感情論
2016年01月31日 (日) | 編集 |
 夏バテという言葉はあるのに、なぜ、寒さでヤラレタ場合の言葉がないのだろう……と考えながら昨日は午後から撃沈されてました。
 野暮用と買い出しを済ませてから倒れたのは根性。

 今日は昨日よりも気温も高めになり、なによりも日差しがあるのがありがたいかぎり。(-人-)
 
         ● 



 従来の伝統主義には逆らうことが多く、と同時にフェミニズムにも苦手意識がある、というのが私の「立ち位置」。
 そういう人間から見てこの話はなかなか興味深いので、ちょっと続きます。

 低用量ピルのときもそうだったけれど、とにかく、人の健康についての問題と、性道徳の話がごっちゃにされるというのが、どうにも理解に苦しみます。
 医療・医学では、人の健康をまず第一の命題にしているはずなんで、その論点から考えるときに、ひとさまの性生活の態度まで心配する義理はないわけですよね本来は。

 衛生・健康の話は倫理道徳とは別次元のこと。
 そういう話をごっちゃにする。
 ここまでくるともうある種の「公私混同」ともいえる。

 低用量ピルは10年以上、わけのわからない寝言を言って話がすすまなかったのに、バイアグラがわずか半年で認可されたときは、それはもう、私も腹を抱えて大笑いしました。
 公私混同だとは思ってきたけどまさかこれほどだったとは! と。
(ここではとても書けないような表現で『彼ら』を罵倒したことを白状しておきます)

ピル(医療と性と政治)(19)
「性の乱れ」を防ぐことに躍起となる権力者たちの習性

李 啓充 医師/作家(在ボストン)
医学書院

 まあ権力者の下半身の事情なんぞはおいておくとして。

 世間様、一般市民でも、「薬を認可すると性病蔓延」などと真顔でいう人たちは、面白いことに、私の見た範囲では、ご自身にいささか認識が甘いところがあるように思います。
 衛生観念が薄い。
 あるいは——これはもうほんとに大きなお世話になって恐縮ですが、ご自身にそういう「願望」が(潜在的にでも)おありなんだろうな、と。
 これも「投影」なんだろうな、と、そういう見方をしています。
 独断と偏見で恐縮です。

 つまり、なんらかの「規制」が解除されれば自分の欲望もしくは願望が暴走する、と、無意識に恐れている人が、「自分がこうなんだから他人もみんな同じだ」という意識でものをいうと、こうなる。と。

 ひとの心理の面白いところで、やっきになって否定したり「怒ったり」することって、じつはその人自身は強い関心があることの、裏返しなんですよね。
 とくに強い願望がなければ抑圧も葛藤も生じない。ゆえに、そんな話を聞いても特別のひっかかりも感じないで「へー」で終わる。

 なんでそんなにこだわるのさ、と驚くような反応を、私も過去、いろんな話題、いろんな人に見てきましたが、——若い頃には、なんでこんな(私から見ればどうでもいい)話に、そんなに激しく感情的になるんだろう、と驚き、意味がわからないから腫れ物に触るようにするしかなかったんですが。

 こちらも年を重ねるうちに、感情的になるのは、それだけのひっかかりがその人にあるからだということが、わかってまいりまして。

 人はそれぞれに、ひっかかりを持っている。
 そういうなかでも性的な話題になると反応がさらに顕著になり、また語られる結論は極端になるようです。
 表立って話をすることが日常では少ない話題だから、なお悪い気がしますね。

 自分が持っている幻想なり思い込みなり「傷」なりが、誰とも共有されない、誰にも話さない、その機会がない——、誰にも話せないまま放置されるうちに、自然治癒どころか、悪化したり、あるいはひどく硬化したりするようです。

 これはつまるところは感情論なので、現実にある事実や論証、あるいは科学上のデータを持ち出して説明しても、理解されることはない。
 感情論では結論が決まっているので、理があるかないかは関係ないから。
「聞く耳を持たない」状態ですね。ようは。


 これは去年あたりから気になって考えていることなんですが。

 感情って、なんなんでしょうね。
 どういう「機能」なんでしょうかこれ。

 感情に流されることを「当然」「不可抗力」と考える人が多いようですが、私にはそうは思えない。
 感情に自分が支配されるのは「本末転倒」ではないでしょうかね。
 感情のままに暴走することが、「当然」だとはどうしても思えないんですよね。

 感情は、なにかを知覚するためのもの。感情が動くことで、自分は自分を知ることになる。
 感情もまた、人が「使う」ものであって、感情に支配されるのは、本来は望ましいことではないのでは?

 だからつって無理に感情を無視したり、抑圧——「押し殺す」のも、かえって病となってこじれていくし。

 なんてことをまた、ちょこっとずつ、つらつら、考えております。(^^;)
 今回の話題も、そのうちのひとつ、ということで。
  
 
 
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逆転の発想ツアー
2016年01月30日 (土) | 編集 |
 今日はもうあまりの寒さにやる気もなにもなく、こちらもおやすみしようかなと思っていたのですが、ちょっと面白いものを見てしまったので這い出てきました(コタツから)。

 これ、真面目に参加者を募っているんですよね。

短命県体験ツアー ~青森県がお前をKILL
http://www.tabisuke-hirosaki.jp/10596.html

こちら、企画元「たびすけ」様の詳細。

▶︎「たびすけとは」企業理念
http://www.tabisuke-hirosaki.jp/campany.html

▶︎よくある質問
http://www.tabisuke-hirosaki.jp/qa.html

 お身体が不自由だからと旅行の楽しみをあきらめないように——バリアフリーというからには、もちろん健常者も参加可能なツアーあれこれ、ということで。
 いいですねえこういうの。
 こういうことが、他でももっと当たり前になればいいな。

 と思いつつ。

 なんにしてもこのツアー企画がすごいなと(笑)
 青森県は平均寿命のランキングでは下の方になってしまうということなんでしょうかね、このタイトルからして。
 医者いらずといわれるリンゴがあるけれど、それ以外にも(健康には)過酷な名物があるよということでしょうか。

「全国一短命」である青森県の津軽地方。
ウマい「食・酒」、凄まじい「豪雪」、そして誇り高い「津軽人」。

そんな彼らなりの「太く短い人生」、あなたも一度体験してみませんか?
※このツアーは、『20代を変える「生き方ナビ」事業』の一環で行われており、
青森県と地元大学生が連携したツアーです。

 

 美味しいものとおいしいお酒があれば、そりゃもうねえ…。(^^;)
 引力絶大、という気がします(笑)

 積雪とさえ言わないくらい、地表が白くなっただけ、それだけでパニックを起こす静岡県民としては、「怖いもの見たさ」という気持ち。
 通常ならネガティブにとらえられるものを、逆手にとって楽しげなツアー企画にしてしまうというのはいいですね。

 いろいろと逆転の発想で、いいな、と思いました。

 個人的には津軽といわれると思い出すのは、初代・高橋竹山さん。
 現在は二代目がご活躍ですが、子どもの頃に初代の演奏を拝見、拝聴したときのあの衝撃を、いまも忘れない。

 音を聞いているだけで、私がじっさいにはみたこともないはずの雪嵐が——目に見えるというより肌に感じられるようで、文字通り、震え上がりました。
 あれはこちらが子どもで、感受性がむき出しだったせいもあるかもしれませんね。

 津軽といえばあの音と「景色」を思い出します。
 初代を拝見できたのは、僥倖というものだった、とそんなふうに思っております。
 
  

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こわれたもの(改訂)
2016年01月29日 (金) | 編集 |
 母親の交際相手の男性が3歳の子供を殺したというニュースがありまして。
 そんなニュースを聞くと、「他人の子を殺すのは本能」みたいなご意見はよく出てくる。
 でもそれは、勝手なイメージに過ぎず、実態とは異なるようです。

厚生労働省 子ども虐待による死亡事例等の検証結果等について
(第10次報告)平成26年9月(PDF)


統計データ | 子ども虐待について——オレンジリボン運動
http://www.orangeribbon.jp/about/child/data.php

 虐待死亡例の主な加害者としては、「母親の交際相手」などはむしろレアケースということがわかります。(母数がどうたらって問題じゃない)
 実の親の交際相手、再婚相手はおおむね、その子どもを(自分の子ではないゆえに)虐待するものだ、というイメージは、実態にはそぐわない。

 そういう勝手なイメージであるにもかかわらず、それがさも「常識」であるかのように語られ、それが世の中に拡散され、さらに「常識」として強化されていく。
 これは、よろしくございません。
 なぜというに、それは偏見というものを助長する役割しか果たさないからです。

 こういう話のときとか、あるいは浮気を正当化したいときに、ことに「本能」というものが引き合いに出されるようですが。
 いまの人類——とくに近代国家に住んでいる人類に、ある意味「まともな」本能なんかもうほとんどないだろうと思ってますので、「都合のいいときだけ本能を持ち出すな」というのが、私の正直な感想。(^^;)

 周囲をものすごい速度で鉄の塊が走り回っているのに、イヤフォンをして音楽聞いて(つまり自分の知覚を遮断して)平気で歩いている人類にはもう、生物としての本能なんかないだろ。と思ってます。
「自然」というものから切り離されてしまった生物に、それ以前の環境にいたときと同じ本能とやらが機能する余地は、ほぼありますまい。
 それなのに、こんなときだけとーとつに本能のせいにするのかよ、と思うと、なんとなく気分が悪い。

 もう本能なんか壊れている人類は、相手が誰だろうと血縁があろうとなかろうと、殺す奴は殺す。それだけのことだろうと思いますね。

 なんにしても。
 これ、以前にもちょこっと申しましたが。
 こんな事件を防ぐにはどうしたらいいかって——、私はもう「子供を捨てる権利を認める」しかないんだろうと思ってます。

 俗に毒親といわれるような親、ああいう「親」なんてもんは、子供はどんどん捨てていっていい、むしろ積極的にあんな毒親は捨てるべきだ、ということが、ようやく最近、ひとつの声になってきたように思いますが。
 その毒親にも、子供を捨てていいんだと言ってやれ。
 そう思います。

 こういうことをいうと、古典的な家族の価値とやらを持ち出して「怒る」人たちがいますが。
 麗しい家族愛。けっこうですね。私もそれはすばらしいと思うし、大事にしたいとは思いますよ。

 でも、現実は理想とは違う。
 現実には、いないほうがマシな家族によって命さえ奪われる人がいるわけですよ。
 この現実の前に、そんな「あるべき」論なんかに、なんの意味があるのか。

 うっかり人の親となってしまったが、こんなのやめたい、という人がいるなら、認めてやれ。と思います。
 親はなくても子は育つ。殺されるよりよほどいい。
 状況はそれほど切迫しているということでしょう。本能がぶっ壊れた人間の状況は。

 ただ、そういいながら私が少し不気味に思うのは、こういう、こどもを虐待して殺す人のなかには、意外とこどもに執着する人がいる、ということ。
 そうも「邪魔な」子どもなら、たとえば施設側が預かるとなればせいせいするでしょうに、わざわざ、「改心しました」というふりをしてまで子供を引き取ってくる人、けっこういますよね。

 児相がわが、そうなのかと思って子供を渡すと、数日内に殺されてしまう。
 そういうケースがかなりあるのが、私には、逆に、不気味に思えます。
 あれはどういう心理なんでしょうね——殺すために子供を引き取りたいのか? なぜそうまでして殺したいんだろう?

 日本は家族神話が強すぎるし、法律においては親権が強すぎる。
 子は親を、親は子を捨てていい——そういうことをもっと打ち出すべきじゃないんだろうか。
 
 こういった虐待による殺人を防ぐにはどうしたらいいのか、と考えているとどうしても、そんな結論に辿り着いてしまいます。

 実現不可能な理想論にしがみつき、人を殺す——それが現在の「世間の常識」のありようじゃないかと疑ってます。
 彼らにとっては人命よりも、その理想論、従来の価値観のほうが大事だってことですよね。
 ほんとうの殺人者は、勝手な理想論を他人に押し付け、かつ自分は何もしようとしない「世間様」じゃないのか?

 私だってこんなアホなことはいいたかありませんけど、——子供を捨てる権利を認めてやれなんて——でも、私は、理想論より、子供一人、助けるほうが大事だと考えます。
 それが必要なことなら。
 殺す前に、子どもを捨てていってほしい。

 ………そんなことまで言わなければならない。
 それがいまの現実ではある。
 そう思います。
 
 
(当初、引用していたツイートが削除されたので、一部を書き直しました)
(主題・内容に変更はありません)
 
 
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道具の使い方
2016年01月28日 (木) | 編集 |
 ツイッター使用においてもマイペースなので、アルファツイッタラーというような方々をほとんど認知せず、人気アカウントにもとくに注意を払わないので、私はぜんぜん存じませんでした——その、「Copy writing」さんにつきましては。(^^;)

パクツイで人気を得た「Copy writing」がインタビューを受け炎上 フォロワー数が激減する事態に
インタビュー記事はアクセス過多により一時ダウンしました。

2016年01月27日 22時38分 更新 「ねとらぼ」様


 名言などをツイートする、botアカウント…ということでいいのでしょうか。

 で、名言を集めてくるわけなので、基本、「他人のツイート、発言」だと思いますが、パクツイ——パクリ(盗用)ツイートがかなりある、とのことで。
 
 パクリツイートで自分がフォロワーを増やしていくというようなアカウントはそれはもう山のようにあるようですね。
 パクツイというのは私には不思議なこと、理解不能なことで——これいいなと思ったんならリツイートすればいいのに、なぜ、さも自分の手柄のような顔をするのだろう、ということは、以前にも書きました。

 私の目には自己顕示欲としか見えないのですが……ちょっと不思議。

 今回思ったのは、「パクツイ垢」だとは知らなかった人たちが離れていったというあたり。
 私も経験ありますがじっさい——わかりませんよねえ、あれ。とくにツイッターを始めたばかりの頃は右も左も分からない状態で、まさか盗用専門の垢があるとは考えもしない。

 面白いな、いいなとおもっていたアカウントさんが、いわば「窃盗の常習犯」だというのは、そりゃもうがっかりですし、ちゃんと自分の言葉で発信していた、オリジナルの方に、申し訳ない気持ちになるし。

 けれどもそれがパクツイかどうかは、見ただけではわかりませんからねえ。
 どうにかならないかな、と思うけど——技術的に対応できることでもなさそうです。

 で、なぜかオリジナルさんより、パクツイ垢のほうがフォロワー数も多い、という場合もけっこうあったりして、なんで? と思いますが、このへんはもう、「営業努力」の違いでしょうか。(^^;)
 ふつーにツイートしている人と、明らかに目標値を持って「営業」する人とでは違いが出てくるのは致し方のないところでしょうね。
 パクリ垢のほうがオリジナルさんより有名、というその現象に納得はしませんが。

 ともあれ、今回その、「青春基地」さんのインタビュー記事を拝見しましたが、なかなか面白かった。
 言っていることの、たったひとつにも、私は賛成も共感もありません。その語義の、「ただしい」定義を知らないのにこういうことを言ってはいけませんが、でも読んでいるあいだずっと、脳内では「中2病」という文字が点滅し続けていたという面白さ。

 でも10代のときってこんな感覚あったよなーと、昔日の自分を思い出すと、どうにもくすぐったい笑いがこみあげてきて、なつかしくさえ感じました(笑)

 言葉か〜。
 私もその言葉を自分のよって立つものとしていますが、でもその一方で、言葉の正体の虚しいことも、忘れたことはありません。

 言葉は言葉自体に(音としての)力があるのも否定はしませんがそれはじっさいには微々たるもので——言葉の音に力を与えるのはじっさいには、それを口にする、「人の声」のほうが重要だし。

 言葉はイメージや概念が、その「正体」と言えると思いますが、そのイメージや概念を理解しない場合(つまり、その言葉はその人には外国語である、などの場合)言葉はその力を発揮しようもないわけです。

 共通の認識があることや、自分自身にどこまで強いイメージと理解があるか。
 言葉は道具であり、言葉に力があるようにできるのは、言葉を使う人間次第。

 言葉の音に力を与えるのは人の声だというのは、「言挙げ(ことあげ)」がいかに大事なことかを考えるとわかること。

 言葉は——すばらしい「道具」ではあるでしょうが、それを生かすも殺すも、使う人間次第。

 言葉の力を自分が利用しよう、というのは、発想としては「順序が逆」だと思います。
 自分が持っているものをいかに高め、強め、広めていくか、そのための道具が言葉。
 道具は人が使うもの。人が道具に使われてはいけません。

 まあなんにしろ。
 興味深く、面白いお話でした。

 でも、パクリ被害に遭った方々には面白いどころではないですよね;; それはお察しいたします。

  
 
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モーニングアフターピルについて
2016年01月27日 (水) | 編集 |
実はこんなにリスキーだった!アフターピル体験談【前編】
http://www.men-joy.jp/archives/23306
実はこんなにリスキーだった!アフターピル体験談【後編】
http://www.men-joy.jp/archives/23346

 たしかタビトラ先生(https://twitter.com/tabitora1013)も以前ツイートしてらしたと思うけどなと思いつつ、なかなか見つかりそうもないので、——2011年の記事ですが、ご参考までに。

 モーニングアフターピルについての記事ですね。

 日本ではこれは現在、保険適用外、すべて自己負担となります。

 緊急避妊薬ではありますがその効果は100%ではありませんし、ご一読いただければわかるように、副作用もあり、大量出血もありえます。
 子宮内膜を無理に剥がすわけですから、体に負担がゼロということはあり得ません。

 文字通りこれは「緊急」の対処法でしかない。
 これがあるから安易なことをやりまくっていいということにはなりません。

 であるにもかかわらず、きちんとした知識が広報されないせいもあり、モーニングアフターピルなんていうとニヤニヤする奴が老若男女の別を問わずいる、というのが、もうどーにも癇に障ってしまいまして。

 あんまりこういう露骨な話はしたくないなというのが私の本音なんですが、意外とそういう話ができる人がいないようなんですよねえ……。なんでですかね。
 AIDSがその知名度をあげていった(?)ときも、世間様の無理解と誤解と、それの放置っぷりにはブチ切れそうになったことあるし。
 
 AIDSもそうだし、強姦の被害も、遭うことがないとは誰にも言えないことですから、自分や身近な人の身を守る、ひとつの知識として、緊急避妊薬について「正しく」知っておくべきものと思います。

 ……話はちょっとズレますが、強姦被害にはいわゆるデートレイプを含めてお考えくださいませ。
 どうも日本ではこのへん男目線の論理が強いんだよなあ……。
 男目線の論理だから殿方がいうことだろうとお考えかもしれませんが、そうでもないんですよ。女性でもけっこう多いですよ、こういう考え方に「従順」な人。

 男女差別は、女性が女性をその論理で差別する方が悪質かつ深刻だと思ってます。

 上記記事にもあるけれど、夫婦間といえども、これはレイプだろうと私は思いましたよ。
 この犯罪、加害者はじつは、被害者の顔見知り以上の関係の人が多いんですよね。

 私がイラっときたのは、「どうせこれがあるじゃん」といって安易にヤリまくって性病蔓延する、という、ものすごい偏見(でも典型的)を聞いてしまったから。(^^;)

 その副作用の危険性からすればこれはあくまでも処方薬(薬事法での正式名称は「処方せん医薬品」)で、マツキヨあたりで売られるようなものではそもそもありません。
 諸事情を鑑みれば保険適用とすべきものではあるでしょうが、市販薬にはなり得ない。
 なぜこのあたりがごっちゃにされているのかが私にはわかりません。

 どうもそのへんが、とんでもなく誤解されているようで、——安易に考えているのはこのかたご自身じゃないか、ということになりますが;;

 なんでアタシが真顔でこんなことを書かなきゃいけないんでしょう? と、——いえべつに誰に頼まれているわけでもないから書く「義務」はありませんが、でも、あんまりひどい蒙昧ぶりばかりを見てしまうと、たまに、なにかがブッツリ切れてしまうようです。(^^;)
 人間が練れていません(笑)

 ともあれ。
 モーニングアフターピルが保険適用となれば、モラル低下して性病蔓延、というものすっっごい偏見については。
 なんとなく既視感があるぞと思ったらあれだ——、身近なところで同性愛の人がいると、自分もその人に襲われるんじゃないかと「不安」に思う、というあの感覚だ。

 まったくもって、アホかとしかいいようがないんですが、……こういう論理の飛躍が私にはナゾでしょーがない。
 偏見があるからこういう、理屈も道理もぶっちぎりになるのか、それとも、ある程度の論理性を持たないから偏見を生むのか。

 ナゾです……かなり本気で。
 
 
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生霊バスターズ
2016年01月26日 (火) | 編集 |
 自動書記ということではないんですが、たまに、なんでこんなことを書いてんだろうアタシ? と思うことがありまして。
 ふとした考えを思いつく——というより、ぽっかり脳内に浮かび上がり、え、いや、でもこんなこと書いても嫌がられるだけなんじゃ? と思いつつも「なんとなく」書いておく、という。

 自動書記というのは完全にオカルトの話になるでしょうが、そこまでではない。
 先日も、我ながら珍しい行動をとってるなあと思っていたら、それで正解だったという現象についてお話ししましたが。
 なにしろ直感勝負で生きてますんで、オカルト、霊現象とまではいわないけど、ちょっと通常の理屈ではないことを言ったりしていたりします。

 今日もそんなふうに、思いついたら頭から離れないことがあるので書きますが——オカルトとか、なんだかアヤシゲな話は嫌いという方には絶対的に「向いていない」話になりますので、そういう方には、本日はこれにて失礼を。m(_ _)m

        ●

 だいぶむかーしに聞いた、とあるビジネスパーソンのお話。
 夜中になると原因不明の咳の発作がでるようになって困っている、と。
 
 喘息発作ともちがう、たんに咳ではありますが、でも、それだって眠れませんよね。
 それが1ヶ月も毎晩続いては、当然、体調もよくない。

 病院へ行ったけれども異常無し。咳止めの薬は効果はない。
 夜眠れないというのは拷問にも等しいこと。
 このままでは仕事も辞めざるを得ない——というところまできて、まあご本人には不本意だったかもしれませんが、俗に言う霊能者みたいな人のところへいったそうで。

 まずは占いでみてもらうと、生霊(いきりょう)があるとのこと。
 人に恨まれるような覚えはないのでまさかと思った——というのは、無理もないことですね。
「呪詛(じゅそ)打ち返しの法を使います。数日うちには、だれがあなたを恨んでいるかがわかるでしょうが、なにも言わないでください。その人のことを怒ったり恨んだりもしないでください」
 と厳重に言い渡されたとか。

 たしかに以来、ぴたりと咳は止まったので、よかったなあ、と思いつつ、そうなりますと人間、現金なもので、生霊なんて嘘だったんじゃないかと思えてきた、という。
 とある同僚が急に退職した、と聞いたのはその1ヶ月ほどあとのこと。
 急に肺を病んで、仕事をやめることになった、と。

 数日内にだれが自分を恨んでいたかはわかるが、なにも言うな——と言われていたのを思い出した。

 じっさいのところはだれにもわかりませんが——、その人に恨まれていたとすれば、昇進に関係することだっただろう、と。
 でも昇進が決まったときはニコニコしてお祝いを言ってくれたし、そんな——恨みか妬みか、そんな感情を持っていたなんて思いもしなかった、と。

 オカルトちっくなお話ですが、聞くべきポイントはふたつあると思っております。

 人の妬みというのはどこで買うかわからない。
 生霊まで出てくるというのもそうしょっちゅうあることじゃないでしょうが、生霊って、でも本人にもコントロールできない、本人も自覚がない、とも聞きますしね。
 そう思うと、ご本人にもお気の毒なことですが。

 で、こちらがより重大な話だと思うのですが——、誰かに恨まれたり理不尽に呪われても、相手のことを同じように恨んだりするなと。

 これは倫理道徳の話じゃなく、自分のためです。

 結局、どこでどう人から恨まれたり妬まれたりするかはわからないし、身を慎むにしたって限度はある。
 恨みがましい人というのは、よくもそんなことで人を恨めるね、と感心するほどもうなんでもかんでも恨みの材料にしますから、つきあいきれない。

 そういうものを、いちいち相手にするな、ということ。

 相手が負の感情を理不尽にもぶつけてくれば、まずは驚き、次には腹も立ちますが、でも、そこで、相手と同じ気持ちを返してはいけない。
 それをやると、相手の土俵に上がったことになります。

 逆恨みの感情を向けられても、そんなものは気にしないで、さらりさらりと「流して」いけば、そんな影響は受けない。
 相手に対して怒ったり、身構えたり、攻撃しようとしたりすれば、「同じレベル」になる。

 ラジオの電波がいかにとんでいようとも、自分がチューナーでもって周波数を合わせない限り、ラジオ番組は聞こえません。
 そういうことで。

 人と感情的にぶつかりそうになったとき、さらりさらりといくのは胆力(たんりょく)がいることですが、でも、自分の身を守るには、これがいちばん。
 殴られたら、正当防衛の範囲なら殴り返してもいいですが、でも、恨まない怒らない。相手にしない。
 繰り返します。——相手にしない。
 
 これはほんっっっとに、大事なことだ、と思って心に留めてきたことでした。
 実行はなかなかできてませんが、ま、昔よりは。(^^;)
 
 自分でもなんでこんな話を急に思い出して、しかも、書いておこうと思ったかは謎ですが、——今日のところは、そんなお話でした。

(話のポイントは自分の身の処し方についてであり、オカルトっぽい話は「背景」に過ぎません)
(が、背景ばっかりに気をとられる人のなんと多いことか)
 
 
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ツマラナイ話
2016年01月25日 (月) | 編集 |
 まあいちおう相撲好きではあるし、言及しないのも義理が果たせないかな(……なんについての義理だか;;)と思いましたので。

大相撲初場所 豊ノ島に殊勲賞 正代に敢闘賞
2016年1月24日 16時35分 NHKニュース

 もうちょっと体があって(=体格に恵まれていて)、怪我がなければ大関は間違いないのに、と思うお関取は何人かいますが、豊ノ島関もそのうちのお一人。
 今場所は優勝争いにもからんでの三賞、殊勲賞受賞ということで、おめでとうございます。(^^)

 ということで、平成28年の初場所は、大関・琴奨菊関の優勝でした、おめでとうございます。

 とか言いながら、どうも気乗りしない顔をしているのは、あの馬鹿騒ぎのせいです。
「10年ぶりの日本出身力士の優勝」
 ですとさ。

 なんだか微妙な表現してんなぁと思ったんですが、ここまでの間に、旭天鵬(きょくてんほう)関が優勝しているんですね。
 彼は出身はモンゴルで、現在は日本国籍を取得しているので日本人です。
 彼がいるので、「日本人力士」ではなく「日本出身力士」という言い方をしているんだそうで。

 あーもーけったくそ悪い。

 そんなに日本人力士の優勝が見たければ外国出身の人を弟子に取らなきゃいいでしょうよ。
 もはや日本人自身だってなじみのない、ありていにいえば嫌う、古色蒼然たる「伝統芸能」の世界に入って「力士」となっている人に、いったいなんの文句があると言うのでしょうか。

 私はもともと、相撲の国際化なんてものには反対でしたし、現在も、ある意味ではそのままです。
 柔道のあの惨状をご覧なさい、てんですよ。
 相撲もあんな悲惨なありさまになることを、私は希望いたしません。

 外国出身の力士たちが、おのおのの出身国の文化や宗教を持ち込み、相撲という「日本の伝統芸能」を(結果的に)破壊するのなら反対ですが、少なくとも現状はそうではない。
 彼らには理不尽と不条理のかたまりでしかないはずの異文化に、それでも、そのまま従って力士を務めているのではありませんか。
 その努力には、頭が下がる思いです。

 そうである以上は私はその国籍は問う気はありませんし、問うことになんの意味も見いだすことができません。

 じっさい、日本出身力士の優勝とやらに、あんな馬鹿騒ぎをするような、どんな重要な重大な意味があるのかがぜんぜんわかんないんですよ。
 騒いでいる人、どなたでもけっこうですから、その重要な意味を私の頭でも理解できるように理路整然と解説していただきたい。
 意味がわからないので、私としててはただ、けったくそ悪い、と吐き捨てるばかり。そういうわけで昨日は表彰式も見ていません。

 こうなりますと琴奨菊関には申し訳のないことで——初優勝、ということの重大であることを思えば、相撲ファンとしては表彰式ボイコットみたいになっているのは、申し訳のないことではあります。
 ご本人にはおめでとうございますと申し上げたい。

 でもですね。
 今場所、もういちいち言いませんけど、あやしい審判が多くてですね。

 あれほど八百長相撲の話で痛い目にあったのに、少し人気が回復してくるとすぐこれだ。
 この増上慢。
 またそのうち不祥事をしでかして鼻っ柱をへし折られるんだろうなと思うともうねー……。
 なんとも言いようがありません私には。

 私は白鵬関は立派な大横綱だと思いますし、今場所はどうにも体調が気がかりです。
 貴乃花が以前、とんでもなく「らしくない」相撲になったことがあり、いぶかっていたら、場所が終わってから、じつは40度の熱があったとわかり——下手すりゃ死ぬよ! と、慄然としたことがありますが、それを思い出します。心配してます個人的には。
 
 私は自分では自分を、ツマラナイほどの保守派だと思うところがあるのですが、こういう話になるともう、日本人とも話が合わなくなるというのはどうしたことかと想いますね。まったく。
 
 
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双方向性
2016年01月24日 (日) | 編集 |



「妊婦のお腹」ってなんのことかと申しますと、まったく見ず知らずの他人でも、なぜか妊婦さんのお腹は勝手に触っていいと思っている奴がいる、というお話。
 通常であれば赤の他人の体に——まして腹部に触るなんてのはあり得ないことなのに、「赤ちゃん可愛い❤︎」であれば、もう何をしてもいいと思っているらしくて平気で勝手に、ひどいときには断りもなく触ってくる馬鹿がいる。その関係からのツイートです。
 ある話題についてのツイートのやりとりのうちの一つということを、あらかじめお断りいたします。

 ブログ内に表示するにあたり、「元ツイートを含」めて表示というのも選べるんですが、それをやっちゃうとこの場合は、長い巻物みたいになるのであきらめました;;

 さても。
 殺人事件の裁判などでも、よく聞かされるのは「殺すつもりはなかった」という言葉。
 つもりがあろうがなかろうが知ったことかい。本来、法律のもとで問われるのは、「やったことに対する責任」でしかない。
 つもりがあったかなかったかを聞いているんじゃない。
 やったかやらなかったかを問うている。

 ……あれは不思議な裁判の慣行ですよねえ。
 あの悪習慣はいったいどこから始まったんでしょう?

 殺人事件とまではいかなくても、ひとさまとちょっと摩擦が起きたときに、悪気はなかったとか、よかれと思ってとか、そんな言い方をする人も少なからずいますね。

 私も、悪意があろうがなかろうが、人さまを傷つけるような発言は許されるものではない、と言ってきまして、で、なぜかそう言うたびにいやーな顔をされるという。(^^;)
 言われたほうにしてみれば、悪意がなくたってヒドイ発言てのはもう十分の悪意でね。
 つもりがなくたって同じことです。
 
 というより——これはまたうちの身内の話になりますが、「悪意がない? なお悪いわ!」というケースもございます。
 悪意もなくさらっと人を傷つける、そういうことをごくごく自然にやれるって、あんたそりゃもう人間じゃないよ。
 これほどのことをしたり言ったりしていて、なんの良心の呵責もないのなら、それはもうサイコパスだろう、ということになる。
 悪意がない場合、かえって悪い、ってこともあるんですよね。(^^;)

 うえのツイートでなるほどと思ったのは、コミュニケーションにおいては善意・悪意の有無が問題ではなく——つまりそれは「自分の事情」なんですが、それよりここで問題になっているのは「相手の事情・心情」である、ということ。

 大怪我をして血を流している人が目の前にいるのに、そんなつもりはなかった、といって、救急車も呼ばないし手当てもしないし、ただ、私が悪いんじゃないよ、そんなつもりじゃない、——と言っている人間をご想像いただければよろしいかと。

 コミュニケーションは双方のやりとり。
 自分の都合だけを相手に押し付けるのでは、「やりとり」にならない。

 自分は悪くないそんなつもりじゃないと言い張り、怪我人を気遣うそぶりすら見せない人がもっとも理解していないのは、ここなんだなあ、なるほど——と思いました。

 だからといってもちろん、相手の顔色をうかがってばかりいるのも、「やりとり」にはなりませんよね。
 相手の意思を探り、相手のいいように「のみ」いようとするというのも、これは、おべんちゃらというのか、阿(おもね)りというのか——そんなことにしかならない。

 コミュニケーションは、双方向。
 相手の意向を汲むことも必要だし、だからといって自分の気持ちを踏みつけにしてはならないし。

 自分の意思を伝え、相手の気持ちを聞く。
 
 これがどちらかだけでは、やはり、摩擦になっていってしまうんでしょう。
 
 自分の意思や考えを伝えるときにも、ちょっとしたコツがあるんでしょうね。
 それを聞いたとき相手がどう思うかある程度は考えながら、「伝える」コツ。
 それを言い表していると思うのが、
「丸い卵も切りようで四角。ものは言いようで角(かど)が立つ」
 
 これは私の「行動指針」かもしれません(笑)

 同じことを言うにしても、どう伝えるか。どんな言い方をするか、声の調子は、顔の表情は、しぐさは?
 その選び方ひとつでずいぶん様相は変わる。

 私は本来的にはあんまり空気を読む気はなく、気になったものがあれば他人をほったらかして、そちらへそのまま走っていくようなところがあるので、「人がどう思うか」に対する配慮に欠けているところがあります。
 でもさすがに、それではいかんな、という経験もしてまいりまして、卵、卵、と呪文みたいに唱えるようになりました。(^^;)

 難しいなと思うのは。
 自分と他人のバランスをとること。

 ひとさまのことを思い遣れ、というのは世間ではよく言われることで、それはその通り。
 双方向ですから、もうひとつの方向がありまして。
 自分さえ我慢していればいいんだ、それで皆んなが平和なら自分さえ我慢すれば——と思いがちのタイプにとっては、「自分のことも思いやる」というのが、なかなか困難であること。

 人を見て法を説けと申しますが、コミュニケーションの双方向のバランスをとるために、その人にはどんな心がけが必要かは、人によってだいぶ違うな、と感じます。

 上記ツイートで問題になる、「赤の他人の腹を勝手に触る」人は、その行動の異常さにまず気づけ、ってことですし。
 赤の他人にさわられるのがいやなら(まあふつーは嫌ですわね)、泣き寝入りせず、また、相手が「善意」だといっても、それはそれで受け取りつつも、やってることは悪意的なんですから、ちゃんと「伝える」こと。

 まあ、世の中、へんなことで逆ギレするキチガイも多いですから、そのへん、考えてしまう気持ちもわかりますが。(^^;)

 でも、「双方向」は本来はそういうもの——悪意善意はおいといて、自分の気持ちと相手の気持ちの、バランスをとること——なんだろうなと。
 あらためて気づかされたツイートでした。
  
 
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のんびり雑談
2016年01月23日 (土) | 編集 |
 どうもここんとこ、真顔で書くことが多かった気がするので、今日あたりはのんびり、気楽にいきたい感じ。
 寝坊して、いつもより丁寧にコーヒー入れて、ゆっくり飲んでいる。そんな感じで。


 考えてみると年明けからずーっと用事も立て込んでドタバタしていて、今日はようやく一息ついている感じです。
 雪が降った日はヒマでしたが、あれは逆に、自分もまた用を足せなかったんですよねー。ヒマとゆっくりするとは違う。(^^;)

        ●
 


 今週いちばんのヒット。
 槇原敬之さんの「どんなときも。」の歌詞に、駅名を合わせているという。
 母音がちゃんと揃っているってところがすごい。どうしてこんなに駅名をさらっと揃えられるんでしょう?
 
 また、歌もお上手でびっくりでした。槇原さんの声にちゃんと似ている(笑)

 もとのツイートはシンプルに歌のみでした。↓



 これだけでも、わーすごい! と思いましたが、こちらに「カラオケ音源とmixしてお渡ししたい」というリプがあり、へえすごいなと思っていたらうえのツイートの「作品」に仕上がったということで。

 世の中にはすごい人が大勢いるんだなあ、しかもさりげなく。——という場面に立ち会えるのは、これはネットなりSNSなりの面白さですね。

        ●

 せっかく呑気な休みの日になっているのに実は今日は、また、真顔で書きかけていたことがありまして。
 ツイッターで、代理母についてのご意見が両論併記なみに、ざーっと流れてきまして、思わずこちらも真顔になりました。

 それについての私見はとにかく。
 そのいろいろなツイートを見ながら思ったのは「ツイート1万字っていいかもしれない」でした。

 ふだんはべつに、用はありませんが——こうやって入り組んだ話になりますと、ツイートぶつ切りはやはり読みにくい。

 不思議なもんですね。ブログで長々書くにしたって、段落は分けるし改行するしで、読みやすいようにブロックにしながら書いていくわけです。
 140文字のツイートというのも、文字数で区切ってブロックにする、それを積み上げていくようなもんですよね。
 であるならば、ツイート連投だって、ブログでブロックわけだって似たようなもの。のはず。
 ……そうは思うんですけど、やはり読みにくい。(^^;)

 一連のツイートを読もうと思うととりあえず、下のほうから読んでいかないといけませんが、この作業が意外と「脳に逆らう」感じで、スムーズに感じない。
 で、できるだけ140文字に収めようというのは同じですから、1ツイートが文字でぎっちぎちなことが多く、読みやすいとは言いがたい。

 なにかあったときには「A4ペラいち」(A4サイズの紙1枚)ですっと目に入るくらいに整理するのが望ましいと思っているんですが、そういう感覚ですと、やはりツイートの小間切り落としの山、というのは、なんとなく、頭に内容が入って来にくい気がする。

 長文を書くならブログに書いてもらったほうがいいなあ、と思いました。
 が、いちいちブログとツイッターと、両方の垢とれというのも現実的ではないので——であるならば、メロスが行って帰ってディオニス王が改心さえしちゃうという、1ツイート=1万文字の「書式」がいいだろうなと。

 日常のつぶやきなら140文字でいい。でも、ちょっとじっくり話したいということもあるでしょうし、そういうときは、小間切り落としみたいにならないほうが適切でしょう。
 途中のツイートだけがRTされてあらぬ「誤解」をされることも減るでしょうし。

「一万字になるかも」という、まだ決定ではないらしい話を聞いてからあれこれ考えていたのですが、決めました。
 わたくし、ツイート1万文字、支持いたします。
 
 
 
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タダほど高いものはない
2016年01月22日 (金) | 編集 |
 疑わしきは被告人の有利に。
 ——それはそうなんだけど、でも、…と、もやもやしています。
 とあるSNSサービス、ならびにそのアプリの話なんですが。

 そのSNSアプリを使った「会話」が逐一「盗聴され」ては「流出」しているこの現状なのに、そのアプリ自体に問題ありという認識を見せるところがないのはなぜなんでしょうね世間様。

 私が、世間様とは意見が合わないのはデフォルトなんで驚きはありませんが、やはりもやもやする。

 そのアプリが登場したばかりのころ、そのあまりの堂々とした「窃盗」手口には驚きました。
 アプリが登録されると、そのスマホにあるアドレス帳、連絡先を勝手に「盗み取り」、ほぼ無差別に「このアプリをダウンロードしてね!」とメールを送信する。

 盗人猛々しいという日本語があるのですが、それを超えているものがある。とまずは仰天しました。
 なんだこれ。堂々と泥棒したうえなんの罪悪感もない、この態度はなんだ、と。

「DLして」とメールがくるくらいで、じっさい勝手にアプリをDLするという、寄生虫のようなところまではいかないのは幸いでした。

 私の連絡先を持っている誰かが、そのアプリをDL、登録したんだなとはわかりましたが、だれのスマホかはわからない。
 これもけっこうもやもやしましたね。おそらく、その本人は、自分のDLしたアプリから、私のところへメールがいったなんて気付いてはいないでしょうから。
 なんというタチの悪いアプリなんだろうか。と。

 その後、さすがにそういうあたり問題視され、セキュリティを管理し、情報漏洩、かってな抜き取り、いたしません、なんてことになりましたが。
 だれが信用するかそんなん

 ——と、私は思ったまま過ごしておりました。
 その後、カルチャースクールでご一緒になったSさんが、某社SEとのことだったので、ひそひそ聞いてみました。
「どうですかねあのアプリ」
 Sさん、即答でした。
「ダメですね」

「ダメですか」
「ダメです。中身は変わっていないはずです」

 無料というのはたしかに魅力でしょう。可処分所得に限りがある中高生では「無料」に惹かれるのは無理もない。
 じっさいそうかどうかは検討せず、ただ、「みんなが使っているなら大丈夫だ」という、なんの根拠もない考えを持つ人も多い。

 そのアプリがあっというまに広まっていくのを見るのは苦いものがありましたが、私に何ができるわけでもない。
 じっさい今だに、お若いかたから、なぜあのアプリを使わないのかと聞かれても、以上のような話はほとんどしていません。

 証拠がないし、——そんなアプリをいれる危険性は、どれだけ説いてもわかっちゃもらえないでしょうから。

 最近の巷(ちまた)の話題の中でも、そのアプリが重大な役目を果たしているのですが、その役目の果たしっぷりを聞くにつけ、あのアプリはヤバイという思いが強まるばかり。
 であるにもかかわらず——世間様は、そのアプリがもたらしたことに「しか」目がいかないらしい。他人の不幸は蜜の味ってか。ひどい話ですわまったく。

 これほど重大な様相をみせているのに、だれも、その危険性に目を向ける気配もない。
 私にはそれが不自然なくらいに思えるのですが——そんな声はかすかにも聞こえてこない。

 無料といわれると飛びつきたくなる気持ちもわからなくはないですが。

 タダほど高いものはない。——というのが、うちの家訓でございまして。

 それがなにを意味するか——、タダであることが「高くつく」だけではなく、どうかすれば、「適正価格」の取引をしなかったがために命さえ奪われることがあるということを、あらためて噛み締めております。

 それにしても。
 この世間様との意見の合わなさって、もうちょっとどうにかならないものかな。(;_;)
 
 
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中世以来の「伝統」
2016年01月21日 (木) | 編集 |
ジャニーズ事務所メリー喜多川副社長の解任求めるネット署名 1万人が賛同
ファンが署名プラットフォームChange.orgで「メリー喜多川解任署名」を展開中。

2016年01月20日 23時11分 更新 ねとらぼ


 またなんだか話がややこしいほうへ振れたようで。(・・;)

 率直に言うと「なんだか面白くなった」という感想もないことはないんですが、——なんにしても、外野があれこれ言うことではないので。

 ただ、今回は珍しく、私はファンの方々のご意見のほうに近いです。
 その文化大革命のときみたいな「さらし」行為は、私は直接見てはおりませんで、もっぱら話を聞くばかりなのですが、聞けば聞くほど奇々怪々ですね。
 誰が何のために何について「謝罪」したのかわからない。
 謝罪というからにはなにか「罪」となるものがあるはずですが、それがなんなのかわからない。

 ファンに謝罪というけれども、ファンにしてみたら、彼らに謝られるような覚えなどないわけですよね。
 であるならば、——なんなのこれ? ってことになりますねそりゃ。(^^;)

 ということで、私としては話を聞く限りでは、ファンの方々のおっしゃるほうに、近い立場をとらせていただきます。

 私は当初は、これは売らんかなの連中が「飛ばし記事」を書いたのであり、SMAPの皆様はその被害を被ったのだと思いましたが、もしやあれは飛ばし記事ではなく、どなたかが「故意に書かせた」可能性もあるのでは? ということも思いましたね。
 ま、このへんあんまりいうと陰謀論になって「アベノセイダーズ」並みのレベルになるでしょうから申しません。つまらない冗談だと思ってください。(^^;)

 ともあれ。
 ふと思ったのは、この「業界」の組織と歴史について。でした。

 今回のことで、元凶と思われる人物の、役職解任を求めるというのもわかりますが、でも、それは現行法の中での精一杯。
 それが仮に実現したとしても、この問題の「根」は、びくともしないんだな、と。

 少なくとも日本においては、芸能、芸能者というのは特殊な存在で——言葉は悪いですがようは「賎民(せんみん)」でした。
 ケガレがどうこうというのはあとからのこじつけで、ようは、アウトロー、その社会から外れている、社会規範、社会構造といったものから「自由」だからこそ、そんなふうに言われもしたんでしょう。

 正規の(?)国家権力の支配からは「自由」な存在。それゆえに「犯罪者」とも言える存在。

 社会構造からは自由ではあったけれども、それゆえに、彼ら自身の社会というものは別個に作られ、維持されてきたという歴史。

 あとは、これは日本人の習性なんですかね、なにかっつーと「カルテル」化するという。(^^;)
 中世——平安時代から室町時代くらいの、その芸能者たちの世界をつまびらかにしてくださったのは、故・網野善彦(あみの・よしひこ)先生の一連のご著作ですが、社会規範から自由とは言いながら、それは世俗の国家権力とはちょっと距離を置ける、というだけのことで、むしろ、「座」という「同業組合」の強固さには、舌を巻きました。



 中学校あたりで、織田信長のやったことのひとつとして「楽市楽座」というのを聞きますね。あの楽座はそれまでの「座」を、徹底的に破壊した、もんんんのすんんんごい革命だったんだ、ということがわかります。

 あれほど強固な「座」というものを、もう息もできないまでに叩き潰した(結果的に)というのは、すごいなーと。
 楽市楽座です、なんて、気楽に言えるようなものではないくらいの、——当時の人にしたらそりゃもう、たいへんなショックだったと思われます。

 しかし。
 人の習性というのは、なかなかしぶとい。

 いちどはそうやって破壊され、再編成されたかに見えたものも、その後の流れをみると結局——ゆるゆると、少しずつ形状を変えながらでも、つづいているんですね。いまも。
 
 かつての「賤業」は、いまや花形の職業とも目され、賎民どころか「セレブ」といわれるまでになりました。
 が。
 それでもこうやって——中世以来の「伝統」が、まだしっかりと呼吸しているのを、垣間見る、とは。

 私としては、ちょっとばかり、背筋が寒くなるような気さえしますよ。
 抽象的にぼかした言い方をしているあたりで、そのへん、お察しください。(^^;)

 この業界のこの「システム」、この「歴史」。
 少しずつでも変えていけるでしょうか。
 その「土手っ腹に風穴をあける」ことは、できるものなのでしょうか。
 
 私としては、そうであってほしいと思いますけども。
 じっさい、中世のあの頃よりは、現在のほうが風が通るようにはなってますから——可能性はありますよね。



 いずれにせよ。
 無理を通して道理を引っ込めないでもすむ。そんなふうに「生まれ変わって」いただきたい。
 そう思います。
 
  
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モラルの基本
2016年01月20日 (水) | 編集 |
 こういっちゃなんですが、モラルの程度が低い地域なり、集団なりというのはあるもの。
 そういうのが身内だけでわあわあやってるのは、まあ勝手にやっとれと言えるのですが、そのとばっちりがこちらにくるとなると、そうも言っていられない。
  
 そういうとき話題にのぼるのが、「ああいうのはやはり、教育が悪いのではないか。または、十分な教育が行き届いていないからなのではないか」という見方ですね。

 教育は確かに大切ですが、しかし——道徳とか、倫理、「節度」、「公徳」というものはなかなか、明文化はできない。
 というのは、日頃求められるモラルというのは、なんせ日常生活の中のことですから、ある意味「臨機応変」なんですよね。
 こういうことには、このように対応しなさい、と、杓子定規に決めてしまうとかえって融通が利かないってことになる。

 ——モラルとはなにか?


 先日、テレビチャンネルのザッピング中に、NHK BSで放送している「COOL JAPAN」という番組が目に止まりまして。現在日本にいらっしゃる外国の方々が、日本人は気に留めないような「文化」についてディスカッションするんですね。
 そのとき話題は、ゴミの分別についてでした。

 処分するときに分別するのは効率が良くていい、というご意見もありましたが当然反対のご意見もあり。
 ごみを処分する業者とか、担当があるんだから、そういうところに任せればいいので、こちらがいちいちやることじゃない、というご意見。

 ふうんと思ってまたチャンネル変えてザッピングに戻りましたが、これについてはしばらく考えておりました。

 その反対意見を述べた方の国籍はアメリカ。——というときに、またちょっと違うことが思い出されました。
 民主主義(国家)は、本当に価値あるものだろうか。

 なんでしょうか現在では独裁国家よりも民主主義国家の方が「偉い」みたいな価値観が浸透してますが、これ、ちょっと疑ってもいい概念じゃないでしょうかね。
 民主主義のほうが「モラルが高い」というイメージ、無意識のうちにありませんか。私はあります。

 で、本来モラルが高いはずのお国の方が、こういう、公徳心のないことをおっしゃる。
 そのことがちょっとひっかかりまして、
 
 業者さんがいるのは事実だし、最終的にはそういうところにお願いしているのも事実だけれど、そのごみの処理は誰のためかといえば結局は、自分のために「してもらっている」ことでしょう。
 ごみ処理についての「責任」が誰にあるかというのなら、業者さんじゃなくて、自分にあるわけですよね。本質的には。

 本質としては、自分が出したごみは自分で処理するのが筋ってもんです。
 でも、むやみに焼却するのもかえって有害だったりするし、集団としてみるなら個々に処分するのは効率も悪い。だから、じゃあまとめて処分しましょうか、ということになっている。

 自分のことなんですよ。
 それなのに、処分は業者に丸投げでいいじゃない、自分は面倒なことはやりたくない——ってねえ。
 これは、「主権在民」を第一とする民主主義の精神には反している。
 いきなり話が大きくなりましたが、そう思います。(^^;)

 民主主義を標榜するのみならず、それを外国にも「移植」しようというお国の方が、その態度はちょっとマズイんじゃないの? というのが、私の感じたひっかかりだったようです。
 そう思ったときに、かねてから考えていたこと——モラルとは何か、が、少しわかった気がしました。

 当事者意識。

 自分にはそんなのカンケーない、というのの、対極にある意識ですね。
 それは自分のことだ、自分はそこにかかわっている、という意識。

 モラルを持つことの、いちばんの根幹は、「当事者意識」を持つこと。
 そんなの関係ねえ、では、モラルというものを「理解」できないでしょう。
 当事者意識を持つということは、程度に違いこそあれ、責任感を持つ、ということ。

 ずいぶん堅苦しい話になってしまいましたが、でもまあ、そういうことだと思います。
 で、さらに高いモラルというのは、当事者意識、責任感を持ちつつ、誰かのことを思いやって判断する、そのときに得られるものと思います。

 責任を持つというのは、なかなかしんどいこと。
 だから、そこは「お互い様」という気持ちで、お互いに、その重荷を少しずつ思いやり、少しずつ互いに負担し合う。
 モラルを持つ集団、というのは、そういうふうにして形成される。そう思います。

 困ったときはお互い様、相身互い、——そう言い合うことが、人が生きのびるための、知恵だったはず。

 思うことはここから複雑に広がりすぎたのでいちいち書きませんが、ともあれ。
 モラルとはどういうことだろうか? と考えてきたことの、自分なりの結論が得られたのは嬉しいことでした。

 それがどこまで実現できるだろうかとかそーゆーことは考えませんとりあえず。
 考えると熱が出そうなんで。(^^;)
 
 
 
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世間話の距離感
2016年01月19日 (火) | 編集 |


 どういう流れでそんな話になったやら、定期的に通っている病院の先生と、うちの母は、
「ヨーグルトのR−1、いいよね!」
 と盛り上がったそうな。

 明治さんのヨーグルト、R−1。
 通常の食べるタイプとドリンクタイプがあり、ブルーベリー味とか低脂肪とか、そんなバリエーションも今はけっこうあるみたいですね。

明治プロビオヨーグルトR-1

 先生個人的におすすめなんだそうです、R-1。
 患者さんにもなにかにつけ、お話をしてはすすめているらしいのですが、なかなか聞いてもらえないらしく。(^^;)
 そんななかで、うちの母が、
「あー、あれいいですよね。私も風邪をひかなくなりました」
 といったら、先生、満面の笑みで、
「そうでしょ! そうなんだよね!!」
 そりゃもう嬉しそうだったそうな(笑)
 
 とまあそういうわけで、うちでも宅配でR−1、いただいております。はい。

 上記リンクはAmazonさんですが、そういうわけで、ネットからでも宅配の申し込みができるらしい。

宅配専用R-1 ドリンクタイプ 1週間分無料試飲キャンペーン
(静岡県限定企画)


 ……検索して引っかかってきたのが上記のキャンペーンなんですが。
 なぜに静岡県限定企画。

 東西に延びた日本列島の、おおむね真ん中へんということで、なにか新商品を出そうかどうしようかというとき、静岡県はよくお試し県——様子を見たり感想を聞いたり、改良点を探ったりする地域として選ばれることが多い、ということは聞いたことがありますけども。
 R−1もか〜。

 たしかに、風邪はひかなくなりましたね。インフルエンザもありません。3年くらい前から予防接種もサボってるんですけども。(^^ゞ
 うちでは週にヨーグルト6個で頼んでおります。週に3日、デザート的に食べてます。厳密には毎日じゃない。(^^;)
 でも、たしかに、風邪はひかないか、引いても軽症ですむようになりましたね〜。

 ただし。
 このヨーグルトを食べるようになったことと風邪をひかなくなったことの因果関係がどこまであるか、それは私の知ったこっちゃないので念のため。

 こういうことを科学的に、医学的に証明するのは簡単なことではないでしょう。
 仮に効果があるとしても、万人に、全員に有効ってこともあり得ない。
 個人差もあるし、生活習慣の問題もある。仮にヨーグルトに健康効果があるとしても、本人の生活がデタラメであるなら、効果は感じられなくても不思議じゃない。

 こういうことは話半分で聞いてくださいねと念を押しつつ、ともあれ、その某先生と、私ども親子には、健康効果はあったのではないかな、ということ。

 こういう話をするのになぜ慎重になっちゃうかというと、話を聞くと目の色を変えて飛びつく人も困るし、それこそ医学上のデータを出せと目を三角にして「怒る」人もうっとーしーからです。

 こちらはもう四方山話、世間話として、自分の日常のお話として、ヨーグルトがいいみたいですよ〜と言っているだけで、お勧めしているわけでも強要しているわけでもなく、「今日はいいお天気ですね」だけじゃさすがにツマラナイから、ま、そんなお話もしているという程度なんで。

 うちもヨーグルトの宅配をお願いするようになったのは「おつきあい」という意味の方が強くて、まあ嫌いじゃないし、美味しいんだし体に悪いわけではないんだし、いいんじゃない、と、そんなことがきっかけといえばきっかけ。

 で、ふと気がつくと半年以上、1年以上、風邪をひいてないなと気がつく。
 もしかしたら? とそのとき思った。そんな程度のことです。

 ちょっと真顔でお話するなら。
 腸内環境と免疫の話は、今後、さらに研究が進んでいくでしょう。
 増え続けるアレルギーも、リーキーガット leaky gut 症候群(簡単に言うと、まともに栄養を吸収できない腸の症状)と関係があるのではないかともいわれますし、igA抗体が作られるメカニズムとも関係するし、ってことは、がんやウイルスから防御するインターフェロンを「自前」で作る(つまりこれが抵抗力ってやつ)しくみとも、腸内環境は関係するとも、ぼつぼつ、研究発表もされているようです。

 免疫・抵抗力のカナメは腸にある。
 そこを考えれば、腸内環境を整えることで結果的に、風邪をひきにくいことになるのも、不思議ではありません。

 ありませんが。
 目下のところ、それは私ども素人の手に負える話にはなってません。ゆえに、そんなに真面目くさって聞いてもしょうがない話でしょう。

 ただ、自分がそれを食べて体調がいいようだと思えばつづけるし、あんまり関係ないかなと思うならそれもアリでしょうし。

 そのへんの「距離感」を踏まえつつ、「母も私も、このヨーグルトを食べるようになってから風邪をひかなくなりました」という話、「へー」と聞いていただければありがたく存じます。

 まったく。
 四方山話(よもやまばなし)ひとつするのに、なんでこんなに予防線を張りまくらなきゃならんのでしょうね。(^^;)

 なににつけ、「距離感」は大事かもしれませんね——べったりしすぎず、といって、冷淡にもなりすぎず。
 
 
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