エゴが生まれる場所

 暑いです……。
 この季節にしてはちょっと暑いなあ。

 今年、気象庁が「冷夏」という長期予報を出しましたが、あれ、ホントなんでしょうね…? あてにしていいんでしょうか?
 寒いより、暑いほうが好きな私ですが、昨年の殺人的な暑さには本気でめげておりまして、今年はちょっとくらいなら冷夏でいいや、と。
 でも、長雨はいやだなあ……(←勝手)

      ●

 昨夜、BS11の、「蟲師 続章」の録画がありませんでした。
 ちょっとショックです……。

 予約の設定はちゃんと生きているのに、録画がない…。
 公式サイトを見たところ、あの特番「蟲語」の再放送だったようなんですが、そのせいでしょうかね…? そこまで厳密に番組を区別するのかなうちの録画機;;

 なんにしても、やはり「蟲師」はいいです。
 あの全体的な静けさが、本当に環境ビデオ(環境映像)のよう。

 おおげさな効果音もBGMもなく、あざとい演出もなく、登場人物たちの声もまた、静かで落ち着いている。

 ——ハリウッド的な大げさなものも、いいといえばいいんですけど、やっぱり疲れるんでしょうね;;
 ちなみに。
 聴覚にフェティッシュな好みがある私としては、あのギンコ役の中野裕斗さんの声が、もー、うっとりするほど大好きです。
 
 そういえば、心理テストで「じつはあなたが苦手なタイプは?」というのがあって、やってみましたら、「おしゃべりな人」という結果になったので思わず大笑い。
 おしゃべり、というよりは、「大きな声でうるさくしゃべる」人が苦手。
 ——なんのことはない、これ、あたしの親父とその一族の特徴です。(^^;)

 落ち着いた声で、穏やかに話すというだけで、私にはポイント高いですね、たしかに。
 しかし——幼児体験……あるいは原体験というのは、なかなか、根強いものですな…。

      ●

 とあるプロレスラーの方(既婚)が、その浮気相手の暴露によって、所属団体から処分を受け、本人もそれで引退表明、という話を聞きまして。
 その浮気相手という女性がネットに流したツイート群(画像付き)を見て、どうにも、痛々しい気持ちになりました。

 やっぱりあたしゃ、こういうあたりが欠落してんのかなあ、と思わず我が身を振り返る…。
 こういう、結果的に自分の損になることは、まず、やらないだろうと思うからです。
 好きになった人がいて、その人とラブラブな時間があって、でも結局、別れ話、ということになったとき。
 それでも——泣いて騒ぐことはあっても、こういうことはしないだろうな。

 本当の意味で自分の損になることはしない。

 それは私がいまいち他人に薄情だから、という、「負い目」のような気持ちがあるのですが。
 でも、冷静に考えてみると、こういう、「リベンジポルノ」のような行為って、相手に対する愛情ゆえのことではないですよね。
 相手に対する愛情が強かったからこういう行為になる、というのは、やはり違うな、と感じました。

 以前、相手に対する愛情などなくても、相手の浮気に嫉妬はできる、と書きましたが、こういう場合の嫉妬とか怒りというのは、相手に対する愛情故ではなくて、「自分が恥をかかされた」「自分の立場や領域を侵された」「自分が蔑ろにされた」ということの怒りであって、自分が相手を愛しているからではないんだよな。と。

 自分の思惑や希望、もくろみというものが、壊された。
 そういうことへの怒りなんだな、と。

 ラブラブな恋人たち、黙って見せられればバカップルのようすとしか思わないはずの画像を眺めて、これは結局、相手への愛情ゆえではなく、自分のエゴイスティックな怒りが「復讐心」になっているだけなんだな、と思いました。
 愛情ゆえではなくて、エゴゆえの怒り。

 しかし——エゴというのは妙なものですよね。

 エゴはなぜあるかというと、自分の身を守るためにある。
 誰のことでもなくまず自分の安全を確保する、自分の身を守る、それを考えるというのがエゴ本来の役目。

 ——自分を守るとは言っても、エゴは「心配」「不安」「恐れ」を基準にして、自分を守る行動をとるもんですから、ろくなことをしないんですねえ。

 PTSDも、ある意味、エゴの仕業。
 過去のつらい体験があり、同じ体験はしないように、と、自分を守ろうとするのがエゴなんですが、同じ体験をしないように、という反応が、フラッシュバックをはじめとするものになる。
 
 でも、それは、その人の人生をむしろ阻害する。守るどころじゃない。かえって自分を、架空の幻想によって傷つけ、苦しめる。

 このリベンジポルノも、結局そうなんだよな、と思いました。

 自分を裏切った相手を「懲らしめよう」という意識も、自分の優位性や正当性を守ろうというところからくるわけですが、
相手を懲らしめるという行為は結局こうやって、誰よりも自分自身を傷つける。

 エゴは。
 ——なにやってんですかねホントに。

 自分を守ろうというのはいいけど、結局その実態は、自分を傷つけることばかりじゃないか。

 エゴを「なくす」ということはおそらくできないのでしょうが、エゴには、あんまりその権限を与えないほうがいいようですね。

 エゴは——どこから発生するのでしょうか?
 いえ、あまりにもろくでもないことばっかやってんな、と思ったら、つい。(^^;)
 
 
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忘れられる権利

グーグルは「忘れられる権利」を尊重すべき=EU司法裁判所
2014年 05月 14日 13:35  ロイター Reuters
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0DU06R20140514

 人の噂も75日というのは昔の話。
 タレントのスマイリーキクチさんが被った被害というのは、本当にシャレにならない。
 私はネットを充分な環境で使えるようになったのが遅いほうだったので、この事件のことも、この事件の元になった噂のことも知らなくて、ただただ、犯人が検挙されたときに、驚き、呆れ、怒り、心から被害者に同情したのでしたが。

スマイリーキクチ中傷被害事件 

 犯人たちのいいぐさは、もう、その幼稚さにあきれるしかないのですが、幼稚だから、馬鹿だからこそ、こういうことができてしまうというあたり、「イタマがアタイ」ですね。

 先日には、ろくでもないプライドならどぶへ捨ててこいと言いましたが、犯罪行為に手を染める正義なんてもんは正義じゃねえんだ、さっさと捨ててこい! と思いますホントに。
 ついでに、維摩経を10回読め、とも思いますが。(^^;)
 これは現代人の多くには拷問だろうな(笑)
 なに、人間、切羽詰まればお経くらい読めますよいくらでも。(いまは読みやすい訳のものもあるし)

 ともあれ、この事件は、ネットに使われる人間の愚かさと凶暴さを表すとともに、「忘れられる権利」の重大性をも、知らせてくれると思います。

 それが20年前の情報でも、ネット上では削除されることもなく漂い続ける。
 大人連中はその情報がガセだということを知っていても、若い人、子供たちは、ことの真偽も知らず、また人間の困った習性で、「文字で書かれたものを読むと、それを事実だと思い込む」ところから、20年前の幽霊を復活させる。

 忘れられる権利というのは妙なものに思えますが、でも、たしかに——過ちを犯さない人間はいないということを考えても、忘れられるということは、必要なことだと思います。

 ややこしい時代になったもんですよね。——忘れられる権利。か。

 あたしなんか、ついさっき考えていたことさえ忘れることがあるというのに。
(なにかものを取ろうと思って自宅2階へあがったが、「はて、なにを取りにきたんだろう?」と、しばし階段口で悩むこともあり。結局1階へ戻ってから、あ、そうだった! と思い出してまた階段を駆け上がる)

 それに。
 PTSDへの治療——というより対策、かな。本当に「記憶を消す」研究って、すすめられているんですもんねえ……。

電気ショックで記憶を消す実験に成功
2013.12.26 WIRED
http://wired.jp/2013/12/26/shocking-news-memories-zapped-away/

 現在のものは、記憶そのものを消すのではなく、記憶によって引き起こされる「反応」を弱める、——過去のイヤなことを思い出したとき、それが身体的な反応になるのを抑える……イヤなことを思い出しても、たとえば過呼吸などの症状が起こらないよう、記憶と、その衝撃による「経験の再生産」を分断する、というものですね。

 そういう技術が必要なこともあるだろう、と思います。

 人間が生きているのは「現在」であり、過去はすでに、過去でしかない。
 過去に「支配」されるのは、本来の意味では「自然」なことではない。はずです。

 記憶を完全に消すということはできないとしても、「過剰な反応」は、やはり抑える必要はあるでしょう。
 その反応は、結局、誰のためにもならないどころか、あらたな被害を現在にもたらすだけだというなら。

 忘れたいこと、か。
 ——忘れたいことならいろいろあるなあ私にも。(^^;)
 おかげさまで、私はここまで、いたって穏やかに過ごしてきたと思うのですが、そういう人間にさえ。

 ちなみに。
 私は、ここでたびたび書いているように「アンチ・Google」でございまして、上記判決を聞いたときは、やれやれよかった、と思ったんでした。

 グーグルさんにお世話になっているのは事実でも、その基本的なものの考え方については、根本から賛成できない。というより、きっぱり反対の立場。

 昨日は、自由と権利を声高に叫び、義務と責任には口をつぐむ人間を信用できないと申しましたが、今日のところは「他人を害する正義は正義ではない」と、申し述べたいと思います。

 もとから正義なんてモノは信じてないですからねえ。(^^;)
 正義は相対的なものであり、絶対の価値ではない。
 立場が変われば内容がころっと変わるようなものを、どうして「大義」とできましょうか。

 まあ、「情報を支配することで世界征服」を考えているグーグルさんには、そんなことは、指摘する必要もないでしょうけど。
 
 
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自意識過剰

高円宮典子さま 結婚式向け準備本格化へ
2014年5月28日 4時56分 NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140528/k10014778051000.html

 遅くなってしまいましたが、そういうわけで、たいへんおめでたい。(^-^) 
 ニュースを最初に聞いた瞬間は「まあ! おめでとうございます!」と思わず叫んだものの。
 お相手の方について聞いたら、こんどは口あんぐり。
 ちょうつがいのあたりをさすりながら、日本最古の家系同士か〜、なんか、すっげーな、というのが第一声でした。

 昨年は伊勢、出雲がそろっての遷宮ということで、かたや20年ごと、かたや(いちおう)60年毎とされ、それが両方揃うというのも、珍しいなと思っておりましたんですが。
 なんかもう、壮大な縁組みという気がする。千数百年のときをこえ……か。うーむ。

 また、出雲大社については、記紀の歴史についても思いを馳せ、思わず「出雲と大和」を再読始めちゃいました……。

出雲と大和――古代国家の原像をたずねて (岩波新書)出雲と大和――古代国家の原像をたずねて (岩波新書)
(2013/01/23)
村井 康彦

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 なんにしても、心よりお慶び申し上げます。(^^)

           ●

アレだけは絶対言われたくない! 「プチ胸女子」&「巨乳女子」が本気で傷つくひと言
2014年5月25日(日)19時13分  マイナビウーマン
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1081658?cc_referrer=nicotop_news&topic

 ほかはどうかは存じませんが、日本においては古来、おっぱいというのはあんまり、セックスシンボルの意味はなかったんですよね。
 日本人女性の骨格が——まあ率直に言えば貧弱で、胸もそんなに発達しなかったせいもあるかとは思いますが、その昔、やはりコンパクトな胸を悩みにしていた友達に、
「べつにそこまで気にすることもないと思うけどなあ。おっぱいは本来は赤ちゃんのためにあるもんだからね」
 といったら、一瞬絶句、次の瞬間大笑いされたことがあります。(^^;)

 男のために存在するものだと思ったら大間違いだぞ。(←真顔)

 この大きさ幻想というのも、殿方の巨根幻想に似たところがある、と私は思っております。まあ世の中には、どーしても胸の大きい人じゃなきゃヤダ、というのもあるでしょうが。
 ここだけの話、酔っぱらったときについぽろっと、「問題は大きさじゃない。大きさにこだわるのは素人。大事なのは感度」といった野郎がいたことを、こそっとご報告しておきますね(笑)

 ………どうでもいいけど、「素人」ってなんだよ(笑)

 まあそれはともかく。
 胸の小さい人にもお悩みはあるでしょうが、大きい人にも悩みがある。
 ということで、上記記事中、私が思わず、ああ……と反応したのはこちら。

■それって嫌み?
「胸が大きいとピタッとしたラインの服が似合いません。なので、『胸が大きいと似合わない服も多いよ』と言うと、『それって嫌み?』と言われるので困ります。本当のことなのに……」(27歳/医療)



 先だっても、まだやっと10代から卒業、みたいなお年頃のころ、彼氏持ちの友達の愚痴の聞き役をしていたということをお話ししましたが。
 胸の話もそうでした。(^^;)

 上記に共通するのは「本人は本当にそう思っているのに、イヤミにとられる」ということ。

 モテない人にも悩みはありますが、モテる人にも悩みはあるもの。
 でも、モテる人が、そういう、ようするに「人間関係の悩み」を打ち明けると、あてつけ、あてこすり、イヤミ、自慢、ととられて、まともに聞いてもらえない。
 それでモテる人は孤独を深め、妙な悩みを持つことになる。そういう話を、かつての私はふむふむと聞いていた、のでしたが。
 胸の話もそういやあったな、と思い出しまして。

 まあ、なんですね。どうして人の話を素直に聞けないんですかね。

 モテる人や胸が大きい人を「うらやましい」と思う気持ちはわかりますが、でも、相手が、イヤミでいっているのか、本気でその人なりの悩みとしていっているのか、聞けばわかるでしょうに。
 ——と思うんですが;; わからん?;;

 私はそういうわけで、モテる人、胸の大きい人、つまり、他人からはうらやましがられる女の子の話を聞いては、そのあたりを疑問に思ったんでした。

 でもこれ、ほかのこと、なんでも当てはまりますねえ。
 自分にはこれが欠けている、ということを気にしていて、悩みとしていて、自分が持っていないものを持っている人を、うらやむ。
 そこまではいい。
 でも、そのうらやましい、ねたましい、という気持ちがへんなフィルターになってしまい、目の前の人が本気で悩んでいることを「あたしに対するあてこすりだ、イヤミだ」と受け取って、勝手に腹を立てる。

 自意識過剰、じゃないんですかねこういうのも。

 ようは、他人の話を自分が勝手に自分の都合で解釈し、自分が勝手に腹を立てているだけなのに、「イヤミな女」とかって、相手のことを悪く言うんですね。

 離れて見ている私からすれば、「いやそれ、ぜんぶアンタの妄想だから」ということになるのですが、これはこれで、言うとまた怒られるんだよなー。(^^;)

 自分が持たないことで悩んでいるものを、持っていることで苦にしている人がいる。

 それを見聞きしたとき、ああ人生いろいろ、人それぞれなんだな、と、そう思えばいいだけのことじゃないでしょうか。

 持っていない、欠けている、という、それにばかり意識を向けると、本当に、「いろんなことが欠乏した現実」になってしまう。
 どのみち、すべてのことを持つということは人間には不可能なことなので、持たないものより、いま自分が持っているものに目を向ける、という「知恵」は、たしかだと思います。
 私もそのへん、実践はまだまだですが。(^^;) でもこれからはそのへん、考え方をあらためていきます。

 モノばかりじゃない、人間的なものでも同じ。
 欠点は欠点でもう、しょうがない。欠点より、自分の長所とされるところを「生かす」ことを考えたほうがいい。
 欠点を放置しろということじゃなく、「主眼」を長所に向けましょうねというお話。
 たぶんそっちのほうが効率的だし生産的だろうな——と思ってます。

 話は戻りますが。
 あと、胸が大きい人は馬鹿だと思われるというのも、不思議なことですが、ありますねえ。
 なぜ、胸が大きいとおつむが弱いというイメージをもたれやすいのか。

「胸が大きくておばか、というのが、男の理想だからじゃない?」
 といったら、なぜかしーんとして、誰も返事をしてくれなかった、ということがあり、それ以来、誰にも(直接には)しゃべったことはないのですが、………ダメなんでしょうか、これを言っては。(^^;)

 
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言いたいことは何?

 そもそも、自由や権利という「言葉」を、私はさほどに信じていないのです。

表現の自由はどこまで許されるのか
2014年05月26日 16時16分 HUFF POST SOCIETY
http://www.huffingtonpost.jp/dai-tamesue-x-aera-hakunetsu-web/freedom-of-expression_b_5391208.html?utm_hp_ref=tw

 自由と権利を裏打ちするのは義務と責任が果たされていること。
 クレジットカードは便利なものだが、あれは、収入がない人には認めてもらえない。
 信用というものもあって、これは事実上「使用実績」ですね。
 同じカードでも長い期間、支払いの遅延などいっさいなくきっちりきっちり使っていると、ショッピング限度額を増やしてもらえる。
(もらえる、というより、最初に見たときはなにごとかと思いましたけどね;; 限度額を増やして欲しいと思ったことはないし、そういう希望を聞かれたこともなかったので、いきなり増えていたときはびっくり)

 二言目には自由だ権利だというやつは、そもそも、その義務と責任については貝のように口を閉ざす。信用ならん、というのが私の考えです。
 
 義務と責任の広範囲であることその重いことを考えると、自由や権利などというのはじつに微々たるもので、そんなもんをふりかざして好き勝手をしたいという発想には、私は鼻毛の先ほどにも同意しません。

 ということをまず前提にして。

 ブログ、ということで考えますと。
 もう何年もまえですが、ニュース記事を引用する形で、犯罪の容疑者とされた人について書いたブログが、名誉毀損で有罪となりました。
 ブログも、書籍や雑誌と同じように、公的な文書であるという判断が示されたわけですね。これはもっとも、と思いました。

 ちなみに、名誉毀損というのは「事実を述べる分には罰せられない」と考えている人もあるようですが、違います。
 たとえ、その言いふらした内容が事実であっても——○○さんは浮気をしていた、とか——、その人の社会的な名誉や尊厳を傷つけようとする意図があってのことだと認められると、名誉毀損は成立します。

 なんのことはない、「他人の悪口を言うな」ってことなんですよね。
 そう難しい話じゃない——本質にしてしまえば。

 表現の自由といいますが。

 たとえばブログで、レストランでちょっと残念なことがあったことについて書こう、と思ったとしますね。

 その、「書きたいこと」の、「本論」はなんでしょうか。

 ただ、話のネタとして、こういう失礼な対応をされた、頭にきたわ〜、という、体験、自分の感情、感じたことを伝えたいのか。
 それとも、そのお店に「復讐」したくて、「悪口」をいいふらしたいのか。
(事実だから悪口ではない、といういいぐさは、法律では成立しないのは上記のとおりです)

 たぶん。
 私が、レストランでこんな対応された、頭にくるわ〜! ということを書くときは、何をされ、その何に対して怒りを感じたかを書くでしょう。
 具体的な店名や所在地は書きません。

 私が言いたいのは「頭に来た! ちょっと聞いてよ!」ということなんであって、その相手に復讐しようとかそういうことではないから。

 そのお店にシャレにならない問題があると思うなら、ブログに書かないで保健所かどこかに通報すればいいだけですから、(^^;) 逆に、ブログに書く必要を認めない。

 表現の自由というけれども、なにを表現したいか、伝えたいのか、ということをまず、自分で決める必要があるでしょうね。

 ただ、頭にきちゃったよという体験や感情を伝えたいだけなら、あえて店名などを「さらす」必要はないし、それをやってしまうと「名誉毀損」になる恐れがある——そのつもりがなくてもです。

 もちろんあえて名前を「さらし」て、攻撃してやろうという意図がある、という人もあるでしょう。
 私は一般社会人としては、そういう意図があって人様の名誉を毀損するようなことは、犯罪になるのでやめるべきだと思いますが、どうしてもというのなら、自分もまた犯罪者になる覚悟をもってどうぞ。というしかありませんね。
 で、見つけたら警察に通報します(犯罪レベルの場合は)。市民として。

 私個人としましてはブログではとにかく、ちょっとネガティブと思われる話題のときは、具体的な個人名等、たとえ報道がされていても、私は書かないようにしています。
 世間様が軽薄に盛り上がっているときなら、個人名を挙げなくてもなんの話題かはわかるし——かりにわかってもらえなくても、私が書きたいことは、個人名を挙げなくても成立することばかりなので。

 個人名をあげて書かないと成立しないこと、というのはちょっと思いつかない。それこそ、悪口でもない限り。
 左巻きの悪口はしょっちゅう言ってますが、個人名を挙げることはほとんどありません。政治家や何かの場合は、不支持の理由として書くことはありますが。

 犯罪の容疑者も、書かないなあ……。たぶん、有罪判決が確定しても、個人名は書かない。
 これは私の密かなポリシーでしょう。(あんまり意識したことなかった;;)

 おめでたいことや、素晴らしいと思うこと、祝福については、個人名はばんばん書きます。(^-^)

 表現の自由にしろ言論のなんちゃらにしろ、基本は「ひとさまを傷つけてはならない」という「義務」を果たした上で、初めて認められる、ということ。
 それだけのことじゃないですかね。難しいことを言わなくても。

 ところで、どーでもいいんですが、上記記事にコメント欄があるのですが、けっこうな長文で、であるにもかかわらず、改行も改段も、ひとっっつも! ない、という方がいらっしゃるのですが。
 これは正直、勘弁して欲しい;;

 純文学の作家さんに、じつは、改段がない、もしくは極端に少ない、という人が多いのですが、このかたももしや純文学のヒトか? と思っちゃいました;;
 読みやすいように気を配るというのは、義務でも責任でもありませんが——でも、せっかくのご意見ですから、読みやすいようにもうちょっと、考えていただけるとありがたいなあ、と;;

 
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表に返す

 テレビでは、人気歌手の方が覚醒剤使用の容疑で逮捕された件でかまびすしいことですが、テレビから聞こえてくる話を、ぼーっと聞いていて、はっとしました。
「○○容疑者は、依然としてヒニンを続けているわけですが……」
 えっ、と思ったんですが、すぐに気がつきました。
「あ、ああ、そ、そうか、避妊じゃなくて否認ね……」

 ………だいぶ疲れてます私;;

       ●

文脈と単語
2014/05/26 為末ブログ
http://tamesue.jp/?p=1092

 やはり文章がまとまっているほうが、読みやすいなと思いました。
 TwitterにはTwitterのよさがもちろんあるでしょうが、ある程度の分量でもって「語る」場合は、やはり、文章が細切れになるよりも、ある程度の分量を一気に読める形式のほうが、脳味噌の中には入りやすいように感じます。

 ともあれ。
 このエントリを見たとき——いえ、この前段階であるツイートをみたとき、「あ。為末さんがキレた」と思いました。(^^ゞ
 いやあ、でも、キレて当たり前だと思いましたよ私も。

 いるんですよね、重箱の隅を突いて得意満面になっているっての。

 まあその重箱の隅ツツキの内容も、べつに間違いではないし、いいんじゃないすか、としかいいようがないわけですが、しかし、重箱の隅というのはこの場合「どうでもいい」という意味でもあるので。
 議論の本題とはまっっっったく関係のないところをほじくりかえして、得意そうな顔をされてもね……と。
 思うけれどあえて指摘もしない。

 なぜというに、そういうことで自己顕示してくる人というのは、それこそ「プライドを名乗るコンプレックス」が強い人なので、そんなのどうでもいいじゃん、などといっていなそうものなら、すっげえ勢いで恨んできますから。
 正直に言えば「面倒くさい」。
 ゆえに、あーハイハイそうですねーといって、得意げな顔をそのままやらせておくのが得策です。

 でも、そういう人がけっこう多いし……、見ていますとどうもそういう人って、しつこいみたいですね。
 こういう手合いには、とにかく返事はしないのが一番だと思うけれど、——でも、いいかげん、あまりにしつこい場合には、コップの水をぶっかけるくらいのことは、したくなりますよね人情として。(^^;)

 今回の件でいうと、プライドが高い人は、内実はこういうことだ、という(ご自身の経験を踏まえての)考察なので、当然、読んでいればその文脈から、プライドが高いとはどういうことか、プライドという言葉にどんなイメージが寄せられているかはわかる。
 であるにも関わらず、あさっての方向から、しかもエラソウに「プライドってこういうことだろ」という「説教」が飛んでくるというのはどういうことか。

 空気なんか読まなくていいから文脈を読め! と言いたくもなりますねホントに。

 読解力のなさを露呈するのがそんなに嬉しいか。
 それとも、たとえ自分の読解力のなさを露呈してでも、ひとさまにエラソウにセッキョーしたいものなのか。
 わかりませんねどうにも。

 ともあれ。
 プライドなんてのはたいていの場合、自分の成長の邪魔になるものだし、いたずらに他人を踏みつけにするきっかけにもなるので、そんなもんならさっさとどぶに捨ててこい、そんなもんがプライドならプライドなんてないほうがはるかにマシだ、という考えでおります。

 ふだんそういう考えでおります身には、「プライドではなく自尊心 self-esteem を持とう」、というお話は、たいへん、しっくりきました。

 esteemというのは「敬意」。尊敬、尊重。
 prideには「うぬぼれ」の意味がありますが、自分の面子だの沽券だのにこだわる、というのは、うぬぼれとも違いますよね。

 多くの人がプライドと呼ぶのはじつはただのコンプレックス、劣等感に過ぎない、と喝破した人もありました。私も同感です。

 劣等感なら誰でもなにがしか、あるものでしょうが、それゆえに尊大に振る舞う理由は何かというなら、それは「insecure」の感覚だからかな、と思ってます。
 insecure(形容詞)、insecurity(名詞)は、日本語に訳すなら「不安」ですが、これはとくに「自分についての不安感」「自信のなさ」——私の英語の先生(アメリカ人)の説明によると、「他者に脅かされている、自分の地位や存在が、他者によってあやうくされている」感覚だ、とのことでした。

(例として挙げられたのは。
 たとえばゴルフのコンペに出ていて、途中まではすっごい好調でトップにいたんだけれども、だんだん、うまくスコアが伸ばせなくなってきて、そのうえ、他の選手がどんどんバーディをとっている、もうすぐトップの座を奪われそう、というときの『不安な=insecure』気持ち。だそうです)

 これ、しっくりくる日本語がないように思いますので、カタカナ表記で失礼しますが——不安にもイロイロあるわけですがとくに、自分で自分の存在があやうい、と感じる不安、インセキュア、「怯え」が、プライドというものになって現れる気がします。

 自信がない、不安だ、というのは同じでも、それが他人によって脅かされていると感じる不安。
 なにかの劣等感が他者に負けるまいという「プライド」を生み出す。しかし他者に負けまいと思うということは、同時に「自分は負けるのではないか」という不安を生む。

 不安や恐怖に対する人間の反応は「怒り」。
 怒り、威嚇し、相手を攻撃することで、不安を感じて怯える自分を守ろうとする。
 劣等感⇒不安⇒プライド⇒威嚇、攻撃。
 でもそれが理不尽な攻撃である場合、どっちにしろ他人からは恨まれ嫌われるんですよね。
 攻撃されたほうにしてみれば、わけのわからないことで、いきなり怒鳴られた、ということになるんですから。

 不安や劣等感があると、表面には、全身の毛を逆立てて威嚇するという攻撃姿勢になって現れる。
 怖いなら怖いで、素直に、きゃー! と逃げ出せばいいのですが、それでもそこに踏みとどまらなければならない危機感と「恐怖」。

 いちど逃げ出したら最後、自分はもう2度とここに戻れない、自分ではいられない、自分なりに築いたものを渡さなければならない、それはできない、だから全身で相手を威嚇する。ここにくるな、触れるな、立ち入ることは絶対に許さない。と。

 その脅かされているという考えはある意味、妄想なんですが、本人はそうは思わない。

 本人にしたら守るべきものを守って戦う自分かっこいい、のかもしれませんね。

 でも、ハタからみると、ダイヤモンドのつもりで彼が握っているのはただの花崗岩かなにかで、まあ光沢はあるかもしれないがダイヤではない、——それを必死に握りしめて他人を泥棒みたいに思い込んで威嚇して——なにやってんの? ということになる。

 本当に人を立たせる「誇り」と、裸の王様になってしまう「プライド」を見分けたいなら、そこに、不安があるかどうかをみればいい。
 
 不安や恐れがベースにあり、そういう不安、恐怖ゆえに攻撃的に、あるいは意固地になっているなら、それは本当の意味での誇りではない。

 本当の誇りは、自分にとってなにが価値があることか——成長する自分を素直に喜ぶことができるものですから。
 その気持ちに、不安や恐怖という「くもり」があるなら、それは本当の意味での誇りではない。
 
 いま、自分がしがみついているものが、自分の気持ちを高揚させてくれるものか。
 それとも、怒りというものがわき出すような暗いものか。

 ここを見ていれば、誇りなのかプライドなのか、見極めることはできますよ。

 ああ、これプライドのほうだな、と思ったら、そのプライドはコンプレックスの裏がえしなんですから、もういちど表に直すことをおすすめします。
 プライドだと思っているものをもういちどひっくり返して、コンプレックス、劣等感の形に直してみる。

 自分としてはつらい作業ですが、周囲にいる人間としては、そうしていいただけると、無用の被害は受けなくてすむので、たいへん助かります。
 人助けと思って、自分が持つ劣等感を、きっちり認めてくださるとありがたいです。

 
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いい男の基準

カリブの北朝鮮=キューバがハマる「宇宙戦艦ヤマト」…放映時間になると街角から人影が消えた
2014.5.20 07:00 MSN産経west
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140520/waf14052007000001-n3.htm

 産経さんのはすぐにリンク切れするから、あんまりリンクしたくないんだよな……なんていったら怒られるかな? (^^;)

 でも、ほかのニュースサイトの記事はまだリンク生きているのに、産経さんのはもうはやばやと、どうかすれば3ヶ月ですでに「記事は存在しません」みたいなことになるんですよね;;
 サーバーの都合もあるのかもしれませんが。

 ということで上記記事の内容を要約すると、
「とある日本人男性がキューバへいったところ、ホテルのテレビをつけたら例の「♪さらば〜地球よ〜」が聞こえてきてびっくり。
毎回の放映時間、ハバナの街頭から人影が消えるほどの人気だったと現地で聞いた
 このヤマトは1974年版の最初のヤマト。キューバの人々は「悪の帝国ガミラスに挑むヤマト」と、「悪の帝国=アメリカと戦うキューバ」を重ねあわせているという。
「デスラー総統は米大統領、一方でヤマト指揮官の髭の沖田艦長はカストロ、古代進はゲバラ」に見立てている。
 ソ連崩壊後のキューバは「観光立国」を目指している。
 じつは日本とキューバは親交が80年以上もある。キューバにおける日本のイメージは、侍、おしん。
 かつてアメリカと戦ったということで、日本に親しみを感じる人も多い」


 ちなみに、日本人女性と結婚して、遊んで暮らしたい、という現地男性のお話も出てきますが、これはキューバ以外でも聞かされる話なので、まあいいや。省略。(^^;)

 ともあれ、左翼嫌いの私としては、デスラー⇒アメリカ大統領、沖田艦長=カストロ、ここまではまあなんとか我慢するが(カストロさんは、おひげのイメージで、まあなんとか)、古代進がゲバラっつーのは納得できない! ふざけんな!(←そこまで言うか…?)と言いたい。
 ……幼稚園、小学校と、憧れの人だったからなあ、古代進。(^^;)

 あたしゃ左翼は嫌いなの。なーにが革命だよスカポンタン。くらいにしか思わない。いちおう伝記も読んだけれども、こういうのを読んで大感動する人もあるようだけど、なにがそんなに感動のポイントになるのかわからない。
 という次第なので、「その見立てはビミョーだな」と、笑いつつもつい頬がひきつります。(^^;)

 そういえば、フィギュアスケート、ロシアのリプニツカヤ選手が愛読書にゲバラを挙げていたと思うのですが……、どこらへんがツボなのか、ちょっと教えて欲しいと本気で思いました。
 説明を聞いて納得できるとは限らないにしても、私には「なぜアレがそんなに?」としか思えないので、こういうところが魅力なのだと教えてもらえると、もしかしたら、なにかのヒントになるかな、と。

 ………説明してもらって、その「言葉の意味」は理解できても、「実感」としては、ぜんぜんわからない、ということがあるのは、それは仕方のないことです。
 でも、想像もつかないものについては、とにかく、せめて「言葉の意味」だけでも、教えて欲しいと思うことはけっこうあります。

 それで、ほんのりとでも、「ああそういうものか」と思えれば占めたものですし。
 そうとすら思えないとしても、まあそれはそれで、しょうがないわけだし。(^^;)

 ゲバラさんがもーちょっといい男だったら、私もこうまでも反発しないかもしれませんが(なんせ、日本において実写版・古代進を演じたのは木村拓哉さんですぞ)、……それとも、あれか。アチラではゲバラさんはハンサムなのかしら。

 美女の基準は文化によっても左右されますが、これは男性にも同じことが言えるのではないでしょうか。
 とあるハリウッド俳優さんが「もっともセクシーな俳優」に選ばれたとき、首を傾げまくってましたからねえ私;;
 すりこみが故・大川橋蔵さんだし、好みはどうあっても、いわゆる「おしょうゆ顔」なので、異人さんの基準が、イマイチどころかぜんぜんわからない;;

 キューバではゲバラさんはハンサムなのよ! ということでしたらすみません;;

 ともあれ、ヤマトも意外なところで意外なウケ方をしているのだなと思いました。
 放送時間になると人影が……って、そのかみのラジオドラマ「君の名は」の伝説みたいですね;;
(放送時間になると銭湯の女湯が空になったという伝説)

 ヤマトのリメイク版、2199でしたっけ? あれはあれで、なるほど時代の変化を感じて、面白かったです。
 おおもとのヤマトに比べると「ライト」だなと感じましたが、まあそれはそれで。

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菅生隆之、小野大輔 他

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 沖田艦長といえば「なつかしい」の他には、やはりなんといっても、これですね。↓

【馬鹿め】
http://www.youtube.com/watch?v=SjCqNrVwNxc


 シリーズ第1話。ヤマトが登場するまえ、地球側がいかに危機的状況かを説明するシーンのひとつですが、やはり妙に印象に残ります。
 降伏を勧告されて、返電は、「馬鹿め」。

 すでに玉砕を覚悟している、ということと、降伏すれば助けてやるなんて、嘘に決まっとろうが! という状況では、こうとしかいいようがないだろうな、と思います。
 この場合は降伏してもしなくても同じ結果なんですもんねえ。降伏を勧告するほうがどうかしている。(タマがもったいない、と思ったのかもしれませんけど)

 子供のころはあんまり深く考えず、カッコイイ、なんて思っていたシーンですが、さすがに中年にもなって参りますと、こうとしか言えない状況のことを、つい具体的に考えてしまい、しーんとなっちゃいますね。(^^;)

 なんにしても、懐かしくてつい、反応してしまいました(笑)
 
 
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山川草木悉皆有仏性

 最近、流れ込むようにして脳内にひらめくこと。

あなたの手元にあるもの、あなたのそばにあるものはすべて、あなたの味方です

 ショーツ一枚、靴下一足、手に持っているペン1本、靴一足、すべてすべて、あなたの味方です。

 ——という感じ方が流れ込んできて、「なるほどなあ」と思います。

 近藤麻理恵さんの「ときめき」による片付け、あのアイデアというか、概念は、ほんとにすごいな、と思います。
 愛ですよねえ、あれは。
人生がときめく片づけの魔法人生がときめく片づけの魔法
(2010/12/27)
近藤 麻理恵

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 スピリチュアルでは、自分を愛しましょう、自分を認め、受け入れ、許しましょう——つまるところは自分を大事にしましょうという話を、ありとあらゆる方角からするのですが、これが、なかなかね。
「わからない」んですよね。(^^;)

 自分を愛しましょうとか、受け入れましょうとか、もちろん、言葉の意味はわかるけれども、どうやってそうすればいいのか、と茫然とする。
 そもそも自分を愛するというのはどういうこと? という——そこからですもんね。

 自分を愛しましょうといわれたときに、びっくりするんですもんね。最初は。
 そんなこと考えたこともなかった。
 だいたい、そんなことをしていいの? と。
 そして驚くと同時に、自分を愛するなんてできるわけないじゃん、こんな不出来な、不格好な、不器用な、無能な、役立たずの、醜い生き物を愛するって。
 という反発がわきおこる。

 たぶん、この反発のところで立ち止まったり、そこで引き返してしまう人も、大勢いると思います。
 私は引き返すこともできないところにいたので、もうしょうがない、という感じでひたすら、そこに立ち止まって考えていましたけれども。

 鏡を見て、自分と目と目を合わせて、そしてにっこり笑う。それができませんでした。私の場合はそこから始めました。

 で、どうも自分を愛するという感覚が、ほんのちょっとでもおぼろげでも見えてきたとき、近藤麻理恵さんの、「あなたのもとに来たものは、みんな、あなたの役に立ちたくてやってきた」という考えに触れたとき、いかに自分が、自分の持ち物をぞんざいに扱ってきたかに気がついたのでした。

 どうせ自分のものなんだから、どうせアタシが使うんだから、どうでもいい、どんな安物でもいい、——片付けもせず、まして手入れなどしたためしもなく、汚れれば捨てる。だから安物ばかり買う。
 多少、値が張っても、あれがいいなと思うものと出会っても、次の瞬間には、
「いいや、べつに。どうせあたしが使うものなんだし。安いほうでいいや」
 と、自分で自分に、「本当に欲しいものを禁じる」。

 そういうことをしていたんだな——と、最近、だいぶ、見えるようになりました。

 自分で自分を粗雑に扱うから、自分の持ち物にも「どうでもいい」扱いしかしない。
 そもそも、好きなもの、気に入ったもの、自分にふさわしいはずのものを、自分に与えようとしない。許さない。
 シンデレラは継母たちにずいぶんないじめられようをしますが、ああいう感じです。

 しかしそういうなかでも、本当は、自分の持ち物となったものたちは、その「生命」をまっとうに生きていたし、まっとうに生きるために、持ち主である人間のために精一杯、役に立とうと頑張っていた。
 それを——ほこりだらけにし、汚れまみれにし、床のうえに放り出し、どうかすれば床においたまま踏みつけ、ある日、くたびれたことに気がつくと、ありがとうも言わずにぽいと捨てる。

 なんかもう、書いていて泣けてくるほど、ひどいことをしてきたな、と思います。

 でもそういうものの扱いは、自分が自分をどう扱っているかを、そのまま表していた、ということも、いまはわかります。
 自分で自分を殺そうとする——これほどひどい扱いはない。
 そういう扱いを、自分の持ちものにも、反映していたのですね。

 ものを大事にしましょう、感謝して使いましょう、大事にして、きれいに手入れもしましょう——というのは、「自分を愛するように、自分のためにそこにあってくれるものたちをも、愛しましょう」ということなんですね。

 いま、自分がどれほど孤独で、孤立して、寂しいと思う状況にあっても。
 あなたの身近にあるものたちは、無言であなたを応援し、味方になっている。

 たとえ、あなたが、自分で自分を殺そうと苦しんでいるときであっても。
 コップ一杯の水も、その水を満たしたタンブラーひとつも、あなたを癒し、生きるための力を与えてくれている。
 
 あなたがいま、たったひとりの味方もない、という孤独の状況であったとしても。
 あなたのそばにあるものたちは、黙ってあなたの味方をしている。


 ——そのことに、みんなが気がつけばいいな、と思います。
 いやまあ、言われるまでもなくわかっている人からすれば、アンタいまさら何いってんだ、というくらいのことでしょうけども。(^^ゞ

 あなたが孤独に沈み、打ち拉がれているときでも、じつは、あなたはあらゆるものの愛情を受けているのです、ということ。

 それが最近、自然に脳内に流れ込んでくる感じがします。

 なにかひとつ——かたくなな「ブロック」が、ようやく、はずれてきているのかもしれません。

 身の回りにあるものたちは、いつもあなたの味方です。
 だから大事にしてあげてください。
 大事にしてあげるほどに、あなたが彼らからどれほど愛されているか、わかります。
 あなたはいつも、どんなときも、愛されています。


 ——これは私が「考えたこと」ではないと思うんですよねえ……。
 どこからか「流れ込んでくる」思念、概念、そんなようなもの。
 そう感じます。
 こういうやさしい声が聞けるようになってきたということなら、ありがたく、嬉しいことです。

 なんかこう——今日のエントリはちょっと「自動書記」ぽくて面白いです。
 お読みくださる方には、なんともとりとめのない、妙なものに見えているかとは思いますが。(^^;)
 
 
 
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練習問題

 さて皆様! 本日5月24日、午後9時、BSプレミアムにて、「シャーロック3」、放送開始でございます!

SHERLOCK 3 BSプレミアム 
http://www9.nhk.or.jp/kaigai/sherlock3/

 Webドラマも配信中——というか、NHKは「番組宣伝の番組」を長々やって、うんざりさせられることがあるのですが、あんなもの(失言)流すくらいなら、このウェブドラマを放送すればいいんじゃないだろうか?
 ………レストレードさん、好いたらしい……♡

 で、今日は午後2時30分から「徹底解明!SHERLOCKの秘密」とのこと。
 今シリーズから初めて見るよという人も大丈夫、ということでしょうね。
 楽しみです。(^-^)

        ●

 先日お出かけしたときにお見かけしたので、初めて購入しました。
「The BIG ISSUE 日本版」。

ビッグイシュー日本版
http://www.bigissue.jp

 1部350円。このうちの180円が、販売者のかたの収入になるんだそうです。

 以前から時々お見かけしていたのですが、今回初めて買ってみました。
 ひとまず最新号を買ったんですが、バックナンバーもあるんですね。

 内容は、面白いです。
 今回はラッセル・クロウさんのインタビュー記事と、「においの不思議」という特集が目玉でしょう。
 
 におい、というのも不思議な現象。嗅覚って、死活問題なんですね。ホントに。
 私も鼻炎だ副鼻腔炎だ鼻茸(はなたけ)だということで鼻づまりに苦労した記憶がありますので(おかげさまで、最近はもうそんなにひどくなることはないです)、嗅覚の重要性はわかっているつもりでしたが。

 奥深いものですね、においの世界も。
 嗅覚は、聴覚視覚に比べて、「なくても死にはしない」みたいに軽い扱いをされることが多いようですが、とんでもないよ、これだって死活問題だよ、ということが、なるほどよくわかりました。

 ………ところで。
 この「ビッグイシュー」。
 ホームレスの方の自立支援という目的があるので、多少の覚悟はしていましたが。

 ラッセル・クロウさんの記事の次のページに浜 矩子(はま・のりこ)先生のコラムがあって、見た瞬間、
「あ。なんかすっげえイヤな予感がする……」
 と思ったんですが、まさに的中。(^^;)

 全般的にこちら、「放射脳」ですね;; ちょっと広義のそれになるけれど;;

 ということで、雑誌の主旨や、内容の面白さは認めつつも、「ひ……左巻きか……」ということで、心理的にはだいぶ、引いてしまっております。(^^;)

 でも、それ以外のところは興味深かったり、面白かったりするんですよ。
 ことに、自閉症である作家、東田直樹さんのエッセイ(往復書簡の形式)が、興味深くて、うーむ、と唸っておりました。

 東田さんのことは不勉強で今回初めてお聞きしたのですが……。

 これは往復書簡という形式をとったリレーエッセイなのですが、東田さんはいいのですけれど、残念ながら相方のほうがいささかツマラナイ;; 精神科のお医者様で、山登敬之(やまと・ひろゆき)さんとおっしゃるそうですが、——うーん。残念ながら、東田さんとの「対話相手」としては、ちょっと残念なレベル。

 あくまでこれは私の感想ですが、山登さんのほうは、お医者様の所見としては傾聴すべきところはあるものの、基本的にその感性は、私が「左巻き」と呼ぶ人のそれ。
 ………なぜ、私の目には左巻きの感性というのがこうも薄っぺらな、あるいは幼稚なものに見えてしまうのだろう;;

 東田さんのエッセイと並ぶとその薄っぺらさがかえって目立っているようで、私としては、うーむ。でした。
 東田さんのお書きになったことについては、私なりに考えたいこともいくつかありますが……。

 ところで、私が、自分の学ぶべきことの「課題」にしていることのひとつに、この好き嫌いの激しさ、心の狭さを、もーちょっとどうにかしよう、ということがあるのですが。
(最大にしてもっとも根本的な課題は『自己肯定』ですが、それを根っこにしていろいろ、小課題があるんですよね。(^^;))

 この「ビッグイシュー」。
 内容的には面白いと思う。雑誌の設立趣旨にも賛同する。

 けれども、ときおり香ってくるこの左巻きのニオイには辟易する。

 辟易するが、その一事をもってして、ビッグイシューを全否定か、というと、そんなこともない。

 そう気がついたとき、これはひとつの練習課題になるのではなかろうか——と思いました。

 つまり、ひとつイヤだと思うともうあとの全部がイヤになる、というのが、私の好悪の激しさ、心の狭さなんだけれども、なにかひとつ気に入らないことがあったとしても、それ以外の「美点」に焦点を当て、そちらを見る、という「練習」に、できるのではないだろうか。
 ——ということです。

 なんだかいろいろ、関係各位には失礼なことを申し上げていて、お恥ずかしい次第ですが、——ともあれ、そんなことを考えております。

 今後もビッグイシューを購入し、そのあたりの「訓練」にしていけたら、「一事をもって全否定」になる、この心の狭さを、ほんの少し、制御できるようになるのでは——少なくとも今よりはそうできるようになったらいいな、と。
 ほとんど祈る思いでおります;;

「イヤなところより、その人のいいところを見よう、そうすれば大丈夫」
 という「教え」は、まことにごもっともとは思いつつ、いままでなかなか実践できませんでしたので(………無理に頑張っていたら蕁麻疹が出た……;; ホントに)、こういう、さりげなく小さいところから、勉強できればいいな、と。

 
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言葉と心の距離

 インターネットを始めたばかりの私が、2ちゃんねるなるものにびっくりしながら(たいていは、いい意味でのびっくりではない)、どうにも嫌悪感があって堪え難かったのは、あの馴れ馴れしい「タメ口」。

 タメ口というよりは、もっと無作法で下品なものいい。

 むしろ、あの当時の印象としては、2ちゃんでは、ふつーの口のききようをすることのほうが、忌避され、馬鹿にされ、あるいは「ルール違反」扱いされるようだ、という感じでした。

 なぜ、2ちゃんにおいては、ですます調ですら「ダメ」なのか、と思っていたところ、あの掲示板の創始者が、「みんなが平等にある」ことを理念とし、それを表すルールとして、タメ口使用を決めたのだ。と。
 嘘か本当かは私は存じませんが、ともあれ、当時、そういう話を聞いた、ということです。

 じつに軽薄にして浅はかな見解だな、とますます私は嫌悪感を深め、そのあとはもう長いこと、2ちゃんなどはのぞきもしませんでした。
 何年かのちの「電車男」ブームのせいで、「ねらー」でもない人までもが、あの気色の悪い隠語、符丁を通常のメール文面に取り入れて送ってきたので、すっかり頭に来た(なにがキボンヌだふざけんな! という調子でした;;)——そんなこともありましたっけ。(^^;)

 ともあれ、しかし。
 親しい相手とはタメ口、逆に言うとタメ口でないと親しいのではない、あるいは「対等」ではない、というこの発想。

 簡単に言えば子供の発想ですね。

 私もその昔、中学生くらいのころでしょうか、——夏目漱石と寺田寅彦博士の交遊を書簡集等で知り、不思議にも思ったのでした。
 寺田博士は、熊本第五高等学校での、漱石先生の教え子。
 まして当時の学校の先生と生徒などというのは、ものすごい「身分差」ですね。

 すぐれた科学者(物理学)となったのちも、ふたりの関係は依然として「先生と生徒」なのですが、しかし、その交遊、交情のようすというのは、親友とも呼ぶべき濃やかさがある。

 漱石先生が亡くなったときの、寺田博士が詠じた短歌は、読んだ側が胸がえぐられるように痛む、それほど哀切なものですし——寺田博士がお亡くなりになるとき、そのうわごとに漱石先生のことを語るくらいでしたから、余人には計り知れない深い、強い友情があったようです。

 でも、敬語です。

 そこが、中学生の私にはちょっとした疑問でした。

 これほど親しいのに、でも、敬語。
 当たり前っちゃあ当たり前でしょうが、でも、友達同士の口調ではない口調で話すこと、なによりも、自分より年上の人と「親しい」ことってあり得るのだろうか、と、中学生にはちょっとナゾに思えました。

 しかし高校卒業後、ふと気がつくと敬語で冗談を言い、年は自分よりは上だけれども親しみを覚え、敬意を抱き、わかるわかると言いあえる、そういう付き合いの人が現れるに及び。

 ようは、タメ口でないと親しくなれない、タメ口をきくのが友達なのだ、という認識は、子供の感覚なんだな。と思いました。

 年齢の違いや、立場の違いというのは、それは社会の中の約束事ですから、まったくフラットということは、むしろ不自然。
 しかし、そういう、社会的立場はそれとして、同時に、その人個人とは、あくまで対等の人間同士としての交情も敬意もあるのだ、ということが。
 大人になってわかるようになったんだなと、ふと思い出しました。

 タメ口でないと親しくない、親しさの証がタメ口である、という、この単純すぎる発想は、いかにも浅薄ですね。

 私がネットを始めて2ちゃんに嫌悪感を持ち軽蔑さえした、あのころは、その創始者であり管理する方々も、まだお若かったでしょう。
 その若さがああいう浅はかなことを——ネットでは誰もが平等である、それを守るために敬語は禁止、というようなことを、——明文化されていなかったにしろ、暗黙のルールとしてしまったのかもしれません。
 いえ実際のところはどうなのか、存じませんが;;

 いまは。
 コメント欄でも、ちゃんとした日本語(書き言葉。文語)を用いている人もそれなりにお見かけしますから、「ネットではみなが平等ゆえに敬語は禁止」という、いかにも頭の悪いルールもすでに消えつつあるとみて、よろしいのでしょうか。
 
 敬意があること、親しみがあること、交情の濃やかさといったものは、タメ口で「なければならない」ということはない。

 タメ口をきかずとも、生死さえともにしようというほどの関係を持つことは可能——というよりも、そういうことと、タメか敬語かは無関係なんじゃないかな。
 むしろ、相手を尊敬し、親しむほど、乱暴な言葉は使えない、というのが人間の心理だと思いますがどうでしょうか。

 タメ口なのによそよそしい、ということも、私は逆にあると思いますよ。
 ——たぶん、そういうのは、すでに「ケンカ腰」ってやつだと思いますけど。(^^;)

 ちなみに、シナ語には敬語がないと聞いたんですが、本当でしょうか。
 真偽のほどは私は存じませんが、でも、「シナ語には敬語がない」と聞いた瞬間、「ああ、だからシナはああなんだね」と、たいへん、思わず、深く納得してしまいました。(^^;)

 …………偏見かなあコレ;; やっぱり;;

 
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本日おやすみ

140522.jpg

写真は本日の旅のお供。
でも最近iPhoneから写メすると写真表示がおかしいんですよね。
変な表示になっていたらごめんなさい。
帰ったら直します。

写真のアサイードリンクは、エステのTBCさんプロデュースによるのだそうですが、さて、お味のほどは如何に。

ちなみに、製造は森永乳業さん。工場も明記されています。国内工場ですね。

最近ホントに、ものを買う前にそのへんかなり厳重に調べるようになりました。(^_^;)

昨夜は将棋の名人戦に夢中になってまして、日記も書かずに寝てしまいました。

詳しいことはわからない人間にさえ、面白い、迫力のある勝負でしたね。

ニコ生で見ましたが、大詰めのころの、皆様の、風呂に入れない! トイレに行けない! というコメントに同意しつつ見てました。(*^_^*)

次は棋聖戦ですね。←見る気満々


 
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事実認定

 人は見かけによらぬ、人を外見で判断してはならぬ、——でも第一印象は大事(つまり外見は大事)。
 まあ、いずれも間違いではない。それぞれ、正しいことを言っていると思います。

 PC遠隔操作事件の犯人として逮捕された人が、本人は無罪、冤罪を主張し、決定的な物的証拠を欠いているために、彼の主張に有利なように裁判も進み、よって裁判所も保釈を認めた、その矢先。
 つまらないアリバイ工作をし、真犯人が他にいるように装ったために、かえって自ら、真犯人であることを示してしまったという事件ですが。

 私が、ふーん、といって聞いた話は、彼、犯人の「顔」のことでした。

 ネットのコメントやTwitterでは、彼の無罪・冤罪の主張を支持する人がけっこういて、それも私には「ふーん」でしたが(だってアンタ、なにも事情を知らない他人が軽々しくいうことじゃないでしょう。支持にしろ不支持にしろ)、そのコメントの中に、
「彼の顔を見てみなさいよ、犯人には見えないでしょ」
 という主旨のものがありまして。

 ふーん。と思っていたのですが。
 今回そういうわけで、真犯人と特定されたら、今度は、
「真犯人だと思っていた。だってあの顔」
 というコメントがあって、ふーん。でした。

 その昔——やはり、いちどは有罪判決を受けながら、無罪を主張していた人がありました。

 情けない私の脳味噌は、その事件の詳細も、犯人とされた人のお名前も思い出せず、ただうっすらと、「あれって埼玉じゃなかったかな」という程度しか思い出せません。
 ゆえに、もしかしたら、私の記憶違い、または思い込みによる記憶の改変かもしれませんが、(^^;) まあ、ひとつの「おはなし」としてお聞きください。

追記首都圏女性連続殺人事件でした。埼玉県のみの事件ではありませんでした。失礼いたしました。m(_ _)m)

 その事件では、連続婦女暴行事件の犯人とされたのでしたが、ご本人はあくまでも無罪を主張。
 報道される話を聞く限りでは、もちろん、部外者としてはなんともいえることではなかった。
 であるのに、かなり大掛かりに彼を支援する人々がいて、もはや「支援団体」といっていい規模でした。
 で、そのうちのおひとりが、なぜ無罪主張を支援するのかと問われ、
「彼の目を見たとき無罪だと思った」
 と答えました。

 彼の目は澄んでいて、とてもこんな重犯罪を犯す人ではない、と。

 私にはどうにも説得力のない話でしたが、そういうご意見もある、ということで「ふーん」。

 たしか一度は証拠不十分で無罪判決となったのですが(疑わしきは被告人の有利に、というだけのことで、有罪をハッキリ示すものがなかったのと同様、無罪であることを積極的に証明するものでもなかった)。
 結局そうやって、自由の身となってから数年後——彼は再び犯行に及び、これはもう証拠もばっちり、いいわけはきかない状況で逮捕されて、少なくとも、その事件では有罪になりました。

 あのとき、「あんな澄んだ目をした人が」と言った人は、そのときどんな思いがしただろう、と気になりました。

 ちなみに。
 私個人の、あくまでも報道越しの印象としては、「怪しいな」でした。
 とはいえ、もちろん予断はいけません。
 警察は捜査に差し支えのない範囲でしか発表しないわけですから、第3者がなにも勝手なことを言えるものではないのです。

 顔とか、目とか。

 やはりそういうのは、あてにしてはいかんことだな、と思いました。

 自分の好き嫌いを決めるのはまあしょうがない。
 しかし、こういう犯罪となるとその人の名誉と尊厳に大きく関わることですから、やはり、その顔が好きとか目が澄んでいるとか、そういう「主観」で判断してはなるまいと思いまして。
 
 で、今回も——「世間様なんてのはまったくいい加減なことを言いやがる」と、あらためて思ったことでした。

 好き嫌いはしょうがないけどね、でも、こういう、犯罪にふれることでは、そういうことをいうの、やめましょうよ。

 印象、というのはたしかに大事だけれど、それだけでは「証拠」にはならない、ということは、肝に銘じておきたいところです。

 ただ、私が、なんの情報もなしに、まさに私自身の主観として、ものすごい嫌悪感を感じた人がありました。
 アメリカはロスアンジェルスにご夫婦で旅行中、なにものかに銃撃され、ご主人は負傷、奥様はお亡くなりになったという事件でした。

 たぶん、当時の私は小学校4、5年生、かな。
 当時は、アメリカへ行く日本人旅行者も、いまほど一般的なものではありませんでしたし、ましてや、あちらでそういう事件に巻き込まれるというのはさらに珍しいことだったので、かなり大々的に報道されました。

 私がみたのは、そのご主人のインタビューに答える姿。
 上半身裸に痛々しく包帯を巻かれ、ベッドに横たわった状態でインタビューされていました。
 彼はなお、動揺したようすで、
「僕のワイフが……僕のワイフが…」
 といって、半泣き状態でした。

 あのとき——いわく言いがたい嫌悪感を覚えました。
 次の瞬間には私は、被害に遭ったうえに奥様を目の前で亡くされた人に、なんてことを、と、自己嫌悪に陥りました。

 本来なら、しかし、なんとお気の毒なとこちらももらい泣きするべきところなのに、私はあのとき、妙に冷めていて、「なに言ってんだこの人」という感じで、見ていた記憶があるのです。

 被害に遭った人に、我ながら、なんてひどい。と思ってもいたのですが——その数年後。
 あれはたまたま事件に巻き込まれたのではなく、そのご主人が、保険金目当てに奥様を謀殺した、ということで、訴えられたのでした。

 じつのところ、ご本人もすでにお亡くなりになっていますし、事件の真相とやらは、はっきりしないままで終わりましたね。

 いまでもときどき、私はあのときの強烈な、理屈を超えた嫌悪感を思い出します。子供だったので、今以上になにか、直感めいたものがあったのかもしれません。

 それでも。
 やっぱり、そういう「個人的な感情」で、判断できることではないし、判断してはならないのだなと、噛み締めております。

 私は「真実」なんて言葉が、軽々しく使われるのを見聞きするのがすっげえ嫌いなんですけど、それはこのへんに理由があります。

 事実認定さえ簡単なことではないのに、まして、「真実」と来た日には。
 歴史の真実、とか、テレビ番組でよくアオリで「いま明かされる、●●の真実」なんていいますが、あれはまったく、きいた瞬間鼻白んじゃいます、アホらしくて。(^^;)

 事実と真実はぜんっぜん違うものなんだよ? とひとり言してしまいます、つい。

 芥川龍之介の「藪の中」を読むと、事実と真実の違いが、わかっていただけるかな。と思います。
 してみるとやはり、芥川龍之介はすごいんだろうな。「河童」だけでも、えらいこっちゃと個人的には思っているのですけれども。

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憧れの諸道具

 塩麹の、発酵速度が一気に上がったことに、「ああ、暖かくなったんだな〜」と季節の変化を実感する今日この頃。

 まあ静岡ですし、家の中なんで、そんなにひどく寒いわけではないので、冬期でもそんなに、塩麹作りに不都合を感じることはありませんが、ここで塩麹を作り始めたら、もう3日目にはいい感じになったのにはちょっと驚きました。

 真夏だと5日もあればできちゃったりしますけどね。(^^;) でも念のため、1週間はおいておきますが。

 塩麹はいいですよ〜。飽きっぽい私がまだ作ってますよ〜。
 もう2年くらいにはなるのかな?

          ●

 ちょっと本日はお疲れ気味で、本当にしょうもない雑談のみです。(^^ゞ

 今年のお正月用に、紙入れ(懐紙入れ)を新調しまして。
 紙入れを検索して、そこから行ったのですが、それが、お茶道具専門のお店でした。
 茶道具というのも、見ていて飽きないものなんですよね。
 私はお茶はやっていませんが、道具を見ているのは好きで、ときどきサイト拝見にいっていたのですが。
 そのなかに、煙草盆がある、ということに気がつきまして。



 私も実は嫌煙家なんですけども、でも、昔の刻みたばこというものには、ちょっとした憧れもありまして。(^^ゞ

 もはや、煙管(きせる)をきれいに、あるいは粋に扱える人も、ほぼ絶滅状態だろうと思われるのですが、その昔、由利徹さん、それから山田五十鈴さんの、煙管の扱い方、煙草盆の扱いかたが、粋でかっこよくて、うわ〜と思ったことがあるものですから。

 煙草盆。売っているんですねえ。

 このタバコというのは刻みたばこで、吸うときはいちいち、あの煙管の雁首(がんくび)に入れて、火をつけるのですね。
 現在主流となっている紙巻きたばこのように、長い時間吸いつづけることはできない、という「節度」がいいですね。

 紙巻きたばこにはフィルターがありますが、この煙管というのは羅宇(らう)という胴体部分がありますので、これがフィルターかわりになり、タバコの「毒」を、かなりここで減らせるんだそうで。

 ということで、昔はこの羅宇を掃除する専門の職人「羅宇屋」さんがあったんだそうです。
 江戸時代ですとタバコの有害性はわかっていませんから、子供でも吸う人があったとのことですし、羅宇の掃除が立派に商売になるくらいだったんでしょうねえ。(^^;)

 煙管の持ち方なんですが、あれ、身分というか階級というかで、持ち方が違うんだそうですね。
 じっさいどのようだったのかはわかりませんが、歌舞伎のなかでは、役者さんはその役(の身分、もしくは職業)によって、持ち方を変えているのだそうです。

 由利徹さんの場合は、タバコを2、3服し、雁首を「灰落とし」(ようは灰皿ですね)にトーンと打ち付けて灰を落とすと、さっと煙管を持ち替えて帯にさす、というしぐさが目に焼き付いております。
 たったそれだけのことだったのですが、これがもう——どういえばいいんでしょうかねえ、カッコイイなあと子供心に思ったんでした。
 
 ということで。
 ああ、煙草盆て、ちゃんと売ってるんだなと感動したのです。
 が。
 検索したら、けっこう売っているんですねえ。(^^;)
 煙管も、刻みたばこもありますね。

 紙巻きたばこでもうもうたる煙でいぶされるのは御免ですが、ちょいと2、3服、というのが基本のものなら、まだ我慢できそうな気がする。
 なんせ2、3服ですから、紙巻きたばこみたいに火をつけたままおいておくということはできません。ゆえに副流煙もあんまりありません。

 まあ、くさいことも、副流煙の毒性も、それで低減されるわけではありませんが、現在の野暮なたばこよりは、いいんじゃないかと思います。(^^;)

 それにしてもこの煙草盆もお値段はピンキリで、見ていても面白いですね。
 携帯できるものもあるし、重厚な作りなので、家の中ならいいけど外出用ではないというものまでいろいろ。見ていて楽しい。
  
 ちなみに。
 私が個人的に、すっごい欲しくてしょーがないのが、「几帳」。



 帷(かたびら)は別にして、あの土台部分だけでも……と思ってもこのお値段。



 冬はともかく、夏は家の中をわりと開けっ放しにしますから、こういう几帳があるだけでも違うんじゃないかな、と。
 素材は紗(しゃ)とかで透け透けで♡
 涼しげでいいだろうな、と、たいへん、憧れているのでございます。

 ベッド周りというのは、部屋を見渡したときに丸見えにならないほうがよろしいので、スクリーンなりなんなりで目隠しするとよいといいますが、——どうにも色気に欠けますね。室内の感じもぶち壊しになるし。

 その点、この几帳というのは、几帳ひとつでかえって室内の雰囲気がよくなると思われますし、——いいなあ♡ と思っております。

 おりますが——、このお値段…(←現実)

 ま、憧れは憧れとして楽しむことがいちばんいいのかな。(^^;)
 
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言霊の国

「あってはならないこと」は、「あり得ないこと」ではない
 当たり前のようですが、これを当たり前だとは考えていない人が世の中にはかなりの人数、いるようです。

 日本人に一番多いのは「縁起が悪いことを言うな」ってやつ。(^^;)

「あってはならないこと」という話ではないのですが、私がこの考えでいちばんアホらしいと思って印象に残っているのは、「死出の衣装」。

 もうだいぶ以前にNHKで見たのですが、亡くなって棺に納められるときの衣装を、元気なうちからオーダーメイドで作っておく、というサービス、ご商売についてでした。
 なにドレス、って呼んでいたのかな。ちょっと思い出せませんが。

 思い返せばうちの母方の祖母も、古典的な死に装束——あの真っ白の着物、経帷子(きょうかたびら)ってつまんない、あたしはイヤだなーと言っていたのでした。
 その考えはうちの母にも伝わっているようです。あんなん面白くも何ともない、と。

 女性にとっては衣装というのは大事なものですよね。
 何時間かのちには燃やしてしまうにしろ、「最後のお別れ」、皆様と最後の対面をするときの衣装なんですから、そりゃあ、きれいな衣装でお会いしたい、というのは、女心でもあるし、別れの挨拶に来てくれた人への「礼儀」でもある。

 ということで、そのサービスを知った女性たちが、あれこれと、デザイナーさんといっしょに、楽しげに、色や形を相談して決めていくのですね。
 ああそれいいなあ。うちのおばあちゃんも、そういうのがあれば、着たいといっただろうなあと思ったんですが。

 なかには、そのドレスを希望しながらあきらめる人がけっこういる、というのです。
 理由は、バカ旦那。

「縁起でもない」
 といって嫌がり、すごい勢いで反対してやめさせてしまう。

 なにあの横暴。
 なにもアンタの葬式の相談をしてんじゃないんだし、本人がきれいな装束にしたいっつってんだから、いいじゃん、あんた関係ないじゃん、などと、テレビを見ながら私は思ったのでしたが。

 まあその旦那がたの言ってることをじっくり聞くと、ようは、その奥さんがお亡くなりになるということを、「想像するのが恐ろしい」のです。
 そんなこと考えたくない、そうなってほしくない、だからそんなもんはイヤだ、そんなもんはやめろ。と。

 ほんっっとに、男ってどうしてこう意気地がなくって臆病なんだろう、と、私は思いました。

 考えたくないって、人間なんだからいつかは必ず死にますよ。考えないでいれば死なないとでも思ってんのか?
 二世の契りという夫婦といえども、イチニのサンで同時に亡くなるということはないでしょうから、どちらが先にお亡くなりになるかはわからないけれども、見送るにしろ見送られるにしろ、別れはいずれ必ずくる。
 それを「縁起が悪い」の一言で、いっさいを封殺するというのはどういう了見だ。

 これ、津波被害から原発事故ときたときの、世間様にかなりいた、パニック人間と基本的には同じですよね。
 恐ろしい、怖い、不安だ、と思って、そこから逃げようとする。しかし逃げようとすればするほど、かえって怖くなる。で、ますますパニクる。

 なぜというに、追っ手に背中を見せるというのは、本来は、かえって恐ろしいことですから。見えなくなるんだもの、状況が。
 しかしまあ、人間の恐怖心は、じっくり向き合えば、正体見たり枯れ尾花、というものなんでございまして、怖い、というのは、怖いと思い込む自分の心がいちばん怖いものなんですよね。

 逃げないでちゃんと見据えてみれば枯れ尾花ということもわかるし、あるいは枯れ尾花ではなくて本当にそうだ、とわかるのかもしれない。
 その場合でも背中を見せているというのは最悪の状態。真っ向から見据えてみないと、対策も何も、手を打てない。

 生き延びたかったら無理矢理にでも冷静になれ、と、あの当時も私は思いました。

 しかしこの、縁起でもない、縁起でもない、といって、ちゃんと見るべき幽霊を見ず、枯れススキにキャーキャーいって逃げ惑うというのは。
 ハタから見れば馬鹿そのもの、滑稽だし、馬鹿にされてもしょうがない、とわかるでしょ。

 で、世の中には、そういう、ふだんは威張り腐っているのに、道化よりも滑稽な旦那がいた、ということで。

 縁起が悪かろうかなんだろうが、くるとわかっているものはくる。
 であるならば、少しでも自分の希望をもち、それに向き合うことって、大事なことだと思います。

 縁起でもないことを言うとそれが実現するという「ことだま信仰」は、井沢元彦さんのご本が解説も丁寧でわかりやすいと思います。

「言霊(コトダマ)の国」解体新書 (小学館文庫)「言霊(コトダマ)の国」解体新書 (小学館文庫)
(2012/12/28)
井沢元彦

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 ほかにも類書は多いかと思いますが、いちどそういう本を読んでみて、自分の恐怖心がどんなものか、いかに文化というものに影響されているか、客観的に見るくらいは、して損はないと思います。

 ふだんエラそうなことを言う人ほど、案外意気地がないもんだな、とはよく思うことなんですけども。
 どうしてなんでしょうね? (^^;)

 えらそう、というのはすでに虚勢であり、虚勢を張るのはどういう人かを考えると——、意気地がないからこそ、虚勢を張る必要がある、と、本人は思い込んでいる。そんなところでしょうか。

 ともあれ、このバカ旦那にしろ放射脳にしろ、私が思うことは、
「あんたが臆病者なのはよくわかった。臆病は臆病でいいから怖がるくらいはひとりでやれ。いちいち『怖がり仲間』をつくろうとすんな迷惑だから」
 ということです。

 私も相当、不安心理の強い、なにかっつーと緊張する、夜驚症じみて神経過敏、交感神経が優位になり過ぎの、「臆病者」なんですが、布団をかぶってふるえる趣味はないし、なによりも、ひとさまからお前も俺と同じように怖がれ、などと言われるのは、最悪だなんてもんじゃない。(^^;)
 ひとりでやってろばーか。というのが本音。(……こういう奴なのよ;;)

 布団かぶってふるえるくらい、ひとりでできるだろう、と思うんですけどねえ……。
 それをすら嫌がるからこそ、臆病者なんでしょうか。

 私は言霊というものを否定しないし、むしろ信仰しているほうですが、それは、悪いことを避ける、というネガティブなところから入るのではなく、言祝(ことほ)ぐことによって——つまりは、希望を「思い出す」ことによって、自分の恐怖心=エゴに打ち勝つ、そのために使うものだと思ってます。
 アファーメーション affirmation 、というほうですね。

 悪いことを避ける、のではなく、悪いこと(に思えること)が起きても、それを乗り越える勇気を持つ。
 この信仰の本来の姿は、そちらだと思います。

 言葉も使いよう。言霊を信じるのなら、ネガティブではなく、自分を救う明るい光として取り扱うこと。
 それが、本来の信仰の意味だったんじゃないでしょうかねえ。
 

 
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