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2016.05.31 (Tue)

小さな子供

 北海道で、7歳の男の子が山中で行方不明になっている件。
 昨日の捜索でも見つからなかったとのことで、……なんとか無事に見つかってほしいものですが。

 このニュースを聞いているあいだ、ほんの子供のころ、こういう状況をどれほど恐れていたかを、ふと思い出しました。
 家に帰りたいと思って外へ飛び出しても、自分が歩けるのはほんの数歩のこと。目の前の角を曲がっただけで世界は一変し、見知らぬ冷たい石の街になって行き手を塞ぐばかり。
 家に帰るどころか、さっきいた場所さえわからなくなりそうで恐怖に震え上がり、ほんの数歩を戻って立ち尽くす。

 これに類似の経験や恐れは、たいていの人には覚えがあることではないかと。

 多少、迷子になったとしても、結局、その恐れは恐れにすぎず、じっさいには、親なり、年上のいとこたちなり、親戚のだれかなりが迎えに来るなどして無事を得まして。
 あの恐怖が実現しなかったときの安堵感。無事に「いつもの」世界に帰ったときに感じる強い愛着感。

 けれどもその結果を得ず、じっさいにほんとうに現実に、あの山の中にひとりでいる子がいる、と思うと、こちらが身が震えます。

 現在ジョン・グレイ博士の本を同時並行で読んでいるところですが、「心の傷を癒す」プロセスの解説の中にも、「家に帰れない小さい子供」のエピソードがありまして——ああこれ、たいていの人が経験することだなと思いました。



 博士の場合はご両親から離れて、叔母さんの家に何日かいたときの記憶とのことですが——ああそう、この感覚、同じだ、と。

「世界は急に広大な場所になり、わたしはとても小さかった。まわりの人たちはいったい誰なのだろう、どこへ行くのだろう、何をするのだろうと考えた。この世界で、自分の道を切り開いていくことなどできるのだろうかと」



 私の場合はさらに「身から離れる」感じが強かった。
 これは迷子というようなことでは全くなくて、近所の友達の家から自宅へ帰る途中、夕焼けの光の空を見たとき、ものすごい違和感と、「知らない」という感覚におそわれまして。
 自宅さえ、じつは「帰る」「なつかしい」場所ではなく、両親は、見ず知らずの他人でした。——あの人たちはだれだろう? ここはどこだろう? 私はどうしたんだろう?
 私は、こんなところに来てしまった。
 次に死ぬまで、私はここで、私でいるしかない——

 そう感じたときの、あの絶望感はいまだに忘れられない。

 世界はなにもかもが冷たく、見知らぬものと人ばかり。そこに小さな「自分」という箱がぽつねんと置かれ、その中にぎゅうぎゅう押し込まれて途方に暮れている。

 それが私の「感情の記憶」。

 博士のお話を聞いて、まるでフラッシュバックのように思い出され、うひゃー……と思いました。

 博士もまた、こんな感情は大人になれば消えると思っていたそうですが、あいにく、30代になってもまだ、「自分は小さくて力ない」という感覚はわずかにでも残っていた、とのこと。
 
 こういう記憶ってふだんは「封印」されているんですね。そんなことがあったということさえ、きれいさっぱり忘れている。
 そのくせ、「見捨てられて家に帰れない小さい男の子」の「気持ち」は残ったまま。

 そこで、もう小さい子供ではない今、あらためてその過去の記憶を辿ったり「旅」をすることで——忘れていたものを思い出して、そのときの感情を味わい、きちんと自分の感情と「向き合って」、その存在を認める(見ないふりをしたり、なかったことにしたり、そんなことなんでもないと自分に無理に言い聞かせたりはナシってこと)、——というお話がつづいていくようですがいまはまだそこまで読んでません。
 世界に対するあの恐怖と、「自分が無力だと感じる」感覚が、あまりにも「わかる!!」だったので書いてしまいました。


 そんなことを考えていたら、行方不明の男の子のニュース。
 彼は、妄想が現実になってしまったのだ、と思ったらもう——どうにも、いたたまれないような気持ちです。



 たぶん、どんな人にもそんな「感情の記憶」があるんだろうなと思いつつ。
 いつか、その小さな子供が、重い記憶から、逃げるのでも押しつぶされるのでもなく、ただ、静かに向き合って受け入れ、心が癒されるように——自分で、道を見つけて家に帰れるように。
 
 そう願うばかりです。
  
 
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2016.05.30 (Mon)

裏話の取り扱い

「笑点」視聴率28・1%
 新メンバー&24時間ランナー発表で3週連続20%超え
2016年5月30日(月)9時11分配信  スポーツ報知


 日本テレビさんの「笑点」。
 番組の目玉である大喜利の、司会者が昨日で春風亭昇太師匠に替わり、新しいメンバーとして、林家三平師匠とのことで。
 私も昨日は拝見しましたが……ずいぶん、新司会にしろ新メンバーにしろ、けっこうにぎやかに話題となっていた……のかな? (^^;) ←疎い

 なんであれ長く続けているというのはたいへんなことで、また、先輩諸氏のことを思うとプレッシャーがないはずもないわけで、いろいろあるんだろうけれど、がんばっていただきたいなと思いつつ見ておりました。
 見ていていちばん思ったのは、「収録と生放送ってぜんぜんちがうんだなー」ということだったり。(^^;)

 なんにしてもあんまり、舞台裏というのか、裏事情って、知らないほうがいいように思います。
 あれは——どういう心理でしょうか。一時期ずいぶん手品のネタばらしをよくみかけたり、映画の「メイキング」とやらがやたら流されたり、ドラマのNG集とか、なんでそんなもん見なけりゃならんの? と思ってました。

 ネタバレにはがんがん怒るのに、——封切り前の映画の「広告」として、一部であるにせよメイキング映像が流れることには抵抗ないのね? と首をかしげていたり。

 私はあんまり、ああいう「裏」は聞きたくない知りたくないというタイプ。
 映画のメイキングにしても、特殊メイクやCGなどを先に知らされてしまうと、本編見ている時につい、
「ああ、このメイクだけで3時間かあ……俳優さん、たいへんだなあ」
 とか考えてしまい、すっと現実に引き戻される気がする。

 いわゆるトークバラエティーという番組もほぼ見ないのも、話の内容が「楽屋(がくや)落ち」であることが多いから。
 世の視聴者全員が、ゴシップや週刊誌をよく読んで事情に詳しいはず、という前提をされてしまうと、どうにも——そういうことを知らない人間からすれば、「なんの話?」「誰のこと?」「おもしろくない」ということに。

 手品であれば、「タネも仕掛けも」あるに決まってる。決まってるけど、いちいちそんなん知りたくない。
 タネも仕掛けもあるんだけど、でも、うわーすごいねどうなってんだろうね、と驚くところに、マジックを見る楽しみっつーもんがあるんでしょうが! …と、ネタばらしには文句たらたらでした。

 裏事情を聞きたがる人と、そんなん知ったら楽しくないじゃんという人、どんな「趣味」の違いがあるんでしょうね。
 私から見ると、ネタバレには発狂レベルで怒るのに、こういう裏事情は聞きたがるの? というのはちょっと不思議です。

 ということで、笑点大喜利、なにやら余計な情報をまた脳内に流し込まれちゃったような気持ちになりつつ、でも、また楽しく拝見できればと思います。

 昨日いちばん衝撃だったのは、「24時間テレビのあのマラソン、今年もやるの?!」でした。

 ………ランナー決定の林家たい平師匠、お大事にしていただきたいです;;
(裏話を聞きすぎるのはイヤだなといいつつ、こぶ平師匠のお話が出たときはやっぱりもらい泣きを……)
(いやだからこういう話を聞かされたら泣くでしょー? (ノ_<) ←涙腺よわい)
(そういうことに、ときどき、引っかかりを覚えてしまうわけですよ;;)
 
 
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12:09  |  身辺雑記2016  |  EDIT  |  Top↑

2016.05.29 (Sun)

なお読書中

 先日ちょこっとお話ししました、ジョン・グレイ博士のご著作、思わず真顔で読んでいるところ。
(『スーザン・ソンタグの「ローリングストーン」インタビュー』は無事読了)



 まだ読み終わってはいませんが、しかしここまででもうじゅうぶん——目から鱗が何枚落ちたことか。(^^;)
 博士のどの本でもいいので、とにかく全員1回は博士の「講義」は聞いた方がいいな、と思うほど。

 拝読すると、もうね——性別の違いが、コミュニケーションというものにおいては、絶望的な違いになる、ということを実感するしかないですね。
 愛情がありながら破綻してしまう関係があるのを、残念とも不思議とも思ってきましたがこれはもう——しょーがないことなんだな、と。

 けれどもその破綻も、「情」になど頼らなくても(これに頼るともーいろいろ大変なことに;;)、その違いを理解して、コミュニケーションの「技術」をある程度まででも身につけることができれば、ずいぶん経過も結果も違ってくる。そう思います。
 ゆえに、これ全員読め。とまで思う。

 これは男女のパートナー関係だけではなく、日常、友人とも、仕事関係とでも異性とコミュニケーションをとるわけですから、そりゃもう大事なこと。
 これは恋愛論じゃない。
 コミュニケーション技術。
 自分はパートナーとはうまくいっているからいいです、とはおっしゃらず、もし異性の部下や上司に手を焼いておいでなら、ぜひご一読を、と申し上げます。

 とにかく読んでいてページをくるごとに唸っているといってもいいくらいなのは、「言葉の解釈の絶望的な違い」。
 自分は白といったのに、相手は黒だと解釈している、それくらいの違いがあることがケーススタディで丁寧に説明されて、ぐうの音も出ません。

 逆に言うとこれほどの違いがあるのに、よくもこれまで(わりと)平気で生きてこれたなーと思うほど。

 で、その「解釈が違う」ことに気づかないのはいいとして、解釈が違っていてもなんとかなるかもしれないのに、ものすっごい感情的な摩擦になってしまう理由があるようです。

 言葉の解釈といっても、いいように取ることもできるのが、どうも、ネガティブな方向にばかり解釈が進んでしまう、ということに気がつきました。
 ただ誤解されているだけならまだしも、「自分は相手から責められている」という——被害者意識のようなものが、とにかく目立つ(男女共にです)。

 誤解といってもいろいろあるのに、どうしてこう、被害者意識、自分が責められあるいは傷つけらるという方向にばかり「解釈」しちゃうのかなぁ、というのが、まず私が疑問に思うこと。 
 でもこれもたぶん、具体的に聞けば、博士にはおわかりのことなんだろうな。
 ただそこまで話を突っ込んでいるとまた別の本が書けるほどでしょうからね。(^^;)

 数ある項目の中でも、これはもう最大のすれ違いを生む——いわゆる「熟年離婚」の最大要因だろうな、と思ったものがひとつ。
 人生観の違い。
 もんのすごくおおざっぱにいえば、男性は「人生の成功」を目指して努力する。
 それはいいんですが、彼にとってはこれが最大の価値なので、その「成功」によって他人からの信頼も得られる、ひいては、ここさえ押さえておけば女性からも同様の信頼や尊敬、愛情もえられる、はず、と思う。

 ところが女性はそうではない。残念ですが。

 もちろん社会的な、あるいはおもに物質的な「人生の成功」は、それはそれでいいことだけれども、パートナーとしての価値は、ちょっと違うところにある。
 塩野七生さんも、「女性は、彼のために苦労するのがいやなのではない。君にはいつも苦労をかけるね、という、一言があれば奮い立つものなのだ」と書いておいでですが——そういうことですね。

 女性は日常の、小さな愛情表現や「親切」に敏感で、そういうものにこそ感謝をする。
 でかい仕事をするのはもちろん立派なことで、それはそれで認めるけれど、パートナーとしての愛情とは、じつは、あんまりそれはリンクしていない。

 男性はこれだけの物質的な成功や成果をおさめているのだから、当然、彼女もそれを認めて尊敬してくれると思うらしいですが、そういうものでもない。
 ひごろ奥様をないがしろにして、ありがとうひとつマトモにいわないような男が、なぜ、女性から尊敬されて愛されるはずがありましょう。

 熟年離婚にいたった、とあるご夫婦の、旦那さんというのが私の母の同級生で、定年を機に三行半(みくだりはん)を書かされ、いまだその理由が「わからない」と言ったのだそうで。
 わからないかあ。そっかあ。——と言うしかない。

 このご夫婦の場合も離婚に至るまえに、博士のおっしゃることをいくつか取り入れていたら、結果は違ったかもしれない。
 愛情はありながら関係としては破綻してしまう、というのは、やはり残念なこと。

 ちょっとした気づきと「スキル」があれば救われるはずの場合って、けっこう多いんじゃないだろうか——と思いました。

 まだ読んでいる途中なので、またそのうち——ああこれ面白いと思ったことがあれば書くかもしれません。

 ところで。
 パートナーシップどうたら以前に、自分自身にまず、どうにかしないとならないものがある、という方には、こちらもおすすめ。
 こちらもまだ読んでいる途中なのですが。



 タイトルみると、ちょっとどきっとしますよね。(^^;)
 でもこれは「ひとり」のひとを責めているわけではない。これは邦題でして、原題は「火星人と金星人の旅立ち MARS AND VENUS STARTING OVER」。

 つらい体験から、本当の意味で「回復」する、手段と意味を説明しているもの。
 博士ご自身、お父様を強盗に殺害され、弟さんが自死するという、過酷な体験をなさっておいでだそうで。
 つらい経験後、自分はもう立ち直ったと思っているひとでも、じつは、それはただ傷に「ふた」をしただけであり、きちんとした回復ではない、ということが多い。
 そういうひとに向けてのお話。

 こちらもおすすめ。

 自分のことは自分がいちばんわかってる、と思うひとも多いのでしょうが、案外、そうでもないみたい。
 そのへん、興味おありでしたらどうぞ。 
 
 

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2016.05.28 (Sat)

馬産地再興へ、応援



 以前にもちょこっと「クラウドファンディング crowd-funding」のことは書いたことがありますが、今回もそういうことで。
 クラウドファンディングって訳すとしたらどうなりますかね? どこかで訳語って設定されてるのかな? 集合型小口基金とか?

預託で「強いサラブレットを作る」 馬産地・青森の再興へ、18歳が挑む!
https://a-port.asahi.com/projects/kakerufarm

 クラウドファンディングも、出資を募る期間中に、目標額に到達しなければ「お流れ」になるものと、目標額に到達しなくても、ひとまず、集まったお金を資金にするというものがありますが、こちらは後者。
 
 馬産地といえば北海道、というイメージで、青森県もまた馬産地だったとは存じませんでした。
 なかなか現況から盛り上げていくのも、競馬人気自体がちょっと低迷しているなかでは難しいようですが、そういうなかで、牧場のみで頑張るのではなく、繁殖牝馬(ひんば)——種牝馬というのが辞書にはあるんだけどあんまり使わない言葉なのかな——を「預託」、お預かりして飼育するということだそうで。
 
 これですとわりと、どちらさまにとってもメリットがあり、収入としても安定するということのようです。

 競馬に関係する業界というのも難しいな、というのが個人的には思うところ。
 馬を完全に「モノ」として運営していくお話は、理屈はわかりますが無責任なしろうとには、やはり心理的な抵抗も大きいモノがあります、正直なことを言えば。

 それでも、日本競馬そのものには、やはりその隆盛を願いますし、——私は賭けはしませんが馬をぼけーっと見ているのが好きなので、テレビ中継もよく見ますし。(いまだに賭けのルールはわかりませんが)
 そんなわけで「馬産地・青森」の再興の道があるなら、競馬ファンとも言えないけれども応援はしたいなあ、ということで。
 ツイッターで、ツイートなんぞをいたしました。

 私が気がついたときすでに、締め切りの3日前。そのときの目標額達成率が75%くらい。
 あと(実質)2日くらいだとキツイのかなー、いい企画だと思うんだけどなー、と思い、でもこちらは目標額に到達しなくてもそのまま資金になっていくタイプだったので、まだ今後もあるのでは、と、そんなあたりに期待しておりました。

 しかし、えらいもんですね。締め切り5時間まえで達成率90%にはちょっとだけ届かない、というところだったのが、3時間後には達成してました。
 企画の内容も大事だし、人の目に触れるってことも大事だなあ、としみじみ……。

 応援コメントを拝見しますと、種牡馬「ウインバリアシオン」のファンだった、というかたが多くて、なるほどこれも人徳——じゃなくて馬徳ってものなんだなあと思いました。
(完全に脱線ですが、種牡馬——しゅぼば、ってちょっと言いにくいですね;;)

 なんにしても、競争厳しい業界のことですから——これから、うまくいってくれるようにと願います。

 また、お話を聞いていると今回はひとまずの不足分90万円とのことでしたが、それでももうギリギリのところかと拝察します。
 事業として安定するまでには相当の時間がかかると見込まれるので、お金なんぞはいくらあっても困らないくらいだろうと思われる。できれば、今後も何か、継続的に支援できるといいんじゃないかなと思います。
 今後も息長く支援できたらいいな、と願っております。

 ………こういう次第なので、ファンディングしても、リターンをいただくのは申し訳ないような気持ちもありますが;;

 馬がお好きなかたには、こんなこともちょっと気にしていただければ嬉しいなと思います。
 ウインバリアシオンについて熱く語るコメントも拝見して、やっぱりちゃんと(?)好きな人だと熱意が違うよなあ、とも、感心しましたので。(^^)

 馬といえば、相馬野馬追。
 今年もちょっと行けないかなあ。行きたいなあ。
 中村神社の御神馬に腕を噛まれた(あちらさまはジャレて甘噛みしたつもり。でも毛皮を持たない人間の腕には歯型がついた・笑)のが懐かしく思い出されます。
 
 
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12:36  |  身辺雑記2016  |  EDIT  |  Top↑

2016.05.27 (Fri)

やさしい回答者

 ツイートについた返信の中には、ようはネタじゃないか、とか、10年くらいまえにもみたような? とかいうものがあるので、真偽のほどは当てになりませんが、ともあれお話として、たいへん興味深いので。
 こちら↓のツイートをクリックして、画像合計4枚、まずご覧になってください。
(画像が開かない場合は、このエントリーの「続きを読む/ read more 」、ケータイからならスクロールDWNしてエントリー最後にございますのでどうぞ)



 私はいわゆるバブル世代に属しておりまして、そのころは、女性が結婚相手に求める条件に「3高」というものがありました。
 高身長、高学歴、高収入。で、3高、と。

 でもこれ誰が言い出したことなんですかね。私自身はそんなことをいう人には会ったことないんですが、………ただまあ、こういうことをいう人が、ゼロだったとももうしません。
 週刊誌あたりは針小棒大にものをいうのが得意だから、ああいうあたりが出どころかなと思ってます。

 ともあれ。
 そんな話題がテレビでもちらっと取り上げられたとき、みょーに憤って反応したのは私の親のほうでしたが、
「いやー、もしも本当にその3条件で決める人がいたら、それはそれで、エライと思うね」
 と私が冷静に申しましたら、鎮まってくれました。(^^;)

 結婚というのはどうしたって「現実」の「生活」ですから、……しかも、じっさいはともかく前提としては、「生涯」つづくものということになっているから5年10年ですむことではない。
 とすれば、自分にとっての必要条件をあらかじめ、先方と擦り合わせていくというのは、きちんとした計画性があるということ。
 そのこと自体は、むしろ必要な態度ですよね。

 で、その3高とやらで結婚相手を決めるというのなら、私はエライなと尊敬しますが、——問題は、じっさいはそれ「だけ」ではないこと。
 その3高というのはむしろ「最低条件」、必須条件であり、ここをクリアして初めて、スタートラインに立てるということ。

 結婚相手の条件は3高だけではない。
 だけではないのなら、最初からそういうべきなんですが、それを言わない。
 これをクリアすればいいのかなと思って臨むと、次から次へと条件が上積みされていく。
 かぐや姫かっつーの。(^^;)
 
 とはいえ、これネタじゃねえのというコメントもある通りで、こういうことを本気でいう人っているんですかね?
 冷やかしで無遠慮に「何某さんは結婚しないの?」などというオッサンはそこらじゅうにいますからね、そんなのをマトモに相手にするのも面倒なんで、聞かれりゃこう言っておく、ということだったんじゃないかと疑ってます私は。

 だとしても、こういうお話をなにかのバーターだと、無意識にしろ考えている人は、男女双方にいることはいるようです。
 でも、人が一度そう認識してしまったものを——つまりは価値観てやつですが、それを他人が指摘してわかってもらう、ということは、おおむね、不可能なこと。

 そういうなかで、たとえネタであっても、この回答はお見事、と思いました。

 感心するのは、この回答者はその気になれば黙ってレンタルも可能なところそうもしないし、まあ一言、ばーかと言って終わりにしてもいいのに、このように丁寧に説明している点です。
 なによりエライと思うのは、質問者の認識にあわせた話をしているところ。

 質問者は、自分がどんな価値観を持って、どんなふうに「世界」を設定しているかほとんど自覚がないようです。
 そういう人に、いきなり倫理道徳とかものの道理とか、せめて社会常識とか、そんなところから「説教」してもまず理解はしてもらえないでしょう。

 相手の認知している「世界」に合わせて、その世界を支配している条理にもとづいて、あなたが言っているのはこういうことです、それに対する答えはこうです、と説明している。
 なかなかできることではありません。

 相手の目線に合わせて、あるいは、相手の目線にたって、……とは、よく聞く言葉ですが、これはなかなかできることじゃない。
 どうしても人間はついつい、自分が持っている基準や規範から、他人に向かって「そのまま」話してしまう。

 たとえこれがネタだとしても、この回答は見るべきものがあるな、と思いました。
 また、この回答は、質問者への理解と思いやりもあることも。
 もちろん正直なところ、見下しているところもあるでしょうが——まあでも、いきなりバカと罵るよりははるかにおやさしい。

 面白いなあ、と思いましたので——それこそブログのネタとして、ご紹介まで。(^^;)


 私個人はそういうわけでこういう価値観の人とは直接、接触したことがないので、「本当にこういう人っている?」というのがいちばんの感想だったりしますが。
 いやでも——もし仮に実在するならちょっとうらやましいです。
 それだけ自分の美貌に自信があるってことが。

 自分には価値がある、という感覚がある、その感覚を持っているということは、私にはとても、うらやましいことに思えます。
 それに——この質問者をバカにしきった返信もありますが、でも。ことわざには「割れ鍋に綴(と)じ蓋」ってのがありましてね。

 同じ価値観のひと同士なら、案外、楽しく円満にいくのかもしれませんよ。
 それは当人同士でないとわからないこと。
 そういうことがあっても不思議じゃない。
 ひとさまにとっての幸せを、自分は測れるだなんて、それこそ、うぬぼれたことは思わないことですね。

 なかなか含蓄のあるお話で、面白うございました。
 
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11:19  |  身辺雑記2016  |  EDIT  |  Top↑

2016.05.26 (Thu)

真澄さま、つぶやく。

 ひさしぶりに「紫の薔薇」のあのかたが、つぶやきをこぼされましたわ皆様。



発売延期から3年…『ガラスの仮面』50巻がついに発売!?
 にわかに沸き立つTL、「出る出る詐欺か?」

http://togetter.com/li/979012

 もうここまでくると、どうあってもその最後は見届けたいという気持ちになる作品。(^^;)
 
 かなりのご長寿(現役)作品はほかにもありますが……王家の紋章もまだ続いているわけですよね?
 あとエロイカとか。
 きっちり連載ではなく、ときどき読み切りとして登場するという形式であるにしても、ご長寿現役であることには違いない。息長いということもひとつの偉業ですよね。

 そういうなかでも「ガラスの仮面」は読み切り単発形式ではなく、ひとつの物語としてつづいているだけに(……1976年。今年でちょうど40年!)、「これからどうなる」という気持ちは強いですよね。
「紅天女」というまぼろしの名作(劇中劇)を描くこともたいへんだろうしなー……と、思わず作者のかたに同情を禁じ得なかったりして。(^^;)

 じっさい最後がどうなるかについては20年くらいまえにはできていたそうですが、脳内にあることと、じっさいに現実のモノとして作品になるのとではぜんぜん違いますもんね。

 作者、美内すずえさんの体調不良のこともあり、あるいは「完璧」に仕上げないと原稿を編集者に渡さないという伝説もあるし、………まーだまーだ先でしょうかね;;
 私もそろそろ人間の平均寿命なんぞが気になるお年頃になってきて、「結末をみないうちに私も世を去るのかもしれない」という気がいたします。
 いやまあ、そうなればなったでしょーがないですけどね。
「グイン・サーガ」はもはや、永遠の未完結になったことを思えば、作者がとにかく元気でいる方が大事だ。

「ハリーポッター」の作者、ローリングさんは、小児がんの、死期の迫る読者のために、まだ未完結だったハリーポッターの結末を語って聞かせたというお話もありましたね。

「物語」に溺れる意味を、なんとなく考えてしまいます。

 東日本大震災のあと、おおくのアーティストが、自分にはなにもできないという無力感を訴えるのをききました。
 たしかに、本を読んでも空腹感は満たされることはないけれども、でも、こういうときだからこそ、「物語」が必要なのに、と思いました。
「こんなとき」だからこそ芸術の力は発揮される。——だというのに、なにを言ってんですかこの方々は。と、それこそ無能の凡夫は思っておりました。
 あの自責の念と罪悪感は——ちょっと不思議に思えたな。

 被災地へ、だから、絵本を送ろうという呼びかけを聞いたときに一も二もなく(ちょっとだけど;;)協力させてもらったのはそういう次第。
 あのときは皇后陛下からは、それはもはや稀覯本では?! というお宝絵本が寄贈されたと聞いて、さすがだなあと思ったもんです。

 ガラスの仮面の結末を見ていないからといって、迷って出てくることはないようにしたいとは思いますが(笑)、でも、それなりに気にはなるだろうな、という予想(笑)

 魂の平穏な時間のためにも(笑)——いろいろたいへんだろうことは容易に察せられますが、なんとか、ガラスの仮面も物語が進み、終幕を拝見できますように。

 50巻でるってよ! という話についてどう思うかというと。
 ……まあ、ここまでの経緯もいろいろありましたし、「当てにしないで待ってる」としか、いいようがありませんねー。(^^;)

 がっかりするのは、期待したから。
 期待しなけりゃがっかりもない——冷たい言い方に聞こえるでしょうが、でもまあ、そういうもんなんですよね。

 いたずらにプレッシャーをかけるのも本意ではない。
 なにはともあれ美内すずえさんの健康長寿を祈ります。(やっぱりそれが基本だわ;;)

 ちなみに、この Togetter まとめ、さまざまあるツイートの中でも思わず笑ってしまったツイートがこちら。
 気持ちはわかる(笑)


 
 

 
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2016.05.25 (Wed)

金星と火星の違い

 スタンダールの恋愛論からはじまって、世の中にはいったいどれほどの、恋愛論、「異性」論の本があることでしょう。
 でもまあ、スタンダールだろうがモーパッサンだろうが柴門ふみさんだろうがなんだろうが、そういうもののたいていに、まともに耳を傾けたことはございません;;

 従来型の、男はかくあるべし女はかくあるべしという、「べき」論は論外というしかないし、といって、「恋愛論」とはいっていても、じっさいは「論」というより、ただ自分個人の体験を語っているだけなんですよね。

 ああいうものを読んでもちっとも参考にならない、という声はよく聞きますが、そりゃ当然でしょう。
 個人的な経験談を聞いてそれが即自分に応用できるなんてことが、あるほうが珍しい。
 なにかもーちょっとまともに喋ってくれるものはないのかというのが、かねてから思っていたこと。
 
 そういう私が、これには、へー、と本気で感心するものが出てきましたので、ちょこっとだけ。

 少し熱心な方ならご存知かもしれませんが——作家・心理学者のジョン・グレイ博士。
 私は勉強不足の身でまったく存じ上げませんで。
 漫画家・川原泉さんのエッセー漫画「小人たちが騒ぐので」に、ジョングレイというかわいい宇宙人が出てきて、金星から来たとかなんとかいっているのがありましたが——あれは、グレイ博士と関係があったのか! と、いまごろ知ったという次第。(^^;)



 これまでどんな恋愛論だろうが恋愛心理学だろうが個人的な経験お考えその他諸々、なにを聞いてもピンとくるものがなかったのが、雑誌にちょっとだけ掲載された記事を読んで、いやもう、目から鱗が落ちまして。

 これもいわゆる「中年の危機(ミッドライフ・クライシス)」なんでしょうが、せっかく落ち着いていた私の身辺もちょっと雲行きが怪しいケースが出ておりまして。
 仕事についてもそうですが、家庭を持っている友人の中に、おいおい大丈夫かというのがですね——ちょっとね;;

 詳しく話を聞けばべつに、愛情がなくなったわけではないけれども、どうにも無理が重なっていてちょっと危険な水準にまで不満なりなんなりが高まってるなというお話が。

 ほかのことはともかく、こういう話は私にはなにも言えることはないし——独り身でぼーっとしている私からすれば、せっかくここまで積み重ねてきた「関係」を壊すのももったいないことではないか、と思うし(思っていても容易には言いませんが;; 無責任発言だもんね;;)。
 夫婦関係を永続させるというのは、ほぼ困難な、あるいは不可能にも近いくらいのことなんだろうか、と、少々気が重くなっていたりして。(^^;)

 そういうところへ、ジョン・グレイ博士のお話は天啓とも思えたということで。

 博士はパートナーシップをご専門にしておいでのようで、すでに著作の邦訳ももう何冊も出ていたんですね;; いや本当に、なにも存じませんで;;

 今回聞いたお話は、いわゆる出会いからどうするかではなくて、パートナーという関係を(いちおうは)構築したものの、そのあとが難しいよねというところをターゲットにしているお話。

 とりあえず怒らないで気を静めてお聞き願いたいのですが、——博士が仰るところの「男女双方、いちばんの間違いは油断すること」だそうです。
 出会いから始まってお付き合いにまでくると、関係が安定したように「みえる」。すると男性は相手が「自分のものになった」と思ってそれまでの愛情表現をやめてしまう。相手からなにかを言ってこないかぎり、相手は満足しているはずだ、と思い込んでしまう。

 女性の方はこれまた、おつきあい前より親密になっているわけですから、関係後は以前よりも注意を払ってくれるはずと思い込む。いわなくても自分の希望を察してくれるはず、と期待してしまう。

 ………それがそのあとどうなるかは、これはもう、世間一般論としてじゅーぶん知られているはずですね。

 なるほど見事な行き違い。
 

「ほとんどの男性は、女性にとって愛情を表現され続けることがどれだけ重要なことかを分かっていません。彼女が自分に惹かれていたのは、自分が彼女に愛を表現し続けていたからだという事実に、まったく気づいていないのです」



 ………もうこれ引用しただけで、殿方の怨嗟の声と怒号が聞こえるようです;;
(やだなあもう;;)

「多くの女性は『自分からあれこれ望んではいけない』と教えられてきました。……少しずつ世の中は変わりつつありますが、まだ欲しいものをはっきり口にする女性を快く思わない人もいるのが現状です。
 特に、女性同士はそういうことに敏感な気がします。
 だから、女性は自分から男性に何かを求めることに遠慮して、そのぶん、相手に期待してしまうのですね」
(傍線:引用者)



 傍線のところも興味深いんですが、それはまあまた、別の機会に。機会があれば。

 私はあんまり、「黙っていても通じる」というのは信用しません。ある程度までのことや、日常的なことなら、それでもいい場合もありますが、どうしたって他者同士、どこかで、——最低でもブリーフィングくらいのことは、確認事項としてでも必要。
 そうでないと、最初のズレはほんの1mmでも、そのまままっすぐ線を引いたら、引いた先ではとんでもない距離で離れている、ということはありますからね。

 世間によくある「行き違い」「すれ違い」「性格の(埋めがたい)不一致」って、そういうことでしょう。

 黙ったまま、勝手に期待して、勝手に怒りを溜めて、勝手に爆発する、というのは、よろしくない。
(なんていうと、これはこれでまた叱られるんだ;;)

 グレイ博士の、女性へのアドバイスはこう。

「女性に知ってもらいたいのは、自分の望みをすなおに表現して助けを求めた方が魅力的で、男性はその女性を追いかけたくなるということです。自分でやりたい気持ちを抑えて、もっと彼に動いてもらうのです。そしてじっさいに彼が与えてくれたときは、最大限の愛情と感謝を示すことが大切です。すると男性は自分が彼女を幸せにしたのだと嬉しくなります」
(傍線:引用者)



 殿方にとってそれが本当に魅力となるかどうかは私には判断のつかないことですが、ただ、「最大限の愛情と感謝を」というのは、大事だろうな、と。

 私などは昨今のイクメンと呼ばれるような方々のお話を聞いていて、なんかもう、お気の毒になってしまうのはこの点で——、もう少し、感謝をされてもいいはずですよね、という。
 もちろんここにも行き違いがあるわけで、なかなかそうもできないとおっしゃる女性の言い分も、理解はしております。

 ……なんだかなあもう。(^^;)
 なんであたしこんなに全方位に神経配ってピリピリしながら書いてんですかね(笑)
 ツイッターのほうで、好きでフォローさせてもらっているかたが、ご自分の発言について「一般的な女性からも、フェミニストからも、双方から怒られたり嫌われたりする」と書いていることがあるんですが。
 そうなんですよね……よかれと思って話しても、結局、関係者全員から不快がられて嫌われるんですよね。こういう話(笑)

 それぞれの立場に、それぞれの言い分がある。
 それとまったく同じように、それぞれに、あらためたほうがいいこともある。——それだけのことですが、自分の行いをあらためろといわれると、もう、いっせいに、全員が「こちら」に向かって怒り出す(笑)

 そのお気持ちもわかるので、ですよねえ、といって、こちらとしても笑うしかないんですが。

 さて、私の友人はどうでしょうかねえ……。あんまり私からは細かいことはいわないで、博士のご本だけ紹介してみようかと思ってるんですが。(結局、及び腰…・笑)

 ちなみに。
 今回はそんなわけで、パートナーシップ構築と継続のお話でしたが、もちろん、まずは出会いから、という段階についてのお話もありますので、興味がおありでしたら、話のネタとでも思って当たってみるのもよろしいかと思います。

 私個人といたしましては、自分の望みを表現して「助け」を求めなさいよというのは、——それはもう泣きどころってやつです;; 図星より痛いレベルです;;
 これはじつは人間関係全般にいえることでもあるので、まあ——恋愛はもう関係ないしとお思いの方にも、もし人間関係で気にしていることがあれば、一読なされば、なにかしら、参考になることもあるかと思います。

 長文になってしまいました。
 おつきあい、ありがとうございました。m(_ _)m
 
 
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2016.05.24 (Tue)

鋼の錬金術師・実写化

 なんですか最近の映画界は、企画するのにもネタがつきましたか?

 ネタがつきたんならもう無理はしないで、しばらく映画作らなくてもいいんじゃないかなあ…。
 これまでの作品のなかにも、あまりに映画の数が膨大すぎて陽の目を見ることができなかった良作品て、ありますよね。新作を作れないなら、そういうお宝映画を発掘してさ。初めて見る人には新作になるんだから、そちらの大々的公開に踏み切るとか、やってもいいんじゃないのかな。

 ——という暴言を吐きたくなりました。(^^;)
 漫画「鋼の錬金術師」、実写映画化、という報に接しまして。

 もとから、小説なり漫画なりの、異なるメディアへの「移植」についてはわりと割り切った考えをしているほうで、「その映画化された作品がどうだったかについては、原作ファンに意見など聞くな」と口走るくらい、「原作とはイメージが違う」という言葉は無意味な言葉だと思っております。

 異なるメディア作品になったら、それはもう原作とは「別作品」なのであり、いちいち原作を引き合いに出すほうがおかしい、という考え。

 とはいえ。
 ここんとこ、ハリウッドも含めてですが、なにかっつーと実写化っていうの多くないですか?
(個人的にはもっと気に入らないのは、じっさいにあった事件でちょっと劇的だと、すーぐに映画化するというパターンですが)
(事件の記憶も生々しく、また、死者も出ている事件だと、どうにも無節操に思えて、いい印象にはなりませんので)
 
 映画化とか実写化にそれほどうるさく目くじら立てるほうではありませんが、それにしたって、最近数が多すぎるんじゃないの? と。
 映画の企画ももうネタ切れ状態なのかもしれないが、だったらもう、つぎになにか思いつくまで、しばらくは「おやすみ」してもいいんじゃないだろうか。

 ハガレンがどうこうというよりも——仮に実写化するなら日本人がやっちゃイカンでしょう、と思ってしまう。
 すでに配役も発表されてまして、それはそれでいいんですが、でも違和感バリバリだろうなあ、という気はします。コスプレをみるくらいなら全然構わないんですけどね。(^^;)

 たぶんいまのところ、実写化された作品に、「映画として成功」したものがあんまり多くないので、それでつい、身構えてしまうのかもしれません。

 これが舞台であれば——お芝居でもミュージカルでもいいですが——、日本人キャストでもいいんじゃないですかと思いますが。
 不思議と舞台というのは、そういう意味では「目隠し」が効く。50歳を超えたひとが10歳そこそこの子供を演じていても(芝居ができているなら)気になりませんが、映像というのはそのへんある意味「狭量」で——さすがに50歳超が10歳を演じても、見ている側はその芝居には「入りきれない」。

 映画・ドラマはあまりにも「具象(ぐしょう)」すぎて、具体的すぎて、切り捨てたい「部分」をいやおうなしに目に突きつけてくる。
 小説を読んだり漫画を読んだり、芝居を観るのに比べて映像は、見る側の「想像力」を制限してくるからいやだ、というのが私がよくいうことなんですが。

 ——そこで「見て見ぬ振り」はできない、鋼の錬金術師を日本人キャストで実写化、と言われたらもう、ちょっとね——いえディーン・フジオカさんの演じる焔の大佐は、どんな芝居になるやら、ちょっと興味ありますけどね。

 そんなにネタがなくて苦労してんならもうしばらく映画作りすんのやめたら? と、思わず口走ってしまいました。
 そのぶん、日の目を見ていないいい作品を掘り起こすほうがいいんじゃないのというのは、でも、嫌味でもなんでもない、すなおに思うところです。
 過当競争の中で、不当な目に遭っている作品があるのもまた、事実ですから。

 ただ、良質のものだからといってそれが大衆受けするかどうかは別——、それもたしかですけども。
 大衆受けする作品だからB級ってことはないけど、いい作品なら必ずヒットするとも限らない——なかなか、「商業」の難しいところです。

 なんにしても、制作されるからには、実写版ハガレンもまた、原作同様、いい作品となってくれるように、これは本気で、願っております。

 メディアがどうこうっていっても、ファンというのは結局、面白い、いいものだ、と思えればそれでいいんですよね。(^^;)
 ——あ。「原作とイメージが違う」というクレームは相手にしない、というのも、大前提でお願いします。
 
 
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2016.05.23 (Mon)

忘れられる権利

「スーザン・ソンタグの『ローリングストーン』インタヴュー」をゆっくり読んでいるところですが。



 面白い。
 じっさい、ものをあれこれ考えることは、私にとっては、最大の楽しみとなる「遊び」なんだなと思います。
 スーザン・ソンタグさんもそんなことをおっしゃっていて——思考するということは、もちろん真面目は真面目なんだけれど、それは他人が思うよりもずっと深い「快楽」だ、というあたり。
 そーなんですよねー、と思わず。

 ここまでのところ、ファシズムとはなんぞや、「性」とはなんぞや、というお話が私には興味深く驚きでもあります。
 ファシズムのこういう解釈は、まあ通常の、社会学なり政治学なりのなかからは現れてこないだろうな、と。
 学術的な知識もありつつ歴史も踏まえつつ芸術と呼ばれるものからも解釈する、という、ジャンルをまたいで縦横に広がっていく「思考」が面白い。
 なにかひとつの断面だけでものごとは語れないし理解もできない。面白いな。と。

 ファシズムを性衝動やSMの「魅力」から語られることがあるとは思わなかった(笑)
 このへんはウィリアム・ライヒ『ファシズムの大衆心理』を読めばいいようですが——ファシズムと性的抑圧を結びつけて語っているとのことで、「へー」という感じ。
 ファシズムが性衝動と結びつくとは思わなかったなあ。(^^;)

 私はこのへん詳細を知らないのですが、「SM」イコール「ネクロフィリア的感性」というお話が、また興味深い。
 知らなかったなあ。——SMってネクロフィリア(屍姦)的な「感性」なんですか?
(ですか? って誰に聞けばいいんでしょ?;;)

 なにやらそれは、当たり前の定義とされているふうでお話がそのまま進んでいってしまい、その後に解説もないので——あれ、それってわりと当たり前の概念ですか? と首を傾げております。……しょーがないのであとで調べる。

 ともあれそのお話のなかで、大島渚監督の「愛のコリーダ」が語られ、「人間の性的能力は誤った設計に基づいている」ことを説明あるいは表現することに「成功している」という太鼓判が押され、へーえ、と。
 じっさい「愛のコリーダ」については日本人よりも外国からの評価の方が高い印象があったんですが、そういう「絵解き」があるからでしょうか。

 で。
 私の思考はここからまたあさっての方向へズレてしまって、考えていたのは「忘れられる権利」のこと。

 映画「愛のコリーダ」(1976年)は、先日ちょこっと書きました、阿部定事件(1936年、昭和11年)がモチーフになっておりまして。
 私は意気地がないので簡単に説明を聞いただけで怖気(おじけ)づき、映画、見たことはありません。(^^;)
 ただ、この映画はたぶん、ポルノとか猥褻物とか、そんなことを強調されるばかりで、本質そのものはほとんどだれも(少なくとも日本では)見ちゃいないな、という印象があったのも確か。

 あの事件の、警察の調書を読んだ限りでは、こんなに面白おかしく、下卑た嗤いにさらされる「べき」ものではないはず、と思いました。
 同情する気はありませんが、でもこんな扱いを受けるべきとも思わない。

 本人たちにしてみれば、こうやって——もう80年もたっているのに、まだ、こうして思い出したように蒸し返されるのは嫌だろうな、と、ふと思ってしまいました。

 どんなことがあるにしろ、自分とは関係のないことなら静かに時間の流れに流してしまうことがあってもいいんじゃないだろうか。
 ……おそらくはすでに不帰の客となっているだろう人のこととはいえ、ようやく忘れてもらえたかと思ったとたんに蒸し返されるというのは、気分のいいもんじゃないだろう。そう思います。

 インターネットではその「情報の蒸し返し」がほんとうに深刻で、「忘れられる権利」という、ちょっと奇妙に聞こえるものも出てきました。
 忘れてあげるべきではないのかといいつつ、でも、やっぱり熟熟(つらつら)考えてしまうというのは——残酷なことをしてんのかな私も。

 芸術は、人の社会のあらゆるタブーを超越する、という主張を聞くこともありますが、私はあれにはあんまり賛成していませんいまのところ。
 芸術に罪はなくてもその製作者は生臭い人間じゃん。——というところで、みょーに冷めてしまうんですよねこの主張。

 でもたとえば、本人が希望すれば「忘れてもらえる」と設定すると、歴史ってもんが消えてしまう——とも言える。

 大河ドラマでもただいま、いろんな人が、いろんなことをいうけれど、いかに当人はとっくにお亡くなりとはいえ、こうも他人のプライバシーに踏み込んで、また勝手な「妄想」でものをいうのって、考えてみたらたいそう失礼なことだよなあ——とも思うわけで。

 歴史上の人物について好き嫌いはあんまり言わず、その業績や「じっさいにあったものとして残されている記録」についてのみ考え、「評価」していればいいんだという私の態度はこのへんからきているのかもしえません。

 一次史料とされるものでも、それがほんとうにほんとうのたしかにあった「事実」かホンモノかどうかって、考え出したらどこまででも疑える。
 それが事実かどうかなんてだれにもわからないというのが、実際のところ。

 まして、その人の個人的な感情や考えやプライベートな「関係」についてなんてね。
 わかるかっつーの。
 
 それを、そう思うこう思うと勝手なことをいっているそれは、後世の人間の勝手な妄想じゃんね。
 自分の妄想をもとに、歴史上の人物のだれが好きかれが嫌いというのは、あんまり——いいことにも思えない。
 妄想は妄想でしょーがないけど、それが妄想だということはわきまえておくべきで、自分の妄想をあたかも事実であるかのように語ることには感心しないし賛成しない。

 忘れてあげること。

 あるいはその人の「領域」を侵さないこと。

 どうしても不可能なところもあるけれど、そのこと自体はもうちょっと考えてもいいような気がする。

 
 ………ともあれ、あんまり評価されてないようですがウィリアム・ライヒ、当たってみます。
 
 
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2016.05.21 (Sat)

理解できないという理解

 オバマ米国大統領閣下が広島を訪問なさるということで。
 まあそれはよろしいんじゃないでしょうか、と思って聞き流しておりますが、あいかわらず、あのわけのわからない論争が聞こえてきますねえ。

 日本がいつ、アメリカに対して原爆投下の「謝罪」なんか求めたよ。
 ただ、なにがあったか知ってくれ、知った上で、核兵器をなくす意味を考えてくれというだけでしょう。

 なぜ、この地を訪れるだけで「謝罪する」ことになるのか、「自分たちは正義ではなくなる」のか、わけがわからない。
 さすがマッチョ文化は脳みそ筋肉だな。——と思って聞いております。

 中共あたりがぐだぐだ言っているのはもうゴミも同然ですから無視していいことですが、ともあれ、なにかっつーと謝罪だの正義だのと騒ぐ人々を見ていると、どうにも憂鬱になりますね。

「死んでしまえばみな仏様」という、日本人の無意識にある概念、勝ち負けや正義・不正義は俗世のことで死者にはそんなものはもう関係なく、ただ、その亡魂をなぐさめたい、という純粋な気持ちは、まったく世界の中では超絶例外なんだなと実感します。いやな実感ですけどねえ。

 人間はどうしたって自分を基準にして考えますから、たぶん——いまだ、たいていの日本人は、自分たちの持つ概念が、世界の中では「唯一」といっていいくらい個性的なものだとは理解できていないでしょう。
 個性的なんていうといいようですが、なんのことはない、それは「他者から理解されない」「孤独」を生きることを意味します。

 死者への、慰霊するこの思いは人類共通のもののはず、というのは、あまりにもノーテンキな考えです。
 が、それを指摘する人もなかなかいないようです。

 死者を弔う気持ちは、本来的には人類共通でも、宗教や文化はそれをひどく汚染してゆがめている。
 ゆがめているということを自覚している人は、——いま地球には何十億という人間がいるけど、1割にも満たないんじゃないのと私は思いますね。
 主観というのはいやおうなしにバイアス(偏見)のことですが、自分がどんなバイアスをかけているかを自覚するのは、簡単じゃない。

 諸外国の人々には、日本人が広島に来てくれと言っている「気持ち」は、これまた、想像を絶している。
 日本人の心情としては、こういうやさしい気持ちを自分で説明してアピールするなんて、そんな小っ恥ずかしいことはできない、というところですが——この文化ギャップをどうにかしたいなら、その小っ恥ずかしいことを、倍にも3倍にもして、行わなければならない。
 そこまでしなきゃ理解なんて得られないし、そこまでやったって、どこまで理解されるかわからない、というのが実態。
 ………そう考えると気が遠くなりますね。

 理解、と皆さん簡単におっしゃいますが、そう簡単なもんじゃないです。

 まず自分がなにをもっているのかを理解するのかが至難の技だし、相手がなにを持っているのかを理解するのも至難の技。
 さらにそのうえで、言葉の通じないもの同士、言葉の周波数をチューニングして、なんとか双方、音声が聞こえるようにしなければならない。

 相互理解だなんて簡単に言ってくれるな、と思いますね正直なところ。

 理解なんてできない、ということをまず、理解する必要があるようです。

 神道はドグマがないので厳密には宗教ではないともいわれる。
 祈りにくるものをなにも拒まない、宗教というよりアニミズムにちかいくらいの「神の国」の人間としては、俗世のごちゃごちゃなんかどーでもいい。
 ただ、亡くなった方のために祈ってくださるのは、いつでも歓迎。
 それだけですね。

 理解、というものの絶望ぶりを、ただ今回はあらためて噛み締めております個人的には。

       ●

 明日はまたちょっとお出かけのため、こちら、おやすみします。m(_ _)m
 どうぞ皆様、楽しい週末をお過ごしください。
 
 
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11:53  |  身辺雑記2016  |  EDIT  |  Top↑

2016.05.20 (Fri)

再開のピンタレスト

実はSNSではなかったPinterest(ピンタレスト)!
 インスタグラムとの違いやブックマークとしての使い方を徹底解剖。

http://gaiax-socialmedialab.jp/pinterest/402

 いちどはアカウントを取得したものの、使い方がわからない(直感的に)、目的がよくわからない、バルーンヘルプが出てきたりするけど意味不明、「◯◯しますか?」とか聞いてくれるけどそもそもその◯◯がなんのことだかわからない、といって用語をいちいち調べる時間をとれない……ということで、「??????」状態のまま、結局、退会(でいいのか)しちゃった「ピンタレスト」。

 ちょっとしたことで先日またのぞいてみたら、……前回よりは直感的に操作できたので、また登録してみました。

 とはいえ。
 やっぱり、ピンタレストの使い方はいまいち「ピンとこない」。(^^;)
 くだらないダジャレ言ってる場合じゃないですけど;;
  
 つまりピンタレストの「正しい」(あるいはもともとの)使い方、目的ってなんだろう? と探して、辿り着いたのが上記におきましたリンク先。

 ピンタレストはこれまでのSNSとも違い、だれか個人をフォローするのではなく(それもできます)、ある人が作った「ボード」——設定されたテーマにそって情報を集めて、コルクボードでにピンで留めておく、そのボード「だけ」を、フォローすることもできるという。

 私が、なんだかよくわかんないや、といって使用をやめたのはいつごろだったかな……あのときよりは、このボードの作り方、表示のされ方、画像への「紐付け」(黙っていてもURLがわかるのはもちろん、同じ画像をピンしている人など、付随する情報がくっついている)も、ぱっとみてすぐにわかるような画面構成になっているし、ああ以前よりもずっといいな。と思いまして。

 なんでもかんでも、繋がる繋がるって、いちいちうるさいよ、と思ってしまう私ですが、私なぞよりははるかに「つながりたがり」の人々にさえ、「SNS疲れ」なんてものが言われるこのごろでもあります。
 そういうなかで、ピンタレストは、人との「関係」ではなく、ボードのみのフォローが可能というのを見てもわかるように、純粋に、情報だけ——「自分が好きなモノ」だけを、関連づけていけるというのが、面白いところであり特徴である、とえるようです。

 ピンタレストは、SNS ではなく、ブックマーク、といえるそうです。
 ただそのブックマークは、毛細血管のようなネットワーク化がすでにできている、——キーワードを決めてなにかひとつピン留めした瞬間、関連するものがわっとばかりに押し寄せてくる。
 そんなイメージです今のところ。

 植物や動物などの画像はいいんですが、食べ物関係のボード、あるいはそれをもとに収集されてきて関連情報が表示されるホーム画面がもうね——飯テロのレベルじゃない。(^^;)
 とんでもない量で、しかも画像付きで視覚にもろに訴えて、一気に表示されるというのは。

 お腹が空いているときに(空いてなくても!)、やたらにホームを開くのは危険だぞ、という気がします(笑)

 なお、上記記事、本文中にしめされた図がわかりやすい、イメージしやすいもので、なるほどねー、と納得いたしました。

92f6f0ba049314dc712608c8a85bec6b.jpg

 インスタは私はやってなのでよくわかりませんが、FacebookとTwitterについては、なるほど、というところ。

 なおこの図はその情報の扱い方、志向性の違いを(おおざっぱに、概念として)示したものであり、じっさいどう使われているかという話とはちょっとチガウので念のため。

 自分のホーム上でいいなと思う画像を見つけて、開こうとしたらもう元ファイルは削除されてます、とか、そういうこともありますが、なかなか面白そうです。
 使いこなす、というところまではいけない予感もいたしますが、(^^;) まあ、ぼちぼち、つづけてみようと思います。

 いちど挑戦してみたけどイマイチでした、という、前回の経験を踏まえつつ、こんどはもーちょっと仲良くできますように。(-人-)
 
 

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2016.05.19 (Thu)

新型・お直しおばさんを目指す



 引用されているツイートが削除されてしまったので、こちらのツイートを見てもなんのこっちゃと思われるでしょうが、「きものを左前に着るような愚か者にはきものは着て欲しくない」という、なかなか激烈なことをいうツイートに対する、引用RTです。
 いやもう、ほんっっとにそのとおり! だと思ったのでついついそのまま引っ張ってきております。

 きものの着方がだらしないとかオカシイとか。そりゃなれてなければきれいに着られるわけないのよ。
 むしろそうやって、自分一人でがんばって着たんだな、偉いな、となぜ思ってやれぬ!!
 ということで、個人的には憤りがあることなのでつい。(^^;)

 以前にもちょこっと書いたことありますが、「お直しおばさん」のいやらしいところは、そうやって着崩れたのを直すのはいいんだけど、わざとらしく大声をあげて「あらあらたいへん」「こんな着方しちゃって」「もっとしっかり締めなきゃ」とか、いやみったらしいったらないこと。

 まわりの人は当然じろじろ見ていくし、いたたまれませんよね。
 私が知っている従前のお直しおばさんというのはそういう人たちで、「半襟は白」「足袋は白」「正絹(しょうけん)以外は邪道」という、意味不明の「信念」を「常識」として他人に押し付ける(しかも威丈高に)という特徴もあります。

 初心者にたいする気遣いなぞ欠片もない。
 きものに興味があったとしても、これじゃあ怖くて近寄れないという気持ちになるのは当然てもんです。
 だから私はあのお直しおばさんてのは、むしろきもの嫌いを増やすことに熱意を持ってるんだろう、と申し上げるわけです。

 私もそんなわけで今回はつい余計な返信をお送りしましたが、私の返信をまた引用RTしてくださったかたがいらっしゃいまして。
 そのかたは、そんな意地悪ではないわけで、「お直しおばさんは意地悪ではない」とおっしゃるのも、もっともなことと思いました。

 そのかたご自身は決して「意地悪なお直しおばさん」(……というかまだお若いかただと思う;; 少なくとも私よりは;;)ではない。
 本来なら、ちょっと着崩れて困っている人を助けられるんですから、ありがたく思われてもいいくらいでしょう。

 しかし従来のイメージにはそれがなく、むしろきもの嫌いを増やしてやがるということが多かったんですね。
 でも、お若いかたの中にも果敢に和装してくださるかたもいるし、「意地悪ではなく」きものについてあれこれ教えてくれようというかたもいる。
 てことで、今後は、「新型・お直しおばさん」が増えていけばいいのでは? と思った次第。

 GW中のスパコミでも着物姿の女性が多くて(願わくば殿方もぜひ!!!! 袴つけろとは言わないから!!)、あーやっぱりいいな〜と思いながら歩いておりました。
 私もひさびさ、着たかったんですが、あまり長時間になると体力的に自信がなかったので(帰りは自力で運転してかなきゃだしね)。

 そういうなかで、帯のタレがはねあがっているかたをお見かけして、「ごめんなさい、ちょっとタレ直しますね」と可能な限り小声で声をかけて、直しまして。
 
 どんなに気を使っていても、他人から指摘されて直されるというのは、気分のいいものではありません。どうしたって気後れするし、気まずいかんじになりますよね。
 ということで、そんな気分を吹き飛ばすために即、褒める!! ためらわず!!
 で、ちょこっときもの話で盛り上がって、じゃあどーも、といって立ち去る、と。

 これでいいんじゃない? と思いました。

 従前のおばさんがたのいちばんの間違いは、「いちいち他人をくさす」点にあると思われます。
 緊張しながら、それでもどきどき嬉しい気持ちで袖に手を通す、そういうきもの初心者の初々しくも繊細な気持ちを粉砕するんですよね、ああいうのって。
 褒められていやな気がする人はいない。お直しはお直しでいいがあとでその倍は褒め倒す。これでいけるんじゃないでしょうかお直しおばさんも。

「新型・お直しおばさん」の普及を目指そう。——と、勝手に心に決めました。

 あと。
 お母さんからきものについてあれこれ習って…というコメもありましたが。
 まあ、それができればいちばんいいでしょうけどね……すでにそろそろ50の坂が見えてきた私の世代がすでに、そういう意味では崩壊世代ですから、望み薄ですそういうの。

 うちはいちおう、私の母はきものを着るのはできましたが、私は着付け教室へ。
 それで思ったんですが、気に入った教室や先生が見つかったなら、そちらへ素直に通うことをおすすめします。
 
 と申しますのは、着付けというのもそれなりに進化しているものでありまして。
 同じように着るのでも、やはり現在はかなり、研究されています。可能な限り簡便に、しかも失敗も少なく、合理的にあるいは体系的に、技術として、整理されています。

 母から娘へ、というのも、ひとつの美しい幻想ではありましょうが、幻想は幻想。
 着るきものは現実のものですので、私としては、いいお教室があったらそちらへいって勉強することをおすすめします。
 私も習い覚えたことを母にフィードバック(?)しましたが、母も、ああなるほどね! といって採用しているようです(笑)

 母親から教わることは、着付け以外のことでいろいろあるし、これは逆に、システム化された教室では聞けない知恵だったり歴史だったりしますから。

 幻想と現実双方で折り合いをつけつつ、きものはやはり、見て楽しい着て嬉しいものなので、堅苦しく考えず、「日常」「褻」のものとして、浸透してくれることを願います。

 ということで、——自分のできるところから、まずは「新型・お直しおばさん」を目指します。
 人様の着付けを直せるように、もーちょっと勉強しますね。(^^;) ←ここんとこサボり気味
 
 
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2016.05.18 (Wed)

ひとつの宇宙の喪失

 ただいま「スーザン・ソンタグの『ローリング・ストーン』インタヴュー」を少しずつ読んでおります。


 
 ローリング・ストーン誌というものがどれほど「地位」のある雑誌か、が、まずはポイントになるかもしれませんが、いまのところはそれも脇に置いてしまって。

 インタヴューといってもいろいろあるものでしょうが、この巨大な知性に「インタヴュー」することの難事業を、ふと考えてみたり。
 尋ねて、答える、という作業はむしろ虚構を強め事実を遠ざけ、質問されている人にしてみたらほんとにク■みたいなものになりかねない。そういうものを。

 細心の注意を払って、また長い時間をかけて行われたこのインタヴューは、なかなか貴重なものなんでしょう。

 こんなにしっかりした1冊の本になるようなものを、雑誌の数ページの記事にしてしまう、その「暴力」ぶりって、ほんと酷いな、と思いつつ読んでおります。
 ひごろ、雑誌にあるインタヴュー記事や対談、鼎談の記事も、私はあんまり「マトモ」には読みませんが、もうそれくらいの距離感でいていいだろうな、という感触を強めてます。(^^;)
 それくらい、この筆者のジョナサン・コットさんは入念に準備をしていたし、「タイミング」をきわめて重視していたし——それくらいの時間をかけ注意を払ったのは、インタヴューというものが本当は『危険』で『破壊的』で、どれほど『事実を伝えない』ものかが、よくわかっていらっしゃるから。

 これほどの準備(インタヴューする人とされる人との人間関係すら!)を重ねてやっとどうにかできた、という解説が冒頭にあるんですが、なるほどなあ、インタヴュー記事になんとなく信用する気が起きなかった私の感覚もけっこうアタリなのかもなと思いました次第。

 人が語ったものを「まとめる」と、「記事として」マトモなものになるほど、語られた「事実」からは遠ざかる。
 皮肉なものですね。

 その事実と記事との乖離(かいり)をなくすことに腐心したこの一冊、ゆっくりじっくり考えながら読むほうがいいようです。

     ※      ※

 それはそれとして、本書の冒頭、まえがきより前のページにある引用のうちのひとつに、ああそうそう、と思いまして。

「男がひとり死ぬと、われわれは図書館をひとつ失う。
   ——キクユ族の古い言い伝え」



 男が、というのを「人が」にしていただければ私は全面的に同意。
 
 栗本薫(中島梓)さん、小松左京さんという、子どもの頃からある意味「心の拠り所」のようにしてきた「巨大な知性」を失って、そんなふうに、私も思います。

 これはじっさい、誰がいなくなっても同じこと。
 私もこのへん、ちょっとヒドイ感性をしてると思いますが、人が死ぬということ自体にはさほど抵抗はしないけれども、人ひとりが死ぬと、その知性が消えてしまうということには、ものすごい「くやしい」気持ちになります。

 なにかが滅んでいくことは当たり前と受け入れているけれど、その人ひとりを失ったときの、知的な活動がすべて失われて、しかも2度と戻らないということが。
 残念で悔しくてなりません。

 人が死ぬということは、ひとつの宇宙が消滅するということなのだ——それくらいの重大事だ、と思いました。

 誰かが感じたこと、言葉にしてくれたこと、その人の精神や考え……それらがもう2度と現れることはない、というのは、悲しいとかいうよりもただ、残念。

 中島梓さんがお亡くなりになってからしばらくは、「中島梓なき世界」について、ご本人があれこれとあの調子で軽快に書いてくれそうな気がして、サイトをなんども拝見に行っておりました。
 そんなことがあるわけはないのですが。

 こんなとき、あの人はなんていうだろう、という興味は尽きない。
 けれどもそれはもう失われて2度と現れない。
 そう実感したときの、喪失感。

 あれほどすぐれた知性と感性も、人が死ねばあっけなく消えてしまうのだ、と。
 そう思うと、人の死というものがどれほどのものか——と思うんですが、でも、「命の大切さ」とかっていうような人からはご賛同いただけない気がする。
 私が惜しんでいるのはその知的活動(の喪失)であって、その人そのものではない、というところがあるので。
 たまに、なにやらひどく冷血漢あつかいされることがあるのは確かですね。(^^;)

 もはや未来においてその知性の働きと出会えることはないけれども、こうやって、過去からの遺産として、またすぐれた知性に出会えることはある。

 そのこと自体はありがたく思いつつ、読んでいきたいと思います。

「書くことは抱擁だ。抱きしめられること——想念のひとつひとつがこちらに向かって手を伸ばしてくる。
   ——スーザン・ソンタグ (ロマン・ロランについて)」


  
 
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