本を読む人

 昨日の、ほぼ日「今日のダーリン」のお題が、読書(する人)だったんですが、ちょっと考えてしまいました。

 たくさん本を読む人、多読する人が、本を読まない人を「下に見る」ようなことが(たまに)あるようだ、というお話だったので。
 本に耽溺する身の私としては、そのいわれようには、正直、承伏し難いものがあります。
 でも、「うんちく男」にウンザリしてきた経緯もあるので、たぶん、おっしゃることもわかる——かな。

 糸井さんのおっしゃる「多読家」には、本をたくさん読むべき事情があるのだろう、という想定がされてまして、

「アスリートが厳しいトレーニングをするように、
 たくさん読むことを目標にしたことがあったとか、
 他にやるべきことをやりたくなくて、
 たくさんの時間を本を読むことにあてていたとか、
 じぶんに足りないなにかを知ろうと、
 とにかく本を読み続けることで探そうとしたとかね。」



 そういう人も多いでしょうね。

 さりながら、世の中には本当に、本を読むことに「溺れた」人間もいる。
 なにかの目的なり、やむを得ない「事情」なりがあって、追い込まれるようにして本を読むのではなく、文字通り単純に、読むことそのものが楽しくてやめようにもやめられない、という。

 私はむしろそれが当たり前だと思っていたのですが、そうではない人もいるのだ、という指摘をしてくれたのも、そーいやあれも男の子でしたな。
2016-03-08
 男性はそういうタイプが多いんですかね?

 私の友人はみんな、それなりに本を読みますが、読んでいるからエライってこともないし、知識の披露合戦もしない。そもそもそういうことが好きじゃない。
 話しているときにふと、思いがけない知識を示されて、世の中にはそういうこともあるのか、へー、ということはありますが、自慢たらしく喋るのは——やられたら嫌ですねかなり。

 これは性別で傾向の違いってあるものなんでしょうかねえ。どうなんだろう。
 本をたくさん読んでます、なんてことをひけらかす人には、私自身あんまり遭遇しないんですが。(遭遇しても嫌がって逃げるけど/笑)
 ただ、過去、こっちが聞いてもいないのに、こんなにいろんなこと知ってるんだよとばかりに喋りまくる男には「うんちく男」という名称をこっそり進呈したことはあります。(^^;)

 過去にも何度か言ってますが、私が、いわゆる一般の人よりはオタク男性のほうが好き、というのは、オタクというのは自分の「好き」に邁進する人々なので、膨大な知識を持っていたとしても、それを披露して他人から感心してもらおうなんてことはほぼ、考えていない。

 たぶん自分の趣味嗜好をちょっと特殊なものととらえ、ゆえに理解者もいないし同好の士も少ないし、自慢になるようなこっちゃないし、と思いながら、ただ自分の楽しみのためにものごとを吸収していくんですね。
 で、たまに、「話が通じる」人がいると、今度はもう滔々と喋り出すわけですが、これが面白い。
 私にはなんのことだかさっぱりわからなくても、「おはなし」として面白くなってるんですよね。
 単なる情報や知識の羅列ではなく、その人の「好き」という情熱があるゆえに、「物語」になっているからじゃないか、と思ってます。

 知識自慢というのは——面白くはないですねえ。正直なところ。

 ただでさえ、大して面白くないのに、顔を見れば、いつ褒めてもらえるか、賞賛されるのかという期待が浮かんでいるのを見るともう、興醒めするしかなくて。申し訳ないですが。

 さきほどから「多読家」といって「読書家」とは言わないのは、そんな理由からです。

 たぶん、知識量を誇って人を「下に見る」人は、本を読むか読まないかの問題ではなくて、ほかのいろんなことでも、自分なりの基準をつくり、自分のほうが上だと思いたがるし、そう思うための努力も惜しまないんだろうな、と。
 そんなふうに思います。

 ツマラナイ話だなあと思いつつ、でもそれを悟らせたら悪いよなと思って、「すごいですねー」「よくご存知ですねー」などと相手の希望に沿った相槌をうち、疲れ果てたという経験のある身としては、そう思います。(^^;)
 あれももう、ばかばかしいのでやめました。
 ということで、現在は、私が身を乗り出して聞いているときはお世辞抜きですのでその点ご承知おきください(笑)

 本や知識の量が問題なんじゃなく、そういうくだらないことで「人を下に見る」人は、もういろんな場面でそれをすると思われます。
 ゆえに、その「人を見下す」のが、本を読む人間に特有の傾向だとは、言われたくないですね。(←じつはけっこうむっとしてる)

 多読家と読書家の違いをどこで引くかというのは、私自身にもはっきりしません。そのうち、また、ああそうかとひらめくかも。ひらめいたらまた書きますね。(^^;)

 読書家というと、まっさきに荒俣宏さんが思い浮かびますが、荒俣さんはまた、本という「物体そのもの」を愛でる、「愛書家」、ビブリオマニアでもいらっしゃる。

 読むことが好きな人と、「本というオブジェ」が好きな人、その両方でいらっしゃるというのは、それはもう、ほんとうの意味での本好きだ、ということで、ひそかに尊敬しております(笑)
 
  
 
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産めよ増やせよ地に満ちよ


「2人出産が仕事より価値」発言全文 学校Webサイトに一時掲載 校長「誤解招かないよう掲載」
2016年03月14日 09時11分 更新 IT Media ニュース

 この校長先生のご発言にのっとると、私も「女性としてもっとも大事な」ことをせずに一生を終わる人間なので、ちょっとものが言いにくいところがあるのですが、ま、それはそれとしても、なにがいかんのかな、とあらためて考えてみました。
(ちなみに、その義務未遂行の件につきましては、私個人に限っては、私が無事60歳定年を迎えました際には、私に毒杯をくださってようございます、と思ってます)


 ある発言なり文章なりの一部がへんなふうに抜き取られ、発言主旨からぜんぜんあさっての方向にもっていかれてしまうというのはよくあること。
 ゆえに、「誤解のないように」ということで、「一時」、校長先生のご発言全文がウェブサイトに掲載された由(よし)。
 そんなら拝見しようかと思いましたが結局はその後、取り下げられているとのこと。そりゃ残念。

 上記の記事はあくまでもその全文を読んだ人による「要約」ですから、完全な全文とはやはり、ニュアンスの異なるところもあるかと思います。

 とはいえ、最初に報道されたものよりは、発言の主旨を汲んでいるものと思われますので、そういう前提で申しますと。

 一見、まあふつうというのかまともというのか、そういうことのように思えますね。
 でも、やはり、問題とされた「感触」は残っている。
 なんでだろう? と何回か、読み返して考えていたんですが。

 結局はアレですね。「なにがその人にとっての最優先事項、または、幸福となるものなのか、他人が勝手に決めつけんな」ってことですね。(^^;)

 この校長先生の意識には、「人間には誰でも、自分なりの良心がある」ということが、入力されていないんでしょう。

 ある一つの価値観や、あるひとつの場面、状況、環境において、「これがいいことだ」と、ご自分が思ったことが、すべての人にとってもいいことである、という考えでいらっしゃる。

 全文だろうが抄録だろうが、その考え方にたいする反対は消えない。
 だから「これは問題だ」という感触も消えていない。
 そういうことのようです。

 問うに落ちずに語るに落ちる、——無意識に選んだ言葉に自分自身さえ気づいていない、自分の「意識」が映る。
 じつのところ、そっちのほうが怖いなとあらためて思いました。(^^;)
 かっこつけても考えても、ある瞬間に、自分の「本性」が言葉にあらわれてしまう。
 でも、他人にはそれが丸見えなのに、本人はまるで気づいていなくて、「は?」と言ってしまい、またそこでさらに怒られる。

 自分がなにを内側に持っているのか、自分ではなかなか、気づけないもんですよね。
 実社会で他人様とぶつかりながら気づくこともあるし、——でもそれだとシャレにならない「実害」を、自分にも他人にも与えてしまう可能性もある。
 となると、自分で自分をじっくり観察する、内省、というものがあると、そのショックも和らげられるでしょうけどね。

 校長先生の、産めよ増やせよ地に満ちよ、というお考えはまあわかるし、それもまた人を満たすものだとも思うし、それは女性だけが負う「負債」ではないというお考えも、まあそうですよねえ、と思います。

 ただ、多くの人が反発したのはそういう言葉の上っ面の部分ではないんですね。
 言葉が生み出された「根」が、「それがお前にとっての幸せなのだ」という、他人への勝手な決めつけや押し付けだということ、そのことについて反発を食らった。そういうことでしょう。

 面白いもんですね、発言者は自分がなにを言ったのかわかってないし、わっとばかりに反発した側も、自分がなにを問題にしているのか、意外とわかってなかったりして(笑)

 反発していたはずが、この要約を読んで、あれ? そんなにおかしいことは言ってないのかな? と思ったのであれば、そういうことになります。

 でもなかなか、言葉の「根」にまであたっていくのは難しい。これはそれこそ人の内心に触れることなので。
 無遠慮に無神経に、乱暴に扱っていいことではない。

 世の中には、本当に、ただたんに、言葉の使い方がわかってないから「誤解」される、という、スキルの問題だけって人もありますし。
 ただ単なるスキル不足にすぎないのかもしれない、ということも、反対者は念頭においておく必要がある。

 現象としては面白くもあり、難しくもあり。

 ともあれ。
 今回問題だったのは、発言が抜粋されたから「誤解」されたのだ、だから全文を見せればいいのだ、ということではなく、言葉の奥に横たわる、考え方そのものにあった、——という見方に変更はございません、てことで。

 
 現在からこの先は、世の中は、「人それぞれがもつ良心にとって、いいように」という方向にしか、進んでいかないでしょう。
 そういう「変化」も、この校長先生のような人も多いからそう順調にはいかず、1歩進んで2歩下がるということもあるでしょうが、それでも。

 あるひとつの価値観だけですべての人間を縛ってきた、そういう「時代」は、もう終わってる。
 良心は、エゴではありませんから、各人各様に幸福であることは、摩擦も問題も起こさない。
 それぞれが身勝手なことをいうエゴのぶつかりあいとは、まったく異なる次元のお話なんですよね。

 でも、それもなかなか理解されないでしょうし、エゴというのはようは「恐怖」ですから、まあ、しぶといだろうな、とも、思います。

 それでも。
 誰かが勝手に他人の人生を決める、ということは、もはや「正義」ではなくなっている。
 それだけは確実に言えることじゃないかな——と思って、こちらの記事ならびに要約を拝見しました。
 
 
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春の不調に濃い目のお茶を

 3月から4月にかけてのお悩みは、胃腸の不調。
 ここ何年かはずいぶん軽くなりましたが、以前には、腹痛と悪心(おしん)でものもろくに食べられないとか、吐き気止めの注射をしてもらって直後にリバースしたとか、なんとも手の打ちようがない状態になったことも。(^^;)

 ということで本人が気にしているのは胃腸ですが、じっさいは肝臓、または腎臓からきていることがおおい——とは、聞いたときはちょっと意外でした。
 けど、春というのは体にすると「解毒」の季節なんだそうで、冬の間に溜まってしまったものをすっきりさせようとする——そのせいらしいです。
 
 とはいえ、例によって西洋医学はこういうことには対応してくれないから、漢方の胃腸薬のなかでも、胆汁の分泌を促す機能のあるものを服用してだいぶよくなったとか、まあいろいろやっております。

 胃腸症状も花粉症が軽くなるのと同時によくなってきているし、やはり免疫、解毒と関係があるのかな、というのが、身を以ての実感。

 今年の冬からここまではずいぶん快調でしたが、ただいまちょっと不調気味。それでも、漢方薬にいちいちお世話になるほどじゃないしなあ、というところで目に留まったのがこちら。

疲労肝も回復!「濃い緑茶」のパワー
日経WOMAN On line 2010年3月25日

 緑茶ならしょっちゅう飲んでますが、「濃く」淹れるというのがポイントですね。
 体がへんにむくむ、ろくに食べてないのに体重は落ちない、それどころか水を飲んでも太る……というときって、この肝臓のお疲れを疑ってもいいかもしれません。
 私は漢方でいう水毒タイプで、肝臓、腎臓ともに強い方ではありませんので、症状がばっちり当てはまります;;

 苦いお茶が苦手という方にはちょっとお気の毒な、あるいはおすすめはしがたい「濃い〜〜いお茶」ですが、薬を飲むほどじゃない、だけど最近すっきりしない、という方にはちょっとおすすめ。(^^)

 お茶って、いまでこそ嗜好品のように思われてますが、もとはれっきとしたお薬ですしね。

 あと、真夏に多い夏バテの下痢のときも、濃いお茶、効きますよ〜。(←体験済み)
 お茶の成分には消炎作用があるので、下痢、つまりは腸壁がちょっと炎症を起こしているときに、それを鎮めてくれるわけですね。
 濃いお茶の入れ方は上記エントリーをごらんください。

 エントリーでは煎茶と番茶…とありますが、あんまりこだわらず、いまお手持ちの茶葉があれば、通常より濃く淹れるってことでいいと思います。
 最近では急須もないご家庭もあるとは聞きますが(涙)
 深蒸し煎茶というのもありますがあれはどちらかというと味(渋み)より「色」が重視されたものなので、カテキンを多く取りたい場合はあんまり関係ないかな…。

 カテキンは簡単に言うと苦味の成分ですから、しっかりした味を狙っていけば間違いないかと。

 私は濃いお茶はむしろ好きなくらい。
 薬飲むほどじゃないけど、今年もちょっと胃腸にきちゃったなあ、どうしよう、と思っていたところだったので、緑茶で対応できるならありがたいお話。
 試してみます。
 もし効いたようなら後日、ご報告を……って、それはいらん情報?(笑)

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猫の教え

 猫を飼い続けて、ふと気がついてみたら、30年超。
 とはいえ、「飼う」という意識はかなり希薄で、向こうが勝手にうちに住み着いた、といったほうが実感には近いですねえ。

 ご近所さんが飼っていた猫が「家出」して、なぜかうちに来ては中に入れろ入れろとせがみつづけ——もう冬の気配も濃くなった11月末、根負けして家に入れたのがそもそもの始まり。
 もとの飼い主さんも最後にはあきらめちゃって(もちろんウチが誘拐したなんて誤解はされてませんよ;;)、それでそのままうちで世話をすることに。
 
 猫はあえて飼う飼わないというのではなくて、向こうから勝手に「くる」もの、というお話を聞いたことがある……と思うんですが、もしかしたら記憶違いかもしれない;; でも私の実感としても、猫は勝手に押しかけてくるのでした。捨て猫を拾うというパターンがいちばん多いかな。
(個人的には猫を捨てる人間は全力で呪ってやりたい気持ち。やらんけど)
(親猫が、この子は育たないといって見捨てた子猫を拾ったこともありますが、これはまあ、自然のことではある)

 猫を飼うなかで勉強したことは多くあります。
 心にいちばん強く根付いた「教え」は、「死」というものとの「つきあいかた」だと思いますね。
 現代の日本人はこれをあまりにも、特別の、あるいは「非日常」にしてしまった、と感じます。
 それを気づかせてくれたのは、来ては去っていく猫たち。

 あとはなにより、猫と付き合うと身につけていかざるを得ない「教え」がありまして。
 それは、「適度な放任主義」。(^^;)

 猫は、およそ、人の思い通りになんぞなりません。
 猫飼いの人なら絶対わかってくれるこの現象——、よかれと思って、あるいは喜んでくれると思って買ったごはんやおもちゃが、ぜんぜんウケない、というあの落胆(笑)
 値段の高い安いは猫の知るところではないとはいえ、ちょっとヒドイ、と思わず人間が涙目になるくらい、冷淡で薄情な態度をとられた——、これを経験していない猫飼いさんはいないはず(笑)

 こうであってほしい、こうなってほしいという気持ちや、きっと喜んでくれるはず、こうすべきである、というこちらの思い込みや期待になんて、彼らは無関心。
 
 でも、それでいいんですよね。

 こちらの期待や希望はそれとしても、だからってそれを「押しつけ」てしまっては、愛情表現ではなく、ただの迷惑行為にしかならない、ということを。
 猫との付き合いで、学んでいくんですよね——人間の方が。(^^;)

 猫は猫で、人間の生活ルールをある程度は覚えるし、彼らは彼らで「人間に譲っている」ところも、我慢しているところもある。

 たぶん、相手を自分の思い通りにしたいという欲求が強い人は、猫とは付き合えないんじゃないかな、と私としては思ってます。
 猫は勝手気ままだといわれますが、私に言わせれば、人間の方が「自分の思い通りにしようとしすぎる」んだと思う。

 猫でも人間でも、そのあたりは同じことだと思いますね。

 自分の腹のなかをじーっくり眺めてみてほしい。結局、(それが人間でも猫でも)相手が自由に、本当に心から、楽しんで、あるいは喜んでいる姿は、自分にとっても喜びになるもの。
 自分としては、ああしてほしいこうあってほしいというのも、そりゃあるでしょうし、これはこれで自然で、無理に押し殺すべきものでもありませんが。
 それはそれとしても、でも、突き詰めれば、相手がほんとうに喜んでいる姿をみることが、いちばん気持ちを満たしてくれる。

 自分の感情でありながら、このあたりはなかなか、気づけないことが多いですけどね。
 なにしろエゴというものは、この感情に蓋をしてしまいがちなので。

 硬く閉じられたエゴの蓋の下で、それでも、この感情は消えることはない。
 閉じ込められていても、そこでわきたっている。

 あんたがたはなかなか哲学的だよねえ——、と、寝ている猫に話しかけてみたり。

 勝手と言われる猫ですが、それでも彼らは彼らなりに気を使うものです。
 どうにもこちらが落ち込んでいるとき、ふだんは、人に触られるのなんてイヤという猫が、そっと側に寄ってきて、おもむろにごろりと横になり、お腹を出して、「モフってみる?」とちらりとこちらの顔を見る——そんなときもあります。
 猫をもふもふすると幸せ♡になるというのを、ちゃんと承知しているんですよね。
 この情の深さ。たまりませんよこれは(笑)
 
 ま、概して猫バカというのはこういうもんだ、という馬鹿話でございました。(´∀`*;)ゞ
 
 
 
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ケンカの作法

 今日は日曜日だし天気もいいしこれという予定もなくて静かないい日なので。
 のんびりした話題もよろしかろうなと思います。

 といっていながらいきなり(少し)物騒なことを申します、思い出したのでメモ代わりに。


【ケンカ5条】

 ①売られたケンカは買わないのがまず基本。
 (自分が売るなんてのは論外)

 ②買うときには7掛け(=3割引)で。

 ③負けるケンカはしないこと。
 (負けるケンカに意味はない)

 ④それが可能だとしてもトドメは刺さないこと。

 ⑤相手の逃げ道は確保しておくこと。
 (自分自身は背水の陣と思え)
 



 以上、自分なりの「ケンカの作法」でございました。

 そんなにとんがった人生を生きているわけではないので、いずれも大したことではありませんが、それでもまあ、人間の社会に生きていれば多少のことはありますわね。どうしても。
 幼少の砌(みぎり)からそれなりに、身につけてきたことを、ちょっと振り返ってまとめてみました。

 基本的には平和主義なので、自分からケンカを売ることもないし、多少のことは売られてもスルーしますが。
 自分ではまったくそのつもりはなかったのに、相手の逆鱗に触れることもあります;; これはもう本当にごめんなさいというより仕方ない。
 
 売られたケンカは基本、買わないけど、買うべきときには買う。これもまた仕方のないことですね。
 こちらがおとなしくしていると、付け上がってくる奴、人を甘く見て舐めてくる奴というのもいるので、——平和主義でも、正当防衛の放棄まではしません、てことですね。専守防衛。

 で、やる以上は負けたらいけませんね。勝つ必要もないですが、とにかく、負け戦にはしないこと。
 これがいちばん大きなポイントかもしれない。

「戦後処理」で大事なのは、④と⑤。
 トドメは刺してはいけません。相手の面子を丸つぶれにしたり、立場を崩壊させたり、深追いしすぎてこちらが加害者になる、というようなことは、絶対、ないように。

 気に入らないことは山積みでしょうが、それでも、トドメは刺してはいけません。恨みというものは、買って得になることはなにひとつない。
 どんなことでも、相手にも必ず一定の言い分はあるし、なにより、人には感情というものがあります。
 どんなに業腹(ごうはら)に感じても、この一線は守らなければいけません。
 相手のためにということもあるけど、最終的には、自分のため。

 トドメを刺すまでやってしまっては、遺恨となるんですよね。

 誰が正しいとか正しくないとかの問題ではなくて、誰にでも守るべき一線というものはあるので、そこまでは侵さないのが、人の尊厳というものじゃないかと思います。
 相手の尊厳を守ることは自分の尊厳を守ること。
 相手の逃げ道を残しておくというのは、そういうことです。

 面目を保ち、利益を守る、そういう逃げ道は必ずどこかにあるはず。それがたとえただの逃げ口上に過ぎなくても。
 相手がそこまで撤退したなら、こちらもさっさと手を引く。

 可能な限り遺恨を残さないケンカをするための作法、と心得ております(勝手に。(^^;))。

 私も基本はボケた平和主義ですが、だからこそ、なめられる、ということも多くてですね。(^^;) 自然にそんなことを覚えて過ごしてきたようです。

 またなんでこんなことを書いているのかが自分でもわからないのですが、まあ——、どなたかの、なにかの折に、ご参考にでもなれば。

 念を押したいことがあるとすれば「自分より弱い立場の人間相手に、攻撃はするな」ということと、「負けるケンカはするな」かなあ。
 自分より弱いものを狙うなんてのは、そもそもケンカじゃありませんけどね。
 でも世の中そういう人、けっこういるようなので、念のために。


 うららかな春の日曜日に、何を書いてんですかね私も(笑)

 
 
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ロジックの読み方

 昨夜はBS-TBS「THE 歴史列伝」で明智玉(あけち・たま)、細川ガラシャをとりあげていましたね。

2016年3月25日(金)放送
♯94 戦国キリシタン 細川ガラシャ


 この人の数奇な、あまりにも悲劇的な生涯のお話はご覧の通りで、それはおくとして。
 途中で私が、「あー……それなー…」と、ちょっとげんなりしたのは、例のアレ——神のもとには人は平等である、というアレ、でした。

 どうも一神教とは相性が悪い。出会いからして印象最悪。
 人生最初の出会いは「赤毛のアン」もしくは「ベルサイユのばら」のどちらか——どちらのほうが早かったのかな。
 赤毛のアンでは、神様について疑いを持つな、あれこれ考えさえするな、ということをマリラがいうシーンを読んで子ども心にショックを受けたし。
 ベルばらでは伯爵令嬢のシャルロット嬢が自死したのを家族は隠すのですが、その理由っつーのが「自死した場合は葬式を教会はやらないから」というので衝撃を受けました。

 どちらも、私の元来持っている価値観とは真っ向対立、あんた何言ってんの!? というくらいのもの。
 人は考える葦じゃなかったのか。考えることに人である意味があるのじゃないのか。それをテメエの都合の悪いことをいうかもしれないからものを考えるなとはなにごとか。

 自死というのはいずれにせよたいへんなことで、その方法を選んだ人はすでに十分に苦しんでいるわけですよ。宗教というのはある意味、幸せな人間にはどーでもいいもので、つらい思いをした人を救うことこそ宗教がやるべきことだと思いますが如何。
 それをなんです、「自死するなという言いつけを破ったやつの葬式なんかやらねえよ」というのは。脅迫か懲罰か?

 という具合で、さすがに小学校低学年ではそこまで論理的には考えませんが、当時感じたことを言葉に「翻訳」するなら、そういうことでした。
 もう、一から十までとにかく私とは価値観が違う。
 考え方が絶望的に「合わない」。

 であるにもかかわらず、なにを血迷ったか存じませんが、中学生のときにはこういう人間を入信させようという人と遭遇しちゃいましてねえ。
 最後には大げんかですよ;;

 この「神のもとに平等」という考えも、一見するとたいへんおきれいな教えに見えますが、半歩でいいから足を踏み出せばわかる、とんでもないロジックの「落とし穴」があるんですよね。

 神のもとに平等というのは、この世のありとあらゆる人は平等であるという意味ではない。
 いわば条件付き平等なんですね。
「神のもとに」つまりこの神さまを信じている人間同士には、上下はないよ、ということ。

 その神を奉じない異教徒は、その限りではない。

 そもそも異教徒は人間じゃないわけでね。
(さすがに近代に入ってからはそんなことは建前からは消えましたが)

 このロジックは案外、見落とされがちで——気がついていない人って、今もけっこういるんじゃないですか?

 なにしろ、その同じ神様を奉じているはずなのに、宗派が違うだけで一気にその平等は崩れ去るわけですから、もうね、何をか言わんや、ってことで。(^^;)

 あの超絶しつっこい、そのうえ押し付けがましい入信への勧誘を受けたことは、たぶん軽くPTSDにでもなってんじゃないかと思うほどですが(本当につらかったですよ、あのしつこさは、こちらとしても)、でもまあ、いまから思うと、いい経験はしたんでしょうね。
 一神教と自分との、絶対的な断絶を理解しましたので。

 ただまあ、世の中にはいろんな人がいるわけで、私は怖気(おぞけ)をふるうようなものであっても、玉さんのように、それで魂が救われるという人もいる。それは否定しません。
 
 クリスマスだのバレンタインだの、そりゃ日本人には関係ないだろうとは言いつつも、まあもとはキリスト教とは関係のないお祭りなんだからいいじゃない、といっておりましたら、なんですか最近、じわっとイースター(復活祭)「商戦」、きてるんだそうで(笑)
  
 さすがにイースターはもう、これは本気で異教徒には関係ないだろう? と思うんですが。(^^;)
 もちろんこれも、原型を辿ると、やはりキリスト教以前の民俗上の祭りになりそうではありますが。

 まあ、このいいかげんなところが日本的なのだといえばそのとおりなんで、目くじらをたてるつもりもありませんけども、とうとうイースターもか(笑)と思います。

 誰にとっても、よきものであるように。
 突き詰めれば願うところは、結局はそれだけなんですけどね。
 
  
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山へ洗濯に、川へ芝刈りに



 いわゆる有名人の不倫をしたのしないのというお話はたいてい無視しますが、今回はご本人に、選挙に出るかも、というお話もちらほら聞こえていた状況下だったので、そこで少し気になったのと。
 どうもここんとこ、昔話をあれこれ思い出すことが多くて、で、指を折って数えてみるともうそれなりの年数たってるし、時効だよね! いいよね! という気持ちにもなったので少し。

 なんのことはない、例によって「王様の耳はロバの耳!」というだけなんですが。(^^;)

 これはもう男女差なく聞かされたことで、正直、さしもの私も途中でうんざりしてたんですが、いわゆる浮気ってやつの「理由」に、「寂しかったから」っていうの、どーにかなりませんか。
 これはほんと、性別による有意差は見られませんでした。ただちょっと状況が違うくらいで。
 あれ皆さん本気で言ってんのかなー。いまだに不思議なんだけど。

 誰かとの人間関係がうまくいってないときの、ストレス具合というのはもちろんお察ししますが、私の脳内ではどうしてもリンクしないんですよね、——何某さんと最近うまくいってません、ということと、ほかの誰かで「埋め合わせ」をしようという態度が。

 本当は仲良くしたい人とうまくいかない、というときの、ストレス。「寂しい」感じ。そこまでは理解できます。
 が。
 それをほかの人で埋め合わせる、という発想がわからない。
 可能なわけないでしょそんなこと。

 何某さんという人間はひとりしかいない。その人との関係についてのお悩みを、他人で「代用」できるわけない。
 何某さんとの関係上の寂しさは、その人とのあいだでしか解決しないこと。
 そこで他人を持ってくるのは、結局、ただの逃避でしかない。なんの解決にもならないことをやって、自分も他人もさらに傷つける。

 それを正当化しようとするのはなぜですか。

 なぜ、とは言ってますが、このへんについてはもうそれこそウンザリするほど、言い訳のようなことは聞かされているので、あらためてここで繰り返していただかなくてもけっこうです。というより積極的に断固としてお断りいたします。

 これはもう、全方位的に他人に対して失礼だなあと思うわけです。
「あれはただの浮気だから」
 というのも、正直なところ私を怒らせるだけでしたし。
 その人(浮気相手とされる人)に対してなんつー失礼な! ということで。

 ただ。
 浮気どうたらについては納得できるものではないにしても、「本命」とうまくいかんといって悩んでいる部分だけは責めるわけにもいかないので、「アンタはいったいなんの言い訳をしてるんだ」とは思いつつ、本人たちには指摘せずにきました。
 その寂しさは浮気を正当化する理由にはまったくなってないぞ、とは。

 寂しいというところまではわかるけども、だったらほかに趣味でも始めれば? というのが私の思うところ。

 ようは浮気っつーのをしたいんだろう、と思いました。本人たちには言ったことないですけど。

 本来ならまるっきり「筋違い」の話なのに、まるで、その寂しさがあればあらゆる不誠実な行為は許されると思っている——あるいは「思ってほしい」みたい。

 ということで。

 この奥さんについても、「私にも至らぬ点がありました」というのはけっこうですが、「だからって不倫を認めるわけにはいきませんからね」と念を押したくなりました。(^^;) じっさいにはプライバシーなんで、私が関知するような話ではないのはもちろんですが。
 そのお気持ちは、奥様ご本人のお気持ちということで承りますけれども、だからってねえ——これですべてが「帳消し」になると思ったら大間違い。

 誰かとの人間関係のつまづきが、なぜ、不貞行為を正当化し得ると考えるのか。

 これもまた、わりと世間には多い考え方のようですが、納得は出来かねます。
「あまりにも頭痛がひどいので、川へ芝刈りに行ってきました」
 みたいな話に聞こえるんですよね私の耳には。(^^;)
 まったく辻褄の合わない、アンタなに言ってんの? 正気? というくらい「筋違い」のお話に。

 はー。やれやれ。
 20年来の胸のつかえをちょっと吐き出して、少し気が楽になった気分です(笑)
「王様の耳はロバの耳」話、お付き合いくださった方、ありがとうございます。つまらない話をお聞かせして、申し訳ありません。(^^;)
(ほんとに単に自分の息抜きなんですよこのブログ;;)
 
 
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大事なもの



 以前にも同種の話題を書いたことがあると思いますが(…そりゃ10年もやってればね;;)、これ、よくないと思うんですよね。
「お父さん」に限ったことじゃなくても、「おじさん」の「汚ない」っていうイメージ。 
 一般男性に話を広げるとまた収拾つかなくなりますんで今回はともあれ「お父さんと娘の関係」に限ったところで申しますが。

 思春期を迎えたお嬢さんが、お父さんをむやみに汚ないといって嫌うというのはどうも——反抗期のそれとはちょっと違う気もします。
 親というのはいちばん身近な異性ですから、思春期に異性としての親を意識するようになるのは、発達心理学ではまったく正常なこと。

 一説には(あくまでも一説には)、この時期に、父親に対してなんの嫌悪感も持たないというのは、じつは正常とはちょっと言えない場合もあり、その子の貞操観念の発達という点においては、異性としての親を意識して、嫌悪感を持つくらいでいいんじゃないすか、という見方もあるようです。

 でも、この、洗濯物を親父のといっしょに洗うなとか風呂に先に入るなというのは完全に「汚物」扱いで、これは、発達心理学のいう「正常な嫌悪感」とはまるっきり別物に思えるんですよね。

 私も自分の親にはそりゃーもー、相当なものがありました(反抗期どうこうの問題ではない、けっこう深刻な、家系そのものからの葛藤があるので、そのへんの区別が難しいんですが)。
 それでも、洗濯物を別にしろとか、風呂に(自分より先に)入るなとか、そんなことは思ったことないです。
 ひとつの人格を「汚物」扱いするのって、まともとは思えないんですよね。
 そんなの、思春期どうこうの問題じゃないだろう、と。

 私がいちばん気に入らないのは、いわば、年頃のお嬢さんがお父さんを汚物扱いするのを「当たり前のこと」=社会通念にしている、世間一般の態度です。
 女性はこうあるべきだとか、女はこういう生き物だとか、そういう暴言の数々には私も何度頭にきたかわかりませんが、「娘がお父さんを汚物扱い」も、「そういうもの」として、いわば「常識」として扱われている。

 社会通念というのはやっかいだと、いつも思っております。
 じっさいには犯罪ですらあるものを、当たり前のひとことで認めている。
 そんな馬鹿な話があるか——と、思うことはしょっちゅう。(^^;)

 常識(とされている)だから、それでいいんだ、とは。
 知性のカケラも感じられない、人の怠慢だとしか、私には思えない。

 なんの根拠もなく自分の妄想だけを盾にして他人を傷つけて平気、っていうの、そろそろやめられませんか。

 自分の話に戻しますと、激烈に自分の父親には反抗しまくりでも、へんなふうにアレを汚物扱いする「趣味」はなかったというのは、じつは、母親の影響があったかもしれないと、あとから思ったことがあります。

 テレビ番組を見ている時に、——たぶんワイドショー系だったかと思いますが、そういう、親を汚物扱いする娘というのをおおげさに面白おかしくとりあげていたのですが、うちの母親の放ったセリフは忘れられません。
 そういうお嬢さんは結局、洗濯物は分けろだの、お父さんに風呂を使わせるなだのと、お母さんにいうんですね。(^^;)
 うちの母は、それを聞いてキレたようです。
「自分を何様だと思ってんだ。そんなにいうなら自分の分だけ自分で洗濯して自分で風呂を掃除しろ」
 このへんはもっともなことで、私がちょっと感動したのはこの次。
「汚ない汚ないって、——人の亭主をなんだと思ってんだ」

 そりゃそうだ、と思いました。
 自分の父親ではありますが、「(自分以外の)別の女性の夫」でもあるんですよね、その人は。

 たとえば友人のご夫君をつかまえて汚ないのなんのって言ったら、それはもうアナタ、ぶん殴られたって文句は言えませんよ、ふつう。

 うちの両親がとくに仲のいい夫婦だったとは私には思えませんが、それでもまあ——、いろいろ問題もありましたが、愛情というものは最後まであったと思います。(父はすでに鬼籍に入っております)

 誰かが大事にしている人だと思えば、まあそう失礼なことを言えるものではありませんよね。

 奥さんのことはないがしろにしたり虐待しつつ、娘にはデレデレというお父さんもいらっしゃるようですが、娘に好かれたければ、まずは奥さんを大事になさいませ。これは、娘としての「忠告」です。

 両親は、子供にとってのあらゆることの「原体験」。
 自分の奥さんを痛めつけていながら、ほかの若い女(娘)にはデレデレなんていうのが「男性の原像」になったら………のちのち、悪影響は出てくると思います。はい。

 うちの母には、「子供はいずれは独立して出ていくもの」という意識があったようで(すみませんねいまだに居残っていて)、本来なら、最後まで自分の味方となるのは子供ではなく、伴侶であるはず。

 そんなあたりを、もーちょっと考えてもらいたいなーと。親を汚物扱いするのを「当然」と考える人にも、パートナーの「意味」を忘れている人にも。……生意気言って恐縮ではありますが。

 ゴシップはむしろ嫌いなくらいの私でも、昨日くらいからかな、——ある人の不倫が報じられるのを聞きながら、あらためて、つくづく、考えてしまいました。

 身近にあるものをほど、打ち壊してしまう人間が多いのは、なぜなんでしょうね。
  
 
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ご縁によって線を引く

ベルギー連続爆破は「テロ」、死者34人で日本人2人も負傷 在京大使館に半旗
2016/3/23 10:25  J-CAST ニュース

 ベルギーでまたも連続爆破事件が。
 昨年のパリの事件以後、とくにベルギーは少々危険レベルが高いようでした。それもなんとか対応できたのかと思っていたところでのこの事件。
 被害に遭われました方、そのご家族には、心からお悔やみ、お見舞いを申し上げます。
 負傷なさいましたかたの1日もはやいご回復をお祈りします。

 ……などと言っていると、他地域や、国、あるいは宗教関係の方面からは、「我々はもっとひどい目に遭っているしそれも日常的だ。なのに我々のことは無視して、先進国・ヨーロッパ等であれば『たった』これだけのことでそんなに騒ぐのか」という、非難がかならず飛んで参ります。

 こういうことをいわれると本気で気にして落ち込んでしまうナイーブな方々も数多くおいでのようなので、そのあたりについて少し。

 こちらは神様じゃないんで、現在70億人ともいう、すべての人間について、関心を持つことはできない。
 同じようなことで、ある人については騒ぎ、ある人については無視をする、などというのは、それは「言いがかり」というものです。
(言いがかり→「① 難癖をつけること。また,その難癖」(大辞泉))
(念のため注釈を。(^^;))

 昔の人は何かと言うと「ご縁がある/ない」ということを言っていたような印象があります。見合い話のみならず、「袖振り合うも多生の縁」、ありとあらゆることがご縁。
 近藤麻理恵さんの「片付け」法則のなかにも、「縁」というものが登場しますね。
 自分の身の回りにあるもの、手に触れるものはすべて、「ご縁」というものによってそこに存在する。
 この考え方には無理がないように思うので、私もよく、ご縁があるとかないとか申します。
 元来、人間は、そういうご縁のあったものを「すら」、きっちり大事にできないくらい、だらしのない生き物なんですよね。
 まして本来は関係のないことに関われるほどの能力はない。
 誰にそのことを責める「権利」があるというのでしょう。

 メディアや情報発信の技術が向上したのはいいけれど、どうもいかんなと思うのは、本来の処理能力をはるかに超えたものを、私どもは見聞きしてしまうこと。
 東日本大震災のあと、直接被災していないにもかかわらず、被災者同様の精神的なショックを受ける人が続出してしまったのも、ひとえに、「人間のもつ、処理能力を超えた過剰な情報」のせい。

 人間にはこの世のすべてに関わることは不可能だし、ある意味、それは「やってはならない」ことかもしれません。
 本来人は、自分の持ち場できっちり生きることがもっとも重要なことであるはず。

 でも、世界ではこんなことが、あんなことが起きているのに、放っておいていいのか、と。
 焦れてくる気持ちもわかりますが、もし、そのことについてできることは何もないなら、静かに目を閉じるべきです。

 そこに関わる人たちが、その件については、責任を負って精一杯やっているはず。
 それぞれが、それぞれの持ち場で、それぞれの責務を果たす。
 これができれば世の中、変わるでしょうね。
 いまは、それ「すら」できていないから、このありさまなのだとも言える。

 たぶん、自分が住んでいる町や村のことだけが世界のすべてだった時代は、自分と他人との境界は、曖昧でもやっていけたでしょうが。
 情報過多となり、能力を大きく超えた「世界」が飛び込んでくるようになってしまったいまは、あえて、意識して、「自分と他人との境界線をはっきりさせる」作業が必要になっているのかもしれません。

 世の中のことにひろく関心を持つのはいいことですが。
 遠くにばかり意識を飛ばしてしまい、自分の足元をおろそかにしたり、自分を「壊して」しまっては、身近な人を悲しませるだけではないでしょうか。

 もし見聞きする機会があったならそれもご縁ですから、祈ることができるなら祈ればいい。
 でも、そのために自分の生活をおろそかにしてはならない。

 自分との関わりの程度によって、関心の程度も、できることも、すべきことも変わる。
 本来、「なんの縁もない」ことについてまで、なぜお前はこれを知らないのかと「責める」ほうがどうかしている。そう思います。

 同国人でありながら、遠い外国のできごとに、深く関わる人もあるではないかと言われるかもしれませんが、それはもうそれこそ、その人ご自身のご縁によって、その人はそうするのでしょう。
 同国人としてその人を支援するというご縁にあったなら、できる支援はする。
 そういうことでいいのでは?
 
 自分と他との、境界線を見失わないように。
 そのうえで、祈ることも、寄付行為も、支援も、できることをすればいい。
 感情に振り回されあるいは誰かに責められておろおろして、——自分を見失うことはないように。

 ナイーブって、日本語カタカナ語ではなんとなく、いい意味も含まれてますが(繊細とか純粋とかってイメージで)、本来はこれ、あんまり褒められたことじゃありません。(^^;) 幼稚だとか、すぐおろおろするとか、世間知らずとか、そんな感じ。
(ちなみに、英語じゃなくてフランス語)

 この件についてはそんなにいうのに、こっちのことは無視かよ、という罵言を聞いて思わず動揺し、自分を責めてしまうひとって、「いい人」なんだと思います。お気持ちの優しい方なんですよね。
 でも、それでも、自分の持ち場を放棄しろとそそのかすような言葉を、受け入れてはいけません、と。
 私は申し上げます。

 情報が広く、また大量に流れるようになって日が浅くて、人類もまだまだ、対処法がわかっていないところがあるのかもしれません。
 情報というのも、やりようによっては暴力になる。
 やさしいことは素晴らしいこと。そのことをふくめて、自分の体と心を、まずは守っていただきたい。
 そう思います。
 
 
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ぼたもちとおはぎ

 昨日はアホなことを真面目に書いたのでちょっと疲れました。(^^;)
 今日はのんびり、ほのぼの系でいきたいと思います。

 ということで本日のお題は「ぼたもちとおはぎ」。
 その違いやいかに。

 諸説あってなかなか面白いんですが、いちばん面白いなと思ったのがこちら↓

おはぎとぼたもち、本当の違い
おはぎとぼたもち。お彼岸に食べるのはどっち?同じ食べ物のようですが違いはあるの?そもそも呼び名が違うのは?こしあん?粒あん?4つも別名があるってホント?
AllAbout 暮らし—生活家電
執筆者:橋 道裕さん

 私もかねて聞いていた、その違いとは、
「食べるものとしては同じものだが、春はぼたもち、秋はおはぎという」
 ことですねまずは。

 でも現在ではもう1年中、おはぎ、といって売っている。季節感も何もあったもんじゃない——といいたいところですが、こちらの記事を読んで、もしや? と思ったのは。
 市販のアレのほとんどが「おはぎ」というのは、とにかく小さいから? 
 なかには、私でさえ一口でぱくっといけちゃうぞというくらいの、よくこんなに小さく作れるね?! というほど小さいものが売ってるんだけど、そのせいですか、おはぎって書くのは!
 というのは、上記記事によりますと、

「ぼたもちは、牡丹の花をかたどって丸く大きく豪華に作って、おはぎは、秋の七草の萩の赤紫の花をかたどって小ぶりで長めに丸められて作られたと言われています」


 いまは1年中ちいさいから、それでおはぎなのか! と。
 事実かどうかは存じませんが、ひとまずナットク。

 してみると、私の祖母が作っていたのはみょーに大きくて(逆にあれは大きすぎだと思う;;)、形も正円にも近いくらいでしたから、1年中いつでも「ぼたもち」だったんだろうなあ。

 こしあんとつぶあんについても面白い理由が。

 昔は現在ほど材料の保存方法はなく、また、その能力も高いものとはいえない。
 春彼岸には、収穫後に保存し、冬を越したあずきを使いますが、長期保存&冬越ししたために、小豆の皮は硬くなっている。
 硬い皮のものをそのままつぶあんにしては、食感はいまいちですよね。
 ゆえに、春には、皮を取り除いて作る、手間のかかるこしあんにした、と。

 これは説得力あるな〜。

 もちろん現在は冬を越しても越さなくても、あずきの状態は良好に保てますし、品種改良もされているので、いつでもつぶあんはおいしくできるわけですね。

 あずきを使うのは、「赤」は魔除けの色とされたことと関係がある。これはわかりますね。枕草子にも、お正月の行事のなかに小豆粥(を作るときに使った杖)がでてきますが、あれもやはり縁起を担ぐもの。

 ということで、まあ反対ご意見も出てくるのでしょうがともあれ、こちらの記事は、いままでの疑問が氷解していく内容になってます。

 また、さらには。
 じつは、アレには、春と秋の名前のみならず、夏と冬バージョンがあるって、ご存知でしたか?
 
 私は初めて聞きました。

 夏は「夜船(よふね)」、冬は「北窓(きたまど)」。

 じつは例のアレを作るのには、餅を搗(つ)くわけではないんですね。厳密にはお餅ではないんです。
 餅米とうるち米(日常食べるお米)を半々で炊き、あとは擂粉木(すりこぎ)で、なんとなくまとまりが出るようについていくだけ。
 きっちり餅にするのではなくて、ごはんのつぶつぶが残っている。あの状態を「半殺し」と言います。
 子ども心にも、聞けばどきっとする怖い表現でしたが、餅を「本殺し」、おはぎ/ぼたもちを「半殺し」というのは昔からの言い方であるようです。

半殺しにするか皆殺しにするか
「菓子処みやもとの徒然」様

 ということで、通常の餅つきみたいにおおげさにやることもない。夜船も北窓も「搗きがない」ことと関係した言い方のようです。くわしくは本文をどうぞ。
 夜船も北窓も、ちょっと凝りすぎた名称ですよねえ。(^^;)
 いまいちウケなかったのか、その名称が世の中に広まらなかったのも、うなずけるところ。

 ともあれ。

 いわれてみれば現在市販される多くのアレは、ちいさいし長円形だし、特徴としては「おはぎ」なのは確かなことのようです。

 こしあん、粒あんの、お好み論争も昔からあるようですが、私は、おいしいものならどちらでも♡

 でも、強いて言うなら、豆の香りも食感も楽しめる、つぶあん、つぶしあんのほうが好きは好きですね。

 ということで、華やかに大きめで正円に近くてこしあん仕立てのものをぼたもちという、ということなら、たしかに、昨今、ぼたもちは滅多に見ない、といえるようです。

 おはぎ、といって売っているお菓子屋さんのアレが、小さい長円形なら、お菓子屋さん、間違ってはいない、ってことで。(^^;)

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【ネタバレ】「できそこないの男たち」



 こんな(失言)タイトルですが、べつに世の男性を腐(くさ)すものではないし、へんなふうに女性を称揚っていう本でもないので、そのあたりは、どうぞご安心ください。

 ノンフィクション系の本で「ネタバレ」つーのも珍しいでしょうか。(^^;)

 じっさい、どんでん返しがあるわけではないのですが、でもたぶん、書名から内容を読み始めると「あ。書名の印象とは違う」と思い、そのまま読み進んで純粋に科学のお話で、なるほどなるほどと頷いていたら、最後のエピローグはもう、完全に場外へうっちゃられた、という感じなので。

 私のみるところ、この本のいちばんのポイント、いちばん読むべきところは、そのエピローグにあるので、ここに触れないわけにはいかず、となると、フィクションのそれとは違うけどでもネタバレに含まれると思う……ということで、注意書きをつけました。

 とはいえこの本、初版が2008年の10月で——当時評判をとってすぐ買ったはずなので、私、この本をいったい何年ほったらかしていたのかと思うと忸怩といたします;;
 ネタバレもなにも、とっくに読んだ、という方もけっこういらっしゃるのではないかと。

 世界各地にある神話はいずれも、宇宙創生から話を始めますが、しかしまあ、あの一神教の始まりの話ほど、聞いて呆れるものもありませんね。
 神様はまずは男性をつくり、ついで、彼の肋骨から女性を作ったという。
 生物学はこれがむしろ反対だったことを証明している。
 ——なんて話は、聞いたことがおありかと思いますが。

 45億年ほどの地球の歴史、そこでの生物の発生の歴史を見れば、まずは女性が単性増殖しており、いわば生命は「女系」であること。
「男系」というものは生物の世界には存在せず、ただ、単性増殖だけでは限界がある、遺伝子組み合わせのバリエーションを増やし、「母から娘への遺伝子を、タテ以外の方向へ橋渡しする」のが、本来のオスの役目であること。

 性染色体にはXYがあり、オスはXYである、と学校で教わりましたが、話はそれほど単純ではないこと。
 世の中にはゲノムとしては男性でありながら見た目は女性、あるいはその逆、という人もいるわけですが、そういう人たちの遺伝子の研究から、「具体的に」本来メスであるべきものをオスにかえている、決定的な要素——ZFY遺伝子の「誤認」を経て、「真犯人」SRY遺伝子を突き止めるまでの、科学史が語られます。

 と同時に、ああいう学会というところ、研究の厳しさ、「勝利」する以外には「なにも手にすることがない」世界のお話も展開され、このあたりはサスペンスドラマさながらです。
 冷徹な科学の話が、どうにも人間臭くなるのも面白い。

 ということで。
 科学——生物学においては「生命の基本形は女性」であり、「女系」であり、オスはその遺伝子の橋渡しをすることだけを目的に「急造」された「いきもの」にすぎない。だからその体の造りは不格好であり奇妙な不都合があり、病気になりやすくて短命なのだ、と。
 
 でも。
 ここでミソジニスト(女嫌い)の皆様にはご安心いただきたいのですが、ではなぜ、現在の人間の社会(生物学とは別次元)では、あたかも男性のほうが優位であるようになっているのか、という点について。
 福岡先生の私見とのことではありますが、それは、「女性が欲張りすぎたためだろう」とのことです。

 本来、カマキリのオスのごとくに「消費」されるだけだったものを、あえて永らえさせたのは「欲深い」女性である、という、——いかがでしょう、嬉しいでしょう? こういうお話。

 私としては、なるほどそれもありそうだ、と思って聞きました。
 ただ、いまこうなっている世の中にあり、そんな遠い昔の話を現代に「そのまま」持ち込むのも意味のないことですから、なるほどねえというばかり。

 私が感動したのは、さらにその「向こう側」のお話でした。
 これこそが本書の核心であり肝要、と思います。

 エピローグで提示される「問題」こそが、本当は「核心」で、ここまでのお話はすべて「前振り」にすぎないのではないでしょうか。

 長々と本1冊かけて生殖の仕組みが語られてきましたが、ここまでいっさい触れられなかった最大の問題がここに現れる。終章という、まるでおまけのような場所で。
 目にしたとき、ぞくぞくしましたね。
「この」疑問をとりあげてくださる方があったとは。
 この疑問——、「生殖行為はなぜ、快感と結びついているのか」。

 生物学も脳科学も、この疑問には答えていない。理屈はあるけど答えになってない。

私が知りたいのは、生殖行為が、なぜあの快感と結びついているのか、ということだ。あの快感は、人間が経験できる他のいかなる快感とも異なる。……
 生物学者や脳科学者はいうだろう。それは性的快感をつかさどる神経が特別だからです……
 これもまた答えとはなり得ない。私が知りたいのは、その特別さの理由だから



 なぜ、「こんなもの」に「そんな」麻薬が付属するのかを疑問に思いながら、そんなことは考えたってしょーがない、という気でいたので、思わぬところで「同志」をお見かけしたような気持ちでした。

「それが一体なんであるか皆目見当がつかない事象に対して、科学者が成し得る唯一のアプローチは、ホモローグを探す、ということである。ホモローグとは類似するなにものかという程度の意味である。あの感覚は……何かに似てはいないだろうか」


 示されるのは、ジェットコースターです。(このへんがネタバレですの)
 ジェットコースターで得られる快感の「感覚」はなにかといえば、ようは「加速度」。
 加速度を、私どもは体のどこで、あるいは何で感じているかは不明とのこと。視覚や嗅覚におけるレセプターのようなものはここには存在しない。
 どこで感じ取るかはわかっていないが、でも、たしかに、「加速覚」はある。と。

 加速覚はなぜ快感になるのか、は、また読んでいただくことにして。
 加速の感覚はようは「時間を追い越す」速度の増加を感じることであり、私どもは普段その時間という媒体の中にいるために、時間の「存在」を知覚できない。

 海の中に生まれ、そこで一生を終える魚は、自分が水というもののなかにいることを知覚しない。そういうことですね。

 水の存在を知るには水を飛び出すしかなく、知覚できない時間の存在を知るには、時間を追い越すしかない。


 台湾の南海に位置する蘭嶼(らんしょ)には、ヤミ族と呼ばれる人々が住んでいて、彼らはトビウオを部族の象徴として尊重していた——そんなお話で本書は終わります。

……ほとんどすべての魚は水のなかで一生を過ごします。…魚たちは自分が、水という存在のなかで生きていることに全く気付いていないのです。……自分たちを載せている媒体の存在を認識できないのです。
 ただひとり、水から一気に飛び出すことのできるトビウオだけが、その存在を知っているのです




 知性とは、こういうものなんじゃないかと思いました。

 知覚すらできないものから飛び出して、自分がいる場所を、存在を、知ろう、知りたい、という——存在を知りたい、という強い欲求が、本来は、知性というものではないか、と。


 水中から飛び出したトビウオは、どれほどの快感を得て快哉を叫んでいるでしょう。
 水から飛び出し大気を切りながら。
 
 
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行いはわれにあり評価は他にあり

 本日は春分の日。うちのほうですと、日の出は 5:47、日の入りは 17:56 だそうです。
 昨日も、午後6時で空が薄明るい、というのに感動してました。(^-^)
 あの春のやさしい黄昏の色! 日が沈むとすぐ真っ暗になる冬とはもうぜんぜん違うな、と実感しますね。

       ●

 他人から嫌われることにも「慣れて」おけ、と言われたことがあります。
 ひとさまから嫌われるのはそりゃもちろん気持ちのいいことではありませんし、可能なら避けたいことですが、でも、「誰からも嫌われないということは可能か?」と考えますと、不可能です、という結論にしかなりません。
 なぜかといえば、それは他人の心の中のことだから。

 こちらが勝手にコントロールできることじゃないから。ですね。

 私も自分が好き嫌いが激しいほうなので、あんまり人のことは言えませんし。(^^ゞ 
 好き嫌いが激しいといっても、世の中が好きと嫌いの2色にきっぱり分かれているというタイプではなく、世の中は基本、淡いライトグレーの世界で、そのなかに、ブラックホールのような暗黒と、光と見まごう「白」がある、というタイプ。

 日頃はあんまり極端なことはいわず、ぼーっとしているけれども、一度、好きとか嫌いとか言い出したらもうどうにもならない、わけですね。(^^;)
 本来的にはそう簡単に好きにも嫌いにもならない。
 漠然とした「好意」が広がっていて、ときどき、強烈な白や黒がある。

 勝海舟でしたっけ、他人からの評価、どう思われるかなんてのは他人のことだから、気にしたってしょーがないし、どうにかできることでもない。自分がやることを淡々とやるだけ、というようなことを言っていたのは。
 これはじっさい、そのとおりだと思います。

 ……ああ、これ↓ですね。

行いはわれにあり
 評価は他にあり
 われ関せず

 

 同じ嫌われるのでも、明らかにその人と自分は利益が対立している、という場合はわかるんですが、利害関係も何もない、街でちょっとすれ違っただけの、これ以上はないというくらいの「赤の他人」に、いきなり、アンタの態度が気に入らない、といって猛烈な憎悪をぶつけられるというのは、これはショックですよね。

 こちらが害を与えている、利害関係で対立しているときは、嫌われても、ああそうだよなと思うばかりですが、なんの関係もない人にいきなりそんなことをいわれても、「はあ?」というほうが先で、でもそれゆえに、ショックだったりします。

 ツイッターにはブロックという機能があり、ブロックされたということは、自分は誰かに不快な思いを与えたということだ、と、健気な思いを抱くかたも多いようです。
 じっさい、ブロックされたのがわかると、悲しいですし、それが赤の他人だとなんのことやらさっぱり理由がわからない、ということになります。

 でも、考えてみればこのブロックって平和的な態度ではあるんですよね。
 世の中にはいちいち、自分には関係ないのに正義の味方きどりで暴行を働く人間が数限りなくいるわけで。
 そういうなかにあって、ツイートを見ない、接触しないようにする「だけ」、というのは、平和的ですよ。

 とあるバンドを好きだとつぶやいたらブロックされたという人もある。(^^;)
 それはもうあんまりだと私も思いましたが——でも、利害関係すらない人に「嫌われる」って、つまりはこういうことだよな、とも思います。

 好き嫌いはそれぞれの心のなかのこと。他人からどうこう指図されるようなことではない。
 ある人はそのバンドが嫌いで、嫌いなバンドを好きだなんていう奴は見たくもない、といわれれば、はあさようですか、としか、いいようがないでしょう。

 嫌いなら嫌われてもしょーがない。そうですか、といって、自分は自分の好きに邁進するしかない。

 100人の人間がいれば100とおりの価値観があり、自分の価値観にそぐわないものは、誰だって不快に思うし(思う程度はまた千差万別でしょうが)、誰からも嫌われないなんてことは不可能。

 嫌われて気持ちのいいことなんかひとつもないけれど、だからって、それは避けられることでもない。

 嫌われることを恐れて何もしないなんていうのも、もったいない話ですし。
 嫌われて一人前、くらいに考えていてもいいのかもしれませんね。

 また、嫌われたときにどんな感情を味わうかがわかると、今度は自分が、そう簡単には、なにかや誰かを嫌いにはなれないものですよ。それでいいんじゃないでしょうか。
 
 けっこうな人数からブロックされているとわかるとショックではありますが、でも、逆にいうと、好きと言ってくださるかたはそれ以上に多くいることもわかるわけでして。
 ありがたいこと、と、そちらに気持ちを向けているほうがいいでしょう。

 嫌われることにも慣れておけというのは、もっともな忠告だったんだな、と。
 誰に言われたことかは思い出せないながら(……アタシの脳みそってどうしてこう、……)、なるほどねえ、と思っております。
 
 
 
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ほらふき男爵の精神



 経歴だか学歴だか(……両方か)を詐称していた人がいらしたんだそうで、それで何日か前にはツイッター上もその話題でにぎやかでした。

 そんななか、お見かけしたのが上記のアンケート。

 ツイッターにはアンケート作成機能がついてまして、私は使ったことがありませんが、現在選択肢を4つまで作れるようです。

 詐称と偽証と偽装とでは、言葉はなんとなく似ているし、嘘、という点では共通していますが、実際はそれぞれ異なるものなので、そこは区別して言葉を使ってもらいたいな、と思いつつ。(^^;)

 基本的に匿名でアカウントがとれるツイッターは、まあ、その気になれば「偽装」し放題ではありますね。
 ネカマという言葉もあるし、じっさいの、現実の自分とは異なる人間に、簡単になれる。

 年齢詐称、性別詐称、学歴も詐称。
 殺人を犯しては保険金をせしめ、SNSには、まるでお金持ちであるかのような生活ぶりを投稿していたという人もいましたっけ。

 犯罪にまで手を出すのは論外としても、ネットでは、「現実」は匿名の向こうに隠されている(と思われている)ゆえに、小さな嘘ならいくらでも言えてしまう——というのは確かなこと。

 ということでこのアンケート、最初に見たときは、「ネットでついつい嘘をいってしまう」なかでいちばん多いのは、過去の経歴かな、と予想しておりました。
 〆切、集計結果が出た時間になってあらためて見てみたら、「嘘をついてしまう項目」第1位は幸福度だったので、へー、と思いました。

 じっさいはそうでもないけど、楽しい、幸せな生活を送っている、というふうを装うことが多いてことですね。
 下手に幸せ自慢をするとすぐ「爆発しろ」とわけのわからない呪いをかけられる昨今(じっさい、なんですかねありゃ;;)、むしろ幸せ偽装は避けられているのかと思っていたので、あら意外。

 ちなみに私も「幸福度」で投票しました。

 というのは、やはりツイッターはブログに比べると気楽なものゆえ、誰の目に触れるかはブログ以上にわからないし、親しい人ならわかってくれるような表現も、見ず知らずの人がみればちょっと誤解するだろうなというものもある。

 私とは好き嫌いが決定的に違う、というようなことで嫌われるのは仕方ないですが、使った言葉ひとつで「誤解」され、不快な思いをさせるというのは、私にも不本意。

 ということで、嘘とはいわないまでも、ものごとの深刻さをもうちょっと明るいものに「偽装」したり、情報を省いて軽い印象のものにしたり、ということは割と多いです。

 幸福度を偽装するのは、自分がどうこうよりも、「これを馬鹿正直にそのまま書いたら、なにも知らない人には誤解される」「むしろ現実よりもさらに暗い、深刻な印象を持たれそう」ということに配慮する。そういう意味もあるんじゃないでしょうかね。

 年齢詐称や、恋愛遍歴、あるいは容姿、職業や収入といったところで嘘をつくほうが多いだろうと思っていただけに、じつは幸福度を偽ることが多いとは、ちとビックリ。

 では、幸福度を偽るとしたら、それはどんなことについて、どんな言い方をするかな? と考えるうちに、そんな結論になりました——自分を飾るためというより、ひとさまに不快感を与えない配慮、というのも多いのでは、と。

 見栄っ張り要素がゼロってこともないでしょうけども。(^^;)
 でも、馬鹿正直なことを書いて、ひとさまから、真顔で「大丈夫ですか」と心配されるのも心苦しい。だったら、あんまり読んだ人に負担にならない表現で軽くしておこう、と。
 そんな配慮からくる「嘘」、案外、多いのかも。

 そうだとすれば、嘘もそう悪いもんじゃない、と思うのですが、いかがなもんでしょう。


 子供のころ「ほらふき男爵の冒険」という本が大好きでした。



 あまりにも壮大すぎるお話なので、聞けばすぐに嘘だとわかるけれど、でも楽しいお話なのでついつい引き込まれてしまう。
 その嘘も、誰も傷つけるものではなく、あくまでもひとを笑わせ楽しませるものだったので、大好きでした。

 嘘にもいろんな種類があるものでしょうが、こういう嘘ならいいんじゃないかな。

 あしざまに人様を罵ったり、馬鹿にすることで冷笑しあっては楽しむなんていう、さもしい精神よりはよほどいい。そう思います。

 精神疾患にミュンヒハウゼン症候群というものがあり、このミュンヒハウゼンが「ほら吹き男爵」なんですが、でもこれは、男爵には失礼だと思うなあ。
 ミュンヒハウゼン男爵はむしろその場の人を楽しませるためにおおげさな嘘の「おはなし」をしただけ。
 他人から注目や同情を集めようとして嘘を言ったり、自傷する、その症状とはまったく異なるものです。ネーミングセンスとしてはいまいち。

 どうせつくなら楽しい嘘を。
 そういうことならむしろ歓迎します。(^-^)
 
 
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