武士は相身互い



 読んだ瞬間に思わず吹き出したツイート(笑)
 他人に対しては、「私に配慮しろ」というくせに、自分は他人に配慮しないのな。——というご指摘はごもっとも。
 まあ、人間てのはそんなもんです(笑)

 配慮や心遣いというのも難しいところがあって、配慮、心遣いをいただいていても、ぜーんぜん通じない、わかってもらえてない、ということも結構あるでしょうしね。
(すみません何かと鈍くて;;)(←)

「嫌いな人に配慮を」
 については、妥当なものもそうではないものもあるので、ここんとこ度々申しておりますように、
「聞くべきクレームと、早く警察へ通報をというレベルの”言いがかり”はちゃんと区別しましょう」
 ということで。

 今までは実際、「お客様」をあまりにも拡大解釈しすぎてきたと思います。
 バカがバカである所以(ゆえん)は、「限度というものを知らない」ことにある。
 何かひとつうまく運んだことがあると、しめたと喜んで何度でも繰り返す。
 1度2度なら我慢してもらえたことでも、何度も何度も重なったうえ、暴力の欲求はエスカレートして、もはやモンスター(非常識)というレベルさえ超えて、犯罪にまでなっていく。
 そうなったらもう誰も我慢などしない。法的にしかるべき対処を、ということになりますね当然。

 で、この段になるとおおあわて、そんなつもりじゃなかった、などと意味不明の文言を繰り返すわけです。
 ことここに至る前に、なぜ、「ほどほど」ってところでやめないんだよと思うけど、そういう判断がつかないからバカだって言われるんでしょうねえ……。

 本来的には、「嫌いな人に配慮を」というのは、もっともなことがほとんど。
 そういうのを見て、「自分もあれで行こう」と思うモンスターがあるようです。
 ああいう言い方をすれば自分のエゴも通してもらえる、と考えるんですね。

 聞くべきクレームと、相手にしてはいけないたわごとというのは、表面上、言葉づらだけならほぼ同じ。
 ここがモンスターなんちゃらの巧妙なところなんでしょう。
 でももう、その手には乗らない。——そう決めるべき時期になったんでしょうね。

 ネットは、いろんな意味で情報の流通を画期的に高めたけれど、一方では「発言させてはいけない人にまで、発言の機会を与えた」ことが、無視できない問題になってきました。
 それで、今までであればまあまあなんとか丸く収めてきたことも限界を超えたということで、
「聞くべきクレームと、相手にしてはいけない(犯罪レベルなら法的対処を躊躇わない)ものを区別する」
 ことが、どうしても、必要になってきたんだなと感じます。

 確かにこれまでは「嫌いな人への配慮を」と言われることはあっても「好きな人への配慮を」とは言わなかったなあ、と思ったらちょっと可笑しくなりまして。
 もちろんこの言い方はユーモアによる「お返し」ですが——たぶん、今までなら、「好きな人」たちは、配慮を、などとは言わず、自由だの権利だのと大上段から振り下ろしていたんじゃないかな。

 自由だの権利だのと言うよりは、「好きな人への配慮を」の方が、柔らかくていいな。( ^ω^ )

 好きな人、嫌いな人、それぞれの配慮を、ということの例としては、タバコが引き合いに出されるようです。
 ただ好き嫌いではなく健康上の深刻な問題があることはまた別の問題として存在することはご了承いただくとして。

 確かに——嫌煙家も、愛煙家の「気持ち」には、もーちょっと配慮しましょう、とも、思います。

 そういうともう、猛然と、凄まじいブーイングを食らって、それを見るだけでも愛煙家の方は気分を害されるようですが。
 嫌煙家のアレはですね——「過去の恨み」なんですよ。過去、たいそう嫌な思いをしてきた、でも、それを、以前には社会風潮として、まるっきり無視された、——自分は踏みにじられて傷つけられて、誰も守ってなどくれず、自分はひとりで孤独に戦うしかなかった、という、悲しみと怒りの「過去」がある。

 やり場のないまま溜め込んできたものが、今、ああいう風に噴出しているのだ、ということを、ちょっとだけでいいのでご理解ください。

 私も嫌煙家であり、喉が弱いので健康被害も立派に受ける身ですが、でも、「他人の嗜好についてとやかく言いたくないし、いうべきでもない」という気持ちがあるし、それを(可能な限り)守っていきたい、とも思ってる。

 なぜというに、私自身も、他人から理解されない「嗜好」があり、もうそんなもんに理解など求める気もないというくらいになっていますが、不快であることには未だに慣れていない。
 自分がそういう思いをしているので、人様にも、同じことは(可能な限り)しない、という「決意」があるわけです。

 好き嫌いはお互いにどうしようもないもの。
 社会の中ではそのあたり、お互いに譲り合って我慢しあっていくしかないんじゃないでしょうか。
 で、譲ってもらったときには当たり前ヅラしないで、ほのかにでも感謝できたら、なおよろしいんじゃないかと思います。

 先日には「お客様は神様です、だといろいろ間違えるから、神様じゃなくて『お互い様』のつもりでいる」というツイートをお見かけして、ああ、まさに。と思いました。

 武士は相身(あいみ)互(たが)い——って言い方がありまして。
 武士じゃなくても、相身互い。
 そういうことで、いかがなもんでございましょう?
(……いかが、って;;)

(それにしても、このクソリプというもの、被害に遭っている方を見ると、同情の念を禁じ得ません;;)
(バカは相手にしない、というのが基本でいいと思うけど)
(でも、バカはすぐにいい気になる、図に乗る、というのも事実なので、そのあたりの兼ね合いが、考えるべきところなんでしょうね;;)
  
 
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「いい肉の日」は宮崎牛

 本日は、例によって語呂合わせで、11.29→「いい肉(にく)の日」だそうです。
 ツイッターを見ますと、食肉ばかりではなく人肉(基本、女性の人体)(あーハイハイ)の話も盛り上がっているようですが、いい肉の日、厳密には宮崎牛の日、というべきところらしいです。(^◇^)

 制定したのは「宮崎県のより良き宮崎牛作り対策協議会」様。

「味と品質の良さで知られる宮崎牛をアピールするために制定した」とのことですので、もし可能であれば、宮崎牛を味わってねというのが本来の趣旨なんでしょう。
  ……残念ながら、うちの方じゃ扱ってるところはない気がする。(o ̄∇ ̄o)

 宮崎牛の話をしたかったわけではなく、肉を食べる、ということについてちょっと最近考えていることがあるので。

 動物性の食品を口にしない、ベジタリアンや、より厳格なヴィーガンという方々をお見かけすることも増えたし、そのメニューにも興味深いものがありまして。
 
 菜食主義のお話を聞いていると、どうしても、肉食が「悪い」という概念にぶつかるわけですが、悪いの意味にも2つあって、一つは「殺生」を嫌うというところ。もう一つは肉食は消化器官をはじめ、内臓に負担をかけるので、栄養をとるメリットよりも、自分の体を痛めつけるデメリットの方がおおきい、という主張。
 それぞれおっしゃること、ごもっとも、と思います。屠殺を見れば肉食の意味を何も考えない人もないでしょうし。

 でも、私自身、肉食は得意ではないけれども、だからこそきちんと食べる必要を感じるし(体調として)、——実際、ご長寿の方には、粗食よりもしっかりお肉も召し上がる方が多いですよね。
 単純に栄養をとるというだけなら、量は多くなくても、肉はやはり食べた方がいい。
 どれほどの量が適切かはその人の体質によるところが大きいので、そこはもう、個人ごとに決めていけばいいこと。

 体質的に肉を食べられない人がベジタリアンになるのはわかるけど、でも、ワインにすらヴィーガン用のワインがある(ヴィーガンワイン)、と聞いたときはなかなかショックでしたねえ。
 何もそこまで、というくらいに厳格。

 ヴィーガンワインの説明を探したんですが、適切と思えるところが見つかりませんでした。
 どうしても、説明する側が感情的になり、アジテーション気味の主張を繰り広げてる……。これだとチョットな;;
 こうなってくるともう、その「主義主張」は、食べることの好みや医学上の話ではなく、「政治」の分野と言えそうです。

 食べることは。
 医学であり、文化であり、楽しみであり、コミュニケーションであり、呪術であり、そうして——「政治」でもある。

 個人的には、菜食主義のおっしゃることもわかりますし、私も取り入れているところがありますが、しかし——あまりにも極端な「排斥」は、これはこれで、精神衛生にはよくないように思います。

 あれがイヤこれがキライ、それは食べらなれない、ということがあると、自分にも他人にも、「不自由」なことになるんじゃないかと感じます。
 そもそも「山川草木悉皆有仏性」(全てのものに仏性がある)という発想をするなら「動物を殺すのはかわいそう。植物なら構わない」というのもおかしな話。
 動物に命があるなら、草一本にだって命がある。
 その命を奪って食べる、ということには、動物も植物も違いはない。………てのは仏教的な発想なんでしょうけども。

 もとから、「極端なことはろくなことにならない」という考え方をする人間だからってこともありますが、食べることを「娯楽」にすることに感心しないのと同様、食事に「政治」を持ち込み、他人を排斥したり否定したり、という態度にも、感心できない。

 食べられるものを節度を持って、ありがたく頂戴する——このことが一番大事なんであって、あれがイヤそれがキライと言って、せっかくある食べ物を無駄にすることになるのなら、それはもう本末転倒だろう、というのが私の思うところ。

 美味しくいただけるものがあればなんでも美味しくいただきます——というのが、私の「食」への態度、ということになりましょうか。

 飽食、暴食ではなく、といって何かを排斥して「捨てさせる」こともなく、どうぞ美味しい食事を。
 そうであれば当座、幸せだなあ、と思います。

 食べることができるって、幸せなことなんですよねえ……しみじみ……。 
 
 
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やさしいごはん


 
 料理つながりでこんなお話。

 私はみていませんが、ちょっと前にツイッター界隈で、麻婆豆腐の素とか、ああいうソースを使うのは手抜き料理、というようなお題で盛り上がっていたようです。
 材料を刻んで炒めて、で、あの「素」ソースを入れて火を通して出来上がり、というの。

 そんなん料理じゃない、みたいな極端なご意見もあったようで、かなり盛り上がったみたいですが。
 私は土井善晴先生のそのご著書は未読ですが、おっしゃる主旨が上記ツイートの通りであるなら、「そうですねえ」と思います。

 実際「単純なものを下に見る」という風潮はあるし、私はそれには反対することが多い。
 余計な湯むき、皮むき、過剰な灰汁(あく)取り……なんでそういうモッタイナイことするかな、と、料理に限ってはそう思います。

 基本的に野菜や果物というのは皮にこそ栄養がある。でも、いわゆる料理番組を見ていると、その一番栄養価のあるところを外しちゃうことが多いですね。
「何もこっちは小料理屋をやってんじゃないんだからさあ……」
 と、ちょっと苦い気持ちで眺めております。(^^;)

 外食——と言われるところは、わかりますよ。栄養価より見た目重視、栄養価より舌触りや歯ざわりの良さ重視になるというのは。
 でも、「非日常」としての「外食」と、毎日2度か3度の食事をするのとでは、意味や目的が大きく異なる。
 日常の食事というのは「美味しくいただいて明日への栄養」ってあたりが基本的なものになると思うので——むしろ、シンプルで栄養が取れて美味しかったらそれでよろしいのでは。

 麻婆豆腐の元にしたって、野菜やひき肉などは自分で選んで買って調理しているなら、それでいいんじゃないでしょうか。
 凝った料理でなければ料理じゃないというのは、妙な思い込みですね。
 そもそも、美味しいことと手をかけることって、意外と相関関係ないんですよねえ……。

 新鮮な材料がなかなか手に入らなかったという歴史のある地域では、めったやたらに手間のかかった料理があったりしますが、——野菜でも魚でも、新鮮だったら食べやすい大きさに切って焼いて塩を振る、ってのが一番美味しかったりするんですよね。

 昔は冷蔵技術も何もない、せいぜい漬物にするくらいしか保存方法がなかったんだから、伝統的にああいう料理になるのも無理はないなあ……、と、変なふうに同情しながら見ているときがあります。(この辺をあんまり言っているとよその地域をディスることになるのでやめておきます;;)

 手をかければ合格、どんなに美味しくても「切って焼いて塩」ってそんなん手抜きだ、料理じゃない、などというのもおかしなことだと思いますね。

 どうも今の世の中って何かと極端化してるんですかねえ……。凝る人は変に凝るし、構わない人は、学校給食がないと子供が栄養失調になるような食生活を平気でしている。
(経済上の理由によるものではない)
(……マジで夏休み明けの子供の中には栄養不良になって新学期を迎える子がいて、学校、PTAともども、頭を抱えている)

 食べることの意味が——なんとなくおかしなことになってる気がする。

 栄養とればいいんだろうつってサプリメントばかり胃に流し込む人もあるというし……「調味ソース」を使ったら料理じゃないっていう人もいるし。
 極端だなあ……。

 かく申します私は、試験期間の1週間、コーヒーとトーストだけで過ごして、試験明けに見事に倒れた、という経験がございます。(^^;)
 もうあのへんで猛省して考え直して、「食べる」意味を考えてきた気がする。

 ここだけの話ですが、和菓子の小豆あんね。
 試しにご自分で、灰汁を取らずに豆を煮て、甜菜糖あたりで作って見てくださいな。べらぼうに美味しいから。
(食品添加物を避ける、という人は、白砂糖なんか絶対使っちゃいけません。白砂糖などは究極の化学物質ですよあれ)

 灰汁の正体もまた、実は栄養の部分だったりします。(^^;)

 ただ、恐らくは「雑味」とも言えます。「商品」として安定した味で提供したいのなら、あの雑味は、やはり邪魔になるでしょう。
 だから、「商品」にするときは、ああいう灰汁などは取ってしまう、皮も取ってしまう、というのは、わかる。

 でも、雑味ではあっても苦味じゃない。
 私は小豆餡の中でも豆をほとんどそのままでいただく「田舎あん」(俗称ですが)が大好きですが、その雑味こそが、豆本来のふっくらした風味と味わいであり、ポリフェノールそのものだったりします。

 手間をかけなければ料理ではない、って、これもおかしな「信仰」だな、という気がします。

 手間をかけることを「目的」にするのもおかしいし、カロリーと栄養素があればいいだろうと言って「食べる」意味を無視する態度も、——どちらも結局は、「自分の体を大事にする」「いのちを大事にする」という、いっちばんの「基本」を、見失ってる気がする。

 私にはとても実技としてはついていけませんが、でも、食べる意味を知るには、辰巳芳子さんのお話が、いちばんわかりやすいかもしれない。

 なんにしろ、それがどんなことでも、あまりにも極端なことを言って、自分や他人を苦しめることのないように願いたい。
 ごはん、食事、って、本来はとても「やさしい」もののはずなので。
 
 
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料理は愛情を以って真とする

 ——「料理は愛情(が大事)である」。
 この命題は、真か偽か?

 愛情が詰まっているので料理が美味しい、というのはひとつの思い込みで、愛情をかけていようがいまいが、うまいまずいは調理の腕前しかないではないか。——という、事実といえば事実、ドライといえばドライな見解もございます。

 まあ、それはそうですよね。いかに料理をする人が、食べる人に対しての愛情があって、その思いを込めつつ調理したって、技術的に問題がある場合、あるいは味覚のズレがあまりにも大きい場合などは、愛があってもチョットねえ、ということになります。これは当然。

 とはいえ。
 今はそういうのも減っているかもしれませんが、むかーしは、やはりああいうお店の厨房などは見るものではない、という感じでしたね。私も実際、そんなふうに聞かされたことがあります。

 わずかな手順や時間の狂いが「商品」をダメにしてしまう。厨房は戦場であり、それゆえに、凄まじい罵言や怒号が飛び交う場所なのだ。
 だから、客は、厨房やその付近になどやたら近づくものではない、と。
 そんな話を聞かされて、わあ、やだなあ、と、子ども心に思った記憶がございます。

 栗本薫さんの(…あ。あれは中島梓名義だったか)のエッセイで、レストランで食事をしていたら、厨房の方から人が怒鳴りまくる声が聞こえてきて、食事どころじゃない感じになり、もう料理が美味しいなんて思えなくなったというお話もありました。
 もうそういう店には二度といかなくなる。

 そういうもんだろうなと思います。はい。

 土井善晴先生はしかし、そんなところで作られたものには「痛みとしか言えない雑味が必ず見つかる」とおっしゃる。



 私などは迂闊な人間なので、そういう劣悪な環境下で調理されたものでも、黙って出されたらわからないかもしれませんね。
 でも、敏感な人ならそういう「雑味」に気づくということはあるんだろうな。
 人から怒鳴られて気持ちが良くなる人はまずいない。萎縮するし怒りも感じるだろうし、本来なら注意しなければいけないところから、怒鳴られている方へ意識が行かないわけはないので、どこか上の空になり、何か、細やかな仕事をとり落すだろうことは、想像できる。

 そう考えると「料理は愛情」とは、言えるでしょうね。
 これは「愛情を込めて作れば調理の腕前の未熟さをもカバーできる」ということではもちろんない。
 ただ、人を罵倒しながら何かをするなんてのは、調理をうんぬんする以前の問題だ、ということ。

 料理は愛情、というのは、そういう気持ちがあれば、作業も丁寧にやる気になるし、勉強しようという気持ちにもなるし、工夫しようという気持ちにもなるし、食材そのものにも感謝する気持ちにもなろうし——という、そういうことじゃないでしょうかね。

 忙しくて戦場状態になるだろうことは理解できるけれど、でも、人を罵倒しながらだなんて、そんなことならテメエひとりで作業してろ、ってことになりますね。

 でもそういう、平気で他人を罵倒「できる」人って、自分ひとりで作業しているときですら、何かにつけてぶーたれていそうですよね(笑) 古典落語の、小言幸兵衛さんのもっと激しいバージョンて感じで。

 私は料理を始めるとそちらに意識が集中してしまい、人から話しかけられても返事もしないということが多いようです。(……って母に言われる)
 無視しているわけでもないし怒っているわけでも(当然)ない。ただただ、作業に没頭して気がついていないだけ、ということで。
 余裕がないってことなんでしょうねえ……。基本的に料理上手というタイプじゃないし。
 自分であれこれ「遊ぶ」のは好きですが、上手、器用、ではない。絶対に。
 自分で料理をするようになったとき、テレビ番組で先生方があれこれ喋りながら番組を進めているって、あれはすごいわ……! と、尊敬の念を覚えましたよ。(^^;)

 食べるものはその人の身体になっていくもの。殊更に愛情がどうこういう必要はないけど、罵倒、怒りという「毒」を盛るのだけはカンベンして欲しいですよね。

 で、冒頭に戻って「料理は愛情。この命題は真か偽か?」。
 私は「真」としたいと思います。
 まあ、ある意味、命題にしなきゃいかんような、悩むべき問題では、本来はない、と思いますけども。(^^;)
 人の身体を作るために料理を作って食べてるんですから、毒を盛ってどーすんのよそんなの論外としか言いようがないでしょ。ってことで。

 ちなみに、土井善晴先生のツイートの話題のきっかけはある映画。
 このツイートは、先生のお考えが(映画に触発されて)閃いた、というだけのことでしょう。

 リプの中に、その映画を土井先生がディスったと解釈しているらしい、あさっての方向からの非難が来てますが………別に映画そのものについてのツイートじゃないのにな? このかた、映画の関係者なのかな? と思ったり。
(そんなわけないか;;)

 映画の方は、「二ツ星の料理人」というもののようです。

映画「二ツ星の料理人
映画.com 特集記事より

 日常の「褻」としての家庭料理と、ビジネスである「外食」とは、正確には「似て非なる」ものと考えるべきかとは思います。
 でもまあ、——口から入って血肉になっていくものだ、ということにはかわりないわけなので、愛情をとまでは言わないけど、毒を盛るのはやめてね、と思います。
 結構な金額払って毒を口にするって、なかなか大変なことですわ、考えてみれば。
 
 
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獣性のころ



 またツイートの引用ですみません。
 リンクがあればそちらにするんだけど、こういうのはフィーチャーフォンではどうなるのかな…;;(ついったーさん、なぜにフィーチャーフォンでのサポートをやめちゃったの?;;)

 とはいえ私が書くのはこちらへの感想ではなく、「それで思い出した」話なので、直接、どうしても、ご覧いただかないと話が通じないってことはないのですが。(^^ゞ

 ツイ主様のエッセイ漫画ってことで——ぬしさま(っていうと里言葉みたい;;)中学生の頃のお話で。
 主さまは大腿骨を切断して付け直すという、大変な手術をなさったそうですが、しばらくの間は学校にも行けなかったんですね。
 で、遅れてはいけないというので勉強はしっかりやっていた。そうしますと成績が学年1位ってことになり、「ガリ勉」的に変に目立ってしまったとか。
 それがきっかけで、「ご学友」の皆さまからは随分心ないお言葉を頂いた旨のお話。

 ただでさえ大怪我をして大変だった人に、なぜ、そういう、ここでは書くのもはばかられるようなことを言うのか。よく言えたもんだな、と思います。人間じゃねえなオマエラ。
 嫉妬心のくだらない(まさに負け犬の遠吠えの)言葉だというのはわかりますが、でも、これを言った連中ってさ——そういうものを平気で外へ出して、しかも恥じるということがない——ある意味、その人の「本性」そのものなんでしょうね。
 くだらない、最悪の、醜い姿が丸出しになるのが、この中学時代ってもんだよなあと思いました。
 それでつい、自分の暗い過去も思い出されてしまいまして。

 あの年齢の頃ってなんなんですかね。
 幼い頃にはもうちょっとマトモだったり、あるいはもっと年をとると多少、人間としても磨かれてくるけれど、12〜15歳ごろって、その人の一番ネガティブな部分が丸出しになる、そういうことが多いように思います。

 一説には脳の構造が変わるのと、ホルモンとの関係で、ああやって荒々しくなり、「獣性」が剥き出しになるのだ、——という話も聞いたことがあるけど、全員が全員、こういう「人間未満のケダモノ」「と言ってしまってはあまりにケダモノに失礼」な状態になるわけでもないですから、——環境なのか、性格なのか。
 ホルモンだけに責任を取らせるわけにはいかんでしょ。(^^;)

 未来に希望を持たないかわり、過去に執着する(あの頃は良かった…ってやつね)こともないタイプなんですが、中学時代って「あの頃に戻りたいとは思わない」どころじゃなく、「戻るのは絶対イヤ」「金を積まれたって断る!」というレベルでイヤです。

 俗に「黒歴史」というものは、でも、だいたい、中学〜高校くらいに刻まれることが多いようです。
 ホルモンの関係もあるにせよ、やはり何かと未熟で、その人のネガな部分が暴走しやすい時期ではあるのかもしれません。

 自分はもう二度とあんなところへ戻りたくはないけれど、でも、じゃあ現在それくらいの年齢の人、これからあの時代へ入っていく人に対して、「黒歴史は刻まないように」と思うかと言えば、それもないです。
 黒歴史も暗い過去も重い罪悪感も、必要なことなら体験することになるし、必要なことなら、あえてそれを避けるべきでもないでしょう。
 失敗も暗い記憶も含めて、それが自分というものになっていく。
 そのことまでも否定しようとは、私は思いません。
 
 何でもかんでも、先回りをして、幼い人、若い人の道を、石ころ一つないほどきれーに「歩きやすく」整えてやることが、「いいこと」だとは思えない。
 転んでも怪我をしても、———そこから回復する手助けはすべきでしょうが、石ころをぜんぶ取り除くことは、むしろ、「余計なこと」なんじゃないかな。


 ちなみに。
 そうやって自分の最もネガな部分が出る時期に、私が何をしていたかというと、自死の方法を徹底的に「研究」しておりました。

 芥川龍之介は、事実上の遺書と言える「或る阿呆の一生」で、「可能な限り迷惑をかけない方法を調べ、考え、決めた」と書いていますが、その見解には私も賛成。
 何をどーやったって人に迷惑をかけてしまうことなんだから、せめてその「被害」が軽微で済むようにしよう、と、そこまで配慮するのが筋ってもんでしょう。
(なんの筋だか。(^^;))

 しかし、面白いもので、そうやって「殺し方」を知るということは「生かし方」を知ることにもなるんですよね。

 蘇生法とか、各内臓をいたわる方法とか、胎児のときに使っていた神経である、経絡(けいらく)の話とか——、つまり、健康法ですね、それから、食事のこととか。
 殺す方法から、活かす方法へ、と———知識が転換されていったのは、今から振り返るとちょっと笑えますけども(笑)

 でも、ものごとってそういうものかもしれません。
 裏と表で、違って見えても、本体は同じもの。

 金を積まれたって戻りたくない自分の過去。でも、現在とこれからのお若い方に、あの暗さは何としても忌避せよ、とも、思わない。

 人間未満の獣性を経験するのが必要なことなら、何が何でも避けろ、とは、言えませんよね。そりゃ。

 ひと一人の命を奪うというような重犯罪にいたらないこと、それだけを守れるのなら、人の最悪の暗さを味わってみるのもいい。
 それも人生なのかもしれません。
  
 あんな時代には二度と戻りたくない、という「感想」に変更はありませんが(笑)
 
 
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好きのお話

 将棋もそうですが、「私自身には何が何だかさっぱりわからない」「でも面白い」ものってあるものでして。

 いわゆるミリオタ(ミリタリーオタク)さんのツイートを面白く拝見し、ときどき、RTなどもしておりますと私もミリオタかと思われることがあるようですが、イイエ、全然。残念ながら。

 こういうことは昔からあって、自分自身には興味がないことでも、話し手の人の話具合によってはふむふむと面白がって拝聴します。

 たぶん話されているジャンルそのものより、「熱く語る人」が、私には興味深いし面白いんでしょう。
 これはちょっと特技と言えるのかもしれませんが、自分にはなんのことだかわからないのに、話の要約はできる、という妙な能力(?)もあるので、そのおかげもありましょうか。

 以前にいた会社ではちょっと専門的な技術翻訳もやりましたが(っていうと驚かれますが、技術翻訳の方が文学作品の翻訳よりはずっとやりやすいです。割と範囲は限られるので)、それができたのも、「話の内容はわからないけど要約はできる」おかげだったと思ってます。

 なんの話かわからないのになぜ要約ができるのかというのは——、よーするに「ポイントとなっているのはどこか」が分かりゃいいから。
 前後の文脈で「ここがポイント」「ポイントとポイントをつなげて起承転結」という「構造」は見えるわけです。

 自分には未知の分野のことでも、話し手さんがある程度噛み砕いて適切に解説してくれるなら、「お話の構造」は理解できる。
 あとは、まあ楽しそうに目をキラキラさせている人を眺めていればよろしいわけでして。

 わからないながらも、そんな熱いトークを何回か聞いていれば、なんとなくでも知識は付いてくる。
 面白いもんですよ。
 好き、という情熱は才能をも超える、努力は「好き」には敵(かな)わない——という言葉も聞きますが、そういうこと。
 ひとさまの「好き」を見ていることが好き。(╹◡╹)

 同じように、どちらもいろんな知識を披露しているし熱心に話していることには変わりないのに、そうやって聞き入るものもあれば、申し訳ないが5分と持たずに飽きてしまってそわそわし始めることもある。
 ハタで見ている友人には何が違うのかと言われたことがありますが——その違いは、「自分の好きを語る」のと「他人に感心されたくて知識を披露しているだけ」の違いですね。

 男性にとって女性に「認められる」「褒められる」ことがどれほどの大事か、「死活問題」でさえあるか、というのを最近になってようやく知りまして(ジョン・グレイ博士と福岡伸一先生のご著書で)。
 これは種としての根元のことなので、男女双方にほぼ、なんの自覚もないことですから、やたらにいうとまた猛反発を食らうでしょうけども。
 それを知ったときに、ああ、だから個人的には興味もない女からさえ、彼らはああも感心され、「すごいね」と言われたがるのか、——と、ようやく腑に落ちました。

 話しながら人の顔をチラチラと見て、さあどうだという顔をされるのは、ちょっと困る。申し訳ないけど。
 こちらとしてはむしろ退屈しているくらいだけど、でも、感心されたい尊敬されたいすごいと言われたい、というのが伝わってくると、無下にもできない、と思うのが人情。
 ご期待にはそいたいけれども、悪いことには私は正直の上に馬鹿がつく。
 気をつけても内心というものは伝わってしまうもので、期待通りに尊敬されないとわかると、不快そうな顔をされる。
 さらに私の場合イカンかったのは、俗にオタクと言われる人の話は、へー、そーなんだー、と面白く聞いていたあたり。
 
 何が違う、と、(不愉快に)思うんでしょうね。

 申し訳ないけど、全然ちがう。
 他人に感心されたい、というのと、ただ自分の「好き」に熱中しているのとでは、違う。
 ぱっと見の、うんちくの量や話の細かさに違いはなくても。

 また、オタクには謙虚な人が多くて、自分の好きは他人に理解されない、それどころか迷惑がられたり不快に思われたり、あるいは「変人」扱いされるもの、という意識の方が強くて、女性に感心されるなんてことはほぼ、期待していない。
 だから尚更、自分の好きに没頭するのでしょうが、——私にはその方が面白い。

 私自身にはなんの知識もなく、ひどいときには興味さえないのに、「熱いオタ話」は面白がって聞く。
 それを可能にしていたのは、「なんの話かわからなくても、話の要点はつかめる」特技のおかげ。

 好き、ってのは、いいもんです。
 私が好きなのは、「好きに没頭する人の姿」ということになるでしょうか。

 そういう次第なので、なんで世間一般では、オタク話っていうと、薄笑いを浮かべられることがおおいのかなあ、と。
 そのあたりの方がむしろ不思議です。(^^;)

 それぞれの「好き」を極めていける世の中って、平和で文化的であることが必要なんだし、——好きは平和の基礎とも花とも言える。気がする。

 なんだか話が急に遠大になったところで、本日はこの辺で。
(収拾つかなくなりました・笑)
 
 
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希望の裏返し

 こういう「ハウツー」って聞いたって参考にならない、現実的じゃない、とハナっから否定する人もありますが、でも、聞いておいて損になることでもないので、ちょっとだけでも。
 ね。(^▽^)

不満をより効果的に伝えるには
2016 年 11 月 21 日 12:57 JST  THE WALL STREET JOURNAL


 日本で過剰労働が減らないのは「お客様は神様。俺は客だから神様だ」という、過剰にサービスを求める風潮も原因になっている、というツイートをお見かけして、うんそれはあるなあ、と思いました。

 もういい加減、きちんとしたクレーム(complaint)と、相手にする価値もない、というより速やかに警察に届けるべき「言いがかり」「恐喝」「脅迫」「強要」とは区別しましょう、と言っておりますが。
 その一方で、でも、「ちゃんとした」クレームを言うって、案外できない人が多いんじゃないかと、上記の記事を読んで思いました。

 ちゃんと、適切に、不満なり希望なりを伝えると言うことは必要。

 世の中には、モンスタークレーマーがいる一方で、ちゃんと自分の希望を述べるときですら「自分さえ我慢していれば丸く収まるんだ」と思い、黙ってしまう人もいる。
 どちらも望ましいことじゃない。

 モンスターなんちゃらも困るけど、黙り込んでしまうのも、長期的に見るといいことではないでしょう——本人にもだけど、実際は、周囲の人、あるいは社会全体にとっても。

 どうも今は、我慢しちゃう人と、耐えかねて不満が爆発しちゃう人とに分かれているような気がする。(モンスターなんちゃらは論外とする)
 
 ちょっと混雑したエレベーターや電車の中で、むやみに周囲の人に(無言で)怒りをアピールする人っていますよね。
 何について怒っているかというと、「自分はこの階/駅で降りるんだ。邪魔だ、どけ」ってこと。
 それでひとりでプリプリ怒ってる。
 タチが悪い奴だと肘で他人を小突いたりしますよね。

 ——黙って突っ立ってるだけで、オマエがどこで降りたいかなんて他人にわかるかボケ。
 と、何度思ったかわからない。
 こっちはエスパーじゃないんだ。
 まして身動き取れない混雑した場所では、互いに「譲り合う」しかないのに、誰がどこで乗降するかなんて黙っていたらわかるわけないだろ。

 なぜそこで「すみません降ります」って言えないのか。これは謎です。
 何のために口がついてんの? 喋れないの? 別に日本語じゃなくたっていいよ、英語でエクスキューズミーだって、何か言われて出口へ向かう動きがあれば、ああそうか降りるのかとわかるんだから。

 極端なんだよ、と思います。
 我慢する人は過剰に我慢するし、モンスターなんちゃらはすべての他人が自分のためにサービスして当たり前だと思ってる。

 モンスターなんちゃらについてはここでは置くとして、気になるのは、「不満なり希望なりを言わない/言えない」人。
 なぜモンスターなんちゃらよりも黙っている人の方を気にしているかと言うと、こういう人って放置されがちだから。
「手当て」が遅れるんです。
 で、手遅れになったら、いきなり爆発する。

 おとなしくしている、我慢している人って、周囲からみれば、ある意味、「便利」な人でもある。
 何だか顔色が悪いなとか落ち込んでるみたいだなと思っても、自分としてはその人が黙っている方が「都合がいい」から、ま、いいか、と放置する。
 よろしくございません。

 言いたいなら言えばいいだろうと乱暴なことを言う人もいますが、それができないから我慢しているんで、そこはやはり、周囲からの「手助け」は必要でしょう。
 世の中の人間全部が自分と同じように図々しい奴ばかりだと思うなよ。

 不満や希望を伝える、というのは、意外と難しい。
 不満を伝えるというと「怒り」とセットになっている人もあるけど、これも違う。
 伝えたいなら、むしろ怒りなんて感情表現は邪魔になるだけ。

 ということで上記の記事では、そのあたり、タイプ別の解説を加えながら「伝える」方法について書いているので、なるほどねえ、と。
 コミュニケーションも「技術」ですから、アドバイス、そっくりそのまま実行はできなくても、「そんなん聞いたって役に立たない」なんて言わないで、聞くだけ聞いてやってください。

 こういう記事などで、不満を伝えるにはこんなふうにしてみてと言われても、実際の状況や、人間関係として、そのまま実行はできない、ってことはありますよね。

 不満は溜め込んじゃいけないし、だからと言って表に出してはトラブルになる。
 そういうときは、自分で自分のその感情を認めてあげる、ということが、効果的でしょうね。

 不満を持つ自分を、自分勝手な人間だとかって責めないこと。
 このハウツー記事が「おすすめ」するような「技術」を試してみながら、やはり基本は、「自分で自分の気持ちは認める」ことは欠かせない。そう思います。

 不満の裏には希望がある。こうでありたい、自分はこうしたい、という気持ちがあるから、裏返しになると不満になってしまう。

 もう一度、それをひっくり返して「表に返して」、こうでありたい、自分はこうしたいという「希望」に戻す。
 自分はそんなふうに思ってるんだな、と認める。
 不満で気持ちがパンパンになっていると、「自分の希望」さえ、見つけられないんですよね。
 で、自分が望んでいることに気がつくと、不思議に、気持ちがホッとする。

 不満というのは、内側からのノックなのかもしれませんね。
 私にはこういう希望がある、こういう望みがある。それに気がついてくれ、という合図。

 もし、自分はこうしたいと思っていることがある——と気がついたら。
 そうなのか、と認めるだけでいい。「評価」はしないこと。

 評価するってことは「裁く」ことでもありますから。
 いいとか悪いとか言い出すと、結局、自分を責めたり、人を恨んだり、になることが多い。
 そうではなく、自分の望むことを、私はこれを望む、とだけ、認めてあげる。


 不満についてだけのことじゃなくて、どんなことも、「自分の内面の手当て」と、「外に表現する技術」と、両方をそれぞれに働かせることが大事なんでしょうね。
 口で言うほど簡単じゃないことは、私自身もよっく! 承知してますが。(^^;) 経験者ですなんてもんじゃない。リアルタイム進行中です(笑)

 ということで。
 基本的には独り言なんだけど、でも、どなたかのご参考になればいいなと思って、メモがわりに書いてみました。
  
 
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インターネット世界の吝嗇

 吝嗇(りんしょく)、ということがちょっとだけ気になってる。

 たまに、雑誌とか、あるいはテレビ番組でも、「街で聞きました! あなたが人に教えたくないと思うお店は?」みたいなアンケート。
 実際にそういうことってあるもん? と不思議に思うんですが、あります?

 自分の努力の結果か偶然かを問わず、例えばすっごく美味しいものを食べられるお店を見つけたとしたら。
 人には言わないでおこう、とかって思います? 思うことあります?
 ……あるものなのかなあ。
 私は黙っていろと言われても喋っちゃいますねそういうことは。

 人にベラベラ喋ってはいかんことは絶対喋りませんが、ポジティブなことであれば、何か特殊な事情がない限りは(お店の方針として手を広げないようにしているからとか)、まあ、喋りますね。黙っていられませんねむしろ。黙っていろと言われたらそれはもう拷問ですね。

 何か「いいこと」を見つけると、わーこれ見て、これ! と騒ぐタイプ。
 なので。
 いいこと、いいものを見つけて「自分だけの秘密」にして「他人には内緒」にしよう、という感覚が、私には理解できません。

 なんでそんなことを考え始めたかというと、情報の共有という特徴を持つSNS上において、情報を「独占しようとする」人をお見かけするようになったからです。

 ちょっと耳寄りなことだったり、多くの人がぜひ知りたいと思っていたことだったり、お宝画像・動画だったり。

 それを見せていただけるのは結構なんですが、まず滅多に、その出典や情報元(いわゆるソース)を示さない、不思議な人がいる。
(不思議というのは私の感覚では、ということですが)
 フォロワーのなかには「どこからの引用か」「情報元はどこか」、と尋ねる人もありますが、そういう人に対しては剣もほろろってヤツで、まさに「それくらいググれ」的な対応しかない。

 これが時々のことだったらわかるんですが、いつもいつも、となりますと。
 言い方は悪いんですが、「ケチだなあ」と思うに至りました。

 そりゃあ、時間がかかることもあっても調べれば大抵はわかりますけど(ついにわからずじまい、ということもある)、でも、なぜ、「人に教える」ことを、そうまでも「嫌がる」んだろう?
 私にはそれが不思議で。

 それでいて、その情報自体は掲示するんですね。掲示されれば人はわっと集まる。これ、どこで入手したんですか? と聞かれると、でも、いきなり不機嫌になって自分で調べれば? とくる。

 それを見て思い出したのが「美味しい店を見つけても人には教えない」というお題。
 なんじゃそりゃと今までは気に留めずに来たけれども、世の中には本当にそういう人がいるんだなあ、と。

 結局、人と何かを共有したいというよりも自分が「自慢たらしく」していたいだけなんだろうか。——というのが私の疑問。
 こういう態度を一言でいうなら「ケチ」「吝嗇」ということになる。

 何か「いいこと」なら、みんなに知らせたいし、知れば喜ばれるのはわかっているのであれこれ付帯情報も(聞かれなくても)つけちゃうよ、という人間からすると「無意味な意地悪だ」(©︎「花咲ける青少年」)としか思えないんですよねえ……。
 情報を共有するのがSNSじゃなかったんすか? と思いながら、今日もまた情報探索の旅に出る。まあいいけどさ。

 あんまりこういうタイプの人とは(リアルな場所では)お付き合いないので——しかし考えてみると、それって幸せなことなんだな、としみじみしてます。こういうタイプとリアルな付き合いがあったら結構しんどそう(笑)

 なるほどケチってこういうものか、ということで思い出したのはフロイト。
 こういう「説」があるよ、というだけのことなので、あんまり真面目に聞かないで欲しいんですが、フロイトの説いたことの中に「人格の形成」がありまして。「精神発達過程」の理論。

 口唇期(0歳~1歳半頃)・肛門期(1歳半~3歳頃)・男根期(エディプス期,4歳~6歳頃)・潜伏期(6歳~12歳頃)・性器期(12歳以上の性器統裁の段階)という分類がありまして……ええまあ何しろフロイトさんですからどーしても性的な話になっていくので深入りしないでいいと思いますが。

 その中の「肛門期」にちょっとトラブルがあると、「肛門性格」になることがある、というお話。
 肛門性格 anal character は「倹約・吝嗇(ケチ)・頑固・几帳面・神経質・強迫的」が特徴とされます。
 倹約とケチは違うだろうというのが私の思うところではありますが——、なぜそんなことをするのかわからない、とまで他人様に思った「ケチ」は、これが初めてなもんですから。
 ………ケチってこういうことか、でも、なぜそんな無意味なことをするんだろう、と、ついつい考えていた、という次第。

 その人が肛門性格かどうかはもちろんわかりません。ただ、私の、いろんなところへ連想が飛んでいく無節操な脳みそが、そんなことを思い出して来たよということで。
 
 まあ実際、それがケチに該当するかどうかは置いといて。
 ネットの世界では情報の真偽を見定めることは生命線とも言えるので、信頼という意味で、ソースを示す方がいいと思いますね。
 
 ちなみに私は「口唇期性格」の傾向なんじゃないかなあ(笑)
 口唇(期)性格は、総じて無気力になるんだそうです、自分で自分を嫌っていて。
 むやみに口さみしいって感覚・傾向はありませんので、そのあたりには、どうぞお気遣いなく(笑) 
 
 
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愛は惜しみなく奪う

 今朝午前6時ちょうどを前後にして地震がありました。
 うちの方は震度では大したことはなかったようですが、ただ、時間が長かったのと、あのゆらゆらするミョーな横揺れの感じに覚えがあり、もしや、と思いました。
 思いましたが朝は忙しい。ついそのまま、テレビもつけずツイッターも見ずにいたので震源地その他、1時間ほど何も知らずにおりました。

 今の所は幸い大きな被害の情報もないし、津波警報も注意報になりましたし、このまま、収まってくれることを願うばかり。

 で、これ、気象庁によればやっぱり、2011年のあの地震の「余震」だそうですね;;
 数年にわたって、震度4、5の「余震」はある、と言っていたけど、本当にそうなんだな、と。

 注意報解除まで、どうぞご油断なくお過ごしを。

 あと、ツイッターでもちょいちょいつぶやいているのをお見かけしますが、この地震の影響は直接にはない地域の方々は、必要であれば情報を絶ってくださいね。
 震災でも、テレビなどの情報を見ているだけで精神的ショックは同じなので、避けるように、という注意喚起が出ましたから。

 情報の扱いについてはあらためて考えてしまいますね。
 なんにしても、落ち着いて参りましょう。
 慌てても状況が変わるわけでもないんだし。

        ●

 また抽象的でわけのわからん寝言になって申し訳ない。ので、できるだけ手短に切り上げたいと思いますが。
 いわゆる「芸能人」と呼ばれる人々の、「泉」であることについてぼんやり考え中。

Read Selena Gomez’s Emotional Speech at the American Music Awards
2016/11/21 9:00 AM  TTIME Staff
 
 昨日は American Music Awards 2016 の授賞式がありましたそうで。
 ご病気のためにその活動を休止する旨、すでに発表されています、セレーナ・ゴメスさんは、同賞「the award for Favorite Female Artist — Pop/Rock」(もっともお気に入りの女性アーティスト・ポップ・ロック部門)を受賞なさいまして、そのときのスピーチ。
 翻訳はこちらに。↓

セレーナ・ゴメスがAMAに出席!受賞スピーチで涙ながらにファンに感謝
楽天Woman ニュース

 芸能、芸術というのは概ね、神や天に捧げるものとして始まっていますね。
 歌でも舞踊でも、あるいは演劇、詩……、何かに「捧げる」ということは「無償」の態度です。
 言い方を変えれば「ただ与える」だけのもの。

 実際には、神や天に捧げるのも、人間の希望を叶えてほしいという気持ちはあるけれど(天候の安定とか五穀豊穣とか)、明らかな見返りを期待しているわけでもない。
 わかりませんからね、人間には、神様のお気持ちなどは。(^^;)

 一方的に「与える」もの。
 芸能が持つ「徳」というのは、素晴らしい歌なり舞踊なりで、天のみならず、人の心をも慰め、あるいはエネルギーを上げて、生命力を湧き立たせる。そういうところにある。
 多分これって、やっぱり「愛」ですよね。

 とりあえず現代社会の金銭的なこととや俗世の仕組みのことはすっぱり忘れていただいて、そういうことは取っ払って、私が話しているのはもっと「原始」のもののことだとお考えいただきたいのですが、——本質論、というのかな。

 歌や舞踊、芝居、歌、朗唱、……芸能は人を感動させる。感動すれば「魂(たま)振り」が起こり、人の心ばかりか体にまで「元気」「勇気」「活力」を与えることができる。
 古来、芸能に携わる人々が、特別な——ある種「聖職者」の扱いを受けるのはそんなところに理由がある気がします。

 さて、しかし。

 いかに才能に恵まれ、天上から愛でられた人であるにしても、生身の人間は、生身の人間。
 人が、ただ「与える」だけでは「壊れていく」のは、当然ではないかと思います。

 人間関係の良好さとは「循環」があることだというのが私の考えるところ。

 どちらか一方だけが与え、どちらか一方だけが奪い続ける、というのが健全な人間関係ではありえない。家族でも友人でも、仕事仲間でも。
 互いに与え、互いに受け取るという「循環」があってこそ、人間関係として成立する。

「神子(みこ)」としての芸能人と、そのファン、というのも、広い意味での「人間関係」だとすれば、やはり、そこには循環がなければ成立しないはず。
 そのはずですが、でも。
 ファンという人々が、時にどれほど残酷な略奪者になるかを、私どもは知っている。

 他人の振る舞いを見ても、あるいは自分自身の中にも、その残酷さがあるのを、知っているはず。

 神ならぬ身。人は、与えるだけでは壊れてしまう。
 奪う方も——奪うだけではいずれ、自分の行いの残酷さ(それを自分で認めようと認めまいと)に傷ついていく。

 私が、有名人芸能人と言われる人々に必要以上にわあわあいうのが嫌い、他人の振る舞いであっても見るのも嫌、というのは、この辺が理由ですね。

 私自身はセレーナ・ゴメスさんのファンということではないのですが、ただ、あまりにも、彼女のスピーチを聞いてもこちらの方が胸が苦しくなるほどで、でも、そういう中でもよく抑制の効いた言葉で、——頭のいい、素敵な人だなと思いました。

 そういう人を——そういう人「から」犠牲にしていく現代社会、そこにいる人々——。
 ——ひでえもんだ。
 しみじみ、そう思います。

 愛は惜しみなく奪う、と言ったのは有島武郎でしたね。
 十代の頃の私は、その言い方には大いに不満に思いましたが、今は——なるほどそうかもしれない、と、うなだれています。(年をとったんですかね/笑)

 いわゆる有名人を「同じ人間扱いしない」残酷な人々を、胸焼けがするほど見てきました。
 ……こういう残酷さって、どうしたもんでしょうかね。

 与えるということは素晴らしいことですが。
 誰かが与えるだけ、誰かは奪うだけ、というのではその素晴らしさの意味がなくなってしまう。

 本当は、与え「合う」ことがあってこそ、豊かな人間関係になるんだと思います。

 その素晴らしい泉も、水は無尽蔵ではないし、水を求めてずかずか踏み込めば泉は荒れてしまうということを。
 なんとなく、つらつら、考えております。

 与えるだけでも奪うだけでもない、与え合い、受け取り合う、循環。
 それはあまりに遠い理想論なんでしょうか。

 ………そうは思いたくないんだけどなあ……個人的には。
  
 
 
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ありそうでないもの

 かなり真顔で、「パジャマにもなる部屋着」を探しております。

 それくらいすぐにあるだろうと思われるでしょう?
 でも、ないんですよこれが。

 パジャマそのものではないけどそのまま寝られるような、パジャマとしての機能があるもの。
 なおかつ、ちょっとホテル内を歩いても(それほど)恥ずかしくない程度のもの。

 ありそうで、ありません。

 パジャマということなので吸湿性、保温性があり、体を締め付ける感じは(当然)なく、リラックスできるもの。素材は可能な限り天然素材希望。
 で、ホテル内をちょっと歩くくらいならまあいいでしょう、というと、いわゆる「ワンマイル・ウェア」を考える人が多いんですが、なんせ(いいトシをして)寝相がアレなんでスカート形式はいけません。パンツであることは必須というくらい。

 ワンピースや浴衣はいけません。浴衣、特に最近ホテルに多いですが、ロング丈のシャツ、みたいなやつ。あれ案外、寝苦しいです;; 寝ているあいだに変に体に巻きついてくる感じで。

 なぜ、「ホテル内を歩いてもまあいいか」くらいのものにこだわるかというと、一度、「自分を締め出し」をやっちまったからです;;
 あれは焦りますね。

 もうクタクタでお宿について、食事に出ていく気力もなかったのでルームサービスをお願いしまして。で、食べ終わったら来てもらってもいいんですが、ちょうど忙しい時間帯だったので、部屋の外へ置いておけばいいかな、と思い。
 ワゴンをドアの脇に置いて。
 ………振り返ったらドアが閉まっていた。と。
 ルームキーは持っていません。

 やっちまったああああ! と内心で叫びつつも、ボーゼンとしちゃいまして。
 ああいうときってもう声も出ないし、逆に無表情になりますね。
 ただ硬直しているしかない。
 ( ̄◇ ̄;) ←こんな顔して。

 ホテルによっては、廊下やエレベーターホールに内線電話を置いてあるところもありますが、そのホテルはなくて。
 例によってひとり旅ですから連れにフロントへの連絡を頼むこともできず。
 自分でフロントに行って、事情を説明するしかない。

 そのときはたまたま、通常の服装のままでいて、着替えたりはしていなかったのでよかったんですが(でも足元スリッパなのはもうしょーがない)、大体は宿に着くとすぐ楽な格好に着替えてしまうので。
 これでパジャマとか浴衣だったら、ちょっとどころではなくマズイ事態でした。

 あれ以来、「人前に出てもさほどヘンではない部屋着」にこだわっております。当然、ホテルの備え付けの夜着の類は使わない。

 こうしてみると日本の温泉旅館ていいよなあ、浴衣でウロウロしてるのはデフォルトだもんなー、と馬鹿なことを思いながらフロントへ行って鍵を開けてもらいましたが;;
 これでパジャマ姿とかだったらもう、生き恥を晒すというくらいのレベルだった、とあらためて冷や汗でした。

 そういう訳で、「パジャマにできて、なおかつ、部屋の外へ出て行っても違和感はない」部屋着を探しております。
 でも、なかなか、ちょうどいいものがないんですよね。

 今のところ、最適に近いものは、スウェットスーツ、ということになりますが……。
 以前に、しっかりした木綿素材のもので望み通りのものがあって助かってましたが、さすがに消耗して来て、買い替えが必要なんですけども。

 スウェットは何がよろしくないかというと、パーカータイプが多いこと。
 フードが寝ている時には邪魔になる時がある。首の後ろで丸まったりするとかなり邪魔。
 何かないかなあ——と、そういう訳で探索中です。
 今ちょっと人気があるらしいふわもこタイプも個人的には好きですが、あれで(部屋の)外を歩けるかというとどうも。(^^ゞ

 想定されるすべての条件を満足しようとするから該当するものがないので、どれか条件を外せ、と言われてしまいますが。
 さてさて。
 
 パーカータイプでよければ該当するものがあるので、それでよしとするか、それとも、他にいいアイデアがないか探すか…。
 今のところは新しいものを購入せずに考え中です。
 いいお知恵がありましたら、ぜひお知らせください。m(_ _)m
 
 
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日曜。雑談

 昨日は雨でしたが、今日はいいお天気! 日曜日でいろいろイベントもあるので、晴れてくれてよかった。
 暖かくなってくれたのも嬉しい。╰(*´︶`*)╯♡
 ただ、今朝の霧にはびっくりしました。今まで寒かったのが暖かくなったからでしょうか?
「ここは御殿場か?!」
 と思わず独り言が出た霜月の早暁。

        ●

 日曜日だしちょっとお休みしようかなと思いましたが、またどーでもいいことを思い出したのでひとつ。
 
 神様、とバクゼンと口にしたとき、その神様ってどんな姿ですか?

 以前、建設関係(だったと思う)の会社のCM、なぜかギリシア神話の神様がご出演で、面白いなあと思ったことがあるんですが。

 私の場合、日本人のアイデンティティとしては神道だし、宗教を問われるなら仏教徒なんですが、それなのに、なぜか、「神様」という漠然とした言葉を口にするとき、あるいは思い出すとき、脳裏にあるのは、「白髯(はくぜん)と白衣の男性」なんですよね。
 
 これはちょっと変でしょう。(^^;)
 八百万の神様や、数多(あまた)ある仏像や天部、神部の諸天を全部ぶっ飛ばしてなぜかキリスト教的神様なんですよね!

 キリスト教も神様の姿を直接説明してはいないし、偶像を作ることも認めていませんが、自分の姿に似せて人間を作ったということですし、女性は男性の肋骨だそうですし、となれば神様のお姿は人間の男性、ということになります。

 なぜか白いヒゲになっちゃうのは、これは「長い時間」の象徴なんでしょう。

 イメージ、というのは不思議なものです。(^^;)

 で——私は基本的には男嫌いですから、そうなったらもお、神様といえども、やっぱり「嫌い」に振れている。申し訳のないことですが。

 先日には、「運命の赤い糸で結ばれた人」について皆様がたいそうロマンティックなことをおっしゃる中、
「運命の相手だからって、何もかもがうまくいく相手とは限らないだろう」
「いろいろ大変なこともあって、それによって自分が成長することを約束された、そういう運命だってあり得るだろう」
 という、身もふたもないことを言って皆様からもんのすごい勢いで叱られた——なんてことを申しましたが。

 どうも私、神様とか運命とか、漠然としたそういう話になると、脳内にあるのは意地の悪い男性のイメージなんですよね。
 冷たくて意地が悪い。人さまに共感できない。人が嫌がることばかりを選んで押し付けてくる——それが運命であり神様である、というイメージ。

 こういうものをポジティブな気持ちで信じるというのは、難しいというよりは、そりゃできないでしょう、ということ。

 そもそも、神道の氏子であり仏教徒の私が、神様、というものにそういうイメージがあるのはおかしいよね?! と、今さらながら気がつきまして。(^^;)

 神様や運命というものを信頼する「感情」を育てるには、まず、このわけのわからないネガティブなイメージを書き換える必要があるな、と。

 意地の悪そうな白髯のジ…、もとい、ご老人、というのを、せめて「知恵のある優しそうな」ご老人、というくらいにはしたい。
 可能であれば性別は取っ払いたい。
 仏像などはほとんどが中性的ですもんね。観音様となったらかなり優美で、女性的です。
 
 せめて、ああいうイメージに置き換えたい。

 なぜ、よりにもよって自分が一番苦手であり現実にいたら嫌うであろう姿を、神様や運命に押し付けたのか。
 そのへんを考えていると、なかなか、自分のことながら泣けるところもありますが、それはまあいいや。

 天使さまについては。

 不思議と、一神教の中でも、天使さまについては抵抗ないんですよねえ……。何か言われるにしろ、天使であれば、ネガな印象もなく、はいはいと素直にいうことを聞けると思う。

 私は日本人の、宗教へのこだわりのなさは美点だと思っているので、このままでいって欲しいと思ってますが、でも、誰かがお亡くなりになったとき、
「●●さんは、きっと天国から私たちを見ていてくださると思う」
 なんてコメントしてますね。
 こういうあたりだけは、もう少し、配慮してもいいかもしれないなと思うことがあります。

 この天国というのは、厳密には一神教の教義による名称なので、もし葬儀が仏式だったら、正確には極楽というべきところなんですよね。
 神道だったら高天原か、あるいは根の国か。理想郷的にいうなら常世かなあ??(どうでしょうか;;)

 日本人の宗教への無頓着は私はいいものだと思ってるけど、自分が、でも、神様にはそういうイメージを持っているというのは意外と最近まで気がついていませんでした。気がついた時はちょっと笑っちゃいましたね。(^^;)
 宗教ごちゃごちゃ、は、やっぱり私もやってるんだなあと思って(笑)

 なんにしても。
 本来なら、信心、信頼と尊崇を寄せるべきところに、ネガティブなイメージがあるというのもよろしくない(だから根性が曲がってんのね;;)。
 神様のイメージを、もうちょっと他のものへ、変えていきたいと思います。

 天使さまは割と融通ききそうなので、このままでもいいかな、と思うんですが。
 どうでしょうね? (^^ゞ

 皆様は、宗教とか信じる信じないではなく、神様、といったとき、どんな「姿」を思い浮かべるでしょうか?
 
 
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時間証明

 フィーチャーフォンの方は、こちら↓からご覧ください。

老夫婦の“ちょっとした勘違い”から生まれた出来事に心が温まる
2016.11.16  Life・Society
http://spotlight-media.jp/article/348075307934049666



 投稿者さんが自動車を運転中に見かけたあるご夫妻のお話で。
 老夫婦って言ってもおいくつくらいなんでしょうか。投稿者さんの車に奥様の方が気がついて、ちょっと先を行っていた旦那さんの腕を引っ張って引き止めたんですね。ちょっと止まって、先に車(投稿者さん)に通ってもらおうとしたんですね。

 でも旦那さんが、急に腕を引いて引き止められたのをどうお思いになったのか、いきなり奥様にハグ♡
 奥様、真っ赤になるし投稿者さんも思わず赤面、と。
 んもう、可愛いったら♡

 もちろんこのお話だけでもほっこり♡ できていいんですが、私が、そういやそうですね、と面白く思ったのは、リプの中に、
「老夫婦だとほっこりなのに、若いカップルだと和むどころか投石したくなる」
 というのがありまして。

 投石までしたくなる人は多くないと思いますが(笑)、でも確かに、これ若いカップルだとほっこりとまではしないかなあ。………と思ったら興味深いものを覚えまして。

 何でしょうね。まず日本の場合はご年配の——うーん、ご年配とまでは言わずともある程度の落ち着いた年齢のご夫婦だともう、あんまり愛情表現をしない、というイメージがありますよね。
 まずはそのイメージを突き崩される、その意外性はありますね。

 あとは——何だろうなあ、これは単にイメージ「だけ」のことかもしれませんが、ある程度以上の年齢だと、へんに脂ぎってる感じがなくて、イチャイチャベタベタというよりも、本当に素直に、「仲良し」なんだな〜という感じがあるのかな。どうだろう。

 とはいえ、ある程度以上の年齢なら人間、多少は枯れてるだろうなんてのは若いもんが抱く幻想・誤解だ、ということも、承知しておりますけども(笑)

 たぶん、お若いカップルが、例えばこういうことだと、単にサカリがついてる、という「雰囲気」に「思われて」しまうのかもしれません。
 でも仮に、それがその通りだったとしても、投石までしたくなるというのは……。
 ………ヒガミ、やっかみ?(笑) そう言っちゃったらダメなのかな?

 ともあれ自分なりにこの「ほっこり」感を探ると、まずは、「ご年配の方はことさら愛情表現をしない」というイメージの破壊があり、しかもこれは、「嬉しい破壊」なんですね。
 ああ、ああいうのいいなあ、という。
 で、あんなふうに歳をとりたいなあ、という、憧れのような気持ちも出てくるわけで、そのへんが、ほっこり感になるんじゃないかと。

 いつぞやは、アメリカのテキサス州とのことでしたが、18歳、20歳で結婚して60年以上、双方認知症をわずらうも仲の良さは変わりなく、病院で、隣のベッドで互いの手を握りながら、24時間とは違わずにおふたりともこの世を去ったという、とんでもないカップルのお話がありました。
 ここまでくるともう、奇跡というより他に言葉がありません。

 でもまあ——偕老同穴(かいろうどうけつ)とはいうけれど、それはたやすいことでは決してない、と言うのはよくわかることで。

 その容易くはないものを、たしかに乗り越えてきた、その「実力」が、若いカップルとの決定的な違いだという気がいたします。

 こればっかりは時間をかけなければ証明されないことですもんね。

 まあ、若いカップルでも、それはそれで、あら可愛いわ微笑ましいわと言ってあげてほしいと思います。
 とりあえず、投石はやめてやって。(^^;)
 仲良きことは美しきかな、って、これには年齢制限ないはずですから(笑)
 
 
 
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思えばいと疾し

 ありていに言いますと、悪口です。(^^;)
 「新語・流行語大賞」なんですけど。

 2016年、今年のノミネートはこちら↓。

http://singo.jiyu.co.jp

 いつ頃からそうだったのか、最初からそうだったのか、とにかく気がつくとこの「ユーキャン・新語・流行語大賞」は、「……流行?」と首をかしげざるを得ないもんばっかり選んでくるんですよね。
 流行ったって、どこで? と言いたくなるようなものもあるし、政治に絡んだ候補が出てくるのも気持ち悪い。昨年2015年ですと候補の中に「アベ政治を許さない」かなんかがあって、なんですかそれ。としか、言いようがない。
 小泉内閣当時もなんだか変なこと言ってた気がしますが調べる気にもならない。

 新語、というからには新しく作られた言葉だろうし、流行語というからには「人口に膾炙する」という「現象」が、候補に上がる条件として考えられるのに、「…………どこが?」と言われるようではどうしようもない。

 候補作は誰が選ぶんでしょう? どうやって? どんな基準?
 あまりにも「人口に膾炙する」という私どもの実感からは遠いところにある言葉ばかりが並んでいる。強いて候補を眺めたときの「実感」をいうなら、
「ああ。マスコミが、なんだか騒いでたよね〜」

 新聞雑誌等の広告や実際の目次、見出しのデータをぶち込んで統計とりました、ということならまだわかりますが——でも、そうだとすると
「なんだ、マスコミが流行らせ『たい』、って意味か」
 ということになり、実際に流行したかと言われれば「違うでしょ」とあっさり否定するしかないですね。

 こんなところでも、「他人の思惑に唯々(いい)としてノるのを嫌がる」という、私のへそ曲がりぶりが発揮されるようです。(^^;)

 流行させたい、人様の同意を得たい、という気持ちはわかりますが、だからってこんなもん(失言)を使って、いかにもそれが実際その通りに流行したかのように装い、素直な人なら「あれ、そうだったっけ」「そうなのか、流行ったのか」って飲み込んじゃいそうで、それを狙っていくというのはあまりにも、手法としてはケチなんじゃないの? と、そんな風に思います。

 今年の候補30語、眺めていても「流行った?」「どこで?」と思うし、「誰が言ってた?」と考えれば、結局それは、週刊誌などを含めたマスコミ「だけ」じゃん——と気がつく。
 実際、よく目にも耳にもしたとしても、嫌ですよこんな下品が言葉を自分が使うなんて。
 そういう感覚で、実際自分も使いましたなんて人、そう多くはないんじゃないですか。使ったとしても「引用」に近いものばかりだったはず。

 だから、新語・流行語大賞、って、私ども一般庶民には関係なくて、「マスコミにおける」って、ちゃんと区切ればいいんですよね。

 ネット流行語大賞の方はその名の通り、「ネット上で」のことですよ、リアルの社会はまた違うかもね、という断りを入れているんですから、わかりやすいし良心的。
 実際ネットでは、ネットやSNS特有の表現、言葉が「発明」され続けてますよね。言語とも言い切れないようなものを含めて。

 で、実際、インターネットを見ていると、確かにそういう言葉(か符丁か記号)が生まれた、よく使われた、というのもわかることなので、「実感」を伴う。

 新語・流行語大賞もこの際ですから、マスコミにおける、という説明を、ちゃんと頭につけたらどうでしょうか。

 大河ドラマ「真田丸」は今年のヒット作であることは間違いないのに、それに関連する言葉、あるいは「みんなが口にした」言葉(〜丸、というのは意味はないけど流行ったねえ/笑)、候補にかすりもしてないってどういうこと? と思いますと、
「一般市民とはかけ離れたところでやってんだなこの賞」
 としか考えられないですよね。
 …………昔からではあるけれど。(^^;)

 私はそういう、何かの押し付け、「ね、そうだよね」とむやみに「強要」されることにはどうしても敏感に反応してしまいます——嫌悪感の方向で。
 で、新語・流行語大賞についてはもう、ばからしい、業界のお身内で「ごっこ遊び」しているだけじゃん、という風にしか思わなくなっておりまして。

 それでもつい眺めてしまうのは「今年はマスコミってどんなバカを晒してたっけ?」という、これはこれで、今年を振り返る材料にはなるから、かもしれませんね。

 ………あらためて眺めていると
「皆様、2016年も、お疲れ様でした」
 という感慨がこみ上げてくる——これは素直な気持ちで、嫌味ではございません。

 1年なんか、あっというまだねえ、と言いながら、それでも、いろんなことを乗り越えてきた1年、……ではあるんですよね。
 
 
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