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2016.04.30 (Sat)

夢のような

 今日で4月も終わり、明日から5月ですね。
 4月は2、3月にも増して早かったなー…。
 なにか気を張っていたというつもりもないんですが、GWに入ったらなんだかもう、気力ががっくりきている感じで(くじけている、というほどでもない。脱力してる程度)、……そんなわけで今日は実質、おやすみみたいな感じで。(^^;)

 今日はおやすみですといって退場しようかと思っていたのですが、ふと、「バクが夢を食べるといわれているのはなぜか?」ということが脳内に閃きまして。

 ざっと検索してきただけのことでなーんの裏もとっていないまま、ただの雑談ということで申しますが。
 古代中国では、「体はクマ、鼻はゾウ、目はサイ、尾はウシ、脚はトラ」という、「ぬえ」みたいな幻獣が想像されていたんだそうで、これが獏。
 これが絵で日本にも伝わっていましたが、明治以後、動物のほうのバクを見たとき、あら似てるというので、日本ではバクとしちゃった——…ってマジなんですかこの話

baku_s.jpg
マレーバク

 もともとの幻獣、獏は邪気払いなどをするといわれ、夢を食べるということはなかったそうですね。
 悪夢を食べてくれるのには「莫奇(ばくき)」という神様がいるのだそうで、これが日本へ伝わるうちに「習合」したようです。

 まあでも、悪夢を見ればしばらく気分が悪いということもあるから、悪夢を食べてくれるのならそれだって「邪気払い」といえますよね。

 悪夢をよく見るので、枕元に獏の絵を置いておくとか、そんなおまじないが日本ではあったようです。

 悪夢を食べてもらうとどうなるかな——食べられちゃったんならもう夢のことは思い出さないかな? でも夢を見たこと自体を忘れていたら、獏の働きに気づかないことになるわけで、それだと獏には申し訳ない気もします。(^^;)

 夢というのも不思議なもの。
 いろんな伝承があるし、「付き合い方」もいろいろあるし。

 夢を見て喜ぶことも、ドキドキしながら目が覚めてしまい、全身、冷や汗がべったり……というときは、体調のせいかとも思いながら、やっぱりなんだか落ち着かないものですね。
 フロイトは夢判断で潜在意識の世界を示しましたし。
 
 つらつら、夢の世界のことを考えてみるのも、なんとなく楽しい。

 私は昔は夢ばかりみていましたが、最近は夢をあまり見ません——というか医学的には必ず見ているはずですが、「覚えていない」というべきか。

 記憶の整理という役割もあるという夢。
 たかが夢と侮ることもないんでしょうねえ。

 小野小町は何首か夢にまつわる歌を残していますが——、「思いつつ寝」て恋しい人を夢に見たというのですが、思っていれば必ず見られるというものでもないようで。
 これも超・古典的おまじないですが(なんせ平安時代にはあった)「いとせめて 恋しきときは ぬばたまの 夜の衣(ころも)を 返してぞ着る」という歌を3回唱えて、寝間着を裏返しに着て寝れば、その人を夢に見ることができる——なんてのがあるくらい。

 小野小町はそういう意味ではラッキーだったのかな。

 しかし色気のない現代医学では、夢には補償として機能するところもあるので、——つまり、本人が不満に思っていること、こうだったらいいのになと強く思っているもの、喪失感や不足に感じるものを「埋め合わせる」働きがあるので。
 恋しい人を夢に見るのはある意味、現実の世界で疎遠であるからこそだ、なんていうんですよね〜。(^^;)

 現実では満足されることがない、とわかっているので、せめて夢の中でその強い不満や不安をやわらげたい、ということの表れだと。
 そう言っちゃったら身も蓋もないじゃん……。

 これほど思っているのになぜか夢にはカケラもみない、という場合は、案外、自分が思う以上に、さほど不満でも不安でもないってことかもしれません。

 
 とりとめもなく夢の話をして、本日はこれにて失礼いたします。m(_ _)m
(本当に脳みそがお休みモードみたいです
 
 
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2016.04.29 (Fri)

ホット・ビール

 美味しいとはなにか。
「味」は「どこ」にあるのか。

 これって案外、見落としているもんですよねえ、つってちょっと盛り上がったのが、「美味しいビールとはなにか」でした。

 半病人の会話なんてこんなもんだろうと言われれば、それはそのとおりなのであえて否定もいたしませんが、——いつもお世話になっている整体院で、順番待ちをしている間、施術中の方とその付き添いの方、先生とのお話が、「冷たいものを飲食するのは体によろしくない」という話題。

 私は子供の頃から消化吸収の悪い内臓で苦労しておりますので、冷たいものを飲み食いすることがどれほど「毒」になるかは身に染みております。
 全面的にダメってことはもちろんなくて、量と方法の問題ではありますが。

 冷たいものを避けよといわれても、冷えたビールはおいしいのでやめられない、ということを、さかんに先生に訴えておいででして。
 そのときはほかに人もなく、また先生のお人柄を反映して、のんびりというか砕けた雰囲気のところなので、私もつい、
「冷やさないとおいしいとは思えないビールって、本当はおいしくないビールですよ」
 と口を挟んでしまいました。(^^;)

 先生、にやっと笑ってこちらを見て、
「そう。冷たい、ってことは味覚が麻痺しているってことだから」
「うまいまずいも感じない状態になってる、ってことですよね」

 ビールと聞けばオクトーバーフェストを思い出す、「本場」ドイツでは、ビールを「キンキンに冷やす」ことはなく、あまり冷やさないどころか、「ホットビール」があるくらいで。

 穀類の糖分を発酵させて作るビールですから、本来は、そのコクや旨味を味わうのに「冷やしておいしい」ってことがあるわけないんで。

 私もその昔、黒ビール、ヴァイツェン、デュンケルあたりが大好きになりましたが、これらビールはいずれも、冷やさない方がおいしい。

黒ビール 96afb722aa2328bd0148317e81750cf3_s

 そもそも日本で主流になっている、ピルス(ピルスナー)は味としては淡白すぎると私には思えるのですが、だとしても。
 なぜ、日本では、頭痛がおきそうなほどに冷やすんだろう? と不思議に思い、常温で飲んでみたらまあアナタ——エライことに。(^^;)

 これさあ——ピルスナーっていって売っても、ドイツさんには怒られるレベルだよね? というのが正直なところでした。( ※ 個人の感想です

 そういうなかでなんとか耐えられるのはサッポロさんの銘柄なんですが、そのへんは私の好みでしかないのでまあよろしい。

 先生がおっしゃるには、日本でメジャーどころのビールは製法がそもそも違うらしい。大量生産で安価にすることが可能だが、味としては落ちる。
 それはメーカーさんもわかっているので、冷たくして舌を麻痺させ、味がわかりにくくしたところで、「味よりものどごし」、「冷えたビールはのどごしがいいよね!」という宣伝を繰り返して「洗脳」してきたのだ——ということでした。
※ 個人の見解です

 あらまあそうなの——と、付き添いの方も目を丸くしていらっしゃいましたが。

 いちど、そんなふうに刷り込まれてしまうと、それが当たり前だと思っちゃって、なかなかその考えには疑問自体を持たないもんですよねえ。

 おいしいビールを探すなら常温くらいで味わってみてもいい。
「キンキンに冷やす」などは夏バテ、あるいは秋になってからの体調不良の原因になりますから、いちど、「冷たさではなく、『味』をみる」というところで、ビールをみているのはいかがでしょうか。
 内臓にかかる負担も小さくできるんだし。(いやアルコールですから肝臓などには負担になるのは当然として)

 というような話でひとしきり、盛り上がっておりました。(^^;)

 味覚って——けっこうあれこれ、思い込みや刷り込みで「だまされている」ことが多いかも。
「常識」って、検証し直してみるとなかなか面白い発見があるものかもしれませんね。
 
  
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2016.04.28 (Thu)

多数決の不正義


 昨日は話のついでに坂本龍馬さんの備忘録にあった言葉をちょこっと引用しておりましたが、確認しましたところ正確には、
衆人皆善を為さば、我独り悪を為せ。天下のこと皆然り
 でした。

 みんなが「善きこと」を行うなら、自分ひとりは「悪いこと」を行え。天下国家のことも同様である——といったところでしょうか。

 これはなにも、破落戸(ごろつき)やチンピラみたいなことをしろというのではなくて、「みんなと同じになるな」ということ、と解釈しております。
 
 ほかにも、「恥ということを打ち捨てて世のことは成るべし」「薄情の道、不人情の道、忘るることなかれ。これをかえって人の悦ぶようにすることを大智という」なんてこともありまして。
 人とは違うことをする、これまでの「常識」ではないことを行う、——そんなチャレンジを重ねている人には、深く頷かれるものがある言葉ではないでしょうか。

 そんなの簡単だと思う? 自分もできると思う? ——果たしてそうかな。

 べつに龍馬さんみたいに天下国家を論じるわけじゃなくても。
 上記ツイートにあるような場合。

 ひとりが「ささいな」いじめを行ったとき、それを「全体が共有」したとき。
 そこにいる全員で、そのいじめを行うとき。
 これが「衆人皆善を為」していることになる。

 あきらかに間違ったこと、道理に背くこと、「悪いこと」であるはずのことが、「大多数に共有されると善になる」わけで。
 どんなに間違ったことでも、みんなが、それがいい、それでいい、それが「正義」だ、「善」なのだ、と思っているなら、それは「善」になる。

 龍馬さんのいう善とはそういうもののこと。
 ひとり悪を為せというのは、そんなハリボテの善につきあっちゃいられない。本当の意味で良きことを行え——たとえ自分ひとりだけでも——。そういうことですね。

 いじめを是認する「空気」の気持ち悪さは私も経験済みで、「ひとり悪を為」した経験もございます。
 こういう場合、「おまえも善であれ」という圧力を加えられるし、この圧力に逆らっていると、自分までもが命を奪われることさえある。

 すばらしい善の道、徳業を説いたその人が、「おまえは悪だ」といって簡単に人を殺す。
 人を殺すこと以上の悪行ってありますかね?
 善を説きながら自分は最大のタブーを犯して、平然としてる。この矛盾。
 でもだれも、それが矛盾だなんて思わない。
 それが「善」だと思ってる。
 善なるもののためなら人を殺してもいい——殺すことこそが正義だと思ってる。

 善と悪の概念なんて、そんな程度のもんだってことです。
 常識なんて、名前があるだけでなにも実体がないってこと。

 それでも。
「みんなが善をなす」とき、「自分ひとりが悪をなす」ことが、どれほど難しいことか。

 ということで、この龍馬さんのメモ書きを見たときは、感動もし、彼が生涯手放せなかった孤独を思って、涙もしたんでした。

 薄情の道、不人情の道を忘れるなというのも面白いですね。
 これ、心当たりがあるかたも多いんじゃないでしょうか。

 誰かが自分に勝手な期待を寄せてくる。それが自分の好きな人だったりすると、「えー……」と思いつつも、その期待に沿うてあげたくなるのが人情というもの。一般には「やさしい」人でしょうね。
 不人情というのは、その人情に背く、ということ。

 誰かの期待に背き、悲しませたりがっかりされたり、それはそれでちょっと悲しいことだけど、でも、そんな勝手な期待に沿っていたら、自分が自分ではなくなる。
 自分が自分であることをちゃんとつかんで、自分の人生で充実している姿って、最終的には、その誰かを真に喜ばせることになる。

 いっときの、ちいさな「同情」にふりまわされて、自分がすべきことを捨てたり我慢したりしてしまうと、結局、あとあと相手に対する恨みになるんですよね。
 あいつのせいで自分は自分ではなくなってしまったという気持ちになる。
 
 その場では、期待に背いて、いやがられても。
 人情って不思議なもので、たとえ自分の期待通りにしてくれなくても、結局は生き生きとしている姿を見ると納得もするし嬉しくもなるもんなんで。
 ——本当の意味で、誰にとっても「幸い」となる。
 これが「大智」ってもんだよ、と、彼はメモ書きを残している。

 こういうことをいちいち、誰に見せるわけでもないメモ帳に書いているということは——しかも、こういうことをじつに数多く書いている——、ほんとうは龍馬さん自身も、人に背き、期待に背き、「悪」を為していくのは、悲しい、つらい、孤独なことだったんだろうな、と思います。
 芯から薄情なひとが、薄情であること(のメリット)を忘れるな、なんて自分に言い聞かせるわけはない。
 
 天下国家のことではなくても、市井の人の日常も、同じ重さで、こんなことが起こっている。そう思います。

 集団責任、同調圧力——あるいはミルグラム(アイヒマン)実験——、本来なら従ってはならないものなのに、「これが善だ」といって強要される場面は、人生の中でいくらでもある。
 自分はそのとき、ちゃんと「悪人」でいられるだろうか。

 いられるだろうかじゃなくて、いなけりゃならないのですけどね。本来は。

 有名人をくだらないことで叩く人たちは、ゴタイソウな「正義」を振り回すことが多いわけで、困ったことには、ああいうアジテーションにあっさり同意してしまう人たちが少なくない。
 自分はそういう「誤ち」を犯したくないと思うなら、善と悪の関係について、いちど考えてみることは、おすすめしたいと思います。

 私どもの社会では現在、幼い頃から「多数決」ってことをやっているので、多数=正義(善)という概念が、いつのまにやら根を張っていると思いますが。
 多数だから正しいってわけじゃない。

 人は、「善」でさえあれば、どこまでも残忍でいられる。
 そのことを、いちどは、ご確認願いたいと思っております。
 
 
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2016.04.27 (Wed)

好きと評価は別物



 これはすごい。
 2020年東京オリンピックのエンブレムですが、こういうことだったんですね〜。
 市松模様ではありつつ、違う形のマス目(?)があるなと思っていたんですが、それはたんに円形にするためだけじゃなかったんですね!
「パーツごとの角度も変えないまま、パラリンピックに」なるとは。

 昨日は私も、デザインには、しろうとにはわからない精緻な考えがあるんだろうな、たいへんだったんだろうな、と申しましたが……これはすごい。
 恐れ入りました。
 これ、報道では見ないですよね。せっかくなので外国の方になにか言われたら「あー、あれはですね…」と、たいていの日本人は説明できる、というくらいに有名になるといいなあ。

 ……あ。でもその説明の時にこのGIF があればいいんだけど、数学はぜつぼー的な脳みそなので、自分では説明できないと思われる…;;
 どなたかー。数学得意なかた、いらっしゃいませんかー。
(本当にデキる人は、できない人でもわかるように説明してくれるので)

       ●

 今年のNHK大河ドラマ「真田丸」。
 主人公、真田さんちの、中小企業としての悲哀はそれとしつつ、徳川さんち、羽柴さんち、北条さんちという覇権を争う戦国メジャーそれぞれ、ファンがついては楽しんでいらっしゃるようです。

 個人的に面白く拝見しているかたのなかに、たいへんな秀吉スキーな方がいらっしゃいまして。
 で、「秀吉の評価は『狂ってる』とかって、歴史家の間でもいわれるけど、自分は彼を擁護する。彼の経済政策はまっとう」というのがありまして。

 これなあ。
「評価」と「好悪(こうお。好き嫌い)」、ごっちゃにされるんだけどなんでだろう? と。

 秀吉さんだけのことではなくて、なんでもそうですね。
 これが私は昔から不思議でならないもののひとつ。

 以前、私が、高杉晋作さんが彦島租借の要求をがんとしてのまなかった、その功績についてしゃべっていたら、新撰組ファンの人に「倒幕派」とレッテル貼られて(意味不明)、わけわかんねー喧嘩を売られたことがありまして。
 ………べつに私は長州スキーでもなんでもありませんよ???
 司馬遼太郎のご意見にすら反発する、「明治イデオロギー嫌い」ですからね。薩長いずれも「好き」なわけないでしょう。

 私個人の好き嫌いと、外国に日本という国を侵略される危険性を排除した功績の評価のあいだには、なんの関係もございません。
 あったら問題だろうよ逆に。

 好きな人ならばなんでも高評価し、嫌いな人ならば功績を認めずクソミソってね、そういう態度、大嫌いなの。
 そういうのも情実だと思いますね。

 個人的な感情と評価はべつです。
 くどいようですが、感情と、結果の良し悪しの決定は、ものさしが違います。

 困ったねえどうも。と、ちょっと苦く笑って拝見したツイートでした。

 ちなみに、秀吉さんの経済政策、政治というのはなかなか立派なものですが、もちろんご本人がボンクラであったわけではないのは当然ですが、でも、あれ具体的には石田三成さんの功績だったりするじゃん……。
 まあいいけど。

 以前にも申しましたが、わたくし、「人殺しは好かぬ、権力者は好かぬ、基地外は好かぬ、権威主義者はもっと好かぬ」というのをひとつのガイドラインにしておりまして。
 このガイドラインに従いますと、歴史でメジャーなところはみんなひっかかります。

 歴史の登場人物で誰が好き、と聞かれると困るというのは、だからです。
 好きな人なんかいない。滅多に。とくにメジャーどころは全滅と言っていい。

 そのわりには誰それを褒めるじゃんとかいわれますが、そりゃ、見るべきところ、評価すべきもの、これはすばらしいというものはそのとおりに申しますともさ。
 でも、だからってその人を「好き」かどうかは関係ない。

 逆を行っていたのは坂本龍馬さんで。
 私が彼を好きというのはきっかけは司馬遼太郎の「竜馬がゆく」ですが、その後、自分なりにあれこれ本を読んだり史料をみたりするうちに、この人はいいなあ、という思いが強まって好きになりまして。
(衆人、善をなせば我ひとり悪をなせ、というメモ書きには、ヤラレましたよ)
 
 彼の場合、歴史上メジャー人物とはいえない。それでも評価すべきものはあるのですが、なぜか、彼の功績とされたものを全否定して、「地位」を貶める説は、なんどか現れたことがあります。
 それらも結局は新史料(むろん一次史料)が見つかり、龍馬さんを貶める説は否定されました。
 龍馬さんの評価が上がったり下がったり元に戻ったりのその間、私が感情的には揺らがなかったのは、好きということと、彼の行ったことの真偽の問題は、まったくべつの話だからでした。

 そんなん当たり前じゃんと私は思うんですけど。
 どうも、世間一般では当たり前ではないらしい。 
 
 ものの評価にあたり、自分の好き嫌いを基準にしていると、最後には道を誤りますよ? 大丈夫なのかホントに;; と余計なお世話を言いたくなることもたびたびだったして。(^^;)

 秀吉さんの功績は功績でいい。
 このへんは、信長さんでも家康さんでも同じ。
 伊達や酔狂で天下人になれるわけがない、それぞれに、見るべきところがあるのは当然。

 でも、人殺しだし権力者だからねえ……。私が「好き」になることはないです。
 好きじゃなくても評価はする。それだけ。

 私も個人的には、秀吉さんはそれでも「梟雄」と呼ぶにふさわしいと思っているので、好きという人に会うと、へえ……、と、ちょっと珍しいものをみる思いがしてしまいますが、そのへんはご容赦いただきたく。
 ただ、孤立無援の気持ちがするなかで好きを貫くのも、「見るべきもの」だと、僭越ながら、評価を申し上げます。
 
 自分の好きを否定されるのって、悲しいし、つらいですよね。
 同意はできなくても、その好きというお気持ちは、尊重いたします。
 
 
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2016.04.26 (Tue)

岡目八目


 2020年の東京オリンピックのエンブレムが無事、決定しました由(よし)、まずはようございました。

 市松模様というのも古典柄の一つで、あれはなぜか、単純なのにきわめて「強い」柄なんですよね。
 着物や帯のどちらかを市松にしたら、どちらかは無地に近いくらいにしないと、私などは着る勇気がありません。(^^;)

 格子柄のバリエーションという見方もできますが——あの格子の大きさが、細かいとそうでもないけど、大きめになると、かーなーり、派手な印象。シンプルなのに派手。
 この柄を考えた人、天才。——と個人的には思っております。

 そんなわけで、私自身はあの図案、わりと好きでした。
 ただ、幟(のぼり)などに使われる場合には、あの格子ひとつはもっと大きくても良かったのかも——遠目になると無地に見えちゃうかな、とか思っておりますが。

 でも、あの格子の大きさ、形、配置、……さりげないようでも、デザイナーの方はどれほど心血を注いでお決めになったことか。
 私はそういうこまやかな神経を持ち合わせないので、想像をするしかありませんが、でも、ああいうデザインをするときに、どれほど細かい、私のようなしろうとからすれば「どうでもいいじゃない」と言いたくなるような、細かい違いに神経を使うことは、見聞きしております。
 このデザイン、さりげないようでも、この形に決めるまでは大変だったんだろうな、と。
 もっとも、そのこと自体は、どのデザインにも言えることでしょうね。

 ま、なんにしても無事決定で良かった。

 新聞は、その審査過程についてまーたぐだぐだ書いていたようですが——あの連中は、なにがどうだって絶対アラを探して悪口言うんだから、まともに聞く気もありませんが、(^^;) 選考過程の公正さがどうこうと書いてあったようです。
 よくもまあ、ああやって次から次へといちゃもんをつけられるもんですよね。
 あの陰湿さ、本当にうんざりする。

Number web スポーツ・インテリジェンス原論
「北島康介の落選と、千葉すずの遺産。
 基準を明快に運用した水連に拍手を。」


 選考といえば、オリンピックに出場する選手の選考過程。

 あれは不思議なもんだなーと思って眺めております。
 水泳の方はごらんのとおりで、選考会一発勝負で決めてしまう。あれでいいんじゃないでしょうか。

 陸上の方は情実(じょうじつ)だかなんだか知りませんが、毎回毎回、本当にスッキリしませんね。(^^;)
 水泳の方がかなりすっきりわかりやすく選手選考ができるようになったので、陸連の相変わらずのグダグダぶりが目に付きます。

 マラソンも、選考基準を決めて、選考会やって、それをクリアするかどうかだけで決めればいいのになあ。
 審判による演技点を競う競技ではないんですから、よーいドンで決めてしまえば、選手自身にも負担にならないはず。

 本番直前まで、オリンピックに出られるのか出られないのかといって、そちらで体力も神経もすりへらしていたら、そりゃオリンピックでいい成績なんかだせるかっつーんですよ。……違うの? (・_・;)

 とはいえ。
 この話をグダグダしていると、面倒臭くなった私の結論は、必ず、
「ようはオリンピックなんかやめればいいんじゃん」
 になります。(^^;)

 もはやすでにいろんな意味で本末転倒しているし、根元から末端までもれなく腐っているし、スポーツの意味を失っているし、なによりも、選手自身を損なうものになっているので、——「改革」なんかできるわけないんだから(ぶらさがっている人間の数が多すぎるから無理)、そんならすっぱりやめるのがいちばんいい。

 やめてしまって、それでもなお、スポーツとしてやりたいのかどうなのか。

 私は、オリンピックをアスリート自身の手に返すことができないなら、もはやオリンピックとは名ばかりの、お化けイベントでしかないこんなもの、やめる「べき」だと思っております。

 きれいに更地(さらち)にしたあと、それでもアスリートたちはそこに残っているかどうか。
 残っていたら——ほかのだれにも触れさせない、アスリートたちにとってこそ、意味のある競技会にしてもらいたい。


 ………とは、しょせんは部外者の勝手ないいぐさではある。それは承知しております。

 部外者は勝手をいう。
 でも、「岡目八目(おかめ・はちもく)」ということも、あることはあるんですよ。

 自分の利益などはカケラも関わりのない、いわば自利がいっさいない「岡目」には、そのように見えている。——そういうことで——なにとぞご寛恕を。
 
 
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2016.04.25 (Mon)

「悪口」はビョーキ



 今日1日だけでいいから、だれのことも、なにについても、いっさい悪口言わないで過ごしてごらん。
 といったら、1日じゅう無言で過ごすしかない、ということに、気がつくんじゃないだろうか。(^^;)

 身内の恥でお恥ずかしいことですが、私の父方というのはそういう一族なんですよね。
 なにがあっても、必ずなにか一言はくささずにはいられない。
 悪口言わないでいてみろといったら、ほんっとーに無言の行になっちゃうというくらい。

 うちの親父(故人)が昔、私のその挑発にのって、それくらいどってことない、みたいなことをいいながら、10分と持たなかった(ニュース見ながらバカって口走った)ときはもう、乾いた笑いしかなかったなあ。(^^;)

 生まれ育ちというのは恐ろしいもので、自分のそういう環境について、高校生くらいまではたいして疑問に思っていませんでした。
 生まれてからずっとそんなところにいると、それが当たり前で、他の人もみんなそうだと思い込んでしまう。
 
 私の場合は幸い、友人に恵まれまして。
 友人たちの家に遊びに行ってご家族の日常を垣間見ることを重ねたときに、あ、ちがう——と思ったんでした。
 うちは異常なんだ。
 本来ならありがとうというべきときですら、相手を悪くいう、バカということばを挨拶よりも頻繁にいうのは——「異常」なんだ、と。

 わかったら今度はもう、身の置き所もなく恥ずかしくなりましてねー。
 そうなりますと若気の至りで、こんどは、強く我が身を恥じながら、そういう環境を作り出している親や親戚を嫌って憎んで。ねえ。

 とまあ、自分がそういう人間なので。
 有名人のボランティア活動を「売名行為」などとクサす人々の精神状態って、なんとなく、わかる。
 ……で、わかる自分がちょっとイヤ。(^^;)

 売名行為というのは、文字通り名前を売りたい人が行うものですから現時点ではまだ、さほど名が知られていない人でしょう。
 すでに、テレビカメラやファンに追い回されるような有名人は、売名行為などする必要がない。
 とっくに有名なんだもの。

 もう、どんなことにも文句や悪口を言わないと気が済まない人がいることは承知しておりますが、「悪口を言いたいがために支離滅裂なことをいう」——ここまできたらもう、知能指数にも影響が出ているのではないか? と思えてきますね。(^^;)

 じっさい、悪口は人の頭を悪くさせるという研究結果もあるようです。あきらかな有意差とまでいえるものかどうかは存知ませんが、でも、影響がゼロってこともない。

 ネットを見ていると、そういう意味ではすでに手遅れなまでにアタマやられてるなという人、けっこういるようです。
 ツイッターのありがたいところは、ある程度TL上に現れる人を自分で取捨選択できることで、私はそういうツイートは、それほど多くは見かけないで済んでいますが、それでも——見るときは見てしまいますね。(^^;)

 自分はオカシイ、自分はこのへんが病的じゃないか、いやすでにビョーキだ、なんとかしないと……という認識、「病識(びょうしき)」を持てれば、もう7、8割治ったようなものだという精神科の先生もいらっしゃいますが。
 そういう意味でいうと、この方々はちょっとお気の毒だなあ…と、思わないこともないこともない。(^^;)

 じっさい悪口は自分の知能を傷つける。
 それでなくてもアレなのに、悪口をいうことで知能低下を招いてなおさらアレがアレになるって、そりゃマズイでしょう、……と思うけど、ご本人にしたら、大きなお世話なんでしょうね。

 ただ、こういう人たちのいうことを、マトモに聴いて相手にしてはいけません。
 それだけは世間一般にたいして、お願いしたいと思うこのごろ。
 
 
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2016.04.25 (Mon)

グラウンディング

 フィギュアスケートの羽生結弦選手が、大会本番、演技前に ONE OK ROCK さんの曲を聴いているということで話題になりまして。
 羽生選手自身は、その理由を簡潔に語っておいででしたが——それに加えて、もしや「この感覚」があるからだろうか? とふと思ったことについて、ちょっと。


 昨日は、身内みたいな集まりではありますが、ちょっとした「コンテスト」に参加させていただきまして。(^^;)
 声をかけていただいたことには可能な限り参加することにしているのですが、それにしたってコンテスト参加とは図々しいところ、ま、枯れ木も山の賑わい、頭数(あたまかず)があるほうが盛り上がるところもあるんだろうしと思って行ってまいりました。

 ちょっと困るのは、少しではありますがスピーチがあるということで。
 基本的にはあがり症なので、挨拶と自己紹介にちょっとイロをつけた程度であっても緊張はする。でも引き受けた以上はしょうがないなと思いつつ、本番前のちょっとした空き時間は、イヤホンを取り出して ONE OK ROCK さんを聴いていました。

 グラウンディング。

 スピリチュアルがどうこうというものを聞くと毛嫌いなさる方には申し訳ないのですが、でも、言葉はこれがいちばんしっくりくるのでご容赦を。

 なにもアヤシゲなスピリチュアルの話じゃなく、もともと、グラウンディングという概念はあるわけでございまして。
「地に足をつけた」感覚、ということですから文字通り。

 緊張でも、精神的な動揺でも、あるいはショック状態、あるいは単に「いいかげん、ずぼら」であることでもなんでもいいんですが、人の気持ちがふわふわと「現実」から浮いてしまうというのはよくあること。
 というより、きっちり現実をとらえ、「今」に意識を置いているほうが、たいていの人間には珍しいはず。
 現実逃避でも、妄想でも、仕事しながらお昼ご飯なんにしよう……なんてことも、「ふわふわ」です。(^^;)

 緊張して心臓どきどきいっているときも、精神状態としては「現実からはなれてふわふわ」している状態と言えますね。

 集中とはリラックスのことである、と申しますが、緊張はじつは集中ではなくて「気持ちがふわふわ浮いてる」状態のこと。

 ふわふわ、ふらふらしている精神状態を落ち着かせ、可能な限り「リラックス」状態に近づけることが、できることなら望ましい。
 そのためには、自分の意識を「いま」「この場所」「現実」にちゃんと据えること、つまりグラウンディングが必要。

 グラウンディングするための方法は、いろいろ言われていますね。深呼吸もそうだし、各種呼吸法、瞑想法(ヴィッパサナー瞑想はことに)、ヨガのなかにもメソッドがありますし。
 日本では「丹田」に意識を置くようにというのが、よく言われる方法かな。

 とはいえ。
 緊張とネガティブな「妄想」で心臓が口から飛び出そうなときって、もう、そういうメソッドどころじゃない、やってみても形をなぞっているだけでなにもその効果がない、——だからこそ「緊張している」というわけで。

 でも、それが。
  ONE OK ROCK さんの曲を聴いているうちに、それこそ「丹田」の場所がわかる、という感覚になってきたのには、ちょっと驚きました。

 なるほどそういう「効果」もあるんだなーと。

 好きな音楽を聴けば気分があがる、というのはそのとおりでしょうが、あの「ふわふわ浮いたものが、あるべき場所へ落ち着く」感覚は、そういうこととも違う。

 労せずしてグラウンディングできる。
 羽生結弦選手は本当にいろんなジャンルの音楽をお聞きになるようですが(プログラムを作る関係もあるんでしょうか)、そのなかでことさらに本番前には ONE OK ROCK さんを選ぶことに理由があるなら、「これ」ゆえではないだろうか? と思いました。

 これはたぶん、ファンであってもなくても、得られる感覚じゃないかな、と思います。
 音楽としての好き嫌いとは違うところにある「波動」としか言いようがなく——っていうとまたスピ嫌いの人にはいやがられるのかなあ。(^^;) そういう物質じゃないものの話、いやがられますよね?
 
 でも理屈はともあれ、これだけ曲はありますから、なにか、自分にとって「添う」曲はあるはずなのでちょっと探してみていただいて。
 それひとつでもいいので、ちょっと「ふわふわしている」とき、聴いてみていただきたい。

 ヘソより少し下あたりに、力が入るようになる。そんな感覚があるはず。

 日常ではたぶん、ほとんどわからないと思います。やはり自分にとって強い緊張やストレスがあるときに、わかることだと思われます。

 もうね、 ONE OK ROCK さんについてはいろんな怪現象つづきなので、もーいまさらなにが起きても驚かないつもりでおりますがね。
 なるほどグラウンディングを助ける音でもあるんだなあ、と。

 ファンの方それぞれが、自分の人生に向き合うときに「力になった」という感想を漏らすのをずいぶん見聞きしてきましたが。
 自覚するしないにかかわらず、それはグラウンディングの手助けを受けている、ということではないだろうか。
 
 ふと目が覚めたような感覚や、とくにお腹にちゃんと力が入る感じがあれば、それがグラウンディングと思って間違いないと思いますね。

 なるほどなあ、と。
 それで、羽生選手もよくお聞きになるのかもなと思った次第です。


 スピーチのほうはおかげさまで問題なくできまして。(^人^)
 ………枯れ木も山の賑わいのはずでしたが次のステージへ進んでしまいました(笑)
 その節にはまたお世話になります(笑)
  
 
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2016.04.23 (Sat)

ほんとうのこと

 忘れないうちに予告。
 明日は1日お出かけのため、こちら、おやすみいたします。m(_ _)m

        ●



 まだFIFAクラブW杯ではなく、トヨタカップのときだったと思いますが、ひいきのチームが負けてしまい、ヨーロッパ王者であるクラブの、サポーターがガックリ落胆している姿をみまして。
 それはもう、見るのも気の毒なくらいでしたが。
 日本人の、当時5歳くらいかな、その子がチームのユニフォーム着て、大泣きしている写真が、ネットでも配信されたし、アチラの新聞にも掲載されたんですね。

 そうしたら、その子がそうまでも心痛めてがっかりして、敗戦に涙している、その姿に、見た人々がなんだかみょーに心慰められたようで。
 もうその子に駆け寄ってぎゅっと抱きしめて、よしよしと慰めたくなる気持ち——そういう気持ちになることで、自身の落胆、ショック、悲しいという気持ちが、ふと楽になるような。
 
 その子はずいぶん話題になり、そのチームの招待を受けて憧れの選手にも会えたようですが、あれは——ちょっと印象的な「癒し効果」でした。

 自分がつらい気持ちになっているとき、自分以上に悲しんでいる人を見て心動かされ、同情といたわりのやさしい気持ちになると、自分自身のつらさもまた癒される。

 人の心の、面白いところだなあと思って、覚えております。

 自分よりも悲しむ人を見ても、でも、もはやなんとも思わないというほど、余裕のない——感覚が麻痺したような状態になることはもちろんあるので、いつでも実現できる「癒し」ではありませんが。
 他者を癒そうという気持ちが自分を癒すことになる、そんなこともあるんだな——とは、ちょっと覚えておきたい。

 もうそういう気持ちにすらならないときは、自分の心を守って、石のように固くなっているしかないでしょう。
 それはそれで防衛本能だと思いますから、そうなったらもう、無理はしないでほしいと思います。
 そこで無理をすると心がほんとうに砕けてしまう。
 なんていうと、「そんな、おおげさな」みたいな反応されることもありますが、——人間、気持ちがくじけ、心が砕けるほどの思いに打たれば、心臓はとまることがありますから。そうおおげさでもないです。滅多にそういう状況や人に出会わないだけのことで。


 自分の心に、ほんのすこしも柔らかい場所を残していられないほど追い詰められているときは、それこそもう、誰のどんな言葉も通じない。
 自分もかつてはそうだったよ、いまは立ち直ったよだから大丈夫だよ、などという言葉は、上記ツイートでおっしゃるとおりで、ああそりゃよかったですねそれがアタシと何の関係があるんだよ自慢かよ、と思うくらいなんですよね。

 自分のこの状況や状態がよくなるなどとはカケラも信じられないとき、へたに「未来」の話をされるとつらくなりますね。
 心がかたくなっているときの未来はただ、暗い闇——光さえ圧し潰されて逃れられないほどの、アリ地獄の闇としか思えない。

 そういうときに、経験者からの「アドバイス」なんて、うっとうしくて、傲慢で、自慢たらしいものにしか聞こえない。
 
 それでも。
 ——なぐさめだの励ましだのはやめる「べき」なのは当然として、誰かが共感してくれているとさえ認められない——自分と同じに苦しんでいる人間がいるわけがないという気持ちに支配されているので——、そんなときに。
 基本的には黙ってますがそれでも、心を固くしている人に、なにか、一言でも声をかけなければならない、何かをいわなければならいときが、あるとしたら。

 受け付けてもらえないことも拒絶されることもへたをすれば「逆恨み」されることもわかってもそれでも、なにかいうとしたら。
 それでもやはり、大丈夫だよ、というしか、ないな。

 なぜと申しますに、大丈夫だよということが、「ほんとうのこと」だから。
 嘘を言わずになにか言えとなれば、嫌われようが恨まれようが、大丈夫だよ、という「ほんとうのこと」を、ぽつりとでも言うしかないなあ……。

 慰めも通用せず、共感は認めてもらえず、固く閉じこもった心にそれでもなにかいうとしたら、とにかく、嘘ではない、ほんとうのことをいうしかない。

 いつか、わかってもらえるかもしれないし、死ぬまでわかってもらえないかもしれない。
 
 それでも嘘をつくことが最大の禁止事項なら——そうするしかないな。と。

 すみませんとりとめもない話になりました。
 ふとこちらのツイートが目に留まり、おっしゃることはよくわかるので、つらつら、考えてしまいました。

 いまは心を固くして自分を守るのに精一杯という方も多いでしょうから、つい、そんなことを。
 
 
  
 
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2016.04.22 (Fri)

桜の本分

 けっこうHDDには桜の画像が溜まっておりまして、いつかどこかで使おう、と思っているうち、あっさり桜の季節も過ぎてしまいました。(^^;)
 山桜も先日の風で散り急ぎ、枝垂れも同様、残すところは八重ですがこれはどうも、花がぼってりしていて、きれいなことはきれいですが、ちょっと華美にも思える。

 ということで、ツイッターでは「使いたかったけど使えなかった桜の画像」に、好きな和歌をくっつけてツイートしてみたり。
 ここで無理に流さなくてもまた来年使えばいいじゃないとは思いつつ——来年には来年の花があるでしょうからねー。
「年年歳歳 花相似」(ねんねんさいさい・はな・あいにたり)——毎年同じように花は咲く、とはいえ、今年の花と来年の花は「似て」はいてもじっさいは違うもの。
「歳歳年年 人不同(さいさいねんねん・ひと・おなじからず)」と詩はつづきますが、ま、正確には「年年歳歳 花不同」ですね。

「年年歳歳花相似たり」 劉 廷芝
花と詩と音楽と」様より

 桜の花を歌った和歌をあらためて眺めていて、意外と私がいいなと思うものが少ないのは、なにかっつーと、「春に桜がなければいいのに」という、みょーな恨み言が多いからのようです。

 しづこころなく花の散るらんにしたって、絶えてなかりせば春の心はのどけからましだって、そんなん、桜の知ったことか、つーんですよ。ねえ。

 花が落ち着かなく咲き急いでは散ってしまうと思うのも、花のようすにこころ乱れてしまうのも、そりゃアンタの勝手だろうというお話。
 じっさい、だーれも見ていない、ひとの姿なんかカケラも見えないような場所でも、桜は咲き、散って、葉桜になる。

 それを勝手な解釈をするのは人間のほう。
 であるにもかかわらず、「桜がなければ春ももっとこころ穏やかに過ごせるのに」とはなにごとか。

 もちろんこれは文学上の修辞とでもいうべき「表現」ということは承知していますが、なんかもうねえ。ひとりが口走ったひとことが、やけにウケたもんだから、みんなが我も我もと真似をして、大勢さんが同じ事をいうのを聞くとうんざりしてくる、そういう感じですね。(^^;)

 だれかひとりくらいが、散る花を見て、「花がなければこころ穏やかに過ごせるのに」といえば、まあそれほど桜がお好きですか、と思うくらいですが、これが、何人も何人も同じ事をいっていると、いーかげんにしろよと思ってしまいます。(^^;)

 桜はただ、自分自身の自然の営みとして咲いて散って豊かに葉を茂らせるだけ。
 それで人間のこころを惑わせようなんて思っているはずもない。
 こころ惑うというのなら、そんなことでいちいち惑っているテメエの責任だろうよ、というお話。

 でも、この手のことを口走るひとは多いですね。
 女性に惑わされる殿方の愚痴はみんなこのパターンなので私としてはもううんざりしてます。
 昔はいちいち腹を立てていましたが、最近ではそれにも飽きてきて「またですか」と思って終わり。(^^;)

 責任転嫁は、どうしたってやらかしてしまうひとの心の「癖」でしょうが、あまりにも、なんでもかんでも他人任せなことをいうのも、どうなのかと思いますね。

 花に惑わされる側の不心得というとどうしてもそんな話を思い出してしまいますが、これ、女性もおなじことですから、ひとごとみたいにお考えになりませんように(笑)
 ただ、男性の場合、惑わされるオノレの不見識をかえりみず100%を他人のせいにするこのいいぐさは、伝統的に「社会正義」にされてきた、という点だけが、女性の場合よりも特徴的だな、というだけのことなんで。

 自分の心の惑いを、他者のせいにしてはいけません、というのは、どちらでも同じこと。

 これを裏返しにしているのが、「勇気をもらった」「元気をもらった」という言い方。
 過去にも何度か書いていますが、これ、ほどほどにしたほうがいいです。

 元気も勇気も自分が持っているものですよ。他人から貰わないとならないようなものじゃない。
 たぶんもともとは、誰某さんから勇気をもらった、というのは、それくらい誰某さんに励まされたよ、ということを、強調した表現だったと思うんですが。

 もらった、という言い方のイメージの強さがウケたのか、これが当たり前に広まってしまい。
 いまとなっては、それは他人から貰わないとならないものだという認識すら、持っているひとがいるんじゃないかと疑われるくらいになってきました。

 心は言葉をつくるけど、言葉もこころを作り出す。

 もらったもらったって乞食じゃないんだからさ——と、いじましいくらいの人が、ちょっと気になるこのごろです。

 勇気も元気も、ちゃんと誰でも持ってますよ。ただ、それを見失ったり忘れ果ててしまうことはあって、そういうときに、誰かが背中を押してくれれば、はっとすることがある。
 それを「もらった」と表現することには、感心しない。

 私もこのへん、ひとさまのことをとやかく言えた義理ではないので、あんまり言いたくないんですが。(^^;)

 桜は誰のためにも咲かないし散らない。
 桜は桜として自分の本分を守って生きているだけ。

 その美しさ、はかなさを見たときの自分の心の動きを、桜の責任として押しつけるなぞ言語道断。
 美しさに喜び儚さに惑っているのは自分です。桜じゃない。
 自分をしっかり見つめることのほうが、「本筋」なんじゃないでしょうか。


 ということで。
 これと思う桜の和歌って、意外とないもんだなー……と思っていた昨夜のこと。

shidare-sakura.jpg

 
 
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2016.04.21 (Thu)

自主規制の国

 どこぞの寝ぼけたジャーナリストの団体が、日本の報道の自由度ランキングを下げたそうですが、理由を聞いて、おきやがれ、と思いました。(^^;)
 日本の報道の自由は相当なものですよ。なにしろ、嘘デタラメを垂れ流しても、法的にも道義的にもまったく責任を問われないという、すんごい国ですからね。

 日本国憲法は思想の自由その他は認めているけど、「嘘をついていい」自由までは認めていないはずなんですけどねえ。おかしなもんです。

 この国の報道が画一的なものに見えるとしたら、それは国家権力の規制によるものではなく、あいつら——報道機関——が馬鹿だからだよ、と吐き捨ててしまいました。
 誰も何もいわないのに、なぜか、「みんなと一緒でなければならない」という意識がある。テレビチャンネルなんていくつあったって意味がない。なにしろみんないっせいに同じような番組を放送するから、チャンネルを変えたかどうだかわかんないくらい。

 まあ、考えてみればたいへんなことではあるでしょう。「みんなと同じ」ことをしながら、そのなかで、「目立たなければならない」というのは。

 みんなで同じことをしていれば、特ダネもスクープも、あるわけがない、または、ごく限られたものにしかならないのは当然。
 報道機関としての「業績」をあげたいなら、ほんとうは、よそさまと同じことをしていたら意味ない——ということは、それこそ馬鹿でもない限りはわかることでしょう。
 それがわかっていないようですから、そりゃもう、馬鹿だとしかいいようがないじゃありませんか。

 平成28年熊本地震の発生を知ってからこちら、1年以上も遠ざかっていたテレビ新聞の報道に(いやいやながら)接しているわけですが、——代わり映えのない愚かさに、いささか(1週間足らずで)ストレスになってしまいました。(^^;)
 あんまりひとさまに向かって馬鹿馬鹿いうもんじゃないということは骨身に染みておりまして、控えたいところなんですけども、いまのところ、ほかに適切かつ端的な表現が見つからないものでつい。

 右に倣えの奇妙な「同調」を維持しながら、そのなかで、「目立つ」ことをしようと思ったら、どうしてもこんなふうにしかならないんだろうね、と、最近、みょーに納得したのは「週刊文春」さん。

 夏目漱石先生がおっしゃったところの、「他人の尻の穴」のことばかりですから(たしか『彼岸過迄』だったと思うけど、でも同種のことは猫でもほかの作品でもちょいちょい書いていると思う)、「スクープ」といっても、あまりにもくだらないことですが。

 ちょっと面白いなと思っているのは、みみっちいながらも「スクープ」を連続させるのはひとつの「お手柄」であり、通常であれば他人からは、スゴイねと言われても良さそうなところですが、——そういう雰囲気は感じないこと。

 むしろ文春さん自身が——「ああ、週刊文春ね」と話題にのぼったときに、妙に、薄笑いが添えられてくることが多くなりました(私の周辺では)。
 もちろんスクープとはいえあまりといえばあまりの話題ばかりなので、まともな、陽の当たるような場所で報道ですとは言えないようなものですが、それにしても、文春さん自身がむしろ、「馬鹿にされている」雰囲気がある。

 スクープとあれば一目置かれるものだとはいえ、あまりに話題が愚劣すぎるからか。
 一目置かれるどころか、「ああ、あの……、週刊誌ね」という言い方の「……」の部分に、はっきりと軽蔑の念がこめられている昨今。
 やはり話題のせいだろうか。
 それとも——ああいう話題をすっぱぬくとき、どんなことが行われているかが、うっすらとでも察せられるから、その「行為」が見下されているんだろうか。


 わりとどこに行ってもひとりくらいは「放送局」などとあだ名されるような、他人の噂話にやたらに詳しいひとっているものですが。
「よく知ってるね」「詳しいね」といいながら、周囲の人々はその「放送局」には決して敬意を払うことはない。
 便利に使うことはあっても、——「情報通」であり「くわしい」ひとであり「よく知っているね」とはいっても、警戒しながら付き合うことになる。

 あれに似ているところがあるのかな——ゴシップ誌というのは最初からそういうものではあるのですが、それにしても、という感じなのかな。

 文春さんご自身が愚劣イメージを強くして、軽蔑を集めているところがあるけれど、それをご自分ではどうお思いなのか、と思いましたが、でも——そんなの、蛙の面にナントカってやつですかね。(^^;)

 たまには「みんなと同じ」という場所から踏み出して、せいせいとした気持ちで仕事したくならないのかな? と、ちらりと思った、「報道の自由ランキング」のニュースでした。
 
  
 
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2016.04.20 (Wed)

味覚の臨界状態

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スペシャルティコーヒーとは
「横浜元町珈琲」様

 スペシャルティコーヒーとは? と思ってまたちょっと検索の旅へ。
 
 コーヒー豆の分類方法にはいくつか種類があるようですが、そのなかでも、アメリカスペシャルティ協会 Specialty Coffee Association of America SCAA (公式HP)が定めているグレードのひとつ、のようです。

 おおざっぱには図にある通り、詳しいことはまたリンク先をご覧いただくことにして。
 その SCAA は現在3,000社が加盟しているそうですから、実質、国際規格となっているんでしょうね。

 缶コーヒーは率直に言うと、あんまり美味しくはない。いろいろ努力も技術的な改良もなされているのでしょうが、どーしても美味しいとは思えない。
 というのは、やはりあの「鮮度」が命である飲み物を、缶詰にするということにそもそも無理があるのだろうということと——こちらの図をみますと、そもそも豆のグレードに違いがあるからなのかな。
 とするなら、それはもう、そういうものなんだな、と、逆に納得できますね。

 あんまり美味しくないとは承知していつつ、それでも、ほのかにでもいいからあの香りを聞きたいというときがあるわけなので(匂い、香りを嗅ぐことを、『聞く』とも申します)、缶コーヒーの存在意義を否定する気は毛頭ございません。(^^;)
 いつもたいへんお世話になっております。m(_ _)m

 最近ではコンビニで、手軽にお安くレギュラーコーヒーを購入できるようになりましたが、これがもうあなた、びっくりするほど美味しくない。
 どこの、とは申しません。どこでもたいして違いがないように思います。
 そもそもコーヒーを入れているのに、香りがほとんどないくらいですもんねえ。
 まがりなりにもインスタントでもないコーヒーなのに、こうも香りがないことがあるものだろうか? と不思議に思っておりましたが、あれも、豆のグレードの違いによるものなんでしょうかね?

 率直に申しまして、あれではネスレさんのインスタントコーヒー、「レギュラーソリュブルコーヒー」のほうがはるかに香りがたちますよ。ホントに。

 などと語っておりますと、コーヒー好きのコーヒー党かと思われることがあるようですが、もちろん、違います(きっぱり)。
 好きなことは好きですが、特別、執着しているわけでも、凝っているわけでもありません。(^^;)
 ただ、コーヒーはできればブラックがいいな、と言ってみたり、味覚には自分なりの基準があることはあります。その程度です。(^^;)
 とても豆のグレードに強くこだわるほど、凝った味覚ではありませんて。

 おいしいものには誰でも執着はあるんでしょうが、とはいえ、自分が「わかる」範囲というのはそう広くないのも事実でしょう。
 職業にできるまでにしっかりした知識や経験、訓練によって、「わかる」ことは、しろうとにはあんまりないように思います。

 ある程度までは、美味しいかどうかの判定はするけれど、あまりにも繊細な、高度な話になってくるともう理解はできない。

 味覚というものは面白いもので、お値段が高ければ美味しいとは限らない。
 もちろん、提供する側には、相応の根拠があるでしょう。
 でも、たいていのしろうとは、そこまでの理解は及ばない。

 自分の味覚の「臨界」——ここまではわかるけれど、ここを過ぎるともう「ぜんぶ美味しい」にしかならない、という、「味覚の限界」を、自分でわかっていればいいかな、と。

 上島珈琲さんのUCCコーヒー博物館 、なかなか展示も面白く、楽しくてよかったんですが、印象深かったのは喫茶店。
 喫茶店「コーヒーロード」は、博物館に入館しないでも利用できます。
 
 せっかく珈琲屋さんの本拠地?にきたんだし、普段は飲まないようなコーヒーを飲んでみようとお願いしたのが、選び抜かれたスペシャルティコーヒーのうちのひとつでした。

 通常だったらケーキセットもいただけるくらいのお値段で、コーヒー1杯分。
 この話をしたら友達は目をむいてましたが(笑)——まあそこはそれ、せっかく旅行してるんだし、日頃やらないことをやってみるのがいいじゃない(笑)

 ということでいただきまして。
 たしかに——香りも味のバランスも、恐らくは淹れていただいた技量もふくめて、おいしゅうございました。

 が。
 よく行く喫茶店の中でお高いメニューと比べて明確な——お値段ほどの——違いがわかったかというと。
 わかりませんでした。(^^;)

 あれこれちゃんと勉強していけばわかるようになることかもしれません。
 でも、自分なりの勝手な「味覚」としては、ある程度以上のことはもうわかんないな、というのが正直なところでしたね〜。

 日本酒はそうでもないけど、ワインは値段と味覚には相関関係がないと感じることが多いのですが、コーヒーもそうなのかもしれません——私の味覚では。

 値段と美味しさにはっきりした関係がわかるのはどこまでか。
 その「臨界」が自分でわかれば、自分なりの、適正価格が設定できるようになるんだな、と思いました。

 味覚はそれぞれですから、見栄を張ることはないし無理をする必要もない。
 ただ自分なりの味覚の限界値がわかっておくと、なにかと便利でしょうね。

 まあ、もともとたいして舌が肥えているわけでもない庶民ですんで(笑)、こだわりなく、おいしいものを、美味しくいただければ、それでいいかな。(^^;)

 凝っている方のお話を聞くのは面白くて好きですが、聞くくらいでじゅーぶんみたいです(笑)
 
 
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2016.04.19 (Tue)

本日おやすみ

急遽、お出かけになりまして、本日はおやすみいたします。m(_ _)m

Twitterのほうはおおむね、通常通り、なにかやっておりますたぶん。(^^;)
なにか、といっても、新幹線車内から飲み物だの食べ物だのの写メをツイートするくらいでしょうけども(笑)

どこかでお茶を一服できるといいけどなー。
へんなところが貧乏性らしくて、出先でちょっとお茶くらいはできるときでも、いいや早く帰って自分でコーヒー入れれば…と考えてしまって、まっすぐ帰ることが多いんですよね……。

あれもう戻ったんですか、少し休憩くらいすればいいのに、などといわれると、へんなふうにケチなのかなあ>自分、と思ったり。(^^;)

ま、ともあれいってきます。
また明日にでもお目にかかれますように。(^-^)

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2016.04.18 (Mon)

自分の「日常」



 阪神淡路大震災のときは自粛がいきすぎて、現地の観光業にむしろ大打撃を加える結果になったし。
 東日本大震災では同じく自粛が「委縮」にまでなってしまい、被災地から「いいから旅行して! 買い物もして!」と叱られたという始末。

 なにより、テレビ等ではマスコミが、被災映像を明けても暮れても繰り返し繰り返し流すということをしたせいで、被災していない人にも深刻なショックを与え、被災者にも二次三次被害をあたえることになりました。
 たまりかねて精神科の先生がたからは(公式声明ではなかったと思いますが)マスコミには映像を控えるように、また、視聴者には、嫌だと思うならそういう映像をみたりニュースを聞いたりしないでスイッチを切るように、ということがありました。

 そのあたりから学習したいところですね。

 被災状況を知っておくことは必要なことでもありますし、協力出来そうなことがあればすぐさま行動するのも大事なこと。
 ですが、自分が精神的に不安定になるようでは本末転倒。

 自分が被災者ではないのなら、自分の日常を守って「適切な距離を取る」ようにしたいところ。
 こんなときだからお金を使え、というツイートもお見かけしたし、いままでほどは極端な「不謹慎」批判も聞いていませんし、なんとか、このペースでいきたいなと個人的には思っております。

 不謹慎、というのも不思議な言葉ですねえ。この言葉で、他人になにを「強要」しようとしているんでしょうね。
 そのへんを考えると、こんな言葉にまともに付き合うことはない、とわかると想いますが。(^^;)

 たしかに不慮の事態を聞いて、我が事のように思って心を痛めるのは、おやさしい気持ちがあってのこと。
 他人と自分は関係ない、と、ドライに割り切っている社会ではむしろ、こういうことを他人事と思わずに思いやりを持ちましょう、という呼びかけの方が多く聞かれることになるでしょう。

 そうではなく、「あまり思い入れを持ちすぎないように」という注意がなされるのは、そういう意味ではちょっと面白い現象ではあるのでしょう。
 自分と他人の、「健全な」線引きっていうのも、誰かを思いやるのと同じくらい、大事なことなんですね……きっと。

 思いやっているつもりでじつは経済的な打撃を加えてしまう、というのも、本末転倒だし、支援したい気持ちを、自分で裏切ることになるわけ。

 ということで。
 私もせっせとくだらない、アホなことを言うようにしようかな、と。
 いえくだらないことを言っているのは私の「日常」なんで(笑)

 あれこれ聞いたり考えたりしていると、つい、眉間に力が入ってしまいそうになるけど、——そういうシワはご遠慮したい。
 どうせだったら笑いジワのほうがいいな。うん。

 微笑みは伝染する。どうせ他人にうつすんだったらあたかかくて柔らかいものがいい。
 自粛ということばに惑わされず、できることはできるようにこなして、「日常」、過ごしていきたいとおもいます。
 
 
 
velvet-hammer2.jpg
"velvet hammer" -- details
 
 
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