レイ・ロング Ray Long
2015年10月31日 (土) | 編集 |


ブランデー ……………………… 40 ml
スイート・ベルモット ………… 20 ml
アブサン ………………………… 4 dash
アンゴスチュラ・ビターズ …… 1 dash

使われている材料はハーブの香りがあるものが多いですね。
アンゴスチュラ・ビターズはカクテルの香り付け、あるいは、におい消しによく使われます。
また、カクテルの材料となるお酒には多いのですが、これも、もとは薬酒として開発されたお酒なんだそうです。

各種ハーブの香り、ブランデーの香りが漂い、味わいとしてもすっきり爽やか。
サヴォイカクテルブックにも載っている古くからあるカクテル。色合いも美しいですね。(^^)

レイロングはショートドリンク。その爽やかな味わいから、TPOは食前、食後、デザート、カクテルタイム、ナイトキャップ……何にでも合うオールデイカクテル。
アルコール度数は約30%。甘口。
技法はシェイク。

カクテル言葉はありません。

レイ・ロング——長く差し込んでくる光、日差し、光線……具体的には何をイメージしたのか。
名前の由来をちょっと聞いてみたい。
 
 
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明日を待たぬ夜
2015年10月31日 (土) | 編集 |
 ハロウィンは、その市場規模はバレンタインデーを超えた、と聞いたときは、まあそらそうだろうなと思いました。
 バレンタインデーは参加する人間と、関連商品にある程度の制限がかかるのにくらべ、ハロウィンは、もうなんでもかんでもジャックオランタンのイラストをつければ関連商品になるという、まことに柔軟性があるわけですから。(^^;)

 でもここんとこ、やけにハロウィンに対してキツイことをいう人をお見かけして、「???」と思ってきたんですが。
 なんですか、渋谷の例のあたりではずいぶんな迷惑行為になっちゃているそうで。(^^;)

 まあ、ああいうのはなあ……モノはなんでもいいわけでしょ。サッカーのときも花火のときもああいう騒ぎをやっているのをみればわかるように、ハロウィンだからどうこうじゃないんですよね。
 ああいう騒ぎの「原因」を求めるなら、それはハロウィンじゃなくてほかのことにある。
 話題をまぜてしまうのは感心しませんね。ついやっちゃうことだけど。(^^;)

 ハロウィンは「万聖節イブ(前夜祭)」ということになりますね。万聖節というのはキリスト教の聖人様をお祭するイベントなんだそうで、「諸聖人の祝日」「聖徒の日」などといわれるようです。

 とはいえそこはそれキリスト教。
 もとをただせばキリスト教以前、他宗教のお祭に乗っかっているだけのこと。

 もとただせばケルトのお祭。
 秋の収穫祭の意味もあるし、ここで冬を迎え、あらたな年を迎える——つまり「お正月」の意味もある。
 で、これは季節の変わり目、冬の訪れと無関係ではないのでしょうが、死者の霊が帰ってくる、ともいわれたそうで。

 死者となった先祖が帰ってくるんだってさ、というと、日本人の多くは「つまりお盆か」というところが面白い。
 また新たな年となる意味と、祖霊が戻って来る意味とを考えると、文字通り「盆と正月が一緒にきた」ものになるんですね。そりゃにぎやかなわけですよ(笑)

 クリスマスについても苦々しくみて、あんなもん日本人には関係ないだろうという方もありますが、あれももとをただせば「冬至祭」ですから。もとから太陽信仰のある日本人にはむしろ、おおいに関係があるといえるわけです。

 現行のハロウィンについては、いかに起源がケルトにあろうと関係ない、キリスト教から「輸入」してきたものということになるのは事実。
 基本的にはハロウィン、この前夜祭は子供達のためのイベント、と私は認識しておりまして、ゆえに、まあそう目くじらをたてるものではないと思っております。

 渋谷で騒いで迷惑行為に及んでいる諸君については——微妙なところですね。(^^;)
 法律上は子供ではないけれど、中身は……という。
 迷惑をかけず、適度なところで楽しめばお祭なんですから誰にでも楽しくできるのにね。
 そういう知恵がないところは、子供というより餓鬼なんでしょうね。文字通り。

 毎年書いている気がしますが、私にとってのハロウィンは、ブラッドベリに始まりブラッドベリに終わるもの。
 永遠を生きるようでいて、それは明るい太陽のもとに現れることはけっしてなく、ただ淡く薄暗い黄昏を、永遠に「ひきのばしている」ようなあの「一族」——不老不死の永遠が、なぜかちっともうらやましくない、あの万聖節の前夜の、お祭り騒ぎと太陽を欠いた暗さ。

 死者が人に立ち混じるのではなく、人が、仮装をして死者の群れに入っていく。

 10歳のとき、魔術師に「永遠に生きよ」と言われたという作家が、残していったこの永遠の10月——明ければ11月になるのを、拒否するような永遠の薄暗い夜——。
 私はその夜を愛する。今日はそっとその作品を読み返す日。
 作家が残した、この薄暗い永遠にハロウィンという名前を付けて愛しむのは、渋谷あたりの馬鹿騒ぎとは無関係のこと。

 まあ、あんまり目くじらをたてないでほしいな、というのと、怒られるからもうちょっと「うまく」騒いで欲しいな、と。
 そう思います。

        ●

 
「ティモシー」ママが呼んだ。
 ……………
 彼女は彼の頬にキスをした。
「……もしもおまえが死んだら、おまえの骨には、だれも手をつけさせない。そのようにしてあげるよ。おまえは永久に、安らかな眠りをつづけることができるんだ。万聖節の宵祭に、わたしはきっとやってきて、おまえが安らかに眠れるように、気をつけてあげるつもりなのさ」
 家の中はしずかだった。遠く、丘の上を、風がわたっていく。最後の荷に、黒いコウモリを運ぶこだまを伝えて……
 


 ——レイ・ブラッドベリ 「集会」 宇野 利泰・訳
  
 
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「夜クラシック」
2015年10月30日 (金) | 編集 |
IMG_1272.jpg
 そんなわけで昨日は夕方からいそいでお出かけ、「夜クラシック」へいってまいりました。
 会場は水道橋近く、文京シビックホール。
 文京区のお役所のなかというのか、その一部なんですね。
 なるほどなー、と思いました。

「夜クラシック」というのはシリーズになっているようで、若手アーティストの方を主にしているようです。
 主催は文京シビックホール、公益財団法人文京アカデミー。

夜クラシック 2015-2016シーズンセット券
http://bunkyocivichall.jp/play_detail?id=1456
(現在は完売)
(また来年度分の発売が近くあるようです)

 気軽に行ける雰囲気を狙っている感じですね。
 おおげさなものではなくて、90分コンサート(途中休憩15分)。開演午後7時半で、アンコール無しですから、9時ちょっとくらいには終了する。
 平日の夜なので、会社帰りにきて、早めに帰宅できる感じですか。

 気軽にクラシック音楽に親しむのにはいい企画だと思います。

 そんなわけで、この夜クラシックシリーズとおしてのチケット購入も可能。

 開演7時半ということで、多少ドタバタはしますがうちのほうからでも仕事上がりに行って間に合ったし、ありがたいです。

 オーケストラもいいですが、室内楽もいいですよね。
 昨日の演奏は、ピアノ:田村響さん、ヴァイオリン:三浦文彰さん、チェロ:宮田大さん。
 この夜クラシックシリーズの主題となっているそうなドビュッシーの「月の光」がオープニングとなりましたが、出だしからもう、いい感じでした。田村さんのピアノはやさしいですね。ほんわりと。

 演目は、リスト「ラ・カンパネッラ」、サラサーテ「ツィゴイネルワイゼン」、ポッパー「ハンガリー狂詩曲」op.68。
 休憩を挟みまして、メンデルスゾーン「ピアノ三重奏曲第1番」でした。

 アンコール曲は無し。もうちょっと聞きたい、というのが本音ではありますが、でも、時間的にはちょうどいい感じですね。
 クラシック、聞いてみたいけど肩がこるのはちょっと、というかたには、ちょうどいい分量のコンサートでしょう。(^-^)

 文京シビックホールは初めて行きましたが、いいところですねー。
 当日のパンフには、
お手持ちのチラシ類は抱えず、カバンにいれ、演奏中紙すれ音がしないよう、ご配慮ください
カバンの開閉、ビニール、紙屑などの物音、咳の音はホール全体に大きく響きます
 とあり、そんなに響く? とちょっとびっくりでした。

 音響の良さといえばサントリーホール。あれはすごい。誰かがふと足を伸ばした時に靴底が床を擦った音がはっきり聞こえて、私、その場所を指差してごらんといわれたらできる、と思いましたもんね。
 それくらい、音の通りがいいわけですが。
 シビックホールも、それに近いくらいでした、たしかに。

 本当に、誰かがカバンを開けてなにかを取り出す音が、くっきりはっきり聞こえましたもん、途中で。
 ……あれ、演奏者の耳にはもっとくっきり聞こえちゃっているんでしょうか;;;

 演奏の方はと申しますと。
 御三方、それはもうどなたも素晴らしい。チェロは甘く力強く、バイオリンは華やかに多彩。ピアノは甘くやさしく包み込むよう。いいアンサンブルでした。
 こういうとなんですがここだけの話(こそっと)、……チケット代、かなりのお得だと思います。はい。+.(*'v`*)+

 それにしても、やはり田舎者には東京はすごい場所に思えます。(^^;)
 行きは、もう絶対遅刻はできないというので駅構内からなにからカンペキに調べ上げて行って順調でしたが、帰り道はもう、迷う迷う。
 行けたんだから、帰りはその行った通りに辿り直せばいいだけだと思っていたけど甘かった。
 地下迷宮。マジで。

 どこをどう通ってきたのか自分でもよくわかりません。

 行きは、東京駅で丸ノ内線に乗り、「後楽園」駅からホールは直結、ということで問題なくするするいけたんですが。
 帰り道がもう。
 丸ノ内線乗り場(ホーム)がわからず迷い。
 東京駅に着いたら着いたで予想外のところへ出てしまって迷い。

 帰りの新幹線にはギリギリになってしまって最後は走るはめに。
(1本見送って次に乗ればいいだけではあるのですが、時間がモッタイナイと思いましてつい)

 最後にトラップにはまった、という気がしますが、でも、いい夜でした。

  
 
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「感覚」が覚えてる
2015年10月29日 (木) | 編集 |
 月末はたいてい、ちょっとゆっくりのんびりできるんですが、今月はなんだか落ち着かない……。
 
        ●

 あんまりこういうことはいうべきでもないんだろう、とは思うんですが、どうにももやもやしているので。
(ホントに、嫌な話はブログで、というのが徹底されてきているような。(^^;))

 私もうっすら記憶していた事件。
 当時小学校6年生の女の子が「入浴中に」火災に遭い死亡したのは事故ではなく、その子の母親と内縁の夫なる人物による、保険金目当ての殺人だったという件。
 なにしろ記憶力薄弱なもんですから、うっすら、そういえば、そういう事件もあったような、と思ってました。

 犯人二人、再審請求が認められて釈放と聞いたとき驚いたのは、「無期懲役」でありながら、20年のここまで、いまだ釈放がない、ということ。

 日本の刑罰の詐欺だと私は思っているのですが、無期懲役って終身刑ではないんですよね。
 刑期が未定、というだけのこと。
 ほかに余罪もなく、刑務所でもおとなしくしていると、10年もすれば釈放されてしまうのが通常です。

 死刑反対の方々に言いたいのは、死刑をなくすならなくすでいいから、きちんと終身刑の設置を、同時に進めてもらいたいということ。

 とまあそういう無期懲役刑でありながら20年も釈放されないでいたというのは、当然、裁判所でもその犯人の悪質性、反社会性を認めているということになります。
 なんの原理っていうんでしたっけ? 日本ではひとつの裁判(立件?)につきひとつの罪しか取り上げないんですよね。複数の罪がある場合、どれかひとつ、いちばん重いもの「だけ」について、その責を問う。

 無期懲役という「甘い」判決でありながら、20年もとどめ置かれたということは、裁判沙汰にこそならなかったけれども、余罪とみなされるものでたいへん重大なものがあったはずだ、と思いました。

 なんとなくこのモヤモヤした感じ、私もうっすらとでもこの事件のことは聞き覚えがある。——なんだっただろう、と思っていたんですが——こちらのツイート。



 ソースとなるものも示されているので、詳細ひらいてご覧いただくとして。
(あまりにも気分が悪い話なので、きっちり話すことができない;; 軟弱者ですみません;;)

 支援者という人たちはこの事実を知っているのだろうか。とつよく疑問に思いました。
 知っていて、そのうえでのことなら——まあべつに、いうことはなにもない。そういう人たちなのね、と思うだけです。

 なるほどこれは悪質だわ。裁判所が釈放を認めなかったわけだ。
 これで重大な性犯罪者が社会へ出てきてしまったわけですが、それでまた犯罪が起きた場合だれがどのように責任を取ってくれるというのだろう。
 最近、裁判所の判断もだんだん狂ってきているように、私の目には見えます。なにかに汚染されているような。

 それにしても。
 事件の詳細を忘れていても、あの異様な、胸が悪くなるあの感覚はしみついていたんだな、というあたり、自分自身に興味深いものを覚えました。

 記憶はなくても、おぞけをふるうような嫌悪感は、その事件の概要を——マスコミは故意に、この犯人たちについての情報を伏せているようにみえるんですが、気のせいですかね?——聞いただけで呼び覚まされ、警告を放つように、ざわっと背筋を這っていったのだ、と思いますと。

 ちゃんと記憶があればなおいいんですが、でも、こういうことがあるから、自分の「感覚」は、自分では無視しないようにしよう、とあらためて思ったんでした。
 もとから直感勝負で生きてますから、「感覚」は大事にしているのですが、今回のことでああやっぱり——と思いました。
 記憶力が悪いところを、本能的なところでカバーしようとしているようです;;

 なんにしましても。
 この事件の女の子が、やはり不憫でなりません。

 親がないことを不幸というのが一般的な社会通念でしょうが。
 いないほうがマシな親というのもけっこういるもんですよこの世には。
 
  

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「ね」と「か」
2015年10月28日 (水) | 編集 |
 新しいMacOS、El Capitan 、アップグレードしましょう、というお知らせがきました。
 どうしようかなあ。今晩あたりゆっくりやりましょうかね。
 もはや「ことえり」ではない日本語入力についてはいろいろお話は伺っておりまして、どうなんだろうなあと。(^^;)

        ●

 もしかしたらその登場は最近ではないのかもしれないけれど、ともあれ気になってしょーがない、ということになったのは最近のことだそうで。
 うちの親が、「そうなんですね」という相槌が気持ち悪い、としきりにいうんですよ。
 あんまり言うので、そうかい? と考えてみました。

 誰かと話をしていて、相槌としていうなら、私がいうなら大抵は「そうなんですか」ですね。
 いわれてみると私も、なにかについてちょろっと話したときに「そうなんですね」と言われることはたびたびありますね。
 ん? と、ちょっとだけ引っかかりを感じつつも、それほど気にしてはいなかったんですが、あまりにも母がいやがるので。

 そうですか、というのと、そうですね、というときの、ニュアンスの違いは確かにある。
 あるけど、それはどんな違いだろう? と、自分で、そうですか、そうですね、とブツブツ言い比べておりました。
(ハタからみたら気持ち悪い人ですわ、完全に;;)

 で、思ったんですが。

 たとえば人と話していて、「●●というところに、何某(なにがし)というお店ができたんだよね、ランチが美味しいよ」と言ったとして、「そうなんですか」と言われれば、「そう、プリフィックスで内容はこうで、お値段がこれ」「え、安い!」「でしょ」…となっていきやすいですが。
「そうなんですね」と言われると。
「そうなんですよ」で、あとがしーん。
 となっちゃう気がする。(^^;)

 もちろん、「ね」でも「か」でも、あとに同じように言葉を継いでいくことは可能ですが、「ね」だと、そこでなにかが完結している、終わっちゃった、という感じがあるように思います。

 そう思うのはアンタだけだと言われれば、そうですか、というしかありませんが。(^^;)

 ね、というと、なぜか、そこで話は完結し、なおかつ、相手から距離を取られたような気持ちになります。
 ゆえに、同じようにそのあとの言葉を継いでいくことは可能ではあっても、話す側の気持ちとしては、「べつにいいか…」という感じになってあえてそれ以上、しゃべる気は失せる。
 そんな印象です。

 お昼どこで食べよう? という話のついでくらいのときはいいですが、ちょっと深刻な——誰かのやや悲しい過去について聞いた相槌は、「そうなんですか」だなあ。
 こういう大変なことがあったんだよ、といわれたとき「そうなんですね」と言っちゃうと、なんとなくだけど、それ以上、その話には立ち入らない、その大変なことには自分は関わらない、半歩か一歩、後ろに下がる——、そんなニュアンスになってしまう気がする。

 ということを母に申しましたら、そう、それ以上関わらない、という感じで「冷たく」思える、とのことでした。

 なんで、終助詞「ね」だと話がそこで完結してなおかつ距離を生む気がするのか、不思議ですけどねー。(^^;)
 あくまでも、私が受けている印象は、ということであって、もちろんこれが「正しい」ということはない。

 ね、ではなく、か、にしておくと、相手に踏み込んでいる、もしくは踏み込ませる「余地」を作っておける、と感じるのは——自分でも不思議。なぜそんなふうな印象になるんでしょうね。

 言語学からの見地としてはいかがなもんなんでしょうね。(^^;)
 そのへんの解釈を聞けたら、またちょっと面白いんじゃないかという気がする。

 一つ思うのは、現在の日本語の特徴はとにかく「距離を置く」「責任を回避する」傾向があります。〜のほう、〜となります、〜という形、……などなど、なんでそう、意味のない言葉を置いて原意を「薄める」んだろうかと、虫の居所が悪い時にはイラッときたりしてますが、この「そうなんですね」もじつは、話者から、あるいは、その「話」そのものから、少し下がっている印象があるというのも、個人的には興味深い。

 そのいっぽうでは、もはやゲシュタルト崩壊を起こすくらいに、きずなだの、つながりだのとしきりに言う。

 つながってはいたいが責任を負うのはイヤとか、あるいはつながってはいたいが人と関わるのは「怖い」とか。
 そんなことも、ひそんでいるのかな。

 終助詞ひとつでそんなことまで考えていられる。
 これは(くだらないけど)特技に加えてもいいだろうか。(^^;)
 
      ●

【追記】
「か」は問いかけ。「ね」は念押しなんだ…。
 それがどうしたと言われると困るんですが、いまちょっと思いついたので。(^^;)
 問いかけは「関係」を相手に投げかけるもの。念押しは——どうかすれば押し付けになる……か? そのへんの違いかな?
 ……もうちょっと考えてみます;;
 
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サンライズ Sunrise
2015年10月27日 (火) | 編集 |


テキーラ…………20 ml
ガリアーノ………10 ml
クレームドバナーヌ……10 ml
生クリーム……10 ml
グレナディンシロップ……1 dash
レモン果汁…………1 dash

探したんですが、サンライズというカクテルは他には見当たりませんでした。

ただ、テキーラサンライズというカクテルがあって、こちらはテキーラ、オレンジジュース、グレナディシロップを使います。
このサンライズと若干、似ている雰囲気もあるようなないような。(^^;)

徹底的に甘いカクテルですね。飲み口としては文句なしに甘口。
デザートカクテルにもなりそうです。
風味としてはまるっきり、「バナナミルク」だそうで……バナナ風味のミルクシェイク?
アルコール入りとも思えないくらい、らしい。(^^;)

満月の今日は甘い一杯をナイトキャップにして、ゆったり……でいかがでしょうか。

サンライズはロングドリンク、TPOはアフターディナー。
技法はシェイク。

カクテル言葉はありません。
  
 

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勝利の予感
2015年10月27日 (火) | 編集 |
将棋の王座戦 羽生四冠が4連覇
2015年10月26日 22時27分 NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151026/k10010283461000.html

 昨日は残念ながらほとんど見ることができませんでした、将棋王座戦、最終局。
 またニコ生さんのタイムシフトで見ようと思いますが、——昨日はそれでも、最後の20分くらいは見ておりまして。

 ニコ生さんのおかげで(時間さえ合えば)解説付きで(おやつとお食事の解説もつく!)対局を拝見できるというのはまことにありがたいこと。
 で、羽生さんに関しては、解説者のお話が、——その予想が当たらなくなってきたり、あるいは、とうとう「わかりません」とおっしゃったりするんですが。
 こういうとき、大抵、羽生さんが勝つようです。(^^;)

 私はもとより、駒の動き方も十分には理解していないくらいですからまったくもっての論外で、予想もへったくれもありません。
 将棋に詳しい方、お好きな方、あるいは将棋ソフトを使いながら対局を見守る方、いろんなかたのコメントも流れてきて、その予想もなかなか「当たる」んですが。

 羽生さんの場合、解説者のかたでさえ、「わからない」というくらいになると、勝ちますね。
 逆にいうと、予想から外れないときは、残念ながら敗戦となる(ことが多い)。

 奇手、奇策、ということではないようにお見受けしますが、なにか——通常の人間の思考からはどこか外れたものがあるとき、勝利なさる。

 ということで、昨日も、解説の永瀬拓矢六段が「わかりません」とおっしゃったときは、これはもしやと思いました。(^^;)
 その時点まででも、羽生王座優勢というのは見えていたようなんですが(将棋ソフトの予想では)、でも、最後まで確定的なことはいえないところが、将棋の——とくに、羽生さんの面白いところ。
 どうなのかなー、と思っていたところでの「わかりません」だったので、おや、と思ったんでした。

 流れてきたコメントの中に、佐藤八段の応援だったのか、感嘆とも恨み節ともとれる、
「羽生さんはいつ衰えるのか」
 というコメントがありました。

 衰えているとは思いますよ……と思いました。
 そりゃ年齢的なこと、体力的なもの、衰えがないわけがないんです。それは自然の理でしょうがない。
 ただ、その衰えたところを、なにかの工夫で補ったうえでさらに加味されるものがあるのではないでしょうか。

 それが、年をとることの面白さかもしれません。
 もちろん、誰にでもできることでもないでしょうけれども。(^^;)
 そのあたりが、プロ棋士をもってしても「わかりません」と言わしめるものになっているのかもしれませんね。
 
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それぞれの連想
2015年10月26日 (月) | 編集 |
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 昨日Twitterで拾ってきた画像。

言わなきゃわからないようなやつは、言われたってわからない
 とは、とある漫画で、もちろん冗談として描かれていたセリフ。笑いつつも、でも、至言だと想いましたね。

 中学、高校のころの息苦しさというのは、今思い出してもうんざりで、もう二度とあんなところには行きたくないなと思うくらいですが——あのころ痛感したことは、
「ものがわかんないやつがいるから規制が増える」
 ということでした。

 自分で言うのもなんですが私は品行方正のほうで、おとなーしくしてましたが、一部はねっかえりのせいで、わけのわかんないルールが課せられたことが度々ありました。
 私はなにもしていない。ものを見て判断するのはそう鈍くはないほうだったようで、テキトウにふらふら歩いていても案外、オトナどもの課してくる規制には触らないタイプでした。

 が、そういう人間にも問答無用でわけのわかんないルールが課せられる。なぜか。
 一部の跳ねっ返りどもが馬鹿をやらかして、親や先生がたが右往左往するくらいなら構わないが(……構うか;;)、警察沙汰にまでなる、あるいはその寸前までいくことがあったから。
 一部の馬鹿のせいでこっちにまで余計な規制がくるのか、という、この世の不条理が身にしみました。

 ただでさえ、他人からああだこうだと言われるのが大キライなので(だから、ああだこうだ言われないよう、スキは見せないようにするわけですね)、これはもう、本当に我慢できないくらい腹が立ちました。
 
 たぶんあの感覚は、まだ生きてます。

 だいたい、そういう跳ねっ返りは、それがなぜ「適切ではない」行為なのかがわからない。「言われてもわからない」。
 たぶん、ものの考え方や価値観というところで絶対の断絶がある。
 これはいいとか悪いとか、倫理道徳の話ではなくて、「他人と共有している空間で、円滑にものごとをすすめる」という概念のあるなしの話なんでしょう。
 
 概念を持つか持たないかは、じつは本人の意思があっても難しかったりしますから、わからないやつにはわからない、というのは、お互いにどうしようもないこと。

 ……だとは、ようやくこの年になってあきらめがついてきたところです。(^^;)
 悟るまでに30年かかったか(笑)

 ただ、この画像の文面から見ますと、
「これを書いたかたは、説明すべきことを説明もせず、自分の感情だけでいきなり怒り出す人を相手にして、苦労してるんだろうな」
 ということが察せられますね。

 説明してもわかってもらえないのは虚しいけど、いうべきことも言わずに、ただ自分一人だけが勝手に承知していて、他人と「情報共有」しないまま、自分の思い込みだけで他人が動くものだと期待されるのも、これはもう、本当に迷惑なもんですよね。
 それはお察しいたします;; 
 そういう手合いが自分の親や上司だと、ほんっっっとに! 苦労する;; ワカル;;

 情報共有というのはじっさい、本当に大事なことですね。
 チームになると、それぞれの役割はたしかに決まってはいるんですが、それでも、全体像の中で自分の分担部分をわかっているというのは大事なこと。

 必要か必要でないかはとにかくおいといて、チーム全体の、あるいはメンバーそれぞれの状況は、可能な限り共有することを心がけております。
 それは私とは関係ない、と言いかける人には、「関係なくてもいいから、聞くだけ聞いといて」といっております。
 関係あるかないかは、聞かないとわかんないじゃん。(^^;)

 べつに関係ないなと思って聞いた話が、あとで、あ、あれか、と「つながり」がわかることもある。そうすると、自分の役割の意味や必要性もそこでわかったりするわけで。
 なんで私がそんなことをしなきゃならないんですか、という不平不満は、ここがわかると(ある程度は)抑えられる。

 こういうときはたしかに「言わないと分からない」。言わないでおいてわかれというのは無茶な話。
 それはもちろんのことですね。

 同じ言葉を聞いて、どんな状況を思わず思い浮かべてしまうのか。それによって、反応も違ってくるんだなと思いました。(^^;)

 社会人の場合は、「きちんと説明しないのに勝手に怒る上司」などを連想する人が多いと思われるなか、いまだに、むかしの苦い思いを真っ先に連想する私も、いーかげんしつこいタチなんでしょうね。(^^;)

 
 
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スイートマティーニ Martini sweet
2015年10月26日 (月) | 編集 |


ドライジン………………40ml
スイートベルモット……20ml
マラスキーノチェリー(飾り用)

通常のドライマティーニは、ドライジンとドライベルモット。そしてあの象徴的なオリーブの実ですね。
美味しいんだけどキツイ。いかんせんキツイ。
とお思いの方もけっこういらっしゃるのでは。(^^;)

ということで、ドライベルモットから、スイートベルモットに変えるだけでも、甘い味わいに変化するそうです。
アルコール度数の強さにはさほど違いはありませんが、飲み口が柔らかくなると、印象も随分かわりますね。

カクテルの王様と言われるマティーニ。
飲んでみたいけどちょっとドライすぎるという方には、こちらのスイートマティーニ、いちど試してみるのもよろしいかと。

スイート・マティーニはショートドリンク、TPOはアペリティフ(食前酒)。
アルコール度数は35%ほどで辛口。(中口にしていいかどうかはちょっと不明)
技法はステア。

スイートマティーニのカクテル言葉はなし。

(ドライマティーニのカクテル言葉は「知的な愛」)
(マティーニのカクテル言葉は「志向/心の声/神秘」)
(以上、ご参考までに)
 
 
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唐桑産・剥き身 牡蠣
2015年10月25日 (日) | 編集 |
「旨い! 牡蠣屋」さん(http://www.umaikaki.com/index.html)で、剥き身の牡蠣が出たので購入。

 たいていは殻付きの状態での販売ですが、ときどき剥き身のものも登場します。これをひたすら待ってるんですよ〜;;

 牡蠣の殻むき……もう、ぜんぜんダメで;;
 専用ナイフがついてきて、これで挑戦すること2回。
 いずれのときも、とにかく死ぬほど苦労したうえ、案外きれいには取りきれず、身がボロボロになってしまってかえってモッタイナイことに。

 もとから器用な方でもないし腕力はぜんぜんアレだし、……何回かやれば慣れますよとか言われたけど慣れる前に牡蠣をいくつ犠牲にするのかと考えますとね。
 年に1、2回ってことになっちゃうけど、おとなしく剥き身の牡蠣を待っている方がいいや、ということに。

 いや、そりゃね。殻付きで送ってもらって自分で殻剥きしたほうが新鮮だしおいしいことはわかってますけどね;;

 そんなわけで、唐桑産の牡蠣剥き身! 届きました!!
2015-10-24 oyster - 1

 大小とりまぜて15個ほどありまして。
 通常スーパーで買える加熱用牡蠣って10個入りですから、なんかもうこれだけでときめきますね。

 三陸の牡蠣はほんとに身がしっかりしていておいしゅうございます。加熱しても縮まない。身がしっかりして食べ応えあり。
 その昔には牡蠣をなんとなく苦手にしていたのに、と思うと不思議。(^^;)
 食い意地が張っているので、おいしいと思えばなんでも頂いてしまうのですね(笑)

 どうしようかなと思いましたがここは無難に、牡蠣のフライで。
2015-10-24 oyster - 2

 ちょうど、オレンジページ(11 / 2 号)では、「大さじ4のオイルだけで唐揚げ」という記事がありまして。
 例題は鳥の唐揚げ(400g)でしたが、ほかのものでも応用できるとのことだったので、サラダオイル大さじ4で、カキフライに挑戦。

 ようは、少ない油でじっくり火を通し、最後に強めの火でカリッとさせる、という感じですね。
 本物のフライにはかなわないでしょうが、それでもそれなりにできました。
 揚げ物は残った油の処理が面倒なところですが、大さじ4だと、まあ通常のソテーみたいなもので、片付けがたいへんに楽。

 牡蠣のフライっぽいものは、牡蠣そのものがもとからおいしいから没問題。
 なにがすごいって、通常フライなら、どうしても中濃ソースくらいは使いたくなるのが、牡蠣そのものの味がしっかりしているので、軽くレモンを絞ればそれで充分! なんですね。

 おいしゅうございました。ごちそうさまでした。(-人-)

 まだ剥き身の販売があるうちに、もう1回くらい、いただきたいなあ。

 で、油大さじ4で揚げ物、というのも……もうちょっと練習すればそれなりのものになりそうな気がする。
 もちろんたっぷりの熱した油で揚げるのとまったく同じ、というわけにはいかないでしょうけども、油を無用に使わずにすむというのは気持ちとしてたいへんに楽。
 好みは分かれそうですが、私としてはオススメです。(*^_^*)

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エスプレッソ・マティーニ Espresso Martini
2015年10月25日 (日) | 編集 |


ウォッカ……45 ml.(1 ½ oz.)
カルーア……45 ml.(1 ½ oz.)
クレームドカカオ・ホワイト……30 ml.(1 oz.)
エスプレッソ……30 ml.(1 oz.)
コーヒー豆……3粒

甘口カクテルがつづいてます。(^^;)

クレームドカカオ・ホワイトは、ホワイトとは言っても白いわけではなく、無色。リキュールでは、無色透明のものはホワイトとよばれますねなぜか。
クレームドカカオにはブラウンとホワイトがありまして、ブラウン濃褐色に色づけされているんですね。
ホワイトは無色透明、バニラの香りとシロップが添加されたもの。

本物のエスプレッソを使い、カルーアもクレームドカカオホワイトも使ったこのカクテルは甘口で飲みやすい。

本来のマティーニは、ジンとドライベルモット。このエスプレッソマティーニは、マティーニという名前がついてはいますが、本来のマティーニとは縁もゆかりもないレシピですね。
なのになんでマティーニっていうんでしょう? (*゚・゚)? はて?

エスプレッソマティーニはショートドリンク。TPOはアフターディナー。アルコール度数は約15%で中口。
コーヒーが香って甘い飲みやすいカクテル。
技法はシェイク。


カクテル言葉はありません。
 
 
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ものは考えよう
2015年10月24日 (土) | 編集 |
 わりあい気が短かったり、気が変わりやすかったり、あるいは、なにかに深入りするのを「恐れる」傾向もあるので、定期的な契約というものには、慎重なところがありまして。
 もう毎日飲むとわかったお茶の定期購入とか、有料のサイト利用契約だとか、テレビチャンネルの契約だとか。

 そういうものを検討するときに必ずチェックするのは、じつは、「やめやすさ」。

 定期でお願いしている内容を変更したいとか、あるいは契約を打ち切りたいというとき、それがさっとできるかどうか。
 これは、私にとっては本当に重要なこと。

 この会社の商品の定期購入を申し込もうかどうしようかと思ったとき、チェックするのは「やめるときはどうしたらいいか」。
 その方法が明示されているかどうか。どの程度明らかか。また、文面はどうか。

 なにしろ気が弱いので、やめたいなと思っていても、へんなふうに引き止められるとなかなか言い出せなくて困るんですよね。
 むしろ威丈高に出てきてくれたほうが、私としては気楽だしありがたいんですが(喧嘩上等)、泣き落としふうにやられると、もう、弱い。何も言えなくなる;;
 そんなわけで、契約はどのくらい「解消しやすいか」というのは、本当に大事なチェック項目。

 私にとっては「やめる」というのは、「逃げる」に等しい感覚。
 ゆえに、なんとなく自分を責める気持ちや、後ろめたさ、なにかっつーと逃げようとする自分はダメだなーという嫌悪感、……どうしてもそういう気持ちでしたが。

 10月22日付、ほぼ日「今日のダーリン」はそんな話題でしたが、糸井さんの捉え方はまったく違っていまして。

「「出口」がはっきりしていないということは、
 定期的につきあっている人を放さないためには、
 都合のいいことなのかもしれない。
 しかし、「出口」を見えにくくするのはだめだと思う。
 宗教や政治の結社のようなものの場合は、
 「出ることは考えられない」ようになっていそうだが、
 商業やらビジネスやら趣味やらのつきあいというのは、
 「退席はご自由に」のよさがあるはずなのだ。
 「出口(やめ方)」を明るくしていないものとは、
 あんまりつきあわないようにしようと、ぼくは思う。」



 後退する、後ろに下がる、逃げる、んじゃなくて。
 それは「出口」から出て行くことだ、と。

 ああ、なるほど。と思いました。

 なんでしょうね、とにかく「やめる」ということを「罪悪視」する癖があるんですね私。

 出口。

 入場料を払って、たとえば、お芝居を見る。でも、どーーしても「合わない」ものであれば退席するのはやむをえない。
 じっさい私、とある映画の暴力シーンに耐えられず、本気で吐きそうになったので退席したことがあります。
 1,800円が勿体ないとかいう問題じゃなかったですね;;

 たとえば有料サイトの契約の停止も、そういうこと。
 記事を読みもしないのにただお義理で投げ銭しているのは、双方にとって、結局、利とはいえない。

 それは当たり前のことで、出口を隠して客を閉じ込めていたら、——それはもう、法律違反ですよね。(^^;)

 今回は事情があって「退席する」けど、次の機会にはまた来るかもしれない。その機会のためには、「あの店、ちょっといきたくないんだよね」などという、心理的な障害は、もちろんないほうがいい。

 今回は残念でしたけど次回はまたよろしく——と、明るく退席できた方がいい。
 それは「逃げる」んじゃなくて、「出口から出る」だけ。
 
 へんなふうに罪悪感を持つ必要はなかったんだ——と思いましたら、急に肩が軽くなりまして(笑)

 ものは考えよう捉えよう、とは、よくいわれることで、そのとおりだなとは思ってきたんですが。
 自分がどんな考えよう捉えようをしているかをはっきり自覚するのは、なかなか難しい。

 ひとさまのお話を聞かせてもらうことの価値と意味は、ここにあるんでしょうね。

 私は「逃げ道」を確保してからやっと進む臆病者なんだと、心のどこかで感じてきたことが、すっと軽くなりまして。
 ありがたいことです。(-人-)

 考えてみれば、契約時に「出口」をチェックするくせがあるから、そういう契約でトラブったり、意味もなくお金を払い続けたりしているものは、確かに私にはありません。その慎重さは悪いことじゃない。
 だいたい、出口を示している企業や団体は、対応そのものに間違いがないですから、ほかの問い合わせもスムーズなんですよね、たいてい。

 商売というのはたしかにひとを呼び込む必要があるものですが、気楽にはいってもらうことが必要ですし、気楽に入ってもらうには、気楽に出ていけることも必要。
 お金もひとも循環するもの。流れがあってこそ健全なんであって、流れを止めれば濁って淀むばかり。
 そういうことかもしれませんね。

 同じことをしていながら、糸井さんはそれを知恵とし、私は罪悪とみなしていた、というあたりがわかって、面白くもあり、また、自己嫌悪から楽にもなれまして。
 ものは考えようというけれど、なるほどなー、と思ったお話。
 
 
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