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2016.07.31 (Sun)

「翻訳できない世界のことば」

 今日で7月も終わりですね。早いなあ。
 今日は日曜日ってことでのんびりいきたいと思います。
 まあ実質、おやすみみたいなもので。(^^;)



 お見かけして、面白そうだなと思った本でしたが、じっさい面白い。
 ことば、とは、結局その本質は何かといえば、「イメージと概念」だと思っております。

 具体的な物体についた名前のこと、というのは言葉の基本でしょうが、複雑な概念や意志を伝える場面においては、ことばというのは、概念——「意味」のことだ、と。

 まがりなりにも翻訳っぽい作業に関わってみますと、結局「対訳」では、言葉は訳せない、ということに気がつく。
 Good morning を「よい朝」と訳すのが対訳。「おはようございます」と訳せば、それが「翻訳」。

 翻訳というのは結局「相手がなにを言っているか」をどこまで拾えるか、その意味やイメージをどう他言語で表現するか、という作業なんですね。
 言葉をただ置き換えるだけでは、意味不明どころか抱腹絶倒ものの「ハナモゲラ」語になるのは、機械翻訳を利用した方ならご存知のはず。(^^;)

 ということで、異文化においては、まったく想像もつかない概念がありますね。
 ことばは「文化」そのものを背負う。ってことで、異文化のことば、その「意味」を理解するのは難しいし、よし理解できたところで、それを外国語でいうことはできない、ということは多い。
 
 その、できない、あるいはたいへん難しいことを乗り越えていくのが翻訳という作業ですが、ひごろはかなりの力技で(ときにはあえて意味を落としたりして)いっているところを、あえて、「原語のまま」にして、「訳せないことば」として、集めた本。

 見開きで、左ページにそのことばを、右ページにはイラストと、その「意味」が説明されています。
 ことばの絵本、という感じ。
 気楽に、どのページから見てもいいし、イラストと説明をみて、そんなことばが「発明」される、その土地のこと、気候のこと、人々のことに思井を馳せる——まあとにかく食べ物関係が多いなこの国は、とか考えたり(笑)——。

 1日が終わって、家でホッとしながら靴下を脱ぐと、足にくっきり、ゴムのあとがついていたりますが、トゥル語ではこれを「KARELU」カレルというそうです。
 私どもは「靴下のゴムのあとがついちゃった」というしかありませんが。
 トゥル語はインド南西部のことばだそうです。「肌についた、締めつけるものの跡」。

 体にそんな跡がついてしまうのは、私どもにとってもおなじみの現象ですが、それに具体的に名詞が与えられてるのは面白い。

 ちょっと人から嫌味っぽいこといわれて、気分の悪さとそんなこと言われるショックとで、思わずことばに詰まってしまい、なにもいいかえせなかった——というのは、なかなかつらい経験ですよね。
 で、あとあとずいぶん尾を引いてしまうんだけれど、あとから「こういってやればよかった!」と思いついたりする。
 でも、言い返すならその場で言わないと意味がないわけで——、なんでこれくらいの切り返しを言えなかったんだろう、と、くやしいやら自分に腹が立つやら。
 しかも、けっこういい切り返しを思いついたりするんですよね。で、なお悔しさが募ったりして(笑)

 これをイディッシュ語(中欧・東欧系ユダヤ人のことば)では「TREPVERTER」トレップヴェルテルというのだそう。
 直訳すると「ことばの階段」。あとになって思い浮かんだ、当意即妙のことばの返し方。だそうです。

 日本語そのものにはないけれど、「ああ、わかる!」というものもあって面白い。
 同じような状況を経験するのに、それを表現することばが、できたりできなかったりって、どのへんで決まるのかな、というのも、興味深いですね。(^^)


 私のお気に入りは。
 スウェーデン語の「MÅNGATA」モーンガータ。

 明るい月夜、海や湖、あるいはゆったり大きな川や、池や、——水面(みなも)に月の光がおちて、まるで一本道がそこに現れたようにみえることがありますが、あの光景。

「水面にうつった、道のように見える月明かり」。

super-moon.jpg
(↑2015年のスーパームーン)

 あの光に、ちゃんと名前をつけている言語があるんだなー、と思って、ちょっと嬉しくなりまして。
 モーンガータ。
 正しい発音なぞできるもんじゃありませんがでも、やはりその名前も美しいように思います。

 あの光の道にもちゃんと名前をつけた人たちがいる——ということが、じんわり嬉しい。


 気楽に読める「ことばの絵本」。
 けっこう楽しいです。
 
 
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2016.07.30 (Sat)

イメージの上書き

 CSIの各シリーズは、WOWOWさんでも放映があるのに、(せっかく契約しているのに)そちらでは見てなくて、BSの無料チャンネル、Dlife(ディーライフ)でのんびり見ております。

 昨夜は、マイアミとNYの「相互乗り入れ」のお話でしたが、これが2004年だったそうですから…もう12年前のものになるんですね。

 CSIシリーズの大ファンとはいえませんが、それでも各シリーズは楽しく(見られる範囲内で)見ております。
 その各シリーズのなかでも、マイアミの主人公たる、ホレイショ・ケイン警部補は印象の強い登場人物となりました。

 そもそもその名前からして、へー、でしたね。ホレイショ Horatio はシェイクスピアの「ハムレット」の親友という人だし、ケインは、聞いた瞬間連想するのは、旧約聖書の「カインとアベル」のカインの英語読みかと思われるし。

 いま見たらケインの綴りは Caine でした。聖書のカイン→英名ケインはCain だそうなのでちょっと違うんですね。(^^;)
 なお、同じケインでもKane というのはアイルランド語の男性名がルーツとなるそうです。

 ともあれそんなわけで名前からしてけっこうインパクトあるんですが、他のシリーズと比べても格段にこの方は固ゆで卵。
 大きいことはいいことだという価値観、女性にすらマッチョイズムを善として押し付ける、おそるべき一神教的マッチョ崇拝文化の(このへんひそかに悪口です)、その理想形を人物にするとこうなる、って感じだなー、と、最初は、わりと冷たい目で見ておりました。
 が。
 このかたの、もうとんでもなくやさしい性格というものも描写されるんですね。
 やさしいというのは結局、「人の感情の動きがわかる」ということであり、人の痛みがわかるというのみならず、それ以外の心の動き——怒りも恨みも、保身に動くこともその後ろめたさも——「心理」がわかるためには自分自身に、それを感じとるだけのセンサーが必要ですが、彼にはそれがある。

 いちばん心にしみたのは、確実に死に向かっていて、すでにそこから戻ってくることはできないとわかってる人への態度をみたとき。
 ありきたりななぐさめ、無意味な励まし、——もう確実に自分の死を見つめている人間には「顔色がよくなってるよ大丈夫だよ」というへたなポジティブさって、逆に嘘くさくてやってらんないわけですよね。
 ホレイショさんはそれがわかっている。
 死にゆく人がもっとも求める誠実さをちゃんと示した、——それを見て。

 いかにもなマッチョキャラかと思っていたら、このうえないやさしさをも持つ人なんだなあ、と、思いまして。

 驚いたのは、そのマッチョとやさしさの「両立」がされていたこと。

 私にとっての「男らしさ」というのは正直いってろくなものではないんですよね。私が、まあ男らしいのねえなんて言ったときは褒めているのではぜんぜんなく、「脳みそ筋肉の暴力馬鹿」といって罵倒しているわけです。

 かなり露骨に男嫌いですというのは、こういう次第。(^^;)

 まあ、このへんは親子関係の不幸からきておりまして、どっちかというと家族間の問題であり、世間一般の男性諸氏にはじつは関係ございません;; なにとぞお気になさらず。
 こどもにとっては親が世界の全てであり、あらゆる「原体験」は親による、といってもいいくらいなんですが、——私の親父は、残念ながらそういうイメージを自分の娘に植え付けるようなやつだったという、それだけのことでございます。

 で、無意識に、「男性的」であることはいっさいの情を理解しない、冷血漢というのか、もはや人間ではないくらいのレベルで、「ものがわからないやつ」なんだというイメージがあった、ということですね。

 これはなかなか自分でも自覚するのは難しいことで——、ああそうなのか、と、ホレイショさんの造形をみたときに、二重に納得したんでした。
 つまり。
 自分がそういうひどいイメージを持っている、ということと。
 それは、「正しい」認識ではない、ということ。

 この2つを、同時に理解できた。

 そのひどいイメージも、そういうものがあるのだと自分でつかまえることができたなら、少しずつでも、「上書き」していくことが可能なんですよね。
 いちばんいいのは、いちどすっきり「初期化」して、きれいにデータを入れ直すことですが、人間の意識はつねに動いているので、ROM 差し替えってわけにはいかない。

 それでも、そういうものがある、とわかっただけでも、ずいぶん「めっけもん」でした。
 そのイメージの上書きのひとつになってくれたのが、ホレイショ・ケインさんの「造形」でした、ということで。

 考えてみると、なかなかの「恩人」だと言えますね。+.(*'v`*)+

There are more things in heaven and earth, Horatio
 Than are dreamt of in your philosophy.

天と地の間にはな、ホレイショー、
お前の哲学では思いも寄らない出来事が随分あるぞ。

 (「ハムレット」一幕五場)


 
 
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2016.07.29 (Fri)

隗より始めよ

 相模原(殺傷)事件、という名前になったようです。
 口にすることさえ恐ろしいことに思えるような事件となりました。

 昨年暮れからおよそテレビでニュース番組というものを見なくなっておりますが、先日はちょっと用件がごたつき、入浴時間も遅くなり、うっかり居間でNHKの午後11時台のニュース番組なぞを久しぶりにみてしまいました。

 正直なところ、画面に視聴者からのツイートが表示されるという方式がどうも好きになれませんで。
 べつにどうしてもイヤということでもないけど、なんとなくうっとうしい。(^^;)
 
 この相模原事件を報じた日のことで、ツイートもにぎわっているようでしたが、ちょっと目に止まったツイート。
「差別や偏見なんて世の中からなくなればいいのに」
 ………なんか他人事だね? と思いました。

 なにやらこの言い方だと、世の中にある差別偏見がご自身からはちょっと離れている、そういう人のお言葉のように聞こえるけど、それはうがちすぎ?
 差別偏見がなくなればいいのに。か。
 そう思うならやってごらん。まず自分が。

 なんかこう、言ってることのいちいちが、高みの見物、自分とは関係ない、というところから出てきているように感じるんですよね。
 差別偏見、自分にはない、と思っているのかな。
 とんでもない。

 差別や偏見というのは、セメントで固めたブロックみたいな「固体」でごろごろ転がっているわけじゃない。
 日常のなかや自分の感情の中に当たり前にあるもので、それはふだんはなんの支障もなく存在していて、そのときには、それは、差別意識や偏見とは呼ばれない。

 同じものなのに、あるときには無害、むしろ有益、でもあるときにはこれ以上ない猛毒になる——。
 そういうものは多いと思いますが、差別意識や偏見も同じなんですよね。

 不審者ではないかと「察知」することや、笑顔の下の害意に気づくこと、トラブルになる予感、事故が起きそうな危険性を「察知する」能力というものが、いきる上では必要な能力ですが——危険や危機を可能な限り回避して自分の身を守るためにはそんな「警戒心」は必要。
 でも、それが、ある場面では差別意識になるわけで。

 差別や偏見というのは、固定して存在してるんじゃなく、ある場面ではそう呼ばれる——そういうもの。
 だから差別意識や偏見をなくすということは、事実上、不可能だと言えますね。
 危険回避の「分別」能力を欠いたら、その人は独り立ちして生きていくのは不可能ということにもなるので。

 じゃあどうするかって。
 その危険回避の場面では「それ」を使い、必要がないときはひっこめて「偏見」は収める、という具合に、自分でコントロールする。
 大体の人はそうやっているはず。

 差別や偏見がなくなればいいのに、とは、——自分自身が持っているそれらをなくそう、という試みをしたことがない人の言葉だ。——私にはそう思えまして。
 なくそうと思ったらまず自分がやってみたら?
 そういう意識がないってあたりで、どーにも「他人事」意識だよねえ、と思えました。

 なぜ、なにもかもが、そうやって「自分とは関係ない」ところにあるという感覚になるんだろうな——と、ちらりと思ったこと。

 
 もうひとつ気になったツイートは、「この怒りをどこへぶつければいいのか」というもの。
 ………どこへもぶつけなくていいいんじゃない。
 そもそも、その怒りってなくてもいいんじゃない。
 なにかあったら必ず「怒ろう」としなくてもいいんだよ? 

 以前にも書きましたが、なにかあったときにどう反応するかは、ほとんど「習慣」なんですね。
 で、今の世の中ってなぜか、なにかあったらとにかく怒らなきゃいけないと思ってる人が多すぎるように思います。

 なにかを見かけたら怒る。人の顔を見たら怒る。なにか聞こえたら怒る。不機嫌になる。いやな顔をしてみせる。
 そうしなければならない、と決めている。

 決めてない、とおっしゃるかもしれませんが、それはいちいち考えてそうしているわけではないのは当然で、梅干しを見るとじわっと唾液が口の中に出てくるのとおなじ——パブロフさんちのわんこちゃんと同じメカニズム、ってことです。

 こんな事件を聞いて怒るなというのか、といわれるでしょうが——こんな事件を聞いてもです。
 怒るな、というよりも、その怒りに「自分を乗っ取られる」な、というほうが正確ですけど。

 まして、怒りをぶつけるって、そりゃぶつけられたほうにご迷惑ってもんです。
 
 世界を見渡しますと、とある地域では、お葬式だというのに銃を撃ちまくって(しかも空砲ではなく、空に向けてとはいえ実弾なんだよね……)、大の男どもが集まってわあわあわめきちらし、挙げ句の果てには(なぜか)喧嘩になりそれが連鎖し、暴動みたいな騒ぎになる——という光景を見ることがあります。

 悲しみや怒りを「ぶつける」って、ああいうことでしょう。(例としては極端ですが)
 怒りや悲しみを感じるのは仕方ないこととしても、それをひとやものにぶつける——当たり散らすのは、どのみち迷惑なのでおやめください。
 と思いました。

 どうもね——なにかが「ずれている」気がするんですよね。
 世間様がずれているのか、私がずれているのか。(^^;)

 いやな事件を聞けば心が乱れるのも、仕方のないことではありますが。
 必要以上に、自分や他人を傷つける、損なうことのないように願いたいと思います。

 そういう点から考えても、その「いやな気分」を撒き散らすことになる、ツイートの表示っていうのは感心できないことのほうが多いんだよなあ……。
 たまには、ああいいことをおっしゃる、というものがあるのも確かなんで、そういうときはいいんじゃないとは思いますが——むしろこっちのほうがレアケースってあたりがなんとも。

 つまらない愚痴になりました。(^^;) すみません。
 他人に撒き散らすなって、私もですね;;

 こういう場合のこととは少しずれるでしょうが、でも、村上春樹さんのお言葉だというこちら↓、肝に銘じます;;
murakami-haruki-san.jpeg

 
  
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2016.07.28 (Thu)

アイスバケツチャレンジ・その後

 2年前になりますが、2014年の夏に、インターネット上で「アイスバケツチャレンジ」が大きな話題となったのをご記憶でしょう。
 ALS Amyotrophic Lateral Sclerosis 筋委縮側索硬化症という難病(日本でも国指定の難病)はいぜん、その原因が特定されておりません。
 病気を広く知ってもらい、理解を得ることと、病気に関する研究費のために寄付を募るという運動でした。

 日本でも多くの方がご賛同くださったし、なんにしろ冷たい水を頭からかぶるというのが衝撃的だったせいもあって、ずいぶん話題にもなりましたね。

 一部からはあいかわらず心無い悪口も言われましたが、そのとき集まったお金が資金源となり、ALS に関係するとされる、3つの原因遺伝子が特定されたとの記事がありまして。

Remember the Ice Bucket Challenge? It Helped Fund the Discovery of a New ALS Gene
2016/07/27 TIME

 患者の家族(元、ですが)としてあらためて、お礼を申し上げたいと思います。キャンペーンにご賛同くださいました方、ありがとうございました。

 ALS には家族性のものもあるようですが、基本的には孤発性、つまり遺伝病ではないとのこと(発症者の9割以上が孤発性)。
 そのALS原因遺伝子のうちのひとつ、「NEK1」を発見する研究は、アイスバケツチャレンジの寄付金からの援助を受けたものとのことでした。

 これ以外にも慶応大学チームが発見した原因遺伝子「FUS」も。

原因遺伝子を特定 慶応大チーム
2016年4月3日 毎日新聞

 まだ全容解明とはいきませんが、でも、原因が特定されていけば治療法も見つかっていくわけですから、充分、希望となりえますよね。

 ということで、あのアイスバケツチャレンジ、——なんだかずいぶん悪口をいわれることもあったようですが、でも、真面目にお考えくださって賛同していただいたかたには、やっぱりその成果を広く知らせるのが本来の筋ってもんじゃないかなと思いまして。

 日本語記事は探したらこちらがありました。↓

みんな覚えてる?―氷水をかぶる「アイス・バケツ・チャレンジ」のその後
バケツで氷水をかぶる「Ice Bucket Challenge(アイス・バケツ・チャレンジ)」。一見くだらないネットの流行が、大きな成果を生んだと、最近話題になっている。

2016/07/27 18:55 インターネットコム編集部
http://internetcom.jp/201340/ice-bucket-challenge-again

 こちらの記事にもありますが、日本ALS協会では「IBC(アイスバケツチャレンジ)グラント」ということで、あのアイスバケツチャレンジでの寄付金をもとに、病気に関する研究奨励金を出しているとのこと。現在は、平成28年度分、対象となる研究課題の公募中。

平成28年度「IBC(アイス・バケツ・チャレンジ)グラント」研究奨励金交付テーマの公募

 あのとき悪口をいっていたのも、だいたいは、「自分は何もしない人」だったなあ、なんてことを、うっすら思い出したりしております。
 ま、世の中ってそんなもんだ。

 ただ、アイスバケツチャレンジは、たとえ健康な人であっても体に負担になるし下手をすれば心臓発作も招きかねないことなので、アレはもうやらないほうがいいなと思っております個人的には;;

 ただ、その精神と成果には敬意を払うということで、アイスバケツチャレンジを継承した(?)「Every Drop Adds Up」というキャンペーンを展開中とのこと。



 なににせよ、寄付金はちゃんと、病気解明のための研究に役立てられていたというのはありがたいことで、これはお知らせしなきゃいかんでしょう——ということで。
 あらためて、御礼を申し上げます。

 この世には、まったく呆れるばかりに多くの病気がありますから——ALSのみならず、ほかの病気も解明・治療法の研究が進んでいきますように、と、願っております。


 ………なんの病気だって障害だって、「明日は我が身」かもしれないんだからさ。
 あんまり、なにもかもが他人事だと思って、高みの見物気分で無責任に、ひどい悪口なぞ言わないほうがいいよ、——と、こっそりこれはひとりごと。
 
 
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2016.07.27 (Wed)

千万人といえども我往かん

 昨日の話の続き。
 社会階級というものがほぼなくなり、階級のみならずさまざまあった「団体」の求心力も弱まり、「個人」というものが強くなったいま、「政党政治」はもはやその役割を終えている。
 ——というのが昨日、ぶつぶつ申し上げたことですが。

 なんらかの「団体」に属することで自分の利益を守ろう、というやりかたは、18〜19世紀ごろならじゅーぶん有効なやりかただったんでしょうが、20世紀後半以降は、たしかに社会は(以前よりは)「公正さ」に近づき、団体に所属するのは、メリットよりもデメリットの方が目立ってきた。

 所属している団体のメリットがそのまま自分の利益につながっていた時代には、政党政治は有効だったけれども、団体に所属するゆえの不自由さ、あるいはそのメリットが自分の利益と関係しない、それどころかむしろ自分(個人)には不利益となる——自分が所属している団体ではなく、むしろ「敵対」している団体のほうが、自分の利益に近い、——なんてことも、当たり前になってきた。

 つまりは団体よりも個人の主張のほうが強まったきた、ということでしょうね。
 価値観の多様性なんてことが20世紀末からはずいぶんいわれるようになりました。十人十色と考えれば、個人個人の主張が強くなれば、まあ、そういうことになりますよね。

 無党派層といわれる人々の数が急に増えたのも、そういうことだったんじゃないでしょうか。

 従来型の「団体」の利益からは自由な人々——というか、「そのときそのときで、どの団体が自分にとっての利益と一致するかは異なる」という人々。
 従来の政党が、この無党派層を「読めない」というのも、そう考えれば当然ではありますね。

 団体や組織よりも個人個人が自分の主張を始めたので、団体、組織の力は弱くなっている。
 団体組織に所属して唯々(いい)として従うことに、メリットがなくなってきた——いまやむしろ、団体が個人を「つぶす」デメリットのほうが目立つ。

 政党が「覇権」を競うことが自分個人の利益とつながっているときは、政争にも意味はあったけれども、個人が強くなったいまは、「政争なんてくだらねーことしてないで、ちゃんと(政治家としての)仕事をしろ」という意見が強まるのもまた、当然でしょうね。

 無党派層が増えた時点ですでに世の中は、政党政治を求めなくなっていたのに、と思いますと——いまだに、古色蒼然とした「選挙戦」をやっているんだなと思うと、ちょっと気が遠のきますね。(^^;)

 政党をつくらない、いかなる団体にも拠らない、という、高橋しょうご候補@Shogo_tkhs)のおっしゃることに、うんうんとうなずきつつ。
 人は、いちど身についてしまった「習慣」はなかなかやめられないものなので——当面は、たいへんだろうと思います。

 聞けば、昨日などはNHKに、「泡沫候補なんてアンケートとったって意味ないだろ」という主旨のことをいわれたそうで、どうにも「みなさまのNHK」にも困ったもんだねと思いました。
 そんなんだから受信料支払い拒否なんてことになっていくだねえと納得。

 世の中それ自体はでも、もう、政党政治の必要性なんてとっくに失っているんですよね。
 でも、いちどできた制度や習慣を変えるというのは、ヒトの習性として時間がかるし抵抗も強い。
 とはいえいかに抵抗が強くても、この流れ自体はもう変わらないだろうと思います。

 高橋しょうごさんも、その訴えを聞けば応援する、という人もじわじわながら増えているので——いずれは認められていくだろうと予想中。

 認められるまでにどれほどの時間がかかるかは、それは、有権者次第

 政党政治が事実上おわったときに、私どもはそのときはじめて、ようやく、「センセイ」ではなく、「代議士」を選ぶ、ということを「覚える」のかもしれません。

 そうなれば民主主義もちっとは見どころがあるよね、ということになるか。
 あるいは、我利我利亡者の群れを作ることになって崩壊するか。
 そのへんは、人類のデキ次第。
 ホモサピエンスはその名前を裏切らず、ほんとうに「知恵あるヒト」だと証明できるかどうか——、そのへんについてまでは、私は楽観はしませんが。

 まあ、なんにしても、現状においては、「政党政治から、次の段階へ」なんていっても、嗤う人の方が圧倒的多数ではありましょう。
 おそらく、高橋しょうご候補のお心のうちには「千万人と雖(いえど)も吾(われ)往(ゆ)かん(自ら省みて正しければ,敵対者や反対者がどんなに多くとも,恐れることなく自分の信ずる道を進もう)」の思いがあるんでしょう。
 私としては、そこんところもふくめて、静岡県からではございますが (^^;)、応援を申し上げます。
 
 
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11:51  |  身辺雑記2016  |  EDIT  |  Top↑

2016.07.26 (Tue)

ひとつの革命

 これはちょっと面白いことになってきた、と思いまして。

 東京都知事選挙投票日も迫っておりますが、その立候補者のなかに、おやこれはという方がいらっしゃいまして。

 高橋しょうごさん(Twitterアカウント:@Shogo_tkhs)とおっしゃるのだそうですが、ブログにあるその公約は以下の通り。

高橋しょうごの政策

三つの軸となる公約
一、 政争が主体となっている政党政治から、政治行政を私達の手に取り戻す。
二、 少子化問題を解決する。
三、 放置され続けた多くの社会問題に取り組む。
併せて、
・上記の公約の実施の前提となる災害対策
・政治の根本課題である、表現の自由を徹底的に守り抜く東京都
・オリンピック・パラリンピック準備運営の健全化


ブログ「高橋しょうご〜私たちの都政〜」

 とにかく目を引くのは「政争によっていかに本来の政治が損なわれ、喪失しているか」という指摘、「政争が主体となる政党政治ではなく、政治行政を(政争に明け暮れる人々から)私ども、有権者がとりもどす」という主張。

 政党政治はたしかに、いまや機能不全に陥っていますからね。
 その昔は政党という「群れ」をつくり、各々の政治的な主張や政策を議会で通すことに、意味があったでしょう。

 でも、現在は、各政党の主張にはイデオロギーの色も薄くなった——というのは、現在の社会にはイデオロギーはもはや必要ではなく、より実際的な「現実」に対応することが、政治には求められるようになったから。
(イデオロギーは社会階級や地域という『集団』あってのものであり、より個人化が進んだ現在においてはほぼ無意味)
(社会階級が薄れると同時に政党もその意義が薄れたともいえましょうか)

 先日の参院選挙のときも、真面目に各党公約をご覧になった方ならおわかりのように、どの政党であれ、結局、いま求められていることに対応しようとすれば、その政策にはさほど大きな違いはないんですね。
 目の前の問題を解決しようとするなら、そりゃイデオロギーなんぞが口を挟む余地はなく、怪我をしているなら傷口きれいにしようとか、お腹減っているならなんか食べようとか、そういう話に「ポリシー」なぞ必要もないこと。

 現在の社会ではもはや、政党として「群れる」意味はほとんどない。
 ある意味、民主主義の原型——政党もなにもなく、ただ、そのとき目の前にある問題について、解決案が提示され、最適解(さいてきかい)となりえるのはどれかを話し合い、選ぶ——という、いちばんシンプルなやりかたが求められている。

 でも——いちど始めたことをやめる、切り替える、というのは、簡単なことではありませんで。

 政党政治はもう、ほんとうは、とっくにその役目を終えているのだろうとは思いつつ、私も、だからってどうしたらいいのかというアイデアもなくぼーっとしていたんでした。

 そこへ、この高橋しょうごさんの主張を聞き、ああなるほど、と。

 彼の主張は、当面、否定され続けるでしょう。
 どんな否定の言葉がなげかけられるかはわかるし、その否定する人が言うことも、100%「間違っている」わけではないことも認めます。

 でも、政党政治は、いまや「害」のほうが目立つのに、でも、誰もそれを止めることができない。
 寝る前に甘いお菓子を食べるのをやめるべきだと思いつつやめられないようなもんですかね。(^^;)

 その命はほんとうには尽きている、その骸(むくろ)がすでに腐臭を放っているのにまだ、それを担ぐことをやめられない。

 そういうなかで、高橋候補のおっしゃることは、「革命」ともいえること。

 こういう人が出てきてくれたか——と思いました。

 ブログを拝見しますと、「私はいかなる政党また政治団体も設立しないことを約束します」とあります。
 これはもう、絶対的に支持しますね。支持の核心となりましょう。

 公約など細かい内容についてはおいといて——というところですが、いまはそういう細かいところより、「政党によらない」という「大原則」が大事なので。

 政党政治の弊害をあげればきりがない、というのが現状。
 弊害ひとつひとつについて悪口を言っていても仕方がない。
 政党政治ではもう、いまの世の中には間に合わないのだ、ということを掲げることが、ここでは大事なこと。

 東京都民でもないのに申し訳ないことですが、でも、腐臭を放つ政党政治からまず抜け出す、というこの主張が、広く受け入れられることを、ここでは、なによりも、ひとつの希望としたい。

 そんなわけで、私にしては珍しく——それこそ、「自分のポリシー」に逆らうことですが、とある候補者についての支持を、表明致したく存じます。(^^)



 
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2016.07.25 (Mon)

「無責任」者

 夏風邪は馬鹿が引く、と申しますが、どうも風邪のようです。
 これは気象庁の長期予報の通り、酷暑となるのか、と身構えたあとに涼しくなって、ちょっと油断したかもしれません。
 熱はないんですが、くしゃみ鼻水、あと、ひどくぼーっとしてしまって、だるい眠いで、……これは風邪だな、と。
 とはいえ熱もないから寝込む気にもなれず、動けるかぎりは動いております。
 
 で。
 また気になって調べてしまいましたがこの「夏風邪は馬鹿が引く」。
 馬鹿は、ふつーならあんまり風邪をひかない季節に風邪をひく、という意味かと思っていたら、これ、原意がぜんぜん違うのでちょっとびっくり。

 馬鹿と風邪といえば「馬鹿は風邪をひかない」という言い方もありますよね。
 これは、本当に馬鹿は(ストレスを感じないせいか?)風邪を引きにくい、という意味ではなくて、

「1.愚鈍な者は、風邪を引いたことに気が付かない。
   馬鹿は、それだけ鈍感であるということ。
  類:●夏風邪は馬鹿が引く
  ★「馬鹿は冬に風邪を引いて夏に気が付く」から。」

cf:くろご式慣用句辞典



 つまり、本当に風邪をひかず健康であるということではなくて、風邪をひいているのに自覚しない、それくらいニブイ、というのが、もともとの意味だそうで。

 うーん。なるほど;;(って納得していいんだろうかこの話;;)

「2.愚か者は風邪を引かないものである。」

 というのも、辞書には載ってましたが、これはやはり、あとから、その原意(1.)が誤解されてできた解釈という説明がありました。

 ということで「夏風邪は馬鹿が引く」のは、「冬にひいた風邪を、夏になってから、あ、風邪をひいた、と気がつく。それくらい鈍い。」というのが、もともとの意味ですね。

 ………私も相当ニブイけれど、さすがにそこまでじゃないなあ…。(^^;)

 なんにしても、小さいお子さんも何年ぶりかで「ヘルパンギーナ」という風邪が流行って、流行警報を発令している自治体もありますし(とりあえず静岡県は警報レベルとのこと)、……涼しい夏ならいいってもんでもないんですね。
 皆様、熱中症もふくめて、どうぞお気をつけてお過ごしください。

         ●

ロシアを五輪から締め出さず=IOC、判断避ける〔五輪〕
2016年7月24日 23時6分配信 時事通信

 国家ぐるみでドーピングをしていたという指摘で、オリンピックからは締め出すかどうかと言われていた件。
 IOCはその判断から「逃げた」ようです。

 なにしろもう開幕直前ではありますし、選手団も選手村へ入るかどうかという時期でもありますし……出場を取り消すなら取り消したほうが、現場の運営はむしろ助かっただろうに…というのが最初に思ったこと。

 各競技の国際団体に判断任せますって、任されたほうも困るでしょうね。

 責任者というのは責任を取るから責任者なんで、責任を取らない責任者なんて神輿としての価値もない。
 もっとも、責任を取れない責任者って、多いですけどねー…。

 責任者なんてのはいつ自分のクビが飛ぶかわからない、そういう存在なんですよね。
 でも、それくらいの気持ちがなければ、人なり集団なりを動かすこともできない。
 ダモクレスの剣なんて思い出さずとも、それが自然だと思うな。

 責任者は、現場がやりやすいように目配り手配りするのが仕事でありなおかつ、自分がやったことではないことでも自分の責任として引き受けるためにある。
「王」という存在は本来は、人々に威張り散らすために存在するのではなく、「天」に対する「いけにえ」という意味があったし、それがいまだに「本質」なんですよね。
 多くの人のために供犠(くぎ)となる。
 だから、その存在は敬われる。

 そういうことを、きれーさっぱり忘れてしまっているようですが。

 そのへんはともあれ。

 判断はしないわ責任取らないわじゃ、なんのためのトップなんだかわかりゃしませんね。

 ともあれ今回の件については、あきらかに国全体としておこなっていたというのならパラリンピックふくめて選手を出場させるわけにはいかないし、ロシアオリンピック委員会をIOCから「除籍」する(一時的にでも)のが筋。
 
 でもそうするだけの証拠もないしというのなら、この調査は続行し、判断は後日ということで、ここでは出場を認める——従来の基準に従って——べきところでしょうねえ。

 私はもともと、オリンピックなんかもうとっくに本末転倒しているし本質はふっとんでいるし、あの国威発揚は気持ち悪いし商業主義は最悪の醜態になっているしで、開催する意義なんかない、もうやめちゃえ、と思っているので、今回のことはさして興味もないというのが、本音ではあります。

 スポーツも、その勝利も敗北も、その過程も——その価値は認めていますが、でも、そういう価値とオリンピックとなんの関係があるの? と思うくらい、いまのオリンピックは、もう異世界異次元になっているように思えます。

 ただ、オリンピックへ出たい、メダル取りたい、と目を輝かせる子どもさんをみますと——、オリンピックやめちゃえとは簡単にもいいがたい。
 でも、彼らのためにも、本当はいちどここでご破算にして、きれいに更地にして、そのうえで、「作り直す」のが、いちばんだろうとも、思います。

 ロシアについては。
 ——私にはその白黒を判断できないというのは当然ですが、でも、あの大統領閣下は脳内がいまだに冷戦時代のままだし、中共と同じく「夢よもう一度」っていってるし、——冷戦時代の、東側の選手たちがどんなふうだったかを記憶している世代ですので……ま、真っ黒だったとしても意外に思うべき理由はひとつもない。そう思っております。

 ただ、責任を取れないトップのために振り回される人々が——選手のみならず「現場」の人々すべて——、気の毒だ、と思うばかり。
 
 
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12:07  |  身辺雑記2016  |  EDIT  |  Top↑

2016.07.24 (Sun)

本日おやすみ

今日はまたちょっとお出かけのため、こちらおやすみいたします。
二十四節気でいう「大暑」であるにもかかわらず、秋風の涼しさを感じておりましたが……今日あたりからまた少しずつ暑くなるのかな。

お出かけのときは、涼しくしていただいたほうがありがたいんですが(笑)

でも、あんまり冷夏では、困る方も大勢いらっしゃるので、ほどほどに…ってところですね。
暑かったりみょーに涼しかったり、でもまた暑くなったりで体調管理も難しいところですが、どうぞ皆さま、お健やかにおすごしください。m(_ _)m

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2016.07.23 (Sat)

見た目の意味



 世の中には「珍味」と呼ばれるものがあります。
 たしかに美味しいんだけど、これを最初に食べた人って誰なんだ、と思うようなもの、ありますよね。ナマコなりホヤなり……ウニだってアワビだってそう。
 冷静に、自然界で彼らが生息しているときの姿をご覧なさいまし。
 あの状態をみただけで、美味しい味って想像できます?

 どんな事情があったか知らないけれど、でも、あれを捕獲して調理して、美味だ、といった人がいたわけですよね。
 私はふと、そういうひとを思うと、思わず、腹の底から尊敬の念が湧いてきますね。

 こういうグロテスクな形状をものともせず、果敢に挑戦してこの美味にたどり着いた人。
 全人類の恩人ですよ(真顔)
 たいていの人は、それがそもそも食べ物になるとさえ思わないんだから。
 でも、その恩人に教えてもらってとにかく食べてみたらすっごい美味しい、ってわかって、いまや世界のグルメってことに。

 でも、ものの形状にこだわる人には、「色形はこんなんだけどでもすっごい美味しいんだよ」と説明してもダメ。むしろそう説明する人を化け物みたいな目でみたりする。

 そこでプレゼンテーション。
 捕獲したままではなく、調理したうえ、さらにツマだの花だのを添えてきれいに盛り付けて、その美味なることをビジュアルで表現すると、さしも偏見強固なひとも、なんか美味しそうと思えてくる。

「人間は見た目も大事」てのも、そういうことなんじゃないでしょうかね。
 万人が、盛り付けどころか調理される以前の姿を見ても「これはおいしいものだ」と理解できる能力があればいちばんいいんですが、これもなかなかないこと。

「見た目が大事」というとき、その「見た目」がどのへんのことを意味しているかによって、「人間は見た目じゃないよ」というご意見に、うなずいたり否定したりするわけです、私としましては。

 これは男女双方にいますねえ——自分の容姿を必要以上に否定したり、いじけたり、そこから反転して「どうせ見た目でしかみないくせに」と他人を非難したり。

 でも、60億をこえる数の人間がいて、ですよ——それなのに美男美女といわれるひとたちは何人いるのか、全体の何割(…割もなかったりして)いるのかと考えると。
 美醜にこだわるのは、ほぼ、無意味だってことになりませんかね。

 たぶん、自分の容姿のことでひどくねじれた気持ちがあるひとは、御自身に、なんらかのこだわりがあるのだろう、と私は考えております。
 どうせひとを見た目でしか判断しないくせに、という、その人自身こそが、じつは人を見た目で判断している。
 そういうことの裏返しの心理——そのようにお見受けします。

 よかろうが悪かろうが、持って生まれたもので勝負するしかない、というのは、容姿でもなんでも同じこと。それをいまさらぐだぐだいってもしょうがない。
 冷静に考えればこの世の中は、少数の美男美女と、大多数の——、えーと……、不美男不美女で構成されているわけですから——自分がその「エリート」ではないからって嘆くことはない。

 素材はもって生まれたものでお互いにしょーがない。
 でも、なにを装うのか、どんな立ち居振舞いを身につけるのか、というのは、「きれいに盛り付ける」ことであり、「中身」の美味であることをわかりやすく表現するということは、可能なわけですよね。
 人間にとってはこちらのほうが、むしろ勝負どころじゃないでしょうか。

 すべての美女がトップモデルになるわけでもない、すべての歌がうまいひとが歌手になるわけじゃない、すべての頭のいいひとが先進の科学者になるわけではない。
 その素材だけで、すべてが決定されるわけではなく、あくまでも、「本人がどうありたいか」で、その人は決まっていく。

 私はあまり極端に、見た目だけで人間を排除するようなひとにはあったことがありませんが、もしそういうひとがいるのなら——そういうひとからは、避けてもらえるって、ぎゃくにありがたいことじゃないですか?

 そういう「話のわからない」「石頭」とは、なんにしろ、長い、親しいおつきあいは難しいでしょうから、早い段階で、そのことがわかって深入りしないですむというのは、むしろありがたいでしょう。

 その珍味なること滋味なることを知ろうともせず、忌避するようなやつに、いちいちご親切にご馳走をふるまってやることはありませんて。
 
 くだらないひとと無理に「友達」になって自分がずるずるダメになるくらいなら、ひとりで歩め——というのが、あまりに現実主義であまりにドライな、原始仏教の説くところですが、でもこれ、たしかにそうだと思いますよ。(^^;)

 相手に選ばせるばかりじゃない。自分にこそ、付き合うひとを選ぶ「権利」があることを、思い出してくださいな。

 誰かに、自分の容姿のことをとやかくいわれたら、そんなやつは相手にするだけ時間の無駄になるんだから、ありがたいことだと思い。
 ——でもちょっとだけ——じつは自分の中にこそ、「ひとを見た目だけで決め付ける」ところがないだろうかと、探ってみる。

 私のオススメはそんなところ。

 見た目は。
 盛り付けなんてしたくないというのならそうすればいいと思いますが、ただ、どうすればわかってもらえるかなあ、と考えて努力することは、自分のためにもなるし、他人のことを考える親切心にもつながることなので、そういう意味でなら、大事なこと。

 そう思います。
 
 
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2016.07.22 (Fri)

漂流郵便局

 珍しくうちの親が強く反応した話題でした。
「漂流郵便局」とは。

香川県の西部にある粟島には、「誰かに伝えたい、でも誰にも言えない」思いをつづったハガキや手紙が寄せられる“漂流郵便局”という場所があります。
3年前に開かれたアートイベント「瀬戸内国際芸術祭2013」の作品として、現代美術家の久保田沙耶さんによって作られました。
郵便物を受けつけるだけではなく、訪れた人はそれらを自由に読むことができます。
アートイベント終了後も、局長の中田勝久さんがボランティアで運営を続け、いまでは約1万5,000通ものお便りが寄せられています。
亡くなった大切な人、昔の恋、未来の自分へなど、届け先の分からない切実な思いがつまったハガキを紹介するとともに、利用する人たちの思いを伝えしました。


NHKあさイチ だいたい9時台の企画
 7月21日放送 「漂流郵便局」


 とのことで。
 番組中でいくつか、局留の手紙(ハガキ)を紹介していたそうで。

 亡くなった人への思い、誰にもいまさら話すこともない思い出、でも消しがたい記憶、…それを受け入れる郵便局。というのは、なかなか、味わい深いものがあるようですね。

 日記ともまた違う——というお話だったそうです。
 あくまでも、「誰か」に宛てた「手紙」であり、それは個人的な日記を記すこととは異なる——という。
 それは、わかる気がしますね。感覚的に。

 基本、もう会えない人への思いを語るものが多かったようですが、うちの母親が思わずビビったらしいものがひとつ。
 誰に宛てたハガキかというと、「自分の夫の恋人」でございます;;

 それを聞いただけで気が弱い私などはもう逃げ腰になりますが、やっぱり原文は迫力があったようですね。(^^;)
 私の親だけあってあんまり、他人の内輪の話などには興味を持たない人が、これは話さずにはいられない、という感じでけっこうくわしく聞かせてくれまして。
(人に話すことで精神的な負担を減らそうということですな)

 どうも、ご本人様は、そのご夫君の彼女さんとも顔を合わせて話をしてきたようで……、うーん。まあなんですね、別れてくれといわれて別れるひとも、あんまりないでしょうねその状況。
 なにがあったか存じませんが、その彼女さんは結局、お亡くなりになったご様子。

 手紙の本文では「バチがあたったのでしょう」「凄絶な(といったのか)末路でしたね」とつづいたそうで、うちの親、本気でビビってました。
 へたな怪談よりよほど怖かったみたい。(^^;)
「死をもって償ったつもりでしょうが、そうはいかない」
 一生、許さない、というあたりで——でも、私が感じたのは、なんともいえない、「お気の毒な…」という気持ち。

 許せないというのは仕方がない。でも、その亡くなったひとのためではなく、ご自身のために、そういう「執着」はおやめになったほうが……と。
 
 私はあんまりそういう、「バチが当たる」というのは信じません。
 現代人の中ではわりと信心深い方で、神仏には素直に手を合わせるので、バチが当たるというのを信じない、というと驚かれますが、——いや、神仏はそんなヒマねえでしょ、という考えです。

 たとえそれが「バチ」だったとしても、それを本当に神仏が行うのなら、神仏が人を故意に傷つける、ということになってしまう。
 親切心のカタマリみたいな高次元の存在が、そんなことするわけないじゃん———という発想です。

 仏教でいうなら因果応報、スピ系の人なら正負の法則とかいうと思いますが——「自分がやったことの結果は自分が刈り取る」という、いわば力学としての法則で、そうなる、という考えでおります。

 いちいち神仏が手を下すまでもない。自分がプラス1のことをすればプラス1を、マイナス1のことをしたならマイナス1を得る。
 それがたまたま、人間の目には「バチが当たった」ようにみえることがある——そういう解釈です。

 それでいうなら、その彼女のことをいつまでーも恨んでいるというのも、結局、マイナスなんじゃないですかね。
 恨んでいる彼女のために、自分がマイナスを「背負う」必要はないでしょう。

 彼女のためじゃない。
 自分のために。
 恨みは手放してもらいたい。

 許す必要はない。
 許さないまま、執着の手を離せば。
 ——誰のためでもなく、自分のために。

 相手にはけっして届くことのない手紙を認(したた)めることで、少しでも、その差出人のかたが、「手放す」ことができていたらいいなと願います。

(これをいうと、またそれはそれで怒られそうですがでも——その彼女さんだって、相当に苦しんだはず)
(私としてはそれはそれで、やっぱり、手を合わせてしまいますよ…)
(誰も望んでいないことでも、起きてしまう。そういうことはある)

 行き場のない思いを、どこかに「解き放つ」ことができるなら——心理療法的な意味では、いいものかもしれませんね。「漂流郵便局」って。


 ………個人的にはその渦中の旦那さん、どのツラ下げた色男なのかしらねーとは思いましたが。(^^;)
 そのかたはご健在でいらっしゃるのかな?(←ご健在では悪いかのような言い方;;)

 母がビビりまくったこの手紙はまた格別ですが、それ以外も、やはり、お亡くなりなった親御さんを慕う、まだ幼い子供さんの手紙とかもあったそうで。
 思わずしみじみ、
「何年か、何十年かしたら、その郵便局留めのハガキ、『お焚き上げ』した方がよさそうだよね……」
 と思いました。

 人の「念」というものは、やっぱり、「重い」と思われます。

 書くということは、でも、たしかに、その重さを減らしていく、——精神的な浄化、あるいは昇華をもたらす効果があります。
 漂流郵便局というのは、いい発想だなあ、と思いました。
 
 
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2016.07.21 (Thu)

外交は、戦争抑止のための戦争

 子供さんやお若い方々に、過去の出来事を示して見せて
「戦争は絶対にいけない、ということを伝えたい」
 という人々をみるたび、胸の底が冷たーく、冷え冷えとしてくる今日この頃です。

 いくら過去の話を聞かせても、そんなもん、戦争抑止の役には立ちませんよ。
 ——などといったら殺されそう(笑)
 なぜ、自称平和主義者はああも怒りっぽくて凶暴なんだろ(笑)

 結局、戦争の原因は時代がどうだろうが背景がなんだろうがひとつしかないんですよね。
「利益の確保」。
 倫理的な問題ではない。

 すでに充分に確保しているのに、今現在の、手持ちのものにさらに上積みされていかないと、不安になるのが人間てもんでございまして———「将来を見据えて、いまのうちから先行投資」としての、利益確保、という場合もありますし。
 明日への投資どころか今日たべるごはんのため、という「利益確保」もあるけれど。

 なんにせよ、人が人と殺しあう原因は、自分の利益を得ること、あるいは守ること。
 これらがあやういとなったときに、「自己保存」の本能が起動して、「それ」が起こる。

 ま、戦争はいけませんなんてのはある意味、当たり前のことなんで。
 それがどんな争いであっても、たとえ勝利できたとしても、他人と本気で殺しあうときに自分が全く無傷ということはあり得ない。必ずなんらかの「損失」は生じます。
 損をすることを望む人はいません。——ゆえに、損失というリスクは、通常の状態なら可能な限りとらない、というのが、本来のところ。

 でも、その損失を恐れて動かなければ、明日のごはんもなくなってしまう——となれば、明日のごはんという「利益」のために、今日の損失に耐える——という、これが、戦争へ踏み込むときの気持ちですね。

 戦争は絶対にいけませんというのは、いわば倫理ですが、明日のごはんがなくなれば死ぬしかないとなれば、そんな倫理なんかぶっとんでいっちゃう。
 自分が死んじゃうのに倫理もクソもあるか、というのが、自己保存欲求がつきつけるものでしょう。

 だから、ああいう情緒的な訴えとか、戦争は絶対にいけませんとか、——無駄だとはいいませんが、それは抑止のために有効な教育の「核」にはならない。

 原爆のお話も、私自身、感情的に揺さぶられて怒りだの悲しみだのでふくらんでいたのは中学校まで。
 16にもなりますとちっとは知恵がつくものと見えて
「ここで怒りだの悲しいだのいってて、なんの意味があるのか」
 という気持ちになり、
「情緒的なことではなく、じっさいに有効な策を知りたい」
 と思いました。
 
 が。
 残念ながら、私のこの気持ちにこたえてくれる大人は、当時はひとりとしてなく(本を読みあさってもです)、むしろ、センソウハンターイ! という絶叫になんの意味があるのか、なんていうと怒られたりして。(^^;)
 しょーがないので、自分で、あれこれつらつら考えて30年。
 
「戦争は避けるべきもの」という「信念」を共有している、ということを前提にして、そのうえでさらに。
 現実的に有効な抑止策はなにか——と考えました結果。

 利益を確保すること。

 これに尽きる。

 戦争となれば損失は避けられない。損失を嫌う人間はそういうわけで本来的には戦争までは望まない。
 それなのになぜ戦争がやめられないのかといえば、利益確保への不安がなくならないから。
 であれば、その利益が得られる、確保できるのなら、誰も戦争まではやらない。

 わりと単純な話でした。

 ただ、現実問題としては、利益というのは入り組んでいる、このへんが難しいんですね。
 20世紀末から「win-win」——「自分も勝って、相手にも勝たせる」という言葉が言われるようになりました。
 もとはビジネス界から出てきたようです。
 取引上、双方に利益(メリット)がある状態や関係のこと、ですね。

 これが守られていれば戦争にはなりますまい。ほとんどの場合は。

 で。
 双方利益があるようにということは、双方になんらかの「我慢」「妥協」「折り合い」も求められるわけで。
 この折衝(せっしょう)がうまくいくことが、戦争抑止の最大の因子と言える。

 だから、日頃の外交が大事なんですよね。
 大事というより、ここが破綻すればもはや折衝の場さえなくなり、——となれば選択肢はひとつだけということになっていく。

 外交とは、つまるところは日常の戦争、戦争抑止のための戦争、とも、いえるかもしれません。
 外交は、これこそ命懸けの戦い、といえる。

 のですが。
 あまりにもナイーブな日本人は多く、このへんを理解していないようです。日本人だけではないでしょうが——この国の人は特にその傾向が強い、と感じてます。

 また、このウィン-ウィンの関係を目指すには、相手にもまた、「じっさいのドンパチになったら損。避けるべき」という認識があることも、前提となります。
 自分にはいっさいの損失なく(戦争で)利益が取れる——と、思わせてはならない。つまり、見縊らせてはならない。これも、外交の必須条件。
 防衛力の意味は、ここにあります。……左巻きにはわからんでしょうが。(← 一言多い)

 情緒的な、あるいは倫理的な教育も、そりゃ大事です。大事ですが、それだけでは、教育としては不十分だと私は考えます。

 かつての私は、私の知りたいことをだれも教えてくれないことを、——それどころか、疑問を口にすれば大声で怒鳴りつけて黙らせようとする人々の態度を、大いに不満に思ってました。
 その、大いなる不満をもった経験からかんがえて、「人間自然」の姿と「政治力学」を、若い人にくりかえし教えることが必要だと言えます。——戦争は絶対やってはいけないというそのお言葉が、本気のものであるのならば。ですが。


 でも、こういう話をするとだいたいは、なんとなくいやな雰囲気になるんですよねえ。(^^;)
 なんででしょうね——好き嫌いいったってしょーがなくて、それが私どもの「現実」ってやつなのにね。

 最近、考えているのはそんなこと。
 
 
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2016.07.20 (Wed)

紳士袋

コミケの「紙袋持ち帰りのマナー問題」を解決する!
 透けない防護カバー「紳士袋」を配布・頒布予定の共信印刷に話を聞いてみました
 紙袋が汚れないし、マナーも守れる!

2016年07月19日 17時30分  ねとらぼ

 ……たぶんオタク話。(^^;)
 苦手という方いらっしゃいましたら、本日はこれにて。m(_ _)m

 どのへんまでがオタ話になるのか、どのあたりが嫌がられるのかがイマイチわかっておりません;;
 お気に障るようでしたらごめんねということで;;

 さても。
 夏の祭典といえば(私どもには)コミケなんですが、ひとことでコミケと申しましても、現在は3日間の開催期間のうえ、ジャンルは多岐にわたるために、自分が参加しているジャンル以外のことは何も知らない、ということさえあるわけです。

 3日間あるなかでも3日目は「男性向け」が主流となっておりまして、ありていにいえば、エロです。
 エロ「だけ」ではありませんが、そういうジャンルの割合が、1日目2日目より高い。

 で——当日、サークルさんや参加企業が配布・頒布するものに、イラスト付きのばかでっかい紙袋、というものが多い。
 問題はそのイラストでございまして——いかに漫画・イラストとはいえ、公序良俗に適(かな)うとは言いがたいものもけっこうある。

 私は参加日が異なるのであまり見たことはありません。が、そうであっても——私が見たものはそりゃーもー、どちらかというとそれを抱えて電車とかで帰れるアンタの神経のほうがすごいよ! というくらいのシロモノでした。(^^;)
 でもあれ、案外、個人が作ったものではなくてこういう方面の法律にはそれなりに日常「親しんで」いるであろう、けっこうな大手企業の頒布品だったりするから、なおさら「頭痛がイタイ」。

 値段をつけて売るものではないし、コミケというのは法律から考えると黒に近いグレーゾーンにある存在だから、「自由」だろう、という、その安易な発想をやめろ、と思いましたね。

 かぎりなく黒に近いグレーだからこそ、通常以上に神経を使っているのが参加者の実態。
「だ・か・ら、企業参加には反対だっつったんだよ!」
 と、あのときは軽くキレましたね私も。

 オリンピック以上に、コミケというのは「しろうと」のための場所。
 アングラの、アウトローの、そして健全な社会のなかでは居場所がない「しろうと」のための場所だった、はずなんですよね。
 それなのに、商業主義そのものの、まして大手といえる企業が参加するというのは、もともとの「精神」に反する——ということで、私は賛成ではなかったのでした。

 ………まあ、運営費の問題とか、いろいろあってのことで、しょーがないなというのも、わかるんですが。

 どうもこのエロイラストの過激ぶりは年々ひどくなっているようで(私が見たのも相当なものだと思いましたが、……あれを超えるの?;;)、自主的にそういう紙袋に、さらにカバーをかけていく、というような人も現れまして。

 とうとう今年は、そのカバーが広く配布される……ということで。

 まあ、警察のお世話になる前に自主的に、そういう動きが出てくるところはエライと思いますが……、いいかげんにしなさいよ、とも、思いますね正直なところ。(^^;)

 これ、男性向けはことさら目立つというだけで、女性向けもけっこうアレだということも、公平を期すために申し添えておきますね。
 
 ほかより目立とうとすると、どうしてもこういうことになっていってしまうのでしょうか。
 そちらのほうに気を取られてしまい、配慮というものがどこかへいってしまい、指摘されれば「表現の自由」とか寝言をいうようになっちゃうんでしょうか。

 ……警察の職質受けたって人、絶対いるでしょ……。そこへいくまえに自主判断しましょうよ。

 なんどもいうようですが、自由というのは放埓(ほうらつ)勝手気まま、という意味じゃないですよ。
 自由にやれる人は、自主的な判断がきっちりできる人。
 このへんの認識はもういちど、確認してもらいたいところ。

 じっさい、グレーゾーンにいるコミケはいつ開催不可能になっても不思議じゃないので。

 個人的には「紳士袋」というネーミングには思わず失笑いたしましたが、でもまあ、そういう気遣いができるようなら、たしかに、紳士的ではあるのでしょう。(^^;)
 ここで、「紳士ならそもそもそんな紙袋、もらったり買ったり使ったりしないのでは?」とは、言ってはなりません。
 そーゆーことでもない、と思います。ハイ。
 
 ともあれ、そうであれば今年は、ひとさまの抱えている紙袋を見てぎょっとすることもなく過ごせるかな——と期待してます。
 でも、こんなことでまたコスト増なのねとか考えるところは、ケチくさいんでしょうか私も。(^^;)
 
 
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2016.07.19 (Tue)

町へでよう

ポケモンGO」というものをよく聞くようになりましたが、なんせ自分はゲームを全然やらないので詳細、存じませんでした。
 けっこうなブームになっているようですね。

「ポケモンGO現象」がさらに拡大:鬱が改善との声多数。検索数でポルノ超えも
2016年7月15日 16時05分 Newsweek 日本版:高森郁哉

 ポケモンGOはスマホアプリで、VR(仮想現実)を取り入れているところが、目新しいところのようです。
 これ、海外でリリースされてて、日本はまだなんですね。

 外を歩き回ることになるので、モニターの前に座りっぱなしの従来のゲームよりは健康的ともいえるし、うつ症状の改善報告もあるというのはなかなか興味深いところ。

「ゲーム悪玉論」は、ほんっとにしつこくて、つい先日もまだ、子供がおかしくなるのはゲームが悪いからじゃ、というご意見をおみかけして
「子供がおかしいのだとしたら、それはオトナどもがおかしいからじゃ!」
 と思わずつぶやいていしまいました。(^^;)

 道具というのは使いようですからねえ……。上手に使えば、そのメリットを十分引き出すことは可能ですし、そうできれば有益ですよね。

 ただ、そういえるためには使用方法は考えなければならないし、それを守るには、人間の側の「コントロールする力」は必須——というより、こちらのほうが本題のはず。
 道具は使うもの。
 なのに、道具に使われてなんとする。

 ゲームに夢中になるあまり、交通事故で大怪我を負うというケースもあると聞きまして、……夢中になるとそれ以外のことへの注意が行き届かないことになっちゃうんでしょうね。子供さんだとそのへん無理もないなと思いますが、オトナでもこのへんはシャレになっていないのかな。
 
 でも、現実の街を歩くってことで、地域活性化の期待もある、というのだからなかなか、馬鹿にしたものでもありません。
 VRで、ヴァーチャルのほうに夢中になり、現実の世界が見落とされる(=目の前の車に気づかず交通事故、とか)のは困りますが、モニターまえに縛り付けられているよりはいいのかもしれない。

 そういうゲームなりアプリなり、増えていくんでしょうね。
 そうすると逆に、人々が現実の街へ出てくるようになるのだとしたら……なかなか面白い。

 書を捨てよ、町へでよう——ではなく、スマホアプリで町へ出よう、てことになるのかな。



 寺山修司は、「書を捨て」て、現実世界の中にたち、そこで想像力を働かせる必要性を——つまり自分の脳みその「大ウソ機能」を働かせること、その大事であること、楽しいことを示してくれましたが。
 ゲームが悪い、で凝り固まらず、新しい技術で町を歩くのもいいのかもしれませんね。

 ………とかいいつつ、やっぱり私自身はゲームには興味が持てないのですが。(^^;)
 ま、それはそれで。(有耶無耶)
 
 
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