水は方円の器に随う

 先日、景気回復から、ホテルの稼働率もあがってきており、ホテル側の料金設定も「強気」になってきている、という記事を読んで、ああそうかと思ってはいたのですが。
 
 毎年、GWのイベント前日には、一泊して日比谷〜有楽町へんでふらふら遊んできましたが、今年は断念しました。
 定宿にしてきたホテルはすでにいっぱい。ならばと以前から気になっていたホテルをみたら料金がちょっと納得できない。

 まあ東京と地方を比べるなと言われりゃそれまでですが、しかし、部屋の面積12平米に素泊まりする料金で、熱海の温泉宿(ホテル形式)では、広いツインに朝夕食付き、しかも夕食はちゃんとしたフレンチだったことを考えると、どうにもめまいがしてきまして。

 今年は、朝早い新幹線で出かけることにしました。
 6月か7月には、また京都〜神戸へ行きたいから、ちょっと節約てことで。

 景気回復はいいことなんですが、ホテルがまた厳しいことになってきました。(^^;)
 いえ、それで業界が潤えばけっこうなことです。

 ちなみに、私個人は景気回復は、新聞折り込みで入ってくる求人情報が、文字がぎっちり! になったことで感じます。
 以前には、紙面が何となくすかすかで、求人1件あたりのコマがみょーに広かったのに、いまは、コマも小さく、でも情報ぎっちりな感じですよ。
 つまり、求人自体が増えている。

 基本的にはアルバイトなどが多いですが、でも、以前よりも正社員募集も増えてますね。
 景気回復、順調にいって欲しいなと期待してます。

 私個人の財布の景気ですか。
 こちらは相変わらずですが、でもひとまず、ちゃんと生きてます。大丈夫です。

       ●

フィギュアファンの声援も国際化!? 日本人観客マナーの海外関係者評価。
田村明子 = 文 text by Akiko Tamura :Number web
photograph by REUTERS/AFLO
http://number.bunshun.jp/articles/-/806006

 フィギュアスケートのファンは、「フィギュアスケートのファン」。
 好きな選手ありきなんじゃなく、フィギュア自体がまず好きでなので、どの選手についてもその演技、個性、課題、それぞれのチャレンジ、というものをじっくり見る。
 他はどうだか知りませんが、少なくとも日本のフィギュアスケートファンはそういう傾向を持ちます。

 少なくともこれまでのフィギュアスケートのファンというのは、選手個人ではなく、競技のなかの要素として、各選手をそれぞれに見ていたと思います。

 順位は審判が決める。
 観客は基本、それぞれの選手の持ち味、そのチャレンジを理解し、応援し、楽しむ、というほうが、メインでしたよね。

 ——韓国が出しゃばってくるとそのカルチャーが多いに阻害されました。それで日本の古参ファンは嫌がっていたんですけど、ま、アチラさんにはどれだけ説明してもわからないだろうなそのへん。
 説明を聞いて理解できるような頭なら、逆に、ハナッからあんなことはしないでしょ。

 ということで、日本のファンの、「競技それ自体を愛する」「それゆえに各選手それぞれを応援する」という姿勢、わかっていただければ嬉しいです。
 
 文中、「ソチでの厳しい体験」ということが出てきますが……お察ししますよホントにもう;;
 私が、ロシアの観客最低だったわというと「は?」みたいな顔をする人がいるのですが………あいかわらず、「抜け雀」()が多いんですかねえ……。どこを見て何を聞いてんの? とつい言いたくなる……。(--;)

抜け雀…落語のお題。
 作中、

「おまえの眉の下にピカピカッと光っているのは何だ?」
「目です」
「見えないならくり抜いて銀紙でも張っとけ」


 という台詞が印象的に繰り返される。
 話の内容と解説はこちら。→『落語あらすじ事典』)

 今回、羽生結弦選手のファンらしき人が、もう大ひんしゅくを買った、——問題なのは、顰蹙がどうこうではなく、応援するはずの選手の邪魔をした、足を引っ張った、という事実ですね。
 こういうのを「贔屓(ひいき)の引き倒し」と昔の人は言ったんでしょうが、ああいうことをして選手の邪魔をしておいて、なにがファンだ、ということになる。

 ニワカが嫌われる理由のひとつですね。

 そういうわけで、せっかくのフィギュアスケートファンが築いてきた「観戦・応援のカルチャー」が、こういうニワカが増えることで、またも破壊されていく心配はあるなあ、と思って読んだ記事でした。
 私としてはこういう応援スタイルは、むしろ日本からほかの国へ輸出したいと思うくらいですが、しかし、こういう美しいものほど、壊れやすいものでもあるので、輸出の前に、日本自体がまず大丈夫なのか、という気持ちもあります。

 サッカーみたいに、せっかく以前には日本特有のいい雰囲気、「文化」があったのに、ヘンなところだけ、悪いところだけ、世界トップの国の真似をして、またそれがあっというまに汚染が広がった——ということにならないように祈ってます。

 こういう↓みっともないことがあると、ファンがサイテーなのはいいとしても、サッカーそれ自体までもがイメージが悪くなるんじゃないかと。(--;)

古巣サポーターがサガン・安田選手に大ブーイング チームメイト「こんな反応はありですか?」
2014年03月30日14時22分 J-CASTニュース
http://news.livedoor.com/article/detail/8684168/

 まあ、こんなのは本当の愛情ではない、とは確かに言えること。

 サッカーだって昔はこんなじゃなかったのに、それは最初は「ごく一部の」人のことと言えたのに、あっというまにこんなことになっちゃって。
「水の低きに就(つ)く如(ごと)し」「低き所に水たまる」と申しますので……フィギュアスケートのほうも、私はひそかに心配してます。

 水は方円(ほうえん)の器(うつわ)に随(したが)う、というのは、いいことにも悪いことにも当てはまる。
 最後は自分の(美)意識がたより、ってことですかねえ。
 
 
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光源氏の教育論

 昨日、3月29日付けの日経新聞によれば、せんだってのクリミア自治共和国における、ロシアへの編入の賛否を問う住民投票では、「ウクライナにとどまる」という選択肢がなかったとのこと。
 
 ばかばかしい。選択肢が(事実上)一択の住民投票なんてもんがあるか。

 この期に及んでいまだプーチン氏を誉め称える人たちって頭がイカレているとしか思えない。
 アメリカがどうこうじゃない。プーチン氏ならびにロシアのやっていることについての話なの。
 なぜか左巻きというのは、アレとコレという、まったく異なる話をぐちゃっとまぜて話しますが、あれってどうしてなんでしょうね。それとコレとは違う話だということを、理解できないんでしょうか?

 なんにしろ、住民投票を「民主的な手段」と勝ち誇ったように言う人をお見かけしましたが、少なくとも日本では、背中から銃口を向けられながら投票することを、民主的な行為とはいわないな。
 ——あんなものを民主的な手段だなどというのは、いったいどこの国の人間だ?

        ※

 世界フィギュアも、競技自体は昨日で無事終了しましたが。

 うちの母親が、どこからどう聞いていたのか、とある情報を仕入れてきていました。
 ロシアのリプニツカヤ選手がずいぶんと、会場の内外の雰囲気を気にしているようだった、という情報でした。
(真偽のほどは確かめようがないので、情報というより、うわさ、というべきでしょうが)

 今回は来日がちょっと遅くなり、会場練習ができなくて、ぶっつけ本番状態だったとのことなので、そういうこともあったかとは思いますが。
 ロシアがいま、どういう状況にあるかを知っているのなら、自分がどういう扱いを受けるかを気にするのは、もっともなことではあるでしょう。

 もしも、そういうことで少し神経質になっていたのなら、日本はあの冷戦時代においても、東側諸国からの選手たちには評判のいい国だったくらいだから、今回もどうぞご心配なく。——と、伝えてあげてほしかったかな。

 あの時代でも——まして日本は戦後、ソ連にはとんでもない、国際法にも明確に違反する「犯罪」を行われているのですから、ソ連にいい感情がなくて当たり前なくらいですが、それでも、ああいうスポーツイベントで、ソ連の選手だからといって観客席がシーンとしている、反応が悪い、冷たい、なんてことは、なかったです。
 素晴らしいものは素晴らしい。それだけですよね。
 私もそれは当たり前だと思っていましたが、それは世界標準ではないことは、あとから知りました。

 なんにしろ、子供にそんな思いをさせるというのは、悲しいことではあります。

 この間のオリンピックも、ロシアの観客の程度というのはそりゃひどかったからなー。自分たちがしていることを考えれば、日本人の観客も同じだろうと思うのは無理もないんでしょうけど。

 なんにしても、今回の世界フィギュアは、オリンピックシーズンの締めくくりとして、いい大会になったと思います。
 観客数は、ISUの競技会としては——オリンピックを含めても、過去最高だったそうですね。1万2千人以上か……。それがあの大歓声ですものねえ。選手も、盛り上がってくれたなら嬉しいのですが。

 今夜はエキシビションなんですが、私はまた野暮用でおでかけで、見られません(涙)
 もちろん予約録画はしていきますが、でも、放送時間でまったり見たかったな〜。

         ●

 源氏物語というのは、紫式部の——あるいは当時としての、あらゆる理想型を盛り込んでいるものでもある。

 ということで、物語中、光君(ひかるくん、とも、ひかるきみ、とも、お好きに読んでください)が理想の教育論を語るところはちょいちょい出てきます。

 そのなかで印象深かったのは、上流階級の人間としての心構え、ふるまい、というものを、かなり厳しく光君が考え、語っているところ。

 具体的な場所を示すことができませんが、光君の娘、明石の姫君の教育について語るなかで、
貴婦人としては、なにごとにもおおようで、人間についても好き嫌いをいわないことが望ましい
 というのがありまして。

 上流階級では、身の回りに大勢の人がいます。いわゆるプライバシー(私生活)なんてもんはない、と言っていいくらい、つねに人がいます。
 大勢の人が集まれば、いろんな性格、クセを持つ人間がいるわけですが、そういうなかで、あの人は好き、この人は嫌い、と、えこひいきをするなどは論外。
 誰にでもおっとりと、おおようにかまえていることが必要だ、と。

 なるほどなーと思いました。
 私どもは単純に、上流階級のお姫様なんて、なんの苦労もなくていいだろうなーと思いますが、しかし、大勢の人を「使う」立場というのはやはり、傍で見るよりも苦労の多いものなんでしょう。

 私の経験でも、たしかに、家のなかに他人がいるというのは案外気づかれするものでした。
 父の具合が悪くなってきたとき、ヘルパーさん、訪問看護のかたがきてくださったのですが、これは本当にありがたいことなんですが、それでも、なんかこう………、妙に気疲れするんですよね。

 上流階級のお姫様ともなれば、しょっちゅう誰かがそばにいる。個人的空間はないし、じつのところ、馬の合わない人だっていたりするでしょう。
 が、そこで主人たる姫君が、あからさまなえこひいきをすれば、やはり「職場」の雰囲気は悪くなる。そうなれば、姫君自身、人をうまく使えずに不都合が生じてくるわけですね。

 人の好き嫌いをあまりいわない——まったくないわけはないが、それを表には出さないで、上手に、どの人もうまく取りなす。これも、人の上に立つものには必要な能力であり、教養である。と。

 紫の上も、寝間(ねま)にいるときでさえ、帳の向こうにいる女房たちのことを気にして、ろくろくため息もつけずにいる、という場面がありますもんねえ。
 現代人なら、最低でもトイレくらいは個室といえましょうが、平安時代の貴族にはその個室はない。いわゆる「おまる」使用であるため、独立、固定の「個室」がない。

 寝る場所でさえ、完全な個室とは言いがたくて、考えてみると、エラい人もたいへんだよ……と、しみじみ同情します。

 なんであれ、人に対して好き嫌いを言わず、あってもそれを鷹揚(おうよう)に振る舞うことで場を乱さない——というのは、たしかに、必要な「教養」だなーと思いました。
 貴族の姫君ならずとも、そういう考え、ふるまいは、必要ですよね。(--;) ←猛省中

 子息の夕霧の君、女三宮、孫娘たちの教育のこと——理想の人、光源氏は、それぞれについて、なかなか興味深いことを語っています。
 現代人から見ると色魔みたいな光君ですが、でもあれでけっこういいことも言ってんですよ——と、なんだかへんな弁護めいたことを言いつつ、本日はここまで。

 ちなみに。
 私のいちばんの愛読書は「あさきゆめみし」ですが。
 文章で読むなら、与謝野晶子バージョンがいちばんバランスとれていると思ってます。

 谷崎は原文に忠実すぎて意味不明。
 瀬戸内寂聴などは、あれは「訳」というより「翻案」といったほうがよろしいので、原作に近い味わいを求めるとなると不適切。

 ゆえに、原文をわかりやすい現代語にした、与謝野晶子バージョンに親しんで参りました。
(円地文子訳は読んだことがないんですよね…。いちど読んでみようかな)

 先日、与謝野晶子バージョン源氏物語の、kindle 版があるのを見つけて狂喜乱舞してました。(^^)
 もちろん即座に買いました!
 だって50円ですよ! 50円!!
(値下げしたんですね。私が購入したときは95円でした)

 えっ、それでいいの? というくらいのお値段です。

 ありがたい。いい時代になったもんだな〜、とほんわり感動♡

源氏物語 完全版源氏物語 完全版
(2013/05/02)
紫式部

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源氏物語 あさきゆめみし 完全版(1)源氏物語 あさきゆめみし 完全版(1)
(2012/09/28)
大和和紀

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防衛反応



 こちらのツイートを拝見して、人が、精神的に強いショックを受けたときの防衛反応——ショックから立ち直っていく過程にある、「怒り」のことを思い出しました。
 参考文献はこちら。↓

新版 死とどう向き合うか新版 死とどう向き合うか
(2011/09/22)
アルフォンス・デーケン

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 受け容れがたい現実に直面し、精神的なショックを受ける。
 そこからの心理的な変化を追いますと。

 まずは、第一段階の、最初は、心理的なパニック状態。
 あまりにも衝撃が大きいと、「無感覚」になります。
 あんまり衝撃が強くて、かえって現実とは思えない。茫然自失というのはこの状態でしょう。

 そして「否定」。
 こんなことあるはずがない。ウソだ。——という気持ち。

 しかしそれがまごうことなき現実だとわかってくると、今度は不安と恐れでパニックになる。
 震災のとき、その必要もないのに食料だの水だのを買いだめした人々はここにいたんですね。

 ここからは第二段階。
「怒りと恨みつらみ」。
 たとえば天災であればそれは誰のせいでもありません。しかし、とにかく、その受け容れがたい現実を受け入れようとするなかで、怒りという形で感情が動き始める。
 犯罪被害であれば加害者を恨めますが、天災では誰のことも恨めません。そういう場合は神仏を恨んだり、赤の他人を逆恨みすることになります。

 そして、「罪悪感と、無力感」。
 他者へ向いていた怒りが、自分にも向き始めるんですね。
 自分を責める理由というのも、上記怒りに負けず劣らず、なかなか理不尽です。
 
 私の従姉妹が交通事故で死んだとき、その母親である私の伯母は、やっぱりわけわからんことをいって自分を責めていました。自分の心がけが悪いから、みたいな。
 んなアホな、と、聞いている第三者は思いますが、本人は大真面目。

 罪悪感に打ちのめされ、次には自分の無力なことに、脱力していく。無気力になりつつ、怒りと罪悪感を抱えていく。

 第三段階。
 現実がつらいものだったうえに、他人に八つ当たりして人間関係も壊し、自責の念と無力感とにさいなまれるうち、心は、そういうところからの逃亡を図るようになります。
 この時期は、表面上は、落ち着いているように見えるんだそうです。しかし本人の心の中は依然として、回復の途上にある。
 あんまりつらいので、現実逃避したり、無気力になったり。抑うつもあります。

 そうやって落ち込んで苦しんで、——その時期を突き詰めると、やがて、「こんなことをしていてもしょうがないんだな」という、「前向きなあきらめ」の気持ちが、ふっと現れるときがある。

 そこからは——たとえ蝸牛の歩みでも、回復へ向かい始める、ようです。

 第四段階。
 もう笑えない、と思っていたのに、気がつくと笑っている。そういう自分に気がつき、ふと視界が開けるように感じられる。
 そうしているうちに、困難な時期に助けてくれた人、理不尽な怒りをぶつけても黙って耐えてくれていた人がいたこと、そういったことに感謝の思いが出てきたり。
 あるいは、そういうたいへんな困難を乗り越えて、「成長した」自分がいることにも、気がつく。

 こんなふうにして、人の心は再生——成長していく、というお話。

 先の震災でも、あの津波被害を予測できたはずだとして、行政を訴えたものがいくつかあると聞いています。
 しかし——、本当に、ああいう被害は予測可能だっただろうか? と、私はやるせない気持ちになります。

 家族、ことに、我が子を亡くした親御さんの悲嘆、そのショックというのは、察するにあまりあります。とても私には想像もつかないことでしょう。
 衝撃に対する、防衛反応としての、やり場のない怒り——上記に記した、その怒りなのだろう、と思いました。

 しかし、行政にその責任を問えるとは、私には思えません。
 あなたご自身はいかがでしたか。地震の被害——建物の倒壊や、火災のことは思い浮かんでも、あれほどの津波を、——震災以前のあなたご自身は、想定していましたか。

 じつに、理不尽な怒り、訴えだと思います。
 しかし、誰かを恨むことでやっと自分を支えているという気持ちを非難できるものでもない。

 だからといって、本来は責められるべきではない人が「サンドバッグ」状態にされるのを黙認するなんて、できることではありません。

 冤罪を生むひとつの要素として、為末さんは「怒りをぶつけること」の激しさ、理不尽さ、その危険性をとらえていらっしゃいますが、これも、似たようなものかもなあ、と思いました。
 おおきな事件のときというのは、たとえ新聞報道を読むだけという、まるっきり赤の他人でも、ショックは受けるんですよね。

 当事者のそれとは強さは比較にならないにしてもやはりショックを受ける。
 怒り、恨みは、ショックに対応する防衛反応のひとつという意味では、不健全なものでも、不自然なものでもないのですが。

 ただ、感情にひきずられ、そうやって、本来、怒りをぶつけるべきではない対象へ怒りが集中することは、——本人にできなくても、周囲の第三者がとめるべきことでしょう。

 自分の立場をわきまえろ。
 ——とは、私がよく口走ることで、なぜか私は「おのれの分をわきまえない」態度、人間というのを、えっらい勢いで嫌い、怒るのですが。

 やはりこれは、そうやって、本来なら冷静に対処し、冤罪や魔女狩りを防ぐべき「立場」の人までもが、その立場を忘れ、当事者といっしょになって、感情的になり前後不覚に陥ると、こういう——信じがたいほどの冤罪事件を生んだり、社会的な混乱にいたる。そういうことを、深く恐れているからでしょうね。

 こうしてみるとつくづく、世の中、世間様、人間、集団というものを、私は信じていないし、つねに不信の目でながめ、警戒し、怖がっているんだなーと実感しますわ。(^^;)
 私の脳内では、人間というのは、信じがたいほどに愚かで凶暴なケダモノなんですね。
 そりゃ怖いわ;;

 じっさい、冤罪事件なり魔女狩りなりの事態を招いているのは、感情に振り回された大勢の人なんで。
 私は今のところ、私の「人間はケダモノだ」という恐怖感を否定できる材料を見つけられない。

 冤罪であれば警察も検察も裁判所も当然アレなんですが、しかし、いちばんのワルはこの場合、感情に振り回されて冷静さを失い、魔女狩りを作り出した、世間というものではありませんかね。

 自分たちが憎悪をまき散らして冤罪を生み出す「空気」を作り出しておきながら、冤罪とわかると、今度は一転、自分たちの責任を考えるどころか、さっと身を翻して、警察その他の批判を展開する。
 似非正義もいいかげんにしろよ——と。

 私の人間嫌いも最近加速度的に進んでまして、自分でも持て余し気味です。
 どうしたものやら;;

 ちなみに、このショックからの防衛反応、それを利用した精神的なケアについては、医療関係者のみならず、我々、一般市民にも必要な情報、知識だと思います。
 こちら↓の本も、ご参考までに。

危機状況にある患者・家族の危機の分析と看護介入‐事例集―フィンク/コーン/アグィレラ/ムース/家族の危機モデルより危機状況にある患者・家族の危機の分析と看護介入‐事例集―フィンク/コーン/アグィレラ/ムース/家族の危機モデルより
(2011/12)
不明

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伝承

 ひとまずこれは叫んでおきます。
「乙嫁語り」、漫画大賞受賞、おめでとうございます!! \(^o^)/

ついにあのジンクスが破られた。速報!マンガ大賞2014は森薫『乙嫁語り』〜現場から詳細レポ
2014年3月27日 18時40分 エキサイトレビュー
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20140327/E1395910926307.html

      ●

 ふと、うちの母が、不思議そうに申しました。
「そういえば、なんで遺体の顔に布をかけるんだろうねえ?」

 外国ではあの白い布をかけるのって、やらないみたいじゃんね? と。

 そういえばそうだね、と思いました。

 べつに、なければないでいいと思うけど、でも、白い布を顔にかけるのはよく見ますよね。

 習慣だからと言えばそうですが、習慣とはいえ、最初のきっかけはあるはずなんで、やはり、理由なり意味なりはあるでしょうね。

 犯罪心理学で有名なもののひとつに、「(殺人事件で)被害者の顔が見えないように隠していくのは、犯人が、被害者と親しかった、少なくとも知り合いである場合が多い」というのがあります。
 もちろん、まるっきり行きずりの犯行で被害者の顔を隠していることもあるし、犯人は被害者の伴侶だったが顔を隠していないというようなこともありますから、100%ではありませんが。
 それでも、犯人が被害者の顔を見えない状態にしていく割合が高いというのは、自分が手を下したとはいえ、生前とは様子の違ってしまった顔を、見たくないという心理が働くのかもしれませんね。

 これは「FBI心理分析官」で読んだことなので、被害者と知り合いの犯人は被害者の顔を隠す、ということには、彼我の文化の違いはないようです。

 ということで、ちょっと検索してみました。

 こちら↓のブログエントリーにある説明が、わかりやすかったです。

遺体の顔に白布をかける理由
http://blogs.yahoo.co.jp/iiomioku61/19757865.html
ブログ「お葬式を迎える前に読む」様

 葬儀社におつとめだった方のブログです。
 思わずほかのエントリも読みふけってしまいました。

 ともあれ、白い布をかける理由を聞きまして、なるほどなあ、と。
 くわしいことは上記エントリをご覧いただくとして、まあ、布をかける意味としては、「魔除け」。顔面にはあれこれ穴がありますから、そういうところから魔が入り込まないようにという意味。
 あとは、残された人々の精神的なショックを和らげるという意味。
 
 魔除けというのは、たしかにありそうです。
 チベット仏教のほうでは、ポア、という儀式があります。
「ポア」という言葉は、オウム真理教のせいでまるっきり意味が違って世間に流布したことを、私はいまだに根深く怒っているのですが——鳩山由紀夫氏によって「友愛」の意味が変わったようなもんだな——、本来は、人が亡くなったときに執り行われる儀式のうちのひとつです。

 ポア Phowa は、「死後の意識の移し変え」という意味で、亡くなったのに、体になおとどまろうとする霊体を、肉体から引き離すこと。日本の「葬式仏教」でいうところの引導を渡す、というものに該当しましょうか。

 死んだことを認められず、なんとかもう一度生きようとする人間の執着というのはなかなか激しいものがあるようで(『チベットの死者の書』では、霊体となったご本人様が、遺体の周りを泣きながらぐるぐる歩いている、という)、そんなこといってもあんたはもう亡くなったんだから、体から離れなさい、いくべきところへいきなさい、と、説得するんですね。

 で、ご遺体の顔(頭部?)からなんらかの体液が流れ出ると、その人が肉体を離れて旅立ったとする。そういう儀式ですね。
 なるほど、あれも肉体の「穴」を利用していますね。
 逆に、空っぽになった肉体に、よからぬものが侵入するかも、という発想をするというのは、「わかる」気がする。

 うちの父親のときは、自宅に戻ってからは安置した体の、胸のうえに懐剣——守り刀を置いていました。あれも「魔除け」ですよね。
 死がどうこうというよりも、生者から死者へという転換がおきたときは、なにかと存在が不安定で、それを安定させるため、という印象を、私は持ちました。

 布なんですが。
 私はアレを外して拝むというのは、じつはちょっと苦手です。(^^;)

 いまのところ、見るとショックを受けるほどの死に顔には遭遇したことがない。ゆえに、むしろ、生前のとおりに顔を見せてくれていてOKなくらい。
 お通夜の前にお焼香にいったとき、ご遺族から、会ってやってくださいとすすめられて、あの白い布を外すときというのが、なんだか妙に怖いのです。
 お顔を拝見することが怖いんじゃない。布を持ち上げるあの瞬間に、なんともいえない恐怖を感じる。布をとって、お顔を見たときに、だからかえってホッとする。

 あの恐怖は、——「異界」に触れようとするときの恐怖なんだろうか。

 布で隠されていないほうが、むしろこういう「異界」を感じてビビることはないような気がするけどな。

 私が9歳の夏には、父方、母方、双方の祖父が一気に旅立ってしまいましたが、あのときは、自分ではとうとう、布には手をかけられなかった。
 母方の祖母のときは完全に出遅れてしまい(試験真っ最中だったうえ、どんなに急いでも片道3時間かかったので)、顔を見せてもらえる機会を逸したし、父方の祖母は——私から見ればこの人がうちの一族の諸悪の根源なので、「顔も見たくない」からそのようにしましたし。
 考えてみれば身内のときのほうが、白い布をとる、という機会には恵まれていないな。
 父は——そりゃもう、臨終から見てますから、いまさら異界もヘッタクレもなくて、弔問にきてくださった方がご希望であれば、すすんでホイホイ布をとっていました、……んー。あのときは私も片足、異界に突っ込んでいたから抵抗もなかった感じかな。
 
 白い布をとるときに妙な恐怖があり、しかし、布をとってしまうと、いつものお顔なので——多少病みやつれがあったり、顔色は悪かったりしても(まあ顔色のいいご遺体てのはないな)、でも見慣れたお顔ですから、しみじみ、懐かしく拝見できるんですね。
 布がないほうがいいんじゃないかな、と思ったことはあります。(^^;)

 しかし、ふくさ、風呂敷を使い倒し、芸術のいきにある水引があり、過剰包装が問題になるくらい、やたら「包む」ことが好きな民族だし——大切なものにはホコリ除けの布を掛けたがるくらいだから(私もパソコンには布を掛けてます。知り合いには、テレビ、電話、FAX機に布を掛けている人もいました…)、ある意味、亡くなった方への敬意の表し方、という感じもしますね。日本人としては。

 大切なもの、愛着のあるものは、包んだり、ふくさで覆ってみたり。
 ご遺体についてもそうやって、「大事なもの」として布で覆うのかな。そんな気もしてきました。

 昨日は茶碗の形状について考えておりましたが、今日はそんなわけで、葬儀のときの「文化」について考えてみました。

 でも、身近なものって疑問にはなかなか思わないものですね。
 あたしゃ、あの布で覆うのは当たり前だと思い込んでいて、なんで、とも思ったことなかったです。

 身近なものを、あらためて、なんで? という目で見ると——ホントにナゾに満ちてますね。(^^;)

 
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小さいけど重要な

 身近なものほど案外、知らなかったり見過ごしていたりするものですが。
 最近、「茶碗の持ち方」が気になっております。

 テレビでは、各地の名産品が紹介され、スタジオでも試食、などといって、タレントさんたちが召し上がるのはいいんですが——せんだってもご飯茶碗を、どういう持ち方なんだか私にはわからないほど、変わった持ち方をしている方がいました。

 なんだろうあの持ち方、と思って気になっていたら、どうも、茶碗をマトモに持たないひとが、けっこう目に付くんですね。(気になり始めると、さらに気になるようなものが目についてしまう)

 それで思い出したのは、——先日、やむをえずファミレスにいって食事をしたのです。定食をたのんで、ごはんを食べようとしたのです。が。

 ………茶碗に、高台(こうだい)がない。

 なくはないが、ないに等しい。

atukai.gif
美濃焼 陶器の杜」様
 「焼き物の扱い方」より

 高台があることによって、ごはんでも汁物でも、熱いものをいれた器を、手に持つことができるんですよね。
 
 しかし、そのファミレスの茶碗は、外形こそ茶碗だけれども、高台ではない。
 高台というのは、下に出っ張ってりゃいいというもんではないようで、高台自体は、細いですよね——あれなんて言えばいいんでしょうか;;
 そのファミレスの茶碗の底は、形こそ、高台風にでっぱりがあるけど、高台のなかが削られていない。

・「陶芸 ZANMAI.com」様 「高台の付け方、削り方
http://www.tougeizanmai.com/tougeigihou/11school/yunomi/school02-yunomi.htm

 つけるにしろ削りだすにしろ、高台の内側は空間が空いてますよね。あれがないんです。
 茶碗の底に、高台みたいな出っ張りがある、という感じ。

 あの高台内の空間がないだけで、熱がもろに伝わってしまう、ということに、私もちょっと驚きました。

 なんにしろ、ごはん茶碗を手に持てないのには困りました。

 日本のように、器をいちいちとりあげて食事をするほうが、世界的には珍しいマナーなんでしょうが、珍しかろうがマイナーだろうが、それが日本のマナーなんだからしょうがない。
 持ち上げたくても持ち上げられないというのは、私にはなかなか、危機的状況でした。

 茶碗をおいたままごはんを食べるだなんて! ——誰も何も言わないけど、でもアタシ自身がいやなのよ! という、自分で自分が許しがたいくらいに感じる。
 しかたがないから、我慢して、やけどしそうに熱い茶碗を持って食べました;;

 それで思ったのは、「ああいうナンチャッテ茶碗が、いまの世の中にはけっこう出回っているのでは?」ということ。

 あんな茶碗ばかりを使っていれば、自然と、茶碗を姿よく持つということを忘れて、——タレントさんたちみたいな、ヘンな持ち方になっちゃうのでは? と。

 因果関係ははっきりしませんが、ちょっと疑ってます。いま。

 日本においては、器を置きっぱなしで食べるのは「犬食い」などといって、たいへん見苦しい。
 上半身を大きく前へ倒して、器に、口のほうを近づけていくという姿勢は、やはり、なにをどうしたって、美しくはありませんもんね。
 西洋料理では器は持ち上げないのが基本ですが、あれは、フォークやスプーンを使うことで、やはり上半身を倒さない。美しい姿勢で食事をする、ということには、変わりないですもんね。

 お箸の使い方はだいぶよくなりましたが、茶碗の持ち方も——ついでなので、美しい、本来の作法、姿勢を、さりげなく、テレビで見せてもらえるとありがたいと思います。

 世の中、作法だマナーだというと、顔色を変えてなぜか怒りだす人がけっこういるので。(^^;)
 なんであんなに怒るのか、わかりませんけれど、いちいちああいうのを相手にするのも面倒なので、自然と目から入ってきて、身に付くようにしむけられれば、それがいちばんいいなと思います。

 あと、これ完全に余談ですが。
 女性で、髪が長い——いや、あんまり長くない人もそうかな——さきほど申しました「犬食い」になりかかるくらいの姿勢になっちゃうときに、顔の左右から髪がばさっとおちるのを、片手で押さえながらという人がいますね。
 あれ、なんとか、やめてもらいたい。

 美しい御髪(おぐし)なのはわかった。わかったから、食事のときは、かんたんに髪をまとめて、髪がバサバサしないようにしていただけると、見ているほうとしても安心できます。
 はなはだしいときは、かかり落ちた髪の先が、器のなかに入っちゃったのを目撃したこともありまして。
 うわ〜、と思って反射的に目をそらし、「見なかった振り!」で頑張りました(?)が——見た目、姿勢、衛生の各面から、食事のときは髪をまとめていただけるとありがたいです。

 犬食いではなくても、やはり髪がかかってくることはある。
 片手で髪を押さえながらというのも、美しくないのは当たり前としても、本人としても食べにくいでしょう。

 ときどき、長い髪がきれいな女性が、自分が注文したものが運ばれてくると、さっと無造作に髪をまとめ、バタフライクリップでとめてしまう、というのをお見かけします。
 あれはなんとなく、いいですね。(^^)
 髪に隠されていた白いうなじが現れるのを見るのも、そこはかとなく色っぽいし、——髪をかきあげるしぐさというのも不思議にコケティッシュだったりして、「あ、いいな」と思います。

(ただし、あんまり大きな動作でバサバサやらないようにお願いします。そっと小振りなしぐさで。……髪をばさりと動かすと、髪が抜け落ちてくることもあるので、近くの席の方に不快感を与えないよう、どうぞご注意を)

 そうしてすっきりしたところで、姿勢も美しくお食事、というのは、見ていても気持ちのいいものですね。
 
 作法とかマナーとかは、姿勢よくとか、熱いものでやけどをするのをふせぐという現実的な要素もあるし、自分も他人にも気持ちよい空間、時間を提供するという、「思いやり」の意味があるものだと思っております。

 ということで、本来の高台の用をなさない茶碗はやめてもらいたいもんでございますが——なにしろファミレスでしたし、あの器も、メイド・イン・チャイナだったのかなあ? (^^;) 

 
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ネコに叱られる

 昨日は夜からちょいとおでかけ、今朝早々に帰ってきたんですが(駆け足で温泉へいってきました)。
 1晩家を空けたら、ネコのご機嫌がえらいことに……;;

 うちにいるネコのボス格のトラオさん。(赤茶トラ。この春で8歳)
 庭にある縁台(?)のうえで香箱を作り、ウトウトしていたようですが、「あ、トラオさん」と声をかけたら、なんだかものすっごい不機嫌そうな顔をされました。
「お……おはようございます…」
 思わずヘコヘコしてしまいました。
 しばし半眼で睨んできて、のち、ふっと視線をそらしました。

 ネコの世界では、目をマトモに合わせるのは、いわゆるガン付けであり、好意的なものではありません。
 声を掛けると目をつぶったり、視線をちょっとはずすのが「挨拶」なんです。
 ゆえに、トラオさん、ご機嫌最悪……、と。
「どこをほっつき歩いてたんだ」
 という罵声が聞こえてきそうでした。
 ね…ネコに叱られた……ううっ(涙)

 うちの親にその話をしましたら、
「朝帰りした人が、親にぺこぺこ謝ってるみたいだね」
 と言われました。

 自分の親にもそんなことはしたことないですが(基本、朝帰りはしません)、ネコに怒られたとは……。(^^;)
 だから、温泉いってくるね! 留守番たのむね! って言っておいたじゃないのよ〜。
 と思いましたが、ネコには温泉は、わかりませんわねえそりゃ。

 ともあれ、ものすっごい短時間の駆け足温泉行きでしたが、それでもリフレッシュはしましたよ〜。
 やっぱりいいですよね、温泉。

         ●

 私もこちら↓のキャンペーンに署名しておりましたので、どうも……落ち着かない気持ちです。

中国と台湾間の「サービス貿易協定」の撤回を希望します。
http://www.change.org/ja/キャンペーン/台北駐日経済文化代表処-中国と台湾間の-サービス貿易協定-の撤回を希望します?utm_source=supporter_message&utm_medium=email&utm_campaign=supporter_message

台湾、対中貿易協定問題 学生、行政院乱入 総統の対話拒否に反発
2014年3月24日 東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2014032402000115.html

 日経新聞もこのへん、いちおう報じてはいるのですが、どうも緊張感が違う。今回行動を起こした学生さんたちは、「国が乗っ取られる」ことへの非常に強い危機感を持っているのに、たんに間抜けなのかそれともわざとなのか、そういう緊張感と緊張にいたった理由を、まるっと無視した、のんきな記事になっているあたりが、なんだかなー。です。

 なんにしても、こういう重大な取り決めを、国内には内緒でこっそり、まとめてしまうというのは、いかんでしょうねえ…。
 日本も、民主党、野田内閣のときに、こっそり、いわゆる従軍慰安婦の補償をとりまとめようとしていて、ほとんど発効寸前だったと聞いたときは、私ももう、顔面蒼白になりながら怒り狂うという、なかなか複雑な心境に追いやられましたし。

 学生さんの言い分は、私はもっともだと思います。

 いわゆる法に則った、穏便なやりかたではないのは事実ですが、相手が穏便ではない以上、やむを得なかっただろうと、私としては思っております。
 まったく日本も人ごとじゃない。
 同じ理由から、今回のロシアの侵略を、認めるわけにはいかんのですが、——あれってわざとなの? 論点をすりかえまくったご意見をお見かけするたび、こめかみがピリピリしてくる;;

 ブータンや、ミャンマーが、鎖国政策をとってきたのは、小さい国はそれくらいしないと、あっというまに大きい国に蹂躙されてしまうから。
 それが弱肉強食の国際社会というものである以上、「実力行使」は、小さい国にはやむを得ないものなんですよね。
 日本人は——どうもそのあたりが、あまりにも呑気すぎて、危機感がなさすぎる。

 明治政府のやりくちを、私は「好き」ではありませんが、あの弱肉強食の世界のなかで、ほんとうによくやった、という部分だけは認めております。
 あれはひとつの奇跡だったんですよね。——非白人が、近代国家を樹立した、ということは。

 台湾は、外省人をかかえ、国民党をいまだに追い出さずにいるぶんだけ、日本よりもなおさらあやうい状態にある。
 そこを思いますとどうも——署名の協力くらいはしたっていいじゃん、と思ってます。

 それにしても——シナにしろロシアにしろ、金を持たせてはならない連中に、お金を持たせてしまいましたね……。
 ロシアはともかく、シナについては、日本の責任はあまりにも重大だと感じます。……ごめんなさい、こんな国に金を持たせてしまって。これは日本が悪い。なんといっても日本が悪い(涙)
 そういう意味で、私は台湾には——フィリピンにもベトナムにも——引け目を感じてしまいますよ;;
 
 なんにしてもこの問題。
 台湾がその独立を守っていけるように願っております。
(地政学上の問題としても)

 あと。
 どーでもいいことなんですが。

 考えてみると、台湾の馬英九総統を拝見したのはかーなり久しぶりなのですが(選挙以来?)、久しぶりでニュースで見たとき、ちょっとびっくりしました。
 なんか………に、…人相、悪くなってない?;;

 といったら某さんが、
「やつれてるよね。痩せてると思うけど、ただ痩せたんじゃなくて」
 と言ったので、あ、なるほど、そんな感じでもあるな、と思いました。
 顔色も悪いように見えるのですが——、中共からは相当、ヤバい圧力を食らっているのでしょうか? ……と、ついつい、余計なことを考えてしまいました。(^^;)

 
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無観客試合に

 だから「馬鹿はものを言うな」、になるんだよな。
 ——と、Jリーグ初の「無観客試合」を見ながら、思いました。

レッズ Jリーグ初の無観客試合
3月23日 17時20分 NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140323/k10013176171000.html

 言論の自由も表現の自由もそりゃあるけれども、自由というのは放埒、つまり何をしてもいいということではない。
 そのあたりを理解しないのはガキか馬鹿かキチガイだと相場は決まっている。
 今回、ばかな横断幕を掲げた人がそのいずれに該当するかは存じませんが、まあ迷惑なことでしたね——エスパルスとしては。

 ざっと新聞で報じられた、それぞれのチームのサポーターのコメント、感想を読みましたが。
 なぜか、とぱっちりを食らったエスパルスサポのほうが、「人ごとではない」「これを反面教師に」、と、自らを戒める言葉が並んだのに対し、レッズサポのほうからは、「これをきっかけに一番クリーンなチームになって欲しい」と。
 ………ひとごとですね、なぜか。

 クリーンなチームにというけれども、今回の件では選手はべつに何も悪くないんですが?
 
 なんだろうかこの「ひとごと」感。
 クリーンなチームに、って、今回クリーンじゃなかったのは選手、スタッフではなくて、サポーターのほうですよね。

 エスパルスサポが、「俺たちも、だめなときはだめと言おう」と呼びかけていたそうですが。
 ………記者がたまたま、そういうものを浦和では見なかったか、記事にしなかっただけかもしれませんが、
「なんで巻き込まれ事故の被害者のほうが、『反省』してんの?」
 と思いました。

 もっとも、今回のケースでは、横断幕をかかげた人もアレでしょうが、多くのお客さんから、あの横断幕について「通報」をうけていながら対処しなかった、浦和レッズの、運営側の落ち度も、大きいんでしょうね。

 いずれにせよ今回最大の被害者は、やっぱり選手だと思うなあ。
 エスパルス、大前選手の「もう2度とやりたくない」には思わず、ちょっと泣けました。……気の毒すぎる;;

 とはいえ。
 
 あの威圧的なチャントだの、不気味な巨大生物がのたくっているみたいで気持ち悪いおおきな旗だの、ああいうものが嫌いな私としては、「ああ、静かでいいじゃん」と思ったのも事実だったりして。(^^;)

 私の子供のころから高校のころ…、その後プロリーグができるまで、もうずっと、サッカーの試合なんてのは、あんなに大勢さんで威圧的に応援するような雰囲気ではなかったですからねえ……。
 全日本チームの試合ですら、ろくにテレビ中継もなかった(あっても録画とか/笑)時代、いまにして思えば、まあ呑気なものでしたよ。

 私に言わせれば「勝たないなら応援しない」なんてのは、ファンでも何でもないんで、さっさとそういう人々には離れてもらいたいと思っているくらいです。
 私は、肝心のサッカーのレベルはまだまだなのに、こうやって、サポーターの馬鹿さ加減は世界トップ並みという事態にすっかり頭に来て、もうサッカーファンを名乗るのをやめておりますが、ああいうのがなくなってくれれば、また戻れるんだけどな——くらいのことは、頭のすみで考えております。

 いや、これは日本のみならず、あのチャントや旗、へんなふうに組織立った応援スタイルは、やめてもらいたいです。
 家族連れがきて、和やかにサッカー観戦ができる、そういう雰囲気であることを望んでいます。
 サッカーの伝統国あるいは強豪、古豪がああいうことをやっているからといって、あれを真似「しなければならない」法はないはずです。

 伝統があろうがなかろうが、みっともないものはみっともない。
 伝統国だからこそ、やめようにもやめられないのなら、新参者からよい影響を広めていってもいいでしょう。

 2002年のW杯のとき、日本のサポータの応援は、「憎悪なき熱狂で試合を盛り上げた」と賞賛され、日本の球場で試合を行った各国選手たちにもそれなりの感銘を与えていたというのに、もうそろそろ、日本のサポーターもあぶないんだな、と思うにつけ、悲しくなります。
 まだ今のところ、相手チームがボールを持っただけでブーイングするような下卑た真似はしないようですが、しかしこの調子では、それも時間の問題かな……。(←だんだん悲観的に;;)

 こんな馬鹿なカルチャーに染まるくらいなら、日本のサッカーは、昔みたいに「出ると負け」の弱っちい状態に戻ってくれていい——なんどかこのブログでも書いていますが、私は本気です。

 調子がいいときだけ、華やかなものがあるときだけ、すりよってくる人間にろくなやつはいねえんだ。
 そう思うと、昔日の「出ると負け」でも応援していた、本当のサッカー好きだけがいた、あの空気が懐かしいです。

 サポーターであるならば、サポーターであることに誇りがあるならば、選手たちにこんな思いをさせ、あまつさえ差別撲滅宣言などをさせておきながら、「クリーンなチームになって欲しい」などと、自分は無関係みたいなコメントはしないで、自分たちこそが、その宣言をみずから考えて読み上げるようであってもらいたい。
 
 ——理想が高すぎますかね。(^^;)

 
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「軍師 官兵衛」

 大河ドラマ「軍師 官兵衛」ですが。
 大河ドラマっぽくなってきましたね。(^^)

 やはり、1、2月のころは「登場人物紹介」みたいな感じですから、ドラマというほど、それぞれのエピソードに細かく突っ込んでいられない、駆け足、という感じになっちゃう。それはしょうがないんでしょうね。
 個人的には、官兵衛さんのお祖父様のお話が興味深かったです。

 薬売り、というか調剤ができたということですね。ことに目薬を主力商品にして財をなした、ということと、広峰明神との関わりが興味深い。広峰明神の御師(おし)によるネットワークで、地方にいながら情報収集という抜け目のなさ。
「そこのところ、もーちょっと詳しく!」と思いました。
 ドラマの都合上、そこはあっさりめに通過されてしまいましたが(笑)

 日本の、しかし神道——というか、神官と、武家との関わりというのはきわめて近しいものがあるようで、そこのところが興味深いのです。
 そのへん、体系的にまとめて解説した本とか、あったら読みたいな。

 織田信長からして、織田さんちはやはり神官の家系だそうだし、伊達政宗さんの重臣、片倉小十郎も、出身は神官の家だったはず。私のオーナー、伊豆の国、三嶋明神にも、その宮司、伊豆家あての、関ヶ原の戦いのときの働きをほめた家康の感状があります。
 神官、というか、宮司の家から、武士として出陣しているんですね。
(伊豆氏はその後改名し、現在は矢田部さん)

 思い返せば、物部氏も神官であり、武官でした。
 神道は厳密には宗教とは言えないとはいえ、それにしたって、いちおう神様に奉仕する人々が、武士を兼務するというのはちょっと不思議に思えるのですが……。
 
 そういえば。
 侍(さむらい)というのはむしろ、どっちかつーと、意味としては「貴人のおそばにいて、世話をする人」だったために、本来的には武士とは限らず、実務を扱う、いってみれば「技官」のような人のことを言っていたそうです。

 サムライジャパン、とかいう名称を聞くたびに「なんかチガウ……」と感じていたのは、そういうことだったのかな。(^^;)

 サムライというからには、貴人の存在が前提になるんですよね。
 貴人に奉仕している人を侍というのであるから、たとえば宮内庁の職員でもない野球チームに(全日本とはいえ)、侍って言っちゃうかなあ? とは、思います。

 私としては、武士やもののふ、というほうが具体的な名称、もしくは美称だと思っていたのですが、まいどおなじみ、日葡辞書(にっぽじしょ)では、武士やもののふを、ただ「武官」と訳してあるのにたいし、侍は「貴人、または尊敬すべき人」と訳してあるそうです。
 興味深い。

 同じ武官のなかでも、貴人もしくは偉い人に伺候する武士を、とくに区別して尊敬していたのだろうか。その当時は。

 そういう、言葉が持っていたニュアンスって、どうしても失われてしまいますねえ……。
 
 ちなみに。
 私個人は「もののふ」を、漢字ではどう書くのだろうか、あるいは大和言葉に分解できるんだろうか、とか、けっこう長い間疑問だったのですが。
 もののふ、を、「物部」と書いてある昔の文書に遭遇し、「あー! こう書くのか!!」と思わず叫びました。

 そっかー、やっぱり物部氏にルーツがある名称なのか〜。と、しばし、長年の疑問が解けて、ほわーんと感動を味わっておりました。
 長いこと、不思議に思ったり疑問に思っていたことがさっと解けると、感動しません? (^^ゞ

 ………閑話休題。
 官兵衛さんもこれからが苦難の道……と思いますが、考えてみりゃ、この人はホントに死ぬまで苦難の道なんですねえ。それも、官兵衛さんのみならず、当時の人はみんな、多かれ少なかれ、苦難の時代ですね。生き残るということがどれほど過酷だったか。

 個人的には、秀吉役の竹中直人さんが、やっぱりさすが、です。先週なんぞはとうとう主人公を食っちゃって、どっちが主役だかわかんなくなってた(笑) がんばれ官兵衛さん。

 信長様も——こういっては失礼なのですが、私の予想よりもいい感じでいらっしゃいます。心底が見えない、さっきまでまともに会話をしていたかと思うといきなりキレた行動をするという、「うわーこんな上司、絶対、持ちたくねー」とアンバランス、でもそこに妙な魅力があったりする。

 あんなんが上司だなんて絶対ごめんだけど、無責任に見ている分には面白い人。

 昨日はそういうわけで、官兵衛さんはご自分のひとり息子、松寿丸を、人質として信長様に差し出しましたが、そのシーンで、信長様が、
「親子の情か。——わしにはわからぬ」
 と言ったとき、
「ですよね〜」
 と思わずうなずいてしまいました。(^^;)

 私がひそかに楽しみにしているのは「両兵衛」のからみです。
 竹中半兵衛さんが、官兵衛さんを知的にいたぶ……、もとい、軍師として「教育、指導」するのが、なんとも楽しいです。うふふ♡

 いまのところは、師匠という感じでもないですが(単にいたぶ…、もとい、可愛がっているだけ)、しかし、官兵衛さんをいじめているようでいて、しっかりフォローはしている、そっと「救助」の態勢を整えて助けているというあたり。
 ………萌えます

 面と向かっては厳しいことばかりを言いもし、行いもするが(サドかこの人というくらいには)、裏へ回るとじつは情が深く、思いやりを持ち、事情を汲んで動いている、というところが、なんとも心憎い。

 またそういう役に、谷原章介さんがすごくハマってまして、——私としては、谷原さんの魅力が、ぴしゃりと合って生きている役なんじゃないかと思っております。
 ただにやけただけの二枚目ではない、というあたり、合ってるんじゃないかな。

 鬼のように頭が良くて、かつ、「情」もわかっている。そういう頭のよさ。

 信長さんに決定的に足りなかったのは、こういう「情」の部分なんだろうな、と、個人的には思ってます。
 思いやりを持ち、やさしくあれという話ではありません。
 乱世における「君主」には、情というものを「活用」した、人心掌握術が必要だ、というお話です。
(同じことが、そういえばチェーザレ・ボルジアにも言えるなあ…。情を活用することできたのがユリウス・カエサルだとすれば)

 さきほども申しましたが、私は個人的には信長さんタイプの上司はダメです。私なぞは要領が悪いので、瞬殺されます。あんなんが上司だなんて、出奔するわふつー。と思ってます。

 そんなこんなで、「軍師 官兵衛」。
 大河ドラマらしく、走り始めたようです。
 
 
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ディーライフ、見てます




 なるほど。たしかに。

 これは「君主」になっていますが、現代におけるリーダーにも、確実に当てはまりますね〜。
 現代の、しかし「民主主義」におけるリーダーは、「リーダーが望まないときには誰にしたって助言したいと思わせないように」している、というのを、ごく秘密裏に行う必要がある、というあたりが、たいへんなんですよね……。たぶん。



 
 こちらは「個人」レベルにも引き寄せられるお話ですね。
「自ら破滅したいと思うもの」を、天も助けようがない、というのはそのとおりだと思いますが、人間の心理のややこしいところは、自分には自己破壊衝動があるということについて、まったく無自覚でいる人がけっこういる、ということですね。

 自覚があろうがなかろうが、本人、ポジティブなつもりでいようがいまいが、破滅へ進みたがる衝動をもつ人間は、天も助けられない。なるほどなあ、と思います。

 破滅衝動をもつ人間には、ならば救いがないのか、といわれるかもしれませんが、もちろんそんなことはありません。
 破滅衝動を自覚し、これを解消しようと望んだとき。
 わずかですが、でも確実に、救いの芽が現れる。

 自分を救うものは結局は、自分自身。
 天はその手助けをしてくれますが、自分を救う主体はあくまでも、自分自身なんですよね。
 ………なるほど、深い。

 今日もマキアヴェッリbotさんはお元気です。

       ●
 
 地上波、BSデジタルと、これだけ放送局が増えても、やはり見るべきテレビ番組がないというのはどういうこった。
 と思います。(^^;)

 そんなときには過去のビデオを見るか、ひたすらぼーっとするか、ですが、最近では、BSデジタル無料放送の「DLife」を見ることが多いです。

ディーライフ DLife BS 258
http://www.dlife.jp

 私が、見るものもなく、といってパソコンを見るわけにもいかない、寝る前の1時間くらい、という時間帯ですと、おおむね、このチャンネルはアメリカ製のドラマを放送しています。
 一時はあのキムチくさいものにすっかり駆逐された感のありましたアメリカのドラマですが……、やっぱり面白いです。

 CSI、ロスト、ミッシング、BONES。

 コバートアフェアは、他チャンネルで放送していたのを、面白そうだとは思いつつ、なかなかちゃんと見ることができず、ちょっと残念に思っておりました。
 それが、こちら、ディーライフで放送しているし、なんと字幕版を放送していることもあり、ありがたかったです。

 ということで、見逃していたシリーズもおおむね見終えて、ただいまは、「コバートアフェア」もシーズン2。

コバートアフェア シーズン2
http://www.dlife.jp/lineup/drama/covertaffairs_s2/

 昨夜はまた、寝る前のつれづれにチャンネルをあわせたら、「プリティ・リトル・ライアーズ」でした。

プリティ・リトル・ライアーズ シーズン3
http://www.dlife.jp/lineup/drama/prettylittleliars_s3/

 タイトルの印象と、可愛い女の子がごろごろ出てくるので、アメリカングラフィティ的な感じかと思ったらさにあらず。
 けっこうシビアな謎解きものらしくて、そのまま引き込まれてみてしまいました。

 私の特技のひとつと言っていいのかな——ぜんっぜん筋書きがわからないのに、とんでもない途中から見始めても、なぜか「なんとかなる」のです。
 台詞を聞いているうちに、人間関係やドラマの主題がなんとなく脳味噌のなかで組み上がっていく。
「なんとなくわかる」感じで、ふむふむと見ていられるのですね——面白いと思えば。

 これは放送日時がずいぶんばらついていて、毎週何曜日、と決まっているわけではないようです。
 が、たぶん頑張って次回も見ちゃうなきっと。(^^;)

 人間関係のドロドロドラマはうんざりだけど(橋田壽賀子的な、向田邦子的な、倉本聰的な——ああいうの)、とにかく「謎解き」が好きみたいです、私の脳味噌は。
(人間関係ドロドロはいやといいつつ、なぜか山田太一さんのは大丈夫……)
(なにが違うんですかねえ?)

 こうしてみると、さすがにショービズやエンターテインメント大国。
 各ドラマシリーズの脚本は、ある程度のレベルは必ず維持している、というところに感心してます。

 WOWOWで放送するものはほとんど見ないのに、ディーライフのものはけっこう見る、というのは、どういうことか。(^^;)
 WOWOWさんとは、どーも趣味が合わないのかもしれません。やれやれ。けっこうお高いのになー。

 もしよろしければ、ディーライフもどうぞ。視聴方法は以下にございます。

ディーライフ 視聴方法
http://www.dlife.jp/howtowatch/

 私はテレビのチャンネル設定をいじって、スターチャンネルに割り振られていたチャンネル10に、このディーライフを割り当てました。
 
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映し鏡

 理由はなんであれ、子供さんを不慮のことで亡くした母親にたいし、お悔やみを言う前に罵倒するような人間は、「人非人」だと思います。

 まして、その非道を行うのが、やはり子供を持つ親だというところが、私には理解不能です。

(ひどう―だう【非道】(名形動)文ナリ
① 物事の正しい筋道や,人としての道にはずれていること。また,そのようなさまやおこない。「極悪―」「―なおこない」)



 自分に子供があるなら、我が子を亡くすということがどれほどつらいことか、わかるでしょう。
 まして、たとえどうしようもない事故が原因だったとしても、自分を責めてしまう親の心情が、わからないわけがあるまい。
 
 独り身でいる人間ですら、気の毒に思って言葉も見つからない思いがするというのに、他ならぬ、自分も母親である人が、こういう非道を働くのを見るのは、ショックです。悲しいし、憤りを感じます。

       ※
 
 これほど極端に酷い話ではなくても、他人を踏みにじる話し方をする人ってけっこう見かけますね。
 
 よくあるのが、若いお母さんが、やはり育児のことであれこれ悩むのを聞くと、そんなことくらいで、とバカにし、自分はこうやってる、あるいは自分はこうだった、と、なぜか「他人の話を自分の話にすりかえる」人。
 あれじゃあ、せっかく相談しようとしたほうもがっかりしちゃって、2度と話す気にはならないでしょうね。

 ひとごとながら、気の毒だなあ、と思って見ています。

 ああいうふうに、他人の話を、「それくらいならいいよ、アタシなんかさ…」「でもアタシはね」「アタシの(子育ての)ときはね」と、自分の話にすり替える。
 おまけにその話というのが、ちったあ面白い/役立つものならまだいいが、ようは苦労自慢だったり、ただの自慢だったり。
 で、最後には「勝ち誇ったような顔をする」ところにいたってはもう——ねえ。

 もっともこれは女性に限ったことではなく、そうやって、他人の切り出した話題を横からかっさらって、テメエの話題にしてしまう、というのは、男性でもよくあるようです。
 考えるだに鬱陶しい;;

 そういう、「話題をかっさらったあげくに、自慢して勝ち誇る」のを、たとえば「マウンティング」というようですが(厳密にはマウンティングはそれだけではないでしょうが)………あー。うっとーしー。

 どういうわけでしょうか、私はあんまりそういう会話をする人を身近に見ないので。うちの親戚以外では。
(私の親戚、身内って、そのへん、ほんとにサイテーなのが集まってます)
(身近な人間には遠慮がなくなっていくのが人の習性。ということで、私は自分の身内でそういう野郎がいるとぶん殴りたくなります)

 昔の友人でひとり、やはりそうやって、話題をさらっては自分がその場の中心であろうとする人がいました。
 なんでこの人はそうなのかな、とは思ったけれど、どうやら本人は無意識らしいので、黙ってました私も。(^^;)
 
 根は悪い人ではないし、面倒見のいいところもあったんですが、やはり、会話自体がすごく疲れる。
 ということで、べつにケンカした覚えもありませんが、なんとなく疎遠になってしまいました。

 たぶん——私が、そうやっていちいち話題をさらわれるのが鬱陶しいと思ったように、相手もまた——私はそういう場合は話題の展開につきあわないで黙り込んじゃうので(疲れるから返事がおざなりになっていくのです;;)、向こうとしてもツマラナイと思ったんだろうな。(^^;)

       ※

 あと。
 化粧品のCMで、お肌が最近しっとりじゃない? なにか特別なことやってるの? と、友達に聞かれた女性が、内心では、●●という化粧品を使っていて、効果バッチリ! と喜んでいるのに、
「えー、なにもやってないよー」
「うそ〜。教えなさいよ〜」
 という、まことに鬱陶しい会話を繰り広げるものがありました。
(商品名等、記憶にございません)

 女性同士ではああいう会話をやりがちだと、世間では思われているのかもしれませんが。
 私個人は、ああいううっとーしー会話をしたことはありません。

 考えてみますといまだに私なんぞとつきあってくれる友人たちというのは、そういう場合、あえて指摘されない限りは黙っているにしても、「なにかやってる?」と聞かれれば「じつはこういうものを使ってる。いいよこれ!」などと、むしろ身を乗り出して喋りだす。

 これはいいわ! と思うものがあったとき、自分から、これよかったんだよ! すごいよ! と、言いたくなるのは、「いいものは他人にも教えたい」心理ですよね。

 私なぞは身を乗り出しすぎて、「あんたも使ってみなよ」と言いそうになる。
 これはこれで、大きなお世話なんで、感心しませんよね。(^^;)

 そのへんは節度というものでしょう。
 相手が、それはいくらくらいか、どこで手に入るのか、と具体的に聞いてきたら、教えればいいだけのこと。
「これ、いいんだよ」はいいが、「あんたも使いなよ」は余計なお世話。

 であるのに、「○○はいいものだから、誰にも教えたくない」などというのは、ちと鬱陶しい。
 私には、この吝嗇(りんしょく。ケチ)ぶりというのはちょっと想像がつかない心理です。

 私がもしも、こういう、あからさまに、「えーそんなことないよー」などと言われたら、あのCMの友達のように、「え〜、そんなわけないでしょう、教えなさいよ」などとは、食い下がりません。
 なんだ、教えたくないのか、と思って「そう」の一言で引き下がります。
(そしてあとは海の沈黙……)

 そのCMを昨夜も見かけて、ああ鬱陶しい、と思い、
「考えてみるとああいう鬱陶しい会話をする人が(私の友人には)いないんだよね。よかったよ、みんな、むしろ『いいものは教えたい!』というタイプばっかで」
 と言ったらば、例によって一言が鋭いうちの母が、
「そりゃあんた、それこそ『類友』でしょ」
 
 類は友を呼ぶ。………ふむ。

 そういえば、先日ご紹介しました、「メンタリストDaiGoのパーソナリティチェック」では、私は「不思議ちゃん少女」という結果になりましたが、その診断のなかに、

「あなたは男性からも女性からも、かなり個性的で風変わりな印象を持たれるでしょう。
 そのため、女性ならではのしがらみやいざこざとは無縁の生活を送ることができるでしょう」


 というのがありました。ぱっと見たとき、あ、これは当たってる、と思いました。

 あれこれ女性の悪口を聞かされますと、えーそんな女ほんとにいるの? と言いたいくらい、そういう「一般的に思われている女性像」とは、無縁にすごしてきました。そこは自覚してます。

 ちなみに、なるほどそんな女にひっかかると悲惨だよねという殿御の話も再三ならず聞いておりますが、しかし、あまりにもそんな話ばっかり聞かされると、
「だめんずウォーカーな女がいるのと同様で、あんたにもなにか、不心得があるんじゃないの」
 と言いたくなります。(^^;)

 1度2度ならしょうがないが、そんな女と「しか」縁がないというのなら、いちど、自分の異性への態度や心理状態を振り返ってみたほうがいいんでないの、と。
 ま、大きなお世話なんですけど。

 なんせ、私はそういう女とは無縁で過ごしてきちゃったから、なおさらそう思うんですよね。

 結局、他人は自分自身の映し鏡、ということかもしれません。

 いずれにせよ、鬱陶しい思いをさせずにいてくれる、友人たちにあらためて感謝、です。

 
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「真の保守とは……」(6)

 本日は春分の日。高校野球も開幕し、明るい日差しが嬉しいですね。(^^)

 お彼岸のお中日ですが、皆様、お墓参りにはいらっしゃいましたでしょうか。
 私は今日は午後(というか夜)野暮用で出かけなければならないので、体力温存で家におります……が、墓参りに出かけた母の分まで家事をしているので、あんまり休みにもなってないような;;

      ●

 もう次で終わるから、と思い、かえってつい延び延びになっていた、ジュゼッペ・プレッツォリーニさん「真の保守とは」、参ります。
 全34項目ありますから、もうちょっとですね。今日は30項目目までまいります。

「真の保守とは……」(1)
「真の保守とは……」(2)
「真の保守とは……」(3)
「真の保守とは……」(4)
「真の保守とは……」(5)

28。
真の保守は、国家を愛する気持ちも義務の観念も、そして、人間的なるものへの尊重の気持ちも、少数の者のみが持つ「徳」でしかないことを理解している。



 それは愛国心なり自尊心なり、自尊心から発生する「真の」他者への思いやり、というのは、身に備えるべき教養、あるいは徳目ではありますが、無理矢理に他人に押し付けるものではない。
 
 聞くところによればオバマ米大統領は、日本共産党とは気が合うだろうな、というくらいの勢いで、その愛国心というものを表現すること、表現する人をたいへん嫌うのだそうですが(あくまで伝聞です。本当にそうかどうかは存じません)、それも考えてみりゃおかしな話です。

 愛国心は愛郷心とも、家族愛とも共通する心情であり、ごく自然に持っているのが当たり前。
 ただ、その当たり前の心情や「教養」「徳目」を、目的にはできないし、するもんでもない。そういうことだと思います。

 心の底にそっと納めている愛情、敬意、というものを、しかし声高に、外に向かって言わなければならないときというのは、ようはそういうものを踏みにじる誰かが外部に現れたとき。
 用もないのにひけらかすものではないし、それを目的物にしたり、まして政治に利用するようなものではないが、ただ、自分や家族の安全を脅かし、尊厳を傷つけるものが現れたときにはどうしても、そういう、愛情も尊厳も、主張しなければならなくなります。

 そういう「非常事態」にさらされながら、ざっと半世紀も耐えてきた日本人が、ここらでキレるのは、私は当たり前だと思いますね。
 
 ついでにいうと。
 そういう、愛国心を嫌う人は、国際人だのコスモポリタンだのというのを理想に挙げますが、私のとぼしい経験では、「国際化する」ということは、「なおいっそう、日本人になる」ということでしたよ。
 外国へ出て行って、揉まれた人々が——イチロー選手でも、近いところでは羽生選手でも——、にわかに、と見えるほど、日本という国、日本人である自分というものを自覚し、強く表現するようになるのは、そういうことでしょう。

 外国人とやりあうとき、「お前は何者か」ということがいつも問われるのです。ときにはそれを踏みにじられるという形で、突きつけられる。
 自分が何者か。
 それを見つけ、それを自分が心底ではどれほど愛しているか、また、それがどれほど自分を支えているのかを自覚したとき、むしろそのときのほうが、外国人という人々を「尊重」するとはどういうことかが、わかるんですよ。
 
 コスモポリタンは存在しない。
 多国籍の人々と交わるときには、「自分が何者か」を確立することがなによりも大事になる。

 私はそういうことで、自尊心、愛国心、愛郷心、というものは誰でも身に備えるべきもの、と思います。
 それを政治利用するのは阿呆のすることだし、自分のものであれ他人のものであれ、誰かの愛国心や尊厳を踏みにじるのは、大阿呆だと断じます。

29。
保守主義者は、少数の者による支配も多数による支配も、いずれも多少の疑惑なしには眺めることができない。


 ああ。これは、そうですね〜。(^^;)
 そういえば、ネットのご意見では、ただいまのロシアのありようを「民主的」と抜かしたコメントをみてしまって、もう心臓が止まるかと思いました。あまりにも愚かで。
 なるほど、あれが民主的なら、北朝鮮の正式国号にも不思議はないわけだ! 「朝鮮民主主義人民共和国」!
 ………こういうことを言っちゃうのって……いったいどこに目ん玉つけてんだ。

 じっさい、政体の問題じゃないんだよなあ、と思います。
 マキャベリもいってますが、極端な話、善政さえしいてくれるんだったらべつに、独裁政治だってかまわないわけですよ。庶民としてはね。
 ただ、独裁やそれに近い政体の場合はやはり土台から腐食しやすい。
 少数が執行すると腐敗しやすいから、大勢でやって、腐敗するまえに、なんとか病巣があれば早めに見つけられるような「システム」にしようね、というだけのことで。

 政体が問題じゃない。どの政体が優れているかという議論は成立しない。

 私も最近じゃすっかり大衆のバカさ加減に愛想が尽きて、バカが千人いるよりも、ペリクレスがひとりいるほうが、よほどいい世の中になるわ、と思うようになりました。

30。
 有権者一人一人は、自分の町や村の政治には、だいたいからして相当に直接な判断を下せる。なぜなら、この場合、近い視点からの分析だけで充分だからだ。
 しかし都道府県の規模になると、「一市民の視点」だけでは、もはや充分とは言えなくなる。
 ましてや国家の政治となれば、完全にお手上げなはずだが、ふつう、一般の人々はそれを認めようとはしない。
 彼らは、一市町村を眺め判断するのと同じ視点で、しばしば、国の外交まで一刀両断してしまう。

 政治のプロとは、一市民の視点と統治者の視点の双方を持ち、それらをケース・バイ・ケースでバランスを保ちながら使いこなせる人を言う。真の保守主義者は、国家の政治外交を、このようなプロに任せるべきだと信じている。

 しかし、これと考えをともにしない人々がいつの世にも存在したのも、いや数では多く存在したのも事実である。
 ゆえに真の保守主義者は、普通選挙制度に疑いをいだきつづけている。



 民主主義の厳しいところは——これもなんどか言っていますが——どがつく素人の超・庶民が、高度に政治的な判断ができる、あるいは、聞けばその判断を理解しうる能力があることが、その制度の大前提にあること。

 つまり、政治というのは本来は、素人があれこれ口を出すべきものではなく、庶民に理解できるようなものではないのだが、その素人が主権者となっている民主主義の場合、庶民こそがその政治判断に優れている、あるいは、なにが優れた判断かを理解できる人々でなければならない。

 庶民の知的レベルがある一定以上を確保しないと、民主主義はまともに機能しないということです。
 民主主義を目指すと言いつつ、ずぇーんずぇん、もうお話にならないレベルにある国というのが、誰でもすぐに思い浮かぶでしょう。

 日本もまあ、それほど上手に切り盛りしている国とも言いがたいけど、「アラブの春」でしっちゃかめっちゃかになっている地域よりはマシ。その程度だけど。

 その「政治の素人」として言わせてもらうと、少なくとも我が母国の場合、正しい意味での玄人というものが、なかなか存在しない。
 山本太郎氏が国会議員をやっている。共産党がいる。社民党がいる。民主党がいる。
 ………あれじゃあ、もう、しろうとより悪いじゃありませんか。

 政治家が三流なのは、結局は、有権者が三流(以下)である証拠なんですよね。
 
 自分でも意外に思うほど、私はどうも、「身の程知らず」にはたいそう厳しいようなんですが、まさしく——今の世の中は、日本の有権者は「身の程知らず」ばかりということになる。私の「世間様」への強烈な不信感も、むべなるかな、というところでしょうね。

 わからないことは正直にわからない、といって、黙って聞く。黙って(わかるようになるまで)待つ。
 せめてそれくらいの謙虚さがあれば——、もうちょっと、プレッツォリーニさんにもお心安く思ってもらえる国になるのではないでしょうか。

 私はただいま、だいぶヤケクソでございまして、ペリクレスさんでも聖徳太子でもいいからあの世から召還して、頭のいい人にぜんぶお任せにしたいわ〜、などと、しょーもない妄想に逃避しております。

 
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現実不耐性

 小松左京さんの自叙伝、「やぶれかぶれ青春記」を、引っ張りだしてみました。

 あのエピソードって、「やぶれかぶれ…」じゃなかったかな、と、探し物のために読み始めたんですが、目的のものは見つからず、べつの箇所が目に入って、うーん、と唸りました。

 他人から殴られた経験がないやつほど、際限がないまでに凶暴になる。というお話。

 昭和20年、1945年の終戦。小松左京さんはこのとき14歳で、旧制中学の——えーと、3年生? かな?
 全身の神経がむき出しになっているようなお年頃ですね。じつに、あの時代の、14歳の少年の視点で語られる「庶民の生活」の生々しさが、たいへん貴重な本だと思っているのですが、ともあれ。

 敗戦後、「学校」の大激変。まだ19歳だったというアメリカ人将校(少尉)との「論戦」。
 その少尉さんはアメリカCIE(Civil Information and Education 民間情報教育局)の所属だったそうで、彼の語ったという「民主」「自治」とくに、学校における「生徒自治」のお話はなかなか興味深い。
 最初の日本占領軍として送られてきたアメリカさんは、きわめてお行儀のいい、いわばエリート層がとくに選ばれて送り込まれたという話は聞いていますが、じっさいにはどのようにエリートだったのかは、この、当時わずか19歳だったという少尉さんのいうことを聞いていても、なるほどね、と思えて、面白いです。

 そういう具合で、軍国主義がっちがちの学校が、しだいに「民主化」してゆく過程が語られるのは興味深いのですが、私がうーん、とうなったのは「暴力」のくだり。

 戦時中の学校というものが、教師が暴力団まがい、生徒同士でも上級生下級生のあいだでの日常的なリンチの凄惨さというのは有名でしょうが、終戦後は、それもアメリカさんの「教育」のおかげもあって、解消された、はずでした。

「私たちの一年下の連中はおとなしかったが、二年下、つまり当時の三年生はむちゃくちゃな、いまでいう「ゲバルト()」をふるいはじめた。終戦のとき一年生で、上級生に「いじめられる」といっても、四月に入学して八月終戦で期間はわずか四ヶ月、しかも三年以上は工場動員で学校に行かなかったのだから、彼らはほとんどといってもいいくらい、暴力をふるわれた経験がないはずだった。その連中が、一番猛烈に暴力をふるい始めたのだから、われわれとしてはあっけにとられた。」

「暴力を我が身にうけた経験のないやつのほうが、ひどい暴力をふるう——これは、あとあと何回も経験したことだった。」

「戦後の最もおおきなよろこびは、とにかく暴力をふるったり、ふるわれたりする必要がなくなった、ということだった。
 だが、その連中は、ただ面白がって手かげんもわからぬ暴力をふるった。」
ゲバルト——ドイツ語;Gewalt。実力闘争。主に学生運動で,権力に対する実力闘争をいう。力。暴力。ゲバ。)



 アメリカは民主党政権のときのほうが圧倒的に戦争を起こしている、ということは以前にも書きましたが、今回もまたそんな感じです。
 私としてもほとんど記憶にはないはずの、ソ連によるアフガン侵攻がフラッシュバックするようで、最近どうにも、気分が悪くてしょーがないんですよね。
 
 アメリカが無能な大統領のおかげで無力になり、ソ連にバカにされるところはもう、フラッシュバックか、あたしがタイムスリップしてんのか? といいたくなるほど「いつか見た光景」でキモチワルイ。

 しかし。
 皆様ご承知のとおり、民主党はそのポリシーは「リベラル」であり、平和主義であり、戦争反対であり、てことはおそらくは暴力否定のはずなんです。が。
 むしろ共和党政権のときよりも民主党政権時のほうが、戦争ばっかりやってやがるということになるのは、なぜか。

 暴力否定はけっこうだが、バカバカしい理想をふりかざす結果として、暴力に満ちた現実には対応できなくなるからだろう——と思いました。

 国のなかであれば「悪法でも法である」(by ソクラテス)ということで、ある程度の秩序が国家権力によって維持されますが、国際社会というものは、全体を統治する権力も権威も存在しない。いってみれば「無政府状態」なんですよね。
 法や秩序が存在しないということは、「実力主義」の社会だということ。——実力とは、「暴力」とほぼ同義です。
 国際社会は、その「実力」の、ギリギリのところでバランスしている。
 そこには正義もヘッタクレもない。せめぎあう実力があるだけ。

 好きか嫌いか、いいか悪いかではない。
 現実はそういうものだ、ということにたいし、好きとか嫌いとかいってもしょうがない。

 しかし現実離れした理想主義の人々は、その現実を否定する。
 その否定がただ言葉の遊びのレベルだったらいいんですが、左巻きの悲しいところは、いわば、「虚実の区別ができない」ところにある。
 理想は理想でけっこうだが、目の前の現実はそれとはまるっきり次元が異なるということを理解しない。

 現実の世界なのに、魔法の杖をマジで探しているキチガイです。はっきり言いますと。

 おとぎ話の世界で遊んでいる子供に、この暴力に満ちた世界の諸問題に、対応できるわけがない。

 結果、理想主義はその国力を削ぎ、「実力」をも自ら嫌悪して損ない——それが世界のパワーバランスを乱して、結果的に戦争という現実を引き寄せる。
 
 ものすごい矛盾のようでもありますが、現実というのはそういうものなんだからしょうがない。

 私はもとより正義なんてものはたいして信じていませんが、暴力に満ちた現実世界には、ハナッから正義はない、ということを、いいかげん、人類は肝に銘じるべきじゃないんでしょうかね。

 現実を否定し、現実に対応できない理想主義者は、そんなに現実がイヤだったら芸術家になるか、修道院でおとなしくキヨラカなお祈りをしていればいい、と思いますが。
 ………どういうわけなんでしょうかね、理想主義者って、「十字軍」的な使命感に燃えちゃったりするんですよねー。そういうところが理想じゃなくて「妄想」だっつーんだよ。

 なんてことを、思わず考えてしまい、「暴力をふるわれたことがないやつほど、際限のない暴力を振るう」という記述から、「反戦主義者が戦争を誘発する」という皮肉な現実を思い起こして、うーん。と唸っておりました。

 現実への対応力がない、ということでは、私も自信があるのですが(……そういうのは自信て言わないな;;)、そういう人間でも、現実のようすというのは見えているものを、なぜ、あのへんの人たちには見えないんだろうか、——という疑問。
 私もいいかげん、そのへんはあきらめるべきでしょうか;;

 ああいう、「戦争を引き起こす反戦主義者がいる」というのも、まごうことなき「現実」ですもんねえ……。

 
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春の香り

 アクセスログを見ておりましたら、パトレイバー劇場版で引用された、聖書の一節、あの意味を検索しておいでになったお方があったようなので、ま、私の自己流ですが、現代語訳を付け加えてみました。
2013年09月26日エントリ「願い下げ」

 ……現代語訳というほど、言葉に大きな差異があるとは思えないのですが……。うーん。「通じることを得ざらしめん」あたりがややこしいのかな?

      ●

 今年の冬は、寒いと言えば寒いのですが、暖かい日はバカみたいに暖かくて、その寒暖差でいささか体力が削られている気がします。
 毎年、この花粉症の季節は何かと体調を崩しやすいので、ま、いつものことといえばいつものことですけども。

 また最近、お葬式が多くて。(--;)
 じっさい、葬式って、真夏と真冬はあんまり多くなくて、その暑さや寒さがゆるんでくる、秋や春に、多くなりますよね。
 近所のセレモニーホールが忙しくなると、「ああ、秋/春なんだな…」と思うのは、私くらいなもんでしょうか;; へんなところで季節感が;;

 そんなわけで、こうも冷たい風に吹かれると、日差しは強くてもまだまだ、春は遠いなあという気持ちになります。
 が、ふと足下を見ますと、みずみずしい若い芽が——いわゆる「雑草」ではありますが、でも、そういう緑を見つけて、ああ春はちゃんときてるな、と感動します。
 庭ではけっこう花も咲いているのですが、こういう、庭のすみ、植木鉢の下、コンクリートの割れ目に、おもわず天ぷらにしたくなるような柔らかそうな緑を見つけたときのほうがはっとしますね。(^^)

 沈丁花もよく咲いていて、爽やかな、いい香りがします。

 梅の香り、沈丁花、梔子(くちなし)——こういう、自然の香りを聞いていると(香りは、嗅ぐ、という以外に、聞く、とも申します)(聞香ってありますでしょ)、室内香や香水にできないかな、と思うんですが——できないんですよねえ。
 これは生きている花が放つもの。生きているからこその香り。
 花を乾燥させてポプリ、はできたとしても、それはポプリの香りであって、こういう、大気中に流れてくる「生きているものの匂い」とは、すでに違いますもんね。

 まして、化学的に合成するものというのは、ぜんぜん、だな〜。(^^;)
 
 決して自分のものにはできない、花の時期が終わればそれっきり——という、こういう、「命そのものの匂い」に、いっとき出会うだけ、というそのはかなさ、同時性、……そういうところにまた、価値があるんだろうな、と、ぼーっと考えております。
 こういう「春」を見たり、香りを感じたりすると思い出すのが、島崎藤村「小諸なる古城のほとり」。

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず
若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ)
日に溶けて淡雪流る



 淡雪はないのですが、「緑なすはこべは萌えず」「若草も藉くによしなし」は、この可愛い若草をみるたびに、口をついて出ます。(^^)
 雑草ではありながら、うっかり踏まないようにそっと足を運ぶようにしてしまいます。自然と。

 いちおう、もう昨日から春のお彼岸に入っているのですが。
 ——春が待ち遠しいですねえ。

 ひとまず、お彼岸用のぼたもち。美味しくいただいております。(←何はなくとも食べること)

        ●

 なんだか今日は妙におとなしいことになっておりますが、ちょっと疲れ気味でおりまして…。
 それより何より、今日は日経新聞の「春秋」と意見が同じになっちゃったんだよー!!
 どーしよう!! 春秋子と同じ意見になるだなんて!!

クリミアのロシア編入は容認できない
2014/3/18付 日本経済新聞朝刊「春秋」
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO68450420Y4A310C1EA1000/

 まるっきり対岸の火事と思いこみ、高みの見物をしていると「錯覚」し、プーチン支持、などといっている人よりはそれでもまだ、春秋子にはまともな理性があったということなのか、それとも、異動の春ですから、春秋子も担当が変わったんでしょうか?

 今朝は本気で軽くパニクりました。
 またどんなバカをいうか、笑ってやろうと思って読み始めるのが習慣になっているので;;
(そういう態度もどうなのか……)

 
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