 まだ大掃除、完了してはいませんが、あと2、3、済ませれば、なんとか妥協できるくらいには(笑)
 どのみち掃除というのは終わりというものはないもので、どの時点でどの程度の状態にしたいか、するか、それだけですもんね。

 とはいえ大掃除スケジュール、今年は順調&余裕で、大晦日もバタバタしないで済むと思っていたのに、思わぬ怪我をして1日半、何もできなかったというのは痛かったねえ;;
 それでも1日半で済んだともいえます。今日あたりはもう、ほぼ、通常通りに右腕を使っているので、助かりました。

 多少、ものを持てないとか、動きに気をつけることもありますが、ほとんどは支障なく動作できるので、午前中に一気に集中してできたからよかったです。

 本格的に靭帯なり腱なりを傷めたんじゃないんでしょうね;; もちろん多少の損傷はあるんでしょうけども、何日も腕を吊っていないとならないというような怪我ではないようです。腫れがあったのは確かで、腫れが引けばおおむね、なんとかなるレベルってこと。

 とはいえ、あああやってしまった! と思ってすぐ整体院で見てもらえたのが大きかったな。本当に、無理を言って申し訳なかったけど、よかったです;;

 現在、重いものは持たない他は、意外と掃除用スプレーに気をつけてます。指先のことではありますが、トリガーを何度も連続して引いていると、あ、これマズイ、という感覚に襲われるんですよね。どういう関係かはわかりませんが。

 ともあれ、本格的な怪我ではなかったようで、ありがたいことでした。

         ●

 ということで2016年、平成28年も本日で終わり。
 今年1年、おつきあいくださいました皆様、ありがとうございました。m(_ _)m

 今年のまとめとか「振り返って」とかは……うーん;; あんまりやりたくない気がしますが。(^^;)
 なんてことを言うようでは、あんまりいい1年だったとは思ってないってことですね;;

 今年の前半は、過去にやったことのないものに参加したりで面白かった。まあこんな機会でもなきゃ一生、やらないよね、という「挑戦」もあったり。
 ぜひ、1回はやってみたい! ということも、時間の合間を縫って慌しかったけれど実現したものもあるし。
 大河ドラマ、楽しめましたし♡

 それでも。
 全体を通して振り返ると、今年はやはり「別れ」の年だった、と言うしかなくて。
 それでついつい、なんとなく、湿っぽくなってしまいます。

 いい悪いはおいといて、「節目」の1年ではあったと思います。

 世にあるすべての別れ、すべての終わりが「悪い」こととは限らないんですけど、そりゃまあ、どうしたって、親しんできたものとの別れとなれば、そのショックはあるよね……ということ。

 それらもいずれ、時間がなんとかしてくれるでしょう。

 むしろ大波をかぶるのは来年になってからだろなーと今からちょっともう戦々恐々、身構えているところもありますが………成るように成る。なるようにしかならない。
 何かと思いつめやすい人間にはこれくらいの「呪文」がちょうどいいそうです。(^^;)

 人を見て法を説けってやつですね。ちょっとのんびりがすぎる人には向かない言葉ですが、意味もなく真面目〜に、硬く考えすぎ、自分で自分にミョーなストレスをかけてしまうタイプには、「成るように成る」くらいのものがちょうどいい。
 そういうことで。

 それでも今年はいろいろ、楽しめたことも多くありました。そのことには素直に感謝しております。

 このブログは図々しくも、「自分の息抜きのためにやってる」と言い続けておりますが(毎日のように何かやってて、すごいねと言われますが、なんせ自分の息抜きですからすごくはない。(●´ω`●)ゞ)、毎度お付き合いくださいます皆様、まことにありがとうございます。

 禍福は糾(あざな)える縄の如しとも、幸不幸は自分の気持ち次第とも、人間万事塞翁が馬とも申しますが、まあそりゃそうだわな、と、過ぎし1年には感謝を込めて、来たる1年には皆様のさらなるご健康、ご多幸をお祈りいたします。

 ありがとうございました。

 みなさま、どうぞよいお年をお迎えくださいませ。m(_ _)m
 
 
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コミケ参加者

 人の関節の柔らかさ・固さというのは生まれつきのものだそうですが、お世話になっております整体の先生によると、私は関節が柔らかいんだそうです。つまり怪我をしにくい。
 とはいえ、何かスポーツをしているわけではないし、あんまり意味ないような気もするんですが、確かに振り返ってみると、運動神経が鈍くてトロいわりには、怪我はしたことなかったんだなあ。

 ……と、怪我をしてから気がつく(笑)

 昨日はちょっと重いものを持った拍子に、持ち方が悪かったようで右肘靭帯を傷めてしまいました。

 ほっておけばいいだろうと思っていたけど時間がたつほど痛みが増してきたので、これはダメだな、ということで暮れの整体院へ無理に突っ込んでもらいまして;;
 とにかく冷やすこと動かさないこと、とのこと。
 それでもすぐに診てもらったおかげか、今朝になりましたらかなりいいですね。痛みもあまりないし、昨日は曲げ伸ばしもできなかったけど曲げる方は問題なくなった(といって調子に乗って続けていてはいけない感覚はある)。

 今日はひとまず大人しくしておれ、とのことですが……おとなしくつってもなあ。
 痛みや張ってくる感じが出る直前まで様子を見ながら、仏壇を拭いたり、できることはやってます。

 だって本当に何もやらないなんてこの年末にさあ! そりゃ、逆に無理ってもんですよ。

 諸事、基本的には左手でやってます。腕を伸ばす他には、手首をひねるような動作ができない。手首がどうこうではなく、やはり肘のところで動きがブロックされる感じです。
 顔にあれこれ塗るのと洗髪がやりにくい……。やれやれ。

         ●



 昨日からコミックマーケット91が開催されています。
 過去にも様々な、いわゆる有名人という方々がおいでになっているコミケですが、少なくともこれまでは、だからと言って騒ぎになったことはありません。

 今年の夏は何と言っても西川貴教さんが話題でしたが、今回は! なぜか!! 「あの」!! 叶姉妹がおいでになる、とのことで。

 本質的にはアングラな世界であるコミケとは無縁そうな方々なのに(というより究極の対極だべ)、どーした? 何があった? とは思いつつ、さすがにこれは話題が「すぎる」と思われたか、事前に準備会からもコンタクトしたみたいですね。
 叶姉妹のエライところは、ちゃんと事前に下調べもして、アドバイスも受けて、従って「敬意を表する」態度ですね。

 キモオタの祭典てどんなんだよ(嘲笑)、という態度ではないところが、エライなあ。と。

 で、受け入れ側としては——上記ツイートの通り。

 通常なら叶姉妹がちょっとありえない場所へ「降臨」となれば、勝手に写真撮ってネット上に溢れかえるところ、あれだけの人(昨日の来場者数17万人と発表あり)がいても、そういう非公式の画像が1つもないというのは、立派。

 コミケにおいては参加者はひとしく「参加者」であり、「お客様」はいない。常に法的には黒に近いグレーゾーンにあるコミケは、参加者一人の行為一つで簡単に消えて無くなるものだという危機感は共有されてきた、という歴史がある。

 とはいえ、現在は諸外国からの参加者も増えたし、物見遊山的にくるやつが一人もいないと言ったら嘘になる規模だし(でもそういう人は大抵、泣いて帰ることになると思いますけどね)……今回も、叶姉妹がおいでになるのは構わないけど、周囲がどうかなと思っておりました。

 昨日は来場時間が遅くなったということもあったかもしれませんが、ともあれ、叶姉妹といえども「いち参加者」に過ぎない、ということを忘れた不心得者はいなかったようで、何よりです。この調子でいってもらいたいと思います。
(離れたところから拝むくらいはまあいいでしょう;;)

 でもこういう態度って、当たり前っちゃ当たり前だと思うんですよね。
 何かの仕事できているならまだしも、あくまでご本人のプライベートなものであれば、押しかけたり話しかけたり勝手に写真撮ったり騒いだりって、どー考えても「プライバシーの侵害」。
 そういうものを「有名税」などという開き直った考え方は、「盗人猛猛しい」というものだと考えてます。

 夏コミの西川さんのときも、周囲のサークル参加者は「サークル参加者同士」という枠を出ることなく、ご本人に対応したと聞いております。それでいいんじゃないですかね。コミケ以外の場所でも、そういう考え方がフツーになってくれるといいなと思ってます。

 過去、ちょっとだけ面白かったなと記憶するのはローリー寺西/ROLLY さんで、気がついた人たちももちろん声をかけるなどはしなかったけれど、思わず、そっと跡をついて歩く人が続出し、遠目には「ハーメルンの笛吹き」状態だった、とのこと。
 それでも目につかないように、そっと、ってところが面白いなと個人的には思ったこと(笑)

 面白いといえば、事前の情報としてはむしろ、「叶姉妹が来るのはいいけど」、恭子さんをエスコートする「グッドルッキングガイ」は来るのか!? と色めきたったところでした(笑)
 ご本尊よりも脇侍(きょうじ)の方が話題をさらったみたいな感じ(笑)

 もちろんそちらの同行はなかったようですが、——なんなの、その妙な動揺ぶりは(笑)

 ともあれ。
 有名人といえども「参加者」である、というこの精神は、このまま維持していけたらいいな、としみじみ思ったことでした。

 叶姉妹には、コミケ、楽しんでいただけたのかな。
 楽しんでいただけたならいいんだけどな。
 せっかくなんで。+.(*'v`*)+
 
 
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集合的ぬえ

「あれから電通はまったく変わってない」 突然の社長辞任、現役社員はどう受け止めた?
2016年12月29日 7:01配信  BuzzFeed Japan

 昨夜のニュースで、電通さんの社長さんが辞任なさる由、承りまして。
 誰が何に対して「悪いこと」をして、誰に対して「謝罪」するというのか、はっきりしない話だなと思って聞いております。

 話を聞いていて思うのは、
「いったい、その仕事というのは、具体的には何をやってるの?」
 ということ。
 あれだけの人員がいる大企業でありながら、「人手不足」になるような業務内容って、何をしてるんだろう?

 いわゆる繁忙期というのはどこにもあって、その時期にどうしても残業、というのはわかりますが、そうも1年中死ぬほどの残業が必要というのが事実なら、それはもうマンパワーの不足を意味している。
 とするならそれは管理側の失敗だし、経営者の責任です。確かにね。

 人を増やすか業務を見直すしかないわけですが、そういう方向性での努力がなされた形跡もなく(というより、発想自体がなさそう…)、いきなり社長さんが辞めますと言っても、根本的な解決にならない。
 労働局が入ったからしょーがないわ、「ごまかし」とけ、というように思えますね。

 電通さんのみならず、この異常な長時間労働、残業、サービス残業が「当たり前」という風潮は、どこでどうすれば根絶できるのかな。

 昔は、「自分の仕事は終わっていて帰れるんだけど、上司より先に帰ってはいけないからタラタラ残ってる」なんて話もありました。現在は、そういうものがもっと際限もなく膨らんでいる気がする。

 定時で上がるのが「当たり前」で、残業? なんで? どうしたの? というのが本来ですよね。
 それが、上司より先には帰れないとかいう「暗黙のルール」もおかしいし、——マネージメントには当然、社員の健康状態にも気を配るべきところ、むしろ「殺しにかかる」のが当然とされているのもおかしい。

 電通さんの今回のことが「一罰百戒」となれば社長さんの辞任にも意味が出てくるでしょうけれども、単にこの場を「ごまかす」だけで終わるのでは、残念なこと。

「定時で帰って当たり前」という常識を、日本人が大好きな「空気」にまでしなきゃいかんのでしょうかね?
 その「空気」というものは、どこが発生源でどういう発生メカニズムがあるんでしょう。
 それがわかれば苦労はないでしょうが——最終的には一人一人の自覚、ということになる気がする。

 周りがそうしてくれたら、自分もそうする、それまでは不平不満を言いながら、この異常事態に唯々として従う……という側にも、ちょっと難ありだと思いますね。

 基本的にあんまり「空気」なんか読まない、というより「読んでも従わない」でここまで来ている人間からしますと、そろそろ、「空気」「他人任せ」なところ、やめません? と思います。

 とりあえず今は、
「優秀な人材が集まっている(はずの)立派な企業さんなのに、そうも人手不足状態になるのはなぜか」
「一体全体、「何」をしているのか、業務内容を聞いてみたい」
 というのが、率直な「感想」ですねえ。

 私にはこの状態は「狂ってる」としか思えない。
 この「狂い」は、どこから来ていて、どこで糺せるものなのか——正体不明のバケモノの話を聞くようで、ちょっと不気味にも感じています。
 
 
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嘘つきは杭を打つ

「出る杭は打たれる」が、「出すぎた杭は打たれない」って言った方、どなたでしたでしょう。
 聞いたとき、ああなるほど、確かになー、と納得したんですが。

 いじめでも何かの差別でも「出る杭は打たれる」でも、その根絶がなぜ難しいかというと、みんな嘘ばっかり言うから。
 いじめなりなんなりの原因は「自分(たち)とは異なる」ものへの「恐怖」「不安」なんですが、——つまり、あえてその原因を求めるのなら、加害者側が持っている不安と恐怖がすべての始まり。
 なのに、みんなそのことを認めない。

 とはいえ人間、嘘も言い切れないもんだな、と思うのは、いじめられる側に「も」問題がある、という言い方があること。
 も、ということは、自分たち加害者側に「も」問題があるということを、無意識でしょうが分かってはいるんですね。——認めたくないという意識に負けて、その辺指摘をすると基地外みたいになって怒るけど。

 いじめや差別の原因は、加害者側が潜在的にもつ「自分とは違う」ものへの不安と恐れ。

 原因が特定できたなら解決もできるだろうと思われるでしょうが、実際そうはいかないのは、この不安や恐れというのは自分の身を守るというレベルにおいては必要なものだから。
 違和感や警戒心は、それはそれなりに必要なものなので、いじめ差別がけしからんからと言って、不安恐れを全否定もできないんですよね。

 つまるところはバランスの問題で、今、それを機能させていい場面なのかどうかを、本来なら自分でコントロールすることが求められる。
 そのコントロール、バランスをどうするか、と言うところで、私どもはPC含めて、あれこれ試行錯誤中ってことなんでしょう。

「出る杭は打たれる」の場合はまたちょっと事情が違うところがあって。
 直接の利害関係にはないはずの相手から、いきなり攻撃されるのって意味不明ですよね。専守防衛は無論、先制攻撃としても理解できない。
「動機」はわかりにくい。これという理由があるわけではない、ように見える。

 でも、話を聞けばなんのことはない、出る杭に対する嫉妬なんですねあれ。
 わかったときは、なあんだツマンネ、と思ってしまいました。(^◇^;)

 生意気だの調子に乗ってるだの、そういう言葉が出てきたら、ああ嫉妬してんのねと思って間違いない。

 べつに、嫉妬が「悪い」ことだと決めつける気はありません。
 嫉妬という感情は、自分が同じような希望や願望を持つからこそ現れるもの、希望も何もない人間は嫉妬さえしない、ということを私も承知しているので、嫉妬するようなら立派なもんですね、と思うくらい。

 でも、話がややこしくなるのは、そういうことを正直に言わない人が多いからでしょうね。

 不安なり恐怖なり嫉妬なり、自分が持っている「本当のこと」を隠して、他の言葉に言い換え、あるいは「自分は悪くない、あいつが悪い」と責任を転嫁する。

 出る杭をみっともなく打とうとする人に、「ああ、嫉妬してるんですね」などと言おうものなら、もうね——大変なことになる。
 怒られるし恨まれる。しかも半端なく。(^^;) ←経験者

 出る杭を打つ人に「ああ、嫉妬してるんですね」と容赦なく言うのは、何かに半狂乱になって怒り狂っている人の目の前に、いきなり鏡を置くようなものなんでしょう。
 鏡に映った自分の姿に驚き、たじろいで。
 それで、自分の姿を恥じるようなら可愛いんですが、大抵の人は、鏡を置いた人間を恨むんですよね〜。

 まったく馬鹿らしいの一言。だから私ももうああいう人たちを見て、とやかく言う気もなくなってるんですけど。
 でも、自分の「本当のこと」をごまかしたままで、いちばん苦しいのは自分なのになあ、とは思ってます。

 人の意識はなぜこうも「嘘つき」なんだろう。
 最近感じる、最大の疑問です。

 嘘をついているという自覚すらない。でも、嘘はしょせん嘘なので、「本当のこと」にたどり着かない限り、どこかで無理も矛盾も生じる。
 無理や矛盾は誰かを傷つける。
 誰かを傷つければ自分も傷つく。

 嘘をついて、いいことなどひとつもない。——それでも嘘をやめられない。

 業が深い。そんなふうに思います。

 とはいえ。
 なんだかんだ言って、私はこういうところでは、本当に幸せな——オメデタイ——人間なんだろうなと思うのは、こう言うことを言ってここまで平気で生きてこれたと言うこと。

 嘘をつかなければ生きられない環境はある。そういう場所に置かれたときでも、私は同じように、こんな「生意気」なことを言っただろうか、と、ときどき考えます。

 環境次第では、やはりそれはできないことだっただろうなと思います。そう思うと、世辞のひとつも言わずに済んでいる、と言うのは、この上なく贅沢で恵まれたことなんでしょうね。

 世辞は言わないというと、またそれこそ嘘を、と言われますが。
 私の場合は「世辞を言えるほど知恵が無いのです。何かのポリシーあってのことじゃありません。
 おつむのレベルの話です(笑)

 でも、本当に何ひとつ、いいことが思い浮かばないとか、言葉を他の言い方に変えることもできない、なんて事態は、まず、ないですよ。
 お世辞を言わなければならないほど、本当にいいことなどない、なんてことは滅多にない。人間はそこまで絶望的な生き物でもない——ありがたいことに。

 それでもなお、世辞を言わなきゃいけない場面はゼロではないだろう、知恵が無い奴は、そういうときどうしたらいいか? と聞かれたこともあります。
 そういうときはですね——、にっこり笑って黙っていれば宜しいのです。
 多少バカにされたりしますが、バカにされている分には、先様の気分が悪くなることもありません。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ(笑)

 出る杭が、出過ぎた杭になるのにもそれなりに時間も準備もかかるでしょうから、やはりここは、「嘘をつくのもほどほどにな」という確認作業の方を、先に進めておくべきかと、私としてはそんなふうに考えております。
 
 
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本当に言いたいことは

 映画「羊たちの沈黙」を見てきた友人が、そんなことってあるのか、と言ったのは、レクター博士が、隣の独房にいる男を、指一本触れずに殺したことについてでした。

 レクター博士は隣の独房の男を言葉だけで殺した。
 そんなことが可能なのか、——と、ちょっと納得しがたい、映画とはいえ「盛りすぎ」じゃないのかという感じでした。
 私の返事はあっさりしたものでした。
「できるよ」

 レクター博士は悪魔的に頭がいいし、その頭脳で人間の心理を知り尽くしている。言っちゃなんですが隣にいた男はあまり頭は良くない方で、それゆえに凶暴ではあるけれど、(博士から見れば)自分の弱点をさらけ出して歩いているような男。
 そんな男を「言葉責め」にして自死に追い込むことくらい、博士にはなんの造作もないことでしょう。

 レクター博士ほどの頭脳を持たずとも——私どもも言葉で人を殺すことは、しょっちゅう見ているし聞いているし、気づかないだけで実行もしてる。何も驚くことじゃない。

 レクター博士はその意図を持って的確に言葉で相手の心臓を刺すことができましたが、彼ほど頭の良くない私どもは、意図を「持てない」ことが多い。
 知らないうちに、気づかないうちに、言葉で誰かを刺し殺していることがある——そう思うと、なかなか恐ろしい。私どもはレクター博士よりも残忍な犯罪者ってことになりますんで。

 殺人事件や、未遂事件において、犯人が「殺すつもりはなかった」ということがありますが、馬鹿なことを言ってるなあ、と思って聞いてます。法律が問うているのはつもりがあったかなかったかではない。「やったのかやらなかったのか」だけ。

 日本の裁判はそういう本質を見落として、妙な慣例、ローカルルールで進行するところがオカシイと思ってますが、犯人にああいうことを言わせるのも、そのおかしな慣例の一つだと思ってます。

 言葉で人を殺すことは可能であり、その罪の重さには、つもりがあったかなかったかは関係ない。——と、そのように考えます。

 ツイートや、あるいはこのブログエントリーで、ちょっとばかりネガティブな話題になるとき、とにかく固有名詞は書かない、というのをポリシーにしていますが、それが、理由です。

 何かの事件に関わることなら実名を伏せて、「こういう人がこんなことをしたそうですが」と書くだけで、大抵の人には、ああ、あの話題かとわかるでしょうし、そうではない人にも「何が起きたか」がわかるようには書いている、つもりです。
 してみると、個人名を出す「必要」はないってこと。

 ある話題を聞いて、それについてガーッと「怒って」書いているときには、固有名詞は必要だろうと言われたこともありますが、必要ないですね。
 どうしても、固有名詞を出して特定しないと「話が見えない」なんて事態はまず、ない。

 例えば誰ぞが不倫しました、なんて話を聞いたときに、書きたいことの本題は、その話題の誰かについてじゃない。
 不倫、不貞行為とされるものについての、自分の感情だったり考えだったりのはず。

 何かの話題を耳にして「意見」を言いたくなるとき、「本当に言いたいこと」は、実は自分の感情、自分の考え、自分の経験、そういうものなんですよね。
 芸能人の誰ぞの不倫の話というのは、「言いたいこと」のきっかけに過ぎない。
 だから、固有名詞を出す必要はまったくない。

 それでもどーしても固有名詞を使わなければならない、というのなら。
 その人は単に、他人のことをとやかく言いたいだけ。
 自分とは縁もゆかりもない、これ以上はないほどカンペキに赤の他人のことをいいだの悪いだのと言いたい。——こういうときには、そりゃ、固有名詞、個人の名前を具体的に挙げることになりますね。

 でも、大抵の人が本当に言いたいことは、自分のことのはず。

 芸能人の不倫疑惑なんて話題で、ものスッッゴイ勢いで怒る人がいるんですよ。
 私はあれが不思議で。

 そりゃまあ不倫なんぞいいか悪いかで言ったら、良いことのわけはないけれど、何にしても他人事であり、なんであんたがそんなことで、そこまで「怒る」必要があるのよ、血圧上がると体に悪いよ? と思っておりました。

 が、あるとき、ふと、その人が漏らした言葉から、その人自身に、パートナーにひどく裏切られたことがあるのだ、とわかりまして。
 なーんだ。と思いました。
 あんたが怒っていたのは〇〇さんじゃなくて、自分のパートナーのことだったんかい。
 そんならそうと最初からそう言えばいいのに。——と思ったけど、さすがに本人には言ってません。

 さらりと聞き流すことができず、過剰に、あるいは過激に反応してしまうのは、原因は自分の中にある。
 本当に言いたいことがあることに気づかず、本当のことを言わないまま、他人の悪口というところで終始するからおかしなことになるんだなと思いましたね。

 自分のことを話せばいいのに、と思ったけれど、まあこれも——過酷なことなんでしょう。
 でも、本当に怒っているのは自分のことについてなのに、その怒りを他人の悪口に転嫁する、そればかりか「正義」を振り回して言葉で人を殺そうとする、というのは、卑怯というだけでは収まらない罪深さ——だと思うんですよね。

 ネガな話題で描くときは、「自分が本当にターゲットにしていることは何か」を考え、そちらに意識を向けるようにしています。
 これ、「固有名詞を出さない」というのを実行するだけで、あっさりできてしまいますからオススメ。
 特別な技法、メソッドは要りません。

 何かの話題について話すとき、固有名詞を出す=噂話をすることを「正当化」しようと、あれこれいう人もありますが、今のところ、なるほどそれはもっともなと思ったものはありませんね。

 本当に言いたいことを隠したまま、別のことにかこつけて話すと、どうしてもどこかで無理が生じたり、ゆがんだりするので、「論理的に矛盾」する。
 自分を正当化しようと屁理屈を考え出すのは人間の脳みそ、新皮質脳の得意とするところだそうですが、でも、何をどうしようと屁理屈は屁理屈ですから、「無理」が生じるんですよねえ。

 私が願いとするのは「世の中からゴシップが消えてなくなること」ですが、それもなかなかないでしょうから——ともあれ、私自身は、ネガな話題なら個人名などは書かない、というポリシーで、今後も続けていきたいと思います。

 逆に「いいこと」「おめでたいこと」「褒め倒すこと」は、そりゃもーがんがん固有名詞でいきたいと思います。

 呪いは小さく祝福は大きく。

 言葉を過たず使っていけるように。
 あらためて、そんなことを願う年の暮れ。

(何かあったか、とは聞かないでやってください。(^^;))
(それは「私の言いたいこと」ではないので/笑)
 
 
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クリぼっち

 無事今年のクリスマスも終了となりまして。
 面白いなあと思ったのは「クリぼっち」という言葉(新語・流行語大賞にはこういうのを取り入れるべきじゃないの?)(世相や時代を映すっていうんならさ)。

 クリぼっちは「ひとりクリスマス」「ひとりぼっちのクリスマス」ってことだそうで。 
 たぶん私どもいわゆるバブル世代から、クリスマスというと恋人と過ごすというイメージが定着したんじゃないかと思いますが、現在はそれがさらに「深化」して、それが実現できない人の方に注目が集まる事態になってるんですねえ。

 クリスマスにはカップルでの入店お断り、というお店さえあるとか。

クリスマスイブに「カップル入店お断り」の店 去年に続き今年も
http://grapee.jp/125321

 冗談だと思っていたら真面目な話だそうで(スタッフの健康のためって何・笑)、昨日ちょっと驚いたのは、糸井重里さんまで、若き日の思い出ということではありましたが、その「クリぼっち」の気持ちを書いてらしたこと。

 でも本来のクリスマスはたぶん、もちろん恋人とという人もいるでしょうが家族と過ごすもんだよねえ……。
 ありがたいことに、そうは言っても振り返ってみると、クリスマスをほんとーに一人で過ごしたことは(まだ)ないので、私もあんまり偉そうに言えた義理はないのかもしれません。

 でも聞いててちょっと気になったのは「ひとり、ってそんなに『悪徳』なの?」ということ。

 新聞や雑誌などで見る、お悩み相談のコラム、コーナーを見てみると、大抵は人間関係のことですよね。人間にとって、人間関係つまりは他者との関わりというものがどれほど重大事でありストレスとなっているものかがわかろうというもの。
 人は生まれてから死ぬまで基本的にはひとりだし、パーソナルスペースというものが心理的にはあるように、「ひとり」は優しいもの、自分を見つめ直す意味でも必要なものでもある。

 寂しいことがつらい、というのはわかるけど、「ぼっち」が悪徳であるかのように言われるのは、ちょおっと納得できないなあ。——と思って読んでました。

 原始仏教では、孤独を友とせよ、という教えもある。
 正確には、自分自身を自分の友とせよ、というのですが、あの身も蓋もない現実主義の(原始)仏教は、とにかくひとりであることを基本とし、当たり前のものともしてる。
 自分を自分の友とすれば、その人は二度と孤独に苛まれることはない、という。
 そりゃそうだ。(^^;)

 ひとりは寂しいです、というのは勿論わかるけど、でも、「ひとり」があたかも「恥ずかしい」「悪徳」であるかのように騒ぐ現在の風潮には、納得できない。
 それを真に受けてしまって、必要以上に「ひとり」であることを「恐れて」怯える人を見ると、チョットねー……、と思います。

 ひとりというのは、本来は、優しいものだと思います。
 何かあって傷ついたとき、とにかくひとりになる時間が必要ですが(どれくらいの長さになるかは状況やその人次第で違ってきますが、でも、とにかく、ひとりになる時間が必要、ということは変わらない)、それを見てもわかる通りで、本来は、一人であることは、「優しい」時間と空間です。

 人恋しいという感覚がある方が「健全」だとは思いますが(我が身を振り返って;;)、でも、そうもむやみに「恥じたり」、「怖がったり」するもんじゃないでしょう。

 優しい誰かがいてくれるのは幸い。
 でも、一人でいることだって、やはり幸いですよ。

 何も私だって「おひとりさま」を積極的に「おすすめ」はしませんが、でも、今はちょっと、ぼっちぼっちって騒ぎすぎじゃないですかね?
 何事であれ、人を煽るアジテーションて、見てて気分のいいもんじゃない。内容もさることながら、「煽る」行為自体に、嫌悪感があります。

 なので、その煽りに水をぶっかける感じで、たまには誰かひとりくらい、「ひとりの幸い」を言ったっていいんじゃない?——という気持ちで書いております。

 なんでそう嫌なことを言って煽るのさ、と思っておりましたが——なるほどしたたかだなあと思うのは、「クリぼっち商戦」というのもあるんだそうで(笑)
 まあ、それでどなたかの給料になるなら、さほど目くじら立てることでもないとは思いますが。(^^;)

 アジテーションには感心しないし好きでもないけど、そういうものに乗るのなら、「あえて乗ってやってる」という意識でいた方がいいかもしれませんね。

 クリスマスも終わったし、次は年越しそばですよ!(←結局、食べること)
 
 
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めりくり

本日は野暮用でお出かけのため、こちらお休みいたします。m(_ _)m

昨日はあれこれ美味しいものを食べて幸せでした♡
今日もいい日でありますように。



サンタより愛を込めて3
 
 
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Your Passion

 自分の息抜きのためにやってるブログなんですが、今日はまた、それに輪をかけて自分のため「だけ」の独り言エントリーです。
 なので意味不明だったりいつも以上につまんなかったりすると思うので、なんだ独り言か、という方は本日はこれにて失礼を。m(_ _)m

 まあ時間もあるし心も広いしという方がいらしてくださったらありがたいなあ、ってことで。(* ̄ー ̄)>

         ●

 以前からちょいちょい書いていますが、私、「ひいきの引き倒し」がキライで。

 芸人さんのお話で多いんですが、芸人さん何組かご出演になる催しで、お客さんが、自分の贔屓の芸人さんのときには無理にでも笑って騒いで盛り上げるけれど、そうではない人の場合、実際にはいいものなのにわざと無反応で通す、ということをする。人がいる、と。

 こういうのを贔屓の引き倒しというのであり、結局そんなことをしていれば、自分がファンである芸人さんをかえって損なうことになるんですよね。
 なんでそういうバカなことをするんだろう、というのは相当昔から思ってきたことだし今も思ってます。

 ファンというのは、ときに、どうしようもないほど愚かになる。

 私が新撰組についていやーなイメージを持ってしまったのは、もちろん史実の関係もありますが、それ以上に、新撰組のファンという人々から意味不明の喧嘩を売られ続けたから。(そんなに買って欲しいのかと思って、1回、まともに買ったら泣かれて、ほとほと参りました)
(以後、喧嘩を買うときは七がけ(=3割引)で、をモットーにしてます)

 で、ここまで生きてくる間に、実にさまざまな「ファン」という人を見てきたわけですが。
 
 実在する人物やグループのファン、あるアニメ作品や小説のファン、なんでもいいんですが、「〇〇のファンはマナーが悪い」というのは定型句だなと気がついたのはいつでしたかね。
 マナーが悪い、という悪口には意味がない。人が一定数集まれば、そういう奴は必ず混ざってくる。特定の団体や派閥「だけ」じゃあない。
 なのになぜ、あえてそういうか——よーするに悪口を言いたいだけ。「言いがかり」っていうんですよそんなのは。

 例えば同じ漫画作品のファンと言っても、その登場人物ごとにファンがつくわけで、そのファン同士で罵倒しあってる、という光景も、数限りなく見てきました。

 とにかくファンというのは視野狭窄になるし、「自分が好きなものは絶対至上」と思っているけど思っているという自覚さえない。自分と異なるものは全て「悪」なので叩き潰す、という。

 本来は、「好き」というのは人間の美点を引き出してくれるはずなんですが、それが反転するとどーにもならない。そういうもののようです。

 同じ漫画作品なのに、登場人物ごとのファン同士で、「抗争」を続けている——、これ、部外者から見たら、まったくバカな話ですよね。

 でも、この「愚かで無意味な抗争」は、そこら中にある。
 関係のない部外者から見れば、どれも、みんなおんなじだよ、ということに気がつかない。
 ……………昨日はそんな話を聞いて、「またかよ」とゲンナリでした。

 待ち構えている悪意は、動かせるものではありません。
 斎藤一人さんは
「人間の中でも、天界に近いくらいの人間もいるけど、つい昨日までケモノだったと言う人間もいる。爬虫類だったと言う人もいる。動物は所詮動物なので、人間の言うことは通じない。
 そういう、まだ人間になっていない人間に遭遇してしまうことがあるのがこの世という場所。そういう人に会ったら、話が通じないんだからなんとかしようなんて思わず、離れなさい」
 という主旨のことをおっしゃってますが、これ、本当にそう。

 ケモノがケモノであることを責めるわけにはいかない。
 それと同じで、ケモノを人間にしようなんてことも、思わないこと。
 ——私もそのことを、ずいぶん、ここに至るまで勉強させてもらいました。

 それでもなぜ、このタイミングでそんな人間未満に会ってしまったのか、ということについてはきっと、何かの意味はある。
 でも、それは今考えることじゃないので。
 静かにその場所を離れて、いつもの場所で、ゆっくり眠っていただきたい。


 ——神様に見込まれると大変だよ、と以前、私も申しましたが。
 結局、こういうことなんですよねえ……、歩みを進めれば進めるほど、意味不明の悪意も大きくなって邪魔をしようとする。

 passion の意味はご存じでしょう。
 どんなに美しくても正しくても——というより、美しいからこそ、食らう反発も大きくなる。イエス様でもお釈迦様でも、ああいう人たちであってすら敵意の対象にされていた訳で。

 天に愛されるのは僥倖でしょうが、受難もまた、小さいものではない。
 だから、神様に見込まれちゃいましたね、という時の私は、半分、お通夜みたいに不景気な顔になることがある訳でして。(^^ゞ

 それでも。
 くだらない悪意よりも、振り向けられる愛の量の方が圧倒的に多い。これは確かなこと。
 根拠を持たない悪意など、傷にもならない、とだけ確認して、しばらくは(可能な限り;;)ゆっくり休んでいただきたいと思います。

 Very Merry Christmas and Season’s greetings

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すき焼きはお好き

 いきなりですが。
 スキヤキ、お好きですか?


 異文化の受け入れということからすると、幕末から明治期の人々はすごいなとは思うんですよね。
 明治という時代は、好きではありませんが。
 個人的な好き嫌いと評価は別。

 あの文化の断絶と破壊、廃仏毀釈の愚、国粋主義で廃仏っていうなら神社を大事にしたかというとそうでもなく、鎮守の森を破壊し続けた異常行動(精神異常を思わせるむやみな樹木伐採の”流行”は、最近、目につくので気になってます)、中でも「国家神道」の異常さ、精神の奇形が、1945年の敗戦につながったとまで私は思っていて、司馬遼太郎先生に喧嘩を売る気は無いけど、とにかく、あの時代ははっきり言って「嫌い」。

 ですが。
 異文化を取り入れた実績は、すごいものがある。

 学術用語の「日本語作り」、それを実現した素養は素晴らしいと思うし、あんパンの発明は天才だと思うし、そして「スキヤキ」の考案。

 ………とはいえ。
 現代においてはスキヤキってどうだろう? と、思うことが。(^^;)

 私は大して肉好きでは無いので(嫌いでもない)、本当にお肉が好きな方から見れば、「ものがわかってない」ので、そのへんご容赦いただきたいのですが。(^^ゞ

 実は、子供の頃からあのすき焼きって、好きじゃなかったのです。
 特に美味しくないと思ったわけでもないけど、他の人々が喜ぶほど、美味しいものだとは思えないというのが本音。
 すき焼きが好きじゃないというより、肉そのものがあんまり得意じゃないんだろう、と思ってきましたが、それを全否定してくれたのは山形県・米沢牛。

 牛肉ってこんなに美味しいものだったのか! と、なかなかの衝撃でした。

 以後、年に2回くらいですが米沢牛をいただくようになりまして。
 家に届くと「どうやって食べるか」を家族で話し合ったのですが、どうもスキヤキはなあ……という結論に至る。
 改めて考えると、スキヤキって、お肉自身が美味しいのなら、逆に「もったいない」食べ方なんでは? と思えてきました。
 砂糖つけて焼いたり、割り下使ったり、どうもいちいち肉の風味を「消す」ようで、せっかくの米沢牛を、もったいない……! という感覚。

 そのとき、そうか、と思いましたのは。
 明治期の牛肉———庶民が(中流とはいえ庶民が)食べた当時の牛肉が、こんなに美味しいわけないよね? ということ。

 砂糖、醤油、どうかすれば味噌も使うことがあったという(当時の)すき焼きは、——あの調理・調味法は「肉の臭みを消す」意味も小さくないですよね。加熱して硬くなりがちなのを可能な限り防ごうとする意味もあるし。

 となれば、どうかしたらミディアムやらレアやらでいただきたいくらいのお肉を、すき焼きにしてしまうと、美味であることさえ「消して」しまう。
(消すべき臭みもなければそうなる)

 現在では、お肉といえば焼肉の方が一般的で、スキヤキは昔ほどには珍重されなくなっていますが、それももっともなことなんだろうなあ、と。
 米沢牛をかみしめつつ思う年の瀬。

 子供の頃、すき焼きは大して好きではない、と思った私の味覚は——、当時は米沢牛みたいな肉があるとは夢にも思っていなかった頃のことなので、ま、あれは単なる好き嫌いなんだろうな(笑)
 特に肉の旨みがどうこうなんて考えてなかったはずなんで(笑)

 とはいえ——すき焼きは肉という素材の旨みをも消してしまうというのも言い過ぎなんでしょうね。すき焼きにはスキヤキの、「旨みを引き出す」ところがあるんでしょう。
 そうでなければ未だに人々に愛好されるはずもない。
 肉食は得意ではない、という人間が、本来、口を出すところじゃないんでしょう。

 で。

 今回あらためてすき焼きの歴史を調べよう……と思ったら、でてきたこちらの記事。
 すき焼きと牛鍋は別である、ということ。
 初めて知りました;; そーだったのかー…。

別物じゃんか~!「牛鍋」と「すき焼き」の違いは“歴史”にアリ
かつて横浜で発祥し、東京で流行した「牛鍋」。「すき焼き」とはどう違うのでしょうか?

2016年02月14日 06時00分 更新 ITMedia

 私が指しているのはこの場合、東京風の「牛鍋」であり、本来的なすき焼きではない……ということになるみたいなんですよね。
 知らなかった…! としばしモニター前でボーゼンとしてました。
 話って聞いてみないとわかんないもんだなー……。

 さらに、生卵を使うか使わないかについても由来はあるようで。
 ついでなのでもう少し、調べてみようと思います。



 
 
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客としての仁義

 焼き鳥を食べるときに、串から具を外すのは如何なものか? というお題。

 基本的にはそりゃまあ、食べる方の好きでよろしいと思いますが、驚いたのは、何人かで焼き鳥を頼んだ場合、一本を一人が食べるんではなくて、そうやって具材を全部外してバラバラにしたうえで、各人に配るんだそうで。
 それを「シェア」と言われたときにはなんとなく失笑。
 まあ確かにシェアっちゃあシェアですが(笑)

 シナ料理やイタリアンでは、料理が大皿で運ばれてきて、自分の取り皿にいただくというスタイルもありますが、あれだって、3人前なら3人前を大皿に盛ってるわけで、本来の1人前を3人で分けるというようなことはない。基本的には。

 もうどーしてもお腹いっぱいで、でもせっかくだからそのお店の料理をもうちょっとだけいただきたい、という場合はあり得ますが——ハナっから「シェア」して安くあげようということだと、そりゃ確かにお店としては嫌だろうなとお察しします。

 学生の頃の友人で、ちょっとばかりやんちゃが過ぎてお店のご亭主に叱られたヤツがいますが、その時のご亭主のセリフがよかった。

「客には客の仁義ってもんがあるんだ!」

 私はあとから話を聞いただけで、連中がどんな悪さをしたのかは聞いていませんが(聞くと腹が立ちそうだったので聞きませんでした)、でも、このセリフはいいやね。とにやにや。

 そう。「お客様は神様」ではないのだ。
 上から目線という言葉は私はどうも違和感があって使いませんが、でもまあ、「自分は客なんだから神様だ」なんていうのは、その時点で既に客扱いしなくていいなと思いますね。

 この世は人の世。いるのは人間だけで神様なぞいない。
 格差がどーたら差別がこーたらということでもし誰かのことを非難するのなら、どんな場面でもどんな人が相手でも「人間同士」という「タイ(対)」である、ということを考えから外してはならないだろうと思いますね。

 お店にはお店の事情があるし、先方だって人間ですから、お互いに気持ちよく過ごせるようにという心配りをしてくれる人の方がいいというのも自然なこと。
 客なんだから何をしてもいい、何をしようと自分の勝手、他人の事情や思惑なんて関係ない、という態度を取りたければ取ればいいけど、その代わり、それにふさわしい対応をされたからって文句を言う権利はないでしょうね。

 そんなことはともあれ。

 私も焼き鳥は大好きで、家族で贔屓にしていた焼き鳥屋さんには以前にはしょっちゅう行ってました。
(現在は他の経営者に売却されており、以後はなんとなく足が遠のいてる。味が変わったわけでもないんですけどね;; 秘伝のタレ込みでの売却だったそうなので)

 焼き鳥を串から外すと、確かに美味しくなくなる。これは私も自分の経験からそう思います。
 あの串を刺すと言うのもずいぶん技術のいるもののようで、——素材そのものの味や、火の加減や扱いもありますが、やはり、串に通すのにも、ちょっとした工夫はありそうですね。

 串から外すとちょっと味も落ちるということに何か根拠はあるだろうかと探しましたが、「冷めやすい」「肉汁が出てしまう」というのが代表的なところ。

 串から外すとすぐに冷めてしまうというのは確かにある。してみるとあの串が、保温材の役割も果たすんでしょうね。
 風味が抜け落ちるように感じていたのも、気のせいでもなかったようです。

 串のままでは食べにくい、というのなら、最初から全部外すのではなく、一口食べるごとにひとつ外す、ということならわかるなあ、というところ。

 私が好きだったそのお店には、焼き鳥を串から外して丼ごはんに載せてタレをかける、「焼き鳥丼」がありました。
 あれはあとからタレをさらにかけてもらうので、贅沢の極みという他はなく、常連さん用の裏メニューでした。
 あれは串から外してもタレをかけるので、風味を閉じ込める、冷めにくくする、肉汁の保護(?)ということはできてますね。

 外すのなら外しても美味しいようにするなら問題ない。
 でも、それができないなら、やはり、串は串のまま、いただいた方がいいように思います。

 職人さんの「気持ち」とか、お店側の心遣いを、「そんなもの関係ない」と足蹴にし、「何をしようと客の勝手」と無視してかかる人というのは——ま、有り体に言えば「無粋(ぶすい)」ですね。

 もちろん、自分の好きなようにしてもいい、でもその時には、それでも、相手に一言断りを入れるとか、あるいは他のことで失礼をカバーするとか、そういう「仁義」を心がける方が、「美しい」と思います。
 
 まあ、粋(いき)であるとかないとかっていう価値観も、もう滅亡しているようなもんなんですかね。
 マナーがどうこうといちいち言うことが、すでに無粋という気がいたします。

 今でもこの「客には客の仁義ってもんがある」というセリフは脳裏をよぎることがあって、客として自分はこの場面ではどうすべきかを迷ったとき、いい指針になってくれているようです。
 若いときにいいことを教えてもらったな、と思うことのひとつ。
 
 
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冬の街



 この季節になるともう馬鹿みたいにあちこちでやるようになりましたイルミネーションというもの、実は、私はあんまり好きじゃないのです。
 たまにどこかがやっているくらいならいいけど、ナントカの一つ覚えみたいで、今はそこら中でやってますもんね。ちょっと食傷気味にもなろうってもんです。

 冬は嫌いだけれど、でも、冬景色には冬景色の味わい、情緒、というものがあるわけで、それを徹底的に破壊している、あのイルミネーションは、どうも好きになれない。

 きれいなことはきれいだなとは思います。私個人は、好きじゃないというだけで。

 で、そういうきれいなところが、いわゆるデートスポットになるのも、自然なことだろうとも思います。
 バレンタインデーもそうですが、そうなりますとなぜか、幸せそうな人々を全力で嫉(そね)むお声というのも増えてまいりますねえ。

 これ、10代の頃からの疑問なんですが、なんでそう、見ず知らずの人さまのことで、丑三つ時に五寸釘を打ち付けそうなくらいの怨念を発揮なさるので?(笑)

 幸せそうなカップルを見かけて、それこそ「爆発しろ」くらいの呪詛をいうのは、これは男女を問わず多くて、「なんで?」と思ってきたところ。
 さる友人が言うには、「自分もデート中なら気にならない。一人で歩いているときだと××××××××、って思う」とのこと。
 
 どっちにしたって他人のことなんで、別にいいじゃないの? と言ったら
「だからアンタはダメなんだよ」
 とバッサリやられました(笑)

 そうかなあ、そこで意味不明の妬みを感じて呪詛するくらいじゃないと「ダメ」なのかしらん。
 いかにもご不幸そうで暗い表情の人が歩いているより、幸せそうな顔で歩いている人を見る方が世の中平和でいいと思うけどなあ。そういう問題じゃないの?

 とはいえ、友人の指摘することもちょっとだけ、本当は、わきまえております。
 結局、妬む嫉むと言うのは「自分もそうしたい」と言う願望があってこそ湧き上がる感情。
 自分もあのようでありたい、あのようにしたい、と言う気持ちがあって、でも、それが今はできていないというとき、自分の願望をあっさり(かどうかは知らんけど)実現している人を見たときに、妬ましい、という気持ちになる。

 そういうものがほとんどない、というのはつまるところは、「自分のことはあきらめ切っている」からなんですよね。
 そんな「幸せ」は自分には縁のないもの、と思い、願うことさえしなければ、妬む感情も生まれない。

 友人が「だからアンタはダメなんだよ」というのは、このあたりのことを言っている。

 それは重々承知しつつ、でもそれは見なかったことにして通り過ぎる。
 
 まあ、私が「ダメ」だというのは事実としても、でも、人様をあんまり「呪詛」するのも、ほどほどにした方がいいと思いますね。(^^;)
 他人へ向けた呪いは自分自身に返ってくる。自分の幸せを実現・維持したければ、ぜひ、幸せそうな方々を見たときは、祝福しろとまでは言わないから、せめて呪詛するのは控えた方がよろしいかと思います。

 ということで。
 景色のきれいなところを歩いていて、幸せそうなカップルがいてもほぼ気にしない私ですが、それでも唯一、なんだか雰囲気に負けて早々に退散したことはありまして。
 夏の夕暮れ時の、神戸ポートタワー展望台。
 あれだけは、負けました(笑)

 ふと気がつくと周囲はもうほぼ全員カップルで、それはそれでいいはずなんですが、でも、何やら独特の雰囲気になってしまって(笑)
「いたたまれない」気持ちになって退散した——、というのは、後にも先にもあれっきり。(^^;)

 あれはあれで、面白い経験ではございました(笑)

 まあなんにしろ、どちらさまも(可能な限り)幸せでありますように(笑)
 
 
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季節性感情障害

 日の出が遅くなったなあ、と呑気に思ってたけど、明日じゃないですか冬至!
 そりゃ遅いわ。(^^;)

 今年は秋の3ヶ月間はとにかく雨に降り込められ、晴天が2日と続かなかったという、すんごい秋でした。
 雨じゃないなら晴れというわけには行かず、雨ではない日も鬱陶しく雲が広がっていたので、日照時間でいったらほんとに、ほぼ秋らしい爽やかな晴天なんぞ両手の指で十分、くらいだったんじゃないかな。

 ということで今年の特徴は——例年ですと私、11月下旬から「季節性うつ(冬季うつ病))」の状態になりやすいんですが今年は、今の所、それがないんですよね。

 季節性うつは、冬になって日照時間が減ってくると抑うつ状態になる。病気というほどのことでもないでしょうが(あ。でも症状が重い人だとそう言えるのか?)、これは遺伝子に関係するそうですね。

 温暖な地域住まいの静岡県民がそんなことを言うのも申し訳ないくらいですが——でも、実際、そうなるんだからしょーがない。

 でも。
 今年は、とにかく太陽光線が拝めなかった3ヶ月の後ですから、日の光があるというだけでじゅうぶん満足できますね〜。
 秋の長雨にこんな効果があるとは(笑)

 長雨と日照不足でお野菜が高騰、というよりそもそも品(しな)がない、というのはほんとに困りますが、でも、そういう効果もあるのね、と。

 日照不足は人間の体でも栄養不良を引き起こすし、自律神経にも影響しますから、そうバカにしたものでもありません。

 例年はもう、この冬至の日を指折り数えて待つんですが(冬至が『底』だから、これを過ぎれば日が伸びていく——楽になる、と自己暗示をかけるのです。(^^;;)、今年は、「えっ、明日が冬至? もう?」という感じなので、楽ですね。

 もっとも、季節性うつがどうこうなんて言ってる余裕もなくなるようなこともあったんで、そのせいもあるかもしれませんが;;

 季節性うつというとやはり冬季が多いようですが、人によっては「夏季」もあるようです。故に「季節性」というんでしょう。

 季節性うつは「季節性感情障害 Seasonal Affective Disorder (SAD)」というのが正式名称らしい。
 感情障害、情動障害、って言われると、何やら一気に重苦しい雰囲気になるような(笑)

 私はこれを最初に知ったときは、その症状がことごとく当てはまるので逆にびっくりでした。
 で、むやみに冬になるのを嫌がっていたんですが、でも、これはそういう病気なり障害なりで、因果関係は医学的にもわかってること、と知って、逆に気持ちが楽になったのを覚えております。

 何か不調があるとき、原因がはっきりしないというのは嫌なものです。それだけで不安感が増してしまいますよね。
 ちょっと珍しい病気で、なかなか診断がつかなかった後、やっと、病気がなんであるかがわかったら、ホッとした、それだけでも気が楽になった、というお話を聞きますが、……わかるなあ。人間にとって多分、一番ストレスになる、嫌なことって「状況がわからない」ことだと思うんですよね。

 事故があって電車が止まってしまい、運転再開されたとは聞いてもやっぱり、何がどうなっているのかわからず、それでも混雑したホームにいたとき、駅員さんが、
「次の電車はただいま○○駅です。まもなく出発し、当駅には○○分に到着予定です」
 とアナウンスしてくださったとき、イライラと不安感がスーッと引いた、ことがありました。

 同じく混雑したホームにいるという状況そのものは変わらないのに、「現在、どうなっているか」の状況がわかっただけで、もう、全然ストレスになる程度が違うんですね。

 なるほど人間にとっては、「わからない」ことが最大のストレスになり得るんだなあ、と思いました。

 季節性うつも、自分がそれだとわかれば、結構あれこれ対策ができるようになります。
 知る、わかる、って、大事なことだなと思う次第。

 ちなみに。
 冬至が過ぎると、日の入りはどんどん遅くなるんですが、日の出は実は、冬至を過ぎてもさらに遅くなっていきます。
 日の入り、夕暮れ時には春を感じやすいけど、朝は全然、楽になったとは感じられない。
 日の出は、私の住んでいるあたりですと、今日は午前6時49分ですが、明日冬至を過ぎてもさらに遅くなり続け、一番遅い時には、午前6時57分までいきますね。

 日の出が遅くなるのが「止まる」のが、1月11、12日ごろ。日の出が早くなり始めるのは、1月15日ごろになってやっとです。

 それでも一陽来復、という言葉を呪文のように唱えつつ、この季節、乗り切っていきたいと思います。
 今年はそんなわけで、今までになく過ごしやすく感じている、というのも面白いな。……っていうそんなお話。
 
 
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「真田丸」大団円

 今年の NHK大河ドラマ「真田丸」、昨日で全50話完結でございました。

 映画もそうですが、こういう作品の、成功するしないというのは、不思議ですよねえ。
 プロデューサーと、脚本と、演出、音楽、俳優、……面白かったものというのは、それぞれがうまい具合にかみ合っている、相乗効果になってる、というものが多いですね。

 それぞれの要素がいいと面白くなるんだねと思うけど、これはそうとも限らない。

「興行成績」はイマイチという作品でも、個別に見るとそれぞれの要素はきっちり「質」の上等であることは疑いない、というものがある。
 いわば、個別の要素はそれぞれ、品質面では十分なのに、でも、全体としてのドラマなり映画なりとしては、面白くない——そういうものってあります。

 面白いと思うもの、「うける」もの——それは実際には「何」が決めているんだろう、と、不思議に思いながら1年、楽しく拝見しました。

 私個人としては、物語冒頭を引っ張った、武田勝頼が麗しくてようございました。
 偉大なる父親を持った不運、勝頼さんは長い間、「暗愚の人」という認識をされてきたけど、詳しく見ると決してそうではないというのはわかること。なので、今までのドラマで典型的に描かれる勝頼像は、フィクションとはいえ気の毒すぎると思ってきまして。
 その溜飲が一気に下がることになったのが、この真田丸の勝頼さん。キャストは平岳大さんで、いやーもー、美しかったですね〜。

 脚本・三谷さんの人間観察とその描写には恐れ入るのですが、その実力が遺憾なく発揮されたものだったと思います。
 今後、映画やドラマで勝頼さんを登場させるなら、あれを一つの基準にしていただきたい。

 暗愚どころか極めて聡明であり——聡明であるゆえに、自分が置かれた状況や、周囲の連中が何をしているのか何を考えているのか、「わかっている」。
 聡明であるゆえに自分の運命さえ「覚って」しまう。
 頭がいいというのは基本的には羨ましいことのはずですが、あの勝頼さんにはむしろ、その聡明さが、おいたわしゅうございました(涙)

 私個人の事情としては今回は、ツイッターを見る楽しみがあったのも大きかった。
 私が唾棄する勢いで嫌っているのが「史実厨(しじつ・ちゅう)」という連中で、この連中がTLに現れるともう、なんの楽しみもなくなりますね。

 これはドラマだっつってんだろーが!! とわめきたくなるくらい、歴史はどう史実がどう史実は違うあれは違うそれが違うって、もうねえ!!! 首絞めたくなりますよほんとに。(←目が本気)

 それも今回は、考証担当の先生が同じくツイッター上で、いかにも学者さんらしい控えめさ、慎重さで持って、バカでもわかるように丁寧に説明してくださったおかげもあり、静かになってくれたのはありがたかったです。

 その上、ご出演に大泉洋さんがおいでということで、開始早々から「水曜どうでしょう」をもじった「真田丸どうでしょう」というタグが登場しまして。
 このタグで見ているぶんには、さしもの史実厨も湧いて出ることもない。ほんとに、ありがたいやら面白いやら。
 洋さん、魔除け(笑)

 でも実際、三谷さん、わざとかなあ? というくらい、どうでしょうネタが織り込まれていたような気もするんですけど……考えすぎ? (^^ゞ
 
 先日の「あさイチ」の特集の中で聞いたことですが、シリーズ始まって当初は、多分こういう史実厨みたいなのが中心でしょうが、ネガティブなご意見の方が多かったそうですね。
 それを知った心ある人々が、ネガな意見ばかりになるとドラマが捻じ曲げられる、という危機感を持ち、皆さんドラマを「支持」するご意見も寄せてやって! ねえ、黙ってないで! と呼びかけ、以後「大勢」が変わったとのこと。

 これは大事なことだなあ、と思いました。
 だいたい文句タレの方が、ああいうことに熱心なんですよね。ふつーにドラマを楽しんでいる人は、あえて制作サイドに何かを言おうなんてことはあんまり思わない。
 
 ドラマの感想に限ったことではなくて、文句なんて、そんなもんはだいたいは言わなくてもいいこと。
 むしろ感謝をこそちゃんと言え、と。
 でも、日常私どもはその逆をやってる。
 恩は忘れて恨みを忘れない。——逆にしろよそれ。って話。
 これは私も要反省;;

 音楽でも——辻井伸行さん、三浦文彰さんが演奏を担当されまして。辻井さんはすでに十分な知名度がおありでしたが、三浦さんはここで一気に知られるようになったというのは、ファンとしては嬉しいことでした。
 ………人気出るとチケットがまた取りにくくなっていくんだよなあ、と考えるとちょっと泣けるけど、いえ、いいんです。あの実力ですから。まだまだ先があります。
 1年間、毎週あの音色を聞けたのは幸甚というほかはなかった。さらなるご活躍を祈る次第です。

 肝心の、昨日のドラマの内容ですが。
 もうね、最後がどうなるかはわかっているので、みんなもう、たぶん放送開始前から、涙腺ゆるんでましたよね(笑)

 でも、変なふうに感傷的になるわけでもなく、いいドラマだったと思います。

 書きたいことはまだ他にも山ほどある、ってところが、その面白さを証明するでしょうか。
 楽しい1年だったなあ、ということで、感謝、感謝、でございます。
 
 
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