思い込みの頑迷(少しだけ加筆修正あり)
2016年08月31日 (水) | 編集 |
 この種類のお話はときどきお見かけするけど、なかなか興味深い。
 3つツイート並びます。





 痴漢被害なり性犯罪被害となると、まず被害者に責任があるという考え方は、これ、意外でしょうが男性のみならず女性にもけっこうあるんですよね。
 犯罪発生の責任は被害者にあるだと? あほか。犯罪者がいるから犯罪なんだろ——とまず言っておいて。

(服装と犯罪被害に相関関係はないということを真面目に科学的に研究した本があるので、興味か文句がある奴はそれを読め、と)
「ナンパを科学する」


 世の中には、このツイ主さまのご子息のような外罰型ヘタレばかりではない、ものの道理を理解している男性もいるのだ——という一例をあげておきます。
 TIMEの記事の拙訳で、読みにくい日本語になっているところはお目こぼし願いたいのですが;;

 ▶︎「トルコの男性たち、女性の権利のためにミニスカートを着用」2015/02/24
元記事:http://time.com/3718618/turkey-men-miniskirts-ozgecan-aslan/

 性犯罪被害について、なぜか加害者ではなく被害者のほうを責めるような言い方をしたうちの両親を、不肖わたくし、「ふたりとも、そこ座れ」と座らせて、テメエが年頃の娘(当時)を持つ親をやってんのになんだその不心得は! とセッキョーしたような人間でございます。
 この考え方がどれほど間違っているかはもう正直、話すのにも飽きているのでここでは申しません。
 
 ともあれ、興味深いと思うのは「女性の装いはすべて男性のためにある」という発想。

 これは、ほんとうにどういうことなんでしょうね。
 ツイ主さまのおっしゃるとおりで、男性は、その服装を見た女性から、「そんなカッコして、女を誘ってんの?」などと言われることは、まずないでしょう。
 そもそも、女性自身にそういう発想、ないですから——そりゃ、言われるわけないけども。

 ……と考えれば、わかりますよね。
「女性の服装は男性のためにある」という考えかた(をする人間)がある、というだけのことであり、じっさいに、「女性の服装は男性のためにある」わけではないのだ、ということが。
 わ か り ま す よね?(念押し)

 人間は外見ではない、というテーゼは真か偽か、ということについても以前ちょこっとお話しましたが——。
 化粧の歴史をみても、人が「装う」ことにはいろんな意味がある。自分のためでもあるし他者への「メッセージ」でもあるし、社会の中での身分や階級や職業を示す機能もあるから社会の中の「サイン」でもあるし、その人の主義主張を示すこともあるし、——単純に娯楽でもあるし、身体を心地よく保つことで精神状態さえ守るものでもある。

 とても一言では表現できないことですよね。装う、ということは。

化粧にみる日本文化 だれのためによそおうのか化粧にみる日本文化 だれのためによそおうのか
(2009/09/10)
平松 隆円

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(「化粧に見る日本文化」2010/05/31 エントリ

 それを、とにかく女性を見ればその外見はすべて男性へのメッセージ(誘惑であれ拒絶であれ)である、と「思い込む」。
 自分がそう思い込んでいることに気づかないほど強固に思い込んでいる。
 ナゾですねえ。(^^;)

 思い込みというのは、自分の願望を含んでいることも多い。そうであってほしい、「だから」そうであるべきだ、そうであるにちがいない、——となる。
 でもあいにくですが、「だから」ってのは意味不明なんですよね。そういう願望を持たない他人からみれば。
 
 外罰型てのは、心理学用語でして。
 簡単に言えば「なにかっつーと他人のせいにする」心理のことです。

 で、犯罪被害者のほうが「悪い」というような奴は、外罰型と申せましょう。
 無意識にでしょうが加害者の立場に立って「加害者は悪くない。被害者が悪い」という。
 つまり、自分(側)は悪くない。すべて、被害者(=他者)の責任だ。と。

 そういうわけで「女性の服装はすべて男(はっきり言えば自分)へのアピールのためにある」という発想をするひとは、精神構造として「他人が悪い」で固まってますから、こういう説明をしても聞きゃしませんしね。

 男性が犯罪者側になるのはわかるとして、では女性も同じく「被害者に落ち度がある」と考えるのはなぜか、というと。
 私はこちらのほうがある意味やっかいだと思ってますが、「過剰適応」だろうと思いますね。
 本当は自分に害があるのに、生き延びるためにその害あるものの価値観に自分を合わせていく、という状態になっていることが多いのではないかと思いますが、ここを突っ込んで話すとまたややこしいことになるのでやめておきます。

 なんにしろ、ものの道理を理解せず、筋道というものを捻じ曲げることで他人を傷つける迷惑な人たちがいる、ということですね。
 そういう人たちは「つねに自分は悪くない」と思い込んでいるので、なにを話しても無駄、という状態にある、と。
 

 ということは、こういう被害が世の中から消えることもないんだなと思うとまた心の闇に沈んでいくはめになるので考えないようにします;;


(………なにやら救われない気分のまま、終わっちゃいますね今日の話題;;)
(なんとかしようと思ったけど、なんともできませんでした;;)
 
 
 
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無理に聞かない
2016年08月30日 (火) | 編集 |
 台風10号による被害が心配ですね…。
 今年はなかなか台風が発生しなくて、静かな年になるのかなと思っていたのが一転。
 大迷走のあげくに観測史上初の「迷走したうえ上陸する」台風となったようで。

 迷走して暖かい海へいっていたぶんだけ成長して勢力が大きくなり、強力な台風になったと聞けば、もうイヤがらせだとしか思えませんね;;

 それでも時速35kmほどということで、わりと足が早いのがありがたいところで、被害を出さずにさっさと通過しろ、と、祈る思いでおります。
 皆様もどうぞお気をつけて。

       ●

 作家の阿刀田高さんが、週刊誌の対談コーナーのホストを打診されたさい、ひとつ条件を出したそうです。
「それがどれほど現在、話題になっていることでも、相手が話したがらないことは聞かない。それでもいいなら引き受ける」
 それでいい、とのことだったので引き受けました、というお話でした。

 週刊誌というと私にはロクなイメージがないのですが、——すでに30年ほども以前の話になるとは思いますが、そんな悠長な条件でもOKをだすところがあったんだなー、と今にして思います。

 ともあれ、阿刀田さんのこの「条件」には、ちょっと小気味いいものを感じました。
 週刊誌、あるいはマスコミと言われるもの一般は、報道の自由だかなんだか知らないけど、えらそーなことを言ってはひとさまの「話したがらないこと」を無理やり聞き出そうとする。
 
 どうしても聞き出さないといけないことなんて、世の中にはそうはない、と思ってます。
 まして、その人の心の奥にあるようなことを聞き出してどーしようというのか。
 かりに、聞き出せたと「信じた」としても、それが本当にそうなのかどうかなんて、誰にもわからないのに。

 よくNHKさんの取材は、「結論が最初から決まっている。なんのために『取材』『インタビュー』にくるんだ」と、不快がる声を聞くのですが、まあ、NHKさんはお役所的なところがあるからなお目立つのかもしれませんが、これはもう、どの報道機関でもマスコミでも同じじゃないでしょうかね。

 最終的には、「個人」もそのへんは同じ。

「自分が聞きたい答え」がすでに用意されていて、そのシナリオ通りじゃないと気に入らない。
 まるで拷問のような真似をして(…じっさい、あれは公開拷問だよなと思うものもあるほど)、気持ち悪いったらない。

 私も、そういうものをすでにある程度は見聞きしている年齢になっていたので——阿刀田高さんの示す姿勢は、ちょっとした爽快感を感じまして。
 こちらはまだ未成年。——なるほど、それでいいんだなと思った記憶があります。

 もともと、さして他人の噂話に熱心になるようなタイプではなかったけど、これ以後はさらにそれが徹底されたように思います。
 相手が話したがらないことは聞かないし、逆に、話したがっていること、聞いて欲しそうなことなら聞く。
 どちらとも判断できず、どうなのかな、と思うときはちょっとだけ水を向けて、その反応をみて、聞いたり聞かなかったり。

 あとから考えると、でも、これが自分の身を守ることにもなったんだなと思うこともあって。
 やたら聞き出さない踏み込まない——噂話には付き合わない(風向きがあやしくなったら、にっこり笑って退席)、だから周囲はみんな知っているようなことを私だけが知らない、ということもありましたが、ようは噂話レベルのことですから知らなくてもどうってこともないし、なにより——へんな人間関係、「派閥」のようなものに、巻き込まれることがない。

 派閥やグループに属することが「必要」なひと、それを求めるひとにとってはいいことではないでしょうが、他人とつるむということが生来好きではないタイプなので、私としては「いつのまにかグループに巻き込まれていた」という事態を避けられたというのは、「いいこと」なんですよね。

 ものの善し悪しの価値もその人次第だってことが、よくわかりますねこのへん;;


 誰かが話したがらないことを、無理に聞き出そうとしない——話したくないというその気持ちを「尊重」する、ということ。
 その態度がじっさいにはどんな考え方から発生したものか、どんな「心構え」を反映しているものかを、いちいち聞かなかったけど、でも、その態度を守ることで、いろんなことを知ることができたように思います。
 いいことを教えてもらったのだな、と、あらためてしみじみ思ったり。


 いま台風のせいでいろいろビミョーな体調不良に悩むひとが多いんですが、私も御多分に洩れずってやつで、病院へ行くとか薬を飲むほどのことはないけど、なんとなく気分が悪い。
 そういうところへもってきて、胸が悪くなるような話題が多いもので、気分的な疲労感もあり。
 あんまり真面目に、集中してものが書けずにおりまして、——で、今日はこんな話題となりました。(^^;)
 
 
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結局、同類
2016年08月29日 (月) | 編集 |
 なぜ好きかより、なぜ嫌いかを見つめたほうが、意外な収穫があるもの。
 これは私自身の経験からいえることですが、そういう経験を踏まえて思うのは、
「なぜ偽善を嫌うひとは、ああも歯をむき出して『怒る』んだろう」
 そりゃまあ、大抵のひとは偽善などはいやだなと思うでしょうが、その嫌いようはちょっと異常なんじゃね? と思うことが。

 嫌いという感情は自分を守ろうとして出てくるもの。
 自分に害がある、自分を傷つける、そういうものを自分から遠ざけるために、いわば「予防措置」自衛手段として、嫌いという信号が出てくる。

 毎年恒例、すでに40年ちかく続いている「24時間テレビ」を「嫌う」ひとはずいぶん嫌うようです。
 嫌う理由としては偽善であることを、指摘するひとが多いですね。
 でも、テレビ番組の偽善が、その人自身にとってどう有害、その人をどう傷つけるというのか。
 私にはどうもこのへんがわかりません。

 やらない善よりやる偽善、という見方もあって、これはこれでもっともなことです。
 人間、霞(かすみ)を食って生きていられるわけもなし、寄付を募って資金を必要とするところにお金がいく、そのメリットは否定できない。
 
 テレビ番組が偽善であったにしろ、その人自身になんの害もないはずなのに、なんで親の仇みたいに憎むんだろう、と、謎に思っております。

 今年もまたぞろ、「無理やり感動ドキュメンタリー」仕立てにした企画があったそうで、あいかわらずだねえ、と、私もその辺はたしかにうんざりしますね。
 障害者は健常者の「娯楽」として「消費」されるために存在してんじゃねえんだ、という主張もあります。
 障害者も人間ですから、キレイごとではないし、そんな感動感動の嵐になるはずもない。ひとが生きていく現実は、絵物語じゃない。
 それなのに、へんなふうに物語を「設定」したり編集したり、はなはだしくは「捏造」して、「娯楽」にする——というのを表現するのに「感動ポルノ inspiration porn」にされる、という言い方をするひともありますね。

TED日本語 - ステラ・ヤング: 私は皆さんの感動の対象ではありません、どうぞよろしく
http://digitalcast.jp/v/20158/

 こちら↑のページにはヤングさんの講演の動画と、それを文字起こししたもの(日本語/英語/日英併記)がありますので、よろしければご参考まで。

 私個人は、たとえそれが実感であるにせよ、感動ポルノという表現には感心しません。ひとの興味を引きたいだけなら効果的な表現ですが、ポルノとはやはりどぎつい表現です。そのどぎついところ、ゴテゴテしたところばかり注目される恐れもある。そうなれば、本来、伝えたかったはずのところから人々の視線がそれる——それは不本意なのでは? と思うと。
 的確ですばらしい表現ですねという気にはなれない。

 でも、なにはともあれ世間から注目されたい、無視されるくらいならまずは知ってもらいたい、ということで、あえてその下卑た「演出」「偽善」でも利用する——そういう考え方もある。

 そういう考え方をみれば、私としては24時間テレビを見る「義理」はないけど、あんなに目を三角にして怒る理由もない。——そういうことになる。

 そんなに24時間テレビが目障りなら見なければいい。
 民放のテレビ局のことですから、視聴率も取れず、スポンサーも付かずとなれば、やめるか、規模を縮小するしかなくなるわけですから、あんなものは見ない、という方向へいくべきものと考えます。

 でも——今年は私は見かけていませんが、100kmものマラソンの、コースをランナーがショートカットしたとかしないとかという、細かい「検証」が出たりしますね。
 じつはランナーはあんな距離は走っていない、嘘だ、偽善だ、ヤラセだ、——というわけです。

 でも、私が感心したのは、「よく見てるんですねえ」ということ。

 ランナーの様子がいつ放映されるかは随時ってことで決まってはいない。なのに、何時何分にここ、つぎには何時でここにいたから、ショートカットしたにちがいない、という検証をするには、文字通り、24時間、テレビに張り付いていたことになります。
 よく見てますね。(^^;)
 ここまでくると、もう執着しているといったほうがいいレベル。

 嫌いという感情は本来は、有害なものから自分の身を守ろうとする反応だとすれば。
 なぜ、嫌いと言っていながら、そんな熱烈なファンみたいな行動を取るんだろう?

 なんにしろ、「嘘をついてひとを貶める」のは論外ですけどね。

 24時間テレビが「感動ポルノ」のオンパレードで許しがたい、と思うのは勝手。
 あんなものやめるべきだ、という主張も、どうぞお好きに。
 でも、ないものをあったかのように「捏造」して、そのイメージを悪くしてやろうというのは、これはもう犯罪の範疇に入ります。

24時間テレビの両足麻痺の男の子の登山についての誤情報が拡散していく様子を御覧ください
まとめました。ただ個人が情報をかき集めてまとめた代物です。問題点、誤情報がありましたら是非ご指摘下さい。
http://togetter.com/li/1017595



 私はまったく見ていないのでなんとも申せませんが、感動ポルノは気持ち悪いというひとが、ありもしない「物語」を作り上げたとしたら。
 なぁんだ結局はあんたら「同類」なんだね、ということになります。
 嫌いっていっても、この場合は同族嫌悪なのかしら。

 いちばんの感想は「ヒマだねえ」ではありますが、でもまあ、いろいろ興味深い現象を見ることができる。
 それは確実に言えることのようです。
 
  
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異世界
2016年08月28日 (日) | 編集 |
ほぼ日の怪談 2016
http://www.1101.com/fear/index.html

 お嫌いなかたは無理にご覧になる必要はもちろんございません。(^^;)
 毎年楽しみにしております「ほぼ日の怪談」ですが、今年はちょっと面白いなーと思いまして。

 怖い話、というのが基本なんですが、でも今年は、わりとほのぼの系というのか、ちょっとほっこりしたり、むしろ情のこまやかさを感じてホロリとするほどで、じつのところあんまり怖くない……。

 各話の最後に「こわいね!」ボタンがあるのですが、「怖いってことはあんまりないなー……」とためらっていることが多い今年です。(^^;)
「人気投票」という意味でなら投票したいんですが、怖いか、といわれると、怖くはない。むしろ「いい話」だよね、ということで——「いいね!」ボタンも併設してくださいとお願いしたほうがいいかしら。

 怪談もその年の傾向ってあるんでしょうかねー。面白いな。

 幽明(ゆうめい)境(さかい)を異(こと)にする——という言い方がありまして。
「幽」はもちろん幽界(あの世)、明は現世、つまりこの世のこと。
 あの世とこの世に別れる、死別する、という意味ですが、別れは別れであっても、ただ、居場所がお互いに違うだけ、というニュアンスも感じられて好きな表現です。

 居場所をかえても、その人との情のありかた、——愛情や思いやり、気遣い…そういうものは変わらずにある。
 そんな感じをともなう表現だという気がします。

 で、今年の怪談は、まさに、幽明境を異にする、というお話が多いようです。
 ちょっと怪奇現象というようなことでも、そのかたとの生前どおりの交流って感じで、むしろほのぼのする。
 いいお話ですね、と思わず目頭をおさえる、または、ほっこりする、ということなので、怖いという感覚はあまりない。
 それが今年は複数話あるってところがね。面白いですね。

 ……とはいえ。こういう怪奇現象を聞いて、生前どおりの情のこまやかさですね、ほっこりしますねなんていう人、案外少なかったりするのかな。どうなんだろう。(^^;)
 自分の感性がメジャー(多数派)であるという自信はあんまりないので……、そんなふうに思う人って少ないのかもといま、急に自信がなくなりましたよ;;

 なんかもうね……いま、現世のほうではいやな話題ばっかりですからね……思うことも考えることもあるけど、書きたくないっつーか触れたくないっつーか。
 
 そういう意味でも、「幽明境を異に」しているお話のほうが、この現世からちょっとだけ離れられて、ほっとする。そんな感じ。

 生きている人間より、異世界のほうがよほどマトモに思えてくるって、どーなんですかねー……。(ー ー;)
 私はもともと、そういうところがありますけどね。生きている人間のほうがユーレイより怖いよイヤだよってところが。

 日曜日くらいはイヤな話題もご遠慮願いたいところ。
 そんなわけで本日は気が抜けたまま、このへんで。m(_ _)m
 
 
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異常心理
2016年08月27日 (土) | 編集 |


 どうにも嫌な話だと思ってますが、そのイヤなことが複数のジャンル(?)に亘っているってところが特徴的だと思う今回。

 若手俳優さんがおそらくは強姦致傷罪で告訴されるだろうという事件を起こした、ということが「本体」ですが。
 その本体からいろんな問題が出てきているんですよね。

 その容疑者であるひとの、お母様が記者会見を行ったというのも、これはちょっとどうなのか、というのがまずひとつ。
 もう成人もしてまがりなりにも自分で仕事もしているひとの、親が出てくる、謝罪するというのは、筋が違う。そう思います。

 育て方に問題があろうがなかろうがそんなのはプライベートなことであって、社会に対して責任を負っているのは本人。社会人、というのはそういう意味でしょう。
 かれが請け負っていた仕事のことで関係があるというのならともかく、もう独立もしているいい大人のやったことで「親が悪い」と言われるというのは意味がわかりません。

 あと、こういうことが起こるとなぜか非難の矢面に立たされるのは母親ばかりで、なぜか、父親のことがスルーされるのは、もっと意味がわからない、と思っております。

 どんな育てられ方をしようと成人しちゃったらもうあきらめろ、というのが私の見解。いかに不肖の親を持とうとも、だからってそれが社会人としてでたらめをやっていいということは何一つない。
 自分のやったことの始末は自分でつけるのが成人の意味なんで——どのみち、親のことを持ち出すのは、世間様もおおいに間違っているというのがまずあります。
 さらにそのうえ、なんで母親ばかりがあれこれ言われて父親はこんなときは無視なんだよ、と。

 子供がなにか功績を建てたときはこれが逆になります。
 へんな心情ですよまったくのところ。



 その記者会見ではずいぶんな下卑た質問をした記者がいたそうですが、この記者の「前科」を指摘する声もありました。
 この記者は以前にも、無神経を通り越して犯罪レベルのことをテレビカメラの前で堂々と口走ったことがあるのだそうで、昨日おみかけしたツイートには「またお前か」「まだ記者なんかやってたのか」というのもございました。

 そうなんですか、というばかりで、私としてはなんの裏もとってはおりませんが——でもまあ、そういう人がいるからこそ、私もテレビ新聞週刊誌、揃って無視するようになっちゃったわけなので……驚きはありません。

 で、その質問を聞いていると、今回の事件についてはやはり通常の性欲なり性衝動なりの強さや、あるいは「傾向」だと見なしているんですね。

 でも、性犯罪は、通常の意味での性行動とは別物なんですよね。
 なぜかここのところは少しも理解されない。
 それだけ、性犯罪者の心理というのは異常であり、その異常を持たない者には想像もつかないほどだということの、証拠ともいえるかもしれませんが…。

 もちろんふつーの人にも妄想は妄想であるでしょうが、じっさいの、現実において、その犯罪を実行「できる」心理は、通常の性行動とはまるっきり違う行動原理によるもの。
 このへんのことは専門家の説明を聞いて欲しいところですが、——でもこのようすだと、その説明をきいても、なかなか理解されないかもしれませんね。

 欲動も衝動も、ふつーの人も持ってる。だからそういうものが「強い」人がああいう犯罪に走るんだろうと思うんでしょうけども。
 じっさいの性犯罪を完遂「できる」精神状態は、「ふつうの」人にはないようです。

 性犯罪を「楽しむ」心理は、やはり異常というよりほかはない。
 そんなことを楽しめる、というのは、ふつうの人にはありません。衝動に負ける瞬間があったとしても、正常な心理なら、どこかで自分を引き止める。

 性犯罪者は、引き止めるどころか、最初から、それを快楽として求めているし、その欲求はむしろエスカレートしていく。
 そういう状態にひとを駆り立てるのは、ただ性欲や性癖ということとは根本的に違う心理状態、行動原理がある。

 ということで、あれほど的外れな質問というのも、ない。

 なんでそんなことがわかるのかといわれそうですが、——私にもわかりゃしません。でも、いっとき、そういうことがもう疑問で疑問でしょーがなくて、本を読んでいたことがあるので。

 異常心理を追跡するというのは、なかなか怖いことですが——なにぶんにも私もけっこうな男嫌いですから、その構造は(可能な限り)知っておきたい気持ちがありまして。

 FBI心理分析官の、異常犯罪に関わるうちに捜査官の方が精神のバランスを崩す例が多いときいて、それはもっともだと思いましたね。

 読書好きの人間の特徴のひとつには、想像力があること、感情移入ができることがあると思いますが、私も——犯罪者の「証言」を聞いてその心理状態を「追跡」するうちには、胃の内容物を吐くくらいではすまないものもありました。

 性犯罪の心理の異常さは、説明したくらいでは理解されないのかもしれない。
 ……とはいえ、あの質問はひどすぎますが。

 性犯罪の行動原理のひとつに、「復讐」があります。(これ単体ということではない)
 そう申し上げれば、これはもう、通常の性欲その他とは別次元の話だということも、うっすらとでも、ご理解いただけるでしょうか。

 異常、という事件に関わることで現れている事象もまた、あらゆる異常性を発揮している——世間様の解釈の異常、親子関係への幻想の異常、マスコミの全方位的な異常といったものまで——、それらの、あんまりな有様に思わず顔を背けながら。

 救いのないことばかりで、胸が塞がります。
 
 
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神戸行き2016
2016年08月26日 (金) | 編集 |
 そんなわけで少し遅めにずらしての夏休み、ってことで、例によって1泊2日の駆け足ですが、神戸、いってきました。
 途中で台風接近はあるわ、母の謎の腹痛はあるわで、どーも今回は無理かなーと思いましたが、いずれも無事、クリア。
 おかげさまで、楽しんでまいりました。

 振り返れば2008年を最後に、以後、もうずーっと、雨に降られることが多い神戸行き。さほど雨女タイプではないはずですが、なぜか神戸行きとなるとタイミングが悪いことがつづいてしまって(2012年なんて台風のさなかになった……)、ちょっと欲求不満気味。
 今年こそは、お天気だといいなと祈る思いだったので、もう、日に焼かれて焦げるくらいでいい! と思いながらでしたがそのとおりになりました。(^^;)

 出発時には、空はもう秋の空だなあと思いましたが、途中、名古屋から関ヶ原あたりまでがものすごい雨。
 名古屋駅に近づいたときの雨には、新幹線車内、思わず小さいながらどよめきが起こりましたからね;;

 それも無事に通過、京都では無事に晴れてきて、新神戸駅に着いたときには望むところの光と熱。
 やっぱり、夏の旅行はこうでないと!!


■神戸港めぐり

 今回はシティループバスを利用しての移動となりました。
 それでも1日乗車券(660円)を買うほどじゃなかったというあたり、基本的に、あまりあちこちへ移動しないスタイルなのがばれますね。(^^;)

シティループでめぐる神戸の街
http://www.kctp.co.jp/outline/car/cityloop/

map-cityloop8.jpg
(クリックで拡大表示)

 ホテルのチェックインは午後3時からですが、早くにいっても部屋に入れてもらえることがある。期待しながらいきましたが、夏休みってことで混み合っていて、部屋の掃除が終わってないとのこと。やはり時間より早くに、というのはダメでした。(^^;)
 荷物だけ預けて、ならばと神戸港めぐりへ。

 神戸港巡りは以前に何回か乗ったことがありましたが、——今回は10年以上ぶり。
 潮風が気持ちよく、景色も比較的クリアに見え、——建造中の潜水艦やメンテナンス中の潜水艦を眺めるコースも懐かしく、港巡りしてきまして。
 港巡りはやはり夏がいいかな。いちど5月にいってみたら、けっこう寒くて震えていたことがありました。(^^;)

 大きめの船が泊まってるなあとおもったら「ぱしふぃっく・びぃなす」号でした。

2016-08-24 神戸行き - 1

 いちどクリスマスクルーズというもので乗船したことがありまして……お元気でしたかお懐かしいこと、となんとなく(内心で)思ったり。

 風は気持ちいいけれど日差しはやはり強烈。船を降りて、中突堤中央ターミナルで休憩を;;
 2階にカフェがあるという案内が、1階のほうからでも見えたので行ってみました。

 2階まで行く人って少ないんですかねえ? 吹き抜けになっているので各テーブルからも港のいい眺め。
 お値段としてもお手頃で、船を待ちながら一服するにもいいお席だと思いますよ。

 もういろいろ迷い迷って栗ぜんざいを。50円プラスくらいでアイス添えにもしてもらえるようです。
2016-08-24 神戸行き - 2

 お餅は本物のお餅なので、焼きあがるまでは少々お待ちを。(^^)
 箸休めの塩昆布がすっごい美味しく感じてそのままぺろっといっちゃいそうだったのは、ああ気をつけないとなーと思いました;;
 熱中症の気配はなかったけど……、塩気がおいしくなるようだとけっこうですよね。(^^;)

 ぜんざい、おいしゅうございました。

 あんこにもいろいろ論争はありますね——きのことたけのこ論争みたいに。(^^;)
 私はこしあんでもつぶあんでも構いませんが——しいていうなら、つぶあんで、豆の風味がわかるほうが、食感としても好き。
 そういう意味でも、栗のほんわりした甘さとも合って、ぜんざい、おいしかったです。


■メリケンパーク

 チェックインの時間となりましたのでホテルへ。
 中突堤からメリケンパークをつっきっていきましたが——メリケンパークはいま、なにかの工事中なんですね。
 歩くだけでも倒れそうななかなのに……、工事のご関係者のお姿を見ては、お疲れ様です、どうぞお大事に、と思わず頭が下がる;;
 
 ちなみに、中央ターミナル2階からそのまま、ポートタワーわきの通路を通って、道路を渡らずにいけます。で、海洋博物館のわきの階段をおりる。——これだけでも日差しを避けられるのでありがたかった。
 
 5分と歩かないうちにふらふらになりましたが、ふと足元にはどんぐりがひとつ落ちていました。
 目をあげてみるとそばの木が楢(なら)か何からしく。
 こんな時期にあるものなのかな? と思いつつ、ひとつもらいますね、と拾ってみました。
 
 しかし———いつも思うことなんですがあのへん、もーちょっとこう、日よけになるようなものがあるといいな;;


■神戸布引ハーブ園

 ホテルでちょっと休んで、夕方、布引ハーブ園へ。
 布引ハーブ園には、神戸行ったときには必ず寄ります。新神戸駅からオリエンタルアベニューを抜けるとすぐにロープウェイがあるので、新幹線の時間までになにかしたいというときにはまことにありがたいところ。

 布引山に作られたハーブ園で、歩いてもよしボケてもよし。
 とくに今回は意外と風がよろしかったので、木陰のベンチになど座ろうものなら、もー社会復帰できない、というくらいにボケていられる。

 とはいえ、夜に来たのは初めて。
 夏休みの間の特別営業のようです。夜間ですのでハーブ園内には入れない。ロープウェイの往復のみということでロープウェイのお値段も往復で800円。(昼間に来ると入園料込みで1,400円)
 標高400mからの夜景。レストハウスの壁面を利用した「光の森」。

 頂上の展望プラザにテーブルを並べて「神戸ガーデンテラスバー」。
 ハーブ園で採れたスペアミントを使ったモヒートというカクテル。

2016-08-24 神戸行き - 3

 これらを聞いてしまってはいかないわけにはいかず(笑)
 夕食と、そのモヒートをいただきながら、日没〜夜景を楽しんできました。きれいでした〜(*゚▽゚)ノ


■プール!

 今回やりたいなと思っていたことのひとつ。ホテルのプールで泳ぐこと。
 というのは、優待券なぞというものをいただいていたので、これはぜひ! と。

 プールは屋外なので季節営業。5〜7月だとまだ営業期間外、ということが多い。
 今年は8月になったし、ぜひ! と思いまして。

2016-08-24 神戸行き - 4

 前日、お昼ごろに着いて部屋に入れてもらえればそのままプールいこうかなと思っていましたができなかったので、——早めに朝ごはん食べて、10時から(土日は9時から)というのを待ちかねていってきました。

 なにしろ時間に限りがある。時計をにらみながら40分ほど集中的に(笑)パシャパシャやってきました。
 でも、午前にいって正解だったかも。やはりご家族づれも多くて、あんまり端から端まで泳ぐわけにもいかず。(^^;)
 混んでいる時間帯だと泳ぐというより「浸かる」程度だっただろうなと;;

 また、この暑さですから、いかにプールサイドとはいえ、午前中が「適温」でしょうたぶん;;

 水に仰向けに浮くと、ホテルと、ポートタワーと、海洋博物館の屋根と——日差しが強いせいで、青というより青黒くさえ見える、「秋の空」。

 水の中というのは、なぜああもリラックスできるんでしょうね。
 ホテルオークラ神戸さんには20年通ってきましたが、初プール、おかげさまで堪能いたしました。


■帰 路

 チェックアウトは正午ということでわりとのんびりさせてもらえるところですが、いそいで部屋に戻って髪など洗って、身支度を整えたらもう、おおむねチェックアウトタイム。
 
 やっぱり2泊できたらいいんだけどなあと思いながら、帰ってまいりました。

 帰りはふたたび、布引ハーブ園。
 日向を歩いてお焦げになり、木陰でそよ風に吹かれてボケて、締めのラベンダーソフトをいただいて。

2016-08-24 神戸行き - 5

 そろそろ時間だというので駅へいって、お土産を買って。

 地元駅から帰宅する途中は、オークラさんの朝食パンセットを友人宅へ寄ってお届け。 
 彼女はオークラさんのパン、とくにブリオッシュ(フランスの菓子パン)系のパンが大好物。(^^)
 ゆえに神戸土産は必ずこれ。(それ以外にも持って行きますが定番は)

 パンというのも「なまもの」なんですよねえ…。もうちょっと日持ちするなら買い込んでいくんだけどなあ;;

 そんなわけで、今回はここ数年分まとめて日差しに恵まれていってきました。
 あれやりたいこれやりたいと思っていたことはおおむねできたし——満足の小旅行でした。(^^)
 
 
 
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本日からお出かけ
2016年08月24日 (水) | 編集 |
ちょっと遅めの夏休みということで、このエントリーが投稿されているころには旅立っている予定。
このエントリーより先にツイートとかしているかもしれませんね。
お久しぶりの神戸行き。
いくつか、あれやりたいこれやりたいと考えていることはありますが、行き当たりばったりでどうなりますか。

暑さにだけは気をつけて、行ってまいります。

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きものにゴスロリ
2016年08月23日 (火) | 編集 |
 リオデジャネイロ・オリンピックも閉幕、パラリンピックの開幕を待つばかりとなっております。
 閉会式では、五輪旗を次の開催地へ手渡すというセレモニーがありまして、小池百合子東京都知事が旗を受け取ったわけですが、そのときのご衣装がすてきでしたね。

 私は詳細聞いておりませんが、きもので——白っぽいベージュに、和刺繍の、あれは鶴の柄でしたか。
 訪問着なのか、色留袖になるのかはちょっとわかりませんでしたが——絵羽にはみえなかったので色留めかなあ、と思ったけどどうかな——、あと、帯がもう。全体が輝く金色。
 全金糸か、と思わず息を呑みましたねあたしゃ。

 た……高いですよこれは。と思わずそんなことをまず考えてしまう、ド庶民でございます。(^^;)
 
 で、旗を受け取り、それを大きく左右に振るにあたり、小池さんはちゃんとたもとの端を帯にちょっとだけ挟み込み、袖が邪魔にならないように、かつ、腕を上げても肘まで腕が丸見えなんていう「はしたない」(死語)ことにならないようにしていらしたのもちょっと印象的でした。

 基本、きもののときは腕は出しません。洋服と同じ感覚で、腕をがばっと上に上げて、肘どころか二の腕まで丸見え、という方もお見かけしますが——あれは本来は、見苦しいしぐさということになっております。
 明治大正の写真を見ると庶民でも、写真を撮るというかしこまったときには、袖口の中に手を隠してますもんね。
 たぶん、手をそのまま、むきだしで出しておくということは、はしたない——あるいは「みっともない」という文化だったのかもしれません。
 用もないのにむやみに手を出しておかない、という。

 男性も同じで。お能の地謡の方は出番ではないときは袴の、股(もも)立(だ)ちというのか、空いているところへ手を入れて控えていらっしゃいますね。

 ということで腕どころか手をすら外に「出しっぱなし」にしないというのが基本のしぐさのひとつらしいです。

 でもたぶん、そーゆーことを「わからない」人たちは、つまんねーことでケチ難癖をつけてくるんだろうな、きものが地味すぎとかさ(黄金の帯のどこが地味だよ)。
 と思っていたら本当にその通りだったので思わず失笑。

 そうやって、自分たちの民族衣装のことなのにまるで無関心な層もあるかと思えば。
 私もたびたび悪口をいってますが、「半襟は白」「足袋は白」「正絹以外はきものじゃない」「きものはしわひとつなく着るべき」(そーかそんならオマエやってみろ、と言いたくなる;;)という、頭は大丈夫ですかといいたくなるほど、ガッチガチの石頭ぶりを発揮する層もある。

 極端だなと思いますね。(^^;)

 半襟は白…というこだわりは理解できないこともないですが、それは「正装」としてのマナーの話。
 日常着であれば、そんなにかたっくるしいことをいうもんじゃない。
 正絹以外は認めないってねえ、昔は木綿か麻くらいしかきられなかった庶民の立場はどーしてくれる、と思いますね。

 鈴乃屋さんの会長、小泉清子さんはきもの研究家でもいらして、そこらへんの「お直しおばさん」など太刀打ちできる方ではありませんが、でも、こういうひとぼど、きものには自由な発想をお持ちでいらっしゃいますね。

 きものを上下二つにわけて仕立ててしまって、帯も軽装帯にして、上下バラバラに組み合わせても楽しいですよと大胆なことをおっしゃるし。

 じっさい、きものに詳しい、ベテランの先生ほど「かくあるべし」という思い込みから自由でいる。
 中途半端な人ほど、くだらないことにこだわり、「着る、装う」の楽しみを殺し、あまつさえ、それを他人に押し付けて迷惑をかけるもんなんだな、と思ってます。

 先日感心したのは、シンプルな、細いよろけ縞の夏きものに、なんと黒のビスチェを合わせたかたをお見かけして、思わず追いかけたくなりました(笑)

 ビスチェ(コルセット)といっても、デコルテまでくるようなものではなくて、本当にウエスト部分だけの——まさしく帯幅くらいのもの。

 フェイクレザーの黒で、かっちりしていて、それを帯として締めている。
 なるほどなー。と思いました。

 幅の狭いビスチェって? とお思いの方もあるかと思いますので、こちら、楽天市場さんで見つけた商品ですが、ご参考までに。
 色と材質は違いますが、これくらいの幅のものです、ってことで。これを、帯代わりに締めておいででした。

【参考】・コルセット(ビスチェ)
http://item.rakuten.co.jp/bodyline/p346/

 きものというのは、じつは、帯は締めなくても、すでに着上がっているものでして。(^^;)
 昔には「おびしろはだか」という言葉があって——帯を締めない、きものを着て伊達締めまでで着上がっているところへ、「上っ張り」などを羽織っているというくらいの、気楽なスタイルもあったんですね。
 もちろん外出用ではなくて自宅でくつろぐ姿ですが。

 そっかー、きものだからって帯にこだわらなくてもいいんだよねえ。と、しばし見とれておりました。
 ビスチェですからウエストラインもわずかながら現れるし、そのへんは現代風でいいのかもな、と。
 本当は追いかけて行って写真撮らせて欲しいくらいでした(笑) カッコイイ(笑)
 
 あれは、おみごとでした。

 ああいう遊び心で着こなす人が増えてきたら、きものももっと面白くなるし、イメージも変わって楽しいと思う。(^^)

 いまは、そんなわけで、ものを知らないゆえに見当違いの悪口をいう人と、中途半端すぎてへんに石頭になっている人ばかりが目立つけれど、もうちょっときもの自体にじっさいに親しんで、「楽しむ」人が増えてくれたらいいなと思いましたので。
 本日は、そんなあたりをメモ代わりに。
 
 
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名誉を、名誉あるひとに
2016年08月22日 (月) | 編集 |



 もう何年も前、テレビ番組中で聞いた、あるオリンピックゴールドメダリストのお話が忘れられない。

 同じ競技種目の選手達が帰国してきて、空港で人々のまえに姿を現わす、その出口がね。
 メダリストと、そうではない人では出口や通路を分けられているそうで。
 
 これはたぶん、不本意ながら成績としてはふるわなかった選手達の気持ちを慮ってのことではぜんっぜんなく、ただ、報道する側のご都合でそのようになったんだろうと予想してます。

 そのかたの場合は、そういう扱いの「差別」に衝撃を受け、けれども次のときにはそれを発奮材料として金メダルを勝ち取った、という、いわば「成功の陰に苦労と努力」の、典型的なお話になってました。

 私はどうも、この話を聞いてから、あのメダリスト「お出迎え」を、気持ち良く見られなくなりまして。
 なんでメダリストばっかりちやほやすんの。全力傾けて戦ったひとみんなを歓迎すべきでしょうが。
 あーもやもやする。と思っていたら、上記の通りのツイートがあり、いやもう、本当にそうですよねえ、とウンウンうなずいてました。

 オリンピアンというもの、それ自体が、本来は名誉と栄光ある存在なんですよ。
 競う、ということ、それ自体を、認め、称揚するものでしょうよ。
 それなのになぜ、——ご本人達が勝敗にこだわるのは当然でしょうが、私ども「見てるだけ」の赤の他人が、「あいつ負けやがった」といって「見下し」たり、差別したり、あまつさえ「怒る」のか。
 勝てば勝ったで気持ち悪いほどの賞賛、そしてくだらない質問の嵐を浴びせ——好きな女性のタイプは?——、人寄せパンダ扱い。

 どちらにしても、アスリートそれ自身にたいする敬意も尊敬もあったもんじゃない——というのが、私が気持ち悪がっているところ。

 赤の他人が、負けたということで「怒り狂う」のも意味がわかんないし、勝ったということで「郷土の誇りです」なんていうのも意味わからん。
 アンタがこの件についてどんな努力や貢献をしたっていうの?

 オリンピックでメダルを取ると、急に「同級生」や「親友」や「恩師」や「お世話になった人」が増えるから大変でしょ? どうかしたら「親戚」すら増えるもんね。
 ——というのは皮肉でいっているのですが、たまに、その皮肉に気づいてももらえないときがあって、ちょっと呆然とする。(^^;)

 自分の立場はなにかというのを見失い、他人を自分のおもちゃにするのも、あるいは誰かの栄光に「乗っかる」いじましさも、私の目には醜いものとしか映らない。

 誰が主役なのかはっきりさせようか? そうしないとわからないんでしょ? ——と思うわけです。
 金も出さないくせに口を出すことだけは1人前以上の「やじうま」が、主役ではない。
 主役はあくまでも、アスリート——ここでは、栄えあるオリンピアンたちです。

 そのへんがもう、でたらめなことになっているのが現状・現実なんだけれど、もういちど、その無茶苦茶でデタラメになっているものを「掃除」して整理整頓できないものかと思います。正直なところ。

 メダルがあるかないかは時の運。メダルがあろうがなかろうが、立派なオリンピアンとして精一杯戦ってきたなら、そのことだけでもう、充分な名誉。
 通路を分けて「差別」するってね——よくもそういうことを恥ずかしげもなくやれるもんですわ。

 不本意な成績に自身を責めているひとは、あまり人前に出たくないという気持ちになるかもしれない。そういうひとは、ご本人の気持ちの通りになさればいい。
 でも、私ども「やじうま」は——自分には手の届かないほどの世界で戦ったひとたちはすでに神にもひとしい。はっきりいうなら自分よりもはるかに「上」にいる人たちだということを、きっちり認識しましょうね、ということ。
 そしてその神にもひとしいひとたちの、その名誉を、讃えるだけなんじゃないでしょうかね、野次馬にできることは。
 
 自分より上位にあるひとを、上位だと認めることができず、無理やり彼らを自分と同じレベルに「おとしめる」ことが、「親しみ」だと思っている。
 いいかげん見苦しい態度はあらためて、名誉は、名誉あるひとに還すのが筋ってもんじゃないでしょうか。

 オリンピックはたぶんもう、いろんなところで本質を失っていると思うけれど、それは見る側にも言えることなんでしょうね。
 誰がなんといいつくろってごまかしたって、腐ってるものは腐ってる。きれいごとを並べていれば腐敗がおさまるなんてあるわけない。

 その腐敗をとめて「本来の」姿を思い出す——そろそろ、そういうことを考えてもいい時期にきているんじゃないかなと思って拝見したツイート。



 なんにしても、オリンピアンたちには拍手と栄誉を。
 ——クスリまみれでその肉体を損なっているものが混ざっていたとしても。

 肉体と魂かけて挑んだ、そのことだけは、失われない。
 ほかにはどれほどの腐ったものがあろうと、競い合うその瞬間にだけは、たしかに真実があったはず。
 そう思いますので。
 
  
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アルファ波の別名
2016年08月21日 (日) | 編集 |
 オリンピックについてはいろいろ思うところもございますが——ときどき思い出したように出てくる話題のひとつに「楽しむ」ということがあります。

 選手たちが、オリンピックでのその競技・試合を「楽しみたい」というようなことをいうと、目を三角にして「怒る」人たちですね。

 これ、全体としては高い年齢層に該当者が多いということはあるかとは思いますが、私の周辺の感触では意外と年齢は関係ない印象。
 老若男女の別を問わず、——まあその若さでずいぶん頭のカタイことをいうねえ、という方もある。

 楽しむという言葉に、なにをイメージしているのか、ということはあるようですが。
 楽しむということを「罪悪」とみなす、そういう価値観も影響しているようですね。
 
 まあ、そういう方にはイチロー選手のように、もう絵に描いたような求道(ぐどう)的な言葉がしっくりくるのでしょうが、しかし、テニスのナダル選手のように、鋼の精神力という人の言葉の方が、私にはインパクト強かった。
「苦しい、ということをも、楽しむ」

 練習のこともそうですし、「血の流れない決闘」といわれるテニスの、試合の厳しさもそう。
 メンタル面がものをいう、といわれるテニスで、あれほどの強靭な精神力を見せるひとだから、さぞかし厳しいことをいうだろうと思いきや。
 もちろん苦しい、でも、その苦しいことさえ楽しむ——それができるようになってから、試合でも勝てるようになった——とは、インタビュー中で語っていたこと。

 痛いとか苦しいとかっていうと即座に逃げ出すダメ人間には想像もつかないことで、そうですかー……(沈黙)、という状態になってしまいますが。(^^;)
 
 たぶん、この場合の楽しむというのは、物見遊山(ものみゆさん)気分のことではないんでしょう。
 
 今回のオリンピックでも陸上、男子400mリレーでは銀メダルとなった選手たちは、スタート時、緊張などしなかったと口々に語ったそうで、うちの母などは驚き、「時代が違う」とへんな感想を漏らしておりましたが(笑)

 緊張なんぞは、百害あって一利なしなんですよねじっさい。
 その人本来の能力——パフォーマンスを発揮するのには、緊張は、邪魔以外のなにものでもない。

 それなのに、楽しむという言葉をへんに「憎む」人々は、眉間にしわを寄せて体がブルブルふるえるくらいの緊張状態のほうが「良いもの」「真面目」「真剣」とみなす。

 まあ、真剣といえば真剣ではあるでしょうが、こわばった体で十分に能力を発揮できると思うほうがオカシイ。

 先日もとある人が「あの楽しむっていうのは聞いてて抵抗がある」というので、「緊張したらなにもできなくなることは自分だって経験あるでしょう。リラックスと高い集中状態というのは、脳波でみると同じものだから、むしろリラックスして集中するほうがいい」とお話ししておりました。

 リラックスについても、これを聞くと布団に入ってうつらうつら…というイメージみたい(笑) 違うってば(笑)
「緊張していて集中」もありますが「リラックスして集中」したほうが、その集中した——脳波が安定した状態を「長く維持出来る」。緊張は興奮のことですから、これは長時間はもたない。

 というような話を聞けば「それでメダルが取れるなら……」という感じで、不承不承黙ってくれますが、でも、それでも、その不満げな顔を見ると、「楽しむことは罪」という概念からは自由になってないなあ、というのがわかります。

 面白いもんですね。
 じつはそれは「害」があるのに、それでも、真面目はいいことだ、楽しむことは不真面目だ、という価値観からは抜け出せない。
 有害である、とは認めるけれど、自分の価値観を変えることには抵抗がある——そういう感じかな。

 以前にはいちいち、選手たちをかばう気持ちで「楽しむ」の意味を説明してましたが、最近ではちょっと疲れてきて、私もあんまり、言わなくなりました。(^^;)
 
 ただ、誰でも自分の価値観が「間違っている」と認めるのは簡単なことじゃないから、しょーがないんだろうな、ということで、否定はしないけど賛成もしないという態度で対応することにしております。

 なんにしろ、結果はあくまで「時の運」だし——あとはなんといっても、そんなことでいちいち「怒っている」人には、だってアンタにゃ関係ないでしょ、ってことを確認したい気持ちです(笑)

 アンタの「気分」のために、彼らは自分の人生賭けてるわけじゃないよ、なにを勘違いしてんの、と。
 自分と他人の区別がないようすをみて、あいかわらずだねえ、と思いながら過ごしているところです。
 
 
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雑談・三本締め
2016年08月20日 (土) | 編集 |
 いっときは腸閉塞も疑われてドキドキしていた、母の謎の腹痛。
 その原因がわかりました〜。
 母は、ごく子供のときに腸捻転の手術をしているのですが、その手術跡が、癒着していたそうです。

 癒着といっても深刻なものではなく、内科、消化器科の先生の触診では発見されず、——たぶんレントゲンとか撮ってもわからないレベルだろうと思われます。
 昨日、いつもお世話になっている指圧の先生ところへいってきまして、診てもらったらそういうことで。

 なにをどうするのか存じませんが、その患部を治してもらって、すっかり回復したようです。
 なにはともあれよかったよかった;;

 原因不明、といわれると、どうも気持ちとして落ち着きませんよね。(^^;)

 そういえば夏になると母はよく原因不明の、それこそ脂汗が出てくるような、異様な腹痛に見舞われることがありました。
 これまでは、出るものが出てしまえば(……尾籠ですみません;;)ケロっとしていたのですが、今回は、1日以上経っても、「痛みは薄らいだけど消えない」状態が続いたし、一時は熱も出たしということで、どうにも落ち着かない気持ちでした。

 夏になるとやられる、ということは、どっちにしろ、暑さと関係があるんでしょうね。
 それにしても古傷の癒着とは……。それはもうなんとも形容しがたい痛みであるのは当然でしたでしょう。

 痛みが引いて、お腹が空いた、と騒いでいますが、まあ、お腹が空いてものが食べられるって、幸せだよねえ、とうなずいてみたり。

 指圧の先生には感謝感謝でございます。(-人-)

       ●
 

 三本締めというのはこれです、ということでちょっと引っ張ってきてしまいました。(^^;)

 動画はコミックマーケットが閉会するときのものですが、ツイートによりますとこちらのジャンルでは(理由は存じませんが;;)三本締めをなさるのですね。

 こ・れ・が、三本締めです。

 なんでそんなにこだわってんのといわれるでしょうが、ときどきね、よーお、パン! と一回だけ手を鳴らす、あれを「一本締め」とおっしゃる方がいて、見かけるたびにめまいがしているので。(^^;)

 あれは「一丁締め」といいます。

 三本締め、というのはご覧の通りで、よーお、シャシャシャン、シャシャシャン、シャシャシャンシャン、と計10回打ち鳴らしまして、これが一本。
 ただ、一本だけということはふつうはない。三本揃えてきますね。
 手締めというのは、参会者にたいし、主催した側が「感謝の意」を示すものであり、三本というのは、ひとつは主催側、ふたつは来賓、参会者、三つ目は「出席できなかった人」に向けてのもの。

 ちなみに、「関東では一丁締めのことを一本締めということがあるから注意」という説明を見てしまいましたが、これはどうでしょうか。
 私は関東住みではありませんが、一丁締めと一本締めを間違えているのに地域差を感じたことはないなあ。

 私がいちばん見るたびにイライラしていたのはプロ野球のキャンプ。
 なぜか、キャンプ終了というときにその一丁締めをしているようすがテレビのニュースで流されるのですが、あれを間違って一本締めと紹介する例が多かったんですよね。

 混乱は、知識不足のマスコミからなんじゃないの? と個人的には疑ってますが、違っていたらごめんなさい。(^^;)

 ともあれそういうわけで、主催者が、「今日はみなさま、ありがとうございました」の意味で行うものですから、来賓には三本締めへの参加(?)は求めないものだそうですね。それやると失礼ってことで。

 ときどき、この三本締めについては、ああまたかと思いながら説明しているので——あ、これです。これが三本締めです! と、ご紹介したくなったので引っ張ってきてしまいました。(^^ゞ

 それにしても、一口にコミケといっても、すっかり多様化したジャンル——自分が参加するジャンル以外のことはなんも知らん、ということが多いのですが、鉄道はこういうことするんですね。面白いな。
 お疲れ様でしたありがとうございました、また次回にお会いしましょう、という「挨拶」として、なんでしょうね。

 ちょっと面白いものを見せていただきました。(^^)
 
 
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選ばないこと
2016年08月19日 (金) | 編集 |
 和をもって貴しとなす、とは、付和雷同しろということじゃないんだよねということを書こうかなと思いましたが、あまりの眠さで(いつも以上に)頭が動かないのでも少し軽いことを。

 14日付、日経新聞の「歌壇」にて。穂村弘さんの選にて、

——選ぶとは選ばないこと 手に取ったひとつ以外のアボカドひかる
(見附 有村桔梗)

 ああそうなんだなあ、と思いました。

 ブラッドベリの絵本に、「夜のスイッチ」というのがありますが、あれも逆転の発想ですね。
 部屋の明かりを「消す」ことで暗くなるのではなくて、「夜のスイッチがオンになる」。

 ああなるほど、と思いましたが、この「選ぶとは選ばないこと」というのが、すとんと胸に落ちてきて、なるほど。と。

 ただいまリオデジャネイロオリンピック開催中で、日本人選手はもうかなりの大健闘、成績もよろしいようで、盛り上がっていてなによりです。

 が。
 私もちょっとものの見方が素直ではないところがあるので——まるで金メダルを獲得するのが「当然」であるかのようにしゃべっている人が、選手ご本人だというのならまだしも、これ以上はないくらいに赤の他人がしゃべるのを見ると………なんともいいようのない違和感を覚えます。(^^;)
 
 それと同時に——他人は、こういう、ヒーロー・ヒロインをみれば、あらゆることを手に入れた勝者とみなすけれども、じっさいにはいったい、どれほど多くのことを、この人たちは「犠牲」にしてきただろうか…などと考えてしまいます。

 ひとができることには限りがある。望むことのすべて、味わいたいことのすべてをそのとおりにやっていくことは不可能。

 この道にかける、この想いにかける、と、自分で決めて、「選ぶ」——ということは、選びたくても選べなかったものが、やはり、それなりに多くあったはずだと思いますね。

 卑近なところでは食事とか。勉強する代わりに時間をその競技の練習に充てるとか。
 親元で過ごすこと。親しんでいたいひとたちから離れること。
 本当は好きな服。好きな髪型。

 この道にかけることを選んだときに、選ばなかったもの。

 幸いそういうものをほとんど意識せずにきたという、幸せなひともあるでしょうが——でも、賭けたものが大きければ大きいほど、「選ばなかった」ものは、それ以上にあったと考えるべきじゃないでしょうか。

 店先の籠に盛られた数多くのアボカドから、たったひとつを選ぶとき、選ばなかったアボカドはいくつあったのか。

 選ばない、ということを「捨てる」ことと表現したひとが、そういやいたっけなーと思い出しましたが。
 捨てる、というのと「選ばない」というのとでは、やっぱり、ちょっと違う気がする。
 
 選択とは「なにかを選ぶ」こと、と私どもは日頃考えていますが——じっさい、何かを選ぶということは、それ以外のものを「選ばないと決める」ことでもあるんですね。

 いわゆる優柔不断タイプは、選ぶことはまあできるけど「選ばないこと」ができないんじゃないかな。
 いろんなものを手の中に残そうとする。
 でも、選べるものには限りがあるから、結局、すべてを手の中からとりこぼし、あとにはなにも残らない——。

 選ぶことを難しいと感じるとき、「なにを選ばないのか」のほうからアプローチしていくといいのかもしれませんね。
 
 で、捨てることと「選ばない」ことの違いとはなんだろうか——ということがただいま、脳内で点滅しているので、またそのへん、のんびり考えてみたいと思います。

 選ばれなかった側からすれば、選ばれなかったというのも、捨てられたというのも、結局は同じことだと思いますが——でも、選んだ側からすれば、案外また違う答えがあるのかもしれない。
 ひとつのアボカドを選んで、ほかのものは選ばないでいて——だからなおいっそう、選ばなかったアボカドが光って見える——というとき。

 人生は選択の連続である、という言葉もありました。
 選ぶ、ということについて、選ばない、ということについて、またちょっと考えてみます。

(こういうことを、ひとり熟熟(つらつら)と、傍目にはぼーっとしながら、考えるのが『趣味』です)
 
 
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急遽おやすみ
2016年08月18日 (木) | 編集 |
本日予定外のおやすみとさせていただきます。m(_ _)m

昨日の夕食後しばらくしてからついさきほどまでの、都合18時間ほど、どうにも身動きとれず、なーんにも書いてません。(^^;)
いまからちょろっと書く手もあるけど、眠すぎてダメ;;


夕食後から母がお腹が痛い、と言いだしまして。
わりと胃腸が弱い方なので、一種の夏バテかなあ? などとのんきなことを言っていましたが、便意があるけどでない(尾籠な話になってすみません;;)といって、冷や汗かいての七転八倒。
だけど、強い症状ではないんですよね。あれでもっと痛みが激しいとかなら救急車を呼んだんですが、案外、本人、平気な顔をしているところもある。

時間が経って楽になってはきたし、へんな冷や汗もとまったし、というので救急車を呼ぶのもためらわれ、また本人も寝れば大丈夫だと思うというのでいちおう就寝。
 
疑われるのはなんといっても腸閉塞ですが、吐き気もないし痛みも——腸閉塞の症状としたら弱すぎる。朝になったら病院いこうか、といっていたけどまんじりともせず、1〜2時間ごとにようすをみにいって私もほぼ寝てません。(^^;)

明け方、発熱したのでちょっとこれはもう…というので地元の夜間救急医療センターへ。
いちおうとくに悪い病気ではないことを確認してもらって、ひとまずほっとして。

帰宅して家事をすませて、仕事1件かたづけて、また戻って、あらためて、消化器科の病院へ。

結局、腸閉塞ではないものの——あの、日頃から便秘気味のひとなんですが、硬い便のせいで腸閉塞様になることってあるそうで。
いろいろお腹のようすを見てもらい、ひとまずは悪いもんじゃない、と確認。
で、いままで大腸の検診てやったことないといったら、検便しましょうということに。

さきほど帰宅してお昼ご飯たべて、いまほっとお茶を一服しているところです。
とにかく眠い。徹夜ではなくていちおう1、2時間インターバルながら寝てるけど、でも眠い。

そんなわけで本日、あまりの眠さにこちらもおやすみいたします。

もう尾籠(びろう)なことを話したついでに開き直って申しますと、夏バテで下痢というのは腸壁の炎症で、逆に便が硬くなって便秘になったり腸閉塞「様」になるのは、これは腸内の水分不足だそうです。
いわば、腸の脱水状態ですね。

汗をかくのでどーしても夏は脱水状態になりやすいんですが、そうすると腸内で便もまた、水分不足で硬くなることがあるそうです。

夏バテにもいろんな症状あるよねえ——ってことで、皆様もどうぞ、お身体はくれぐれもお大事に。

お腹痛い、というのの苦しさも、もう、なんとも形容のしようがない、心許ない、心細い、せつな〜い気持ちになるものですよね。
体調不良で嬉しいことなんぞありませんが、痛いのとせつないのが同時に来る、あの気持ち。
あの心細さはお腹の痛みに特有の「感覚」って気がします。
母にも早いところ、回復してもらいたいと思います;;

それでは本日はこれにて失礼を。
お立ち寄りいただき、ありがとうございます。 m(_ _)m 
 
 

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