Innocence
2013年04月30日 (火) | 編集 |
 なんだか、がっかりしちゃった……。

「価値観押しつけないで」 レズビアンら2千人パレード
2013年4月28日(日)21時57分配信 朝日新聞
 
 昨日も書きました件ですが、おや記事があった、と思って、下についているツイート群をみたらもう、がっかりでねえ……。

 あー。これは「嗜好」の話じゃないんだよ。ロリコン連中がなんか誤解しているコメントも見受けられますが。
 異常、アブノーマルと言っている人たちは、「正常」の定義をきっちり考えた方がいい。
 そういうことを疑いもしないんでしょうね。じつにお幸せことで、それは結構なことだとは思うけれど。
 子どもですねえ……。
 ここに書き込んでいる人たちの年齢層はどれくらいなんだろうか。

 若い人なら、既成概念を疑ったこともあまりないだろうから、偏見が厳しいのは、昨日も書いた通りで予想がつきますが、ある程度の人生経験を重ねてきた人間がこーゆーことを言ってたら、ちょっと情けないな。

 関心がないなら関心がないで黙っていてほしいというのも原発のときと同じだなー。無関心なヤツが中途半端に関心を持つとろくなことを言わないし、しない、というのはどうしてなんでしょうね。(^^;)

 自分が当たり前だと思っているものとは違うものに打ち当たったら、感情的になってないで、なぜ、自分はそれを当たり前だと思っているのかを、幼児期の記憶からたどって吟味してみればいい。
 それでより強い確証が見つかるというのならそれもいいでしょうしね。………もっとも、私の経験上、そういうことはあんまりないですけどね。

 むしろ、そういう作業がきちんとできた場合は、「当たり前」には、なんら確実な根拠などないということがわかって、それなりのカルチャーショックやら、どうかするとアイデンティティ・クライシスにも近いところに至ることがあって、なかなか愉快ですよ。

 この問題でいうなら、男らしい女らしいという価値観はじつに文化的なものであって、生物学とはほぼ無関係だということが理解できていないところがもう、あまりにも幼いとしか私には思えません。

 マイノリティとマジョリティの概念も、あらためて考えてみればその分類もいいかげんなもんだということがわかるはず——なぜというに、社会の中で中核となるものが、「多数派」とは限らないから。
 むしろ、少数のエリートによる支配というもののほうが、人類の歴史の中では期間的に長かった。

 少数エリート支配はやめましょうということになったのは、人類の歴史の中で見れば、ほんの昨日、というよりも、「ついさっき」程度の時間でしかない。

 社会の中の「当たり前」を生み出している「マジョリティ」は、じつは、じっさいの人数としてはむしろ「少人数」ということはよくあることで、であるならば、マイノリティとマジョリティの概念を、いちど疑ってみるのも必要なことじゃないですかね。

 結婚制度や、「家」制度は、世界を見ればじつに多様であることも知らないらしいコメントを見ていると、こめかみのあたりが痛くなってくる;;

 なるほど、こういう「無意識の偏見」にさらされるのは大変だろうな、とあらためて思った次第です。
 マイナーな存在の人々がこうやって声を上げるということ自体が、どれほどの障害をこえてのことなのか、意味があるかも知らないで、ほんっとにこのお幸せなおめでたいコメント群は……。

 私も逆に、こういう人たちの無邪気なコメントを見て、「少人数エリートによる社会支配」は、すでに時代の要求に応えられなくなっているので、これはもうやめましょう、ということの、ひとつの動きなんだなということをあらためて実感しました。
 つまり、旧弊な人々がなんといおうと、それが時代の求めるものならば、いちど起きた動き、変化の求めは、けっして後戻りはしない、ということです。

 いままで存在しなかったものを認め、価値観を変容させ、なによりも「受け入れる」というのは、ある種の人々にとってはたいへんな抵抗と恐怖をともなうらしい、ということは、よくわかりました。

 従来の概念を突き崩し、必要なものを作り上げるということは、やはり、なまなかなことではないということを、感じさせてくれる、無邪気な人々のコメント群でした。

 
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祝福
2013年04月29日 (月) | 編集 |
 まあとにかくいいお天気で。
 4月29日は晴れの特異日なんだそうですが、GWでこれだけいいお天気がつづくのも珍しい気がする。
 去年はけっこう、ぐずついてしまったんですよね。……というか……このGWで、沖縄には台風が来ていたような記憶がうっすらと……。

 それを思えば今年はじつにいい感じですね。
 東北ではこれから桜の盛りでしょうか。
 人生一度はやってみたい「桜前線の追っかけ」。
 お金と時間がたっぷり必要ですが……憧れるなあ。(^-^)

 私の方は今日は、午前中はいそいで片付け&買い出し。
 午後はうだうだしている予定です。

      ●

 乙武洋匡さんのツイートでこれを知る。

東京レインボープライド2013
http://tokyorainbowpride.jp

「プライドパレードはレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(LGBT)をはじめとするセクシュアルマイノリティーの存在をアピールし、その文化を祝うお祭りです」



「祝う」っていうのがいいですね。(^^)
 権利を主張、とかいっちゃうとどうも堅苦しいうえに重苦しい感じになりますが、存在をアピールし、その文化を祝う——となれば、ホントにお祭りでわーっと盛り上がれる気がする。

 こちらは賛同者であれば、誰でも参加できる、というのもいいですよね。

 それにしても。
 偏見というものは、いったいつ(から)、人の心に現れるものなんだろう。

 と申しますのは。
 案外、こういう、男らしい女らしいという概念に、先入観がさほど強固ではないと考えられがちな子どもこそが、保守的で石頭なことを言う(ことが多い)からです。

 我が身を省みても、成人して以降の私めは、ロングヘアの男性を見てもなんとも思わず、それどころか、ゲイの人と仲良くなったりしていたのでしたが、そういう私でも、子どものころ、吉田拓郎さんの歌を聴いて「男のくせに気持ち悪い」などと思っていたんでした。
 吉田拓郎さんの「結婚しようよ」ですね。

「結婚しようよ」歌詞 (歌ネット)
http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=1750

 この当時はたぶん、そういうファッションがはやっていたんですね。男性は髪が肩につくくらいの長さ、ベルボトムのジーンズをはいていたりして。
 女性の方は似合いもしないミニスカートに、極端に細い眉。ほんでゴーゴーを踊っているとか。……ゴーゴーってわかります?

 どういうわけか私は自分が生まれた時代の風俗が大嫌いで、なかんずく、若者の「流行」——ヒッピーとか、アンポハンタイとか、学生運動とか——、そういうことへの嫌悪感が、髪が「肩までのび」た若い男性にたいする嫌悪感を、いっそう増幅していたかもしれませんね。

 だいぶ大人になってから、この当時の自分(幼稚園〜小学校低学年)を顧みて、「どうして子どものころのほうが、ああも保守的かつ差別的だったのか」と不思議に思いました。
 私の人生の中で、あのときが、性別というものにたいして最高に差別的になっていた時代だと思う。
 その後の私は、そのへんには捌(さば)けちゃって、捌けるあまりに異性にたいして美しい幻想も持つこともできなくなってましたが(笑)

 もう19、20歳のころには身近にゲイの人がいて、私はべつにそのへんはなんとも思わず、むしろ、一部の人たちの「差別的な」態度にびっくりしていたんでした。
 で、差別的な人たちは「気持ち悪い」ということをよく言っていましたが、意味わかんねえ、と思いました。

 気持ち悪い、という言葉は、具体的には何を意味しているのか、と考えたとき、思い出したのがその「結婚しようよ」だったわけで。
 まだ幼児の私はずいぶん差別的なことを思っていたわけだが、あれはなんでだったかな、と、自分自身を不思議に思いました。

 自分自身のことだというのに、具体的なことは思い出すことができず、結局、「どうして子どものころの方が保守的だったりするんだろうなあ」と思うばかり。
 ひとつだけ、うっすらと「感覚」で思い出せたのは、ようは、幼児の頃というのはまだ自身の性にたいして、確信がないんですよね。当たり前だけど。
 で、そういう、ただでさえ存在があぶなっかしいものが、「髪が長い男」という、「ふつうではない」ものによって、なおさらあやうくされる。そういうことからくる、「警戒感」だったような気がします。

 最近——トランスジェンダーの人々の「生きづらさ」に同情するどころか、嫌悪感を丸出しにする人を見ていると、ああいう人たちが、根底では、「怖がっている」のがわかるときがあります。
 その怖いという感覚に触れると、「結婚しようよ」を不必要に嫌っていた自分を思い出します。

 怖がるというのは、ようは、自分が、なにかに「脅かされる」感覚がある、ということ。
 ——自分が持っている価値観なのか、社会的な立場なのか、いままでの人生で築いてきた概念、それによって確立したアイデンティティなのか、とにかく、なにか、その人が持っているもの、当然だと思い込んでいるものが、脅かされると感じているらしい、と、お見受けします。

 そんなふうに怖がることはないのにな、と思います。
 かりに、いままで自分が守ってきた(大切な)価値観が、それによってひっくり返されたとしても。
 べつに、そんなの、どってことないのにな。

 むしろ、自分が大事に守ってきたものがあっさりひっくり返ると、——なるほどショックはショックなんだけれど、新しい地平線が見えるようになって、案外、面白いものなんだけどな。

 そういう意味で、こういう新たな社会的な存在を「祝う」パレードって、いいな、と思います。

 人権を守れだの、権利を認めろだのと、堅苦しいうえに重苦しくしかも、へんなふうに攻撃的で、自分こそがネガティブになっている左巻きの主張なんかよりも。

 社会の中で生まれてくる「新しい文化」を認め、祝う、というほうが、いずれは、人の心に届いていくと思います。

 とはいえ。
 たしかに——このパレードの件、ほんっっっとに報道もなかったですよねえ。私も、乙武さんのツイートを見ていなかったらぜんぜん気がつきもしなかったと思う。
 また来年に期待、ですね。(^^)

 
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サッカーカルチャー
2013年04月28日 (日) | 編集 |
 ゴールデンウィーク前半となっておりますが、皆様、いかがおすごしでしょうか。
 私の方は、せっかくの休みですが地元自治体の当番にあたって、休み気分も何もふっとんでいる朝でございます。

 ただいま、お茶を一服しております。
 快晴で、風もなく、上天気の本日。外にいるのも気持ちがいい。
 いい季節になりましたねえ。(^-^)

        ●

 私も、もう2006年の、ワールドカップ、ドイツ大会で、
「サッカー自体は好きだが、ファンやメディアを含め、サッカーを取り巻く『サッカーカルチャー』は嫌い」
 ということになって以来、Jの話題からも遠ざかってはおりましたが。

 しかし、これはちょっとなあ。
 どうしてサッカーカルチャーってこうなるのかなあ。
 Jもそのうち、いまのイタリアサッカー界みたいに、収拾がつかない状況になるのかなあ(涙)

浦和レッズの清水エスパルスサポーター3時間監禁の件が朝日新聞にも普通に報じられる
2013年4月28日 09:32 [Jリーグ ニュース] サッカーコラム速報 でろプロ

 私も昨夜、そろそろ寝ようかなと思いつつ、ツイッターをのぞいたら、清水サポーターの、まだ帰宅できない旨のツイートを見てしまい、びっくりして時計を2度見。
 なんとか無事に帰途についた旨、聞いたのは、日付が変わってからでした。

 ………なにをやってんですかね浦和。
 
 こういう問題を起こすのは浦和だけではないのですが、こういう話題で目立つことが多いように思います。
 気のせいなんでしょうか。

 相手方サポータを監禁て……。監禁してどうする気なんだろうかといつも思いますね、この手のニュースを聞くと。

 くだらない。くだらないが、一般市民の身が心配にもなる。
 ですので、昨夜もついつい、気がついてから、無事帰途についたという知らせをみるまで、結局、眠れませんでした;;
 
 2006年のときは、日本のファン(自称)やマスコミだけでなく、諸外国のサポーターの態度のひどさ、メディアの粗雑なことにすっかり頭にきてしまい、そんなことしかできないならサッカーはなくなっていいとまで思いました。
 馬鹿に暴れる理由を与えてしまい、その馬鹿どもを制御することもできないボンクラが取り囲んでぼーっと見ているだけというなら、それはいずれ犯罪の温床になるだけだ。
 サッカーを禁止にしたほうが、健全な社会にとってはいいことなんじゃないの。
 とまで思いました。

 当時はまだ、Jは(諸外国に比べれば)サポーターも穏やかで楽しそうでいいね、という評判をいただいていたのですが、私としては、あのばか騒ぎをみたときに、日本のサポータも、ああいう馬鹿のほうがでしゃばり、犯罪者だらけの、しかも、その犯罪者の方が正当なファンであるかのようにふるまう、いやな「サッカーカルチャー」になってしまうのではないだろうかと危惧を感じました。

 あのとき感じた危惧が、じわりじわりと、つま先からゆっくりとだが確実に、這い上がってくるようで、気持ちが悪いです。

 そんなことを、日本で思うようになっちゃうとはなあ。
 情けない。(--;)
 Jサポは、他国に比べると、女性ファンや、またスタンドには子ども、家族連れの姿も多く見られて、そういう雰囲気が好きだっただけに、私としては、ああやっぱりこういう馬鹿に雰囲気が悪くされていく運命なのか、と、ただいま、泣くに泣けない気持ちです。

 どうしてサッカーというのは、こういう、へんな方向へねじまがったファンを引きつけやすいのでしょうか。
 そのうち、日本のサッカースタジアムでも、発煙筒がたかれ、それがピッチに投げ込まれ、客が暴れ、選手に暴行するようになるのかと思うと。
 …………暗い。暗すぎる。(私の予想が;;)

 私が昨夜、ハラハラしながらツイートを見ていた、その臨場感はこちらのブログエントリがわかりやすいかと思いますので、ご紹介を。
 ………まとめブログのお世話になる日がこようとは……。しかもこんなことで(涙)

浦和対清水の試合後にサポーター間トラブル発生か? 出口封鎖、レディアに救われた人も
2013年04月27日 23:47 ドメサカ板まとめブログ 様

 レディア、ありがとう(涙)
 機動隊よりレディアの方が頼もしかったということか……。(遠い目)

 ともあれ、こういう悪質な「カルチャー」をなくしていくには、どうすればいいんでしょうかねえ…;
 ファン同士の行動マナーが確立されることがいちばん望ましいとは思うのですが……。

 ちなみにこれ、浦和レッズのHPにある、「理念」(一部)。

活動理念
浦和レッドダイヤモンズは、社会の一員として青少年の健全な発育に寄与します。
浦和レッドダイヤモンズの最大の社会的責務は、青少年の健全な発育のサポートだと、私たちは考えています。
第一に、サッカー競技自体で
青少年の手本となる技術・体力だけでなく、素晴らしいチームワーク、敢闘精神、そしてフェアプレーをお見せします。
第二に、
フィールドを離れても、社会の一員として青少年の健全な発育をサポートする活動を行います。

(赤字下線、引用者)



 それにしても。
 サッカーって、なにか、変なんでしょうか……。

 私としてはあの「走り回る将棋」の、知的ゲームの面白さが好きなんだけどな……。なんでこんなことになるのかな……。

 なんだか本日は変にがっかりした記事ですみません;;

 皆様、どちらさまも、楽しい休日をお過ごしください。(← 一生懸命、バランスをとろうと努力している;;)

 
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神話とやら
2013年04月27日 (土) | 編集 |
 本日はちょいとばかり時間がないので、あっさりと。

 まったく世間様なんてのは、いーかげんだよなーと思った見出し。

揺らぐアップル神話、10年ぶり減益
2013年4月25日07時19分 読売新聞

 アップル神話ってなによと思ったら、エデンの園でもウィリアムテルでもなく、アップルコンピュータさんのことだそうで。
 厳密には「成長神話」なんだそうですが、——寡聞にして初耳だわ。そんなもん、いつからあったの。

 まったく人間なんてのは——といって悪ければ世間なんてのは、つくづく、いーかげんだ、と思います。
 Appleさんは独自の商品展開をしているために、Microsoft「帝国」のまえには風の前の塵に同じ、ジョブス氏が復帰して初代iMacをリリースするまでは、成長神話ならぬ「倒産神話(?)」だったですよ。

 Appleが消えてなくなるのは確実、ただ、それがいつになるかだけが問題——さんざんそう言われて、世界的な低いシェアを嗤われて、我らMacユーザーはなんかよくわからない差別に会い、というより「なんでMacなんか使ってんの」と露骨に馬鹿にされ。

 まあべつに、Macがなくなったらなくなったでしょうがない。機械音痴の私は、使いやすいものがあれば極力そちらを使うだけのことだが、ビデオではベータ方式がなくなったように、よいものが市場に生き残るとは限らないということは、よくわかっている。
 ま、しょーがないよね、それも。
 などと、さんざん思ってきた身ですから。

 アップルの成長神話なんて言われると「誰が、いつ、そんなもんを言い出したのか」と、国会の質問並みに追及したくなりますね(笑)

 それにしても、この神話という言葉、誰が好んで使いたがるんでしょうね。気になる。
 
 「原発の安全神話」という言葉を聞いたときも、口あんぐりでしたよ。
「なにそれ……?」
「いつ、そんなもんができてたの?」
 それこそ、寡聞がどうこうですらなくて初耳でしたわ。

 これは私自身の意識が、もとから、「原発はやめましょうよ」だったせいもあるかもしれませんが、——いや、じっさい、いつ、誰が、どのように、おもにどんな場面で、その安全神話を語っていたのか、教えてもらいたい。私は聞いたことがない。
 事故後、反原発派の罵言の中に登場したのを聞いたのが初めてで、「神話だあ?」と、あぜんとしてましたからね。「聞いたことねえわそんなもん」と。

 おまけに、その神話とやらに「だまされてきた」という言い草が、また癇に障ったんですよね。

 だまされたとは何だ。いままで、なーんの興味関心も持たずにきたのは、自分のせいだろう。自分が無関心できた、その責任をそうやって他人に押し付けるのか。

 あきれてものも言えないというのはあのことでした。

 とはいえ——関心を持ったかと思ったら、パニック、ヒステリー、反省するどころか責任転嫁、挙げ句の果てには風評加害だなどと、まあとにかく、そんなろくでもないことしか「できない」のなら、無関心でいてくれたほうがマシだわな——とも、思いましたし、現在もそう思っています。
 
 なんにしてもこの「神話」という言い方を好む人はどういう人種だろうかと、それが気になりました。

 ある一定の傾向や、なかば常識化したある評価、というものがあるのは事実でしょうが、それが「神話」というのはなにを意味するのか。
 
 神話というのは過去に存在したものを語るもののこと。
 過去は変わりません。一定しています。(解釈が変わることはあるかもしれませんが)

 現在ただいまを生きていて、めまぐるしく変化をしていく「生き物」をつかまえて、神話と呼ぶのには私ははなはだ、違和感があります。誰がそういう馬鹿なことをいうのさ、と思います。

 本来なら、つねに変化し、つねに現在から未来への見通しをたてて——あるいはたてようと「努力」することを、不断に行っていくべきなのを、「神話」と名付けてこれ以上変化がないかのように解釈する。

 ただいま現在、なお変化しているのに、その変化を無理矢理、無視し、あるレッテルを貼ることで、行うべき判断を省略しようとする態度が、そもそも怠慢に思えます。私には。

 神話だなどと、くだらないレッテル貼りをしてやがんのは誰だよ。と。

 見た瞬間、反射的に気分が悪くなった見出しでした。(^^;) 

 
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韓流ファンの主張
2013年04月26日 (金) | 編集 |
 せっかくのクリスマスパーティで楽しんでいたのに、〆に朝鮮語の歌(カラオケ)なんて聞かされて、一気にテンションがさがり、気分も悪く帰途についた方の身にもなれよといいたいところですが。
 立場が違えば見解も異なるとはいえ、………なるほど、話を聞かないと、具体的にはどういう見解なのか、想像もつかないものがあるんだなー、と思った本。

さよなら、韓流さよなら、韓流
(2013/02/21)
北原 みのり

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 タイトルを見ると、韓流を否定しているようですがそうではなく、こちらは、もろに韓流ファンであり、それがためにネットでシャレにならない損害を蒙(こうむ)った方の手によるご著書です。

 申し訳ないですが、私はこの本、未読です。
 銀行にお使いにいって、待ち時間があったので、女性週刊誌をぱらぱら見ていたら、上記の本が紹介されていた……というか、あれは著者本人によるコラムだったかな?

 そのコラムを書いていたのが、本書の著者だったのか、違う人だったのか、ちょっと思い出せませんが(すみません、パラ見だったので;;)、ともあれ、そのコラム筆者のご母堂様も、いわゆる韓流ドラマがお好きだそうで。
 そのご母堂様のつましいごようす——1日の仕事が終わり、しばしの憩いの時間、いそいそとドラマを見る(たぶん、録画をでしょう)……という、牧歌的な風景が描写されていました。

 たしかに。
 そういう、個人的に、ほっこりする楽しみとして外国ドラマを見る、というだけなら、なんの違和感もない。平和そのものの光景ですね。

 こういう、なんの思想性もない、ただつましく生きている人の、ほんのささやかな楽しみが、なぜ、あれほど激しく排斥、非難されなければならないのか、と、——そういう疑問、怒り、悲しみの訴えですね。

 なるほど、たしかに、それは言えるな、と思いました。

 ただ。
「韓流はエロである」というのも意味不明だし、こういうものが「フェミ」の主張とまぜこぜにされるとなると、私としては「はあ?」としか言いようがない。
 ようするに、フェミニズムが、男どもによって叩かれるという解釈で、韓流にそのフェミを重ね合わせ、心が狭くて嫉妬深い「愛国者」の男どもが、愛国にことよせて、女性を差別、抑圧する——という構図を、著者は語るようです。

 これは、私も都合のいいように言ってやがると思ってますよ、「韓流おばさん」ていうの。

 韓国の女性アイドルの「尻振り」にやにさがった(日本人)男性も多くいるのに、そのへんは都合良く、「おばさん」を強調することによって、なかったことにしようとしている。
 私も、そのへん、見かけるたびに、ふふん(冷)、と笑っておりました。
 が。
 それが、「韓流たたきは、フェミ叩きと同じ」次元のこととして解釈されるとは予想しておりませんでした。(^^;)

 韓流嫌いで、熱心に「活動」している人の中には、女性も少なくないんだけど……、あ、でも、反フェミには、そういうことは関係ないか;;
 げんに私は、男尊女卑を嫌うのとまったく同じ理由で、フェミニズムが苦手だものな;;

 私はこの本は未読でして、本来、自分が読んでもいない本のことを書くのは失礼ではありますが、ともあれ、その雑誌のコラム、その内容だけでも、けっこうな衝撃でしたので。

 韓流はエロである、という主張については、エロはすなわち「女性の欲望」のことらしい。

 ………あたしゃ刷り込みが大川橋蔵さんだし、……なにが刷り込みになったかって、あの舞踊を基礎にした流し目に、幼稚園児のときに魂抜かれた、というのが根底にあるので。
 ………韓流ハンサムを見ても、なんも感じないどころか、むしろ「気持ち悪い」ほうがじわじわきていたくらいだったから、もう、このへんの感覚の違いは仕方ないですね。

 ああいうもんに欲情するのか。欲情「できる」もんなのか。へー。というのが正直な感想。(^^;)

 ただ、そういう、ささやかな楽しみ、個人の「好き」、あるいは趣味、——そういうものでしかないのに、それが「愛国」によって叩き潰される「異常」への、異議申し立ては、たしかに、その立場にいる人からすれば、当然のことだろうな、と思いました。

 大河ドラマ「篤姫」では、篤姫さんは、「一方を聞いて沙汰するな」と——、どんなことでも、必ず、それぞれの人にはそれぞれの言い分、立場、事情があるのだから、いきなり決めつけたりせずに、とにかく双方からの話を聞くべし、ということを、ドラマ中では再三、言っていましたね。
 これはもっともなことである、と私も思ってはいたのですが。
 なるほど、韓流とやらにハマった人のご意見は、ちゃんと聞いたことがなかったなあ。と、そこは反省しました。

 ただ、——どういえばいいんでしょうかね……、たとえば、ハリウッド映画が好き、その俳優さんのファン、という人はいるけれども、そういう、いわばハリウッド映画ファンが、かなり極端な「アメリカ好き」「アメリカかぶれ」になるということは、あんまりないわけですよね。

 それが、なぜか、韓流スターとやらにハマった人々は、アイドルなり俳優さんなりのファンであることからどんどん拡大して、「韓国という国」にまで、幻想の対象を広げていくわけです。
 どこまで本気で言っているのか知りませんが、あちらの男性は魅力的だとか結婚したいとか(!)。
 正気か?! ——というのが、私の感想。

 外国の映画でもドラマでも俳優さんでも歌手でもアイドルでも、スポーツ選手でも、そういう人たちのファンをやっている日本人はかなりいますが、そういう、芸能なり、スポーツなりの範囲をつきぬけて、「国」にまで「幻想」の範囲を広げている人は滅多にいない。

 ジョニー・デップさんや、レオナルド・ディカプリオさんのファンだからといって、あちらのお国の男性にまるごと甘い幻想を抱き、熱に浮かされたようになる人というのは、まず、いませんよね。
 C・ロナウド選手を熱愛している女性を知っていますが、だからって、ポルトガルLOVE、ポルトガル人の男性すてき、みたいなことは言いません。それとコレとは別——それが、ある意味、当たり前の態度だと私は思っております。

 そういうあたりからしてすでに、韓流スターのファンは「気持ち悪い」んだよなーといったら怒られますか。(^^;)

 なぜ、韓流ファンに限って、芸能なりの範囲から拡大して幻想が広がっていくのかがわからん、とぼやいていたら、うちの母は一言。
「自分てものがないんじゃないの」
 ………うーん。
 たしかに一種の洗脳状態にも見える。などといったらまた怒られるでしょうが。

 いま、そうやって考えてきて、たしかに、歌手なり俳優なりへの幻想を、その人の出身地にまで広げて夢中になる例というのは、他では見ないな、と気がつきました。
 これ、韓流ファンに限定の現象なんですよねえ……。

 うーん。なんでだろう。やはり、韓流にはなにか、そんなふうにさせるものがあるのだろうか。それとも、そんなふうに、極端にハマってしまう性質を持っている人が、韓流にハマる(ことが多い)ということなんだろうか。

 本書の内容紹介には、その目次に、

●ヨン様が開いてくれた欲望の扉
●東方神起で目覚めた男の美しさ
●日本の男らしさと韓国の男らしさ


 といったものがありますが。
 ——なんですかそれは。と、きょとんとしてしまいます。

 韓流スターとやらにハマるのはいいんですが、なんでそこでいちいち、日本の男性を引っ張りだして比べなければならないのか、そこが私にはわからない。
 この本の、Amazonさんでついたレビューのなかにも、日本人男性の悪口がありますが、……いやまあ、たしかにそういう人が少なくない人数いるのは事実だけど、韓国人男性にはそれが当てはまらないとでも思ってんだろうか。
 そこが私には不思議です。

 韓流好きなら好きでかまわないものを、なんでいちいち、その出身国にまで幻想を拡大させるのか。あまつさえ、比較にならない比較をして、わざわざ、自国の人々を貶めるのか。

 韓流の、売り込んできた勢いというのはそりゃすごいものがあって、それだけでも私どもには「気持ちが悪い」と感じるのには十分なんですが(安部公房の戯曲『友達』を読むと、なぜそういうものが人に警戒心と嫌悪感を抱かせるかわかると思う)、——それが「愛国」的な「いいわけ」に集約されていったのは、たしかに、これもまた、気持ちの悪い現象だっただろう、とは、私も思いました。

 なるほど、誰かの言い分というのは、やはりちゃんと聞いてみないとわからないものだな、と。
 そういうあたりで、興味深く感じています。
 
 とはいえ、ああいうものに欲情する人とは、やっぱりお友達にはなれないなーとは、思いますけども。(^^;)

 韓流ですが、これは、たしかに一時期よりは勢いはなくなるでしょうが、「皆無になる」こともまた、もはやないだろうと、私は思っております。キムチがスーパーの店頭からなくなることはないであろうと同じことで。

 まあ、なんのファンであれ、ファンという人々が、自分が好きなものを神聖視し、絶対視し、「布教」しようとするのは、年代も性別も問わない、人間の「さが」であるということはわかっちゃいるんですが。
 でも、せっかくのクリスマスパーティで、へんな歌を得意げに歌って、すてきでしょ! などと「押し付ける」のは、ホントに勘弁してください;;

 これはべつに韓流だから言ってんじゃなくて。
 私はもとから、カラオケで、うまくもない歌につきあわされるのが苦痛だという、日本人にあるまじき人間なので。(^^;)

 どのジャンルでも、ファンというのは、非ファンから見るとうっとうしいものなんですが、そのへん、お互いに節度を守り合っていければいいなというのが、私の、昔からの願いです。
 すなわち、——非ファンはファンを弾圧しないこと。ファンは、非ファンに、ファンであることを強要しないこと。

 その態度を守るだけで、けっこう丸く収まるはずなんだけどな。
 これは韓流ファン以外の方々にも、よくよくお願いしたいです。

 本来、好きということはいいことなのに、それが原因でつまらない諍いになるというのは。
 考えてみると悲しい構図ではあります。

 その構図は、ファンと非ファンそれぞれが、それぞれに対して、想像力を持ち、節度を守れば、簡単に避けられることだと思うんだけどなあ……。
 

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我が身ひとつ
2013年04月25日 (木) | 編集 |
 とある駐車場のそばを通りかかったとき。
 子どもの泣き声が聞こえまして。けっこう激しく泣いているので、はっとしました。

 ま、まさか、子どもの閉じ込め? と焦って、フェンスによじのぼり、フェンス越しに駐車場を見渡し、きょろきょろしてしまいました。完全に、私の方が不審人物でした;;
 
 結局、駐車場にとめている車の運転席に、お母さんらしき女性がいて、子どもさんが、ぐずっているだけのようでした。
 ほっとして、フェンスから降りて帰ってきました。

 こういうご時世だから、火がついたように泣いている子どもの声を聞くと、ぎくっとしますねえ;;

       ●

 iPhone(4S)を購入して1年……。
 あと1年は使うわけですが、そのあとはどうしようかと今から考えてみたり。

 諸般の事情から、iPhoneもいいけれど、国内メーカーさんのスマホを買うべきなんではなかろうか、という気持ちもあるんですよね。Androidもだいぶこなれたと聞きますし。

 ただ——目下のところ、なるほどiCloud、便利だなーということで……、ほかはともかく、スケジュール管理が便利なもんで、iPhoneを離れるのはつらいかなあ。とも思ったり。

 しかしま、人間、なければないで何とかなるもんだ、というのも経験でわかっているので。
 そのへんはあまり気にしなくてもいいか。(^^;)

 なにごとであれ、「○○がないと生きていけない!」というようなものは、あんまり増やしたくないなという気持ちがあるんですよね。

 そういう気持ちって、下手をすれば依存症の遠因になったりもしますし。
 なにかがないと生きていけないというのは、ほとんどの場合、「ただの気のせい」だったりしますし。

 空気と水と衣食住——それくらいでしょうか。

 愛がないと……と言う人もいますが、これはどうなんでしょうね。(^^;)
 いえべつに、ひがんで言っているわけではなく。
 たしかに、愛する人がいてくれることは生きるうえでは大事なことなんですが、その一方で、これは本当にひどい「現実」だと思ったのは。

 誰を失おうと——それが、どんなに愛している人であろうと——、死んだものが自分ではない限り、私どもは「生きている」し、「生きていかなければならない」のだ。ということ。
 自分の親でも、二世を誓った伴侶でも、最愛の我が子でも。
 死んだのが自分ではないのなら、自分は生きているし、生きていかなければならない。

 この「現実」の過酷さ。

 愛する人でさえ、「それがなくては生きていけない」わけではない。
 ——誰かを失ったというだけでは、自分の心臓はとまったりしない、……そう気がついたとき。

 生きる、ということは、厳しいなあ、と思いました。

 以前には、それを思うだけで恐ろしく、おののいておりましたが。
 誰を失おうとも、自分の心臓はただ自分のことだけを現実のこととして生きている、その「非道」さに、嫌悪も抱いておりましたが。

 誰を失っても、それでも、自分の心臓が動いているのなら、生きていかなければならないけれども。
 それを恐れたり、嫌ったりする必要はないんだなと、最近は——ことに、震災から、思うようになりました。

 自分の心臓が動いているかぎり、生きるのに必要な愛は自分自身にある。
 自分以外の誰かではなく。
 自分自身の命に、自分の愛を傾ける。
 それが、生きること、愛することなんだろうな、と。

 そう思いましたら、あの妙な「恐怖」感がだいぶ、薄れました。
 私の場合、死を恐れるのは当然としても、生きることそれ自体が、ものすごい恐怖の対象みたいです。
 その恐怖感が、むしろ、震災以後に薄れてきたというのは。
 ある意味、腹をくくったところがあるんですかねえ……。

 ………えーと。
 何の話でしたっけ。

 あ、そうそう。そういうわけで究極的には自分の身ひとつで生きるというのが、現実というものなので、何かがないと生きていけないなどとは、あんまり思い込まないほうがいいと思う、ということなんでした。

 あいかわらず、話がへんなほうにすっ飛んでいく頭です;;

 
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スポーツ道
2013年04月24日 (水) | 編集 |
 なるほどこれは難問だ……。
「スポーツの境目」というテーマ。



 散歩……散歩は「運動」というイメージかなあ……。ランニングは? と言われると——たとえば、野球などをしている人が、トレーニングの一つとしてランニングしていると、「運動」のイメージになり、マラソン競技者がランニングしているとスポーツというイメージになります………完っ全に私見ですが。

 運動とスポーツは違うのか、というと——厳密には違う、と思っているみたいです、私の場合。
 
 運動、というのはようは「からだを動かすこと」で、「スポーツ」は、ただ動かせばいいというものではなく、そこには必ず「競い合う」ことが主目的として存在する。

 私が通っているダンスレッスンは「運動」。スポーツではない。

 あくまで私のイメージですが、スポーツは「競争するもの」「競争が目的」であるもの、のようです。

 純粋に走ることが好きで、べつにどこかのマラソン大会に出ようとすら思わず、記録も気にせず、走ることそのものが目的で楽しんでいる人が走るのは、趣味としての運動であって、スポーツではないという感じ。

 スポーツは、見るのは好きだが自分がやるのは興味ない、というより、積極的に「いや」という私が考えるスポーツは、「競争」なんですよね。
 広い意味での「運動」のなかに「スポーツ」は存在している。
 ダンスは「運動」のなかに存在しているが、「スポーツ」には含まれない。——そんな感じ。
 
 運動はするけど競争はしたくない、——そういう私にとってのスポーツのくくりは「競争を目的にするかどうか」が、境界線として存在する………みたいです。
 
 なにごとであれ、あんまり、他人と競争するのって好きじゃないんですよねえ……。
 子どものころ、鬼ごっこやかくれんぼ、ままごと、といった遊びは好きだったが、トランプ、ボードゲームというものから、現在のコンピュータゲームにいたるまで「ゲーム」といわれるものは、基本、興味もないし好きでもない——というのは、競い合う、勝敗が存在する、勝敗を決めることを目的にした何か、——それがイヤだ、ということだったかもしれない。

 鬼ごっこなども勝敗があるんじゃないの、と言われそうですが、あれは厳密には勝敗ではない気がします。誰もが鬼になる可能性があり、誰でも、その鬼であることをやめるすべはある。循環があるのであって、ヒエラルキーの上に行こうとするものではない。
 そこらへんが、私にとっては違いとして大きい。

 コンピュータゲームにはてんで興味がない、というのも、結局は勝者を決めるトランプのゲームを嫌うのとまったく同じことの延長線上にあるようです。
 
 スポーツというのは、その語源からすると、余暇とか遊びとか、もっと余裕があるもののはずなんだけれど、私にとってはもっと厳しい、それこそ「遊び」だなどというと誰かの鉄拳が飛んできそうな、「おっかない」イメージがあるんですねなんとなく。(^^;)

 スポーツの概念が、たとえば、欧米あたりとは違う気がする、というのは私も感じていることなんですが。

 日本人はなんでも「道」にしてしまう。余暇ゴルフでさえ、雨風の中を、黙々とゲームを続ける日本人を見て、とある外国人(ヨーロッパ某国出身)が、なんであんなに苦行みたいにして余暇ゴルフをやってるのと驚いていた、という話を聞いたこともあります。

 その異人さんが見たものは、ゴルフではなく「ゴルフ道」だったのだ、ということを解説していたのはどなただったか;;

 野球も「野球道」みたいな文化もたしかにあるし(高校野球にはそれが顕著に思える)、本来、人々が広く楽しむはずのスポーツを、日本人は多く、修行のような「道」にしてしまう。
 それはたしかに哲学としての奥深さを育てることにもなっているんだけれども。

 ——私みたいに、ようは楽しけりゃいいじゃないですか、なにもそれでプロになろうてんじゃないんだし、などと、「いいかげんな」ことをいう人間は、結局、「スポーツ道」はちょっち苦手……、といって逃げていく。

 他国は知らず、どうも日本においては、その「道」の精神が、「真面目に」取り組むときには立ち現れてきて——競い合う、という目的があり、それに勝たねばならぬという義務感があると、悲愴なまでの「道」に近づいていくし、近づいていく「べき」だという風潮もあるように思います。

 なにもプロになろうとか、オリンピックで勝とうとかっていうんじゃないんだからさー。と思うときは、——これはスポーツじゃないよ、「スポーツ道」とは関係ないよ、余暇だよ、趣味だよ、ということを強調して、「悲愴感なく、楽しむ」ことの「いいわけ」を、てんこ盛りにしなければならない。
 下手にスポーツですなどというと、なんでそんなに「いいかげんに」「楽しそうに」「(不謹慎にも)笑って」やってんだ、と怒られるから、楽しみたいときは、これはスポーツじゃないよ遊びだよ、という、そういう看板を掲げる必要がある。

 そういう必要があるように思わせる、「風潮」が、この国にはある。
 そのように感じます。個人的に。

 なんでも真面目に取り組むというのは、基本的には悪いことではないでしょうが、しかし、楽しむことを「悪い」ことのようにみなす、あの「スポーツ道」精神て、なんなんだろうなあ…。

 私もちゃらんぽらんで、他人と競うことはイヤ、精神的に苦しいのも御免(自分の人生だけでじゅーぶん間に合ってます)、でも、からだを動かして楽しみたい——、こういう人間のための場は、現在の日本には、あまりないように思います。
(それでも数十年まえから見れば少しずつ、そういう場も出てきているとも思いますが……)

 ランニングが人気だというのも、あれは、おおがかりなスポーツ施設がなくても、自分で楽しくからだを動かせる、というところが、魅力なのかもしれませんね。
 最近では、そのウェアもすっかりおしゃれに、多様になって、ファッションとしても楽しそうだし♪
 
 楽しむことに後ろめたさがある(後ろめたさを“刷り込む”)「道」の文化。
 それが、日本においては「スポーツ」の範囲を狭くさせている。
 そう言い切ってしまうのも、ちょっと問題があるのかなー。(^^;)
 でも、「運動はしたいがスポーツはイヤ」な私は、そのように感じております。

 
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怪我の功名
2013年04月23日 (火) | 編集 |
 いいかげん、バカバカしいのも通り越しているので、私としてはどーでもいいんですが、ほかの報道もおかしいわ、ということで。

 先日の靖国神社の例大祭に、参拝した閣僚があったそうですが、それを口実に韓国側がまーた騒いだ件。

中韓と摩擦再燃=北朝鮮戦略に影響も―靖国問題
2013年4月22日(月)19時51分配信 時事通信

 時事通信、共同通信もわりと、アレな記事を書くところですが、本文を読んでいるときは、また朝日か毎日か? と思っちゃいましたよ。
 この記事書いたの、だれです?

 なんだかこの記事の書き方だと、シナと韓国に振られた日本が弱り切っているみたいじゃないの。
 どなたの妄想ですか?
 どうしてこういう印象操作をしようとするのかな。

 外相会談を断られて、日本が困っている、という報道は「正しい」か?
 記事を書いた人は、「事実を事実として報道している」か?

 大いに疑問ですね。

 なぜかというと、その外相会談やら、断るも何も、そもそもその予定はなかったとのことですんで。

官房長官、日韓外相会談中止の通達「一切ない」
2013年4月22日 11:28 TBSニュース

 ということで、外相会談を韓国が蹴ってきたというのは正確ではありません。

 そういう会談をセッティングしようとしていたのは事実だが、具体的日程はまったく詰まってはおらず、予定もなかった。
 私ども庶民の日常でいうならば、いわば、「こんど飲みにいきたいねー」「そうだねー」くらいの話でしかなかったわけです。

 シナの方は、……うーん、まあ、どうでもいいや。どうせ去年から断絶状態なんだし。いまさらいまさら。

 高村(こうむら)さんがシナへいく予定があったんだそうですが、行ったとしても、中共のエライ人たちは「忙しいから会えない」といっているとかで、話は流れたそうで。
 忙しいのはお互い様だと思うけどなあ(笑) 断るにしてもほかの口実はなかったんですかねえ。

 まあ、四川省で大きな地震がありましたから、その対応で忙しいということなら、たしかに、それはこちらから辞退するのが礼儀というものだとは思いますが。

 なんにしても。
 シナも韓国も、靖国神社のことにしろ、その「歴史」とやらにしろ、それらはもう外交カードとしては使えなくなったということが、まだわかっていないところがすてきです。

 今までだったら重要な、効果も覿面だった外交カードが、使えなくなったのは——これはたしかに、民主党政権の「おかげ」かもしれません。
 こちらのブログエントリーを拝見し、そうそう、と腹の底から同意。

だからその手はもう通じないって
2013年4月22日 「フリーライター宮島理のプチ論壇 since1997」

 これはあのときの状況を思い出す……。
 忘れもしない、2002年の、サッカーW杯。

 日韓「分催」という、日本からすれば超絶悪夢の形態で開催されましたね。
 私は、この分催が決定したとき、日本サッカー協会に対し、
「そんな形式ならやめます、って、なんでこっちから断らなかったんだ!」
 と、もう、激怒なんてもんじゃないレベルで怒ったんですけども。

 考えてみたら私の韓国嫌いというのは、少なくとも高校生のころにはあったんですが、いまと違って、韓国についてはほとんどなんの情報もない時代のこと。情報は少ないし、親からもとくに韓国嫌いになるような教育をされた覚えもないのに、なんで嫌いになったんだったかな、と自分で不思議に思ったんですけども。
 ——考えてみたら、サッカーの「おかげ」でしたよ。

 サッカー王国と呼ばれていた静岡県。私個人はとくにサッカーファンという認識はなかったのですが、それでも、元日の天皇杯は見るし、高校サッカーは中学の頃からチェックしていたし(当時は、全国大会よりも県大会のほうが面白かった)、従兄もサッカー小僧だしで、自然、サッカーの情報は多かった。
 全日本チームのことも、チェックしていたんですよね。

 当時の日本は、そりゃもう弱かったですよ。「出ると負け」ってやつで。またその負けっぷりがけっこう激しくて(笑)
 私は、自分の目の黒いうちに日本がワールドカップ出場なんてことは絶対にないと思ってました。
 そういうなかで、——韓国の態度はそりゃあひどかった。
 現在と違って、試合以外の情報なんか皆無でしたが(というか——試合のテレビ中継もろくになかった;;)、試合を見ているだけで、韓国のことは立派に(?)嫌いになれましたね。
 想像がつくと思います。サッカーのテクニックのことではなく、選手の態度、ふるまいのレベルで、嫌いになれるのです。はい。

 ということで、2002年以前、とっくに私は韓国嫌いでしたが、周囲の友人たちにはほとんど理解されていませんでした。
 べつに韓国に対してみんなが好意的だったということではなく、ようは、情報がないから「知らない」「好き嫌いいうほどにも関心がない」だけのことなんですけども。
 韓国をどんだけ嫌っているかを語っても、相槌(あいづち)すら打ってもらえない状況で、私としてはけっこう孤独でした。

 が。
 あのワールドカップの開催中、韓国の情報はいっきに増えたわけですが、そのことにより、韓国がどれほど×××な国か、国民はどういう気質か、ということが、広く知れ渡るようになりまして。
 なるほどあれはひどい。あれはないわ。——ということで、私の周囲でも友人たちはみな、理解してくれるようになって、私としては本当に嬉しかったです。

 民主党政権というのは、あれと同じ効果をもたらしてくれた、と、それは私も認めます。

 日韓分催ワールドカップは悪夢だったが、彼ら自身のふるまいによって、日本でも、韓国その国民がどれほどひどいかが認知され。
 民主党政権は、悪夢ではすまされないほどの「災害」だったけれども、シナや朝鮮に媚び続けた政権があったおかげで、いままでの外交カードを「無効化」できた。

 これは怪我の功名だとは思いますが、それでも、ありがたいことには違いない。

 それにしても。
 靖国神社へお参りするのはけっこうなんですが、そのときには、どうか千鳥ヶ淵——戦没者墓苑にも、お参りしてほしいと思います。
 以前にはずいぶんさびしい印象でしたが、千鳥ヶ淵も、最近ではだいぶ、きれいになりました。
 
 あるいは、閣僚のなかにも、千鳥ヶ淵へお参りくださっている方があるのかもしれませんが——報道がないんですよねえ。
 そういうことを報道せずに、シナや韓国が騒ぐぞ、関係がこじれるぞ、どうすんだよ政府——だなどと、くだらないことを煽ってばかりいるメディアには、猛省をうながしたいです。

 ………まさかとは思うけど、千鳥ヶ淵戦没者墓苑を、そもそも、知らない、なんて言うんじゃないでしょうね、マスコミ各社は。

 
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イメージそれぞれ
2013年04月22日 (月) | 編集 |
 そういえば、大河ドラマ「八重の桜」、長州の、悪役に描かれっぷりがひどい、というクレームが出たという話を聞きまして。
 思わず、あははははと大笑い。

 うーん、でもそうかなあ。私はそんなにひどい描かれ方はされていないと思ったけどなあ。
 日本人にとって「朝敵」と呼ばれることはそりゃもう他に比較のされようがないほどの「悪役」なんで、——私どもは明治以後の歴史観、ものの見方がしみついているので、そういうものが逆に、バイアスになっているんじゃないでしょうか。
 ゆえに、あの当時、リアルタイムでは、朝敵となった長州が、どれほど「悪辣な」イメージだったか、想像できていないだけのことじゃないですかね。

 維新後、会津は、必要以上に悪役にされ、必要以上にいじめられつづけた。
 その「歴史上の事実」を思えば、(しょせん)ドラマのことで、ちっとくれー悪役にされたからって、ガタガタいうこともあるまいと思います。なんせ、歴史上では「勝者」なんですから。

 自分は他人の悪口を言ってもいいが、自分が他人から悪口を言われるのは許せない、というのは、——まあ人間はだれでもそういう心理はあるとは思いますが、あまりそのへん、露骨に表に出さない方が、よろしいのではないでしょうか。

 立場が異なれば正義も異なる。それだけのことでしょ。
 私としては、やはりこれまで、ドラマなり映画なりで、会津からみた歴史というものは描かれなかったから、今回のドラマでは、なるほどなあ、視点をかえると、様相も変わって見えるなあ、と——当たり前ではありますが、なかなかその当たり前を実行できない人間のひとりとして、感心しながら見ております。

 正義だ悪だは、しょせん相対的な価値観。

 本当の意味での大義というものから振り返れば、結局は、どちらも「同じこと」ですからね……私としては、こういうドラマに反発する人がいる、と聞いたときは、むしろ、え? とびっくりし、次の瞬間には「あははははは」だったという次第です。

 桂小五郎さんなんて可愛い描かれ方をしているじゃないですか。私はこの人よりは、この人の奥さんのエピソードの方が好きだったりしますが、べつに、長州がことさらに悪役になっているとは思いませんでしたよ。
 これは、「正義の味方」「勝者」として扱われ続けた100年のうちに、無意識に形成された「自己イメージ」があったということなんでしょうかね。面白いな。

 でも、自己イメージてのはたしかにありますよねえ。
 ほんで、他人様の目には自分がどう見えているか、他人様は自分をどう思っているかを聞いたときに、意外だったり、驚いたり、恐縮したり(自分で思うより高評価だった場合)、不本意だったり、笑うしかなかったり……、ま、いろいろです。
 似顔絵を見たときもそうですよね。
 周りの人は「似てるよ、この絵」というのに、本人としては「えー。あたし、こんな顔じゃないよ」と不満に思ったりする。

 イメージというのはあくまでイメージであって、実相でも実像でもない。
 そこらへんで、他人様が持っているイメージと並べて見たときに、自分がどういう「思い込み」を持っているかがわかって、面白いかもしれませんね。

 事実だと思っていることは、じつは、単なる自分の思い込みにすぎないということは多い。

 裁判などで、意外なまでに事実認定が難しい、あるいは時間がかかる理由でしょうね。

 
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ウサギさんを黙らせる法
2013年04月21日 (日) | 編集 |
 昨日は二十四節気の「穀雨」でしたが、春らしい気候を感じるどころか、またしても3月並みに寒くなり、すっかりやる気をなくしております。
 
 というより——昨日が25℃の夏日、今日は18℃の冬、……こういうのはやめてほしいですわ。自律神経がもともとバランス取れている方ではないので、もう、自分のからだがバラバラになりそうな、なんとも形容のしようのない不快感にめげてます。

 ここ数年、どうも気候は極端じゃないですかねえ。寒いといったら寒い、暑いとなったら殺人的に暑い、雨が降ると言えば豪雨、降らなきゃ旱魃、台風は連続してきやがるし、……もういいかげんにせんかい、と言いたい。

        ●

 ボストン爆破事件、犯人が無事捕まってよかったですね、といっていたんですが、……あんまり無事でもなかったんですね;;
 報道によれば、銃撃戦のときに負傷し、現在は重体とのこと。

 あと——彼は未成年なんですね。もう、堂々と姓名は世界中に配信されていますけれど、これ、もし日本国内で起きた事件だったら、未成年者であることを理由に、顔はもちろん氏名の公表もされないのでしょうか。
 ということが、ふと気になりました。

        ●

 今日は日曜日だし寒いし雨だしやる気が出ないので、どうでもいいお話をひとつ。(「ので」とは言ってはいるが、因果関係は不明です;;)

 その昔、「月刊OUT」という雑誌がありまして。
 その読者投稿で読んだ歌(?)が、いまだに忘れられません。

「♪ もしもし亀よ、亀さんよ」
「♪ はいはいウサギよウサギさん」

 …………不思議と、こうやって亀さんがウサギさんに返事をするとですね、この歌、これ以上つづかないんです。(^^;)

 ♪世界のうちでお前ほど歩みの鈍(のろ)いものはない……という、まことに大きなお世話&無礼千万な歌詞が、「はいはいウサギよウサギさん」のあとだと、どうも続けにくい気持ちになる。

 ……え。ならない。そうですか? (^^;)

 私はこの歌詞を見たとき、自分で実際うたってみようとしたら、はいはいウサギよウサギさん……で、しーんとしていまい、それ以上つづかないなあ、と思って笑い転げていましたが。

 考えてみると、なんで続けにくい気持ちになるんだろうかと、ちょっと不思議に思いまして。

 他人の足のことなんかほっとけよ、という、まことに無礼なことを、わざわざ言いにくるウサギさんは、かなり意地の悪い顔をして、もしもし、と呼びかけたのに違いありませんが、それにたいして慇懃(いんぎん)にお返事をすると——なぜか、無礼なものいいが、言いにくくなる。

 そんな気がします。

 私はこの亀さん方式を、ヤクザ屋さん相手にやったことがあるんですよねじつは。

 以前にいた会社のエライ人が、交通事故を起こしてしまったのですが、その事故の相手がどうも、当たり屋、というのでしょうか、故意に事故を起こしてはお金をとることをしている人のようでした。

 基本、その対応は保険会社がしていたのですが、あれは脅迫の常道なのか、なぜかいちいち、会社や、本人にも電話をかけてきたんですよね。
 もちろん本人には取り次ぎませんでした。あくまで窓口は保険会社ですから、こちらになにを言ってこようと状況が変わることではないのです。

 で、いちどは、間が悪くて、私がその電話をとっちゃったんですよね。(^^;)
 話の内容は大したことではありません。
 その当たり屋さんは、つぎの話し合いの日程を確認したい、ということでした。日付、時間、場所を指定し、それを保険会社のほうに伝えてくれというのですね。

 ただそれだけのことですが——私はとにかく、本人には取り次ぎませんでしたし(じっさい、外出中だったので)、ようは伝言で済むような用件ですから、ハイハイといいながら応対しておりました。
 が。
 この当たり屋さん、そんな、電話口にでた会社の女の子(当時)相手だというのに、ものすごい態度だったんですよねー。
 話の内容はそういうわけでふつうのこと。
 でも、口調と、言葉の端々に、いかにも他人をおどかすような——テレビドラマなどではチンピラが、「ああ?」とか「ええ?」とかいってすごみますよね、ああいうのが、いちいち話の間に入ってくるわけです。

 私を相手にすごんでも意味ないのになあ、と思いつつ、こちらはあくまでビジネスライクに、失礼のないように応対しました。
 私が、毛ほどもビビったり、あるいは嫌悪感を見せたりしないのが、予想外だったのかつまらなくなったのか、最後にはその当たり屋さんも、苦笑いしながら電話を切りました。

 ちゃんと先方が受話器を置いたのを確認してから、私も、受話器を架台に叩き付け、
「ふっざけんな!!」
 と大声で叫んだので、さすがにフロア中の注目を浴びました。(^^;)

 いやあもう、こっちだってストレスですよ。なんの関係もないアタシがなんであんな無礼な言い方に耐えなきゃならんのよ。ということで。
 とっくに叫びたかった「ふざけんな」を、相手が電話を切るまで我慢していたという次第です。

 私はその場の同僚たちにはごめんね、と言ってから、メモを握りしめてそのエライ人の秘書さんのところへいき、伝言を伝え、かくかくしかじかと説明。
「また電話がきたら、僕んとこまわしていいから」
 といわれまして、そうさせてもらいます、と言ったんですが、その後にはもうかかってきませんでした。

 ただ、あのとき、よく、礼儀正しさを失わず、がんばった、えらいぞ自分——と、いまにして思います。(^^;)
 なんとなく、相手の調子に合わせてしまったらいけないような気がしていたんですよね。

 あとは——お恥ずかしいことですが、うちの親とか、父方の親戚は、堅気なんだけど、人間の品性レベルは、あんな感じでしてね。
 情けないことではありますが、ある意味、ああいう調子の口の利き方には、慣れちゃっているところがあるんですよね、私;;

 ゆえに、ビビることなく対応できたと思います。

 無礼を黙らせるには、こちらはあくまで礼儀を失わないこと——というのを、なかば無意識に感じていたんですが。

 ウサギと亀のこの歌も、亀さんが丁寧に返事をすると、ウサギさんの無礼な台詞が言いにくく感じるんだな、と思いました。

 脈絡があるんだかないんだか、寝ぼけた話ですみません。
 日曜日ってことで、ご容赦ください。(^^;)

 
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ネット選挙へ、一歩
2013年04月20日 (土) | 編集 |
 アメリカはボストンマラソンでの爆破事件、容疑者のうちのひとりが無事、身柄拘束された由。
 ひとまずはよかったと思います。が。
 今のところ、容疑者であるかどうかも確定的な情報がないので……、ただ事件の詳細が明らかにされていくことを願うばかりです。

 日本はここんとこ、やたら地震が多いような気もしますが、実のところ地震はしょっちゅうありますもんねえ。
 人が感じられない地震を含めると、年間では相当な回数になる。そういうところにとくに大きな変動がなければ、まあいいかな、と思います。

 地震についての研究が進むほど、なにが明らかにされたかというと、「地震予知は、ほぼ、不可能」であることだったりする。
 ゆえに、具体的に、何月何日に地震がくるだの富士山が噴火するだのという話は、「あー、ハイハイ」で終わらせています。

 地球にしてみりゃ、明日、地震が起きるのも、200年後に起きるのも同じことなんだそうで。……そりゃそうだろうな。体感する時間の長さが全然違うんだものね。地球の寿命は十億年単位。人間の寿命は十年単位。比較になりませんわそりゃ。

 ということで、「今日でも200年後でも同じ」であるものを、人間の時間感覚で、何月何日だなどと「予知」できるわけはない。
 そういう「予言」が出るたびにパニックを起こす人々は昔から一定数いますが、……そういうばか騒ぎを小学生の頃から見ている私としては、「いいかげん学習しなさいよ」と、吐き捨ててしまいます。

 どうも我ながら、この手の「パニック人間」には冷たいんだよなー…。(^^;)

 備えをすることは必要。でも、パニックを起こすことは無用。

       ●

(日本の)民主党さんなんですが……、困ったことにまともに国会中継を見られません。(^^;)

 なんでかというと、彼らが国会で質疑することが、いちいちいちいち、「お前が言うな!」というようなものばかりなので、もう………なんといえばいいんでしょうか。
「よくもそういうことを抜け抜けと!」と。
 ここでは書けないような罵言を叫びそうになっちゃって、国会中継をまともに見られません。どうしましょう。(^^;)
(いやなに、私が怒らずにいればいいだけのことなんですが;;)

 ほんで、あげくには「反省会」、「どこがいけなかったのか」………どこがいけなかったのか、って、そういうことを言っちゃう段階で、もう論外じゃ! というかあんたがたは(実態として)日本の政党じゃないんだからさあ! 日本の有権者としては支持するもしないもないの! ——と、もうね……話を聞くとかいう以前の状態になってしまいます。

 ただ、いま、気分悪く見ているのは、そういう民主党からじわじわと人が離れて、他党へ移っていく、ということ。
 これはいけません……。コトをうやむやにして、他党へ紛れ込み、また、ああいう破壊工作にいそしまれてはたまったもんじゃない。
 各区有権者の皆様に、そのあたりのことについては充分、ご注意を願うしかないでしょうね。
 うちのほう——静岡県東部の方はいまのところ、離党者などはありませんので、わかりやすくてありがたいです。

       ●

 ネット選挙の関連法が無事成立とのこと。

ネット選挙解禁 改正法が成立
4月19日 11時5分 NHKニュース

 やはり懸念されるのは「なりすまし」なんですねえ。これを防ぐための「認証」についての説明を聞き、なるほどと思いました。
 あとは誹謗中傷をいかに防ぐか、と。

 ネガティブキャンペーンも感心できないことなので、このへん、ネットでのこともふくめて、ネガティブキャンペーン自体を明確に禁止にしてもらいたいです。
 アメリカの大統領選挙ではすっかりおなじみになりましたが、考えてみりゃ、他人の悪口のために何億円というお金をかけるなんてのはもう、愚の骨頂ですよね。

 日本は目下のところ、あれほどにはひどくはありませんが、ときに、妙な怪文書が登場したりしますから、ああいうの、全面的に禁止にしちゃえばいいと思う。

 と申しますのは、じっさい、選挙についてあれこれ考えるときは、あまり、ああいうネガティブな「うわさ」を、考える参考にはしませんので。
 票を投じるかどうするかを決めるのは、その候補者の主張、在籍する政党といったことが中心。
 候補者が、地元出身者であれば、——これは田舎のメリットで、過去のことはおおむね地元じゃ知られているので、過去の「実績」も勘案しつつ、現在の政治状況を見て、誰に票を投じるかを判断する。

 でありますので、他人の誹謗中傷てのは、じつに、参考資料にもならない。
 そういう、役に立たない誹謗中傷に、お金でも労力でもつぎ込むことは、はっきり「禁止」にしちゃっていいんじゃないでしょうか。

 ——と思うのは私だけ?
  
 世間様の多くは、案外、ああいう、じつにいいかげんな「うわさ」(情報とは言わない)に、嬉々として食いついちゃうもんかも……、と、いま、書いていて不安になったのですか、いかがでしょう。

 どうも私は世間様とは意見が合わないことが多いから、このへん、「投票のときは、誹謗中傷は参考にしないよねー」などとは、うかつには言えないのかな………と、自信がなくなったりして。(^^;)

 世間様の浅薄であること、軽佻浮薄ぶり、なんといっても民主党に政権をとらせたという「過去の実績」が、私の、「世間様」への不信感を募らせる;; いかんな;;

 ともあれ、ネット上のことには限らず、この際だから、「ガイドライン」ということでもいいので、ネガティブキャンペーンにたいしては「予防線」を張ってもいいんじゃないかと思っています。
 人間のくだらなさには際限がないしな……。

 仮にその中傷の内容が「事実」だとしても、じっさい、代議士として働いてもらうかどうか、という判断のうえでは、不必要、もしくは無意味な内容であることがほとんどだし。
 中傷はいらない。
 他人の悪口を言っているヒマがあるなら、同じ時間と労力を使って、自分の主張を広めることにつとめてもらいたい。

 ネガではなく、ポジを語れ。
 じっさい、ネットのコメントとやらを見ていればわかるけれど、悪口は馬鹿でも言える。
 というより、馬鹿は悪口くらいしか言えることがない。

 ゆえに、ネガではない、きちんとしたポジティブなことを話せるのなら、その人は、まあそう馬鹿ではない、という判断材料にできる。
 これは私は本気で言ってます。

 悪口「しか」言えない人には、ご注意遊ばせ。
 そして、自分自身が、ふだん、ネガなことしか話していないかどうかも、検証なさいませ。

 私はそうやって、自分で自分を検証して、たっぷり落ち込んだことがあります(笑)
 反省して少しは態度を改めた……つもりなんだけど、他人様からみたら、まだまだ反省は足りてないかもしれませんね。(^^ゞ

 閑話休題。
 私が今回のネット選挙解禁で、これはいいな、と思っているのは、マスコミなどを通すことなく、候補者本人が直接、有権者に訴える場所が確保されたということですね。

 現在も総理が、マスコミによらず直接、国民にお知らせをしたり、思うところを述べたりしていますが、これはけっこうなことだと思います。

 マスコミに対する信頼とはまったくべつの問題として、です。
 ようは「伝言ゲームはあぶない」から。

 そういう意味ではいいことだな、と思っております。

 
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愛情の循環のために
2013年04月19日 (金) | 編集 |
 auさんのiPhone、iPadで、メール送受信の不具合が続いておりました件。

 私ももうずっとメールが不調でしたが、今朝はもう大丈夫みたいです。
 よかったよかった。

        ●

 自分が死んだら葬式なんかするな、散骨でいい、ということを言う人は。
 悪気はないのはわかりますが、それでも、そういう人は、まわりの人間のことをないがしろにしているのだな、と、私としてはそう解釈しております。
 
 自分勝手、身勝手、自己中……そうとも言えるけれど、いちばん気になるのは「周囲にいる人々の気持ちを、思いやらない」態度なんですよね。

 以前から、こういうご発言を聞くたびに、ちくり、と胸の奥が不快感でうずくのが、自分でもじつはちょっと不思議だったんですが——それこそ私には無関係のことですから——、ようは、こういうことを言えちゃう人って、周囲にいる人たちのことなんか、なんにも考えてないんだな、と、そういう解釈をしてしまう。それで、不快になっていたようです。

 私も父を見送りまして、ひととおり、三回忌までは済ませまして、それでつくづく思うのは。
 葬式というのは、死んだ人間にではなく、生きている人のために必要なことなのだ、ということでした。

 葬儀代や戒名の料金のことなどは脇に置きます。
 ただ、ああいう「別れの儀式」の「意味」だけを、つらつらと考えてみますと。

 こういう別れの儀式というのは、誰かを失った人にとって、大事な「けじめ」になるのだということでした。

 家族でも友人でも、知人でもいいですが、つい昨日まで当たり前にいた人が、今日はもういない。明日もいない、あさってもいない。——もうずっといない。
 二度と会えない。

 この状況は、なかなか、受け入れがたい「現実」です。
 親しければ親しいほど、あの人はもういない、もう二度と会えない、というのは、実感することさえ困難になるくらい、厳しい現実なんですよね。
 
 愛情をもっていた相手と、ある日あるときから、突如として、絶対的な「断絶」によって隔てられてしまう。
 これはなかなかショックですし、精神的に、厳しいことです。

 葬儀というのは、そういうショックを和らげる役割がある。——そう思います。
 ものいわぬ物体と化した、遺体と対面すること。死という絶対の断絶が、そこにあることを「思い知る」こと、——これでもう、今生ではお別れですね、ということを受け入れるために。
 葬儀の「意味」は、そこにある。そう思います。

 生きている人が、この現実を受け入れること。ショックを、受けいれることによって、乗り越えること。
 けじめをつける、ということは、なにかとだらしがない現代人が思う以上に、大事なこと、意味があることだと思います。

 葬儀は、死んだ人に必要なんじゃない。生き残った人々のために必要だ。

 ——そう思いますと、葬儀はいらない、という態度は、「別れの挨拶さえ、受け取らない」という、非常に頑迷な態度に思えるということですね。

 じっさい、そのとおりだと、いまは、確信を持って思うようになりました。

 人間の気持ちって不思議なもんだなあ、と思うのです——べつだん、それほど親しくしていたわけではない人にでも、我々は、心の奥のほうでは、ちゃんと愛情を持っているもんなんですよね。
 私どもは、見ず知らずの赤の他人のことでさえ、死、というものに触れたときに、「もらい泣き」というものであっても、やはりその悲しみを共有して涙します。

 これだとて、やはり、愛情の一種には違いない。

 まして、身内、友人、お世話になった人…などであればなおさら。

 そういう人たちが、自分が死んだことで衝撃を受けて、そのショックをひきずったまま生きていかなければならないことを思うとき、「葬儀はいらない」とは、容易には言えることではないと思います。

 家族に命じて、自分が死んだことさえ周囲には知らせず、葬儀もなく散骨のみを済ませた人がいて——その人の友人で、別れの挨拶もさせてくれないなんてひどい、と、嘆いた人を、私も知っております。
 これは当然の非難だと思いました。

 なぜこれがひどいことなのかと、折に触れて考えてきたんですが。
 ようはこの態度って、他人が自分に寄せてくれた好意というものを、「断固、拒否」しているからなんだな、と気がつきまして。

 葬儀はいらぬと言った人には、その人なりの考えがあったということはわかるのですが、そうやって、周囲にいた人たちの誰も彼もの気持ちを、拒否し、踏みにじる行為だということには、思い至らなかったのか。
 思い至らなかったのだとしたら、相当な自己中だといわれても仕方ないのではないか。
 自分の気持ちや自分の事情のことしか考えず、周囲の人々のことをいっさい、なにも、かえりみない、ということになるので。

 遺言の通り、親の遺骨を散骨したのはいいけれど、後悔の思いに苛まれている、という、気の毒な人もいます。
 私はあの後悔の思いを見るたび、故人はなんと罪なことを遺言したものかと、思わざるを得ません。

 葬儀は——そのあとの「つきあい」は。
 生き残った人々のためのもの。
 豪華華麗にやる必要はないと思うけれども、最後の別れは言いたい、という人々がいてくれるのなら、四の五の言ってないで、葬儀くらいは任せたらどうですかと思いますねえ。

 だいたい、別れの挨拶をしたい、という人が、いてくれるのって幸せなことだと思いますよ。
 誰も、あなたのために、最後の別れの挨拶をしたいとは思わない——そう思ってくれるひとが誰もないのなら、焼き場から無縁仏の供養塚へ直行、ということにしか、ならないのですから。

 どうもこう——年賀状の「虚礼廃止」などといって粋がるのもそうだし、こういう、「他人の好意を全力で踏みにじっていく」態度には、私は同意できないし、不快感があります。

 誰かがあなたに、なにかを差し出してくれる。そういうとき、「いえ、私なんか」と後ずさりし、拒否するというのは、これは謙遜でも何でもない。
 これもまた、相手からの好意を「搾取」することだと指摘されたとき、私もはっとしました。

 愛情とか好意とか、やさしい気持ち、思いやり——こういったものは、受け取り、また自分も送り出す。そうすることで世の中に愛情やら思いやりやらが広がり、「循環」していく。
 なのに、私なんか、といって「拒否」すれば、愛情の循環をそこで断ってしまうことになる。
 これは謙遜じゃない。
 自己中心的な態度、傲慢な態度そのものだ、と。

 いわれたときはもう、耳が痛いというか恥ずかしいというか、………じつにいたたまれないほどの思いをしたもんでございますが。

 葬式はするな、などと「言える」というのも、かつての私と同じで、他人様の好意も愛情も拒否していく、自分勝手で傲慢な態度のひとつだろうと思います。

 なんのことはない、よーするに私の、その不快感というのは、「自分の馬鹿を、他人によって見せつけられる」ことへの不快感なんですよね。
 ああ、あたしと同じ馬鹿をやっている……私もああいう馬鹿をやっていた……、それをあらためて思い知らされて、むっとしているわけですね。(^^;)

 まあ、何にしましても。

 他人様から寄せられた好意は素直に受けておくもんだと思います。
 そうすれば自分もまた、ひとさまに、素直に、素朴な愛情を、すっと差し出せるようになる。
 そんなふうに思うこのごろです。

 ……いま、ふと思ったんですが。
 愛情の循環、て、「金運のエネルギーの循環」の話と、基本、同じだなあ……。
 お金も愛情も、つまるところは、「受け取り、送り出す」のが大事ってことですかね?

 
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総集編
2013年04月18日 (木) | 編集 |
 雉も鳴かずば撃たれまい。
 心当たりがないなら黙っていればいいものを。
 ——と思った一件。

キム・ヨナ採点疑惑を書いたフリーライター 事務所が提訴検討と韓国で報じられる
2013/4/12 19:46 J-CASTニュース

 こちらの本ですね。

フィギュアスケート 疑惑の高得点フィギュアスケート 疑惑の高得点
(2013/03/15)
猫宮 黒埜

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 そんな本が発行されたのか、へー、と思ってAmazonさんで検索したら「人気」と表示されたのには笑ってしまいました。
 いや、笑い事ではないんでしょうが;;

 どうしてこう、いちいちいちいち、やることが浅はかなんですかねえ。

 今のところは提訴を「検討」とのことですが、著者ご自身のコメントにあるように、やればいいじゃん裁判。さっさと訴えれば? と、私も思います。
 提訴するなら、本書が発行されている日本でということにしかなりませんでしょうが、日本の裁判は遅いですよ〜。
 遅いだけのことはあって、重箱の隅を突きまくるのも半端じゃないですよ。重箱のすみに気を取られるあまり、完全に本論を見落とすこともしょっちゅうですよ。

 そうやって、ありとあらゆることが根掘り葉掘り、「おおやけ」の場所で論じられることになるわけですが、それでよければやればいい。
 私としてもいいかげん、気持ち悪いのもピークを越えているので、このさい、出るべきところではっきりさせてもらうというのには賛成します。

 とはいえ——こういう本をお書きになる人がいるんだなあ、という、まずは、そちらのほうに感心しました。
 みな、疑問にも思い、腹立たしい思いもしながらも、やはり自分自身の生活というものがあるので、なかなかそれ以上は踏み込んでいけないのが、まことに残念でもありましたので。

 こうやって、詳細をまとめ、論考を表してくれる方がいる、というのは、ありがたいと思いました。
 時間が許すなら、私もいろいろ、詳細に検討してみたいと思っていたことですから。

 Amazonさんのレビューを見ているだけでも、なるほどなあ、と思います。労作でしょう。

 まあ、これでいろいろなことが、仮に、明かされたとしても、国際スケート連盟にはカエルの面に小便でしかないだろうとも、思いますがね。(^^;)

 現在の採点方式への転換を余儀なくされたときのように、完全に、採点不正があったという証拠が出てくることでもないかぎり、ISUはかかわり合いを持たない態度は崩さないでしょう。
 そりゃあ審判の名前を公表しなくなるわけだよなあ。
 誰が、どんなジャッジをしたのかが、現在はまったく公表されませんが、これは、審判一人一人の行動を追跡することを困難にするためなんですね。

 そのへんを掘り下げられて、バレたんだもんね、あの事件のときは、

(参考:ソルトレイクシティオリンピックにおけるフィギュアスケート・スキャンダル【Wikipedia】)

 なんにしても、もやもやしっぱなしのフィギュアスケートファンにとっては、「総集編」ということで、ありがたい本ではあります。
 読んでいるといちいちいちいち、じつはもう忘れかけていた小さい疑問のことまでが、はっと思い出せるようですね(笑)

 しかしまさか、こういう形で、本の「広告」をしてくださるとは(笑)

 わざわざ自分から騒ぎを大きくするというあたりが、相変わらずすごいなと思います。
 ここで騒がなければ、本当にコアなフィギュアスケートファン以外には知られることもなかった本でしょうに、ネットのニュース媒体に取り上げられたとあっては、より多くの人がこの本の存在を知ることになる。
 そういうことをいっさい考えないのか。考え「られない」のか。

 こういうことで不思議な気分になるのも、これでも何度目でしょうか……。

  
 
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