そのとき何が起きているのか?
2013年08月31日 (土) | 編集 |
 もう何週か以前になると思いますが、「怒り新党」で、「勘違いしたカメラ小僧」のお題がありました。

 投稿によれば、投稿者が、なにかの展示会だったのでしょうか、きれいなあめ細工を見ていると、背後にいた(背後にきた?)男性が、ケータイ片手に「写真とってんですけど」と、不愉快そうに言ってきたんだそうで。
 写真とってる。ああそう。
 といって、そのまま細工を拝見していればいいのですが、なかなか、そういう神経は持ち合わせないもんですよね。(^^;)

 それにしてもすごいね。撮影OKの展示会であれば私も写真を撮らせてもらうこともあるけれども、ほかのお客さんを、
「俺が写真とってんだからおまえ、どけ」
 などといって蹴散らすという発想は、ございません。

 さいわい、いまのところ、そういうことを言われた経験もありません。

 ということで、「なにそれ。そんなヤツいんの?」と思ったんですけど、考えてみたら、あれですか、迷惑行為どころか犯罪を犯すこともあって、いまやすっかり鼻つまみもの、あれをみたら犯罪者だと思えというくらいに嫌われている、「撮り鉄」って、こういうことなんでしょうね?
 
 列車の写真を撮るのに邪魔だからといって勝手に木を切り倒すという話を聞いたときは、私も思わず呪いを掛けそうになりましたが。(あぶないあぶない)

 写真を撮るというのは、そんなにえらそうにできる権利を、なんら与えるものではないのに、なんでこんな勘違い野郎がごろごろ出てくるのでしょうかねえ?

 撮り鉄といえばもはや犯罪者くらいに思っていますが、そうはいっても世の中には常識をわきまえた撮り鉄もいるだろうし、そういう人は、さぞかしつらい思いをなさっているだろうと思います。
 自分と同類とされる人々の、「ふざけんなこの野郎」といいたくなる話を聞くと、切ないですよね〜。腹も立つし、被害者には(自分は無関係であるにもかかわらず)ほんとうに申し訳ない気持ちになるし、だからって、無実の自分までが犯罪者扱いされることとは、戦わなければならないし。

 写真、または動画を撮る、というときの心理。あれは、いったいなにごとなんでしょうか。
 白昼、町中でおきた通り魔——無差別殺人事件のときも、私が、吐き気がするほど嫌悪したのは、犯人にたいしてよりも、あの惨状を目の当たりにしながら、被害者の救助に手もかさず、無表情のまま、あの光景にカメラを向けていた大勢の人々に対してでした。

 狂ってる、と思いました。

 後日、あのときカメラを向けていた人々から遠回しにいいわけが出たりとか、テレビのコメンテーターが遠慮がちに擁護したりとかありましたが、とうてい、まともに聞けるものではありませんでしたねえ。

 私にはわかりません。

 目の前で血を流して倒れている人がいるのに、その人にカメラを向ける。

 それはいったい、なんのためですか。
 その惨状を画像なり動画なりにおさめてどうするんですか。
 あとでゆっくり見て楽しむのですか。
 うわーあんなに血が出ちゃってるよといって、けらけら笑うのですか。

 そうではない、というのなら、なんのためですか。
  
 目の前にけが人がいるのに、思わず駆け寄るということがない。とっさに救助しようという気持ちが働かない、というのは、私には、もはや人間とは思えません。

 撮り鉄もそうでしょうね。

 あのカメラのフレームを向けようと思ったとき、人の心にはなにが起きているんでしょうか。

 ブログ、Twitterでも、レストランなどの料理の写真をアップするのが当たり前のように思われている現状ですが。
 私も最初は——というのは、PCモニターに映すくらいなら耐えられる程度の画像がケータイで撮れるようになった、その最初のうちは——、何回か、やりましたが、結局いまは、やりません。

 あれ——なにか、心理的に抵抗があるんですよ。

 お店の人に、「私はブログをやっておりまして、こちらのお料理を写真で紹介したいのですが、撮影してもよろしいでしょうか」と尋ね、OKをもらってからなら、なんの抵抗もない。

 が。注文したものが運ばれてきて、箸をつける前に、写真写真、といって、カメラを取り出すとき。
 なんともいえない抵抗感と、「後ろめたさ」が出てくるんですよね。
 お店の人に見られないようにこっそり撮影することになって、なぜか、このこと自体を——そういうことをする自分自身を、不愉快に感じるのです。

 うーん、なんなんでしょうかねあの感覚。

 ならばお店の人に許可をもらえばということで——もちろん、OKはたいていのところでは出してくれますが、お店の人は忙しく走り回っているのに、そこでまたそういう手間をとらせることになって、これはこれで、申し訳なさが倍増。

 てなわけで、「おいしかった〜」のひとことで、済ませることがほとんどになりました最近。(^^;)
 最近ではお店もたいていは、HPがあるので、そちらを紹介しておくことがほとんどですね。
(お店のHPを見れば、美味しそうな写真が掲載されているので。見る人にとっても、私の素人写真よりも、よほどいいだろうと思うし)

 写真を撮るということは——どういう「意味」をもたらすものなんでしょう?

 緊急事態に人命救助もしないで突っ立っているということ事態が非常識だし、「人非人」の証明になるから論外としても。
(いま辞書を見たら、人非人なんかまだいいほうで、「人皮畜生(にんぴちくしょう)」という言葉があることを知った……。強烈だなこれ……)

 べつに大した写真が撮れるわけでもないのに、ひとさまに「どけ」と命令させ、犯罪を起こさせ、そのことを恥じる気持ちにもさせない、「撮影」という行為の不可思議さ。

 そうではない人間にとっては、「ひとのものを無許可で撮影する」ことへの、けっこうな罪悪感と、後ろめたさが引き起こされること。

 結局、潜在意識では、撮影というものを、どう認識してるんですかねえ。
 ある人はそれを特権だと信じるし、ある人はそれは「基本的には迷惑行為」だと認識する。

 ある種の人は迷惑をかけてもいいのだと思い、べつのある種の人は、これは迷惑行為だからと遠慮がちになる。

 撮影って迷惑行為なのか? となりますが。
 ——うーん。迷惑かもしれませんねえ。
 どっちにしろ、他人のテリトリーを侵す行為ではあるので。

 ではなぜそれが、テリトリーを侵すことになるのか。

 ここについては現在、考え中です。(^^;)

 こうして書いてきて、いま、私も自分で気がついたのは、
「私は、レストランなどで出された料理は、——たとえ私がお金を払って飲食するのであっても——その料理自体はお店のものである、私のものではない、と認識している」
 ということでした。
 これは自分で自分を発見。
 そんなふうに解釈してたのか私。


 ちなみに。
 私も観光地などで、順路を通っているときに、途中で記念撮影をしている人たちがいることに気がつくと、ちょっと立ち止まって待つか、あるいはカメラの邪魔をしないように遠回りします。
 あんまり人が多くて混んでいるときは気がつけないこともありますし、気がついてもどうにもならん(汗)というときもありますが、極力、そのようにします。

 逆に、自分が撮影するときのちょっとした工夫としては、何かの建物と同行者との写真を撮りたいときは、人物は、カメラに近いところ(つまり手前)に立ってもらって、撮影します。

 いまのカメラは賢いですからね〜。オートにしておけばだいたい間違いないですが、「風景」設定にしておくと、手前にいる人間は人間として認識しつつ、遠景になる、目的の建物もちゃんときれいに写します。

 建物と人を並べてしまうと、出来上がった写真では人物が小さくなりますが、人物が手前にいて、バストアップくらいで撮影すると、撮りたいものが両方撮れて、いい感じですよ。
 で、わざと逆光にして、フラッシュをたくと、人物には明るい光があたって、お肌の感じや髪の感じも、きれいにとれますので♡

 カメラと人物との距離が短いほうが、他の人がうっかり写っちゃった、ということも少なくなりますし。
 オススメです。(^^)

 
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空間認識
2013年08月30日 (金) | 編集 |
 これはどう考えればいいのかなー……。
 どうもいろいろ、迷うというか、考え込んでしまいます。

2ちゃん「流出」で会社をクビに!? チョン帰れとか創価叩き 書き込み暴露で「人生終わった」、怯えと悲鳴が拡散中
2013年08月29日19時01分 J-CASTニュース
http://news.livedoor.com/article/detail/8016480/

 そういえば数日前に、2ちゃんが攻撃を受けたということはうっすら聞いていました。
 個人情報が漏れたということも聞きましたが、まさかこれほど詳細なものが漏洩したとは。

 というのは、ようは無記名書き込みの掲示板のことなので、個人情報とはいっても限られたものだろうと思っていたんですよね。
 有料会員のようなものがあったことも存じませんでした。

 私が本格的にネットを自分でも触るようになったのは、2001年の後半くらいから。
 免疫もなしにいきなりネットの掲示板を見た私は、そのまま心臓発作を起こしそうなくらい、目の前に並んだ人の悪意に驚き、便所の落書きといわれるのも道理とも思い、激しく嫌悪するようになりまして。

 2ちゃんははっきり「嫌い」なものであり、その後、結局この現象は2ちゃん限定のものではなく、ほぼすべてのコメント欄が同じことだと気がついて、とにかく、コメント欄だの掲示板だのは、極力見ないという方針できましたので、2ちゃんの詳細は存じませんのです。

 ということで、2ちゃんのヘビーユーザー(というのだろうかこの場合)には、同情する気持ちもいまいち、さっと出てこないで、なんかこう、ためらいながらの同情になるのですが。
 それでも同情するのかと言われますと。
 ………まあ、しますよそれは。

 炎上なり荒しなり、あるいはもっと現実的に実害のある「さらし」なり、それぞれの行為を認める気はありませんが、——しょうがないじゃありませんか、「基本的人権」はあるんですから。

 なかには、自分が勤務する企業の悪口を書き込んでいたのがバレたというのもあるようですが、これは——どうなんでしょうね。どの程度の悪口かにもよると思いますが…、でも、たいていの人は、その手の愚痴、悪口は、どこかで言った記憶はあるものでしょう。

 つまりその悪口も、個人的に、周囲の人に愚痴るとか、「恨み日記」みたいなノートに書き込んでいる分には、なんの問題もないことなんですよね。

 しかし、ネットという公共空間に書き込むことで、企業としては、自社のイメージが損なわれて「実害」があった、もしくはその可能性がきわめて濃厚とあれば、無視できることでもない。

 書き込んだほうは、匿名であるということを、ある意味「信頼」して、書き込んでいるんですね。
 書き込んだ人は、「個人的な愚痴」を、ノートに書き込むのと同じくらいの感覚であったとも、予想されます。

 ネット空間というのは、なぜか、「密室」だと思われることが多いようですが(私が個人的にいちばん驚くのは、麻薬などの違法なものの売買をネットで行うことです。………これ、街角で直接、金品受け渡すよりも、ばっちり証拠が残るわけですよ。………違法な取引の詳細メモを、大通りの看板に貼って人目にさらすのと同じことなのに、なにを考えてんですかね?)、じつのところ、パソコンなりで書き込んでいる場所は密室かもしれないけれども、ネット上というのはものすごい広大な「公共空間」、おおやけの場所なんですよね。

 おそらく近代法の社会において認められるのは「内心の自由」であって、公共の場所での違法行為まで許しているわけではない。

 内心の自由を表明できるのは、しかし、どこまでなのか、ってことなんですかねえこれ……。

 会社の悪口を、家族や友人にいったり、日記に付けていたりするくらいなら、誰も何も言わない。
 けれども、会社の悪口を言っているのを重役に聞かれたら——本人にはそんなつもりはなくても、……たとえばカフェで休憩中に同僚とちょっとそんな話をしていたら、じつは隣に上司がいたとか、……これは……おおっぴらには処分されなくても、ちょっと気まずいし、個人的に上司からしかられたりするかもしれない。

 現実の社会においては、そういうことは理解しますよね。

 でも、ネットになると、それが、——渋谷のスクランブル交差点のど真ん中で、素っ裸で立っていたらどうなるか、そこがどういう場所なのかということを、認識できなくなるのは、なぜなのか。

 匿名の問題もあるでしょうが、私としては、どっちかつーと、この「公私の区別ができない」ことが、その問題の根っこにあるような気がします。

 このブログでも、たまに、読んでくれている友人や知人からは「……え?」という反応をもらうことがありますが、それは、リアリティそのものを、ここに書き込んだりはしないということなんですよ。(^^;)
 写真のデータとかも、位置情報は当然、削除しているわけだし。

 ネットは仮想空間ではあるけれど、それは「なにを」仮想とするかというと、「公共」ということも、ひとつにはあるかもしれませんね。
 いくら言論の自由があるとはいえ、人前で話すときには(これでも;;)言葉を選ぶとか、表現をかえるとか、言いたいことをちょっとばかり「薄める」とかする。

 それは、友人に対して話すのと、見ず知らずの——たとえば、地元自治体の首長相手に話すのとでは、内容は同じであっても、言葉遣いや表現が異なってくる、というのは、ご理解いただけるでしょう。

 私も時々うっかり忘れているので、人のことは言えませんが、……それでも、これでも、いちおう、「見ず知らずの、大勢の人の目」がある、「おおやけ」の場所だということは、前提にして「仮想」しているのです。

 基本的には、ですます調で書いているのは、だからです。

 論文を書いているわけじゃないから、である調はとらない。

 なんにしろ。
 2ちゃんねる管理者にとってはこれは重大な被害ですので、しかるべき法的対処を講じることを願います。

 たとえそれが事実ではなくても、書き込んだ人にしてみれば、匿名であるという「信頼」のうえで、「プライバシー」空間であるというのを前提にしていたわけで。
 いわば、今回情報を流された人にしてみれば、夜中にこっこり、ひっそり付けている秘密の日記を、いきなりテレビ放送で読み上げられたようなもの。

 その認識は「事実」か、と言われると、冒頭部分に戻りまして、どう考えるべきなのかなあと迷いますが。

 ただ、流出された側からすればそういう認識になる、とは、言えることでしょうし。
 であるならば、これは被害側からすれば「プライバシーの侵害」なんですよね。

 それが、客観的に見て「事実」なのか、というと………。うーん;; と思うわけですが。

 いずれにせよ、ハッキング、ならびに情報を盗み取るのは犯罪です。
 被害者が2ちゃんねらーなんだからいいじゃない、というご意見には、それは、シナと同じ「人治」、「情実」の発想ですよと、ご指摘を申し上げたい。

 ひごろ、公正とか公平とか、美しいことを求めてそれが実現しないといって、ネット上でひとさまを非難するのであれば、情実は許されませんよ。

 法治の概念は、ただ、それが、法にもとづいているかいないか、それだけを判断するものですから、Aさんなら可哀想、Bさんならザマアミロ、というのは、許されることではありません。
 検察の証拠改ざんを非難するなら、たとえ被害者が、気に入らない2ちゃんであっても、被害者として認め、法的対処、支援をするのが筋ってもんです。

 他人のことを不公正だの不公平だのなんだのと非難しながら、いざとなると自分もそれと同じことをするというのでは、道理というものが成り立ちません。

 そのあたりのことは、はっきりさせておきたい気がします。
 
 
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愛なき地平線
2013年08月29日 (木) | 編集 |
 いよいよきな臭くなってきましたね。
「アラブの春」だ、民主化だ、と、お花畑ぶり全開だった、外国メディアの反応を聞いてみたいですね。(←皮肉)

シリアの化学兵器使用、「疑いの余地はほぼない」 アメリカ、軍事行動に備え駆逐艦を配備
2013年08月26日 09時21分 JST | 更新: 2013年08月27日 09時07分 JST The Huffington Post
http://www.huffingtonpost.jp/2013/08/25/syria_america_n_3814282.html

 だからいったじゃん。このあたりの文化というのは独裁者がいてやっとこさ国としての安定が保たれるのであって、その独裁者がいなくなったら、かえって混乱と戦乱になる、そういう戦乱状態のなかからまた、泥沼の血で血を洗う抗争のなかから独裁者が現れる——これの繰り返しだって。
 これは民主化プロセスなんかじゃない、独裁者から、べつの独裁者へ変わる過渡期(Transition Period)にすぎないって。
2011・10・25 エントリー「独断と偏見で」

 欧米なんぞは日本よりもアラブとは付き合いが長いのに(それこそ十字軍のころからだから……数百年……下手したら千年近くだ。……うわ〜……)、なんでそれくらいのことが理解できないわけ? と、つくづく不思議です。
 日本のボケ新聞あたりが、欧米のメディアと論調を同じくしているのは、お花畑だから仕方ないとしても。

 ハンムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」が、彼らの精一杯の「平和主義」だという解説を聞けば、あちらさんの「本質」というのは、いやおうなく見えてくるじゃないの。なのに、なにが、「アラブの春」だ、民主化プロセスだ?
 どこに目ん玉ついてんの?

 と——さらにきなさくなったニュースを聞いて、イライラが増していく。
 やっぱりイヤなんですよねこんなニュース。

 うちの母が、「あのアサドって人は何を考えてんの。自分の国(国民)じゃないの」と不思議そうでしたが、——もとより彼らの考えなど私どもに理解できるはずはありませんが、とにかく「国」という概念はないか、きわめて希薄だと言うことはいえると思います。

 あのへんの「国」の成り立ちは、欧米列強の植民地政策の歴史とは切っても切りはなせない関係にある。
 たぶん、あのへんにはいまも「国」という概念は、ほんとうには、ないんじゃないかと私は考えております。部族だったり宗教宗派のほうが、アイデンティティであって、国というのは「便宜上、地図に引かれたライン」のことでしか、ないんじゃないかな。
 国というものがその人のアイデンティティになる、ということは、ほとんどないだろう、とお見受けします。
 だからこそ、国よりも、部族や宗派のほうが、政治においては「実効」性があるのでは。

 あのへんの国々の、ほとんどの不自然な成り立ちの歴史には、ことにヨーロッパが関わっている。
 そういう後ろめたさがあるんでしょうかね? だから、あり得ない「民主化」というものを、ことあるごとに夢見ようとするのでしょうか。
 こうであってほしい、という願望は誰でも持つものですが、それにしたって、それが事実であるかのように書き飛ばすメディアというのはひどすぎる。

 メディア不信は募る一方です。(^^;)
 いやまあ、もう正体はわかっているので、不信感があるというだけで、たぶん、実害は、以前よりは縮小しているとは思いますけれども。………たぶん。

         ●

 百も承知のことと言えばこちらもですが、承知だけれども放置もなるまいというのも、そうですね。
 
国連事務総長 歴史認識巡り異例発言
8月26日 22時5分 NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130826/k10014038391000.html

国連事務総長発言に「非常に疑問」
8月27日 12時32分 NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130827/k10014063531000.html

パン事務総長 歴史問題発言を釈明
8月29日 4時0分 NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130829/k10014119971000.html

 日本の立場を表明するのはけっこうですが、もはや、無能以上のものがあるこの「世界大統領」(by 韓国メディア)については、懲罰動議を出してもいいくらいなんでは? 
 国連で懲罰委員会があるかどうかは存知ませんが。(^^;)

 越権行為というのか、あるいは職務義務違反というのか、はたまた、国連憲章そのものに抵触するのか。

 なんにしろ、これは放置していいことではないと思いますね。

 ——私も相当、朝鮮嫌いが隠しようもなくなっていますが(でも、俗にいう嫌韓派ということにするなら、あたしの嫌韓派としてのキャリアは30年ちかいよ。昨日今日の嫌韓派じゃないのよ)——そんで、たまに、
「ああいう(私が指弾する)人というのも、そりゃいるけど、でも、ちゃんとした、いい人もいるから」
 みたいなことを言われますが。

 聞き飽きた。耳に胼胝(たこ)。

「竹林はるか遠く」を、いま、胃がねじれそうになりながら、少しずつ読んでいますが、たしかに当時も、朝鮮人でも「いい人」はちゃんといた。いたけど、むしろそっちのほうがごく少数派じゃないですか。
 もっとも、少数と多数の問題でもないですけど。
 なんにしろ、詭弁にもならない寝言は、もういいかげん、あきらめてほしいものです。いちいち反証するのも面倒になってきた……。

 それに、これは、好き嫌いの話ではなく、利益——国益の話であって、理詰めできちんと整理していくものなんですから、そこで好き嫌いの情緒、いい人がどうのという「私情」を持ち込んでも意味はない。ということを、いいかげん左巻きも悟るべきでしょうね。

 ………昨夜の「怒り新党」では、毒舌と悪口の違いって? ということが少し話題になっていましたけれども。
 私はあれを聞いて、
「そうだなあ。ユーモアとか、愛が感じられれば毒舌、かなあ。愛がないのが悪口」
 と考えてみました。

 シナ朝鮮に関しては、私には愛はありません。(^^;)


 
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グラース家、それから
2013年08月28日 (水) | 編集 |
 き、きた!!!!
 ついに来たよ!!!

http://news.livedoor.com/article/detail/7995068/" target="_blank" title="故J・D・サリンジャー氏の未発表小説5作品が出版へ">故J・D・サリンジャー氏の未発表小説5作品が出版へ
2013年08月27日14時03分 AFPBB News
http://news.livedoor.com/article/detail/7995068/

 作者がお元気なあいだはまったく刊行される気配もなく、「作者が死ぬまで(グラース・サーガの)続編は読めないのか」と嘆いておりました。
 まったく、ファンなんてもんはどうしようもないわと自分でも思うくらい、ご本人がお亡くなりになったことを聞いた次の瞬間に思ったことは、
「続編は出るか?!」
 でしたからねー……。

 ファンというのも、ある意味、人間の業を背負っているのかもしれません。場合によっては誰よりも残酷だったりしますよね。自分の都合が最優先になるから。(--;)

 ということで、そのへんで自分の鬼っぷりに恥じ入る気持ちもありましたし、死後の出版については本人が遺言とかで差し止めていればもうどうにもならんわけだし、と思い、なかば以上あきらめておりましたが——サリンジャーが亡くなって3年。ついに……!

 生前はだめでも、死後になら発表してもいい(5作品ほど限定とのことですが)というのは、どういう事情があってのことなのか。ちょっと気になります。

 なんにしても、そうと決まれば、早く(本を)出せ! いつ出るんだ? と思ったら、いまのところ具体的な日程は決まってないんですね;;

 まして邦訳が出るのも、いつになるかわからないしっつーより、邦訳が出るかどうかがそもそもわからないわけだし。

 すっかり錆び付いた脳みそにむち打って、原語で読むしかありませんかねえ……。

 私としてはサリンジャー作品と言えば(訳者)野崎孝先生ですが、先生もすでに物故遊ばされているし、新しい翻訳家となると、抵抗あるだろうしなあ……。
(そんなわけで村上春樹版「ライ麦でつかまえて」はダメでした;; そもそもタイトルをそのままカタカナで「キャッチャーイン・ザ・ライ」とやっちゃったことが、私にはもう違和感バリバリ。(^^;) もちろん世界の村上春樹ですから、なにか思惑があってそうしたのでしょうが)

 ……言葉の選び方がうまかったですもんねえ……。「バナナフィッシュにうってつけの日」なんざ、その原題が「A Perfect Day for bananafish」とわかったときは、なるほどな〜と納得しました。うってつけ。この日本語を思いつける人はそうはいない、と思いました。

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)
(1974/12/24)
サリンジャー

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 あ。そうだ。サリンジャーはたしか、外国語に翻訳されるときの条件として、原題どおりのタイトルにすること、というのをあげていたはず。
 詳しい条件は思い出せませんが、ようは、原題をほとんど直訳したくらい、「原題どおり」のタイトルにしろという条件をつけていたはず。

 村上春樹さんが、原題をカタカナでそのまま表記したのは、もしや、そのせいでしょうか……?

「ライ麦畑…」を私が最初に読んだのは、20歳のとき。

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)
(1984/05/20)
J.D.サリンジャー

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 他の本で読むのが遅かったと思ったものはありませんが、このライ麦畑だけは、もちろん面白かったんですが、ただ、20歳じゃ遅かったなーと思いました。
 やはり、高校生くらいで読んでおくべきだったな、と。
 といって、中学生のときではちょっと早かっただろうなと思った——というのも珍しい本ですね。

 中学生ではちと早く、20歳ではもう遅い、17歳で読むのが望ましかっただろう、と。
 これほど「旬」を求める小説は、ほかにはちょっと思いつきません。

 もしかするとホールデン(主人公)は中2病というものなのかもしれないなと、いま、ふと思ったんですが、どうも私はこの「中2病」なるものが具体的にはなにを意味するかがわかっていないと思われるので、ホールデンが中2病かは(正確には)わかりませんが。

 この中2病という言葉、生みの親である伊集院光さんが、自分が意図したこととは違った意味で世間に流布しているといって、この言葉を「放棄」してしまわれたとも聞いておりますから、………よーするにわかんないんですよね? (^^;)
 この現象も珍しいかもなあ。

 というか——各人が勝手に、言葉を(まちがって)解釈しているというのは、最近では珍しい現象ではなくなりましたんで、その言葉の発明者すら、「そういう意味でいったんじゃねえよ」といって放棄する——世間ではよく聞かれる言葉であるにもかかわらず、おそらく、その言葉に、各自がてんでに勝手な意味を付与して、お互い、じつは、なにも意味を通じ合っていないという——この現象。

 まことにもって「バベル」ですね。

 そういえばホールデン少年も、独特の意味を載せて話すため、周囲の人間とは、宇宙人並みにコミュニケーションが成立しないところがあるのですが、——してみると、バベルは、そう珍しい現象でもないのかな。


 なんにしても、サリンジャーの新刊。
「早く刊行して! 早く!」と叫びたいほど楽しみなんですが。
 それなのに、なんとなく、恐れに似た気持ちがあるのはどうしてだろう。
 
 
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四人組裁判の思ひ出
2013年08月27日 (火) | 編集 |
 シナのほうでは、薄熙来氏の公判が終了したところだそうですが。
 ちらっとしか見ていないのに、この公判のようすが、私にはとてもイヤな記憶を呼び覚ましてくれましたよ。

 あれから40年もたつというのに、考えてみたら、シナというのは、なーんにも変わっていないんだな。と思いました。

薄熙来・元書記の公判が結審、判決は後日 中国
2013.08.26 Mon posted at 16:41 JST CNN.co.jp
http://www.cnn.co.jp/world/35036391.html

 日中国交正常化は、1972年のことでした。
 パンダが上野動物園にきて大騒ぎしていた時代、まさにあの時代の子どもだったんですが——なぜか私、パンダにはてんで興味がなかったですねえ。

 私がここでしょっちゅう、シナや朝鮮の悪口を書いているせいか、とある友人には、
「なぜシナに親しみを見せないのか。三国志はシナではないか」
 というようなことを言われましたが(いろいろ気を使ってくれたようでたいへんやんわりした表現でした)。
 三国志なんか、現代のシナ人は知らないらしいよ。
 いまや日本人のほうが、三国志については詳しいくらいなんじゃないの?

 私も、高校生のときにNHKの人形劇三国志にたいへんに入れあげましたが、——さすがに、弥生時代のことを理由に、いまの中共に、親しみを感じるわけには参りません。(^^;)

「日本人の知らない日本語」にも、シナからの留学生が、「三国志? 日本のゲームじゃないですか」と答えたというエピソードがありますが、ま、そんなところでしょうね。

日本人の知らない日本語2日本人の知らない日本語2
(2010/02/19)
蛇蔵、海野凪子 他

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 なんせ文化大革命で、自国の伝統文化を破壊し尽くしたんだから。
 カンボジアのクメールルージュと同じで、知識階層を徹底的に弾圧し、国民の白痴化をめざしたくらいで。
 自国の歴史など、まともに勉強させなかったんだから、三国志を知らなくても不思議ではない。

 文革後といえば、思い出すだに気持ち悪いのが、「四人組」裁判。

 あんなものを、どうしてテレビで見た記憶があるのか、自分でも不思議なんですが——シナの走狗(そうく)、NHKが放送したのかもしれませんね。
 もろにあの裁判を中継したのではなく、ニュース番組の、特集コーナーでとりあげたとか、そんな程度だろうとは思いますが……。

 四人組というのは、あの悪名高き文化大革命を主導した、江青、張春橋、姚文元、王洪文の四名のこと。
 ことに江青(こうせい)というのは「江青女史」と呼ばれていた、毛沢東の奥さんなんですが、———いやはや、もう、裁判中の態度がすごかった。

 ほかの三人は、裁判ということでそれでも神妙にしているふうでしたが、江青は、ひとりで裁判官に食ってかかっていました。
 子ども心にもちょっと忘れがたい光景でした、あれは。

 さらに、それよりも私の心に残ったのは、この「裁判」とやらの、異常さ。

 四人組裁判は、1980〜1981年。
 当時、私は小学校6年生くらい。いちおう、日本における裁判のようすを、ドラマやら何やらではありましたが、見聞きして知っている年齢でした。

 そういう、見慣れた日本の裁判とは、この四人組裁判は、まるっきり異質のものでした。
 こんなの、裁判じゃない、と感じましたね。

 裁判官はいるんだけれども、どうみても、裁判官は公正な態度ではないし。
 それは裁判ではなく「つるしあげ」でした。
 江青というひとがどれほどの悪人であるにしろ、こんなものは裁判ではない。こんなものでは、正当に裁いたことにはならない、という——まさしく人民裁判、つるしあげ、——リンチ(私刑)も同然でしたので。

 なんだこれは、と、胸が悪くなるほどの嫌悪感がこみあげてきたのを、覚えています。

 あの江青というおばさんもすごすぎるが、この裁判も、裁判だとは思えない。異常だ。

 このときの、「なんだこいつら」という感覚が、私にとってのシナの基本的なイメージになったようです。
 経済発展をしようがしまいが、中共シナのイメージはこのころから、いまも、なにひとつ変わっていない。

 人々は彩りのない人民服に身を固め、町を疾走するのは自動車ではなく自転車、メディアらしいものはなく、あるのは「壁新聞」くらいのもの。
 そして——あれは鄧小平ではなかったかと思うんですが、日本に来たとき、どうみても牛舎という建物を指差して「あれは、労働者の宿舎ですか」と聞いていた。
 法律よりも私刑が当たり前の国。
 それが私の、シナに対する「原初」のイメージになりました。

 ここ数年はそういうこともあまり思い出さなくなっていましたが、薄氏の公判の様子をみて、いきなり、わっとばかりに記憶がよみがえってきました。
 2013年のただいま見ている公判は——あの四人組裁判の時代とは比較にならないほど、建物のなかのようすも、人々の服装も、垢抜けたものになったけれど。
 それでも中身(コンテンツ)は同じだ。

 薄熙来氏については、いまどき毛沢東主義をいうなんてのは、どだいマトモな人とは私には思えませんが、だからといって、こんなふうに露骨に政争を持ち込んだ裁判を支持する趣味は、持ち合わせていませんよ。
 あの秘密主義の中共が、これみよがしにネット中継するなんて、あまりにも見え透いていて、笑っちゃうしかありませんね。

 経済発展をとげ、ハードの面ではずいぶん様変わりしたけれど。
 こんな裁判しかできないようでは、中身はなにも変わっていないんだな。
 そう思ったら、つい、あの色気のない、ださい、黒ぶち眼鏡をかけて、ものすごい形相で、裁判長相手にまくしたてていた、美しいとはお世辞にも言えない女性の姿が、いきなり目の前に浮かびました。

 子どものころに衝撃とともにしみ込んだ記憶やイメージって、ちょっとやそっとでは揺らぐものではないのでしょうね。(^^;)

 ——どだいマトモな人ではない、といえば。
 東洋学園大学教授の朱建栄さんが、7月下旬にシナにいったきり、連絡が取れないそうですね。

 私は、この人については、——日本にいるんだから中共の「ウソ」なんてのはすぐにわかるはずなのに、真顔&トンデモ理論で中共よりの発言をバリバリしたのをみて、まさしく「なんだこいつ」と。(^^;)
 そういう人ですから、いい印象があるわけがありません。
 
 しかし、そういう人であっても、連絡が取れない——行方不明状態だということについては、心配しております。

 軟禁状態におかれているだけだと言う話もあるようですが、なんにしろ、ご家族と連絡がとれないとなると、やはり尋常ではありません。
 軟禁状態だとしても、私の印象では、この人は、もろ、中共の代弁者だったはずなので、いわば中共べったりの中共の忠犬が、その中共によって身柄を拘束されているとなると、…どうしてそんなことになるのかが、どうも想像がつきません。不気味に感じます。

 こうしてみるとつくづく、シナと国交正常化したのは、大失敗でしたねえ。

 そりゃ隣国ですから、つきあわなきゃいけないのは事実ですがね。
 こういう、ことごとく日本人の良識なんか通用しない国なんだということを、大前提とすべきだと思いますね。
 簡単に言うなら日中友好なんて寝言を言ってんじゃねえや、ということ。
 付き合い、というと、必ず友好的なものだと思い込む、この日本人のナイーブさも、たいがいにしやがれと思う今日この頃です。

 いまや、単に日本にとっての敵というだけならまだしも、他の国々にも被害と迷惑がおよんでいる現状を考えますと、日本はほんとうに、世界に対して申し訳のない、罪なことをしてしまったのだと思います。

 などといろいろ、子どものころからの不快な印象やら何やら——つい、思い出してしまいました。(^^;)
 
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ツルの倍返し
2013年08月26日 (月) | 編集 |
 昨日はちょっとお出かけしておりまして、おやすみいたしました。m(_ _)m
 体調が悪くて倒れていたわけではありません。大丈夫です〜。

 昨日はいきなり涼しくなって、——雨がちで天気がよかったわけではありませんが、しかし、もう1ヶ月以上も酷暑にさらされていたのですから、あの涼しさはありがたかったです。
 もうお出かけしないでひたすら寝ていたかった。(^^;)

 今日もまだ、涼しいのはつづいておりまして、ありがたいことでございます。
 このまま秋になっていただいてけっこうなんですが、………気象庁の予想では10月まで残暑厳しいらしい。

       ●

 最近「倍返し」という言葉が流行っているのだそうで。

 私はあまり熱心にドラマを見るほうではないのですが、なんですか「半沢直樹」というドラマの、主人公の決め台詞だとか。
 私も昨夜、ちょっと見ましたけれども、堺雅人さんがすてきで♡

日曜劇場「半沢直樹」(TBSテレビ)
http://www.tbs.co.jp/hanzawa_naoki/

 ドラマのほうは……、ああこういう話かあ……、と、ちょっと腰が引けております。(^^ゞ
 でも堺さんがすてきだから♡(すべてはここに帰結するのか;;)
 いや、すてきって、半沢さんがじゃなくて、堺さんが、役者さんとしてですよ。

 どういう役をやらせても——可塑性の高い、紙粘土みたいな人だなーという印象で、それぞれの役に潜む魅力を、前面に引っ張りだしてくるような役者さんだなと思って拝見しました。

 しかしまあ、なんにしても。
 復讐としての倍返しは感心しませんね。
 せめて、やられたらやりかえす、くらいでやめておきたいもんです。

 ハンムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」というのは、じつは平和的なんだよと言われて、「はあ?!」と言いましたら、
「1を受けたら1だけを返す。受けたものと同じだけかえす。つまり、それ以上のことはするな、ということなので、(あのへんの文化のなかでは)平和的な考え方なの」
 といわれて、開いた口が塞がらなかったです。

 ………前提条件が違いすぎる……。(^^;)

 といって、殴られたら殴られっぱなしでいるわけにはいかないときもあるのも事実。
 こういうときはしょーがないから専守防衛。
 それが俗世に生きるということですから、ま、しょうがないですね。

 ましてや、身に覚えのないことを言いふらされ、やってもいないことについて謝罪と賠償を要求されるのは論外なので、これはきちんとした対応をしなければなりません。自分の身は自分で守るというのも、大事なことでしょう。

 あの世ならぬこの世の面白いところであり、困ったところでもあるのは、——あの世では、精神状態がものをいうので、天国と地獄というのはきっぱり分かれているけれど、この世では、地獄から天国まで、各種取り揃えて人間が混在していること。
 やはり、波動が低い、ケモノみたいな人間というのもいるので、——あるいはもはや妖怪になりかかった人とかも——、そういうのと遭遇することはある。

 天国の波動も教えもすばらしいものではあるが、そういうものは、ケモノにも妖怪にも通用しないことがあるから、相応に対処しなければなりません。
 俗世に生きる難しさ、でしょうね。

 この半沢さんも、地獄の妖怪にひどい目に遭わされたから、ということのようですが、——しかし、それでわざわざ、自分も妖怪レベルにいっちゃうわけですかねえ……。

 倍返し。
 考えてみたらイヤなものですし、たぶん、ドラマを見ている大多数の人は、半沢さんがべつに「正義」なわけではないことも承知していると思いますが、それでも、ドラマ自体にいやらしさが出ないのは、半沢さんが、見るべき人は見る、助け起こすべき人は助ける、というところがあるからでしょうね。
 復讐一辺倒だったら、かなりイヤだと思いますよこのドラマ。

 彼の行いが難しいのは、そうやって「自分個人の事情(=復讐)」を全うする、しかも、「会社員である以上、自分の職分を逸脱しない」、という、規格というか、枠組みというか、制約というもののなかでおこなうという、——考えようによってはきわめて組織に忠実な立場を守ろうとするからでしょうか。

 案外、昔気質(むかし・かたぎ)の人なのかもしれませんね。(^^;)

 いずれにせよ。

 復讐で倍返し、なんていうと、「え〜。やめたほうがいいですよそういうの」と思っちゃいますが。
 同じ返すなら、恩を返したらどうですかねえ。

 人間は悲しいもので、恨みを返すということは忘れないのに、恩のことはころっと忘れる。
 これは、いけませんよねえ。

 復讐なんてことだと、たとえ1倍でも、やめなさいよそんなことはと思うけど、恩であれば、2倍だろうが3倍だろうが、すばらしいからいくらでもどうぞということになる。

 しかし——人間は勝手なものなので、恨みのことは執念深く覚えていても、恩のことはころっと忘れるんですね。
 人に助けてもらうことを「当たり前」だと認識してしまうのかもしれません。

 恩を返す相手は……と私も考えたことがあるんですが、そうしますと、これがけっこうたいへん。
 復讐したい相手というのは、それでも数えられるのですが、恩を蒙った人、と思うと、これがもう——数えきれない、ということになりまして。

 なにか特別なことを受けたことだけを恩というのではなく。
 家族もそうですし、収入を得られることになる仕事の、取引先もそうですし、いろんなことを教えてもくれ、心を和ませ、楽しませてくれる友人たちもそうですし、言いたいことはいろいろあるでしょうに黙ってモフらせてくれる猫たちもそうですし、——いろいろ示唆を与えてくれる本、その著者たち、食べるものを作ってくれている方々、運んでくれる人々、それを売ってくれる人々、……と考えていると、うへえ、ということになりまして。

 恩を返そうと本気で思ったら、復讐しているひまなんか、人生にはないということに、なるんでしょうね本来は。(^^;)

 そんなこといったらあのドラマは成立しませんけれども(笑)

 復讐をする意味がない、というのの理由のひとつには、そうやってわざわざ自分で自分を汚すな、ということもありますが、もうひとつ理由はあって、その相手がろくでもないことをしたというのなら、その人は必ず、自分がしたことの報いを受け取ることになるから。
 ゆえに、いちいち人間が手を下す必要はないのです。

 行ったことと、その報い、というのは、悪いことばかりではなくよいことにも当てはまる。
「宇宙の法則」はある意味、たいへん機械的で、ネガティブもポジティブも区別しないんですね。というか、ポジだのネガだのは人間の(勝手な)判断にすぎないので、そんなこたー宇宙はいちいち関知しないんでしょう。

 であるならば、恨みをはらす必要がないように、恩を返す必要もないのでは、と言われるかもしれませんが。

 ——ま、そう思うならそれでもいいんですが、自分がしたことの結果が自分に報うのであれば、恩返しというよい行いをすれば、その行いの結果は幸いとなって自分のところにくるわけですから、——いわば、恩返しという「動機」があれば、良い行いというのもやりやすいでしょ、ということですね。

 その昔、仏教の真髄はなにか、と問われた人が(たぶん偉いお坊さまでしょう)、
「諸悪莫作、衆善奉行(しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう)」
 悪いことをするな、善いことをせよ、——と答えたそうな。

 そんなことは子どもでも知っている、と質問者は笑ったが、回答者は、
「子どもでも知っていることだが、80歳の翁でも、実行するのは難しい」
 と答えた。
 質問者は忸怩として口をつぐんだ。
 
 ——というような逸話もございます。

 諸悪莫作、衆善奉行、なぜ、そうしなければならないか、というのを、仏教ではその理由もかなりきっちり説明しますが、そのへんはまあ、「悪いことをするな、善いことをせよ」と言われただけでは納得しがたい、理由も聞きたい、と思う(どちて坊やみたいな)人が勉強すればよろしいこと。

 倍返しというと、こちらもつい復讐かと思い込んで、
「いやらしいねえ」(by うちの母)
 と思ったりもしますが、これ、恩返しだったら、倍でも10倍でも、好きなだけどうぞということになる。

 何を返すのか、それが違うだけでたいへんな違いになるんですね。

 復讐は天に任せて、自分は恩返しに徹するのが、いちばんいいのかもしれません。 

 
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立つ風の噂に
2013年08月24日 (土) | 編集 |
 とある雑貨屋さんの前を通りかかったら、夏のセール品を載せたワゴンにこの子が…!

oyasumi-chiffon-cat.jpg

 その名も「おやすみ Chiffon ねこ」(って、タグに書いてあったの)。

 ネットで検索してみたら、こちら、「(株)りぶはあと」さんの商品なんですけど、これ、季節ごとに商品も入れ替わっていくのかな……。私が買ったにゃんこ抱き枕は、同社オンラインショップにはなかったのでした。
 Amazonさんのマーケットプレイスで何件か出てきましたが。

 抱き枕を買うことになろうとは私も思っていませんでしたが、思わず買っちゃいました。(^^;)
 ちなみに、このにゃんこの後ろに写っているのは、コミケ84のカタログです。まだ全部読んでないので。

 この抱き枕、じっさいの就寝時に使うのではなく、昼間、ゴロゴロしているときに使うことに致しました。
 私は仰向けで寝るというのが基本姿勢なので、抱き枕はじつのところ必要ない……。

 昼間、ごろりと横になったときの枕にすると、ちょうどいい感じです。
 この手触りがなんともいえず心地よく、つい、用もないのになでなでしてしまいます……

         ●

 夏の疲れが出てきたのでしょうか。
 体調としてはべつにどこも悪くはないんですが、怠くてたまりません。やる気が出てこない。もとがやる気レベルが低い人間なので、もう廃人寸前です;;
 夏の疲れをとるには、ぶどうか、梨か。

 という次第で、なんかもー、ほんとにダレダレでお恥ずかしい次第です。
 夏の映画は面白そうなものが並んでいたのに、今年も結局みにいくこともない。
 ひとさまの映画感想を、ふんふんと聞く(読む)ばかり。

 そういうなかでも、ああ、これで映画を見る必要がなくなった(笑)と思ったのは、岡田斗司夫さんの「風立ちぬ」評でした。
 ネタバレは………していることになるのかな。直接、ストーリーを語るわけではないのですが、ま、ある意味、ストーリーを語る以上のネタバレかもしれない。物語、プロットを語るより、その映画の「本質」を語るというのは、このうえないネタバレでしょうね。

 究極のヌード写真といわれて示されたものが、全身のレントゲン写真だった、みたいなもんだ。(^^;)
(個人的にはあれはウケました。骨格しか写ってない、究極ヌードもなるほど、と。/笑)

ブログ「岡田斗司夫なう」
http://blog.freeex.jp/

「風立ちぬ」は宮崎駿の作家性が強い「残酷で恐ろしくて美しい映画」
http://blog.freeex.jp/archives/51395088.html

「風立ちぬ」については、今回はかなり「大人向け」のものらしいなとは思っていたんですが、岡田さんのこちらのインタビューを拝見して、ちょっと興味深く思いました。

 この映画が終わったとき、周囲の観客で泣いている人がけっこういたんだけれども、この映画、そんなに素直に感動して泣くような「きれいな恋愛」の話じゃないぞ、と岡田さんはおっしゃる。
 以下、滔々(とうとう)と、この映画が語る残酷さを解説なさる。
 解説を聞けばなるほどねーと思うのですが、であるならば、なぜ、多くの観客は、そうまでも露骨な残酷性に気づかず、きれいな恋愛物語だと思って泣いてしまうのか?
 なぜ、みんな、気がつかないのか?
 ——という疑問についての岡田さんの答えが、身もふたもなくて、思わず大笑い。

「みんなアニメの見方がまず分からないから。すべてのものに意味があるので、すごく注意深く画面を見なきゃいけないのに見ていない。台詞しか聞いていない。あとアニメだから「このくらいの見方でいいだろう」と見ちゃっているので、人物像に対して映画的なアプローチで見ていない。「こう言っているけど本当はこうだ」という見方をしていないですね」


(下線、赤字:引用者)
 
 昔のことになりますが、「紅の豚」のときも、お客さんは、宮崎駿ということで、ナウシカとか——えーと、なんかこう、壮大なヒロイックファンタジーなものを期待して見に行った人が多かったようですね。
 そういう人には、あの「大人のおとぎ話」は期待はずれ、予想外、ずいぶんがっかりされた——と聞いて、
「同じ人が制作したからといって、前作と同じものを作る理由はないだろう。というか、優れた芸術家というのは、同じことの繰り返しをことのほか嫌うものなので、前回がこうだったから、今回の作品もこうだろう、という『予見』を持つほうが間違っている」
 と私は指摘し、むっとされました(笑)

 こういうことは日常茶飯事にあることでしょうが、アニメとか漫画とか、世間一般では見下されているものを題材にするとイメージしやすいですね。

 アニメ=子ども向けのもの、というイメージは——たぶん今でもあるのでしょうが、昔はもっと固定化されていました。
 アニメ=子ども向けという概念に縛られている人に、そんなわけがあるか、と、私は噛み付いたことがありました。(なにがきっかけだったかは忘れた……)

「アニメというのは、アニメーション、動画、という、映像手法のひとつにすぎない。たまたま、実写よりも『可愛い』表現もしやすく、子どもにも親しみやすいものに『できる』から、採用されることが多いというだけのことで、手法は手法にすぎない。
 その手法を使ってなにを表現しているのかのほうが主体なんであって、じゃあ、アニメで作ったポルノはどうなのか。そのポルノは子ども向けなのか?
 また、実写だから『えらい』、アニメだから『くだらない』ということもない。
 単なる手法の違い。——油絵だったらえらい、水彩画だったらくだらない、なんて、絵画のほうではいわないだろう」

 と主張したのですが、不満げな顔をされて終わりでした。

 そしたら、その後数年のうちに、はっと気がつくと、マジで、アニメのポルノがかなり作られるようになり、いまや、欧米あたりではアニメ=ポルノ、ヘンタイ、というイメージのほうが先行していると聞いて、あたしゃちょっと泣きました。

 どっちにしろ、そういうのを「固定観念」、「思い込み」、「偏見」というのです。

 昨日もちらりと書きました、坂本龍馬のいった「牡蠣殻に引きこもる」、というのの、牡蠣殻というのは、こういうものも含まれる。

 偏見、固定観念、先入観。思い込み。

 アニメとわかると、映画であるというまえに、子ども向けのものだと決めてかかる。
 ジブリだというと、ああいう作品だろうと思い込む。
 宮崎駿と聞くとヒロイックファンタジーの、しかも「傑作」だろう、と勝手に期待する。

 いずれも「牡蠣殻」です。

 じっさいに映画を見るのなら、「映画を見る」ということにだけ集中して、そういう牡蠣殻からはいちど、よっこらしょと外へ出なければならないのです。ほんとは。
 そうでないと、牡蠣殻をほんのちょっとだけ開けて、そこから一部だけを見て、見えているのは一部なのに、他の部分を無視したり(結果的に)、あるいは、一部を見て全部を見た「つもり」になったり、一部から全体を勝手に「憶測」してみたり。

 まあいいかげんになさいませよと言いたくなるときはある。

 あるものについて賛成でも反対でも、それは自由なんだけれども、牡蠣殻のなかからちょろっと覗き見をした程度で、自分で勝手に妄想し、思い込んだうえで、好きだの嫌いだのいわれたら、そりゃあ、いわれたほうの立場がない。
 ほんとうの意図するものや、実像を、いいとか悪いとかいわれるなら、それはもうしょうがないが、じっさいにそこにあるものとは全く違うものを妄想されて、その妄想の上で、ありもしないものを決めつけられてぐだぐだいわれたら、言われるほうはたまったもんじゃありませんやね。

 ということを、私も、昔からぼんやりとでも思ってきた人間ですので。

 アニメだから、こんな程度の見方でいいだろう、と思い込んで、この「風立ちぬ」も、じつはまともに見ていないという岡田さんの指摘を見て、思わずウケてしまったという次第。

 私も独断と偏見のかたまりみたいな人間ですから、この牡蠣殻のしぶとさは、よくわかっております。
 いちばんやっかいなのは、この牡蠣殻——自分がそのなかにすっぽり入り込んでいるときには、自分が牡蠣殻のなかにいるということを、なかなか自覚できないということです。

 なにかのはずみで、貝をぱかっと開けてみたり、人から引きずり出されたとき、えっ、という衝撃を味わい、自分が今まで入り込んでいた牡蠣殻を振り返って、自分はあんなところにいたのかと茫然とする。

 そういう経験をすると、また自分は牡蠣殻のなかにいるのではないかと検証することを覚えるものなんですが。

 ——案外、せっかくいちどは牡蠣殻の外へ出たのに、あわてて帰っていき、よりいっそう、固く貝を閉じる人というのが、世の中には少なくないということも、わかってきた昨今でございます。

 ともあれ。
「風立ちぬ」については、岡田さんの解説を聞いて、おおむね、概要は見えたなーと思いました。
 されど、そういう思い込みもまた「牡蠣殻」。
 やはり、自分で実際に見てみないと、私自身がそれをどう感じるかは、わかりませんけどね。当たり前だけど。(^^;)

 で、見たいの? と言われると——
 どうなんでしょうね〜。見たいのかな。
 私はどうも「風と共に去りぬ」みたいな、馬鹿な男女の話には冷淡なところがあるしな〜。(外観がきれいでも中身がアレでは)

 見たいんだとしても、今日の私は、映画館にたどり着く前にぶっ倒れそうなんでございます。

 映画を見るにも健康第一ですよね〜。(^^;)
 
 
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石頭は永遠です?
2013年08月23日 (金) | 編集 |
 本日は「処暑」。
 暑さもだんだんおさまってくるころ、ということなんですが。
 どこがだ!!! というお怒りの声が聞こえてきそうな日本列島ですね。(^^;)

 うちのほうでは、気温自体はさほどでもないようなんですが、湿度がたまりません。梅雨の末期みたいな空気です。
 真夏の生まれで夏には強いはずの私も、今年はさすがにげっそり、ぐったりです。
 暑いのはわりと平気なんだけど、湿度にはホントに弱い…;;

       ●

 そんななかで、高校野球も無事に終幕。
 皆様、お疲れ様でございました。
 優勝、ならびに準優勝の皆様、おめでとうございます。(^^)

 また、太平洋の向こうでは、イチロー選手がプロとして通算4,000本安打記録達成ということで、こちらもおめでとうございます。
 なにかとおめでたかったですね昨日は。(^^)

       ●

 例によって為末大さんのツイートを拝見しているのですが、まあホントに世の中、日本語を理解しないひとが多いんだなあ、と思って拝見しておりましたが、とうとう、日本語が理解できないんじゃなくて、「話が通じない」人が現れていて、なんかもー、ニヤニヤしている場合じゃないんだけど、にやにやしてしまいました。
 放射脳が、とうとう出た(笑)
 出た、なんていっていると幽霊みたいですが………幽霊のほうがマシかもなあ。ま、生きている人間の日本語が通じにくいという意味においては、同じかもしれませんが。

 それにしても、べつにそんなこと一言も為末さんは書いていらっしゃらないんだが、まるで自分が攻撃されたかのように食いついてくる、この自意識過剰ぶりというのは、なんなんだろう。
 まあ、病んでいるからこそ放射脳になっちゃうんでしょうけれど。

       ●

 話が通じない、ということでびっくりすることはたびたびありますが、昨日もちょっとそんなことが。

 NHK BSプレミアムで放送している「BS歴史館」は、いろいろと、従来の通説とは異なる視点で歴史を語るところが面白くて、好きでよく見ています。

 昨夜の話題は坂本龍馬でした。

「龍馬のラストメッセージ~暗殺直前!幻の国家プラン~」
2013/8/22 放送
(8月30日 午前8時から再放送あり)

 この番組のいいところは、その話題に関して語る人(たいていは研究者ですが、その人物を材に取った小説などを書いた作家、漫画家などもいらっしゃる)が複数人——通常3名ですかね、それと、司会進行の渡辺真理さんの組み合わせがよろしいようです。

 通常とは異なるものの見方が提示され、それが専門家同士の対話のなかで語られるのも面白く——同じ見方を補強し合うにしろ、反対意見が出るにしろ、それぞれに説得力があって面白いし、渡辺真理さんのツッコミもいいんですね。視聴者で見ているこちらが、「えーと、それって…」と思ったことを、渡辺さんが、論者に質問してくれる。タイミングと角度がいいんですよね。

 ということで、坂本龍馬といえばもう、たいていのことは語り尽くされてきていると思うのですが、それでもまだ、こうやって話題が出てくるところはすごいやなと思ってみていました。

 中身についてはそんなわけで、昨夜も楽しく拝見しましたが、ひとつだけ、「どうしてそうなるかなー」と思ったのは、昨日の論者の一人、榊原英資さん。

 龍馬は、倒幕だけど佐幕にも足を掛けていたという発言があり、「は????」となっていたのですが、なんのことはない、榊原さんは、「公私の区別」ができていないのでした。

 たしかに——徳川幕府という政治システムの終了後、新しい政府のなかに、徳川慶喜を加えようというプランが龍馬さんにはあったらしいのですが、それをして「佐幕」とおっしゃっていたらしい。

 いや、これはびっくりです。
 私などは足下にも及ばないほど頭がいい人なのに、「公私の区別」がない、というのはどういうことか。

 結局、龍馬さんが言っていたのはどういうことかというと、
「徳川幕府という政治システムは終了させるが、それで徳川家という個人の家をつぶす必要はない」
 ということ。

 政治システムという言い方でイメージしにくいなら「政体」といえばわかりますかね。
 それでもわからなかったら「国体」。(国民体育大会の略称じゃないですよ)

 いってみれば、総理大臣といえども、職を退けば単なる個人、「ただ人」になるわけで。
 それと同じで、将軍職を辞した徳川家は、単なる徳川家である、ということ。

 政治システムが変わればいいだけのことで、いちいちそこで人を殺して歩く必要はない。
 それだけのことなんですが。

 ………当時の人間で、こういう「公私の区別」がつかない人がいたというのはしょうがないことだと思いますが、………これほど「個人」という概念も発達したはずの、この21世紀の人間でそこを理解しない人がいるとは思わなかったなあ。
 まして、これほど頭がいい(はずの)人がねえ……。

 倒幕派でもなく、佐幕派でもなく、勤王でもなく、土州人でもなく、薩州、長州でもなく、ただ、「日本人」である——ということが、龍馬さんの在り方。

 当時の人間に、このへんが理解できない人がいたのは、まあ致し方ない。

 が、そういう歴史を経てきて、公に対して個人という概念ももはや当たり前になったこの時代において。
 まーだこういうことをいう人がいるのか。ということで、昨夜はちょっと呆然といたしました。

 そんなに難しい概念だとは思えないんですがねえ……。うーん。

 世の中の人間の石頭ぶり、わからずやであることを「牡蠣(かき)殻(がら)のなかに引きこもっているよう」だといった龍馬さんの、その胸にあっただろう孤独の思いを、あためて思いました。
 同時代人で、龍馬さんをほんとうに理解していた人は、ほぼ、皆無だったんですね……。気の毒に…。

 理解力って。
 どうしたら養えるものなのかな——牡蠣殻に閉じこもるというのは、時代とは関係のない、人間の習性みたいなものだから、これはもう、仕方のないことなんでしょうか。

 龍馬さんはやさしい人だったから、最後まで人間を見捨てなかったけれど、私などはだいぶ、人間嫌いがひどくて、いまだに立ち直れずにいるので、——どうすれば、そういうやさしさにたどり着けるだろう、と、遠い目をして考えてしまいます。(^^;)

 
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般若は泣き顔
2013年08月22日 (木) | 編集 |
 時間がないので本日はあっさりめで。

 以前から気になっていて、いちど書こうと思っていたんですが。
 
 漫画やらアニメやら、登場人物の怒り、あるいは怒りの形相を(ほとんどはコミカルに)表現するのに、「般若(はんにゃ)」と思われる能面(のうめん)を描くことが多いようなんですが。

 あのう。般若の面(おもて。めん、とは読まない)てのは、女性の顔ですので……。
 男性のお怒りを表現するにはふさわしくないというか、てんで的外れなので、私としてはたまに「えー……」となっております。

 鬼といえば鬼なんですが、般若の怒りというのは、悲しみの表現でもあるんです。
 般若の形相は恐ろしいですが、よくよくみれば、次の瞬間にはわっと泣き出しそうではありませんか。
 こらえかねた悲しみが、怒りという形で表現されているもの。

 ゆえに、ただ単なる激怒とか、怒られる側の「きゃー。こわーい」という感覚を表すために般若の面を描くというのは、私はどうも……、納得いかないし、ものすごく「場違い」なものを見せられたように感じて、笑うどころじゃなくなるんですよね。
 
 あれ、認識を改めていただくってわけにはいきませんかねー。(^^;)

 あらためていただくためには、般若の面の理解が、ひろく一般社会に共有される必要があるだろうと思うと、やっぱり、無理かな……と、つい、下を向いてしまうのですが……。

 まあ、怒りの形相で、あれほどの迫力がある表情で、般若以外のものとなると、私もちょっと思いつきません。
 般若の造形って、傑作、名作なんだろうな〜。

 鬼の面の男性バージョンも、もちろんあるんですが、どうも、般若や橋姫(はしひめ)などに比べると、迫力不足か、さもなければ、シャレにならないほど「威圧感」があるか、どっちか。

 般若の面は、恐ろしいけれども、どこか、——たとえば不動尊などの憤怒(ふんぬ)の、踏みつけられるばかりの恐ろしさとは違う、人間味、人間らしい感情、というものがありますね。……人間として親しみやすい、というとちょっと誤解されそうですが。

 般若も橋姫も、あの怒りは悲しみの表現であり、その怒りの底にはいまだ見捨てられない男への愛情がある。
 私には般若の面は、泣き顔に見えるのです。
 それほど自分がつらいなら、鬼になるほどつらいなら、そんなくだらない男なんかさっさと捨てろよと言いたくなるんですが、——本人もそう思っている部分もあるんでしょうが、それでも、情というものが残る、あの悲しみ。

 私としてはあんまり気安く、ましてギャグの表現には、使ってもらいたくないなと思っています。
 そんなに深刻に真剣に、思っているわけじゃないですけどねもちろん。(^^;)

 ちなみに、般若系の面で「蛇(じゃ)」というのもありますが、これはもう、その名前のとおりで、もはや人間ではない、妖怪、魔物の雰囲気で(「道成寺」専用の面だそうで)、これはもう、人間の女の悲しみといったものとは、違うものに感じます。

 ……本日もオチがないまま終わり。(^^;)

 
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自殺願望の構造
2013年08月21日 (水) | 編集 |
 昨夜はなにげなくチャンネルザッピングしているときに気がつきまして。
 BS朝日「いのちを語る」という番組に、為末大さんがご出演だったのでした。

為末大が円覚寺を訪ねる 前編・後編
BS朝日「いのちを語る」バックナンバー

 たま〜にいい番組をやっていたりするBSですが、目につくのが朝鮮ドラマだったりするので、ちょっとうっかりしますね。
 あら残念、もう少し早く見ればよかったと思いましたが、それもご縁なのでしょう。
 この番組、次回から、日曜日へ放送日時が移動するそうです。

 私が昨日見たのはもう、番組も終わるころのことで、——円覚寺、横田南嶺老師(円覚寺派管長)との対話は、なんかみょーに波長が合っているようにお見受けしました。
 為末さんがすっごいいい笑顔を見せたところがあったのが、じつに印象的。(^^;)
 為末さん、そのうち出家でもなさるんじゃ…と思うくらい、なんだかやけに合っているようでした。

 私が見ているときは自殺願望者のこと、無差別殺人を犯す人のこと、その心は、私どもはつい、自分とは異質の生物のように見なして非難するけれども、その心はみな同じだというお話でした。

 自殺願望者に、横田老師が思わず言ったこと、というのが、やはり私には印象的で。

 ——あなたは死にたいとおっしゃるけれども、足はしっかりとして、立って歩くし、内臓はどこも悪くなくて健康のようだし、あなたのどこが、死にたいと言っていますか。60兆ある細胞はみな、生きたいと言っているように思うが、あなたのどこが、死にたい、と思っているだろうか。

 そのようにお話しになったそうです。
 その自殺願望者は、どうなったんでしょうね。さすがに老師に諭されれば、覚るものはあったでしょうか。

 一神教では、頭ごなしに、自殺は神の教えに背くからけしからんと言いますが(挙げ句の果てには葬式出してやらんとか。脅迫か、懲罰か)、つくづく、あちらさんは言葉がたらぬ、不親切だと感じます。

 なぜ自殺がいけないかといえば、——自分の体であっても、これは自分の所有ではないわけ。何も知らずにただ一生懸命生きようとしている60兆もの細胞を、自分のいっときの「考え」だけで虐殺する。これが、自殺というもの。
 
 いえ私も悪い人間で、無差別殺人者の「殺す相手は誰でもよかった」という、決まり文句を聞くたび、「誰でもいいなら自分にしろよ」と言ってしまいますが。
 一人を殺す自殺でも虐殺であるものを、他人様を何人もとなると、どれほどの悪行だろうか、という話。
 自殺もまた殺人に他ならない。

 とはいえ。
 聞いていてひとつだけ、ちょっと訂正をお願いしたいと思ったのは、自殺願望者というのは厳密には、「死にたい」と思っているわけではないということ。
 
 自殺を思う心は、「死にたい」のではなく、「消えたい」のです。
 来世もないほどに、完璧に、消えたい。

 いわれるまでもなく、誰だって積極的に死にたくはない。死にたくはないが、生きているのがつらい。
 これは心を引き裂かれるような葛藤でございまして、「死にたくない」のは、確かなんですね。
 
 死にたくはない。だからといってこの世にいるのも耐えられない、と思うとき、どういう「願望」が生じるかというと、それは「消えたい」という思いなんですよね。

 これはなかなか——あの葛藤を味わった人間でないと、わからないかもしれない。
 あの葛藤を味わっても、それを、分解するくらいの勢いで内省しないと、やはり、わからないことかもしれない。

 で。
 ——消えたい、というのも、なんだか妙な話だなと、自分でも思ってきたんですが。
 あ、なるほど、そういうことかと思ったのは、とある本を読んでおりましたところ、その消えたい、という気持ちがなにを意味しているかを、ずばり、書いたものがありました。

あなたは死にたがっているのではなく、すでに役目を終えた自分の一部(思い込みやら“信念”やら)を、もう消し去りたいと思っているだけ。自分自身を殺したがっているのではない。——ゆえに、その、もう役目を終えた古い自分の一部を、手放せばいいだけだ

 ——なるほど、それはそうかも、と思いました。

 が。
 いま、引用しようとしたんですが、例によって、どの本に書いてあったのかが思い出せない。(^^;)
 たしかこの本にあったはず、と思っていま見てみたら、見当たりません。

 ……私はこういうことが多いんですよねえ。困りますわホントに;;
 あとで見つけたらこのへんの部分、追記するか、書き直しでもしておきます;;

 消えたい、という気持ちを不思議だとも思ってきたんですが、さまざまある自分の思い込み、思いグセ、信念、考え方を、もう、手放したい、ということだといわれると、あ、なるほど、それだ。と。
 死にたくはないのに、消えたい、というこの葛藤が、そういうことであるなら納得がいく。

 生きたいという思いと、消えたいという気持ちに、自分の内面が引き裂かれる、あの苦しみは、そういうことなら納得も行く。

 古い自分は、このまま持っていても自分が苦しくなるだけだし、自分の人生を生きていくのにももう、障害にこそなれ、役には立たない——たとえば、子どものころ思い込まされた、『自分は役立たずだ』という思い込みが、大人になれば不要であるように——ので、それをもうやめたい。
 なのに、けっこう長いこと、それに馴染んできたものを、人間、手放すのには苦労するときがある。

 もう絶対使わないだろう鞄、着ないだろう服、修理できるあてのない、捨てるしかないはずの諸道具を、なんだかんだいって、いつまでもいつまでも、押し入れのなかに入れておくように。

 愛着があればあるほど、それはもう処分すべきものとわかっていても、手放せない。
 
 そういうことが、自分の内面にも存在している、と指摘されますと、あー。なるほど。そうそう、そんな感じだ。と、腑に落ちました。

 しかし手放そうにも、そこはものいわぬ物質とは違う、人の心のこと。捨てようとすると、「あたしを捨てないで」と抵抗してきたり、「だってこんなに長い間いっしょだったのに」と引き止めようとする心も出てきたり。

 挙げ句の果てには、その古い思い込みを、「もう手放したい」「もう消し去りたい」だけなのに、古い思い込みを自分自身の「本体」であるかのように思い込んで、自分は「消えたい」と思っている、と信じ込む。

 ………なるほどな〜と思いましたら、ずいぶん私も気が楽になりました。

 断捨離とか、こんまりさんのように「ときめき」があるもの以外は、感謝して手放す、というやりかたで物品を処分すると、なぜか、多すぎていた体重が減ってきたり、運勢がいいほうへ回りだしたりするメカニズムも、このへんに理由がありそうだなーと思いました。

 ただ。
 手放せばいいのに、へんな愛着があったり、これは「セイフティ・ブランケット」なんだと本人が信じ込んでいたりすると、——DVダメ男と、なんだかんだいって別れられない女みたいなことになっちゃう。

 それが、あの「死にたくはない。でも、自殺するしかない」という葛藤の正体。

 一部は一部でしかないのに、それが本体、核心であるかのように思い込むこと自体が、自分の内心のトリックなのかもしれませんね。

 ……えー……、それだけの話なんですが……。
 ………すみません、今日もまたオチがないまま終わりです……。(^^;)
 
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A・ロッド選手に
2013年08月20日 (火) | 編集 |
 まあひとまずはよかった——てことですかね。

同性愛規制、ソチに適用せず=「ロシアが確約」-IOC会長
 2013/08/19-21:07 時事ドットコム

「五輪の参加者や訪問者には影響しない」ことを、IOCのロゲ会長はロシア政府から言質を取ったとのことなので、——選手はもちろん「訪問者」も、ということですから、いちおう、観戦や応援にいく人々も大丈夫ですよということですね。

 ……ロシアの「約束」なんかあてになるかよ、というのが私の本音ですが。
 それでもまあ、そういう言質が取れたというのならけっこう。

 いちばんいいのは、こういう、IOCがかかげる理念とは対立するような国で、オリンピックをやらせない、ソチ五輪もご破算にすることだと個人的には思ってますけどね。

       ●

A・ロッドに球速150キロの死球、激怒のジラルディ監督が退場に
 AFP=時事 8月19日(月)18時13分配信

 ひどい醜態でした。——レッドソックスが。
 
 A・ロッドこと、アレックス・ロドリゲス選手の、薬物疑惑については私は詳細を知らないので言及はひかえますが、それは基本的には「疑わしきは被告人の有利に」という原則ということで、薬物使用を認めるとか、そういうことではないので念のため。
 
 ひどいと思ったのは、そういうわけで「有罪確定」でもない人を不当に罵倒している人々と。
 ボストンレッドソックスの投手、デンプスターさんとやら。

 私も昨日は、BSで、午後11時から放送している、メジャーリーグ情報の番組を見ていましたが、なるほどありゃひどいわ。スポーツマンシップのカケラもないわ。

 上記記事では「デンプスターは、ロドリゲスには安打を許さないという雰囲気を出していた」とありますが、私が昨日みた映像からは、そんな可愛い印象は受けませんでした。
 ヒットを打たせないんじゃなくて、あれ、完全にツブシにいってるでしょ。
 さすがに頭部への露骨なデッドボールにしちゃったら自分が退場食らうから、そうはならないように、ストライクゾーンじゃなくて、完全に、人間の体を狙ってたでしょ。

 うわあ最低。

 と思わず、私も吐き捨てました。

 メジャーリーグにはいろいろ見習うことも勉強になることもありますが、ああいう「カルチャー」は、絶対に真似しないでほしいですね。
 日本のプロ野球もけっこうイロイロありますが、ああも露骨に、相手選手を負傷させてやる、という「殺人投球」は、見た記憶はありませんので。
 ………お願いですから、「それはアンタが知らないだけだ」なんて言わないでくださいよ; 大丈夫ですか日本の野球は。
 大丈夫ですよね? 正岡子規に顔向けできないことはやってないですよね?;;(←だんだん心配になる)

 それにしても——けっこう冷静沈着な印象がある、ヤンキースの監督さんが、いったいどうしたことかと思うほど激高し(なぜかデンプスターじゃなくてこっちが退場になっちゃった)、もう試合としては壊れてんじゃないかと思いましたが。
 ヤンキースが無事、勝利を収めたのはようございました。

 べつに私はどちらのチームのファンということはありませんが、こうなってきたら、そら、ヤンキースを応援しますわ。

 個人的に、感心したのは、ロドリゲス選手。

 私はもともと、この選手にはあまり好意的ではありませんが(深い理由はない、ってところが失礼なんですよね;;)、昨日は映像を見ながら、すごいなこの人は、と、心から感心しました。

 デンプスターの意図は明らかですし、審判はまともにジャッジする気はないらしいし(体裁はつくろいますが)、球場はあんな雰囲気だし、ということももちろんありますが。

 肋骨のみならず内臓もイッちゃったんじゃないかというようなデッドボールをくらい、なおも、危険なインコース攻めにあいながら、同選手は、その後の打席を見ても、まったく腰が引けていませんでした。

 これはすごいと思いました。

 本人がどう思っていたにしろ、ああいうことが重なると、体のほうが危険を感じて、(本人も無意識のレベルで)身を引き気味にするものですが、そういうところがみじんもなかった。
 いつも通りに打席にたち、いつもどおりに構えて、打つ気満々でした。

 ヤジも、危険球のことも考えていないかのように、集中していましたね。

 ——なんという向こう気の強さ。

 闘争心とか、そういう言葉より、まさしく「向こう気」(この言葉は正確には、向こう意気、というそうですが)。

 ああ、やっぱり、こういう競争の厳しいところで、そのトップで、さらにそのトップであり続ける人は、こういう気性であってこそなんだな——と、ほとほと感心しました。

 表層意識では、なんともないような気がしていても、体のほうは潜在意識に支配されているので、本人にはまったくそんなつもりはなくても、体が、怯えや恐怖を訴え、腰が引けてくるのが、むしろ「当たり前」のあの場面なのに、自然体の、「いつもと同じ」態度と姿勢。

 恐れ入りました。

 薬物疑惑の話はどうだか知らないけど、ああいう性根のすわりっぷりは、私は認める。
 彼の体からは微塵も、弱気、怖じ気、というものは感じられなかった。
 あれもまた、勇気であることは違いない。

 立派だ、と思いました。

 下卑たヤジをとばしていた観衆のなかの、いったいどれほどが、ロドリゲス選手ほどの根性があるというのだろう。
 どうせお互い凡人ですがね——才能もなければ勇気もない凡夫はせめて、我が身を振りかえるくらいは、ちゃんとやっておきたいもんですね。
  
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なにぞこの児のここだかなしき
2013年08月19日 (月) | 編集 |
 世界陸上も終わり、高校野球もベスト8まできて、朝起きれば、すでに朝日の差し込む角度が違う、夜には秋の虫が鳴いている、ああ夏も終わりだなあと、思うにつけても——なんだよ最高気温34℃って;;
 今年はほんとうにシャレにならない。ほんとうに、体調には気をつけてまいりましょう。
 仕事も諸事情もありましょうが、命あっての物種ですからね。ちょっとくらい不義理になるのがなんです。不義理だと言われるとしてもそれは生きているからこそ。
 ………これ、冗談で言ってるんじゃないってあたり、今年はやはり過酷ですね。

       ●

 大河ドラマ「八重の桜」。

 川崎尚之助さんと再会した八重さんですが、………泣けますねえ。
 この川崎さんの生涯というものも、顧みればまことに数奇な、かつ、過酷な運命というほかはない。

 じつのところ、川崎さんは八重さんとは正式には離婚していなかった(会津藩への届け出の記録無し)という説もあるし、戊辰戦争後の会津の記録では八重さんを「川崎尚之助妻」と表記しているいっぽう、川崎さんが亡くなったときの戸籍には八重さんの名前の記載がないとのこと。

 ドラマ中にもありましたとおり、川崎さんは一身に詐欺事件の責任を負って係争中だったため、——彼が亡くなると、彼の負債もまた相続人がいればそちらにひきつがれる、つまり、八重さんがその負債を引き継ぐ可能性があるので、八重さんを記載しなかったのではないかと考えられる。らしい。

 なんにしても、昨日も、八重さんを送り出す川崎さんの言葉には、私も思わず涙ぐんでしまいましたが、それと同時に、プーシキンのことを思い出してもおりました。

 ちっと女にふられたぐらいで、ストーカーになり、果ては殺人まで犯す愚かな男どものニュースが絶えない昨今ですが、こういう、「ほんとうの愛情」を持った人の話を聞くと、ほっとしますね。
 プーシキンについては以前にも書きました(「愛情を持つ男」 2009・6・1 エントリー)ので、興味とお時間のある方にはそちらのエントリーをご覧いただくことにしてここでは省略しますが、——なかなか、こういう、本当の意味での愛情を持つことの希少性を、思わず感じてしまいました。

 男であれ女であれ——なぜか人間、異性を同じ人間とはみなさない傾向があるなか、こういう人もいるんだよな、と思うと、しんみりしてしまいます。
 なにかと日頃はボケた馬鹿面をしているせいか、たまに私、けっこうヘヴィな人生相談を聞かされたりして、不倫の話も聞かされることもありますけども。

 まあ、当事者たちはいろいろ言いますし、本人たちはそう信じているのでしょうが、不倫というものが「人の道に外れている」ものである以上、そこには、本当の意味での愛はないなあ、と思いながら、ふんふんと聞いております。
 たいていの人は(批判されることなく)話を聞いてほしいだけなので、私のようなボケた人間が、そうかそうかと聞いているのが、いちばん話しやすいようです。

 でも、ほんとうに相手に対する愛があるなら、そういうことはしないでしょ——と思って聞いていることが多いです。当人に言ってもしょうがないから、言いませんけど。

 愛するとはなんであるか。
 あーゆー話(不倫の)ばかり聞いていると、たまに本気で混乱してきますが、でも、川崎さんの純愛に、ひさびさ、あ、そうだった、こういうもののはずなんだ、と思い出せたのはありがたいことでした。

 あとは。
 京都府知事の槇村さんが、同郷の長州出身の人々をして、倒幕を実現した人を尊敬はしているが、彼らは壊しただけだ、といったとき、そうそう。と思わずうなずいてしまいました。
 壊しただけで、なにも作り上げていない。

 ——じつのところ、こういうときに本領発揮、「作り上げる」ことができる人材は、いたことはいたんだけど、そのほとんどは、幕末に殺されちゃったわけでね。
 返す返すも、残念なことでした。

 あのころの人材が、せめてあと半分でも生き延びてくれていたら、おそらく会津戦争のようなことは避けられた可能性も高いし、私がこれほど、明治期を嫌うこともなかったでしょう。

 司馬遼太郎は明治期のダイナミズムを評価し、明治時代が好きだったとも聞いていますが、私はその正反対ですね。(^^;)
 近代化実現の功績は認めるが、日本の伝統文化を破壊しやがったことについては、そらもう、評価できないどころの騒ぎじゃない。

 私が、坂本龍馬のファンですと口走ると、薩長好きと思い込む人がけっこういるんですが、あれはほんとうに勘弁してください。あたしゃああいう殺戮者と破壊者は大嫌いなの。

 中学生のとき「人殺しは好かぬ。権力者は好かぬ。キチガイは好かぬ。権威主義者も好かぬ」と心に決めましたが、そうすると、歴史上の(メジャーな)人物なんてのは、上記のどれか、たいていは複数項目、該当しますから、「好き」なわけはありませんのさ。

 歴史がけっこうすきとわかると「歴史上の人物で誰が好き?」と聞かれることも多いですが、そのたびに、つい、黙ってしまう理由は、そういうところにあります。

 功績や実績は評価するが、好き嫌いでいったら、たいていの人物は、嫌いですねあたしゃ。(^^;)

 勝者は歴史を作り、敗者は悲歌となる。

 文学というものにはまりこむ私は、そりゃあ、美しくも悲しい歌に、心を寄せようというもんです。
 古語では、いとしい、とも、悲しい、とも意味する「かなし」は、なんとなく、わかるような気がします。

 愛するということ、いとしいと感じることは、どこか、胸の痛む悲しみをその裏側に秘めている、——そんな気がします。

 
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野暮天の国
2013年08月18日 (日) | 編集 |
 ロシアというのは、シナ朝鮮とはまた異なる次元でのキチガイですわなあ…。
 この件についてはウクライナも同調気味なんですが………寒くて頭が凍ると人間こうなっちゃうのかな?

 どーでもいいが、この法律が成立すると(追記:法律はすでに成立)、あたしら腐女子・貴腐人はロシアには迂闊にいけませんぜ。行く気はもともとないけどさ。(←寒いのが大嫌い。温暖な静岡県の冬でうつになるほど)

反同性愛法で高まるソチ五輪ボイコットの声、露政府動じず
2013年08月10日 17:02 発信地:モスクワ/ロシア AFPBB News

 この法律については日本ではほとんど報道されていない気がするんですが、私が疎かっただけでしょうか。

 この法律は正確には「反同性愛プロパガンダ法」というのだそうで、

ロシアの反同性愛法が外国人にも…。ソチ五輪への影響は!?
2013.07.14 Sunday ブログ:たらのフィギュアスケート日記

 どうも法律内容の詳細がはっきりしないんですが……、「反プロパガンダ」というのはビミョーですねえ。
 同性愛を禁止、というのは言わずもがなってことでいいんですかね?
 
 以前、ウクライナでも同性愛を「禁止」する法案が国会に提出されて、そのときは結局、採決自体がされなかったので成立はしませんでしたが……ロシアがこの調子では、ロシアの子分のウクライナも、またやるかもしれませんね。

 それにしても不毛なこと。
 結婚を認めないというくらいならわかるけど、恋愛というものを「法的に禁止」することに、どんな意味が、どこまであるものなんでしょうかね。
 上記ブログエントリー中で紹介された記事のとおり、おまけに、これ、結局、なにが違反行為になるのかが、はっきりわからないんですよね。

 日本でも人権擁護法案がなんども出されていますが、あれもまた、結局、ようは、なにが違反行為になるのかがはっきりせず、その人権擁護委員会とやらのお気持ち次第というようにしか読めない。
 特高を復活させる気か、と私はかなり本気で憂慮中ですが(しつこいよね法務省も)——アレと同じニオイがしますね、この法律。

 第一、同性愛行為自体を禁止するというのならわからなくもないですが、「プロパガンダ」を禁止するって、なんですかそりゃ。意味がわからん。
 おまけに——この法律は、ロシアへ旅行へ行くような外国人にも適用されるというのですからたまらない。いや、そりゃ、この件だけ治外法権というわけにはいかないという原則を思えば、わかるんだけれどもさ。

 ………ロシアがムスリムに見えてくる今日この頃。

 プロパガンダねえ…。
 同性愛を支持するようなことを言ったり、同性愛を「推進」するような行為は禁止というのですが、それって具体的にはどんなん? と思いますよね。
 そこを示してもらわないと、おちおち旅行にも行けませんわ。——私は冷戦時代育ちなので、どのみち、ロシア辺りはたいへん恐ろしい国々で、(日本人旅行者のアイコンとも言える)カメラをかばんから出すだけで逮捕され、しかも生きて帰れる保障はないという、ちょーこえー国——という印象があるので、おそらく、死ぬまでロシアにはいかないとは思いますが。

 …………腐女子はロシアにはいかないほうが無難てことになるんじゃないのこれ。

 もっと深刻なのは、仕事でロシアにいくひと、駐在する人、そしてただいま話題になっているように、スポーツの競技会があり、それに出場するためにロシアに行く選手にまで、危険が及ぶ可能性がある、ということですね。

 IOCは、従来どおり、LGBT(Lesbian レズビアン、Gay ゲイ、Bisexuality バイセクシャリティ、Transgender トランスジェンダー)のアスリートを支持する、と表明したそうですが、それなら、ロシアオリンピック委員会とこのへんについては話を詰めておく必要がありますよね。
 選手の身柄の安全が保障されないところで、オリンピック開催なんてとんでもない。
 IOCも、FIFAみたいに口先だけだなんてことがないように希望します。……無理だろうけどな。

 それにしても。
 この手の話を聞くたびに思うのは、「そんなもん、法律で禁止したって意味ないだろう」ということ。

 ダメと言われてなんとかなるようなことじゃないでしょうよ——人を好きになるのは。
 本人にさえ、こういうことはどうにもならないことですもんね。
 もし明日世界がひっくりかえって、同性愛のほうが当たり前になって、お前、異性愛なんかやめろと言われたら、あたしゃ困りますよ。
 自分でどうにかできることじゃないですから。

 性的指向の不思議なところで——私は明らかに、男性より女性のほうが「好き」なんですが、それでも、セクシャリティはあくまでも異性愛者なんですもんね。
 男嫌いもここまできたら、いっそ同性愛者になったほうが私「個人」は幸せなのでは、と思ったこともありますが(……けっこう重症だな我ながら;;)、興味がないものは興味がない。こればっかりはしょうがない。

 明日世界がひっくり返って、異性愛者は死刑と言われたら、私も唯唯(いい)として死刑になるしかないでしょうねえ。
 それくらい、人間の「意志」ではどうにもならんことですよね。性的指向てのは。

 そんなもんを、法律で縛るなんてのは、無意味とかなんとか言うより愚の骨頂。

 どうしてこう、無駄なことを他人に押し付けようとする勢力てのが、必ずいるんだろうなあ。世の中には。
 ルールづくりでどうにかできることと、何をどうしようとどうにもならないことってあるじゃないの。
 性的指向は本人にもどうにもならないこと。

 ……たしかに、小児性愛みたいなのは、犯罪として規制されますが、それだって、心の中までは規制するわけじゃないですからね。
(ただいま話題の児童ポルノをめぐる規制法案についても思うことはありますが、それはまたいずれ)

 それにしても、これほど国際的にあちこちの国でスポーツ競技会が行われる現代において、こんな前時代的な法律のせいで、選手の身柄の安全がおびやかされるとは思いませんでしたわ。………イスラム世界以外で。

 フィギュアスケートのジョニー・ウィア選手のコメントを拝見して、こういう危機感は私どもも共有する必要があるなと思いました。
 他人事じゃないですよ日本人も。なにせ、いまや、日本のサブカルチャーのヘンタイぶりは、その筋では世界的に有名になっているわけなんで。

 あたしもうっかりロシアにいって、腐女子だということを理由にして、14日間拘留の憂き目に遭う(可能性がある)わけだ。
 漁業関係でも日本人を殺すことには「実績」があるロシアですからねえ……。どうなることやら。
(空自のスクランブルの回数も対ロシアが最多)

 それにしても。
 こんなキチガイ相手に領土返還交渉をしなきゃならんのかと思うと、あらためて目眩がしてきますわ……。

 どうして日本の周辺はこんなんばっかりなんだろう(涙)

 
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