人はなにとも言わば言え
2014年07月31日 (木) | 編集 |
 私は自分が十代のころは、いわゆる「若者言葉」を、その語感もなしにしゃべっている(しゃべろうとしている)大人たちには、困ったなあ、という気持ちでへんな愛想笑いをしていました。

 気持ちとしては、その若者言葉を使った会話につき合ってあげたいのですが、やはり、「意味を知っている」のと「語感がある」のとは、似ているようで全然ちがうことなんですよね。
 ゆえに、大人たちが使うその若者言葉、たしかに間違ってはいないはずだが、でも、何かが違う——と感じ、どうも困ったな、と思ったんでした。

 あのなんともいえないビミョーな気持ちは、自分がいいおばさんになっても、感覚的に残っています。
 ということで、私は「無理して若者言葉は使わない」ようにしよう、と、心密かに思ってきたのでした。

 先日、「中2病」なる言葉が、最初に言いだされたときとはまったく異なる意味を帯びるにいたり、もはや意味不明の言葉になった、ということを申しましたが。
 そういう、「迷子になった言葉」のひとつに、ネトウヨもありますね。

 いやこれ、冗談抜きで、正確にはどういう意味なのか、誰か教えてください。
 どうも見ていると、シナや朝鮮を嫌いというとネトウヨといわれるようですが、アメリカ嫌い、ロシア嫌い、というのが、ネトウヨと呼ばれていることはないようなので。

 ………意味がよく……わ、わか、わからな…;;;(←困惑)

 どうも、シナや朝鮮を「嫌い」だというと、ネトウヨだとめでたく(?)認定されるらしいんですが、そういう理解でよろしいのでしょうか。

 ネトウヨってたぶん、言葉をもとの状態に戻すと「ネット右翼」ですよね?
(いまことえりちゃんは、熱湯浴、と変換した……石川五右衛門か)

 原形に戻してもやっぱりわからない。

 ただ、罵言として使用される、ということだけはわかる。(^^;)

 もし、シナや朝鮮のことを嫌いだというとネトウヨだというのなら(しかし、この2つを嫌うことの、どのへんが右翼になるのだろう)、まあ、私も立派にネトウヨでしょうし、私としてはむしろ、そう呼ばれることを誇りとしたいですが。
 でも、私はこういう言葉が発明される30年もまえから、この2つは嫌いでしたからねえ。「いまさら何?」という感じです。(^^;)
 歴女、というナゾの言葉を聞いたときも、「いまさら普通名詞?」と思いましたが。
 
 ネトウヨにはレイシストという意味もあるのかな。
 しかし、そんなことを言うのなら、シナや朝鮮の、日本に対するこれまでのありとあらゆる仕打ちは、なんと呼べばいいんですかね。——というのは言葉のあやで、なにもこんなことを議論する気はないのでおかまいなく。わかりきってるもんね、そのあたりは。

 私が真にレイシストなら、嫌う相手はシナ朝鮮ばかりではないはずです。
 しかし、基本、親和欲求の高い人間ですから、その国名もしくは民族名を聞いただけでおぞけをふるうような対象は、私にはありません。
 好き嫌いは激しいが、理由もなく嫌ったりはしませんよ。
 ここまで嫌うからには相応の理由があります。

 嫌う——というよりも、最近では、もう怒りもしない呆れもしない、ただただ、関わりを持ちたくないと願うばかり。

 ネトウヨといいたければいくらでもどうぞ。

 ただし、コスモポリタンなんて寝言を言うヤツのいうことを、私はまともに聞く気はありません。

 移民の危険性についても、人間の「根」というもの、存在の根幹を軽んじている、「“人間”を尊重しない」、冷酷無情の考えには正直言って、「イタマがアタイ」(©小松左京)とは、申し上げたいと思います。
 存在には根というものがある。
 これをぶったぎって、勝手な、表面的なことばかりをいうエゴイストは、人間社会の調和という側面から考えると、たいへん危険な思想の持ち主だと私は思っております。

 植物の根は目に見えるけれど、人間の存在の根は目には見えない。
 目には見えなくても、それはそこにある。

(そんなものはないというなら、それならなぜ、第3者からの精子提供によって生まれた人は、あれほど、自分の『遺伝上の父親』を知りたがるというのか)

 そういう、根本的なことを無視して、ただ自分の利益になることばかりを考えている、「平和のためなら人を殺しても罪にならないと主張する平和主義者」、たとえばそういう人たち。
 これ以上ないほどエゴが肥大した人に、なんと言われようと、私は取り合う気にはなりませんね。

 移民制度になぜ反対かを説明するのは時間がかりそうなので、そのうち気が向いたら。

 移民制度には反対。
 でも、労働市場等、「人が移動する」ことには賛成。

 この違いがわかる人には、説明するまでもないはず。
 
 てことは、必要のない説明をえんえんしなければならない人間はどういう人か。
 考えただけでめまいがするので、——体調もメンタルも夏バテのいまは、ご容赦を。(^^;)

 
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人間の証明
2014年07月30日 (水) | 編集 |
 昨日は完全におやすみにしてしまいまして。m(_ _)m

 と申しますのも、うちの母親がいきなり入院となりましたもので。(^^;)

 本人としては大した自覚はなく、ただちょっと、どうも不調がつづいてしまってしつこい、と思い、病院へいきましたら、大きな病院を紹介され、しかも「すぐに行け」と言われて急いでいき、あっというまに入院です、となりました次第で。
 検査入院というんですかね。入院中もあまり制約もなくて呑気なものですが、しかし、2週間は予定されているとのことなので。

 それにしても、いきなりの入院ということで、支度や手続きや先生や看護師さんからの説明が山盛り。
 さすがの私もパソコンのまえに座っていられませんでした。(^^;)

 単純に考えても仕事量2倍なんですが、おまけに、間の悪いことには、地元の行事も重なっている。
 あちこちに母の入院の知らせをするたびに、「お母さんもだけど、あんたが大丈夫?」と聞かれるのですが、どうなんでしょう。
 私にもわかりません。(^^;)
 しかしこれで私が倒れると、人間のことよりネコの世話が一大事なので、倒れないように頑張ります。

 まあ、やれることをやる、ってことで。

          ●

 またも未成年者(しかもハイティーンですらない)による殺人事件ということで、世間ではまたかまびすしいことですが。

 命の大切さの教育がどうこうという、まあそういう議論もあるでしょうが、私は何よりも、被害者のご家族のために、可能な限り、静かにしてほしいという気持ちもあります。

 死人に口無しといいますが、ほんとにこの国では「死人には人権なし」だな、と思います。まあいつものことだけど。

 加害者は法律によって保護されるが、被害者のプライバシーは丸裸にされていく。
 私は基本、人間嫌い、人間不信、とくに「世間様」というモンスターに、言いようのない強い恐怖と嫌悪を感じるもんですから、いつものこととはいえ、やはり不愉快です。

 今回のこととあわせ、最近、「核家族化が悪い」というご意見をお見かけします。
 大家族で、祖父母というような人たちがいないから、子供たちを守る力がなくなっている。と。

 浅薄なご意見だと思います。

 子供への虐待の例の中には、同居の祖父母も加担しているケースが少なくないことを、どうご説明なさるおつもりなのでしょうか。

 家族であるからこそ、「家族内殺人」は、秘匿が可能です。
 私はそういう意味では身内をこそ、もっとも信用できない、と思っているようです——無意識に。
 法律の問題としてもじっさい、身内の証言て、アリバイとしては採用されない——ということはありませんが、必ず信用されて採用されるというものでもない。

 なぜと申しますに、刑法の、犯人隠匿、隠避、証拠隠滅のそれぞれの罪において、身内のものの場合は、罪を軽くできるという規定があります。
 犯人をかくまったり逃がしたりというのは重罪ですが、身内の場合、人の心情として、汲むべきものがある——場合がある、という理由によるようです。

 家族の中で申し合わせてしまえば、いわゆる完全犯罪はそう難しいことではない。

 この場合、関与する人数が増えると、その計画もほころびが出る可能性が高くなりますが、まあ、その程度のことじゃないの、大家族の「メリット」って。——と、妙に冷めてしまう。(^^;)

 明治以降の、戸籍制度がかなり確定的になる以前の日本なんて、じつにそのへん、いいかげんでしょ。
 口減らしで子供を殺す(間引き)。姥捨がある。一見、子福者(こぶくしゃ)のようだが、じつは「要らない子」はどんどん里子へ出す。帰ってきてもすぐほかへ里子へ出す。
 
 事情があって、私も、自分の先祖に関係する家を調べたことがあるのですが、まーほんっとにいいかげんですよ。
 ぽこぽこ子供を産んでは他へ出す。どういう事情があったのか、里子へ出しては戻され、でもまたよそへ出すというのを繰り返す(しかも複数人)ため、結局どうなったのか追跡できなくなった「行方不明者」がいます。

 私の傍系尊属にあたる大叔父(私の祖父の弟)は、最期のようすはちゃんとわかっているのですが——祖父が看取りましたので——戸籍を調べるとこの人の姓が正確にわからない。この人も複数回、養子に出され、戻され、また養子になっている。
 過去帳にも、名前はあるけど名字が書いてなかった。

 ひでえなと思いましたよ。
 ゆえに、個人的に、このかたの名前で供養を出したとき、私は彼の俗名については、うちの名字を書きました。
 どこへ養子に出されようが、生家はこの家だ。
 過去帳くらい、ちゃんと名前を書いてやれこのオタンコナスども。——そう思いましたわ。

 すごいもんですよ、「昔の大家族」とやらの正体は。

 筋目正しいハイソなお家柄ならいざしらず、私ども庶民の大家族に、あんまり過剰な幻想を求めるものではない。
 あたしゃそう思いますね。

 大家族だろうが核家族だろうが、そこにまともな人間がおらず、愛というものがないのなら、結論は同じです。
 懐古趣味はとめないけど、もうちょっと人間の本質そのものを検討するようにしたらどうなのか、と思いますね。正直言って。
 もっとも、こういう、「大家族ってすばらしい」という思いがある人は、うちと違って、立派なご先祖さまがおいでなのでしょうね。
 ジジババの昔話を聞いても、いいな、と思えるようなお家でいらっしゃるのでしょう。
 うらやましいですよ。

 でも、世の中はそんなご立派な人間ばかりじゃありませんし、社会の中でこうやって大問題を起こすのは、そのまともじゃないほうなんで。
 無意味な懐古趣味に浸って現実を見落とすのも、どうなのかしらと思っております——ロクデナシの子孫としては。

 
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迷子になる言葉
2014年07月28日 (月) | 編集 |
 昨日、暑さでぼーっとしたまま書いた「ただしイケメンに限る」に対するイチャモンですが。

 たいへん失礼いたしました。
 あれ、本来はそういういじけてひがんでそねんでいるものではなかったのですね。

 ニコニコ大百科を最後までちゃんと読んだら書いてありました。
 適当にさーっと読むだけではいけませんね。反省します。m(_ _)m

「※ ただしイケメンに限る」とは
ニコニコ大百科

 私が解釈したように、これを、いじけ、ひがみ、そねみ、という解釈で読み書きする人がけっこういるのは事実のようですが、ニコニコ大百科の解説によりますと、

「この定形文をネガティブなもの・差別的なものと誤解して批判を加える論者が少なくないが、もともと非イケメンが自身や非イケメン同士の間で自覚自重を呼びかける言葉であり、だらしねぇ勘違いへの戒めの心、俺ら彼らの基底に流れる哲学の一種なのである。
イケメンから非イケメンに投げつけられる差別であるとか、逆に非イケメンからの怨嗟や攻撃であるとか、誤った解釈で論じられるケースが近年増えているので注意が必要である。」


(赤字、大文字:引用者)

 とのことです。

 つまり、本来は、ひがみ、いじけではなくて「自重」のためにいうフレーズであった、と。

 さりながら、差別、怨嗟の言葉として解釈され使用される——というのは、しかしこれ、仕方がないのかもなあ。
 何も知らずにとっさにこの言い方をみて、まして前後の文脈からしたら、自重というニュアンスは伝わらず、
「ずいぶんイジケたことを言うんだな」
 としか、思えないですね正直言って。

 とはいえ。
 くどいようですが、イケメンであるかどうかにこだわる、その価値観に基づいて、「哲学」としている時点でもう、ねえ……。

 自戒や自重、「だらしねぇ」ではなく「歪みねぇ」であろうとする、油断しないでいこう、という意味であるなら、なるほどと思いますが。
 
 うーん。そういうことなら、イケメンなどという「浅い」表現ではなく、もうちょっとこう、人が生きるうえでの姿勢、気概(きがい)、背筋を伸ばして威風堂々、というような系列の表現にすればいいのに、とは、思います。

 多少、顔がいいとか悪いとかっていっても、そんなん、たいしたことないもんなー。
 せっかく、自戒や自重、「ゆがみない」オトコマエとして生きようという意味を持たせているというのなら、もうちょっと、そのニュアンスが伝わる表現を考えたほうがよろしいのでは。

 じっさい、本来のニュアンスは伝わりきらなくて、ひがみ、そねみの表現として使う人もいるし、それはそのまま、自分の容姿にコンプレックスを持っているのだなという解釈もされてしまっているわけですね。

「伝えたいことを伝える」というのは、やっぱり難しいものですよねえ……。

 とくに、こういう、俗語というか俚言(りげん)というものは、きちんと意味が定義される機会がないまま、かってに世間に広められていくので、「もともと」「本来」の意味やニュアンスからどんどん逸れていく。そういう危険性は高いですね。

 その代表格は「中2病」でしょうね。
 私はいまだに、これの正確な意味がわかりません。(^^;)
 
 さんざん巷間、勝手な使用をされたために、その言葉のオリジナルである、伊集院光さんが、とうとうその言葉を「放棄」しておしまいになりました。
 言いだした人が、「世間ではもう自分が言いだしたときの意味とはまったく違って広がっている。自分はもうこの言葉を使わない」と宣言して放棄したというのは、なかなか、由々しき事態だと私は思っております。

 中2病がわからない、と思っていたら「高2病」「大2病」なんて言葉をも見てしまい、これはもう、使用者がどういう意味で言っているかは推測することもできないなあ、と。(^^;)

 バベル。

 言葉、というのは、やはりデリケートなものですね。

「ゆるキャラ」(©みうらじゅん)みたいに、具体的な「物体」があるものなら、ここまで意味が混乱することもないんでしょうが、抽象概念の場合は、そのへん、難しいですね。

 
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そもそもイケメンはいない
2014年07月27日 (日) | 編集 |
 今年の隅田川花火大会は無事、実施、終了した由、よかったですね。
 去年でしたか……なんだかもう、大変なことになっていたのは。

 私も今年はもういちど、福島県は南相馬市「相馬野馬追」に行きたかったんですがねえ…。今年は諸般の事情で身動きが取れないことはわかっていたので、あきらめました。
 今年はおとなしく、地元で労働しております。
 そんなわけでさきほど帰ってきて、ひとまずお風呂に入りました。

       ●
 
 ときどきニュース等のコメント欄がわりのツイート群を眺めていると
「ただしイケメンに限る」
 という、意味不明の文言をおみかけします。

 ……最近は見る機会も減ったかな。
 一時期はやけに見かけたので、「なんだこれ」と思っていたのでした。

 拝見していると、どうも女性はこういうコメントをつけることはあまりないようで、「ただしイケメンに限る」という条件づけをしているのはむしろ男性のほうが多い。
 しかも、そのたいていが、いじけて僻(ひが)んで嫉(そね)んでいるニュアンス。

 ニコニコ大百科の解説によりますと、どんなモテ要素でも、ブサイクだったらダメだし、どんなマイナス要素でも、イケメンだったらモテるだろう、というようなことを示す定型句なんですね。ふーん。

 率直に言えば「そんなわけねえだろ」です。

 男性から見た女性の「イケている」というのは、わりと共通認識化が容易のようですが、女性からみた「イケメン」というのは、かーなり、個人差が激しいというのが、実際のところじゃないですかねえ。

 なにしろ、男性は、異性については見た目がなによりも大事のようですが、女性の場合は、見た目も、まあそりゃ大事ですが、ここにまず立ちはだかるのは「好み」というもの。

 とある男性を見て、素敵だわと思っても、案外、友達からは「ええ〜?」という、かんばしからぬ反応がかえってくる。そういうことは多いです。
 そりゃもう好みとしかいいようがないですよこのへん。(^^;)

 私は顔より声に弱い。
 一目惚れはしたことはないが、一耳惚れはしたことがある。
 ちょっとフェティッシュなんですねそのへん。

 あと、最終的に、女性に好かれるかどうかは、顔ではなく「感触」かもしれない——などといって、納得してもらえるものだろうか。(^^;)

 文字通り、「肌が合う」てやつですね。

 その男性が自分にとってアリかナシかを判定するのには、確実なのはキスをすることだけれども、なかなかそうもいかない場合、ともあれ「握手」で見極めるという人もいますね。
 最終的なところは、触覚。

 とはいえ、女性の場合は脳梁が太いせいもあるのか、五感を活用することが多いので——私のように聴覚優先とか、触覚、嗅覚、と、それぞれの感覚器官を使うんじゃないかな。

 女性の場合「ただの面食い」が、仲間内ではなんとなく馬鹿にされるというか、「幼い」というような見方をされるのは、そのへんが理由かなと思います。

 逆に言うと、男性というものが如何に視覚だのみであるか、というより視覚「しか」使っていないか、ということが、「ただしイケメンに限る」という、いじけた言い方から察せられる。

 といったら怒られますかね。(^^;)

 イケメンに限るといいますが、男性の場合、女性よりも格段に「美しい」人って少ないじゃないですか。
 美人というのはもちろん希少性がある存在ですが、その男性ホルモンの働きによって骨格から筋肉から、ゴツゴツとした形状へ変化する男性の場合、「美人」は、女性よりももっと少ない。

 ということは、世の中の大半の人間は、美人でもないしイケメンでもない、ということですよ。
 それだって世の中には恋をする人が大勢いるんですから、なにもそう、自分で勝手にイケメンではないからダメだ、という「限定」を作り出すことはない。

 女性からどうも人気がない、と思うのであれば、それは顔のせいではなく、むしろそうやって、「どうせ自分はイケメンじゃないし」といじけている、そういうものの考え方のせいじゃないですかね。
 誰だって、いじけてひがんでウジウジしている人というのは、敬遠しますよ。男女ともに。
 ご自分はいかがですか。
 こちらがなにをいってもイヤミや皮肉、いじけたことばかり言う人がそばにいたら、楽しくないと感じるのではないでしょうか。

 しかしそれだけ、男性が視覚「しか」使わない、という実態——自分がそうだから異性たちもそうだろうと思い込んでいる——、そういう事情をも暴露している言葉なんでしょうね。
 人間は無意識に自分を基準にしてものを判断します。自分がそうだから、世の中の人間全部もそうだろう、そのはずだ、と。

 イケメンしかモテない、イケメンではないヤツは「ダメ」なんだ、という人は、ご自分自身が、他人を見た目「だけで」判断している、ということを、みずから語っている。
 
 イケメンという言葉もじつは、「スイーツ」なみに私は好きな言葉ではないので、男前、という言葉が復活してきたときは嬉しかったですね。
 いい表現だ。男前。

 イケメンとはすなわち「イケてる面」なんだそうですが(こう書いちゃうと、面は、メンじゃなくてツラって読んじゃうな)、そうだとするなら、浅いなあ、と思うからです。
 先ほども申しましたように、女性同士では、面食いというのは、幼い、未熟、浅い、という感じで、軽蔑はされないにしても、間違っても尊敬されることはありませんからねえ…。
 なんだい、人を見るのに、基準はツラだけかい。——そう思うと、イケメンという言葉は、「スイーツ」なみに、どうも気に入らない。というのが私の本音。(^^;)

 イケメンではなくとも——なくとも、って、世の中の大半がそうなんだから——、それは基本、モテないことの理由ではない。
 それを認めることのほうが、むしろキツイかな? (^^;)

 自分がモテないのは顔のせいではない。
 ほかのことが理由で異性にモテない。
 それをはっきり認めるのは、つらい?
 
 私としては、「ただしイケメンに限る」を見るたびに、不快であり、と同時に、「なんでそんなウソをいうの?」という疑問も感じておりました。

 ウソはそっちだ、だって自分の周りは顔で判断する女ばかりだ、というのなら。
 あなたの年齢がまだ若いというより「幼い」か。
 そうでなければ、それはあなた自身の「異性を外見でのみ判断する」ありようを、反映したものだ、ということではないでしょうか。

 引き寄せの法則というのがありますが、「類は友を呼ぶ」というのがいちばんわかりやすい身近な「引き寄せの法則」による現実じゃないでしょうか。
 私はむしろ外見でしか男性を判断しない女性には会ったことがありません。
 ゆえに、そういう女性の悪口を聞かされると、「そんな女、ほんとにいるの?」と不思議に思うくらいです。

 ヒントはやはり、「類は友を呼ぶ」、ではないでしょうか。


 ……この暑いさなか、ぼーっとしていたら、そんなことを思い出しまして。
 暑さに茹だりながら、書いてみました。
 そういえば、と思い出したことを書いただけなので、オチはありません。(^^;)
(いつもそうだけど;;)
 
 
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グレーテルのかまど
2014年07月26日 (土) | 編集 |
 羽海野チカさんの「3月のライオン」に登場するラムネ。
 昨夜、なにげなくテレビをつけたら、NHK「グレーテルのかまど」で、とりあげていたのでした。

NHK「グレーテルのかまど」
http://www.nhk.or.jp/kamado/

羽海野チカさんのラムネ(レシピ)
http://www.nhk.or.jp/kamado/recipe/22.html

「グレーテルのかまど」は、いまだにどこが本放送の時間帯なのかわかっておりません。(^^;)
 昨夜のは再放送だったそうです。

 見ているとなんだかほわほわと、気分がほぐれていく、「食べ物」、「お菓子」にかかわる番組。
 設定としては、ヘンゼルとグレーテルの、「子孫」である、姉弟が住む家。
 語り手は、あの物語に登場したらしい「かまど」。

 お姉さんのグレーテルはほぼ登場せず、弟のヘンゼル君が、お姉さんのメモに従って、いろいろ、食べるもの(たいていはお菓子かな…)を手作りします。
 かまどの精はそれを指導したりコメントしたり励ましたり。

 今回はそんなわけで、手作りラムネ。
 ラムネと言っても飲むほうではなく、あの、駄菓子屋さんで売っている、かりかりっとした、食べるほうのラムネですね。

 そういえば私もあれは久しく口にしていませんが、好きだったなー。
 今回紹介されているラムネも、口溶けがよろしいようで。(^-^)
(でも自分が作るとは言わない…)
 レシピはPDF版もあります。(^-^)

 ラムネはいまや、Ramuneと表記され、海外にも紹介されるようですが……。

アメリカ人「日本のお菓子を色々食べてみた!」 海外の反応。
海外反応! I LOVE JAPAN 様  2014年07月20日23:38
http://blog.livedoor.jp/zzcj/archives/51869561.html

 ラムネはもう、外国でも、ラムネとしか言わないんだろうなあ。

 英語ネイティブのかたがたは、この日本のラムネなるものが、本来は「lemonade」(レモネード)だったなんて、想像もしないんだろうなあ。

 あんまり訛(なま)りがすごいので、その原型が、日本人にすら想像できないものってありますよね。(^^;)
 ラムネはレモネード、ミルクセーキはミルクシェイク、ミシンはソーイングマシン、背広は…… civil clothes か、Savile Row(ロンドンにある町、というか通りの名前)とも言われます。

 私が、もっとも最近になるまで気がつかなかったのは、野球の「スクイズ」。
 これが squeeze だなんて…! 気がついたときは「ああっ?!」と思わず叫んじゃいましたよ。
「スクイズってもしかして……!」
 正確には squeeze play だそうですが。
 正岡子規は知っていたのか?

 ……なまりすぎだろ明治時代〜の日本人……。

 ともあれラムネ。

 作っているようすはほとんど落雁(らくがん)で、なんだかいろいろ、懐かしくなりました。(^-^)

 私がよく覚えているのは、あの飲むラムネのビンの形をした、プラスチック容器に、コロコロとした食べるラムネが入っていたもの。
 値段は覚えていない。
 ラムネとはいえ実際の飲むラムネとはまたちょっと違う味なんですけど、あれ、好きだったなー。
 いま調べたんですが、森永製菓さんだったんですね〜。

森永製菓 ラムネ 商品紹介
http://www.morinaga.co.jp/ramune/prod.html
 
 あと、「クッピーラムネ」。
 ……買える……買おうと思えばネットで買える……。(←だんだん目つきが本気モードに…)

クッピーラムネ
カクダイ製菓株式会社
http://www.kuppyramune.co.jp/items.html


 ところで。
 私はスイーツという名称には好意的ではなくて自分では絶対使わないんですけど(スイーツと書いてあっても、自分が話したり書いたりするときは、お菓子とかデザートとかと言い換える)、どうしてなんでしょうねえ。(^^;) 
 スイーツという言い方が好きではない、と感じるのですが、なぜ、好意的になれないのかは、自分でもナゾです。

 好き嫌いって、どこから出てくるのかなあ、と、たまに不思議に思います。
 
 
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天と地の間に
2014年07月25日 (金) | 編集 |
 梅雨明したと言われていますが、実質的にはまだじゃないかなと思ってます。
 毎朝、起きると空気がものすごい湿気。
 かえりみれば、山は水の中に沈んでいるように、雲というより超絶濃い霧の中に包まれたようになって、ぜんぜんその姿が見えない。
 夏の朝曇りは女の腕まくり、とはいえ、この湿気はやはり、夏の朝のそれではない。

 私は暑いよりも湿気に弱いところがあるので、今朝はちょっとぐったりしてます。
 心なしか、胸が苦しい。
 恋をしているから……ではなくて、不整脈のケがあるからです;;
 ……ああ、色気がない;;

        ●

 最近、D-life(ディーライフ)さんのおかげでアメリカさんのドラマ漬けにちかいことになっております。
 なんだかんだいっても、やはり面白いなと思います。

 現在ですと、BONES、CSI各種、NCIS、ナンバーズ、ねじれた疑惑。
 懐かしいところでは「ジェシカおばさんの事件簿」。
 来月からはこれまたおなつかしい、「X−ファイル」開始だそうです。

 あんまり犯罪サスペンスものばかり見ていると、なんか感覚がおかしくなりそうなときもあるので、それほど真面目にちゃんとは見ていませんが;;(ドラマ冒頭の10分、最後の10分で間に合わせることもある;;)

 それでまあ、こういうサスペンス系を見ていると、アチラの「タフガイ」てのは大変だのう、としみじみ思います。
 あのタフガイというのが西欧の——アメリカさんはとくにその傾向が顕著なんでしょうが、キリスト教文明のマッチョ好きが具体的な姿になっているので、あらためて、ふーん。と思っております。

 頭がよくて体力的にも24時間戦えます状態で、仲間や「チーム」には情が厚く、しかし「敵」には容赦がなく、感情的に動揺せず、冷静で、頼りがいがあり……。

 いるかこんなヤツ。
 
 と、たまにつぶやきが漏れてしまいます。(^^;)

 アチラのネット掲示板でも、「自分は男だから泣かない」とか「男だけど泣きそうになった」みたいな書き込みはけっこうあって、マッチョ信仰の社会は息苦しそうだなあ、と同情します。
 男だから女だからという「縛り」がキライだから、つい。(^^;)

 とくに、泣く、というのは人の健康にはむしろ必要なことなので、——日本人のように「怒ってはならない」という抑圧もやっかいですが、「男はかくあるべし」の抑圧が強いのを見ると、
「気の毒に。心臓疾患が多いわけだよね」 
 としみじみ思います。

 ドラマでそういう、ステレオタイプというべきなのか、理想像と呼ぶべきなのか、ああいうマッチョなタフガイ、というのを見ていると——CSI系;ギル、ラッセル、ホレイショ(名前にときめくねえ♡)NSCIのギブス——、無関係の立場で眺めている分には面白いけど、こういう人とは関わり持ちたくないなーとしみじみ思います。(^^;)

 体力面はもちろんのこと、精神的なタフさを前面に出しているので、面倒なことはこういうひとにやってもらえばいいや、という、「便利」さは感じますが、お友達にはなれないなあ。(^^;)
 ある意味、とても、「非人間的」に感じます。

 でも、男性がセカンドバッグを持つだけで「ゲイだ」と決めつけ、ののしり、涙を見せることを絶対的禁忌とする、マッチョなキリスト教文明のエッセンスが、こういうキャラクターに現れているのだ、と思って眺めると、これはこれで面白い。

 私はもっぱら、事件の展開、「知らないことを知る」面白さ、というところで見ているので、登場人物に好意を持てなくても、ドラマを見ることは可能です。
 というより、へんに感情移入しないぶんだけ、「楽」かな。

 もともとドラマや映画は好きではなく、橋田壽賀子的ドラマはもう最悪という人間で、サスペンスやミステリーものをみるのは、「人間ドラマが主役ではないから」、ですから。(^^;)

 ミステリーものの「主役」は、事件の発生とその解決であり、人間関係がいかにドロドロしていようとも、それはあくまでも、事件のための「道具立て」に過ぎない。人間そのものが主役という感じがしない。
 だからいい、と。
 そんなことを言うようなヤツです。(^^;)

 どろどろの人間ドラマを嫌い、マッチョ・ヒーローを冷めた目で「ふーん」つって眺める。
 こんな私に未来はあるのでしょうか。(^^;)

 
【補足】
本日のお題は、シェークスピア「ハムレット」より。

There are more things in heaven and earth, Horatio
 Than are dreamt of in your philosophy.

ホレイショー、天と地の間にはお前の哲学では思いも寄らない出来事が随分あるぞ。 (一幕五場)


 
 
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帰りなむいざ 田園、まさに蕪れなんとす
2014年07月24日 (木) | 編集 |
 だーからさー、シナはやめてくんないかなあ(泣)

ファミマ 日系会社に取引先変更を検討
7月24日 3時30分 NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140724/k10013244761000.html
 
 日系であろうがなかろうが、場所がシナ、工員がシナ人ということで、もう勘弁してくださいとしか、いいようがない。
 私もかつて、シナ人の文化程度がアレなのは、文化大革命で知識層を殺しまくったからだ、という話を真に受けていましたが、それは違うな、と思うようになりました。

 とにかく日本とは違うのだ、ということだけは言える。
 服の製造だって、はやくシナをやめてくれと思ってますよ私は。

 シナの場合、とにかく現場の人間のレベルがあまりにもあんまりなのだと断じるより仕方がありません。
 洋服の縫製だって信じられないほどひどいものがある。
 販売会社は検品をしっかりやっていますというが、それだっておそらくはサンプリング方式ではないのか。サンプリング方式ではないにしても、スカートのすその始末がどうなっているかなんて見たことないでしょ。全品を、だよ。
 
 シナ製のシャツは洗濯1回で穴があく。袖と身頃を縫い合わせたところが離れる。すそのミシンがけ、糸が、団子状になって残っている。

 サイズは違う。Mサイズで買ったはずなのにひどく大きい(痩せてませんよ)。Sサイズにしたら馬鹿みたいに小さい。実測すると、きちんとしたサイズになっていない。
 なにをどうすりゃこんなデタラメなものができるんだよ、と、しまいにはかえって感心する。

 検品はするでしょうけど、すべての社員に見張り役をつけているわけじゃないでしょう。
 シナ製のものは、私はいっさい信用できない。
 
 いま、いちばん頭にくるのは、こういうひどい商品が「安かろう悪かろう」ならまだいいが、それなりに名前の通ったメーカーさんの、それなりのお値段を支払った商品でも、こういうことがある、という点です。
 正直言って——ふざけんな。と思ってます。

 洋服のサイズを、ぜんぜん信用できなくなってどれほどになるでしょうか。
 徐々にベトナム製、というものも出てきてはいますが……。まだまだ。(--;)

 それでも洋服なら、「ひでえ縫製…」と呆れて済むともいえるけれど、食べるものとなると論外。
 どのみち外食なんてのはもう、毒が入ってないならまあいいか、と思うくらいのモンだ、というのは承知していますが。

 それにしてもひどすぎる。

 シナにものを売りにいくのはいい。
 物好きだと思うけど、いちおうはそれくらいで済む。
 でも、シナで物を作るのは、本当に、どうかどうか、もうやめてください。命に関わります。

 ということで。
 私はハンバーガー屋さんにも、最低でも10年は足を踏み入れていないし、コンビニで唐揚げとか、ああいうものは買ったことはないんだけれど、さすがに、げっそりしてます。
 先ほども、お使いへ出たついでにコンビニへ寄ったんですが——あの唐揚げとかコロッケとかの陳列ケースを見ただけで、げっと思ってしまいました。
 これはパブロフの犬と同じなので、お店の方には申し訳ないことですが。(--;)

 イメージって、やっぱりありますよねえ。

        ●

 昨日の話題で「人間の育成を待つ」と申しましたが。

 じっさい、待つ、というのは、大事なことですね。

 人が育つ。成長する。それにはやはり、時間がかかるし手間もかかる。

 それでも、信じて、じっと待つ。

 待つ、ということは、それも「愛」なんだなあと思います。

 私が、「見たまんまの“評価”しかできないサッカーメディア、サッカーファン」を、蛇蝎のごとく嫌うのはたぶん、彼らのああいう態度には、愛なんてもんがカケラもないからでしょうね。
 愛もないくせにファンだなんて言いやがんの。

 ただ、私もときどき考えているんですけども。
 世の中には、愛に似て、でも、ぜんっぜん違う、というものがありますよね。

 ストーカーがその代表格でしょうが、私が嫌うああいう「自称ファン」も、そうですね。
 そんなものは愛でも愛好でもなんでもない、ただのエゴだよ、というもの。

 愛に似て非なる——というより、愛とは似ても似つかないもの。

 でも、本人たちはそれを愛だと信じている。
 ゆえに、あんたのは愛情じゃない、ただのエゴだ依存だ甘えだと指摘すると、ぜったい認めないし、ものすごい勢いで「恨んで」くる。

 なんでだろうか、と、これは昔から、折りにふれて考えているもののひとつです。

 人は、愛ではないものを愛と思い込む。

 本人はそれを愛と信じているし信じて「いたい」から、そうではない、という他人の指摘を受け入れないし、逆恨みする。

 どうしてだろうか、——と、また、ちょっとここで考えておりました。

 今日にはつぼみの気配すらないものを、それでも大事に思って、水も肥料も日照も管理して、ただ、じっと見守る、待つ、ということ。

 これがどれほどありがたい、大事な「愛」であるか。
 ——最近、年のせいなんでございましょうか、しみじみと感じることがあって、ひとりでしんみりしていることがあります。(^^;)

 年をとるって、いいですよ。

 以前にはわからなかったことが、わかるようになりますからね。いろいろ。

 私も、これまでいろんな人に待っていてもらったんだな、ということがわかってくると、なんだかこう、……じわーんときますね。

 年をとると涙もろくなるといいますが、それはようは、「昔にはわからなかった人の愛情や恩や、感情の揺れがわかるようになるから」だと思ってます。

 
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隣の家の芝生
2014年07月23日 (水) | 編集 |
バースデイケーキ写真
 そんなわけで、お誕生日おめでとうございます。(^-^) 
 わけわからん、という方は、どうぞそのまま。
 まあ、毎日が誰かの誕生日ではあるので、お気になさらず(笑)

 本日は「大暑」でございますよ〜。
 今日から8月8日の立秋までが「真夏」ということですかね。

 今年の土用丑の日は29日でしたっけ?
 最初の冷夏予想をあざ笑うかのように暑くなっております。体調には気をつけながら参りましょう。

         ●



 為末大さんのツイートにつけられたツイートですが。
 ああそう、これこれ。と思いました。

 私はべつにAKB式のものが悪いとは思いませんし、結局「好み」というものは、質を度外視しているところがあるので、私は成果主義には必ずしも好意的ではありません。

 ただいま、日本においても、かつての「人情型」から、血も涙もない成果主義への、価値観の変化が起こりつつあるのは事実だとして。

 企業で言いますといまのところ、少なくとも日本の企業では、成果主義、能力評価による給与体系は成功しておりません。
 成果とはいうが、具体的な数字でははかりようがない仕事というものがあるのは事実ですし、数字をあげていればなにをしてもいいのかというとそうではありませんし(コンプライアンスの問題)、私としては、少なくとも、現在の成果主義とやらは眉唾ものだと思っております。

 で、リプの中でもそういうご意見がありますが、従来の人情型から成果主義へ変わるのはいいが、そのための社員教育、制度の整備、成果主義というからには誰が見てもわかるような評価体系、そういう制度を準備しないでいきなり成果主義だと言いだす。
 これは愚の骨頂。

 でも、この愚の骨頂がはびこっているのが現状なんですよねえ。(^^;)

 ホワイトカラーエグゼンプションという寝言をやめたかと思ったら——その「用語」は引っ込めたけど、またなんだかへんなことをお役所は言いだしましたね。

残業代ゼロルール、「長時間サービス残業が横行」という誤解 労働時間上限の量的制限
2014.07.08 ビジネスジャーナル
http://biz-journal.jp/2014/07/post_5338.html

 法律もそれはそれで大事でしょうが、結局「運用」がデタラメになると、改革じゃなくてただ単なる破壊に終わるんですよねえ。
 日本ではリストラが「首切り」の意味しか持たないように。(本来のリストラクションというのは単純に解雇ということではないのに)

 リプの中でもアメリカさんのこの「成果主義」を褒めている人がいますが、話はそれほど単純ではありません。
 成果主義でやっているアメリカの場合、「失敗は終わりではない」「失敗は人格否定ではない」という価値観、考え方も、少なくとも日本よりは浸透しています。

 日本では、ただひとつの失敗で切腹、というくらいの雰囲気がありますね。
 失敗は「悪」であり、絶対に回避すべきことであり、となると、失敗しないためにはなにもしないほうが安全であるという考え方が根付いてしまうのも、これは仕方がないと思います。

 一見、「あなたには才能がない」といってお払い箱にするアメリカのやりかたが、「すばらしい」と思う人はあるかもしれませんが、これをそのまま日本に持ち込んだら、いま以上に自殺者が増えるでしょうね。
 私も英会話の勉強でいちばん苦労しているのが、この「失敗は悪である」という刷り込みです。

 これまで、アメリカ、カナダ、イギリス——じゃなかったスコットランド出身の先生がたに英会話を習ってきましたが、とにかくいつも言われることは、失敗は悪いことではない、失敗は「終わり」ではない、失敗したって恥ずかしいことじゃない、ということでした。
 
 私も頭では理解しているんですが——自分の中にものすごい恐怖心があることに気がつきました。
 いまだに、克服は仕切れていません(涙)

 アメリカさんの場合、たとえば、あんたには歌の才能がない、といって追い出されたとしても、それで「人生終わり」ではない、という考え方が、どこかに生きている。
 これがダメならあれがあるさ——という、ひとつの失敗は、「これだとうまくいかないということがわかった」、ということだという理解の仕方ですね。

 これがダメならあれがある。あれがダメでもそっちがある——と、切り替えていく。
 失敗は、悪ではない。
 命の終わりでもない。
 人格が否定されているわけでもない。

 自分を生かす場所はある。
 それをいま、探している途中にすぎない。

 そういう考え方ですね。
 
 それが、アチラでも100%活性しているとは私も思いませんが、しかし、「失敗はむしろ勲章」くらいに思うべき、という「文化」が、あちらにあることは、無視してはいけない側面だと思いますね。

 いまの日本に「表面だけ成果主義」をそのままとり入れたら、社会倫理も崩壊しかねない。

 これは制度の問題じゃないんだよねえ……。「文化」だもの。
 制度を整備しきって、人材を育てて、それから実施していけば、じわじわと、そういう文化も醸成されていくかもしれませんが、そういう用意周到さが、日本人にあるとは思えない。(その理由を話すと長くなるのでまたの機会に)

 ということで、上記ツイートの「自己の最適化」というお言葉に、それだ! と膝を打ちました。

 アレでもこれでもそれでも、まずは、自分がやりたいことにトライしてみる。
 トライした分だけ失敗もあるけれども、そうやって、あちこちにぶつかっているうちに、だんだん、自分で自分のかたちがわかってきて、自分をいかせる環境と、その環境の中での「自分の生かし方」がわかってくる。

 これは日本の人情型とは異なる、でも、やはり「人間の育成を待つ」という、大事な「カルチャー」だと思いますね。

 それが可能になるなら、成果主義もそれなりになるでしょう。

 とりあえず私が思ったのは。
「よそさまの家の庭がきれいに見えるからと言って、不見識にもそれにすぐに迎合するものではない」
 ということです。

 どっちにしろ、すぐに白黒言いたがるヤツって軽薄なんだよな——と正直に感想をいったら、怒られますかね。(^^;)

 
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田舎源氏にも足らず
2014年07月22日 (火) | 編集 |
 東海地方も梅雨明したとのこと。
 空を見るとどうもまだ湿った感じですが、でももう蝉も鳴いているし、入道雲ももくもくしているし、夏なんですね。
 これで平年並み。充分です。
 去年があまりに異常だったのだ;;

       ●

 小学校5年生の女の子を誘拐し、「自分の理想通りに育てたかった」とほざいた愚かな誘拐犯の話を、聞くともなしに聞いております。
 自分の理想通りに、ねえ。
 リアル光源氏(と紫の上)を狙ったってか。

 とつぶやいたところ、そばで聞いていたらしいうちの母のお言葉。

「光源氏ィ? あー無理無理。(紫の君を誘拐したときの)源氏は若くてきれいで女にモテモテでお金持ちで血統がいい()んだよ? 条件がまるで違うよ条件が」

 ………私も、自分で自分のことを、なんとヒドイことを口走るヤツだろうか、と思って、ときに反省もするのですが。
 たまに、そういう部分ですら、うちの母には敵(かな)わない……と感じるときがあります。
 ふだんは穏やかなほうだと思うけど、こういう、何かあったときにバシッということが怖いんですよね……。あたしなんぞは修行が足りませんわ。

 ………事実であるだけに、それは無慈悲なお言葉です……母上。

…光る君は帝の息子なので、本来なら親王さまです)
(帝の息子なら自動的に親王となれるわけではなく、ちゃんと宣下を受ける必要があるそうですが)

 なんにしてもこの事件は、犯人がそんじょそこらの馬鹿ではなかったことと、やはり、ご近所の方々の情報がものをいった、と感じます。
 やはりご近所のことにも気を配るって大事なんだなあ、とあらためて思ったんでした。
 私も、せっかくの田舎住まいなので、やはりご近所、町内のことには気を配るようにしたいと思います。

 ついでに、光源氏のケースで言うと。
 光る君は上記の条件に加え、頭も良くて(難しいお経を数日で読みこなすほど)、芸術にも秀でている。
 光る君自身が教養豊かだったからこそ、紫の君にも、立派な教育をほどこすことができたのです。

 豊かな教養どころかまともな脳味噌もない男が、アレを真似しようなどとは片腹痛い。
 身の程知らず、というよりほかに言葉はありません。
 まあ、だから頭がマトモじゃないんだけども。

 あんまりお粗末すぎて、柳亭種彦「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」のパロディにも足りませんね。

 なんにしても、被害者がご無事で、本当によかった。
 いちばんいいのは、こんな事件が起きないことなんですけど……。
 
 
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しゃべりすぎ
2014年07月21日 (月) | 編集 |
 今日はわりといいお天気……に見えるのですが、山をふりかえると、いかにも湿り気の多い雲の中に隠れています。
 てことは梅雨明けはまだですねえ。

 今朝は、楠の枝の先に、蟬の脱け殻を見つけました。
 けっこう高い枝なので、こんなところまで登ったのか、と。
 昨日の夕方にはなかったから、昨日の夜から今朝にかけて羽化して、もう飛んでいっちゃったんでしょうね。
 もうじき、蟬のにぎやかな声も聞こえるようになるでしょうか。

 いままででいちばんびっくりしたのは、うちの庭にある、ごく背の低い石の上で、羽化して、まだ乾いていない蟬を見たとき。
 あぶない! ここはネコがくるんだよ、ネコが! なんでこんな危険なところで羽化を始めちゃったのよアンタ、と焦りました。
 蚊に刺されながらセミが飛んでいくまで見張っていたことがありました……。

 じっさい、私が見張っている間にうちのネコが「ん?」という顔をして近づいてきたので、全力で、あっちいけ、なんでもない、何もいない、あっちへ行け! と追い払っていたんでした。

 わりとすぐに飛んでいったのでよかったです…。30分くらいは見張っていましたかね;;
 私が見つけたときには、もうだいたい乾きかけていたんでしょうね。(……あれ、乾く、って言うんだろうか;;)
 あんまり時間がかかると、こちらが蚊の餌食になって、たまらないことになっていたかと。(^^;)

 四国、中国までは梅雨明け済みだとか。
 うちのほうはいつになるかな〜。

 7月10日くらいで梅雨明して超絶酷暑だった去年の夏よりは今のところ過ごしやすいのですが、……今年の夏はどうなるんでしょうかねえ。

         ●



 まったくそのとおりだと思います。

 が、あいかわらず、「話が通じない」人のリプ(っていうんですかね)があるので、もう、乾いた笑いが出てしまいます。(^^;)
 人の話をちゃんと聞いてる? と言いたくなりますが——こういうのは、読解力だけの問題でもないような。

 インターネットの話をしているとすぐ、つながるつながると皆さんおっしゃいますけども。
 こういうアホーなコメントを見るのも、そのつながりのひとつだろうと思うんですが、こういうの——、必要なんですかね?

 私はあまり、他人と「話し合う」ことに、たいした意義は見いだせない人間で、話し合おう、といって近づいてくる人があると、それこそ尻に帆かけてさっさと逃げ出します。

 昔はそうやって逃げる自分に、みょうな負い目を感じましたが、最近では、「これでいいのだ」と開き直ってます。
 じっさい、他人と話し合うことでメリットって感じたことないもんな〜。(断言)

 ひとさまのお考えを、こうやって拝見するのは好きなほうなんですが、その場で意見のやり取りをする「意義」は、私は見いだせません。
 ひとさまのご意見を聞いて、ほほう、と思っても、それについてどう思うか、どう感じるか、やがてどんな扉が開くか——、これにはいささか、時間がかかります。
 しばらく、自分の中で黙ってゆっくり考えたり、感じたことを探っているうちに、そうかと思ったり思わなかったり、——あるご意見に、そうかと思ったり思わなかったりする「理由」を見つけると、なるほど私にはこういう価値観があったのかと発見があったりする。

 その場でわあわあと言葉をやり取りすると、どうもお互いに考えが足りないまま、無意味な言葉をやり取りするだけで終わる。
 そんな気がします。

 雑談はかまわない。
 どーでもいいことをべちゃくちゃしゃべるというのは、これはこれで楽しいです。

 でも。
 それなりのテーマや主義主張を持たせた「議論」については、即時にしゃべるとどうも話がずれたり、考えが足りなかったりして、楽しくない。と感じます。

 まあ、これは私の頭の回転がゆっくりすぎて、人とまともに、当意即妙に話せないせいかもしれませんが。

 ただ、為末さんのツイートに、おそらくなんの考えもなしに、おまけに読解力も低いのかへんな解釈をしたうえで、浅いことをぽんぽん言っている人を見るたびに。
「もうちょっと自分で考えて咀嚼してからものをいえばいいのに」
 と思っちゃうんですよねえ。大きなお世話なのはわかってますが。

 相手の言いたいことをまともに解釈できていないのに言葉を返したところで、——なにしろ、てんであさっての方向へ解釈したうえでの言葉ですから、「話が噛み合ない」。
 矢印で示すなら、線は交わらずに平行線すらなってないことになるわけで。

 こういうことに、なんの意味があるんだろう。と。

 もとから、他人と話すことに、大して意義を感じていない人間としては、大いに疑問に感じます。

 それにしても、この話の通じなさっぷり。
 おまけに、こういう人は思い込みが激しいところがあるのか、てんであさっての解釈をしたうえで送ってくる言葉が、これがまた、なんだか妙にエラそうで、決めつけが激しい。

 もしかしたらこういうことなのかしら。という、ほんの少しだけ、「引く」という、(いい意味での)謙虚さがほとんどない、というあたりがどうも。(^^;)

 じっさい、そもそも、他人が言ったことを、「正確に」理解するというのは、難しい。
 日常の会話でも、友人という親しい間柄の人相手ですら、「あー…、うーん……それって●●ってこと?」などと、確認したり、補足してもらいながら話しますものねえ。

 まして赤の他人の、おまけにたいそう短い文字数の発言では——けっこう慎重に解釈するように、しばらく自分なりに考えて「推理」してからでないと、「相手が言いたいこと」をきちんとつかむって、かなり難しいと思うんですけどね。

 私は、つい話が冗漫になるという悪いクセがあるせいもありますが、Twitterをやらない、というのは、このへんにも理由があります。
 私には、Twitterの文字制限は厳しすぎる。(^^;)

 短い言葉でエッセンス(真髄)だけをズバリ表現する、というのは、これはもう、たいへんな言語能力と論理性が要りますから。
 俳句や和歌をこなす人を、ひじょーに尊敬する所以(ゆえん)です。

 私の場合、あんまり「言葉」を信用していなくて、どうしても補足や説明を加えながらでないと、とてもじゃないけど、「通じない」だろう、と思っているところもあります。
 ——自分でも書きながら自分の言いたいことを探っていることも多いですが。(だから冗漫になる)

 私が信用していないのは、言葉なのか、人間そのものなのか。
 なんにしろ、話し合いだの「つながる」だの、これらについてはまったくといっていいほど信用はしていないのは、確かですね。(^^;)

 ゆえに、あさっての方向を向いているリプとやらを見るたびに、
「人間には、黙ってひとりで考える、という作業は、どうしても必要なんではないか」
 と思っております。
 あんまり何度もそのように思ったので、最近では、ほとんど、「確信」になってまいりました。

 話し合いは、自分の中で「出力」できるものができてこそ、可能になる。

 自分の中にただ混沌とした「わだかまり」しかないのに、無理に言葉にしたところで、その言葉はただ混沌を映しているだけ——つまり「寝言」にしか聞こえない。

「考える葦」は、まずは黙考せよ。
 
 そのように思います。

 
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答えのある場所
2014年07月20日 (日) | 編集 |
 今回の撃墜事件の被害者、そのご家族には、かけるべき言葉も見つかりません。
 心から、哀悼の意を表します。

マレーシア機撃墜 遺体収容と調査進まず
7月20日 5時10分 NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140720/k10013149761000.html

 正直言って、ロシアのプーチン大統領がここまで愚かだとは思いませんでしたよ。
 ちょっと意外に思っているくらいです。
 もう少し理性的な人かと思っていたんですがね………。

 ロシアというのは昔から、テメエが凶暴でよそさまにひどいことを平気でやるくせに、なぜか、「自分は被害者」だと思っている、そういうメンタリティがあるんですね。

 ソビエト連邦崩壊から、「ヨーロッパの田舎」と言われてきたロシアも、ちったあ「ふつうの国」になったのかと思いきや、やっぱり同じか……、と、驚き、怒りはしていつつも、呆れている、というのが、いちばん正直なところです。

(典型的なジョークで、——英語で演説し、ドイツ語で神を語り、フランス語で愛を囁き、ロシア語で馬を叱る、というのがありますが、ロシアってそういうイメージらしい)

 不思議だねえ。自分が凶暴なやつほど、被害者意識を持つんですよねえ。
 ロシアのみならず——シナしかり、朝鮮しかり。
 シナや朝鮮の、日本の悪口って、実は全部「自己紹介」になっているというのは、皆様、ご承知のとおりですが。
 投影と呼ばれるあの心理。
 目の前にするとやはり、なんでだろうなあと思いますね。
 
 凶暴なヤツほどその心の中にはつよい「怯(おび)え」がある。その理由は、心理学の先生なら簡単に説明してくれるでしょうが。
 私としては理屈はわかるんだけれども、でも、じっさいの姿を目の当たりにすると、やっぱり、不思議だな、という気持ちになります。

 まあ、なんにしろ。
 ロシアからパイプラインをひくとか、電力を買うとかいう話もあって、「ロシアから電気を買うだって? とんでもない!」と真っ青になっていた私としては、そんな話が実現する前に、こうやって、ロシアが自ら、その本性をあらわしてくれたとは、ありがたいことだ、と、思わず手を合わせております。

 …………自分から強盗殺人犯にさあどうぞと命綱を差し出す馬鹿があるか。
 ああいう話を通すなら、シベリア抑留という重大な国際法違反についての謝罪をさせ、厳重な平和条約を成立させてから検討を始める(実行の可否判断は別)というのが筋。
 できるわけないですけどね。
 ということはやはり、ライフラインをロシアに渡すなんてのは、絶対やってはならないことだ、という結論になりますわね自然と。

 そういうあたりを考えない連中がいるというあたりが、頭の痛いところですが、今回は——あちらが勝手に自滅してくれて、ほんとによかった;;

         ●

 ツイートを公開にしてくださっていると、私のようにTwitterアカウントを持っていない人間でも拝見できるのがありがたいのですが、でも、Twitterはときどき、「アンタもTwitter始めたら?」というお誘いを表示してくれやがるのが、どうにもうっとうしいです。(^^;)
 ↓コレ。
screen-shot.jpg

 やる気があったらとっくにやってるよ。いまだにアカウントとらないということで、Twitterはやるつもりないですという意志をすでに表明しているつもりなんだけどなあ。
 Twitterをやらない、という人にはそれぞれ理由があってのことなんでしょうが、そういう人間が、ああいうお誘いを受けて、そうね、やっぱりTwitterやろうかしら、なんて気を起こすと思ってんですかね?
 というか、そういう人っているのかな? ——とつい思っちゃうんだけど、いるかな。いないとは、たしかに、断言できませんけれど。(^^;)

 ということで。
 Twitterをほけほけとのんきに眺めている昨今ですが、
「性の対象として見られることを嫌がる女性は、どうすれば満足なんだろうか」
 というツイートをお見かけし、ほほう、と気になったのでちょっと考えてみました。

 殿方の場合はどうだか知りませんが、女性の場合、性の対象としてみられるということは、基本、プレッシャーであり、「怖い」ことなんですよね。

 以前、たぶん年末年始あたりの特番だったと思いますが、明石家さんまさんと木村拓哉さんで、あれこれコントやら何やら、いろんな企画ものをこなしていく、というのがありまして。
 そのなかで、木村拓哉さんが、ビヨンセさんだったかな、その仮装をして、PVの真似映像を作るというのがありました。
 なんせ木村さんですから、女装をしてもお美しい。

 通常の男性が女装をしたときの、「お笑い狙い」ではないんですよね;;
 あれ、もーちょっと本気を出すと、マジできれいな女性そのものになったと思います。

 余談ですが、私、このCM、最初は全然気がつきませんでした……。
 お美しいかたは、性別がどっちになってもお美しいものなのね〜。(^^;)

日本食研 晩餐館焼肉のたれ CM 30秒
http://youtu.be/ZxsxBq8v6hY


 で、おきれいな女性の姿になって、ちょっとセクシーなイメージのウォーキングだったんですが、その合間合間に木村さんが、なかばビビりながらおっしゃったのは、
「なんか、(男にそういう目で見られるときの)女の人の気持ちがわかった」
 でした。(^^;)

 周囲にはもちろん大勢の男性スタッフがいたんでしょうが、木村さんがおっしゃるには、そういう人たちの目つきが明らかに、ふだんとは違った、というのですね。
 もちろん、これが木村さんだとは全員わかっているわけですが、それでも、やはりおきれいだったんでしょうねえ。

 男の「そういう」視線にさらされるプレッシャー。
 人間ではなく、セックスドールとして見られる感覚。
 
 それはれっきとした殿御である木村さんですら、ビビるような「恐怖」がある。
 あらためてそれがわかって、私も、へー、と思ったんでした。

 まあ、その立場にならなきゃわからないことって、どうしたってありますからね。
 
 これが、自分が惚れた男にそういう目で見られるのは本望ですが、そうではない野郎となると、見られることはもう、恐怖以外のなにものでもない。
 恐怖であり嫌悪であり、——汚らわしい、という拒絶になる。

 じつはこの感覚は、ある意味、健全なんでございまして、そういう、「汚らわしい」という感覚が、思春期のころに皆無であると、俗にいう「貞操観念」が育ちにくいんだそうですね。(発達心理学)
 思春期の娘に、みょーにケガレ扱いされてショックを受けるお父さんは、ほんとに可哀想だと思うんですが、お父さん。これは娘さんに、きちんとした貞操観念が育つ証拠ですから、どうか、耐えてあげてください。(TへT)

 とはいえ、あんまり極端なのはいけませんけどねえ。
 そういうあたりは、お母さんの出番ですよね。
 私はそういう年頃のときでも、「お父さんの洗濯物といっしょに洗わないで」などという、そんなふざけたことは言いませんでしたが、世の中にはそういうことを言う娘もいる、と聞いた、うちの母の言葉。
「ふざけるんじゃないよ、だったら自分の洗濯物くらい自分で洗えてんだよ。なんだよ母親にぜんぶ洗わせておいて。——(お父さんの洗濯物が)汚いだって? ひとの亭主をなんだと思ってんだ」
  
 ………ごもっとも。(^^;)

 そこまでいくと別の問題になりますが、まあ、そういうことで。

 そういうわけで、男性に対してそういう、恐怖や嫌悪の感覚がありすぎてはいかんのですが、皆無というのも、ちょっと心配なところもある。

 たぶん。
 性の対象として見られる、ということに、過剰な嫌悪と拒絶を示す人は、その、健全な発達心理というところとは異なる、恐怖や、嫌悪があるんでしょう。

 ゆえに、どうすれば満足なのか、とは、聞いても無意味でしょう。

 満足するかどうかではなくて——その人自身が、過度の恐怖心を(どうすれば)克服できるか、という話になるんでしょうね。

 セックスというものを不浄視したり、罪悪視したり、貞操観念とは異なる意味での、強い拒絶と恐怖反応がある場合。
 その理由はもう、それぞれ、個人個人で違うんだろうと思います。

 理由はなんであれ、なにかに強い恐怖を感じるというのは、やはりストレスですし、いいことであるとは思えません。
 私としては、そういう恐怖心から解放されて、楽になれるといいな、と願います。
 まあ、どっちにしろ、大きなお世話なんですが。(^^;)

 男性に対して強い拒絶と不快感があるのは、男性が悪いのではなくて、自分の中に原因がある、ということを。
 まず、そこに目を向けてもらえればいいんだろうな、とは思いますが。
 しかしこれは、本人の意志がないと、ただつらい思いをするだけになる可能性もありますから。
 他人があれこれ言うことではないですね。本来は。

 私はそういう人をおみかけしても、ひたすら黙っておりますが、ただ、その人が楽になれることを、こっそり祈ります。

 
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熱海こがし祭
2014年07月19日 (土) | 編集 |
 じつは7月16日は、熱海市へいってきました。
「こがし祭り」という、来宮(きのみや)神社のご祭礼です。
 神社の例大祭自体は、14日夜(宵宮祭)からですが、観光客としては、15日、16日がメインとなりましょうか。

熱海こがし祭り
http://www.atami-sun.com/event/kogasi.htm

 来宮神社は、東海道新幹線からも見えます。
 東京方面から下りの新幹線ですと、熱海駅を出発してほどなく(ほんとにほどなく)、進行方向向かって右手側に見えます。
 こんもりした林に見えるのですが、あれが一本の楠(くすのき)です。
 じっさいにあの木を見上げると、なんともいえない気持ちになります。

 2、3年前に台風で、一部の枝が折れたと思いますが、木そのものは健在です。

 私もしかし、この来宮神社のお祭りは存じませんで、今年初めて知りました。
 結局、私が見たのはそのお祭りのごく一部、「山車(だし)コンクール」だけなんですけど。(^^ゞ

こがし祭り 山車コンクール
http://ataminews.gr.jp/kogashi/

 コンクールは、15日、16日の2夜連続。
 海岸まえの国道を一部封鎖して、これがコンクールの会場となります。
 写真、撮ってくればよかったです;;
 わたくし、馬鹿みたいに口を開けて、わー。すごい。わー、すごい、と言っていただけでした。(^^ゞ

 各町内が山車を出すのですが、それぞれに工夫があって面白いです。
 流行にのった意匠の山車もありますし(今年はアナ雪)、伝統的な木製、木彫りの飾りも優美な山車もありましたし。
 ご神輿(しんよ)は8基あったとのことなんですが、……み…見落としてる…(がっくり;;) 1基しかわかりませんでした;;

 また、各山車には囃子方が乗っていて、山車同士がすれ違うとき、双方のお囃子もさらにヒートアップ、音量も大きくなりますから、まあ迫力満点です。
 しかしこれだけの数の各町内に、これだけの囃子方がいるんだから、すごいもんだなー、と思ってみておりました。
 鉦(かね)と太鼓はもちろんですが、やはり、笛。あの音色はいいですね。一気に華やかな雰囲気になりますもんね。

 国道の規制は午後6時から9時まで。(15日は9時半まで)
 山車コンクールということで、審査会場、審査員席も設けられていたようです(よく見えなかったけど…たぶん、桟敷になっていたところがそうだったかな)。
 で、コンクールも終わりまして、その審査員席でもしばらくお囃子の演奏が続いていて、いい雰囲気でした。

 雨もなく、死ぬほど蒸し暑いということもなく、海岸ですから風があって過ごしやすい(というか、ときおりけっこうな風が吹いて、ゴミが舞い上がったのは感心できませんでした)。
 今年はなかなか、いいタイミングでお邪魔させてもらいました。(^-^)

 規制が解除されたあと、しかし、国道沿いにところどころ、ゴミが落ちているのはちょっとなあ、という感じでした。
 歩道の縁石に座って行列を見ている人が多かったですが、そのなかには、コンビニで買ってきたらしいお菓子や、ビール等を飲みながらという人もいたんですけど。
 …………飲み食いしたゴミをそのまま置いていくな

 ああいうのはホントにどうしようもないですねえ。
 マナーがなってない。

 規制解除されて車がもう通っているのに、道路側におりてお掃除している方がいて、頭がさがりました。というか、夜間のことでもあるので、事故でもあったらと思うと、ちょっと怖い。
 ゴミはテメエで持って帰れ、というのを徹底できるといいのになあ…。
 どうにかなりませんかねえ、ああいうの。

 ちなみに。

 会場周辺には夜店が集まっている場所がありましたが、私はそちらにはいっておりません。(^^;)
 クレープとかチョコバナナとか、遠目に見えて、ああいいなあ、と思いつつも、あの人ごみを見ただけで気力が萎えるようになってしまいました;;
 大量の人間を見ると気分が悪くなるというのは、子供のころからその傾向はあったけど、やはり加齢のせいもあるのか、最近いよいよ我慢ができなくなってきているようです。

 私が、大量の人間を見ても気力を失わないのは、コミケのときだけですわ……。
 買い物という目的があるので、人間が大量にいても気にしているヒマはない、という感じ。
 
 そんなわけで、夏祭り、梅雨明け前にして、楽しんで参りました。

 なかなか楽しかったので——こがし祭、もうちょっと宣伝してもいいんじゃないかなと思います。
 私もぜんぜん知らなかったし。(^^;)

 それにしても、やはり写真、撮ればよかったです……。
 上記リンク先に写真もいろいろございますので、そちらを見ていただくとしても——それにしても。(^^;)
 まあ、それくらい、山車コンクールは迫力あってよかったよ、ということで。

 
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モロッコ(1930年)
2014年07月18日 (金) | 編集 |
 お気の毒だとは思いますが、訴える場所と相手が違いますね。

舞台挨拶は騒然…浅野忠信が「近親相姦被害者」の訴えに謝罪
2014年07月17日10時26分 日刊ゲンダイ
http://news.livedoor.com/article/detail/9051886/

 フィクションに、こういう意味不明のいちゃもんをつける人というのは、虚実の区別のつかない人なんだろうなあと思います。
 児童ポルノの取り締まりにあたり、「非実在青少年」というナゾの名称を作り出して、虚構のものさえ許さない、という姿勢を見せるのはこういう人たちなんだろうな、と、ふと思いました。
 虚と実が、なぜごっちゃになってしまうのか。

 じっさいの性交のみならず、自慰行為さえ罪だというキリスト教みたいだな。発想が。

 舞台挨拶の監督や、俳優さんに意見をぶつけた人については、ご自身が虐待の被害者とのことで、それはたいへんお気の毒なことだと思います。
 思いますがしかし——これ、こういう場所でいうことではないし、そんなことを監督さんにいってもしょうがないでしょう。
 そういう文句を言うなら、原作者にもいちおう抗議しないといけませんでしょうし、企画をした人——プロデューサーとか映画会社とかにも言わないと、「不公平」な感じもする。

 でもじっさいのところは、これはまさしく「お門違い」ってやつでしょうね。
 非難するなら自分の親をであり、それが可能かどうかは存じませんが、虐待した自分の親を法的手段で告発するのが、本来の「筋」というもの。

 こんなことを、フィクションの製作者にいってもまったくどうしようもない。
 こんなイチャモンをつけられても、筋が違うので答えようがない、というのが実際のところでしょうが、主演なさった浅野忠信さんの言葉は、じつに立派なものですね。

「過激な映画やあまり見たくないような映画にも出てきましたが、人を傷つけたいという気持ちはない。嫌な気持ちをさせてしまったら申し訳ありませんでした。ただ、僕は一生懸命やりました。きちんと考えてやりたいと思います」



 浅野さんの謝罪は、この場合まったく必要がないこと。女性のほうが全面的に間(場)違っているので、浅野さんのほうが、謝罪させられたことについての謝罪を求めてもいいくらいだと思いますが(……まあ冗談ですけど)。

 ただ、ご自分が、虐待被害者でありながら——この作品が、そういう主題の作品であることはもちろんご承知でしたでしょうに、なぜ、ご覧になったのでしょうか。
 いやなら見るな、というのは、どうしようもない最終通告であると同時に、ま、そりゃそうだ、という動かしがたい「真実」なんですが、——近親者からの虐待被害という荷物を持ちながら、なぜ、そうとわかってこの映画をご覧になったのか。
 
 私が、この記事を読んで真っ先に思ったのはそのことでした。

 フラッシュバックの可能性もあるものを——ふつうなら、そういうのは避けませんか?
 
 人間は不思議なもので、怖いもの、不快なものを、でも、だからこそ、見たい、と思う気持ちがあるわけですが。
 このかたも、そんな感じだったんでしょうか?

 ちなみに、私はこの小説は、あらすじを聞いた段階で「うわー、エンガチョ!」でした。(^^;)
 私は幸い、そういう被害を被ったことはありませんが、根がだらしがないので、こういう、きわめて重い、答えの出そうもないテーマ、しかもそれを、世間の少なくない人たちは「真面目に」受け止めず、表面的な、エキセントリックなところにだけ、ひどく面白がって反応するだろうと思われるものは、ちょっとつき合いきれないので、避けて通ります。

 私が、「ロリータ」や、「チャタレイ夫人の恋人」をきっちり読めたのは、それがもう過去の作品であり、現代においては大問題になるような時代ではないからでしょうね。
 問題の本質はもっと違うところにあるのに、ともあれ女のハダカが出てくるとむやみに喜んで大騒ぎする、ああいう「大衆」が、私は大の苦手です。
 ああいう大衆が遠のいたときにやっと、静かに読める。
「私の男」も、そんな作品なのかもしれません。

 話は全く変わりますが。
「私の男」というタイトルを聞くたびに、塩野七生さんの、映画エッセイを思い出します。
「人びとのかたち」という、映画や、俳優さんたちのエピソードから、人間そのものを見て語る、短いのに深いところへ案内してもらえるエッセイで、大好きなんですが。

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 そのなかに「女の恋」というのがありまして、題材となっている映画は「モロッコ」。

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ゲーリー・クーパー、マレーネ・ディートリッヒ 他

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 主人公の女性、アミーの恋路の物語なのですが、アミー(マレーネ・ディートリッヒ)は、彼女が選んだ男トム(ゲイリー・クーパー)よりは、ほかの男性(アドルフ・マンジュー)のほうが、じつはアミーにとっては「適しているように見える」、と塩野さんはおっしゃる。

「まずもって金持ちだ。経済上の余裕は、人生の不都合の多くを不都合でなくしてくれる。それに、なかなかのいい男でもある。出陣する兵士たちの後を追う女の群れにも、冷たい目を向けない。「自分の男がいる女」という。結婚までしている女でも、そのうちの何人が、「わたしには自分の男がいる」と言いきれるであろうか。」



 自分の男。
 なんとも強い言葉です。

 これはたぶん、相手が自分をどう思っているかというよりも、その女性本人にとっての、「私の男」という感覚のことだろうと解釈しています。
 愛されるか否かではなく、自分が、その男をどこまで愛しているか。
 ——この場合、でも、愛しているというだけではない気がするなあ。うーん。
 自分の存在と不可分なくらいの——所有格で「私の」とは言っていても、所有の感覚でもないような。

 アミーには心に消しがたい傷がある。
 けれども、(出陣した)トムを追う、と決めた瞬間から、彼女の絶望は消えた。

 彼に愛されたから孤独がいやされたのではなくて、彼女自身が、あの男こそが「自分の男」だと「決めた」ときに、絶望も孤独も消えたのだ——というのは、なんとなく、わかる気がする。

 まあ犯罪に走ったらいけませんが、「自分の男」を思い定めることができるというのは、なかなか幸せなことだな、と、私は思います。

 アミーは、自分の男と決めた相手を、戦場へと追っていく。
 自分の男のために破滅の殺人まで犯すよりは、アミーは幸せな女だな、ということをふと思いました。

 21世紀の荒んだ世の中では、自分の男を追うだけではドラマにしてもらえないらしい。
 ——どうも、そのことのほうが、悲劇であるように思えてきましたよ……。
 
(補足:モロッコの主人公の名前、アミーと書いておりますのは、塩野七生さんのエッセイに従っております。英語だったらエイミー、でしょうね。塩野先生は、英語以外の言語でこの映画を見ているのでは、と思われます)

 
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