2015年02月 / 01月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728≫03月

2015.02.28 (Sat)

花のありか

 本日で2月も終わりです。
 早かった。毎年毎月言ってる気もしますが。
 片付けないといけないことを必死に片付けているうちに、気が付いたら今月も終わりだった、みたいな感じです。

 さて。
 私は、これでもう今年1年分の幸運を使い切ったのかもしれない。
 ということで、「ONE OK ROCK 2015 "35xxxv" JAPAN TOUR」、当選しました。5月のエコパアリーナ、………GWの最終日になる日ですね。(^^;)

 自慢じゃありませんがくじ運を必要とする関係にはとにかく弱いので、抽選に申し込んでも、ま、まず無理だろうな、という態度でおりました。
 ですので、最初に結果を見たときは、あれ? 当選て書いてある? 当選? え? ——と、二度見三度見してました。

 いわゆるビギナーズラックってやつか、さもなきゃ今年1年分はいっちゃったかな、と。
 なんにしても嬉しい。

 ただ。
 ほんっとに当選することは予想していなかったので、申し込んだのは1枚だけだわ、エコパアリーナってどこ? という状態だわで(私にわかるのは日本平まで;;)。
 修了検定も受かってないのにいきなり公道へ出るようなもんじゃないかなあ、と少々の不安はあったりなかったり。 
 
 まずは払込をきっちりと済ませてきます。

       ●

 どうも昨日からあれこれ考え込んじゃっておりますが。
 考えてもどうにもならないことばっかりだな、——そう強く感じてます。

 ほぼ日「今日のダーリン」が、「やらなきゃいけないこと」でもなく「やりたくない(けどやるしかない)こと」でもなくて、「やりたいこと」があることの幸せ——について説いていらっしゃいます。
 本当にそのとおりだと思います。

 やりたいことは、夢は、などと聞かれたとき、まずははっとして、それから猛然と腹が立ってきて、最後には、涙も出ないくらい悲しくなる。
 そういうところにいる人間ですから、やりたいと思うものがある、それがどれほど恵まれていることか、よくわかります。自分には絶望的に欠落しているものなので。

 自分のやりたいと思う気持ちというのは本来はとても原初的な——根源の、自分を自分として存在させるいちばんの「根」。
 であるにもかかわらず、この世にいるあいだには、その根とのつながりが恐ろしく細くなり、あるいは、絶たれてしまうことさえある。

 だから、自分の根とつながるのには、コツもあるし注意も努力も必要、ということが、わかってきたのはここ数年のこと。(^^;)

 細くなってしまったつながりを取り戻すには、時間も手間もかかる。
 いますぐ結果は現れない。好きなことさえ、「思い出す」のはたいへん。
 それでも。
 それですら。

 そういうことなんだな、と気がついて——細くなってしまった根をもういちど育てようとしている。たまに自分でも、なんて低レベルの、情けないことをやってんだろうと思いますが、でも、それすら、幸運なことだったんでしょう。

 気がついた、という点において。

 人にはそれぞれの課題があって、取り組む課題は違う。
 同じ試験会場にいて全員、試験を受けている真っ最中なんだけど、試験内容は全員バラバラ。
 ゆえにカンニングは無意味——というたとえを、以前にも書いたことがあります。

 やりたいことをいかにやり遂げるか、という課題にかかっている人もあるし。

 やりたいことを見つけること、やりたいことに取り掛かるのは「罪」ではない、と、それを理解する問題を解いている人もあるし。

 何よりも誰よりも自分を許す、その許しに至るための道をいま、たどっている真っ最中という人もある。

 言えることがあるなら、どの人も、自分のやるべきことをちゃんとやってる、ということ。

 挫折に見えても罪に思えても、次元を変えてみれば、みんな、自分のやるべきことをやっている。
 まちがった選択はない。
 選び取ったものはいつも正しい。
 選択を誤るのではなくて、選択したその瞬間に道が現れるから、まちがった選択というものは、「ありえない」。

 尊重する、とは、——あまりにも冷たいと思えるほどの、この態度のことなのかもしれません。
 その人の選択は、その人を苦しめ周囲の人たちをも苦しませている、——そういうものであっても。
 その道を選んだんですね、と——静かに見守っている。
 
 その人の選択を、つねに、正しい、と受け入れ、尊重できるのは、その人への、絶対的に「信じる」気持ちがあってこそ。

 とはいっても———これはまったく、文字通り「次元の異なる」話であって、この世に生きる人間には受け入れがたい概念ではあります。
 非常識とか冷たいとかオカシイとかって言われるな;; 間違いなく;;
 
 試験問題を解いていて、脳みそが沸騰しそうになったとき、ふと顔を上げて試験会場全体を見渡す。
 ああ、みんなも頑張ってんだな——と思う。

 それだけでいいように思います。

 許せないものはなにひとつない。
 ただ、許せない、と思う「心」がそこにあるだけ。

 ——という話を聞いたときは、なるほどなーとは思いましたが、いまのところは、思うだけです。(^^;)
 とてもじゃないですが、そんな心境にはなれない。

 でも、いつかはそんなところにいければいい。
 許せないものはなにひとつない(本来は)、ということは、確かだと認めます。

 なんとなくいまは——そこらじゅうの人もものも、みんなまとめて、ぎゅっとしたい、そんな気持ちです。


 ——年ごとに咲くや 吉野の山桜 木を割りてみよ 花のありかを
 
 
関連記事

タグ : 人間

11:32  |  身辺雑記2015  |  EDIT  |  Top↑

2015.02.27 (Fri)

イメージ

 先日放映された、糸井重里さんと中井貴一さんの対談。
 映画やドラマの原作が小説ということはよくありますが。
 しかし、映画と小説では、面白さの見せ方、ポイントになるものは違うよねという話題がありました。

 これはまったく同感です。

 小説を読むというのは「個人的な体験」で、読む人それぞれが自由にイメージを膨らませている。それと同じ面白さを映画でできるわけない——という、中井さんのお言葉。
 
 これは私もまったく同感で。
 昔から、たとえば映画化されたものに対し、「原作とイメージが違う」という批判ほど、くだらない、無意味なものはない、と思ってまいりました。

 理由は上記の通り。
 
 小説を読むということは自分の脳内でイメージを作り上げること。もちろんプロットはありますが、詳細は自分の頭で組み立て直し作り直すものなんですよね。
 私が、ドラマ、映画があんまり好きではないというのは、この自由度がかなり低いから。

 視点はカメラで固定されている。私はもっと他の角度を見たいのに映らない。
 当たり前じゃないかというなかれ。小説を読むとき、これはまったく変幻自在のことなんですから——窮屈でしょうがないんですよほんとに。

 で、映画やドラマはあんまり、という一方で、舞台——お芝居は大好き、というのは、あれは「立体」だからでしょう。
 人間の目はちゃんと3次元をとらえるようにできているらしくて、これは、平面を見ているのとは全く異なります。
 また私もちょっとへそ曲がりなので、舞台をみるとき、主役ではなくて、舞台の隅、あるいは袖のところでチラチラしているもののほうをじーっと見ていたりします。面白いですよ。こまかい発見があるし、演出がどういうところに心を砕いているかもわかるし、あるいは——あ、油断してるな、というときもあるし(笑)

 小説を読んで異世界に遊ぶ楽しさは、とてもじゃないですが他人が指定してくる視点、視界のなかでは得られません。

 でも、映像には映像の見せ方、楽しみ方、魂の遊ばせ方というものはありますよね。
 だからたぶん、小説を映画化するときは、もう完全に、物語の作り方から、ぜんぶ組み替えることになるはず——と思います。

 クライマックスを作り替えればいいというものではなく、クライマックスを変えるのなら、そこへいくまでのすべての構成も演出も伏線も組み直す必要があるはず。

 てことは結局、原作の小説と映画は、ほとんど異なる物語になるくらいのはず。

 原作付き映画がいまいち面白くないのは、「原作のイメージ」を大事にしすぎて、映画としての見せ方もつくり方も、ほとんどやってないからじゃないかなと思っております。

 原作付きでありながら、映画単体として面白いと思ったのはいまのところ、「羊たちの沈黙」しか思いつかないんですよね。
 空前にして絶後……です、いまのところ;;
 もし、ほかにも、原作とはまったく違うことをして成功している作品があったら教えて下さい。m(_ _)m

 あれは、映画の観客は原作を知っている、ということを前提にして、「あらすじをすでに知っている客を、それでも驚かせ、楽しませる」ことに集中してますね。

 あれが——どうして他の映画じゃできないのかなー。
 でも、指輪物語もハリー・ポッターも、「映画単体として楽しめるように作り変え」ていたら。
 ………製作スタッフは無事に生きてはいられないかも;;

 私は、指輪物語もハリポタも、原作のファンではまったくないので、映画を見て何を思ったかというと、
「原作を意識しすぎて映画としてはのっぺりしてる」
 でした。
 ファンが怖くて言い出せない感想です(笑)

 でも——自分の脳内で作り上げたイメージ以上、せめて同等の面白さのある映画なんて、あるもんじゃないと思うんですよね。

 映画は映画として、原作のことはある意味忘れて、映画としての面白さだけを追求して作ってくれたらいい。
 また、それを、原作のファンという人たちが許容してくれる、そういうふうになってくれれば。
 映画はもっと面白い作品に恵まれるんじゃないかな、と思ってます。

          ●

 ストレス解消には海。
 エネルギーを「充電」するには山。
 ……がよろしい、ということですが。

 海はいいですね。波の音は何時間でも飽きずに聞いていられる。

 建物の外観はやはりイギリス風なんですね。写真だけ見ているとどこの国かわからない感じ。
(顔文字が可愛い♡)19世紀の様式がお好みかしらん。
 優美で重厚感もあって。
 きれいなものをたくさん——本当に、ありがとうございます。(-人-)
 
 
関連記事
11:39  |  身辺雑記2015  |  EDIT  |  Top↑

2015.02.26 (Thu)

ナルキッソス

 なんか昨日はちょっと気合を入れて、カタくて重くて、ほんとは嫌なんだよこういう話題、ということについて、真顔で書いちゃいまして。今日はその反動で、ほとんどまともな考えが浮かびません(笑)

       ●

NHKが「意識高い系」をドラマのネタに――「その男、意識高い系。」3月スタート
アウトプットイメージが見えないんだけどさ、それドラマとしてきちんとサクセスした上でクローズできるの?

2015年02月25日 14時21分 ねとらぼ
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1502/25/news101.html

 そういえばときどきお見かけしますね「意識高い(系)」。
 あんまり良い意味ではないみたいだなと思いつつ、いままでとくに気にしたことはなかったんですが。

 意識高い系の人、とは——たとえば、食生活に気を使ってマクロビオティックとか、自然環境の問題に関心を持っているとか、そういう問題意識を持っている人のことかなと、漠然と考えておりました。

 が、そういうわけではなくて、
実力はない一方でセルフブランディングや自己演出に精を出す若者のことを指すネットスラング
 とのことで——「社会派」のお堅い人のことかと思ってたけど、そういうのとも、違うんですね。そっか。(^^;)

 で、その特徴としてカタカナ用語大好き、ということも挙げられていますね。
 たとえばどういったふうにカタカナ語を使うのか、というのを、記事本文を使って「例」を見せてくれていますが——なるほどこりゃうっとうしい(笑)

 不思議ですよね。じつは、外国語が堪能な人ほど、ちゃんとした日本語を話すんですよね。あんまり横文字——カタカナ用語を使わない。
 私も何人か、外国語が堪能という人を見てきましたが、こういう人の方がまともな日本語を話す。
 そうではない人ほど、わけのわからないカタカナ用語を多用する。そういう傾向はあるようです。

 外国語を話す人というのは、脳内で、やはりなにかの切り替えが起こるのかな。
 そうやって、言語の混在が起こらないようにしているんでしょうか。

 私も以前、とある大企業のエライ人達の対談というのを業界の新聞で読んで、思わずのけぞったことがあります。(^^;)
 そのエライ人の、
「それがオールザットではなくて、あくまでもワンノブゼムなんです」
 という発言を見たときは、なんかもー、瞬間的にハッターシたくなりましたね。
 鬱陶しいわ! ってあの感覚、なんなんでしょう。(^^;)

 でも、あとから考えるとあれ、原稿にするときに編集のほうで、こっそりとでもまともな日本語に直しておけばよかったはずなんですが、なんでもとの発言を、そのまま書き写していたんでしょうね。
 直そうとしたら、発言した通りに書けって怒られたのかなあ。ちょっと気になるな。(^^;)

 かく申すわたくしも、社内報へ載せるコメントに、上司がマイルストーンつったのを、「一里塚」とこっそり原稿を直して出しちゃったことがあります。
 日本語に存在しない概念等であれば、カタカナになるのはしょーがないけど、そういうことでもないのに、ぱっと見わかりにくい言葉を使うメリットはないと思ったので。

(で、これ、やはり本人がチェックして、マイルストーンに戻してました。でも、その後、さらにうえの上司がチェックして、わかりにくいからほかに言い換えろと言ってきまして)
(結局、やっぱり、一里塚になったという経緯)
(もうどうでもいいじゃないですかそんなん。と思いましたね最後には)

 意識高い系さんには、こういった現象がまま見られる、ということですかね?

 意識高い、というのは「自意識」が高い、という感じなのかな。自意識であれば「過剰」というところでしょうが、高い、という言い方で、一見、褒めているかのように見せるところが意地悪——もとい、皮肉なのかな。

        ●

 ニコ動においては、海上自衛隊のイメージソングに定着した感のある「海色(みいろ)」ですが。

 最初はニコ動でこちら↓の動画を見てしまい、歌詞が十分に聞き取れないときに、「マイリスするんだー!」というコメントが目に入ってしまい、もう、なんど聞いても「マイリスするんだ」にしか聞こえない(笑)



 なにしろ母語をさえ聞きまつがえる精度の悪い耳なので、空耳を誘発するコメントはご遠慮願いたいです。(^^;)

(ちなみに正解は「前に進むの」でした)
(なんでこれが、マイリスするんだ、になるんだ私の耳;;)

 で、もう「海色」といったら海自というイメージがつきかかっていましたが、ちゃんとした(?)Music Video がありました。
 これをみて、ちょっと脳内を洗浄しよう;;

AKINO from bless4「海色(みいろ) 」Music Video
http://youtu.be/ULHQPm8hmVk


(コメントに、歌詞全文を英訳している方がいらっしゃる…。すごいなあ……)
 
 
関連記事
12:09  |  身辺雑記2015  |  EDIT  |  Top↑

2015.02.25 (Wed)

二項対立の向こう側



 あんまり、こういうことについての話はしたくない。
 というのが本音ですが、この記事の内容について、思うことがあったので少し。

 内容につきましては拙訳を上記ツイート中に貼り付けてありますので、そちらをご覧いただくとしまして。

 この記事に目が止まった理由はふたつ。

 ひとつは、女性への暴力に抗議するこの動きは男性によるものであること。
 ふたつめには、「被害者に落ち度があった」という、旧来型の、くだらないいいわけを、真っ向から、男性が否定していること。
 
 こういう人たちが現れてくれたんだな、と思うと、救われた思いがいたします。

 実のところ、こういう暴力事件というのは、女性の人権がどうたらという、そういうところに限るべきことではないんですよね。
 レイプ被害に遭うのは女性とは限らない。問題の本質はそこにはない。ただ、圧倒的に女性が被害者となることが多い、というだけで——数はそうでも、それは本質の問題ではない。

 暴力はつねに、弱いもの、あるいは弱いとみなされたものへ向かう。自分と同等か、自分より明らかに「強い」ものには暴力は向かわない。
 自分が反撃されない限りにおいては暴力は快楽となり、脳の構造上、快楽への欲求はエスカレートしていく。

 この「暴力の公式」は、女性がどうたらということ以外にも広く当てはまるのは、わかりますよね。
 でも、人はそういうことには目を向けないし、そのことを指摘する人があっても、無視されるか逆に非難されるだけ。

 問題の本質は性差別じゃない。
 人間がどれほど卑怯な生き物か、その「現実」を無視していては、解決もクソもない。

 今回は男性たちがミニスカートを着て「ミニスカートがぜんぶ悪いのか? ミニスカートがレイプの『招待状』か? そんなら俺らも招待してやろうか?」というのは、なかなか痛快ですね。
 ばからしい? そう。ミニスカートをはいていた被害者が悪い、というのと、同程度にはばからしいですね。

 前後の事情がわからないところがありますが、察するに、いつものとおり「被害者が悪いのだ」というご意見の中に、ミニスカートがどうたらってのがあったんだろうなあ。(^^;)
 この手の話は日本でも聞きます。卑怯な奴の言うことに国境の違いはないんですね。

 被害者が悪い、という見解を述べる人には男性の方が目立つでしょうが、じっさいにはこれ、女性も言いますからね。
 男女差別というけれども、男性が女性を差別するよりも、女性が女性を差別しているほうが、タチが悪い、というのが私の考えるところです。
 でも、そういう人は多いんですよね——しかも本人、無自覚だしな。大抵。

 うちの親をみて思いましたからねそれ。まだ私が二十歳そこらのころ、やはりニュースで強姦事件の話を聞いていたとき、うちの両親は「被害者にも落ち度が」みたいなことを言いましてね。
 もうたまらずそこに正座して、「ちょっとそこに座ってくれ」といって親を座らせ、「いまの言い草は聞き捨てならない」つって、親をこんこんとセッキョーしましたねあたしゃ。

 自分たちも年頃の娘(当時)を持っていながら、ああいうことを平気で言う。
 どーゆー神経してんだよあんたら、と。

 社会通念てのはまことにタチが悪いな、と思いました。

「みんなが言っている」「メディアでよく言っている」「常識」「当たり前」「それが普通」——と思い込んでいると、自分が犯罪者の肩を持ち、つまり自分が犯罪者と同化し、信じられないほど理の立たない、品性下劣、卑怯愚劣きわまりないことを口走っているということに、無自覚になってしまう。

 レイプの原因がミニスカートにあるのなら、男がミニスカート着たって同じことになるはずだよな? というこの抗議は——ありがたいなあ、というのが、聞いた瞬間に感じたこと。
 女性が怒りの声を上げるというのは従来通りのことですが。
 あえて抗議することにはメリットがないはずの男性が、こういう抗議をしたということに感動したし、ありがたいなと思ったんでした。

 胸が悪くなりそうな予感がするので、被害の詳細を聞いていませんが、でも、若い男性たちがそうやって抗議したくなるほどのものがあったんでしょう。そう考えると、被害者と、そのご家族には、言葉も見つかりません。

 こういう暴力の本質は性差別そのものにはない。
 女が男がは関係ない。
 人間が持っている根源的な問題としてとらえるべきこと。

 ……ということを指摘した。
 それを聞いて、ありがたいな、と思い——注目しました。
 
 少なくとも、日本ではまだ、性差別の枠から出たところでこういう問題をとらえている人の声って聞きませんから。
 まったくないわけではないのでしょうが、目立たない。

 でもいずれ、問題の本質そのものをとらえる人が、少しずつでも増えていくのかな、と。
 そうだったらいいな、と。
 切ない気持ちで、考えております。


 …………個人的にはこういう、性別による二項対立って話、苦手で。(ー ー;)
 この話をしていると最後には面倒になってしまって、「Y染色体なんか消えてなくなりゃいいのよ!」と叫んでいたりします。
 ひどい差別発言ですね;;

 でもこれ、あと500万年くらいしたら本当に実現するらしい。
 これは男性がなくなるということではなく、当然X染色体もなくなって、生殖の形態が変わるってことなんでしょう。

 その時代の人類って、どの程度進化して賢くなっているでしょうか。
 いまの私どもホモ=サピエンスを、愚劣愚昧な、野蛮な種(しゅ)だったと、見下してもらえるくらいに、賢い人類へと進化しているといいですよね。(←本気)
 
 
関連記事
11:31  |  身辺雑記2015  |  EDIT  |  Top↑

2015.02.24 (Tue)

アンダルシア

 春に旅立つ女子高生たちに、気持ちばかりのものを、と考えていた件。
 結局、ほんとに無難すぎるハンカチということにしました。(^^;)

 彼女たちの親御さん、ほんとに律儀な方々なので、下手なものを贈るとお返しの方がすごいことになって、そりゃーもー、こちらが恐縮するんですよね;;
 ということで、あんまり気を遣わせない程度のもので、と考えると、お菓子か、ハンカチみたいなものになっちゃいますね;;

 ハンカチを贈ることには「別れの品」という意味があるので、あんまりやたらには贈らないほうがいいよ、というのを、マナーの本で読んだことがあります。
 別れの涙をこれで拭いてね、みたいな意味になるらしい。………ホントですかね?;; (^^;)

 なんにしても、良き門出となりますように。
 卒業式の日は、晴れてあったかくなるといいねえ。

      ●

 ひょんなことから、またカクテルレシピ探しが再燃中。
  
 ようやくアルコールを堂々と飲めるようになったころから10年くらい、カクテルに凝っておりました。
 美味しいものが好きなので、お酒もいろんな種類を試していましたが、カクテルというのはそういう意味ではいろいろと面白いんですよね。
 
 お酒の種類、名前、歴史、味わい、色合い。
 小さい時に絵の具を水で溶いて「色水」を作ってあれこれ混ぜて遊んでいた、あれに近い楽しみを感じていたりして。(^^ゞ

 じっさい自分でやろうとすると、じつに多種多様のお酒を揃える必要があるので、ちょっと無理だわ…ということになりますが、でも、レシピを見つけては試してみるというのを、ひそかに楽しみにしていた時期もございます。

 で、誕生石は有名で、さらに、誕生色、誕生花があることまでは聞いていましたが「誕生酒」なるものがあると聞きまして。
 ここまでくるともう、業界のこじつけだろうとしか思えませんが(笑)、でも、なかなか面白い。

自分の誕生酒と酒言葉を調べてみよう! 「誕生酒大辞典」が楽しいと話題!
2013年06月17日 16時20分 IROIRO
http://irorio.jp/hayashi/20130617/64314/

 単純に考えても、すべての日に象徴となるお酒があるなら、それだけで366種類はあることになりますよね。
 カクテルは無限にあると言ってもいいくらいですから、なるほどなー、と思いました。

誕生酒大辞典
http://www.birthdaycolors.jp/cocktails/

 よくよくみるとこちら、ほかにも食べ物占い、お寿司占いなどもあるので、ま、占いとはいえ一種のシャレでしょう。
 でも、けっこう面白いですよ。(^^) なにしろちゃんと366日分ありますから。
(4年に1回しか誕生日が来ない、うらやましい2月29日はスクリュードライバー)
(レディキラーの異名があるあれですね/笑)

 私の「誕生酒」は「アンダルシア」。
 
アンダルシア レシピ
酒ログ http://www.sakelog.com 様

 ドライ・シェリー30ml、ブランデー15ml、ホワイト・ラム15ml、これらをステア(かき混ぜる)するだけ。
 ブランデーとありますが、これをコニャック(まあブランデーですが)と限定するレシピもあるようです。

 アンダルシアという名前は、シェリー酒ゆえでしょうか。
(シェリーは、アンダルシア地方で作られる白ワイン。通常のワインよりアルコール度が高い)

 レシピを見ればわかるとおりで、どれもこれも「ドライ」がつくお酒ばかり。果汁一滴すら入らない、一点の甘さもない、超絶ドライの味わいのカクテルですね、これ。
 えーえーどうせあたしゃ甘さのない辛口ですとも! と、変な方向へいじけつつ、でも納得もしてたりして。(^^;)

 そんなに真顔で考えるようなものではありませんが、ちょっとしたシャレということで楽しんでみるのもいいかもしれません。(^^)

      ●

 人間万事塞翁が馬、と申しますが、そんな感じですね〜。
 なんにしても素晴らしくおめでたいこと、何より。

 きっと最後にはいい景色を見ることができる。そんなふうになっているはず。
 雨のあとに虹がかかるみたいに——本当にそんな感じでした。

 愛らしい風神さま、って感じですね♡ (^^) 
 
 
関連記事
12:46  |  身辺雑記2015  |  EDIT  |  Top↑

2015.02.24 (Tue)

(記事 意訳)

Turkish Men Are Wearing Miniskirts to Fight For Women’s Rights
TIME
http://time.com/3718618/turkey-men-miniskirts-ozgecan-aslan/

《大意》

トルコとアゼルバイジャンの男性たちが、ミニスカートを着用して女性の権利のために戦う意思を示した。

20歳の女子大生オズゲジャン­・アスランさんは、学校からの帰り道、レイプ犯に抵抗して殺害された。犯人は、彼女が利用したミニバスの運転手だった。

燃やされた彼女の遺体が川底から発見されたことは、トルコの若い人々に衝撃を与えた。彼らは、インターネット上で、街頭で、女性への暴力にたいする抗議を示した。

水曜日、アゼルバイジャンの男性たちが、 #ozgecanicinminietekgiy(オズゲジャンさんのためにミニスカートを着よう)というハッシュタグを作った。これが口コミで広まった。

参加者のためのFacebookのページではこう説明する。
「ミニスカートがすべての原因であり、ミニスカートが不道徳でふしだらなものであり、ミニスカートを着ることが女性の身に起こることへの『招待状』になるというのなら、それなら我々(男性)も『招待状』を送ってやるさ!」

トルコの弁護士で活動家のHulya Gulbaharさんは、CNNにたいし、「この抗議は非常に効果的」だと語った。

「人々は、レイプや殺人(を許容するため)の言い訳を見つけようとする。しかし、今回の事件ではそういったものは何も見つからない。オズゲジャンさんには、なにも、なにひとつ、責を負うものはないからだ。
この抗議は、丈の短いスカートが、レイプを正当化する理由にならないことを示している


 
 
 
関連記事
11:12  |  未分類  |  EDIT  |  Top↑

2015.02.23 (Mon)

型、破れ

 アカデミー賞授賞式やってますね。
 昼休みで横目で見てみたり。(^^;)
 映画にさほど興味があるわけでもないけれど、ついつい見てしまうというのはあの華やかな雰囲気が面白いから。
 ちょっとものの見方がひねくれているので、内容に感心しているわけではまったくありませんが、ただ、ああいう演出は、さすがにすごいな、と思います。

 裏事情のドロドロを面白がる人もあるようですが、私はそちらにも興味ないです。ゴシップの類はもとから好きじゃないこともあるし、ああいう話をあんまりまともに聞いていると人間不信がひどくなるので。(^^;)
(これ以上悪くなりようがないところまできているはずですが、それでも用心はする)

 まだ純真さがあったその昔には、女優さんたちの衣装を見るのが楽しみでしたが、あれをめぐる裏話を聞いたら、ほんとに嫌になってしまって。

 ああいう裏話を聞かせてくれる人って、それが事情通の証だと思うのか、もーけっこーです! というところまで聞かせてくれるんですよね。
 でも、世の中には知らなくてもいいことというのは、あると思います;;

         ●

 先日の、 NHK「SWITCHインタビュー」の完全版、録画しておいたのをやっとみました。
 うちの母は、中井貴一さんがおっしゃることが、「アンタのいうことと重なってる」といって面白がっていたようです。

 原作の小説と映画との関係性については、「そーそーそー、そうなんです!」と私も思わず頷いておりました。

 ほかにもいろいろ面白いと思ったんですが、そのうちのひとつで印象に残っているのは「親分」のお話。

 親分肌——という言葉がある、あの親分ですね。
 中井さんのお話で、親分というのは、ある意味自然発生的なもので、俺が是非親分になってやろう、というひとが親分になるんではない。
 親分というのは、周囲の人が「作る」もの。だと。

 実際的に動くのは俺らがやりますから、あなたが親分やってください、音頭取ってください、お願いします、バックアップはしますからお願いしますよ、といって、多くの人(子分)たちが担いで作り出す存在。それが親分。

 でも、いまは残念ながら、その子分をやる人がない。

 みんな、自分が親分でありたがる。これはという人を見つけて、その人を親分に押し上げようということができない。

 それはあるなーと思って聞いてました。

 でもそれはひとつには、厄介な価値観が世の中にはびこっちゃったせいもある、と思います。

 ああやって人の上に立つというのも天与の才能を必要とすることなんで、誰でもできるというものではない。
 絵が上手なひとはだれに習わずとも上手に描く。でもその才がないひとは、どれほどお金をかけて優秀な先生に教えてもらっても、絵の「上手」になれない。

 ゆえに。
 リーダーシップが取れる人、取れない人がいるのは当たり前のことで、向き不向きはある。
 それなのに、いまの世の中って、それこそ強迫観念めいて、「親分になれない人はダメな人」と思い込まされるところがあるようです。

 人の上に立つことが立派なこと価値あることであり、それがない人には「価値がない」。
 そういう「思い込み」が、多かれ少なかれ、人の心に打ち込まれている。
 勝ち組負け組という考え方が私は大嫌いなんですが、たとえばああいうものですね。

 本来ならその人個人個人で、向き不向き、好き嫌い、適不適というものがあるのに、あるひとつの価値観をつくり、それ以外のものは社会不適格者と言わんばかり。

 昨夜私がツイッターでブツブツ言ってしまった、「夢がなければならない、という強迫観念」に取りつかれている若い人が心配、というのも同じことです。

 なにかひとつの理想形があり、その理想形に当てはまらないと「ダメ人間」のようにみなす。
 あるいは、みなすように「仕向ける」。
 だからみんなつい、その理想形に自分を当てはめようとするし、そこから少しでもはみ出した人を、落伍者としてあざ笑う。

 理想形が悪いというのではありません。
 その理想形だけがこの世の価値だと思う——思わせる——それにまんまとハマる——ことが、いささか問題だと思う、ってことです。

 皆が、自然発生的に、あの人にぜひ自分たちのリーダーになってほしい、自分たちはその人の手足となって働くから是非、と動いたもの。
 そうやって「作られた」親分というのは、いいでしょうね。
 ボトムアップであり、トップダウンであり。
 それこそが双方向性ってやつかもしれません。
 臨機応変、状況に応じて、ボトムアップ、トップダウンをこまかに切り替えて動けるでしょう。

 極めて有機的な「いきもの」になるんだろうな。そういう親分子分の作る組織って。

 多様な価値観、とかって言いながら、じつのところ、ほんとはただひとつの理想形を万人に押し付けようとしている——いま、そういう風潮があるのは確かだと思います。
 多様性といい、好きにやっていいよ、と言われると、かえって人は動けなくなるのかな。
 それで、誰が見てもわかるような理想形にはまろうとしちゃうんでしょうかね。

 自分は大将の器じゃない、だからいい大将を見つけよう、というのだって、当然ありだと思います。
 というか——誰を大将にするのか、それを見極めるのもまた、才能ですからね。
 
 そういうあたりを無視して、みんなが親分であろうとする、親分をやれないと人間じゃない、みたいな価値観は、いやだなあ。
 
         ●

 どこへいっても、その時間や場所を楽しんで——それがまた、大事な血肉となっていくんですね。
 それを垣間見せてもらえる、これもまた貴重なことですね。(^^)
 ありがとうございます。
 
 
関連記事
13:41  |  身辺雑記2015  |  EDIT  |  Top↑

2015.02.22 (Sun)

抗力

 本日は「猫の日」。
 制定されたのは1987年。意外に歴史があるんですね;; 私が猫の日を認識しだしたのはここ5年くらいのことなので、ちゃんと知るまでには、ずいぶん時間がかかったことになります。
 制定した「猫の日実行委員会」というのは……どういった団体でしょうか。(^^;)

 猫の日は外国にもありますが、日付はいずれもバラバラのようです。
 この一体感、統一感のなさ。てんでに好きなようになるこの感じ。
 いかにも猫的だな〜。
 いちおう、International Cat Day (World Cat Day) というのもありまして、こちらは8月8日とのこと。
(そ、その日付は/笑)(家族友人が聞いたら笑うなこの日付;;)

 ただ、世界猫デーは制定が2002年だそうですから、まだ新しいんですね。

International Cat Day: 10 years of clawing, meowing across globe
By Andrew Moran Aug 8, 2012 in Lifestyle
http://www.digitaljournal.com/article/330359

 でもって、「忍者の日」↓もお忘れなく。(^^)


         ●

 またなんの根拠も示せないまま、直感だけでぽんと申しますが。

 たとえ少しずつでも、これからの世の中は、明るい、軽やかな、「楽しい」ことが基礎にあるものへ変わっていくだろう、と思います。

 これまでの社会の「原理」は、恐怖と不安でした。
 不安と恐怖を煽れば、商売になる——ポジティブなことより、ネガティブなことのほうが、真面目だとか慎重だとか堅実とか誠実とかと言われて喜ばれてきました。
 が。
 これからは、明るいもの、軽やかなもの、人の心が楽しいと感じるもの、——深々と、肺の奥にまでちゃんと新鮮な空気を吸い込めるような、そういうもの——いままでの価値観から見ると、いいかげん、不真面目、真剣ではない、遊び、ふざけている、子供っぽいとされてきたものこそが、「原理」になっていくんでしょうね。

 そういう兆候はもう、かなり、あちこちで見つかります。

 不安や恐怖を煽れば手っ取り早く「商売」になるけれど、それよりも、同じような商品であるなら、楽しいと思えること、喜べること、ほかの誰かと微笑みあえる、そういうところから始まったもののほうが、喜ばれる。

 でも、明るい軽やかなものが伸びて行こうとすればするほど、旧来の、重くて暗いもの、不安や恐怖、暴力での支配を強めて、変化を止めようとする動きも強くなっているように思います。

 それまで主流だったものが、主流ではなくなっていく。
 そのことへの不安や恐れが強まっている。

 時間はかかっても、それでも、全体としては明るい軽やかなものへ向かっていく、その動きは変わらないだろう——と、直感しかありませんが、そう思います、最近。

 以前にはなかったほどのひどい暴力の話を聞くと気が遠のきますが、でも、それらが潰そうとしている新しい流れが強くなってきている証でもある。そう感じます。

 世の中には、暗くて嫌なことばかり言う人がいます。
(というか、メディアってそんな話しかしませんしね)
 でも、そういうところに惑わされないように。

「バカとキチガイは声がデカイ」、というのが私の持論なんですが、どうも世の中って、まずはバカが大声で騒ぐんですよね。
 で、みんながびっくりして動揺してくると、良心的な人々が、落ち着いた声で、大丈夫だよ、と説明をしてくれる。
 そういうふうにできているようですね。世の中って。

 だから、大声で騒ぐ人を見たら、——そもそも、不必要に大きな声はそれだけで人を不快にさせますが、その不快さにまけて飲み込まれないように、どうかご注意を。
 本当にそうだろうか、と思いながらじっと耳をすませていれば、必ず、聞くべき落ち着いた声は聞こえてきます。

 ただ。その人(たち)は、バカやキチガイではありませんから、声は静かです。聴きやすくていい声だけど、大声ではありません。
 ゆえに、自分がバカやキチガイと同化していると、聞くべき声は聞こえなくなります。
 恐れるのなら、そのことをこそ、恐れてほしい。

 まずは、自分が、騒がないこと。
 それができるだけでも、世の中はずいぶん違ってくるだろうと思います。

 明るいものへ、開けた場所へ——。
 そういうものを、確認できた、昨日のイベント「活きる場所のつくりかた」でした。
 感謝申し上げます。(こっそり)

        ●

 結局、ハードなことには変わりないんですね;;
 もうちょっと健康面への配慮はあってもいいような気がします——大きなお世話でしょうけども。

 続出する、悩殺されているコメントを拝見して、うんうんとうなずきつつ、でも、真剣かつ本気で無事を祈るというレベルですよねこれは;;
 
 
関連記事
12:30  |  身辺雑記2015  |  EDIT  |  Top↑

2015.02.21 (Sat)

好き嫌い

 夫婦別姓については。
 認めろ派にも、認めない派にも、どちらにも賛成できないものがあるので、ひたすら海の沈黙。(^^;)

 歴史をふりかえって見るならば、古代日本は夫婦別姓だったようです。お寺さんの遺跡などで見つかる祈願文、あるいは願解(がんほど)きの絵馬のご先祖みたいなものをみると、女性が、ご夫君とは異なる氏を書いているとのこと。
 それがいちばん堂々たるものは、かの聖武天皇のキサキ、藤原光明子でしょうね。なにかの祈願文に堂々として肉厚の筆致でサインされた名前は「藤三娘」(とうさんろう、とうさんじょう)。

 藤原氏の三女、という意味ですね。もちろんこれ、聖武天皇のキサキとなって以後の署名ですよ;;
 北条政子も日野富子も名乗る名前に変わりはないし。
 そういう意味でなら、日本は古来から夫婦別姓は当たり前だったといえるでしょうね。
(といって、必ず、絶対、別姓、と決まっていたとも思えない。制度としてあったんじゃなく、慣習程度のことだったのかな)

 でも、夫婦別姓の当時でも「家」制度はあったわけだし、夫婦別姓なら「男女同権」なのかというとそうではない。
 そのへんのことは、日本でも、近所の国でも、見ればわかるとおり。
 夫婦別姓=男女平等、という主張は、苦しいな。

 このへんを考えているとどうしても、「家」制度をどう見るか、扱うか、という問題にぶちあたりますねえ……。
 核家族が当たり前となり、より個人というものが強調される現代においても、でも、この考え方はほんとに根強い。

 財産相続の話はまあいいとしても、私が個人的に、無視し難いと思うのは、お墓のこと。
 ひいては「先祖供養」のことですね。
 差別的で誰も幸せにしない家制度なんぞはどーでもいーけど、ご先祖をおまつりする、ということについては、やはりどうでもいいというわけにはいかないなあ、と思っております。
 これは完全に個人的な事情ですけども。
 
 それはそれで置いといて。

 別姓。
 歴史的な慣習から考えるなら、いいんじゃないですか、と申しますが。
 ただ。別姓推進派のいうことには賛成しないし、説得力もない、と思っております。

 また、別姓否定派のいうことも、ぜんぜん説得力がない。
 家族内で別姓があると、家族としてまとまらない、一体感がないとかって——それ本気で言ってんの? と思います。反証なんか無数といえるくらいにあげられるんだけど、そんな脆弱な論拠でいいの?

 私の目から見ますと、別姓推進派も反対派も、ただ自分の「好み」の話しかしていないように見えます。

 自分の好き嫌いでしかない話を、あたかも社会全体への正義であるかのようにいう、こういう態度———嫌いなんですよね;;
 この嘘つきども。という嫌悪感が先に立つ。
 
 たぶん、同姓でも別姓でも、ほとんどの場合はどちらでもいいことだと思いますね。
 どうしても、こうしなければならない、というのは、それはもう、個々のお宅における事情というものがそうさせるだけで、法律でもって縛り上げるべき「まっとうな」理由は、本当には存在しないと思ってます。

 つまるところ、別姓に賛成なのか反対なのか、と言われるなら。
「どっちでもいいんじゃないですか」
 が、私の答えです。

 夫婦ごと、家族ごとで、考え方も、事情も、いろいろあるでしょう。
 生活に支障のないように、それぞれの事情にあったようになさればよろしいのでは?

 ということで、強いて言うなら「選択制」支持ということになりましょうか。
 現行の制度だと融通が利かないから、オプションつければ? という。

 ただし。
 別姓推進派がなぜああもヒステリーを起こしながらごり押ししてくるかが、私には疑問だったのですが。(なんであんなに半分キチガイみたいになってんのあの人たち。という疑問です)
 あくまでも噂ですが——聞いたところでは、現行、夫婦別姓でやっている国からの移民を受け入れやすくするため、だという話を聞きました。

 嘘か本当かは存じません、あくまでも噂で聞いたよ、という話です。

 でも、ああそれもあり得るなーと思わせるところがありますからね、あの人たちには。(^^;) ある意味、過去の「実績」があるから。
 何を聞いてもまずは話半分で、というのが私の態度ですが、残り半分は、それなりに聞いてます。
 それなりに。
 
        ●

 全員が揃ったところ、というのは、ほんとに不思議に思えてくるほど、見ててほっこりします。
 ありがとうございます。(-人-) ←思わず拝む
 
 すてきな1日でありますように
 
 
関連記事
11:52  |  身辺雑記2015  |  EDIT  |  Top↑

2015.02.20 (Fri)

みごとなダンス

 今週は、今日、まだ1日あるのというのに、なんかもう、すでに緊張の糸も切れているようで。(^^;)
 今日は気楽に小話ばかりです。

        ●

 スピリチュアル系のアヤシイ話をしておいて、それで相手の反応を見る——というのは、ちょいちょいやります。(^^;)
 少し気になることがあると、そういうトラップを仕掛けておいて、必要な距離があるなら早めに距離を置くようにするわけですね。
 あえてえげつない話をしておいて、これでダメならしょーがない、さてどうなる、と思っていても、ぜんぜん平気な人もいるし、え、こんな些細なところでもダメですか? と逆の意味で驚かされる人もいるし。
 
 人を試すようで失礼なところもありますが、でも、これは私なりの「護身術」でもあります。
 合わない人と無理していたってしょうがないと思うので。
 私にとってはああいう目に見えないものの話は「日常」ですから、そこで合わないなら、無理はしないほうが相互の利益。
 
 とはいえ、怪談系のお話がほんとにダメという方もいるので、そのさじ加減はやはり難しいです。(^^;)
 べつにこれ怪談とかじゃなくて、ふつーに心理学のお話なんだけど、というところでも、ダメな人は逃げてくしなー。
 私にとっての蜘蛛、ゴキブリみたいなもんなんでしょうね。誰にだって弱点くらいはありますよね。
 あんまりヒドイいやがらせにならないように気をつけます;;

 弱点といえば、かの三島由紀夫はあんなにマッチョなイメージがあるのに、カニがダメだったそうですね。
 食べられないという意味ではなく、私がゴキブリを見て逃げ回るのと同じで、蟹缶にプリントされた、あのイラストだけでも悲鳴をあげて逃げるレベルだったそうな。

 私も蟹は、そういう意味では得意ではありませんが(あの足の形状が蜘蛛っぽい)(特にお腹側から見るとおもわず目をそらすレベル)、でも家の中で遭遇するようなことはありませんもんね…;;
 なにが弱点かって、それはもうしょうがないことなんですよね本人にも。(^^;)

 皆様にもなにか、そうやって人を見たいときに使う話題って、おありでしょうか。

        ●

 Twitterのほうでは自衛隊の(ある意味)追っかけ状態となっておりますが、忘れてはなるまいと思うのは海上保安庁。
 ということで——5年ほどもまえのものだそうですが、見事な海保ダンスを。

海保ダンス ‐会いたかった(AKB48)‐ 
http://youtu.be/qov1x99O1RA


 衣装のこともあるしダンスもお上手ですねということもありますが、なにはともあれ、目を奪われるのはやはりそのバランスです。

 船はかなり右に左に傾いてます。観客側からの「こわいー」という声が聞こえるのは、その傾きの角度がちょっとヤバイのでは?! と思われるからでしょう。
 しかし、そんなことは気がついてさえいないような軽快なダンス……。
 お見事でいらっしゃいます。(真顔)

 やはり日頃の鍛え方が違うんだろうなということもありますが——しかし——こういう船で、領海侵犯や密漁をする船を取り締まる、何時間も海上でにらみ合う、………その過酷さをあらためて考えてしまいまして。

 動画を見て最初はびっくりして、笑って、感心して——で、最後にはほろりときて、拝んでしまう。
 そんな動画でございました。

 ちなみに。海難通報は「118」。
 海難事故もですが、密漁の通報もこちらへ。

海ものもしもは「118」番
http://www.kaiho.mlit.go.jp/joho/tel118/

(設置からだいぶ経つのにまだあんまり知られていないフシが……)

        ●

 移動に10数時間とか;;
 でも時差はあんまりない、というあたり、なぜか見ている方としては「楽」に感じます。なんででしょうね;;

 それでも、楽しそうなようすを拝見するとほっこりします。(^^)

 楽しいことが多くありますように。
 
 
関連記事
12:03  |  身辺雑記2015  |  EDIT  |  Top↑

2015.02.19 (Thu)

ごはんなう♡ その後

 今日は午前中は書類作りながらほけほけしてます。今週をなんとか乗り切れそうでよかった;;
 あとは税務署……。

au未来研究所が虚構新聞の次世代炊飯器「INFOJAR」を本当に作ってみる
http://youtu.be/SpKIqLu7osA


 うえの動画は限定公開だそうで、いつまで視聴できるかわかりませんが。
 そういうわけで、虚構新聞さんから始まった、瓢箪から駒の「次世代炊飯器」の顛末。

au未来研究所が虚構新聞の時世代炊飯器『INFOJAR』を本当に作ってみる

 こういう企画が通っちゃうところがすでに面白かったですが、本当に作っちゃうんですねえ。
 で、最初に策定された仕様。↓

 

【仕様策定】
・7インチフルHDタッチ液晶を搭載
・ごはんを炊きながらyoutube視聴可能
・スマホで炊飯予約
・twitterと連動。炊き上がりを「ごはんなう」ツイートでお知らせ



 7インチの液晶画面がつくとどうなるんだろうと思いましたが、意外といけますね。
 これでYouTube を見ることは、あんまりないような気がしますが。

 動画、「炊きあがりの喜びを勝手にシェア! 「ごはんなう」自動ツイート機能」のところでは思わず吹き出してしまいました。でも、これがなんとなくうらやましいというか、ごはんなう、のツイートは、ぜひ見たい。(^^)

 ほんとに作っちゃったんだ! というところが愉快でしたこのお話。
 冗談抜きでこれ、販売しませんか、 au さん(笑)
Firefox OS にしか出せない味」ってどんなんでしょう(笑) 気になりますよ〜。
 それを確かめるためにもぜひ一般に販売を(笑)

 
 あとは、炊き上がったら蓋を開けてごはんをほぐす(上下を入れ替える感じで)という作業もしていただければカンペキ、と個人的には思ってます。

 現在では、電気釜でごはんを炊くと「蒸らし」まで済んでいる状態なので、炊き上がったらすぐにごはんをほぐしていいそうです。
 炊き上がりからちょっと待って蒸らすのは土鍋などで炊いたときですね。(土鍋の場合は約10分)

 さりながら、この炊き上がりごはんをほぐすのを、断固拒否、という「流儀」もあるようです。

 炊き上がったときに、ごはんの表面に「カニ穴」と呼ばれる穴がぽつぽつあるのは、うまく火が通り、ごはんがおいしく炊けた証だそうですが、こういうときにごはんを「かきまぜる」とはなにごとだ! というご意見があるんですね。

 ………昔、合宿で、炊き上がりごはんをほぐそうとしたら(これは余計な水分でごはんをべちゃべちゃにしないため、という目的がある)、ごはんをかきまぜるな、と言い出す人がいて、あやうく朝っぱらから一触即発ということがありました。
 いまにして思うと、Kちゃんは、カニ穴があるんだったらまぜるな派だったんだろうなー。

 ちなみに、べつにこっちはごはんを「混ぜて」るわけじゃないよ、というのが私の言い分でした。
 混ぜてたらごはん粒がべしゃっとつぶれちゃう。混ぜてません。上下を入れ替えて水分を均等にしようというだけのことですよ?
 ………まあいいですけど。

 また、私はあまり水分が多くてべちゃっとしたのはよろしくないという価値観を植えつけられて育ちましたが(よーするにこういうのって親から受け継いでるんですよね)、「若蒸らし」といって、わざと蒸らしを省いて、水分たっぷり、みずみずしい味を楽しむというのもあるそうです。

 うーん。さすが日本人。
 米の消費量は下がる一方だといいながら、このわけのわからないこだわりの強さ。

 私は別にどっちでもいいです。はい。
 ただ、おかゆがちょっと苦手なくらいなので、いかな「若蒸し」ごはんといえど、限度ってもんがある、とは思ってますが。(^^;)

 そういえば、目玉焼きも、半熟からしっかり焼きまで、じつに個人の好みはそれぞれでした。
 ………そこまでいうなら自分でやれ(←不親切)

 たまに食べるごちそうではなく、毎日いただくものだからこそ、それぞれにこだわりがあるんでしょうね。
 でも、こだわりは自分を窮屈にするので、ほどほどにしておけば? とは思うけど。(^^;)

         ●

 どういうものか、ほんとに、ひどく久しぶりに感じました。
 嬉しいなという気持ちはたぶん、そのほうが強まるものでしょうけど。(^^;)

 祈ることはいつも同じですね。それは変わりばえしない。

 朝、半覚半睡状態で、すでに脳内で曲の再生が始まっていて、それを「聞き」ながら目が醒めるというのが続いていますが。
 あれ、脳内でなにか勝手にエフェクトかけるのかなんなのか、——「Fight the night」が聞こえているとき、なぜか、賛美歌を聞いているような、厳粛なものに触れている感覚があるのが不思議です。

 完全に起きだして、じっさいにパソコン等で再生して聞いているときはそういう感覚はないんですよね。不思議。

 脳みそって、じっさいには何をしている器官なんだろうか。(^^;)
 
  
 
関連記事
12:02  |  身辺雑記2015  |  EDIT  |  Top↑

2015.02.18 (Wed)

自己イメージ

 富士山のような岩山ではなく、こんもり木が生い茂った、しかも急峻な山を登ったことはおありでしょうか。

 傾斜が急なので、山道はジグザグに刻まれますね。日光のいろは坂みたいに、うねうねと曲がっていく道です。(九十九折 つづらおり とも言います)
 草木が生い茂った山道ですと、視界はききませんが、ところどころ、木の影がとだえ、背の高い草もない、開けた場所が出現します。そういうところにでると、素晴らしい景色が見えて、ほっと一息つきます。

 少し登っては視界が開け、また暗い森の中をたどり、また視界が開ける……というのを繰り返すと、うんざりしてきます。

 というのは、開けている場所というのはだいたい同じ位置になる。山道がくねくねしているからそういうことになりますが、そうすると、さっき見た景色、またさっき見た景色、さっきと同じだ、また同じような景色……になるんですね。

 どこまでいっても山道は終わらない、たまに見える景色は変わりばえもしない、同じところをぐるぐる回っているだけという感覚に襲われて、心底、うんざりする。

 同じことを繰り返しているようにしか思えない。
 見える景色はいつも同じ。
 ぐるぐる同じ場所を回っているだけ。上昇も成長もない。
 そうとしか思えない。

 そうとしか思えなくても。
 でも、そこで足を止めないで。

 ——だそうです。聞いた話ですが。

 自分の課題として背負っているものは、そうは簡単には解消できない。
 まさに、「重い荷を背負いて山道をいく」ようなもの。
 それでも、実感はできなくても、山道をのぼっている。

 つづら折りの坂道だから、直線ですっと上がっていくよりもはるかに時間はかかるけど、進んでいる。
 同じ景色に見えても、同じではない。ちゃんと角度にして何度か上がっている。確実に。
 実感は薄くても、それは確かなこと。
 だから、自暴自棄になって歩みを止めることはしないで。

 ………ということを聞いたときに、なるほどなと思ったんでした。

 課題となっているものを少しクリアする。課題の解決ができた、と、しばらくのあいだは気分もいいし高揚感もある、でも、気がついたらまた、同じような課題に直面している。

 それでも、以前よりは課題の重さも変わっているし、心構えも変わっているし、これにはどう対処すべきかという「知恵」も、以前よりは身についている。
 課題は、そう簡単に解決できないからこそ人生の課題なんで、1回ですべてをクリアできるというものではない。

 つづら折りの、効率の悪い坂道でも、登っていくしかない。
 同じ景色に見えても同じじゃない。
 歩いてきた分だけちゃんと上に登っている。

 少しよくなったかと思うと、また同じような課題にぶつかる、というのはまったくそのとおりですね。
 ただ、少しずつ、角度も上がり、かかる重さも、「楽」にはなっている、と感じます。確かに。

 それに。
 何重にも何重にも包み込まれていたものがあって、ひとつずつその包みをほどいていく作業もしています。

 ここ最近、またその包みがひとつ開きつつあって、それが、「自己イメージ」。
 私はこういうもの、私はこういう存在、と、自分で思い込んでいるもののことですね。

 単純に、自分の性格はこうと思い込んでいるレベルから、より深い場所、核心へすすんでいると思うのですが、最近その存在を感じている自己イメージがなかなか——グロテスクで。

 どうしても自分を好きになれない、というより、好きに「なってはいけない」という強いブロックが私にはあります。
 自己否定と自己嫌悪。苛烈な裁きの言葉、懲罰、というものがもんのすごく強い。

 自分を好きになってはいけないし、他人様から好かれるなんてのは言語道断。そういうブロックです。

 そういうものを解放しようとして、ひとつずつ、「包みを開けて」きましたが。

 最近、さらにもうひとつ、深い場所にある包みを開けようとしているのですが、これがもう——怖くて。
 自分で自分をこういうものだと思っている、そのイメージがじつにグロい;;
 すでに人間じゃない。

 醜い。
 あまりにも形がぐずぐずに崩れている、肉の塊。
 それに、ひどい腐敗臭。
 ゾンビならまだいい。
 人間じゃない。その形はしていない。
 醜い生き物。

 ビビっていてまだ完全には「見て」いませんが、そういうものです。

 自分で自分をそんな醜悪な生き物だと見なしているなら、そりゃ自己否定も自己嫌悪も強くもなるわな、と思っているところです。
 包みをほどいてこれを外へ出そうと思うと、それだけで手が震えてきます。たとえじゃなくて、本当に。
 この醜い生き物は恥じているんですね。とても、人の目に触れる場所へ、出ていける姿ではないと知っている。

 だから外へ出そうとすると、すごい抵抗があります。
 それでも、これがあることに気がついたこと、ほんの少しだけど包みを開けたこと、それだけでも、たいへんな進歩ですね私には。

 以前ならこれを詳細に分析しないといけないと思ったでしょうが、いまはもう、そういうことはやらなくてもいいと思ってます。
 アドラー心理学的に。(^^;)

 原因はもうたぶんわからない。原因はどうでもいい。ただ、このイメージを変えていけばいいだけ。

 それがわかっているぶんだけ、以前よりは成長したんだなーと思ってます。
 同じ景色に見えていても、ちゃんと山道を登ってきたんでしょうね。

 この醜悪な自己イメージを変えること。
 それが、また課題として目の前に現れているようです。

 この作業、これでもう何度目だよ……とうんざりしているのも確かなんですが。

 足を止めるな、だそうですので。
 また、頑張ってみます。

 さしづめ、剣を使わずに、ゴルディアスの結び目を解こうとしている、ってところですかね。


ゴルディアスの結び目 (ハルキ文庫)ゴルディアスの結び目 (ハルキ文庫)
(1998/04)
小松 左京

商品詳細を見る

 
 
関連記事
11:56  |  身辺雑記2015  |  EDIT  |  Top↑

2015.02.17 (Tue)

新しいということ

 作り手ではなく、誰かが作ったものを見聞きする側の話ですが。
 二言目には、新しいもの、新しさ、ということを言う人がいるんですが、そりゃホントかい、と思います。

 その昔、「オタキング」岡田斗司夫さんだったと思いますが、「イタダキ・シルクロード」という、ちょっとすごいチャートを作ったことがありました。
 アニメや漫画、ドラマに映画、小説、といったものが、いかに影響を与えたり与えられりしているかが一目でわかるというシロモノ。

 それを見ると、ものすごいオリジナリティをひっさげて登場した、と思っていた作品も、ほかの作品からの影響を受けているものだったり(インスパイアされるってやつで)、先行する作品への敬意が詰まったものだったりで。
 
 厳密な意味での、新しいもの、というのは、なかなかあるもんじゃないんだなと思いました。
 換骨奪胎、温故知新。インスパイアにオマージュ。
 あるいは、ある映画の1カットから刺激されて浮かんだ妄想。
 ただ、それが才能ある人だったから、単なる妄想に終わらせず、みごとにひとつの作品にしちゃった、というものもある。

(黙っていれば誰にもわからないのに、インタビューでそれをバラすところが、人間の可愛いところでしょうね)

 真の意味での「新しい」ものは、そうそうあるものではない。

 だいたい——本当に新しいものが登場したとき、あなたはそれを正当に評価できますか? と思うんですよね。

 二言目には、新しいもの新しいものといい、既存のものを古い古いと言いたがる人のほうがむしろ、ものの見方が保守的だと感じることが多いので。

 アニメはこういうもの、漫画はこうあるべきもの、映画はあれが王道でそれは邪道、みたいに、自分の固定観念による判断がモノスゴイことになっている。(私から見るとですが)
 
 正直なところ、こういう人こそ、本当に新しいものが登場したときは、真っ先に拒絶反応を示すだろうなと思います。

 過去、それでも人類史上には、ほんとうにそれまでの社会にはなかったものを作り出した人はいるわけですが、そういう人たちのほとんどが、周囲からの理解を得るまでにたいそう苦労したり、あるいは、その人が生きている間にはとうとう理解されず不遇のままにおわり、評価されたのは彼の死後だった、みたいな例も少なくない。

 新しいもの、というのは、既存の評価基準はあてはまらない。
「イタダキ・シルクロード」のような、「文脈」を持たない存在であるだけに、読み解いていく手がかりもない。

 突然変異か、さもなきゃエイリアンみたいな存在なんですよね——新しいもの、って。
 評価するための基準は、受け取るこちらもまた、手探りで積み上げていく必要がある。

 既存の価値観や基準点や文脈を「捨てて」、その見たこともないものを見て聞いて探る。
 これはなかなか知的な作業だし、知的であると同時に、「すなおであること」という、人の性質も必要になる、全人的な「課題」になるでしょう。

 なんでもかんでも新しいものを喜び、新しければ良質なのだと信じこみ(そんなわけはない;;)そうではないものをひどく見下す、単純な二元論の人に、全人的な素養があるとは思えないんですよね。
 
 あれほど新しい、新しい、という人は、じっさいには、何を求めているんだろう、と思います。
 あなたにはきっと、新しいものが目の前にあってもわからない。あなたにはそれを判断できるだけの、好奇心も、すなおさもない。知識はお持ちではあるでしょうが、知識だけでは、エイリアンとは向き合えない。

 ということを、ちょっとストレス溜め気味で思っているので書かせてもらいました。(^^ゞ
(王様の耳はロバの耳ー!!)

(ものを作る側の人が、新しいものを求めていくのは当たり前のことですが、見聞きする側がそんなえらそうに……と思うことがあったもんでつい;;)

         ●

 考えてみると、ここんとこ、車を走らせても、超渋滞かさもなきゃ渋滞、ということばかりで気がつきませんでしたが。
「35XXXV」は、ドライブのお供にはたいへんよろしいようです。
 たぶん、これまでのどれもがそうだったと思いますが、ことさらに。

 昨日はもうひさしぶりで道も空いていて、気持ちよくとばして帰ってこれましたが、音の疾走感が心地よかったです。
 
 その昔、同じくひとりでふらっとドライブにいく癖がある友人が、一回りして帰ってきたときに、ちょうど気に入りの曲がかかったところだったので、自宅周りをもう1周した、といっていましたが、私も、車を降りるのが惜しく思えてあやうくそのへん、ぐるぐる回ってくるところでした(笑)

 中毒性がある、と私もよく言いますが、これは比喩でもなんでもないのです。
 ほんとうにとめられない状態になるところがあるんですよね。(^^;)
 
 
関連記事
11:22  |  身辺雑記2015  |  EDIT  |  Top↑
 | BLOGTOP |  NEXT