あいかわらず

 日経新聞に記事がありました……、思わず2度見しました……。

漫画「美味しんぼ」、福島原発訪問の鼻血描写に批判
2014/4/29 20:23
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2900S_Z20C14A4000000/

 この漫画の中にも登場する井戸川かつたか氏については、「誤訳御免Δ」様でも紹介していらっしゃいますね。

井戸川かつたか氏「放射線が子供たちを殺している」 ロシアトゥデイのインタビューでの発言が酷い件
誤訳御免Δ 2014年04月23日エントリ
http://goyaku.blog45.fc2.com/blog-entry-666.html

 武田邦彦氏以上の「放射脳」がいたわと思いましたが——そういえば、武田さんて最近はおとなしいんでしょうかね? 反原発のヒーロー小出先生もお見かけしなくなった気がする。お見かけすれば頭にくることが多いから、べつにいいんですけど現状のままで。(^^;)

 まあなんにしろ、放射脳というのは私から見ればキチガイ以外の何者でもないのですが、なにが気持ち悪いかって、今回のこともそうですが、なぜか脳内の妄想を、そのまま現実に垂れ流す、ということですね。
 妄想と現実の区別がつかず、妄想を事実として、しかも大声で喧伝する——妄想の「歴史」とやらを掲げる朝鮮人と同じですね。だからなおさら気持ちが悪いのですが。
 ああいうのって精神疾患ですか。それともパーソナリティ障害ですか。

 その妄想ですが、鼻血の話が多いですよね。好きなんですかね鼻血。鼻血にフェティッシュ感じちゃうんですかね?
 どうもヘンタイの趣味はわかりませんが。

 編集部側のいいわけも拝読しましたが——井戸川さんを出している時点でそのいいわけは成立しませんね。妄想を妄想だとはっきり断じるならわかりますが、そうではなく、これもひとつの事実として扱っている以上、放射脳の妄想垂れ流しに協力しているとしか思えませんです、私には。

 放射脳云々はべつにしても、そういえば私、昔っから「美味しんぼ」は好きじゃなかったっけなーと思い出しました。

 もうかれこれ20年まえにはなるんじゃないでしょうかね。美味しんぼの人気がわーっと出てきた頃でしたが、何回か読んで、なんだかうんざりして、それっきり読まなくなった、という作品でした。

 とにかく、うるせえ。
 せっかくの食べ物に、うるせえケチつけてんじゃねえよ。
 ということで——私の目には、こういうのは、ぜんっぜんグルメ(食通。美食家)ではなくて、ただ単なる「文句垂れ」としか映らなかったのでした。

 通であろうがなかろうが、「ありがたい」という気持ち、「愛情」というものを忘れているものに対して、嫌悪こそあれ、敬意もなにも感じない。まして「面白い」とは。
 誰だよこんな文句垂れマンガを面白いなんて言ってんのは? くらいに思いました。(^^;)
 ファンの方、すみません。m(_ _)m

 文句垂れというのは何であれ、そばにいる人間にとっては不快になるものですが、なかでも、食べ物についての文句垂れというのはまったく最悪だなというのが、私の感じるところ。

 同じ頃、「ミスター味っ子」がやはり人気になっていましたが、あちらのほうが好きでした。(レシピ的にはめちゃくちゃでしたが/笑)
 こちらでは、基本「おいしい!」「うまい!」であり、食べるということへの至福の思い、食事を「いただく」という敬意と愛情が、自然にあったので。

 美味しんぼにあるようなものが「グルメ」なら、グルメなんかクソ食らえだ。——といってあっさり読まなくなったという思い出。

 そうやって、嫌悪して大反発した記憶があるものだけに、今回のあほらしい「風評加害」「放射脳」っぷりにも、
「ああ。あのマンガだったらやりかねないわな」
 と、わりと納得してます。

 これは、あれですか、死ななきゃ治らないというアレなんでしょうか。(^^;)
 

 
関連記事

謡曲「道成寺」

 27日のNHK教育(あ。いまはEテレか…)「古典芸能への招待」で、喜多流「道成寺」を放映していました。

 道成寺は有名なわりには私はちゃんと見たことがない。今回初めて通しで見ました。
「安珍清姫(あんちん・きよひめ)」で知られる物語ですね。

 今昔物語などに見られるお話ですと、安珍は若い、おそらくは美男子の僧侶で、清姫が彼に一目惚れし…というのが発端ですね。
 しかし謡曲「道成寺」はちょっと違う——ということを、初めて知りました。

 曲中、ワキの、道成寺住職が語るのは次のとおりの事情。

「むかし、このあたりに真砂の庄司というものがいた。彼にはひとり娘があった。
 このころ、奥州から熊野へ参詣する山伏がいて、この山伏は、庄司の家を定宿として、熊野へきたときはいつも庄司の家へ泊まっていた。
 庄司の、まだ幼い娘を山伏は可愛がり、周囲のものも、あの客僧(=山伏)はお前の夫だよ、おまえはあの客僧の妻だねなどと冗談でいったのを、娘自身は(冗談とは思わず)、本当にそうなのだと思い込み、年月が過ぎていった。
 数年後、山伏がいつものように庄司の家に泊まったが、このとき、娘は、人々が寝静まったころ、山伏の寝屋にいき、『いつまでわたくしをこのようにしておくのですか。早く(妻として)迎えてください』と言った。
 山伏は驚いたが、その場は、さりげないようにしてやりすごし、(そっと逃げ出して)夜に紛れて、道成寺へ来た」



 といういきさつ。

 これは謡曲での脚色になるようですが、安易な一目惚れよりは説得力はありますね。
 まあ、相手が子供だと思って、くだらない冗談をいうものではない、ということですかねえ。(^^;)
 子供なればこそ、本当に真剣に思い込んで思い詰めてしまう、ということはありそうです。

 今回の喜多流「道成寺」では、現在では演じられない、古いものをそのまま演じている(セリフや演出)ところがあったそうですが、私は初めて見たので、へえ、そうなんですか、というところ。(^^;)
 前場のシテ(主役)は、白拍子ということで現れますが、面(おもて)は曲見(しゃくみ)という、中年くらいの女性の面です。

 通常ですと深井(ふかい)という、年増というくらいの女性の面が多いらしいですが、今回は、同じく中年とはいっても、もーちょっと年上の感じでしょうか。「曲見」は。

女面「曲見」
http://www.nohmask.net/nohmasks/onna/syakumi.html
能面師倉林朗能面展示室 様

 謡曲では、その、安珍清姫事件から何年か——あるいは何十年か経っている、という設定。
 ゆえに、事件当時は若い女だったけれども、この曲では、中年(そろそろ老年にも近い)の女性の面を使うことで、過ぎた年月を表しているようです。
 謡曲ではそういうわけで、事件以来、道成寺の鐘はないままになっていたが、現在のご住職が鐘を再興し、いよいよ供養会を営もうというところ。

 事件から何十年後か、ということで、最初に登場したときは、女も、すでにそれは昔のこととして、落ち着いたようすなんです。
 それが、鐘の供養会は「かたく女人禁制」というようなことを聞いたことをきっかけに——さらには、じっさいに再興された鐘を見ているうちに、執念がまた燃え上がってくる。
 そして彼女はふたたび、鐘を下ろしてなかに飛び込む。

 見ていて思ったのは、もうここまでくると、男への愛情なんてモンはなくなってるな、ということでした。

 あれは、片思いの相手に対する執着ではない。恋情でもない。そんなものはとっくにあの業火で燃え尽きてしまった。
 ではなぜ、女はなおも、あの執念の焔を吹き上げるのか、というと。

 もう、あの執念というものに、彼女自身が取り憑かれているから。

 きっかけがなんだったのか、そもそもなんのために鐘を焼いたのか、この人はもう忘れてんだろうなという感じ。
 はかない片恋も、恋しく思ったはずの男のことも、いまは記憶の向こうに薄れているのに、ただ、あの口惜しい、悲しい、という身悶えせんばかりの痛み、熱だけが残っている。

 理由も動機もきっかけも、本来の対象すら、もはや関係ない。
 ただ、鐘を焼いたときの苦しみだけが残っている。

 執念というのはこういうものかもな、と思いました。

 念というものだけになっている人に、ものの道理を説いても無駄なんですね。へたすりゃこの状態の女に、「男ひとりに執着するのは空しいではないか」などといっても、「は?」と言われそうです。
 なにしろ、いまの彼女は、その男に執着しているのではない。
 執着の念そのものになっている。
 執着するために執着している。

 自分の心の状態に、自分自身が食われている状態ですね。

 一切皆空、——この執念には「本体」がない。男は死に、事件はとっくに風化し、それゆえに住職は新しい鐘を作った。
 女も年をとり、年月の中で恋はすでに思い出でしかない。
 なのに——あの執念だけは、彼女の中でぜんぜん薄らいでいなかった。

 ということで、すでに執着するべき対象はないのに念だけが残っている。
 本体がもうないのですから、それこそ、この場合、彼女自身が「一切皆空」と悟って、自分が、自分の執念にこだわっているだけだ、と——自分がこのこだわりを解いてしまえば、もう、きれいになにもないのだ、とわかってしまえば。

 それで全部、終わりなんだけどな。

 でも、人間は、誰でも、こういう、自分自身が作り出した幻像に執着している、こだわっている、ということはありそうです。思い込みとも申せましょうか。

 こだわりというのは本来こういうもののことで、こだわり、こだわる、って、いい意味の言葉じゃないんですよね。
 そういうことで、私はひそかに、「○○シェフの、こだわりの一品です!」なんてな表現に遭うと、「あー……」と唸っております。 
 まあいいけど。

 彼女はいつか、自分は自分の心の影に、自ら、しがみついているだけだ、とわかる日が来るでしょうか。
 それがわかれば、ありがたいお経を頼るまでもなく、あっさり解脱できるでしょうが……。

 苦しい、と七転八倒し、苦しむあまりに周囲の誰彼を恨んだりしても、その苦しみを作っているのは自分の心だということは、なにも清姫ならずとも、たいていの人にはありそうです。

 なぜそうやって、自分を苦しめるために苦しい幻像を作るのか。
 心理学的にいうなら自己破壊ですが。
 自己破壊には相応の理由があるものですが、結局、その苦しみから自分を救い出すのは、最終的には自分自身なんだろうなと思って、揚幕(あげまく)の向こうに消えていく「毒蛇」を見ていました。

 
 
関連記事

マナーとしての off-limits

 昨日はメタフィジカルの話題になりまして、そういうものに興味があるならこの本はいいと思います、とお知らせをする一方で、
「こういうもの——メタフィジカル、スピリチュアルといったものを、むしろ軽んじるような人なら、絶対見るな」
 とも、申しました。

 我ながら、心の狭いことよと思いました。(^^;)
 思いましたが——なんでこんな予防線を張るかな、とも、ふと思いました。
 で、例によってぼんやり考えてみたんですが。

 ……なんせ幼少のみぎりより、なぜか特別な理由もないのに自殺願望なんてもので葛藤してきた人間ですんで、どうしたってそういう、物質以外のものに目を向けざるを得ない。
 で、私としては、「自死しなくても楽になれないか」ということをテーゼにして、あれこれ求め歩いているだけなんですが、その途中途中に、出てくるわけですよ——なんだか知らないがエラッそうに「自殺教唆(きょうさ)」をする犯罪者が。

 余談ですが、「自殺教唆罪」というものが刑法には存在しておりまして(刑法202条)、法定刑は「6月以上7年以下の懲役または禁錮」だそうです。
 自殺教唆罪は、自殺するつもりがなかった人に自殺の決意をさせた、ということで成立する罪だそうです。

 自分たちは精神世界のようなものを信じてもいないというのはべつにかまわないけれども、少しの救いを求めてあれこれ本を読んだり考えたりする人間を捕まえて、いちいちさらし者にし、辱めて馬鹿にする、それを「楽しむ」というところが、私には理解できない種類の人たちですね。
 
 なぜかしらんが、こういう人にはこれまでたびたび遭遇しており、連中が、私を「(霊的なものを)信じる馬鹿だ」というたびに、本当に人間が物質だけの存在だったらどんなに楽だったか、と思い、彼らのいうことを信じれば、私はすぐにでも飛び降りでもするが、そうした場合、この連中は犯罪者になるわけだ。
 この連中はしかし、人ひとりを殺す、自分が犯罪者になる——その「覚悟」をもって、霊や魂は存在しないと言っているだろうか?

 そう考えますと、とてもじゃないけどこういう人たちには「真剣味」というものがない。
 それに——デカルトほどに熟考しているわけでもないので、私にすら、彼らの言っていることに存在する「穴」には気づいてしまいました。
 ようは、まともに耳を貸すべき相手ではなかったので、若い頃はいちいち怒っていましたが、20代も後半になるころには、「ハイハイ」みたいな態度でしたね。(^^;)

 それで、ひとつ面白いのは、こういう人たちは「呼んでないのにくる」ということ。

 お呼びじゃないのに、わざわざ向こうから走ってきて、それで他人を罵倒するんですね。
 あれがどうもわからない。

 それで考えた末に私が推論したのは、「ようはこの連中は、他人を罵倒してつるしあげるのが大好きで、楽しくってしょーがないんだな」ということ。

 私は物質の話だけでは間に合わないところで葛藤していたので、仕方なく霊的世界の解釈というものに踏み込んでいっただけで、ひとさまがどうこうなんてことは関係ない。
 アンタが物質至上主義、科学至上主義であることはかまわないが、いちいちこっちに来んな。そう思います。

 ということで、遠回しに、「こういう話には興味ない人、好きじゃない人は、こないでね」と言っておくのですが、なぜなんでしょうかねえ、遠回しじゃ効果ないんです。
 不思議だ。

 こういう霊的な話題のみならず、小説の感想でも何でも、もー絶対、相容れない感性の人間というのはいるわけですよね。
「話せばわかる」といった犬養毅は「問答無用」で殺された。——なにも殺しゃしませんが、私も、話し合いというものを信じていません。ぶっちゃけ。

 感性が違い、見るものが異なる場合、話し合っても、お互いに不愉快になるだけだ、ということってありますでしょ。
 ——まあ小説の感想くらいなら、なにも命がけになるようなことでもないので、お互いに近寄らないようにしましょうね、で済むことでしょう。
 だから、やんわりと、この考えとは相容れないという人はご遠慮くださいねと言っても。
 なぜか、その、来なくていい人が来る(笑)

 さすがに露骨に「くるな」というわけにもいかないから、やんわり、遠回しに、「こういう話題では不快になるという方は、ご覧にならないでね」といっているのに、自分がそこに該当するとは思わないらしくて——くるんですよね。
 なぜ、自分がそこに該当するとは思わない(気づかない)んだろう?

 これは、逆の立場から考えても、不思議です。
 と申しますのは、私自身がショック受けたあまりに逆上し、顔を出してはいけないところに顔を出して喋ってしまったことがあるからです;;
 その節には、本当に申し訳の無いことをしました。
 反省してます;;

 そういうことにほとほと疲れたところがありまして、最近では遠慮なく「関係ないヤツは来んな」というようになりました。(^^;)
 たぶん、そのほうがお互いのためです。

 ほかの話題では気が合うけど、こと、この話題だけは合わないよね、ということはあるもので。
 そういうときは、そっと(その話題のときには)席を外す、というのが、いちばんお互いのためになることだと思います。

 世の中のなにもかもを、ひとりの人間が理解できるわけもない。
 世の中には、自分にはどうしても理解できないものがある、ということを静かに認めていれば、世の中はもうちょっと、静かになると思うんだけどな。

 話し合ったって殴り合ったって、平行線は平行線ですよ。
 異見すべてが平行線という意味ではないが、平行線というものは確実に存在する。
 ゆえに私は話し合いというものを、そこまでは信頼しない。

 たしかに、時には命を賭して、ものを言わなければならない主題ってありますけど。
 それは、生涯のうちにそこまで数多くあることでは、ないんじゃないでしょうかね。

 ほとんどの話題は、ああその話してんのか、と思ったら、すうっとその場を離れればいいだけの、その程度のことだと思うんですけどね。
(巨人ファンの人が同席していたら、プロ野球の話題は避けるとか、そういう感じで・笑)(私はアンチ巨人なので;;)
(それはもう、マナーであって、決して相手個人への悪意を意味するものではない)

 まあそんなわけで。
 科学教信者という人たちは、私から見れば、
「昔、あの連中には、崖の上から突き落とされるところだったんだよ」
 というくらいの人々ですから、「2度とこっちに来んな」と、予防線を張りたくなるのもしょうがない——ということで、ご了承いただければありがたいです。(^^ゞ 

 
関連記事

薄毛・抜け毛

 今月に入ってから自覚したのですが、かなり頭髪がヤバいことになってました。

 もとから髪が細いタイプでしたが、思い返せば、父が亡くなりましてから、抜け毛が異常に増えていました。
 シャンプーのたびに、ごっそり、手のひらのうえにこんもり載るくらい抜ける。
 ひどいな、と思ってはいましたが、なにか感覚が麻痺していたように、とくに対策を講じることもなく3年半。

 気がつくと、頭頂部が本気でやばい。
 髪をすかして、頭蓋骨の形がはっきりわかる、みたいな感じです、いま。

 抜け毛の量は、ほんとうにひどかった時期から見れば減りましたが、それでもやはりおおいことには違いない。
 これで3年もほったらかしておけば、そりゃー薄くもなるわ。

 ということで、4月15日から本格的に、朝晩に養毛剤を使用し、抜け毛も数えるようにしております。

 DHCの回し者のようなわたくしでございますので、まずは買ってみたのはDHCの「美髪根」。



 お試しサイズもありました。↓


 効果があるかどうかは……、最低でも半年は試してみないとわかりませんから、目下のところは何ともいえませんが、こちらを使い始めてから、すぐさまわかったことは、抜け毛の劇的な減少です。

 以前には、シャンプーをした日の抜け毛はゆうに200本を超えていた(ということは、いちばん抜け毛がひどかったときって、1日で500本くらいは抜けてたんだろうな……)のが、一気にその半分に減りました。

 シャンプーは私の場合、1日おきなんですが(毎日シャンプーすると、髪が細いせいでしょうか、とんでもなく乾燥して荒れてしまう)、洗髪するとやはり量がね〜。
 1回の洗髪で200本は抜けていたと思われますが、この「美髪根」を使い始めて3日目のときには 140本。
 昨夜も洗髪しましたが、1日トータルの抜け毛が100本に満たないくらいですから、半分以下ですね。

 手間ですが、いまのところ、髪の数を毎日数えてます。(^^;)

 ブラッシングのときに抜けた髪を拾い集めて数え、1日分をとっておいて、寝る前に集計してます。
 面倒ではありますが、効果を見るにはそうするしかありません;;
 でもまあそんなに時間もかかりませんから、大丈夫です。

 しっかし、ほんとに、ここまで薄くなっていたとはなー……と、合わせ鏡でのぞきこんではため息をついています。

 正面から鏡を見ているときは気づきません。
 前髪はけっこうしっかりしているので、頭頂部がここまで薄いとは、上からのぞきこまないとわからないんですね。
 頭頂部を中心に、本当に薄くなっていて、髪を束ねるのに手ぐしでさっと集めて縛ると、サイドの地肌が見える見える。
 ブラシや櫛できれいにそろえればなんとか隠せるかな、という感じ。
 それもあやしい感じですけどね正確には。(^^;)

 皮膚科へいってきたほうがいいんだろうか、と、さすがに考え込んでます。
 が、ひとまず抜け毛の量は減りましたから、ちょっと様子見、ということで。
 ここからさらに進行するようなら、皮膚科だろうなあ。
 しかし抜け毛がひどいといって3年も放置しておれば、当たり前っちゃあ当たり前のことだし。

 ストレス、加齢によるホルモンバランスの変化(なくはないべ)、睡眠不足(いっときはストレスで5時間も横になっていられなかった)、ひっつめ髪、頭痛、皮膚炎、と、まあ、髪には悪いことばかりしていて、かつ、大量の抜け毛というサインがあっても、なぜか「多いな」というだけでなにもしなかったし。

 悪いことしちゃったな、と、ただいま猛省モードです。

 鏡はときどき、合わせ鏡でちゃんと全方位、確認するくらいはやるべきだったでしょうが……正直、それどころじゃないという感じもあったし。(^^;)

 反省しつつ、そんなわけでただいま、髪に謝ったり感謝したりしながらあれこれやってます。

 メタフィジカルの解釈によれば、頭髪のトラブルというのは「聖なるエネルギーに対する信頼をなくした」ことで起こる、という。
 大きなショックや、無力感、絶望感、こういうものだけでも髪は傷みますが、ようは、自分の人生を創造する力を失う、その力への信頼を失ったことによって起こるトラブルだ、と。

 正直なところ、父がALSという難病になり、わずか2年で死を迎えたことについての、私の絶望感と「怒り」というのは、潜在意識下では相当、激しく強いものでした。
 その絶望と怒りを自覚できないくらい、表面的には、私は割合と冷静だった「つもり」でしたが、潜在意識では、ぜんぜんそうではなかったようです。

 そのへんはうすうすわかっていたので、この指摘を聞いたときは、「あー。やっぱりかー」と納得しましたわ。(^^;)

 しかし、そろそろ、そういうものを手放して、「次」へいくべき時期へ来ていると思います。
 いささか遅きに失しているとはいえ、薄毛を自覚し、対策する気になってきたのは、そういう絶望感や怒りからも、立ち直るべき時期に来ているからだろう——自分ではそのように考えています。

 病は気からと申しますが、おのころ心平さんの「病気は才能」もそうでしょうし、人間の意識の深い場所にあるものが、どれほど体に影響するか。それを見る必要性、それをこそケアする必要性が、今後は少しずつ認知されるようになるのでは、と思っています。

病気は才能病気は才能
(2011/09/22)
おのころ心平

商品詳細を見る

 自分でも認識できない、ましてコントロールはきかない深い場所にある感情。そういうものが病気を作り出すとすれば、やはり「病は気から」ですね。

 まあ、いままでは、病は気からというときは、「だから風邪なんか気合いだ! 風邪を引くのはたるんどる証拠だ!」みたいな言い方をされる場面だったと思いますけどね。
 気合いだけでどうにかなるなら人生苦労はないわ——と、私は反発してましたけど。(^^;)
 潜在意識というのは自覚も難しく、コントロールも困難なものなので、表層意識で気合いだ気合いだとわめいても無意味なんですよね。ほとんど。

 しかしそういう根性論ではなく、きちんとした解釈と対応ができれば、——大病は無理でも、日常にあるトラブルの解決には、ずいぶん役立ってくれるものと個人的には思っております。

 肉体はこの現世、物質世界のもの。ゆえに、病気や怪我はきちんと医療の手当を受けるのは当然ですが、その原因が、自分の意識の深い場所にあるものなら、精神の手当も、できるほうがいいよね、と。そういうこと。

 メタフィジカルな解釈による「病気と健康」に興味がおありでしたら、以下の本をおすすめいたします。
 家庭の医学。
 思いつくほとんどの病気や身体的なトラブルを、事典形式で解説しています。
 自分の心の深い場所をのぞき見できます。

自分を愛して!―病気と不調があなたに伝える〈からだ〉からのメッセージ自分を愛して!―病気と不調があなたに伝える〈からだ〉からのメッセージ
(2007/10/31)
リズ・ブルボー

商品詳細を見る

 ただし。
 そういうことに興味がある方にだけ、どうぞ、と申し上げております。
 メタフィジカル、あるいは心理、精神を馬鹿にする、軽んじるような人にはむしろ「絶対見るな」ということで、よろしくご承知おきくださいませ。(^^;) ←心が狭い
 
 
関連記事

いろいろ

 ご葬儀のお手伝いから帰ってきました。
 今朝はなぜか、背中が筋肉痛っぽく痛い。ごくかすかにですが。
 はて? と思ったんですが——昨日の斎場の待合室が和室だったので、そこでの準備やら配膳やら、どうしても、極端な前傾姿勢になって働くことが多かった。
 ——そのせいかな? 
 しかし、筋肉痛になるほど激しく、もしくは長時間、働いたわけでもないんですけどねえ。まあ、日頃あれほど体を前屈させるということはないといえばない……かな。うーむ。

 なんにしても、昨日はお天気もよく、暑くなく寒くなく、よいお日和でした。
 お見送りする側にとっては気持ちよく過ごせる環境でなによりでした。
 酷暑、極寒、あるいは荒天の中となると、やはり、通常以上に参列者の気持ちも沈みがちになりますもんね。

        ●

 ということで私もけっこうグッタリ状態で、世間ではあれこれあったことは聞いていますが、いまのところは何を聞いても「ああ、そう」です。(^^;)

 シナも朝鮮も相変わらずの絶好調ぶりで、乾いた笑いくらいしか出てきません。
 シナでは丸紅の代理店の社員さんが当局に拘束されたと聞きましたが、続報、ありました? すみません、私はこの2日間はほんとに「それどころじゃない」状態でしたので。(^^;)

 アメリカ大統領閣下におかれましては、訪日中は本当にいいお天気でなによりでした。
 ただ——閣下のお名前が、マからカに入れ替わったように見えてしょーがなかったのは、ご容赦願いたいところです。
 悪い人ではないというのはよくわかるのですが、一国の元首としてはちょっと、…というところ。

 ちなみに、外国の掲示板では、天皇陛下をして「元首」としているものがあったりしますが、天皇陛下は国家元首ではいらっしゃいません。国際慣行上、そのようになっているので外国の人にそのような「誤解」を与えるのは無理もないところもありますが——ともあれ、日本国憲法では、そのようには定められていません。

 現行憲法には、天皇陛下を元首とする、という明確な規定はありません。元首じゃないのです。もちろん総理大臣も元首ではありません。

 国事行為は行うけれどもすべて内閣のヒモつきで、じっさいは責任はない。
 国事行為はおこないながら、国家元首ではないってどういうこと? とお思いでしょうが、そこはアメリカさんに聞くしかありませんね。——作った当事者がご健在かどうかは存じませんが。

 現行の憲法制定当時の日本はアメリカの占領下にあった。ゆえに、国家元首を天皇と定めていなくても不思議はなかった。占領下にあったので、強いて言うなら国家元首はアメリカ大統領でしょうかね。

 アメリカの占領から解放され、日本が独立を取り戻したときに、本来なら、占領下にあったときの憲法とは異なるものを作り直すべきだった——、「独立国家」として新たな憲法を自分たちの手で制定するのが、本来なら、当たり前のことだったと思いますよ。

 それをズルズルとまあ。

 日本の左巻きどもは、二言目には日本はアメリカのポチなぞと言いますが、しかし同時に彼らは、ポチであることを規定した、「占領下における憲法」を、絶対不変のものとせよと主張しているわけですよ。
 意味がわからない。
 どーしろってのよ。
 アメリカの支配状態を維持しろといってんのか、独立しろと言ってんのか? どっちなの? ええ?

 ——これだから、連中は左巻きだと私は言うのですが。

 だから、憲法なんてモンは時代や情勢が変わったなら、それに合うように変化させていくものだ、というのです。
 金科玉条、略して金×、みたいにして神棚に飾っておくようなもんじゃない。(すみません疲れているのでへんなことを口走ってます;;)

「独立国家」としてどうやっていくのか、さっさと規定を考えなおしましょう、というのが私の意見です。
 マッカーサーの墓前に、日本人は12歳から成長して、ちゃんと毛ぐらいは生えましたよ、と報告できるようになりたいものですね。(……疲れとる…)

            ●

 ドラマ「BORDER ボーダー」。
 面白いです。

BORDER テレビ朝日
http://www.tv-asahi.co.jp/border/

 セリフが充分に面白い。私はドラマでも、「よみもの」的なものが好きなんですが——セリフだけで充分劇的になるには、つまりは「心理」が描かれないといけません。そういうものが好きみたいで。

 さりげない一言が、重大なヒントを与えているという感じですね。
 人の言葉を多重に解釈していくのは、日常生活なら疲れますが、ドラマである分には(見ているほうは無責任なので)楽しいです。

 しかしその分、俳優さんたちはセリフひとつにどういう意味や状況、背景があるかを理解して、かつそれを「表現」することになるから——たいへんだろうな、と。

 でも、見ているほうは楽しい。(^^)
 原案、脚本が金城一紀さんと聞いて、それらも納得です。

 個人的には、主演の小栗旬さんがいいなと思ってます。

 というのは、私は小栗さんというと割合とこう——イマドキの(少なくとも、見た目は)軽いオニイチャン、という、そんな系列の役のイメージが強かったので(なんでだろ…)、こういう、抑えた、渋ーい芝居はちょっと意外でした。
 意外でしたが、低く抑えたしゃべりでも、ちゃんとセリフは聞こえる。
「…………いいえ」と言うだけのセリフでも、意味も感情もわかる芝居をなさる。

 吉田松陰さんのときのような、どこかぶっとんだ表現よりも、こういう、抑えて渋い芝居のほうが、小栗さんに関しては好きだなーと思ってみています。

 ドラマの内容自体ですが。

 主人公はもしかしたら、半分死んでいる状態におかれているのかもしれない、というところが、私個人としては面白いです。
 生きてはいますが、いつあの世へさらわれていくかわからない状態にある(受けた銃弾が脳底動脈近くに残留中)。その状態で刑事として仕事をしている。

 死者の声が聞こえたら捜査もずいぶん楽だろうとは思いますが、しかし、それでもきちんと逮捕(と立件できるだろう)レベルまで物証を集めていくのは、生きている人間としての堅実な仕事っぷりですね。こちらの側面もきちんとしているので面白いです。

 また、ぱっと見はふつーの人なのに、中身は超絶怪しい、という役、古田新太さんはピッタリすぎるのではなかろうかと思って、にやにやしてしまいます。ハマりますねえこういう雰囲気が(笑)

 という次第で、私は楽しく見ております。

 とはいえ。
 内容が内容なので、録画をしておいても、休日の朝から張り切ってみる気になれないのは事実ですが。(^^;)
「朝ご飯たべて、掃除して、ちょっと落ちついたら見よう」
 という感じ。

 朝っぱらから、×××とか、大量の××とか、見るのはちょっと(笑)

 
関連記事

ひとつの時代として

 そんなわけで明日は町内の用事のため、お休みいたします。

 ひとつきの間に葬式が2件というのは(しかも同じ組で)なかなか、ない経験です……。
 去年の夏の暑さは殺人的でしたが、やはりあれから体調を崩す方が多いです。秋冬の間に体調が戻らなくて、結局、この春になって……という感じ。

 ——私もひとまず、自分が倒れないようにしたいと思います。(←もとが虚弱)

 あちこちにメールしていないという不義理を重ねておりまして、今週末にはなんとか、と思っていたのに、このぶんではGW明けになるかも……。
 不義理を重ねてしまい、本当に申し訳ございません。m(_ _)m(私信)

 メールしなきゃといいながら、1ヶ月、2ヶ月、ひどい場合は半年が経過しているのもあって、さすがに自分でも、ちょっと酷い、と思います;; すみません;;

        ●

 近隣某国の、大きな海難事故。
 被害に遭われた方、ご家族の方には慎んでお見舞いを申し上げます。
 が。
 たしかに、お気の毒ではあるのですが、それにしたって、なんでこう、日本で連日連夜、大々的に報道しているのかが、理解できない。
 
 日本人でこの事故にあった方もありませんし、なにもここまで大騒ぎすることはないだろうと思っております。
 テレビを見ていると、この海難事故って日本のことだったかな? と錯覚を起こしそうになるほどです。
 へんなめまいが出そうになるので、こめかみのあたりを抑えながら、テレビから離れることになります。

 こうしているうちに、だんだん、テレビ自体を見ないということが本格的に習慣化されていくんですね。
 視聴者の「テレビ離れ」がまずいと思うなら、もうちょっとまともに報道するようにしたらどうでしょう。

 といっても、いまや日本のマスコミは知的劣化が激しくて、まともな報道したら? といっても、マトモな報道という意味を、正確には理解できないようですから、しょうがないんですかねえもう。

 私も、その某国を嫌いと言いだして30年ほどが経ちました。
 もとから嫌いだったんですが、12年前に、私の予想をはるかに超える実態をみて驚き呆れ、それはその後も続いてはいたのですが、しかし、これほどとは。
 とにかく最初に出された情報があとからがんがん覆されていく。すべてが嘘。嘘。嘘。偽物偽物偽物。火事場泥棒。便乗犯に愉快犯。
 もはや「なんだこれは」という気にもなりません。
 
 どういう意図があってこれほど事細かに外国の海難事故を報道するのか存じませんが、報道をすればするほど、嫌悪感が蓄積していくので、ほどほどにしてほしいと思います。おそらく日本のマスコミは某国との友好(正確には、その某国が日本を支配すること)を願っているのですから、逆効果にしかならないことは控えたほうがいいと思っております。

 ていうか……考えてみたら、だからふだんは「報道しない自由」を行使しているのに……なぜ今回だけはこんなに根掘り葉掘り、聞かないほうがいいような話をひろめているのだろう………。
 やっぱりわからん日本のマスコミ。

「沈没事故、2ちゃんの7割が『ざまあみろ』」 小田嶋隆さんの発言巡りネットで論議 
http://www.j-cast.com/2014/04/23203046.html
2014/4/23 19:59 J-CASTニュース

 この小田嶋隆さんというのは、私も日経ビジネスなどの会員サイトで拝読しておりました。

 私のような人間が言うのもなんですが、私の見るところ、この小田嶋さんというのも、相当、思い込みが激しい、「独断と偏見の人」です。
 どのみち人間というのは自分の主観から逃れ得るものではなく、ある意味、独断と偏見のない人はいませんが、それにしてもこの小田嶋隆さんはちょっと独特ですね。
 
 ネットはよくご覧になっているようですが、深みにははまりません。
 ゆえに理解がたしかなものではありません。
 また、ネットをよく見てはいますが、「アンチ」という感情が先にあり、つねにそこからものを見るので、結果的に、すべてにネガティブな印象をともなうようです。
 そのネガティブな印象が、大きいか小さいかの違いがあるだけで、それはどんな話題であっても100%晴れるものではないようですよ。
 なんせ、いつも愚痴っぽいから。(^^;)

 お書きになることの7割(←印象)は、「私はそう思う」ということ。つまり、事実がどうであるかは問題ではなく、小田嶋さんが、「そういう印象を僕は持った」ことこそが重大事です。

 私もこれまで拝見してきましたが——それなのに、いまだに、この小田嶋さんの立ち位置、言論上の立場、主張、考え方の「クセ」のようなもの、そういうものが見えません。
 つまり、小田嶋さんの特徴はこういうものだ、と、言えないのです。いまだに。

 私の目にはこの方も、「精神的な引きこもり」に見えます。
 というのは、何を見てもきいても、自分の独断と偏見のなかに落とし込んで、そのうえでお話をなさるからです。

 人間というのはいろんな側面があるもので、臆病かと思ったら意外に無謀だったり、頭のいい人かと思っていたら左巻きだったり、クールな人かと思ったら犬猫にはデレデレだったり。
 他人から見るとなんだかよくわからない、というときがありますが、しかし本人には、ちゃんと「私はこういう人間」という「文脈」がある。

 他人から見て不可思議なことも、本人に喋らせると案外、きちんと筋道は通っているものですよね。
 ただし、その筋道は、幼児体験、家族構成等の背景、個人的な体験、トラウマというものが、理由や動機になるので、そういうプライバシーを知らない人間からは、支離滅裂にしか思えない。

 小田嶋さんには、そういう印象があります。

 ようは論理性はいまいち。
 他人様を説得するには根拠がない、または弱い、ということが多いのです。
 私のような独断と偏見の塊が、ひとさまを捕まえて、独断と偏見の「内的世界」から外へ出てこない人ですね、なんていうのも、おかしな話かもしれませんが。(^^;)

 ともあれ、ネットウォッチはしていても、ネットにある言論というものをきっちり把握、分析、裏を取るような、他人様に対して丁寧な仕事をする人ではないとだけは、言えます。(言っちゃうのか;;)
 少なくとも、日経BPの会員サイトを見る限りはそういう感じでした。

 しらふのはずなのに酔っぱらっているように見える小父(おじ)さんが、酔っぱらいみたいなことを話している。
 そういう人の言うことは、面白がってきくことはあっても、あまり真面目にはきかないものですよね。私もそんなつもりでおりました。
 
 根拠、論拠、裏付けるデータなどを無視して、ただ自分のなかにひきこもったまま、その内的世界を、ご自分にだけわかる言葉でぶつぶついうのも、やりようによっては面白い座興になるわけでして、そういう意味で、このかたのコラムも興がられていたのではないかと。

 それが最近とうとう、日経ビジネスにも進出したときには私も驚きました。
 おカタい経済誌だと思っていたのに、昼間っから酔っているみたいなおじさんの繰り言を載せちゃうの? 連載? マジで? という感じ。

 それをとうとう、ラジオでやっちゃったんですか……。あらあら……。
 というのが、上記記事を見たとき、真っ先に思ったことです。(^^;)

 まあ、座興のつもりで面白がる分には害はないので、あんまり周辺の方々も、真面目に反応なさらないほうがいいような気がします。
 このかたおひとりで、あの膨大な規模の2ちゃんの書き込みを把握できたとも思えませんし——10万もの書き込みをチェックしたとはにわかには信じがたいし、7割という数字も、申し訳ないですが、眉唾物ですね。日経BPのコラムを読んできた身としてはそう思います。

 でもね。小田嶋さんご自身は、そのエッセイなりご発言なりが、ちゃんと公正で良識的な考えのもののおつもりでいらっしゃるんですよね。

 私も2ちゃんねるは10年くらいまえにはすでに嫌っていましたから、2ちゃん住民ならそういうこともあるだろうと思うのも事実ですが。
 ——え。でも、2ちゃんは確か、ネトウヨとやらを駆逐して、在日朝鮮人の「社交場」になったんじゃなかったっけ? と、それは私が不思議に思ったことでした。

 私の思い過ごしか記憶違いか勘違い、というところかもしれませんが。(^^;)

 私もちょこちょこ拝見しておりますブログ「楽韓web」様では、もはや嫌韓「ブーム」ではなく、そういう時代——「大嫌韓時代」になったのだ、と分析していらっしゃいました。
 私もこれはもはや「ブーム」ではないと思っています。

 知れば知るほど嫌悪に満ちた驚きが募る。そういうことにブームもヘッタクレもないでしょう。
 もし、ああいうありさまをきいて嫌悪を感じなくなったら、それはもう日本が超絶劣化し、同化したことを意味します。そのときにはまた、違う時代になったと言えるでしょう。
 私はそんな時代は見たくありませんけどね。(^^;)

 もちろん、あちらさまがそういうお国だからといって、ご不幸に対して心ないことを言うものではない。
 結局それは自分自身を損なうことだということを、日本人なら、きちんとわきまえていてもらいたいと願っております。

 
関連記事

便器型水飲み機

 ダン・アリエリー教授の「白熱教室」。
 人間がどれほど感情に支配されているかということの証明のひとつに、「トイレ型の水飲み機」がありました。

 足下にあるペダルを踏むと、水が吹き上がってきて、その水に口をつけて直接飲むアレです。
 ——基本的には。


 単なる水飲み機なんだけど、ただ、形状が、もののみごとに、(腰掛け型の)便器(笑)



 形状が便器だというだけで、当たり前ですがいちども便器として使用されたことはない。
(そもそも内部の構造が違う)(ゆえに便器としては使用できない)

 ただ、その水飲み機が便器型だというだけなんです。
 が。
 それでも、水を飲むことを拒否する人が多数いたそうです。

 なんで? あたしこれで水は飲めるよ? といったら、母には信じられない、みたいな顔をされました。

 え? 飲めますよ。なんで?
 むしろ、なんで飲めないの? だって水飲み機でしょ?

 飲めない、とおっしゃる方は、飲めない、と感じているその「感覚」を、じーっくりと観察してください。なぜ「ダメ」ですか。ダメの理由は何ですか。そこにはなにがありましたか?

 もやもやと感じるものを自分できっちり把握し、概念としてしっかりつかみ、かつ、それを言語化するというのはそう簡単なことではありませんが、「慣れ」の部分はありますので、ぜひ、なんどでも試行していただきたいと思います。
 そのうち、雷に打たれるような衝撃とともに「そうだったのか!!!」がやってきますから。
 池上彰さんの解説を聞くのもいいですけれども、自分でじっくり内観して得られた衝撃は、ひとさまの解説を聞くのとは比較にならないほど強く、また、揺るがない「理解」をもたらしてくれるものですから。

 なんにしても。
 ——ただの水飲み機なのに、便器の形をしているというだけでダメだと言う人は、ようはこれって「放射脳」なんだなと思いました。
 放射脳はもっとひどくて、便器の形もしていないのに、便器の幽霊を見たからイヤだと大騒ぎしているようなもんでしょうが。

 私はどうもこういうあたりは「現実主義」みたいです。

 その昔、「究極の選択」が流行ったときに、もっとも「究極の選択」の代表となった設問がありました。
「ウンコ味のカレーと、カレー味のウンコ。どうしても食べなければならないとしたら、どっちを食べる?」

 私はウンコ味のカレー。と答えました。

 ウンコを食べたことがないのでそれがどんな味かは存じませんが、それはカレーであることには変わりない。
 ウンコは——あれどうなんですか。じっさいに「食べる」と、やっぱり健康上に問題はあるでしょうか。衛生面には問題あるかな?

 腸内環境を改善する治療法として、健康な人の大便を、難治性の腸疾患の患者さんの腸に移植するという治療法が、いまあるそうですが、あれはちゃんと必要な処置はほどこされたあとのこと。
 腸内環境がよろしくないので、中身をごっそり健康な便と入れ替えるというものなんであって、口から食すというのとは、やはり異なりますよね。

 私は扁桃腺に持病があり、なにかっつーとすぐに腫れていましたから(おかげさまで最近では滅多にありません)、よくても悪くても細菌の集まりを口の中にいれるというのはいかんだろうなー……という。そんな理由。
 当時は子供でしたからそこまで論理的に考えていたわけではありませんが、当時の私の感覚を「翻訳」するなら、そんなところです。

 ということで。
 味覚は度外視し、ただ自分の体にとって危険か無難か。
 その部分だけで判断する。

 私はそういう考え方をするということですね。

 ことに人間に対しては好き嫌いが激しく、割り切りも相当ばっさりやるので、自分では自分のことをたいへん感情的な人間だと思っているのですが。
 ——こういう判断についてはきわめて現実主義みたいです。

 便器を見てどう思うかというのも、文化的な概念に過ぎない、とも思いますしね。
 生まれてこのかた、ああいう形状の便器をみたことがない人がもしいたら、ピッカピカできれいな光沢のある陶器から、水が出てくる、としか思わないでしょう。
 あの形状の陶製オブジェについての、固定観念、先入観というものがないから。

「これ、形はこんなんだけど、ちゃんとした水飲み機だよ」
 と言われたとき(また、それを信じるに充分な状況であったとき)、一瞬ははっとしますが、しかし、「生まれてこのかたこのタイプのトイレは見たことがない」人なら、平気だな、と思うと、すっとそちらの視点に移動する。そうすれば、なんてことはないです。
 それが私の考えたところですね。

 ということで、逆に。
 どうしても、このトイレ型水飲み機では水は飲めないという人には、具体的にその理由を教えてもらいたいと思います。

 私には、放射というのはまったく理解不能のキチガイでしかないのですが、——キチガイを理解するのは並大抵のことではなく、彼らがなぜああも放射脳なのか、まったくわからない。
 そういうとき、「便器型水飲み機では水は飲めない」という理由を教えてもらえれば、放射脳の感情とか、彼らが「言っていること」がわかる、そのヒントになるのではないか、と思っています。

 
関連記事

理性も薄れる興奮状態

 私事で恐縮ですが、今月2件目のお葬式が出てしまいました…。
 いえ、うちじゃなくて、町内の、しかも同じ組の中なもんで、お手伝いやら何やらあると思うのですが、今週の私はほんっとーに! 仕事で身動きとれないので、ただいまちょっと青ざめております。どーしよう;;

 ということで今日はさっくり、またつまんないことを手短に。
(ふだんが冗長なんであって、さっくりめでちょうどいいのか。(^^;))

     ※     ※

 NHKの白熱教室、見たり見なかったりですが、先週はふと見てみたら、ダン・アリエリー教授だったので、おおっと思ってみておりました。

お金と感情と意思決定の白熱教室 
  ダン・アリエリー教授
http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/behavior/index.html

「予想通りに不合理」は面白かったです。

予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」
(2008/11/21)
ダン アリエリー、Dan Ariely 他

商品詳細を見る


「行動経済学」ということで、何と申しましょうか、経済のフィールドワークという感じかな。
 理論より実践。マーケティングより「人間の現実」から見る。そんな感じ。

 まーおよそ経済学者とかエコノミストというのは、天気予報よりも当たらないことを平気で言う人たちだと思っているので、私はあまり、ああいう話を真面目にはききません。いばって言うことじゃないですが。
 でも、アリエリー教授は人間観察というところから経済の動きを読み解いていくので、「わかりやすい」です。

 ということで、前回見た内容は「どれほど人間が、感情によって行動を変えるか」——行動を変えるということは、考え方も変わっている、ということなんですが、それを証明する「実験結果」に基づいてのお話でした。

 見ていてちょっと気の毒にも思ったのはその「実験」。
 被験者は男性のみで、道徳的なことに関しての質問をしていくのですが、その回答結果が、通常のときと、性的に興奮しているときでは明らかに差異がある、というものでした。

 実験は、まず平常の状態で、パソコンに次々に現れる質問にイエス・ノーで答えていくのですが、2回目は、エロな写真を50枚くらい、見たあとなんですね。
 そうすると明らかに回答が変わってくるという。
 ただ。
 申し訳ないのですが、私の脳味噌なので、その質問を思い出せません。(^^;)

 私にとって印象が強く残ったのは、
「被験者が男性ばかりというのは不公平なようだが、女性だとこの実験は成立し得ないなあ」
 と思ったことでした。

 男性の場合、どういう条件下で性的な興奮を得られるかというのはわりと画一的といえますが、女性の場合はなー。
 異性の裸を見たくらいでは、たいして興奮しないという人のほうが多かろうと思います。興奮しないこともないでしょうが、感情面が大きく変化するほどのことではない。

 女性の性的興奮というのはたぶん、視覚はほとんど影響しない。あえて五感の中から選ぶなら触覚でしょうが、これはしかし、本人が相手に好意がないと興奮するどころじゃない、怖気をふるうということになるから、画一化はとてもできない。

 性的ではなくてもいいのですが、これに替わるほどの「興奮」を呼び覚ます条件というのは、私にはちょっと思い浮かびません。
 バーゲンセール? とも思いましたが——あれも好き嫌いはあるしなあ…。

 あらためて考えると、女性の「興奮」て、その条件は一律ではないのだな、と。
 そんなことを考えているから、なんの実験だったか覚えていないなんてことになるんですね。(^^;)

 私の——理性も薄れるほどの興奮というのは——考えてたらまたちょっと落ち込んだんですが、私の場合、ポジティブな興奮(性的な興奮ふくめ)てのが、ないんですよね。ほとんど。
 理性も薄れる興奮は、もう、恐怖反応しかありません;;

 ドラマCSIでは、病気が原因で不審(に見える)行動をとっていただけの男性と、同じ飛行機に乗り合わせた乗客たちが、その男性が興奮して飛行機のドアに手をかけたとき、ドアを開けようとしているのだと思い、5人掛かりでめった打ちにして殺してしまった、というエピソードがありましたね。

 なにしろ飛行中のことですから、ドアを開けられたら全員助からない。
 そういう恐慌による「正当防衛」にしかならないというので、犯人は全員、おとがめなし、にはなるのですが。

 私も、ああいう状況下なら、理性も何もぶっとんで、やはり殺してしまうかもしれない。

 理性の薄れる興奮、というと、それくらいしかなさそうだというのは。
 どーなんだろう。
 
 どうなんだろうといってもしょうがないんですが、ともあれ、こんなことでは実験にはできませんよね。
 殺人リスクを負った実験じゃあヤバすぎる。

 ということで、アリエリー教授は、本格的な危険や損失は出ないように実験を設定するのですが、そのアイデアがすごいな、とも思うのでした。
「こういうことについて実験したいが、どういう方法がいいだろう」
 ということって、案外難しいもんですよね。

 実験方法を考えられる、その柔軟な脳味噌に、まずは敬服する次第です。

 
関連記事

カレーフェスティバル

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」。
 いつも見ると気になるのが、織田信長さんのお部屋。
 どーみてもショッカーの基地にしか見えないのですが、私の目と脳味噌がオカシイのでしょうか;;

 かといって、あの大魔王様が、趣味よくソフィスティケートされた「まともな」部屋にいると思うか? と言われると、それはそれで、「ない」ですね……。うーん。
 悪趣味という名の「趣味」。
 悪趣味ではあるが、それはダサイということではない。美意識とセンスの良さを滲ませている——という、たいへんあやういバランスの感覚の人というイメージがありますね。

 とはいえ。
 ……やっぱりあれ、ショッカーか、と思える…。
 鷲のマークがあったら完璧という気がするけど、逆に魔王様はああいうのは好きそうではないように思える……。

 我ながら、なんかよくわからないイメージがあるようです。(^^;)

        ●



 世界に類を見ないイベント、海上自衛隊のカレーフェスティバル!
 ………確かに類を見ないだろうな。(^^;)
 いい国ですよ日本は(しみじみ)
 キチガイと強盗に取り囲まれているのに、けなげに頑張る国ですよね。

 さて。
 今回参加の、各チームのカレーメニューは海自Twitterで公開されてます。(写真もあるのですが、写真のないものも……。写真を見ているとしかし猛然とお腹がすく/笑)

 もれなく美味しそう!!
 フェスティバルに行けた方、うらやましいです!!

 1位になった潜水艦部隊のカレー、写真だけでも見たかったのですが、ありません。
 やっぱり軍事機密扱いなんでしょうか。
 ある意味、食事は海自のキモだろうしな〜。







 ふむふむ。
 カレーはなかなかお腹にたまるメニューだから、全種類制覇は難しいですよね。




 ほんとに早々と、売り切れたんだそうですね、カレー。

「完売」の文字がちょっと悲しい。(^^;)
 6,000食じゃ足りなかったのか……。
 5万食は必要だったのでは?(作る人が死にそう…;;)
 というよりも、会場に人が入りきれなかったわけですね? 
 横須賀(と近隣の方々)のカレー愛はどこまで……。

海自のカレー待機列ぱねー 日本人はカレーのためならどれだけ並べるのかが試されている(かもしれない)
2014年04月19日 13時14分 更新 ねとらぼ
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1404/19/news015.html

 イージス艦「こんごう」と「あしがら」は一般公開もされたそうです。
 いいな……、ちょっと中、見てみたいな……。
 いいですよね、Mk 41 VLS …。(←いいですよね、つって、何人の方がそうですねと言ってくださるというのか;;)

(ミサイルセルの)表面だけでいいから見てみたいな…。
 私は軍事オタクではありませんが、VLSだけは、なぜか見ると妙に萌えるのです。たぶん、子供のころ、アニメで見た何かを連想しているんだと思います…無意識に;;

 ちなみに。
 カレーフェスティバルなので、給養員さんだけが参集するという手もあったと思うのですが、律儀にも、本当に各艦艇が集結するところがすごいです。
 海自はなんかこう、突き抜けているものがある気がします。Twitter自体もキャラ設定があって面白いですし。(^^)

 広報活動とはいえ、合計何隻の軍艦が集まったことになるのか。
 イージス艦だけで5隻、って、ちょっと尋常じゃないですよ。リムパックでも、ここまでは揃わないもんですよね。
 通常だったら他国から怪しまれるレベルですよ。
 おまけに場所が横須賀なのでアメリカさんもいるし。

 なんて話をしていましたら、うちの母が、ニュースを見ながらぽつりと、
「北海道でやればいいのに」
 と言いました。
「え? なんで?」
「北方領土前で集まってやりゃあいいんだよ」

 ああ。そっちか。(^^;)
 私もそこまでは考えなかったなあ。
 ……たまに私よりも過激なことを言うんだねえ……。

 このカレーフェスティバル、アメリカのイージス艦もゲスト参加したら面白いな——と思いましたが、アメリカさんはあんまりカレーには興味ないでしょうね。ハンバーガー大会なら来てくれるのかな?

 なんにしても、妙にお腹がすいてくるニュースでした(笑)

 
関連記事

和解を目指す

 年をとってきたおかげで、「男嫌い」を抱えて生きていることについての、不自由な感じ、不都合、やりきれなさ、怒り、と同時に肩身の狭い思いというものは感じなくなってきて(そういう場面が減ってきて)、ありがたい限りなのですが。
 そうはいっても。
 死ぬまでにはなんとか、我がアニムス(女性のなかの男性性。男性像)とは「和解」しなけりゃならんだろうな、という気持ちも、強くなってきております。
 
 心理学のほうでは、中年になると、アニマやアニムスとの統合が進むとされるのですが、さて、どうなんでしょうか。
 私としてはそうであってほしいと思います。
 これでも、昔に比べたらアタシもだいぶ丸くなったわーと思うのですが、でも、根っこのところではまだまだ排斥しようとする意識が強いです。

 アニマ、アニムスを提唱したユング先生は、
アニマ・アニムスは共に肯定的,否定的なはたらきをもっている。しかしそれを可能な限り意識化して人格の統合をはかることが,個人の自己実現の過程である。
 その過程は創造的である一方、破壊の可能性も秘めている

 とおっしゃっているそうですが、なんとなく——わかる感じがする。

 私は極端に男性原理を嫌っていますが(そのよき働きはほぼ認めていない)、一神教がきらいだ、というのは、その「男性原理が嫌い」の延長線上にあるんですね。
 一神教はなぜか、もののみごとに男性原理そのものなので。

 そういう人間にとっては、かの「ダヴィンチ・コード」で描かれた、男性原理と女性原理それぞれがあって宇宙はうまくいく、という発想はなるほど、と思います。
 そうであるならば、私もここまで一神教を毛嫌いせずにすむんだけどな。と。(^^;)

 ということで、ユダの福音書とともに、この遺物は、少なくとも偽造品ではないことが証明されたというのは、個人的にはわくわくすることでした。

「イエスの妻による福音書」は本物か
National Geographic News  April 11, 2014
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20140411004

 マグダラのマリアがイエスの妻ではないかということはまえまえから言われていましたが、それを補強する(可能性がある)ものが現れたというのは興味深い。
 ダヴィンチ・コードで言われたように、この大宗教が女性を取り入れてくれたら、私も少しは受け入れやすくなるんですが。(^^;)

 「芝居人」野田秀樹さんは、エッセイで、通っていた幼稚園はキリスト教系だったが、お祈りするときはいつも「マリア様…」であり、「イエス様…」とお祈りしたことは一度もないと書いていらっしゃいましたが、ワカルなあそれ。と思いました。
 あんな酷(むご)いはりつけの姿を幼児に見せることからして、そもそもどうなのかと私は思いますが——そりゃ、なんかあったときにまず頼るのは、話を聞いてくれそうな人、になりますよね。

 イエス様のあのお姿は、祈る以前に、「だれか、警察! 救急車も呼んで!!」と叫びたくなるのが人情だと思う。(--;)

 日本の王権も、本来は、ヒコとヒメによる共同統治、ヒコとヒメが揃って王権は成立するので、どちらか一方だけでは成り立たなかった、という話を聞いたときも興味深かったですね。
 現在の天皇のご祭事に、みょうに女っぽいもの、その衣装が女性的なものがあることを考えると、なるほどそうだったのかもしれない、と思えてきます。

一万年の天皇 (文春新書)一万年の天皇 (文春新書)
(2006/09)
上田 篤

商品詳細を見る


 古代、女帝が多かった理由もそう考えると納得しやすいんですね。
 同じ一族の血を引くヒコとヒメが揃っているのが、王権の「ノーマル」な状態ですが、どちらかが死亡して「一時的に」ヒコだけ、ヒメだけ、という状態になることはある。

 女帝に抵抗がなかったのは、「ヒメのみが王権を持つ」状態になることはわりとしょっちゅう出来(しゅったい)していたからではないでしょうか。
 じっさい、女帝には「中継ぎ」の性格が強い。
 古代なら、ヒメが血縁者の男を選んで夫にすればいいだけのことなんで、わりとヒメだけの王権というのは期間も短いですし、そういうことなら、女帝という概念も、じつはなかったかもしれません。

 陰陽五行説。世の中のなにごとも、相反する性質のものがバランスすることでこの世は安定する、という発想は、自然なものだとも思えます。

 ただ、このヒコとヒメの共同統治というのは、ようは同じ血族であってこそ意味のあること。つまりは、古代エジプト王朝と同じで、同族での婚姻によって「純血」を持つことに意義がある。
 近親婚を認めない時代においては、ヒコとヒメ、ふたつそろえてこその王権、というものは、実現不可能。

 ただ、夫婦のことを「妹背(つまり、妹と兄)」といったのは、こんなあたりにも理由があるのかなと思ったり。
 世界を眺めてみれば、きょうだいで夫婦となるのは珍しくないが、日本の場合、同母きょうだいは絶対のタブーだったというのは、母系社会の名残だったでしょうか。
 古代エジプトは、きょうだいどころか親子で夫婦という例がごろごろしてるもんなー……。

 血縁というものを重視する姿勢は、いまの日本においてもなお残っていますが、——日本では「いとこ婚」は法的に認められていますが、世界的には珍しいほうなんですね。
 欧米あたりですとけっこう露骨に、いとこ同士で結婚、なんていうと、たいそうな勢いで嫌悪感を示されますね。
 文化というのは、なかなか玄妙なもんですよね。
 善悪の議論は、ここでは無意味だ。

 ともあれ。
 一神教のうちのひとつだけでも、もしも、男性原理だけではなく、女性原理とともに成り立ってくれれば、私としてはありがたいことだと思います。

 思いますが。
 ——ま、無理だろうな。(^^;)
 
 カソリックでもプロテスタントでも、ほとんどのキリスト教は「三位一体」説なんていうものを掲げて、世の中には男しかいないという論理でやってきて千数百年ですもんねえ。(紀元4世紀ごろ〜)

 べつに宗教に限らなくても、いちど定説とか常識とか、そういうものになったのを、ひっくり返すというのは、なかなかできることではありません。

 だからこそ、私も、自分内部の戦いとして、アニムスと和解しなければ……とジタバタしているわけですね。
 これはあらためるべきことだとわかっているのに、なかなか実現できずにいる。
 人のことは言えません。(^^;)

 だいたい、ここで「戦い」という言葉を使っている時点でダメでしょ、という……。
 ………努力します…。

 
関連記事

佳人薄命

 昨夜の、ドラマ「赤い霊柩車 33」、途中までは裏番組を見ていて(Dlifeにて「コバートアフェア2」)、途中からになりました。
 片平なぎささんと神田正輝さんのコンビも長いですよねえ。しかしいまだに「婚約中」ということになっているのもすごいな〜。(^^;)
 それに、今回はキャストがホントに豪華だったので、本気で犯人が誰かわかりませんでした(笑)
 通常、キャスティングを見ていれば、推理しなくても「あ、犯人」とわかるものなんですが。(笑)

 で、最後のあたりで良恵さん(山村紅葉さん)が、私、絶世の美女でなくてよかった! といったのですね。ドラマ前半を見ていないのですが、なにかあったんでしょうね(笑)
 卒都婆小町がテーマですから、美女の話題だったんだろうな。

 なんで絶世の美女に生まれないでよかったか? 絶世の美女と言われる人はみんな、——クレオパトラ、楊貴妃、マリー・アントワネット——最後は不幸なことになるから——ということで。

 小野小町については最後が不幸だったかどうかはわかりません。
 謡曲「卒都婆小町」のベースの仏教説話は、この世のはかなさを説明するためのフィクションですしね〜。じっさい彼女がどうなったかは不明。

 佳人(美人)薄命、というのは、本来は、「花の命は短くて」という意味なんだそうですが——そりゃそうだろうな——でも、調べてみますと、上記の美人それぞれは——あと、イギリスの、ダイアナ元皇太子妃も——なくなったときがおおむね、36、7歳、そのあたりです。
 それに気がついたときは私も、
「美女は37歳の厄年(八方塞)で亡くなってしまうものなのだろうか」
 と思いました。

 架空の人物ではありますが、源氏物語でも美女といわれる藤壷の宮も、なくなったのが同年齢。
 藤壷の宮の姪にあたり、やはり絶世の美女である紫の上は、この年齢では亡くならないにしても、一時は仮死状態になるくらいの大病をしますし。
 で、その5年後、かな、そのへんでお亡くなりになります。

 あまりにも似通った行年を眺めているうちに、なんとなく、ぞわっとしました。

 美女に生まれなかった徳で、私も、元気にしております。ははははは。(←乾き気味)

 ところで、では不幸に終わらなかった美女はいるか、というと。
「顰(ひそ)みに倣(なら)う」ということわざのもとになったほどの美女、西施(せいし)、という人が挙げられましょうか。

 彼女は美しいのみならず、たいへん頭の良い、また、性根の据わった「人物」であったようです。
 范蠡(はん・れい)は敵国の王のもとに西施を送り込むのですが、スパイ&元祖ハニートラップですね。
 この「色仕掛けで自滅させる」作戦は成功し、西施はその後、范蠡のもとへ戻ります。

 范蠡と西施の関係というのは見ているとどうもナゾなんですが、男女の情がある関係であったにせよなかったにせよ、丸腰で敵国へはいり、何年もの時間を掛けて工作をし——情報をとっては送るのですから危険な仕事です——、色仕掛けも成功させ、かつ、作戦成功後は、范蠡のもとに戻ったという経緯をみるに、彼女の忠誠心は驚くべきものがあります。

 基本、女性は子供のためになら死ねますが、男のためにはなかなか死ねません。
 確か西施のスパイとしての活動は7年ほどにも及んだと思いますが、その間、ゆるぎもなく忠誠心を持って活動していたというのは、すごすぎる。

 西施のパーソナリティもさることながら、范蠡という人が、やはりそれだけ見事な人だったのだろう、と、思えてきます。

 ところで、私は西施のその後については、范蠡のもとに戻り、彼にしたがって越(←国名)を出たという話しか知らなかったんですが、いまwikiでみましたら、やはり不幸になるバージョンの言い伝えもあるんですね〜。わ〜。
 越国王夫人に嫉妬され、生きながら皮袋に入れられて長江に投げ込まれた、と。
 ひでえ。
 でも西太后の話をきいた後だと、それくらいならまだ可愛いわと思えるところが怖いぜシナ王朝列伝。

 とはいっても。
 范蠡の、自分の主人(越王、勾践)の見限りっぷり、西施の頭のよさなどを考えあわせますと、いつまでも越でぐずぐずしていて、女の嫉妬ごときであっさり殺されるとは思えませんね。ましてその話のオチが長江の蛤というのでは(笑)
(西施の死後、長江で蛤が採れるようになり、人はこれを西施の舌と呼んだ、と)(あーハイハイ、という感じだな)

 いずれにせよ、穏やかに老いて天命を全うする美女も、数のなかにはいるだろうと思います。

 ただ、やはり、はかなく亡くなった人のほうが、人々の心には残るでしょうね。

 やはり人間というものは、幸せに世を去った人には関心を持たないのかな(笑)

 あ、あと、どうでもいいことなんですが、今回の「赤い霊柩車」。
 能面は、能面と書いたら「のうめん」でいいんですが、面、と書いてあるときは、「めん」じゃなくて「おもて」っていうんです〜。おもてって読んで〜。
 と、ちょこっと泣きました。(^^;)

 余談:面は、数えるときは、1面(めん)、2面……と数えます。

 
関連記事

意味不明の憎悪について

 わからない、というより、不思議だな、と思うことのひとつですね。
 
 これはとくにサッカーで見聞きするのですが、とある選手が、他チームへ移籍すると、なぜだかしらんが、もといたチームのファンから「裏切り者」扱いされ、憎悪の対象となるという現象。

 これはまったく意味不明。

 勝ってるときだけ応援して、負けが混んでくると怒るようなヤツはホントのファンじゃない、というのが私の、10代ごろからの考えですが、移籍選手を憎悪するというのは、さらに意味不明だ。
 あれはいったい、何なんですかね?
 あの熱心な憎悪は。

 私はもうサッカーカルチャーにはあきれ果てて、サッカーファンを名乗ることはやめましたが、こういう「なんだあれは」という、不快感を感じることが、ほんっと、多いですね。(^^;)

 ある選手が、チーム生え抜きで、活躍し始める、それはファンにとっても嬉しい——というのはわかる。
 が、活躍できる選手なら、さらなるレベルアップを目指して、より条件のいい、ということは条件が厳しくなることでもある、その環境へ挑んでいくのは、当たり前なんじゃないでしょうか?

 私は基本、人と競うことが嫌いで、なんかあるとすぐに「あ、そんなら私はいいです」といって相手に譲って後ずさりする人間なので、ああいう——「競うことに挑む」、そこに快感を覚える人の精神状態は、正確には理解できませんが、それでも——その向上心は、わかる、と思ってますよ。
 人間、あるレベルや目標をクリアしたとき、そう実感できたとき、嬉しいと思うのはわりと短時間で、「これができたんだから、次にはあれを」と、思うもんですよね。ね?(←念押し)

 であるならば、サッカー選手というのは、たしかに所属チームのメンバーではありますが、おおきなくくりでは、チームメンバーの外側に「サッカー選手」というくくりがあるわけで——つまり、外のチームへ移籍したらサッカー選手ではなくなる、ということはないわけですね。(当たり前ですが)

 サッカー選手である、そのつぎに、「現在の所属チームはどこそこである」という「くくり」があるわけなんで、——ことに、よりレベルアップすることを求めて移籍するのなら、その選手を祝福してあげるべきところだと思うのですがね。
 これからは敵チームになるけど、またサッカー選手としてレベルアップして、頑張って、と送り出すのがファンてもんじゃないんですかね。

 それなのに、なんで「移籍しやがった」「裏切った」になるのか。

 ようは、自分と同じサイドにいないのなら「敵」である、という発想なんですかあれは。
 
 どうもこういうところが私にはわからない。
 活躍を求めてというのみならず、チームのなかで居場所をなくして出て行く人もあるのですが、そういう場合でもやはり「裏切り者」呼ばわりすること、ありますでしょ。

 …………………わかりません。

 どこのチームにいようが、サッカー選手はサッカー選手。
「敵」チーム、というのは、ゲームの「役割」の都合上の名称で、本当に戦争をやっているわけじゃない。
 どこのチームにいようとも、サッカー選手という意味では同じ。
 ましてやこれは「ゲーム」であり、「ビジネス」でもある。

 敵性国の企業に転職して、日本企業の技術を売り渡すというような話じゃないんですよこれ。

 なんか勘違いしてんじゃないの? といつも不思議に思うのです。
 それとも、サッカーファンて、ああいう戦争ごっこをして遊ぶものなんですかね? スポーツゲームなのに?
 憎悪することが「楽しみ」なんですかね?

 ノーサイド No Side という言葉はラグビー用語ですが、この言葉と概念は、サッカーファンを名乗る人々に取り入れる必要があるんでしょうかねえ。

 もちろん、移籍選手にファンから冷たい視線、みたいなことは、ほかのスポーツ競技でもなくはないですが、サッカーの場合はそれがたいへんよく目立つ。

 愛することも応援する気持ちも尊いが、そこで憎悪が生まれる必要はない。
 というよりは、それが純粋な愛ならば、憎悪などは生まれようはずもない。
 つまり、憎悪があるということは、それは本当の愛情ではないということ。
(憎悪はエゴが生み出す幻想だから)

 じっさい、現実的にはなんの利害もないのに、そこまで憎悪をするということが、私にはキモチワルイし理解できない。
 いってみれば、妄想で暴走しているヘンタイにしか思えないわけで。
 ……これだけが理由ではありませんけれど、メディアやファンを含めたカルチャーになじめず、というより、はっきり反発して頭に来ていた私には、やはり、サッカーファンは「向いて」いなかったということでしょうかねえ。
 
 ボールを奪い合うどころじゃない、命を奪い合う武術、武道の世界では、しかし、相手方への憎悪はないというのに。

 命をやり取りする世界にさえ憎悪がないものを、——こういったらなんですが、たかが球遊びに、しかも、ゲームの当事者ではないファンという「第3者」が、意味不明の憎悪をまき散らすということは、私の目には相当、異常な状態に見えます。

 ああいうのは日本のカルチャーにはあんまりなかったと思うけどな——と思うと、やっぱり、サッカーなんて、国際試合には「出ると負け」で弱っちいくらいのほうが健全かもしれない。
 と、最近ではけっこう真剣に考えてます。(^^;)

 ご冗談をって?
 ——冗談ならいいんですが。(←目がマジ)

 
関連記事

本日お休み

moblog_a10503eb.jpg

時間には余裕があって出てきたのに、何故か新幹線にはギリギリで飛び乗りました。

工事してたり、意味不明の低速走行の車に会ったり、歩行者に進路妨害されたり。

余裕を持ってきてよかった。(^_^;)

ということで、本日お休みいたします。

天気はいいのですが、乾燥がすごいです。
皆様も水分不足にはお気をつけて。m(_ _)m



関連記事
プロフィール

みずはら

ブログ内検索
最新記事
リンク
地球の名言

presented by 地球の名言

カテゴリー
RSSフィード
月別アーカイブ