エストロゲンはお好き?

 明日から4月なんですが、昨日の夜から急に風が冷たくなりました。冬に戻ってしまっています。
 お天気も、曇り空続きなので、なんとなく、人間の気持ちとしてもすかっとした気分になれない感じ。

 桜はもう終わりですね。今年の桜は、やはり去年6月の台風の影響らしく、花の数が少なかったようです。
 通常ですと、そりゃもう、雲のようにふっくらと豊かに花がつくのに、「え、これ……満開…かな?」と疑っているうちに葉っぱが出てきて、「ああ、終わりなんだ」という感じ。

 満開は満開でも、花の数が少ないので、「盛り上がりに欠ける」感じでしたねえ。通常の年の8分咲きかな、というところで終わっちゃった。

 今年は変な季節に台風がきませんように(祈)。

       ●

 高校野球も佳境でございますが、きのうの第3試合には驚きました。

 大阪桐蔭学園対県立岐阜商業。

 昨日は私は午後はお出かけで、この試合の序盤のところは、ガソリンスタンドに寄ったとき、そこのテレビで見まして。
 もう桐蔭の「ものすごさ」を感じられたので、率直に、こりゃもう桐蔭が勝つんだろうなと思いながら、外出。

 用事を済ませて、あれは午後4時過ぎでしたでしょうか。帰路についたところで、そういえばと思い出し、ラジオをつけてみたら。
 アナウンサーの、なかば脱力したような声が、「岐阜商が勝ち、桐蔭は3連続優勝はならず」というようなことを告げていまして。

「ええ?! ………大阪桐蔭、負けたの!?」

 これはびっくり。

 詳細を聞いてまたびっくりです。本塁でクロスプレーというのは珍しいことではありませんが、「守備妨害」のためにアウトとは。

 そんなに激しかったのかと思っていましたが、夜のニュースでそのときの映像を見て納得。

 ………アメリカのメジャーリーグではよく見ますねえああいうの。

 タイミング的には完全にアウトで、キャッチャーはすでに捕球、そうとわかっていて、ランナーがものすごい勢いでキャッチャーに体当たりし、落球させてセーフになろうというプレーですね。

 ……すげえ……。ホントにこりゃ「タックル」ですな。

 高校野球ではやってはいけないプレーなのかな、というコメントも拝見しましたが……まあ、本来的には、たとえプロ野球でも、やってはならぬプレーでしょうからねえ……。

 最近ではあまり言いませんが、昔はよく、「子は親の鏡」「子は親を映す鏡」と言ったようです。
 なるほど、子どもは大人のやることを真似するものですよね。
 ふだん、プロ野球を見ていてああいうラフプレーが「当たり前」に行われているのを見れば、子どもとしては、
「プロ野球じゃふつうにやってるのに、なんで自分たちがやったらダメなの」
 と思いますよねそりゃ。

 なんにしても、このプレーで、岐阜商業のキャッチャーは負傷したとのことですし、野球の、U-18 国際大会では、やはりこのラフプレーが問題になり、ラフプレーは禁止ということになったようですし、認めるわけにはいきませんでしょう。

 となると、大人の方もなー……(といいながら太平洋のほうをふりかえる)。
 クロスプレーはしょーがないですよそりゃ。
 でもああいう、明らかに、相手を傷つけることを目的にした危険行為を認めるわけにはいかんでしょうね。

 じつのところ、こうなりますと、岐阜商業の投手は死球を受けてやはり負傷しているそうですが、そちらもなんだか、疑わしい気持ちになる。あくまで私感ですのでどうぞ悪しからず。

 先日の、大相撲の話のときにも書きましたが、競技するのはいいけれども、なにか考え違いを起こして、他人や自分を傷つけることはないように、願いたいと思います。

 スポーツやってりゃ怪我するのは当たり前なんですけどね。
 ああいうプレーで相手を「つぶし」にかかるのは、もはや、格闘技としてすら成立しないことですから。

 血の気が多すぎてそうなっちゃう、というのなら、試合前に女性ホルモン(剤)を飲んでおけば? ——というのはもちろん、冗談です。笑えない冗談で申し訳ないが。

 こういう冗談は笑えないが、ラフプレーはさらに笑えない、ということで。

 勝利に執念を燃やすのはいいけど、間違った燃やし方で自滅しないように気をつけてほしいと思います。

 高校野球だからじゃなくて。世の中すべてに、です。

 
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自分を許すことについて

 花粉症のせいなのかどうか、なんともビミョーな感じで体調がいまいち。
 とはいえ、動けないということでもない。ただ不快な感じですっきりしない、というところ。

 昨夜は寝ようとしたときにふと鏡をみたら、どうも、なんとなく、まぶたが腫れている——むくんでいる? 感じがして、なんじゃこれはといいつつ寝まして。
 今朝起きたら、昨夜よりはいいけどやはり、まぶたのきわが膨らんでいる感じ。顔を正面に向けているとほぼわからないが、あごを天井へ向けるようにして顔を仰向かせて鏡を見ると、眼球が膨らんでいるのかと思ったほど、なんか腫れぼったい。

 朝起き抜けの状態よりは、現在はよくなっていますが………なんだかなあもう。

       ●

 またひとさまのツイートを拝見してはあれこれ考えてみる。
 いろんな判断を、私どもは日々繰り返しておりますが、この判断というのは、やはりなかなか、難しい。

 自分ではもうあれこれちゃんと考えて決めているつもりのことでも、他人から見るとものすごい見落としがあったり、あとから、あのときにはもうちょっと別の「ものさし」が必要だったのだと思ってみたり。

 いずれにしても思うのは、それがどんな判断だったにしろ、それがそのときの自分の精一杯だったのだから、あとからとやかく言わないこと。

 あとから、ああすればよかったこうすればよかった、というのはどうしても思ってしまうけれども、そんなこといっても、過去に戻ってやり直すことはできないし、——なにより、そのときの自分は確かに、そのときの精一杯で考えて決めていたのだから。
 そのときの自分そのものは、ちゃんと認めてあげる。これは必須ですねえ。

 自分を許すということ。

 面白いことに、「あれは、あのときの私の精一杯だった」と認めてあげると、そのときにやっと、その過去を踏まえて、それなら次はこうしよう、というような、「新しいものさし」を手に入れることができるようです。

 ああすればよかった、こうすればよかった、なんて自分は馬鹿だったんだろう、などとグズグズ言っているのは、結局、その過去の時間の中に自分がとどまってしまうことになる。
「次へ」というところへ、目も行かないし気持ちも行かないし、過去の中にとどまりつづけてしまう。

 反省はいいが、後悔はやめたほうがいい。

 反省をするにはある意味、自分を突き放すというか、客観的になれる距離をとることが必要で、その距離をとるためには、「あれが、あのときの私の精一杯」ということを、素直に認めて、受け入れることが必要。

 認める、受け入れる、というのは、ダメだった自分を「裁かない」ということになるでしょうかね。

 いい、悪いを判断するのは、反省のために必要な材料に思えるけど、そうではないというあたりが興味深い。
 善悪の「裁き」にはなぜか、発展性がない。客観性があるようで実はない。
 裁く、批判する、ということが、じつはものすごい「主観的」な行為だからかもしれませんね。

 いい、悪い、と決めているのは結局、ご都合やら、「利益」が基準になるからですね。
 べつに誰の利害にもならず、ご都合に合わせる必要もないなら、なにごとであれ、「ふーん」といって、へんな執着は必要でなくなる。

 受け入れる、認める、というのは、あえて、そういう善悪の判断をとめてしまうことかもしれません。
 ただ、そこにあるようにあり、なるようになった。それだけ。

 過去はもうどうしようもないことだし、自分がそれで精一杯やっていたことなら、それでいいんじゃないの、と。
 その過去の経験を眺めているとき、経験にもとづくものさし、ものの見方考え方が、自分の中にできてくる。そちらのほうがはるかに大事なことじゃないでしょうかね。

 後悔や自責は、謙虚なようで、謙虚なわけではべつにない。それどころか、結局だれのためにもならないし、むしろ自分を過去に縛り付けて足止めをさせてしまうので。
 後悔の気持ちが起こりそうになったら、「あのとき、私は私の精一杯だった」と、そのときの自分を認めるように、言い聞かせていこうと思います。

 できている人はごく自然にやっていることらしいのですが、私にはなかなか、——そういう、受け入れるとか認めるとかいう態度自体を「思いもよらな」かったりして。(^^;)

 後悔や自責は、なにも謙虚ではないし、むしろ有害なことでしかない、と。
 悟るまでにかなりの時間がかかりましたさ。

 それでも、そういうことがわかっただけでも、これまたOK。
 本当に過去の自分その判断を認めてあげられるには、また訓練と時間が必要でしょうが。
 そういうことを知らないままでいたよりは、ものすごい前進だと思います。

 また、後悔や自責で過去に縛られるのは、気をつけないと、自分がわざとそうしているときがあるということ。

 変化を怖がるあまり、過去にしがみつく。
 過去に縛られて苦しい、とか本人は言ってますが、じつのところ、本人が、未来を恐れ、変化を恐れ、もはや変化のしようがない過去にしがみついて、変化を拒否していることもありますね。
 変化を恐れているから、過去を言い訳にして、自分で自分を足止めしていることもある。

 人の意識というのは、こういう「だまし」をよくやるので、そこらへんは、自分で自分に気をつけていくしかない。
 こういう「だまし」にハマっている真っ最中には、他人様からどれほど親切な忠告をいただいても、聞き入れることができない。それどころか、怖いと言ってしゃがみこんでいるのを、無理に立たせようとするのだと思い、かえって忠告してくれる人を恨んだりします。このへんも要注意。

 過去の自分を、あれはあれで私の精一杯だったと認めること。
 認めたときに、また新しいものさしがやってくる——その新しいものさしによって、いままでの、自分なりの小さな「正義」が、叩き毀される場合もあります。それはやはり愉快なことではないかもしれません。が、その変化を恐れないこと。

 そういうことができれば、人生の景色もだいぶ違うんだろうなと思うこのごろです。
 
 
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「英国ティーカップの歴史」


図説 英国ティーカップの歴史 ---紅茶でよみとくイギリス史 (ふくろうの本/世界の文化)図説 英国ティーカップの歴史 ---紅茶でよみとくイギリス史 (ふくろうの本/世界の文化)
(2012/05/23)
Cha Tea 紅茶教室

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 どうもここんとこ「イギリスづいている」感じで、意識したわけでもないのに、イギリス関係の本をあれこれ。
 そのなかの一冊がこの「英国ティーカップの歴史」。

 まいどおなじみの紅茶、それをいただくときの食器についての本。
 
 いまのように、紅茶が紅茶となったのは意外に最近のことだとか(以前のお茶はもっと色が薄かったらしい)、なにげなく見ていたカップにもいろんな形があることは知っていたが、あれ、なにもテキトーにああなったわけではなく、それぞれにそれぞれの、歴史があるのだ、ということがわかって面白かったです。

 もう身近になりすぎてしまい、いまさら疑問に思うことすらないものについて、あれこれ話を聞くというのは楽しいものですね。

 お茶の伝来、種類、飲み方の変遷。それにともない茶器の使用、発明、改善。
 それらがまた密接に政治とも関わり、人々の暮らし、文化に関わっていく。
 それどころか、シナにいたっては、とうとうアヘン戦争にまで至るわけですから——さすがに、ここらへんの話には、私でもシナに同情します。
 ………簡単に言うとシナは、イギリスの侵略に屈したわけですね。

 イギリスは、シナの輸出禁止だった茶の木を、まず盗むことから始め、それを他の植民地(インド)で栽培する研究をすすめ——最後には、アヘン戦争の勝利によって、自由に茶葉を貿易できるようになり。
 そうしたことで、ごくごく一部の上流階級だけのものだったお茶が、中流階級に広まっていく、つまり、世界初のお茶の大量生産を実現していく、その技術的なところは立派だと思いますが、なにしろ政治的な過程が過程ですから、ほめる気にはなれませんやね。

 そして、アメリカで近年はやりの(?)「ティーパーティ」は、例のボストン茶会事件にあやかっていますね。
 そのいきさつを詳しく聞くと、なるほどアメリカが、自由貿易、自由貿易、と馬鹿みたいに「執着」してくる起源はここにあるのだな、と思いました。

 アメリカにとっては最初の「成功体験」なんですね、自由貿易って。あれはボストン茶会事件をきっかけに、不平等な貿易を「是正」して、しまいには独立まで勝ち取った。
 で、いまだに(というのもおかしいですが)自由貿易は「絶対正義」だと思っているわけだ。
(正義が正義である限り、正義に『絶対』はない。相対的な価値観だからこそ正義は正義なのです——なんていうとまた話が長くなる;;)

 ふーんと思いました。

 たかがお茶、されどお茶。

 ティーカップやコーヒーカップを、日本では明治の初期、「柄付き皿付き茶碗」と訳していました。
 私は最初にこの「訳語」を見たときは腹を抱えて大笑いしたのですが(訳語というより形状説明ですもんね)、お茶というものはシナからイギリスへ伝わっていったので、あちらでも、最初の茶器は輸入品で、ようするに、我々にとってもおなじみの茶碗、でした。

 やがてこれにお皿がついて、——熱いお茶は深皿に移して、少し冷まして飲むようになり。
 そのうち、茶碗自体にハンドル(柄)がついた——というのは、ちょっとしたイノベーションだったでしょうね。

 そのハンドルにも、リングハンドル、スクエア、ピンチド、ロンドン、オールドイングリッシュ、アンギュラー、ブロークンループといった種類がある、というのですが、写真を見ればなるほど、それぞれに見覚えがあります。
 あれは適宜デザインされたものだと思っていましたが、ちゃんと名称があり、種別があったんですねえ。

 この本は、写真、当時の広告やポスター、そのイラスト、あるいは絵画、図解が豊富で、カラーページも多くて、茶碗のカタログのようにして楽しむこともできます。
 リプトンや、トワイニングの勃興、アールグレイの成り立ち。
 ミルクティーの「正しい」入れ方論争。これには階級によって違いがあり、上流階級はMIA(Milk in After お茶をカップに入れた後、ミルクを入れる)、労働者階級はMIF(Milk in First ミルクを入れた茶碗にお茶を注ぐ)の人が多かったとか。
 ……メリーポピンズでもそのへん、書き分けているんだそうです。不覚。そりゃぜんぜん気づかなかった;;

 輸入品のみだった茶器(磁器)を、自前で作るようになるまでの苦労。それぞれの窯の苦労、努力、工夫、歴史——デザインを眺め、その色を眺めているだけでも、本書は飽きません。

 日本人にとっても身近な食器になりました、ティーカップですが、こういう知識を持って、買い物にいくのでも、あるいは、喫茶店でお茶を飲むのでも、また違った見方ができて楽しくなりそうです。

 ティーカップにはまた、口が広くて浅めのものと、口が狭くて深めのものがありますが、これはお茶の種類によって使い分けるといいようです。
 渋みが強かったり、味が個性的なものなら浅めのカップ、味はすなおで、味より香りの方を楽しみたいときには深めのカップ、というような使い分けが可能らしい。

 なるほどねえ——と感心しきり。

 また、喫茶の歴史としては、紅茶よりコーヒーの方が古いんですね。
 かつてコーヒーハウスは「女人禁制」だったが、ティールームのほうは、女性も子供も自由に入れるお店だった、とか、お店というより遊興施設のようになった「ティーガーデン」は遊園地のハシリのように、家族連れが楽しめる場所として人気だったとか。

 はたまた、兼ねてからうっすら疑問に思っていた「アフタヌーンティー」と「ハイティー」の違いについても、説明がありまして。得心がいきました。

 ざっくりいえば、アフタヌーンティーは上流階級の人々の習慣。
 ハイティーは労働者階級の習慣として根付いたもの。

 どちらにも共通するのは「夕食までにお腹がすいてしょうがないのを、お茶と軽食でしのぐ」という目的ですね。
 
 労働者階級のハイティーの方は禁酒運動とも関係があって興味深い。

 はたまた、お茶が最初に紹介されていったとき、お茶は「薬」という扱いだったため、空腹でお茶を飲むのはよろしくないという理由から、「バター付きパン」とともに供されたとのこと。
 お茶が薬扱い、というのは日本も同じなのですが、「胃に悪いから軽食と一緒に」という発想は日本にはなかったですかね。

 いまは、茶道の方ではお菓子とお茶という組み合わせで出てきますが——あれはいつごろ成立したものなんでしょうねえ。

 なんにしても、アフタヌーンティーとハイティーの違いがやっとわかって、個人的にはすっきりしました。(^-^)

 写真を眺めているだけでも楽しい一冊です。

 かく申す私は、ノリタケの「花更紗」シリーズの、ティーセットとティーポット(総額3万円ちょい)と、ウェッジウッドのワイルドストロベリー、23ピースセットのティーセット、同3点セット(ポット、シュガー、クリーマー)を(割り引いてもらっても、総額約17万円)、楽天市場の「お気に入り」に登録して、ときどき、うっとり眺めております。

 …………眺めているだけ(涙)

 ウェッジウッドのほうはともあれ、ノリタケさんのセットなら買って買えないことはないですが、——収納場所を考えますと……どうにも。

 食器はいまだうちの親の管轄ですが、もう絶対使わない古い食器を、絶対捨てないんですよね。
 ………あの処分ができない限り、新しいセットなんか買えません。

 ということで、「いいわね〜」「きれいだわね〜」といいながら、たまに「お気に入り」を眺めてうっとりしています。

 庶民はまあ、こんなもんです。(^^;)

 
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最終回…

「ビブリア古書堂の事件帖」最終回、やっと昨夜になってみました。
 やっぱり夜の8〜9時という時間帯は厳しい。どうもドタバタして忘れがちです。録画予約をしておくしかないですねまったく;;

 たぶん、午後7時〜9時というのはゴールデンタイムと言われるものなのでしょうが、それは、現代ではすでに合わなくなっているのでしょうか。
 ………私が個人的に合わなくなっただけか;;

 午後10時、11時ならわりとゆっくりしているので、そのへんに見たい番組がきてくれるとありがたいな、と。(^^;)

 とはいえ、現代人がだいぶ宵っ張りになっているのも事実でしょうねえ。先日、ちょっとしたものがなくて、買い物の必要がありました。
 そのときすでにけっこうな時間。たいていの店はもう閉まっている。ネットで検索し、あるドラッグストアが、じつはけっこう遅くまで開店していることを知り、急いで車で外出。
 
 そうしましたら——小学生の子供さんを連れたご家族が何組か、いらっしゃいまして。
 午後9時半をもうすぎていたので私としてはびっくり。
 私は小学校低学年の頃は、午後9時には布団に入っておりましたが……。

 生活時間がもう、かなり変わっているんだなと思いました。

 閑話休題。

 じつは「ビブリア堂…」、まえの週は完全に見逃しておりまして。録画もとってなくて。
 最終回を見たらば、主人公、栞子さんのお母様が登場していたので、ものすごい急展開に感じました。(^^;)

 安田成美さんが、こんな、年頃のお嬢さんのお母さん役をなさるんだなー、と、しみじみ……。

 それにしても江戸川乱歩はいいですね。ご本人にもイロイロ、ナゾやら噂やらがあって、楽しいお方です。
 ちなみに江戸川乱歩という、この「もじり」、ホントに最高ですね。うまい。

 ただ、うますぎちゃって、発音すると、ほぼ、「エドガー・アラン・ポー」と「江戸川乱歩」は区別がつかない。
 そんなわけで、私どもは学生時代には、江戸川さんの方は「乱歩」と呼び、ご本家のほうは「ポー」とのみ、呼んでおりました。(ポーではあんまりだ、というときは、エドガー・ポー、という)

 乱歩さんはほんとに才能あふれるという感じで憧れますが、しかし、彼の才能はじつは、初期の頃で出尽くしていたのではないか、とも、聞いたことがあります。
 カンヌ国際映画祭で主演女優賞をもらった「キャタピラー」という映画は、原作は乱歩の「芋虫」。

江戸川乱歩傑作選 (新潮文庫)江戸川乱歩傑作選 (新潮文庫)
(1960/12/27)
江戸川 乱歩

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 映画の方は見ていませんが、あれを最初に読んだときは、感動したというべきか、うなったまま、しばらく身動きできなかった思い出があります。
 私はインド哲学の先生におすすめされて、「初期の」乱歩作品を読んだのですが、なるほどたしかに、少年探偵団あたりと比べると(もちろん、あれはあれで面白いですが)、迫力が違うと思いました。

 で、乱歩はじつは、初期の作品で、本当の彼の才能を出し尽くしちゃったと思う——とおっしゃったのが、このインド哲学の先生。
 先生ご自身もちょっと変わった人だったけど、おすすめされる本にはハズレがない。そういう人でした。
 ………お元気でいらっしゃるだろうか。

 名探偵というものを生み出した(日本における)功績も大きいし、好き嫌いは分かれるでしょうが、あの外連味(けれんみ)たっぷりの世界は、独特ですしね。
 いや、好き嫌いがわかれることに関しては、横溝正史の方が激しいか? (^^;) 私はどちらもそれなりに好きですが。

 ということで、「最後のテーマは乱歩か〜」と。
 最終回のナゾにはふさわしいお題だったのではないでしょうか。

 なんにしても、やっぱり本はいいなあ、と思いながら見ていたドラマでした。あの、ぎっしりつまった本棚を見ているだけで嬉しくなる。ああいう環境に、いられるもんなら、いたいです。

 主人公の母上につきましては、「ああ、この人も一種のビブリオマニアなのか」と思いました。本の中身もさることながら「物体」としての本、オブジェクトとしての本というものを熱愛する人のことですね。
「愛書家」というレベルをこえて、もはや、ちっとばかりキチガイ風味が混ざった、「執着する人」。

 私はそこまでは執着する気はないので、母上さまの気持ちが「わかる」とは言えませんが。
 ただ、本というのは不思議なものだなと思いました。

 結局私も——乙武洋匡さんの「自分を愛する力」、書籍版と電子版、どちらにしようか悩んだ末、やっぱり書籍の方を買ってしまいました。
 電子書籍のあの、「仮住まい」な雰囲気って、どういえばいいんですかねえ……。便利と言えばもちろん便利ですが、「面白くない」んですよね。感覚的に。

 ライブのお芝居を見てきて、すごい面白かったので、その舞台を録画したDVDなどを買い、映像を見ているときのようです。

 たしかに記憶の反芻は可能なんだけれど、やっぱり、じっさいに見ていた、生の舞台、お芝居とは「違う」。
 そういう感じに似ていますね電子書籍って。

 本当の情熱、本当の熱、本当の感興、——そういうものは、ないか、薄められてしまう。

 ただ、収納場所には困らない、記憶の反芻の「手がかり」になる、「携帯」が可能、いつでもどこでもお手軽に。

 それは確かに便利だし、それも充分、メリットだけれども。

 血は、騒がない。

 人間てのはやっぱり五感を使ってこそ、なにかを楽しむ、味わうことができるわけなんで。
 電子書籍だと、単に視覚「しか」使わないから——紙のにおい、その感触、インクのにおい、装丁、印刷文字のデザイン……。手に感じる、本の「重さ」。
 そういうことも、読書の「実感」に含まれているんでしょうねたぶん。

 紙の感触? と言われるかもしれませんが——あるんですよ、そういうの。
 あたしなぞは、夢の中で本を触っていて、はっと目が覚めたとき、
「あの遊び紙の手触り……マーメイドだ」
 とはっきり思い出せたことがあります。
紙の種類です)

 発行を待ち望んでいた本を、文字通り「夢にまで見た」ときのお話。(^^;)

 やっぱり、本はいいなあ……。しみじみ。

 ちなみに、主人公の栞子さんもよかったです。
 もの静かで、でも情熱的で——可憐で。

 原作のイメージがどうこうというご意見については、こういうことをいうファンが、かえって作品を破壊することがある、とは思いましたが。
 そのへんはもうね。言ってもしょうがないことですもんね。(^^;)

 私は、ドラマを楽しめました。ということで。

 
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自分の理由を知る

 まえまえから、うっすら疑問に思ってきたことなんですが。

 いえそんなに真剣に考えるようなことじゃなくて、見かけるたびにちょこっと不思議に思っていた、ていどなんですけども。

 ——ドラクロワの絵。
「民衆を率いる自由の女神」ってありますよね。有名なやつ。
 あれを見るたび不思議に思っていたのです。

 絵のほぼ中央で旗を振り上げている女性が、自由の女神なんだそうですが。
 どうして彼女、服がやぶれて、おっぱいぽろり状態になってるんでしょうね?

 服の破け方が不自然だなということも疑問ですが。
 あの絵の中で、おっぱいぽろりを描く「必要」が、いまいち、私にはピンとこない。

 仮にあの女神がきちんとドレスを着ていたらどうか——と考えると、なんかそれだとふつーの人にしか見えないな、とは思います。
 プリマヴェッラみたいな、フルヌードにちかい感じで描いてもいいくらいのところだけど、それだとさすがに慎みがないので、ああいうことになった……。
 …………んだろうか?

(本気でどうでもいい、くだらない疑問です我ながら。(^^;) )

       ●


 1票の格差とやらの問題について。
 昨日——おとといか。裁判所の「選挙無効」を聞いたとき、反射の速度で、ふざけんな、と怒りましたが、なんで怒っているのかが、いまいち自分でも把握できておりませんでした。

 ということで、昨日も、日常の中でうっすらあれこれ考えていたんですが。
 ようは、こういうことです。
 
 ——合法的に示された有権者の意志を、今回の高裁判決は「法的根拠がないまま、否定した」から。

「1票の重さ」とやらの、違憲合憲の判断についてもじつは、裁判所は、判断基準を示していません。
 はっきりした基準がないまま判断する。これは危険です。

 じつのところ、これでは、「人民裁判」なみです。

 日本の司法がそれなりに認められ、日本が法治国家としてやっていけるのは、「情実」や、なにかのイデオロギー、あるいは国家権力(者)のご都合でものごとが決められるのではなく、法律というものがあり、その法を根拠にして、裁判が行われるから。

 運用に難しいところがあるのは確かですが、それでも、法律、という「公のルール」にのっとり、判断されている。だからこそ、世間の人も、不承不承ではあっても、裁判、というものを尊重しているわけです。

 じつのところ。
 今回はなにを血迷ったか存じませんが、裁判官は、自分で自分たちの存在意義を危うくしたわけですよ。

 法治によらない情実の社会——韓国やシナのように、ときの権力者の都合のいいように、あるいは自分たちの「感情」のままにふるまう社会というのは、本当に危険だと私は思っております。

 ゆえに、今回のこの判決は、本当にマズイです。
 こんなことで、合法的に決められたことが、法的根拠もなく、ただ裁判官の「胸三寸」だけでくつがえってしまった、ということで、ある意味、裁判所が、社会不安を増したと言えます。
 なによりも、裁判官自身が、法治というもの、裁判というものへの社会的信用を損なうことをした。

 そこに私は危機感を感じています。

 ひとつには、「主権者」である国民の判断を、裁判所が、法的根拠なく踏みにじった、ということへの怒り。
(権利を侵害されたわけですから、いちおう怒っておきます)

 もうひとつには、「裁判官自身が、法治をあやうくした」ということへの、シャレにならない危機感。

 そういう理由で、あの判決を聞いたときに、わっと頭に血が上ったんだな、と。
 昨日、ようやくそういうことがわかりました。

 まあなんですね——年を取ることのメリットとして、自分が、いま、どういうことにたいして、どういう理由で、こういう反応をしているのか、ということは、「経験」のなかからすぐにわかるようになってきている、ということがあるのですが。
(ようするに、自分を見失うことがない、あるいは、その程度が大きくない。自分で自分の感情を把握できるようになるので、動揺も少なくて済む)
(そういう意味では、自分自身が、自分にとって未知だった若いときというのは、ちょっとつらいことが多かったなあ……)(個人的見解ですが)

 人間、あまりにもアホな——思いがけないことを見聞きすると、その経験のなかにも十分なデータがなく、とっさに反応はしているものの、その「理由」を自覚するのにけっこう時間と手間がかかるもんなんですねえ。

 ちなみに、あの弁護士連中が言いだした、投票の平等とかなんとか、ああいうの、すみませんが私は鼻の先で笑っておしまいです。

 基本的にあの人たち、左巻きですものねえ。
 あれですよ、子供の運動会で、みんなで手をつないで徒競走して(手をつないでたら徒競走ではそもそもないが)、みんなでゴールして、みんな1等賞だよ、という——あれとまったく同じレベル。
 すみませんが、あほらしくてコメントもできません。

 そういう「悪平等」についての解説や批判は、たぶん、他の方がわかりやすく言ってくれていると思うので、私としては放置といたします。

 ………馬鹿につきあうとこっちまで馬鹿になる。
 朱に交われば赤くなるというけれど、本気で、馬鹿ってうつるんですよね。
 どうせ交わるなら、きれいな朱に交わりたい。濁って汚れた朱は御免蒙(こうむ)る。

 私ももとから大していい頭じゃないんだから、勘弁してください。
 これ以上馬鹿になったらどうしてくれる;;


 
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矛盾撞着

<1票の格差>昨年の衆院選「無効」 初司法判断 広島高裁
2013年3月25日(月)16時12分配信 毎日新聞


 そんなんだったらいっそのこと、行けるのに投票行かない奴に罰則規定を設けるようにおすすめしたら?

 なんにしても、どうしてこう、裁判官てのは「自分が何を言っているのかわからない」のが多いんですかねえ。
 裁判員制度が求められる原因は、裁判官があまりに「専門馬鹿」になってしまい、法曹界独自のロゴスだけでしかものを考えず、ゆえに、一般の社会常識からはかえってかけ離れた判決が頻発したことだというのに。
 まだ、なーんの反省もないのですな。

 ひき逃げ事件の裁判では、被害者が即死であったかどうか——つまり、ひき逃げをした犯人に「被害者の救命措置義務があったかなかったか」が争点になりました。
 判決は、「被害者は即死であったため、救命措置の義務はなかった」「ゆえにひき逃げの責任は問われない」「無罪である」。

 この判決を聞いたときは私も顎が外れんばかりに驚きましたね。
 つまりこの判決は、——もし交通事故で人をはねたら、中途半端に生かしておかず、即死させろといっているのですね。即死であれば救命措置の義務は生じない。ひき逃げの罪にはならないから。——と。
 そういうことを世間にお勧めしていることになるわけで。

「この裁判官たちは、自分らがなにを言っているのかわかってんのか!?」

 ということで、私は驚愕したのでした。

 判決には往々にして、こういうことがあります。
 一般社会の常識もしくは実態とは大きくかけなはれた「非常識」がまかり通る。そこが法曹界。

 裁判官があまりに非常識なことをしてしまい、裁判の有効性が社会から疑われるようでは意味がない。裁判の権威というものが失墜してしまう。
 そういう危機感ゆえに、社会常識を取り入れることにしたのが裁判員制度。
 迷惑なんだよ裁判官さんよ いまさら言っても詮無いことだけれど。

 はっきりいって私も、この裁判員制度には、諸手を挙げて賛成ではありません。一般市民に負担が大きすぎるからです。
 おおきすぎる負担とはわかっていながらも、やらないわけにはいかないのは、ひとえに、裁判官が社会常識から逸脱した、はっきり言えば非常識なことばかりやってやがるから。

 裁判官はなにゆえに、その判決が、社会に対してどういうメッセージを送ることになるのか、——自分が何を言っているのかを理解しないのか。
 そこが私の疑問なんですが。

 またやったか。
 というのが、今回の判決に対する感想。

 現在の選挙の、票の有効性に地域による差が大きすぎる。すなわち違憲である、ということと。
 すでにじっさい行われた選挙の結果を無効とするのは、まったく別問題。

 これまで、なぜ多くの判決が、違憲状態といいながら、じっさいの選挙結果を無効としなかったかというと。

 違憲ではあっても、きちんとした法律にもとづき行われた選挙です。有権者の意思というものがそこには存在します。
 もちろん、選挙を無効にすると混乱するということはありますが、——誰もここを突っ込まないようですが、選挙結果を無効とするということは、有権者の意思を「無視する」「否定する」「有権者の意志をなかったことにする」ということになるからでしょう。違う?
(だからさすがに今回の判決では、あれこれ言い訳じみた措置を講じているようですが、私はそこには注意しません。問題はそんなことでどうにかできる程度のことではない)

 今回の判決はある意味、「主権在民」の一角を否定したものであると私は判断します。

 違憲状態ではあるにせよ、完全に合法である手法によって示された有権者の判断を、「そんなの関係ねえ」とばかりに蹴飛ばしたのが今回の判決という訳です。

 そういうことがわかっているのだろうか。
 自分が何を社会に対してしゃべったことになるのか。わかっているのか。

 私としては、「人がまじめに示した意志を、ガッコノセンコー並に軽視しやがって」。そのように受け止めています。
 そんなつもりではない、という「いいわけ」は、聞く耳、いっさい持ちません。つもり、がどうかということは関係ない。ひき逃げ事件の判決と同じですよ。

 主権在民は、「日本国憲法三大要素」のうちのひとつですが、この判決は、その主権在民の一部を否定したものと私は考えます。
(3大要素の、あとの2つは「基本的人権の尊重」と「平和主義」)

 いい度胸です。広島高裁。
 日本国憲法の基礎をガン無視しておきながら、違憲状態だのなんだと、偉そうに判断するというのですね。

 これまでのほかの判決では、違憲状態だとはいいながら、選挙の無効を認めてこなかったのは、そこを突くとこういう「憲法の根幹を否定したくせに、合憲・違憲を判断する」ことになるという、たいへん微妙かつ矛盾した事態になるからだというのに。

 違憲合憲の判断には当然、憲法の持つ精神、理念、価値観を照らし合わせて考えることが不可欠ですが、その判断基準となる原則を、否定しているわけですよこの判決。
 自分たちがどれほどめちゃくちゃなことをしているか、本当にわかっているんでしょうか、この裁判官(たち)は。

 ………法曹界には左巻きも多いらしいとも知り、裁判官がどんだけ「非常識」か知っているつもりでいましたが(裁判官が非常識でないなら裁判員制度は必要なかった)、まさかこれほどとは思わなかったです。

 とはいえ、以上は私個人の見解であるということも、書き添えておきますね。

 売られたけんかは7がけで買う、というのをポリシーにしているのですが、さて、こういう場合はどうしたものか。(^^;)
 私はこの判決は、有権者(の判断)に対する、重大な挑戦と見なしていますので。売られた喧嘩は(7がけくらいで)買わねばなるまい、と。

 弾劾裁判は、一般市民の関わるところではないですしねえ…。
 これが最高裁なら裁判官国民審査があるのにな〜。そういう意味では残念。

 やっぱり、そもそもにおいて、こういうわけのわからん訴えをおこした弁護士グループとやらを、ターゲットとして考えるべきでしょうかね。
 もちろん、いまだにまともに動かない国会も。
 目くそ(=原告)鼻くそ(=国会)ですよ、じっさい。

 1票の格差については。
 私個人は、なるほど制度上にも矛盾点が多く出てきている現状、是正することが望ましいが、市民の立場としていわせてもらえば、投票に行かないのにえらそうな口を叩く連中に対する、罰則規定をさきに求めたい、と思っております。

 義務と責任を果たさないものに権利はない。

 そこらへん、忘れてんじゃないの? そう思います。

 
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蛤御門(禁門)の変

 昨日の「八重の桜」。
 蛤御門の変(禁門の変)でした。

 幕末というのはドラマの舞台としては魅力的なものであるらしく、それこそもう過去、山ほどテレビドラマにもなっているわけですね。
 にもかかわらず、この蛤御門の変というのは、あまり詳しく描かれてきませんでしたよねえ。あっさりナレーションだけで終わるとか、とにかく長州が大敗走したとか、そんな程度で終わる。

 あれだけ時間を割いてドラマにしたのは珍しいでしょうね。

 ということで、昨日は私もゆっくり拝見しました。

 勉強不足で、この変のあとの大火事の話は存じませんでした。焼けたとは聞いたけれども、それほどの被害が出ていたとは。

 なにしろいままで会津寄りの視点で幕末の諸事情を見たことも考えたこともなかったので、——あれですね、視点を長州・薩摩側から会津へ移すと、様相ががらりとかわって見える。

 恐れながら孝明天皇という人の存在が、かえって事態を悪くしているところがある、ように思うのですが、それは私の気のせいでしょうか。
 なんとなく後醍醐天皇的というか……。

 日本史をざっと振り返りますと、じつは、天皇が——言葉は悪いですが、自己主張はとくになさらず、いわば「神の代理人」としてのみ、まさしく「象徴」としてのみ、存在しているときはわりと平穏なんですが、天皇自身が、意思表示をし、我を張り、政治に関わってくる時代というのは、たいてい、荒れているんですよね。
 ………不思議といえば不思議……。

 天皇が政治に関わると混乱しやすいのか、世の中が乱れるから、天皇が前に出て行かざるを得なくなるのか。

 蛤御門の変のあたりですでに、諸事情、諸勢力が入り乱れ、おまけにおのおのが勝手な思惑で動き回り、それだけならまだしも、じつに「情緒的」な理由で殺し合いをしているから、「これがこの事件の原因です」などと、すぱっと言い切れない状態ですね。
 それぞれの事情、それぞれの思惑が、複雑にからみあい、影響し合っているので、これが原因、とはいえない。原因になったものを列挙するとこんどは、え、それは原因とは言えないんじゃない? とも思えてくるものが出てきて、——よーするに「わからない」。

 情緒的な殺し合いとはなにか? ようは、大義名分より、なにが正しいかより、なにが必要かよりも、ただ、個人的な感情のみで行動している殺し合いのこと。
(情緒的ではない殺し合い以外には利益のための殺し合いがある)
(どっちがマシかとは言えませんが)

 禁門の変も、——長州もかわいそうだし、会津もかわいそうです。(薩摩はそうでもない)。
 お公家さんたちは勝手なことばっかり言ってるから、気楽でいいよね! と嫌みを言いたくもなりますが、お公家さんはお公家さんで、まあイロイロ、内部抗争が大変なんですよね。

 また長州方には、脱藩浪士も加わっているから、ああなっていった事情について考えていると、ややこしいところがあるのです。単純に長州のみの事情「だけ」ともいいきれず、白黒に分けて、ものを言えないんですよね。

 今回のドラマ、長州側につきましては、嶋田久作さんがすてきでした真木和泉(まき・いずみ)。
 じつは長州の人ではなくて、久留米藩の出身。脱藩し、のち「復籍」。それがなんで長州にいるのか、ということ、これもまた「話せば長いことながら」となる。
 そのへんの話は思い切って割愛し、ようは、真木さんは、尊皇実践の「理論的根拠」を作った人であったらしい。つまりは、オピニオンリーダーですね。

 じつのところ、私には長州のこのときの動きというのは、理解しがたいところがあるので、行動の解釈についてはノーコメントということで。
 ただ眺めていて思うのは、「情緒的だなー」「道理も理屈も、あったもんじゃないな」です。

 よく世間では、女は感情的、てなことをいう人がいますが(男性とは限らないのよね、こういう差別発言する人って)、じつのところは男性も、もーじゅーぶん、感情的だと思いますねあたしゃ。
 感情的であるうえに、男性ホルモンのなせるわざなのか、とにかく激しやすい。同じヒステリーでも茶碗を投げつけているくらいならいいが、人斬り包丁ふりまわされたんじゃ、たまったもんじゃないですよ実際。

 美輪明宏さんと江原啓之さんの「オーラの泉」を見ていたとき、男性の方がじつは弱い、ゆえに、神様は男性に力を与えたのだとおっしゃってましたが。
 それを聞いた私の感想は、
「それが事実なら、キチガイに刃物じゃないか。神様がそんなことしていいのかしら」
 でした。
(じっさい、世間を見ていると、なるほどキチガイに刃物、と納得せざるをえませんが)

 臆病な——弱い人間ほど、力に頼り、力を誇示したがるもの。
 本当に強い人は、黙って耐え、耐えつつ行動することができます——ただ己(おのれ)を寄辺(よるべ)として。
 小人閑居して不善をなすと言いますが、臆病者は、不善どころか、はっきりと、他人に害をなす。そういうもんですよね。

 禁門の変の伏線となった、八月十八日の変については、「八重の桜」ではあまり詳細には扱わなかったように思います。わりとあっさり通り過ぎたというか。
 ゆえに、あれだと、なぜ長州があそこまで必死になったかが、いまいちピンとこないかな。

 この八月十八日の政変では、「七卿(の都)落ち」という、大変なことでした。真木和泉も、この都落ちした七卿つまり7人のお公家さんとともに行動していたようです。
 政変というとおり、実質的なクーデターになっちゃったんですよね……。
 やられたほうにしてみれば、「反乱軍」のほうが大いばりで御所にいる、とんでもないことだ、ということになる。

 それが正しいかどうかは私にはなんとも。
 この時代は、正しい、ということが、だいぶ、違う次元に移動していたのですが、そのことをきっちり把握していた人間は、ほんの数名しかいなかったと思われます。
 私の目には、どちらも「正しくはない」と映る。どちらも、「自分たちの利益」のために動いていただけで、本当にあの時代に求められていたものを、理解してはいなかった、と思っております。

 ということで、——私個人は、かわいそうだよね、というのも嘘ではないながら、七卿落ちにしろ、ごの変にしろ、たいした「思い入れ」はありません。
 ただ今回は、あれほどちゃんとそのようすを描いていたものは今までなかったので、面白かった、と思っております。

 私個人は、都落ちのときの、久坂玄瑞(当時24歳)が即興でものしたという詩のほうが印象深いです。
 正直言うと、読んでいて恥ずかしくなってくるんですけども、(^^;) 若いなということも、思い込みの激しさも、よくわかる。(情緒的、という部分のことですね)

 面白いとも名文だとも私は思いませんが、ただ、当時の「迫真性」を持っていて、そこが興味深い。
 このエントリ下の「追記」部分に記載しておきますので、興味がある方はご覧ください。m(_ _)m

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願わくは

 本日お出かけのため、お休みいたします。m(_ _)m
 
 ……とはいえ、どうもここんとこ、あんまりまともに取りかかれていないという気がするので………休みっぱなしといえば休みっぱなしのような;;

 東京は桜がすでに満開だそうですが、うちのほうはまだ1〜2分咲きといったところ。桜前線にスキップされた感じ。
 とはいえ——寒さが厳しかった冬の後の春というのはこんな感じになるんですね、今年も、そりゃーもー、花の勢いがすごいです。

 水仙、すみれ、たんぽぽ、……ソメイヨシノよりはずっと遅れて咲くはずのハナカイドウ(花海棠)がすでに咲いているところがすごすぎる。
 つい2週間前までは葉っぱすら出ておらず、昨年の台風の、塩でやられたままの姿でした。
 今年は花は咲かないかも、と、心配しながら肥料をまいていたのに。

 あっというまに葉っぱが出てきて、つぼみがふくらんで、ソメイヨシノ並みの速度で咲きました。
 ………植物というのはすごいもんですねえ。
 半月前は、ただ単なる「枯れ木」にしか見えなかったのに。(・・。)ゞ

 ちなみに、花海棠は桜と同じくバラの仲間。花言葉は「艶麗」だそうです。

 今年は牡丹も順調に成長していますし、鉄線が、3年ぶりで花芽をいくつもつけています。(去年は1つだけ咲いた。その前年は壊滅状態だった)
 ということで初夏の花も楽しみなのですが、すでに著莪(しゃが)が咲いているんですよねー。まだ3月下旬だよ。我が家の庭の場合、例年では、GWのころに咲く花なのに。

 今年は冬が厳しい上に期間が長かった。花も、春を待ちわびていたのでしょうか。

 こうして続々と花が咲くのも嬉しいのですが、私がいちばん、嬉しい、と感じるのは、木々に緑が吹いていくこと。
 すでに、柳と柿の木には、新緑が芽吹いているのです。
 同じく台風の塩害でやられてしまった枝が心配なんですが、それ以外の部分では、金木犀の木にも若い葉がぐんぐん出てきています。

 茶色に枯れていた景色に、みずみずしい萌黄がさしていく。

 こういう景色が、じつは、花が咲く以上に、私は好きなんですよね。
 生きててよかった、と、けっこう本気で思います。

 西行法師は、桜の下で、春に、と言ったけれど、私の場合は、新緑の下で、初夏に、というところですね。
 最後に見たい景色があるとするなら、私はなんといっても、満開の桜より、明るい日差しのなかの「万緑」です。
 ………そういうことを言っている余裕があるなら、の話ですが。(^^;)

 なお、本日の植物のリンク先は「季節の花 300」様です。

hana300-logo.gif


 
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天下の回りもの

 本日は、春の彼岸、明けの日でございます。
 お墓の供花(きょうか)などの片付けにいってきますか…。本日もいいお天気になるようで、こうも雨の降らないお彼岸も珍しいような気がする。ありがたいことです。

      ●

 ギリシャ経済の問題が、ちょっと落ち着いたのかと思ったら、今度はキプロスですと。

 銀行の預金に一律に課税というEUの要求にも驚きましたが、キプロスがロシアに支援を要請というのには、さらにびっくり。

 私のイメージとしてはロシアというのはいってみれば「泥棒」「強盗」。
 北朝鮮は破落戸だが、ロシアは正規軍をもって強盗である、というところなので。
 そういう、ある意味、暴力団より怖いところに支援要請って、怖すぎる!! と思いましたのです。

 詳しく聞きますと、もともと、キプロスというのは、国が掲げた政策の結果、事実上のタックスヘイブン(租税回避地)であり、当然(?)、出所のあやしい、犯罪のニオイのする、グレーの資産が、かなりあるんだそうですね。

 EUの要求が意味していたのはようは、そういうグレーゾーンのお金を吐き出せということのようですが、そうならそうと言ってくれないとねえ。
 最初に聞いた話じゃ、つつましい庶民の預金からさえ、預金額の1割をふんだくる、ということだったじゃないですか。血も涙もない! とこちらが思うのは当然でしょうよ。

 とはいえ、すべての口座を、グレーかクリーンか調査をするのは現実的ではないし——これ、キプロスからみて大事なお客、あるいは投資をしてくれる、ロシアとの関係には悪影響が及ぶ。
 というのは、ロシアとキプロスの経済的な結びつきがつよく(タックスヘイブンとして)、ロシアからキプロスへの進出企業は多いし、また、キプロスからロシアへの投資(外国投資)が全体の3割にもなるそうで。
(ロシア企業がタックスヘイブンとしてのキプロスへ多く進出し、キプロス企業として、本国ロシアへの投資を行ってきたため)

 なるほどそれじゃあ、お互いに、切っても切れない関係——下手にきろうとすると、お互いに、ばれてはまずいことがバレまくる。

 どうも聞いていてあまり同情する気にはなれない話ですが、なるほどなー。というところ。

 ロシアはEUには加入しないのか、加入させてもらえないのか、なんにしてもEUとは一線を画す立場ですからねえ。

 金の切れ目が縁の切れ目という言葉が日本にはあるのですが、結局、それはたんに、いままでお金でつないでいただけの関係だから、お金がないならご縁も切れる、ということもあるけれど、こんなふうに——お金がなくなると、いままで隠されてきたことが、表沙汰になるから、という理由もあるのかもしれませんね。

 懐具合が厳しいことになれば、もう、格好も付けていられないし、いままで知らぬ顔で隠してきたことも、隠したままではすまされないことになる。

 それにしても。
 
 お金持ちにはお金持ちにふさわしい振る舞いをお願いしたいなあ。

 お金はなんのためにあるかというと、使うためにあるわけですよね。それなのに、世の中にお金を還流させず、ただ自分の懐にかきこむことばかり考えていると——結局、淀んだ水と同じで、最後には腐ってボウフラがわくんですね。

 仏典には、あえて、貧しい村に托鉢にいく、という話がありますね。
 お釈迦様についていくお弟子が、「貧乏な村に行っても、たいした『実入り』にならないのに」というと——托鉢で実入りといっちゃう時点で間違ってんですけどねこの人——お釈迦様は、
「現世で貧しいのは、過去世で『むさぼり』を行ったから。たとえ米1粒でも、出家に供養する、という、むさぼりを超えた行為をすることが、彼らを困窮から救うことになる」
 とおっしゃって歩いていく。

 前世でケチなことをしたために、現世では、自分が恵みというものを得られない。そのケチなことをした業を乗り越えるためには、米1粒でもいいから、誰かのために差し出す、という心、行為が必要。
 その業が解消されれば、当然、また恵みというものが流れてくるのだから。

 困窮する人にとって本当の救いとは、その場しのぎの「ほどこし」をしてやることではなく、困窮の原因である「むさぼり、という業」を解消させてやること。
 その業が尽きれば、自然に、また、恵みがやってくる。
 それこそが、本当の救いである。

 そういうお話。

 日本人には、お金は不浄、汚いもの、という、どうも間違った概念がはびこっておりますね。
 お金は——どこぞの保険会社のCMではありませんが、お金は大事です。お金は大事に心を込めてお迎えし、また、気持ちよく送り出す(=お金をつかう)、そういう流れと循環によって、自分自身にも恵みが流れ込んでくるというもの。

 不浄なのは、お金ではなく、人の心でしょう。
 自分がけちくさいだけなのを、お金のせいにしちゃいけません。(^^;)

 ケチなことをすれば、いっときはお金もそりゃあたまるし増えるけれど、結局、その流していくべき水をよどませた結果、お金のエネルギーもよどみ、重くなり、こういう、かえって悪い事態を呼び込む。

 で——人間の世界でも、悪事がばれれば、その犯罪のお金はとりあげられてしまうわけですから、ちまちまとでも、健全に、貯金をしていたほどにも、お金が手元に残らない、ということになっていく。

 そのへんの原理は、お金持ちこそ影響を大きく受けるうえに、——大きなお金は社会全体に影響を及ぼすわけですから、自覚を持って、お金持ちにはお金を適正に扱うようにお願いしたいです。

 キプロスはひとまずは、その全預金者から金を巻き上げるというのはやめて、別の財源を捻出する旨、議会で可決され、EUからの支援を受けられるよう、動いていくことになったようです。

 全預金者から金を巻き上げろ、と言った方もすごいが(強硬派の中核はドイツですとさ)、そんならロシアにおねがいしちゃおうかなと言ったキプロスもすごい。
 ロシアに支援要請というのはどこまで本気だったんですかねキプロス。(^^;)

 とはいえ話はこれで終わりではないわけで。

 こちらとしても人ごとじゃないし。

「金は天下の回りもの」——ケチになることなく、放恣(ほうし)になるなど言語道断、適切に、お金を大事にしていきたいものです。
 これは水の循環と同じ——お互いに気持ちよく受け入れ、気持ちよく送り出す、ということができれば、大きな問題にもならないでしょうから。

 
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浦島太郎状態

 MacOS、10.5.8(Leopard)から、10.8.3(Mountain Lion)にいきなり変わりまして、まあいろいろ——進化というか変化というか、おー、これはすごい、といいながら使っております。
 この、パソコン買い替えのたびに浦島太郎状態になるのはいつものことなので(5〜7年くらいは買い替えない)、そういう意味では、「なにこれ?!」というカルチャーショックへの対応の仕方が、我ながらうまくなってきたなという気がします。

 MacBook は本当によく使いました……。バッテリーが膨張してしまい、最近では熱暴走寸前の気配も出てきたので、——動作そのものに異常がある訳ではないのですが、買い替えを決意。

 ノート型よりiMacの方が安いし、結局、あんまり外に出てパソコンを持つこともないし、今後、そういう必要があるときには、もはやノート型ではなく、タブレットを持つことになるだろうから、iMacにしよう、と。

 ディスプレイは約20型、ですかね。——21.5型。部屋に置いてあるテレビと大きさがほぼ同じなので、テレビが2台あるみたいで、ちょっと圧迫感はあるような……どーなんだろうこれ、という感じ。

 でも、最近どうも目が弱っておりまして……大きくてきれいな画面はやはり、ありがたい。
 MacBookのディスプレイ、たぶん、バックライトも弱っていたんだな……といまさらながら、感じます。
 MacBookは本当に酷使しまくりでした。ありがとう。
 考えてみると、本当にトラブル知らずのいい子でした。こんなにトラブルなしで使えたマシンは、この子が初めてだったんじゃないかな。
 
 OSの成熟度、ということが、もちろん大きいのでしょうが。
 フリーズにはいたらずとも、小さいトラブルというのはありがちなものですが、そういうこと、ほぼ、皆無でしたもの。

 今回のiMacにも期待してます。 

 キーボードとマウスは、最初からBluetoothの設定がしてあるのでじつに快適。
 やはり、線を引き回すより、無線の方が楽ですねえ、机の上もすっきりしますし。

 iMacにはディスクドライブがありませんので、スーパードライブも購入。
 保証も付けてもらって、あとは、ウィルスバスタークラウドも約1万円で。
(ソフト単体ではなく、ハードを買うときにセットで買うバージョンだそうです。たぶん単体で買うときよりは安いのかな)

 ウィルスバスタークラウドは、軽さが気に入っています。

 以前はノートン先生にお世話になっていましたが——WindowsXPのときですが——、とにかく、重いことにはめげめげになりまして。いちばん参ったのは、先生が何かを始めると事実上、なんも作業ができなくなることでした。ゆえに、ディスク全体の検査(?)みたいなものは、ほとんど実行しなかったという……;; 意味ないですね;;

 仕事で使っているPCは現在、Windows7です。(経理用は、スタンドアローンのVista)。この本体購入時に、ウィルスバスターをお店でおすすめされまして。
 重くなっていた原因をクラウドに任せることで快適作業を実現——ということでしたが、本当でした。

 ノートン先生と違い、なにしろ、ほとんど「存在感」がない。ファイル更新などを知らせてくる以外は静かそのもの。
 なるほどこりゃいいや、ということで、このiMacにもウィルスバスタークラウドを入れました。

 Windows版よりも、機能が制限されているようですが、まあ、そこらへんは。
 Macユーザーはこういう「差別」には慣れっこですよ。ええ。(^^;)
(差別なのか、Macには必要がないからなのかは存じません)

 面白いのは、ブラウザなどでリンク表示されると、安全かどうかを知らせてくれること。
 リンク部分がハイライトになって、安全が確認されているサイトならチェックマーク、調べていない、または安全かどうか不明の場合は「?」がでる。
 まだ見たことはないのですが、危険があるときはどうなるんでしょうねー。赤い×印になるんだろうか。

 最近はネット銀行などを装ったフィッシングサイトも多いですから、そのへん、チェックしてくれるとありがたいな。

 マウスは、——マジックマウスで、トラックパッドの動作もできるところが面白いです。全部ではないのでしょうが、ページのスクロールや切り替えは、マウスの表面で指を滑らせて動作できます。面白い。こういうの好き♪ (^-^)

 標準で付属している無線キーボードは、テンキーがありません。私はテンキーを使うことはあまりないのでかまいません。ページのスクロール等はキーボード・ショートカットで済ませるのが癖になっているから、ストレスなし。

 この10.8、通称「マウンテン・ライオン」の面白いところは、最初から「隠しパーティション」があること。
 これは「ライオン」のころからだそうですが、インストールのときに「リカバリーHD」と呼ばれる隠しパーティションが作られること。

 なんかやらかしちゃってシステムが壊れても、ふだんは見えないこのリカバリーHDから起動、無線LANを設定し、再インストールが可能だそうです。

 そういうところまでは追いつめられたくはありませんが、(^^;) ——なにかあったとき、サポートに電話する前に、できることがある、というのはありがたいことです。

 ………ああ。今日はMacの話だけで終わってしまう……。
 軽い「まくら」のつもりだったのに、時間切れ。

 たぶん、興味がないといわれるか、いやがられるのがせいぜいなので、ふだんはあまりMacの話はしないようにしていますが、……やっぱり、「わー、すごい!」という感動があると、ついつい書いてしまいますね。(^^ゞ

 いやまあ、でも、Macの話でよかったと思っていただければと思います。
 リカちゃんストアがどんだけすごいかなんて話よりマシだろうと思いますよホントに。

 ………それとも、あんまりMac話がいやがられるようなら、リカちゃんストアの話をしてみるのも手かな(笑)
 リカちゃんストア。
 これはこれで、奥深い世界なんですよ……ええ。

 
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明らかに見る

 週の真ん中に休みがくると、なんだか軽く混乱しますね;;
 私の曜日感覚ももうけっこうでたらめになっているし、仕事のほうがもう……。なにがなにやら。

 ああ、でも、昨日食べた、ぼたもちはおいしかった……。
 基本的には、つぶ(し)あん派です。でもこしあんも、きなこも、ごまもいただきます。なんでもおいしくいただきます。

      ●

 カーリングが面白い。もう寝よう、寝なければ、と思っていても、ついつい見てしまうNHK BS で放送中のカーリング(女子)。
 カーリングには「投了」がある、ということを知りました。ゲームの性質上、たしかに、これ以上ねばっても逆転はないのだから、仕方ないのか……と思ってみていました。

 実のところ、最近、大相撲を見ていると、この「投了」ができない力士が増えているように感じるのです。
 たしかに徳俵でぎりぎりに残り、形勢逆転ということはある。
 さりながら、人間の体の構造上、腰がのび、膝がのび、さらには足首さえ伸びきった姿勢では、もう、それ以上、どうしようもないわけです。

 そういうあたり、プロなんですから、私のような「テレビ桟敷の客」ごときに言われるまでもなくわかっているだろうと思うんですけどねえ……。
 
 腰も膝ものびた姿勢でなにができる。あとは、怪我のないように勝負を終わらせるのが「マナー」ではないだろうか。

 お互いプロですからね。シャレにならない怪我をしない、させない、というのは、守られるべき「業界マナー」だと思いますよ。

 であるにも関わらず、「そんな姿勢でどうしようてんだ」と私があきれるように、へんなふうに粘る力士が増えたように思います。
 そうしては、無駄に力を使い果たし、もはや、対戦相手のまわしに「しがみついている」だけのことになり、もつれて土俵下に落ち、怪我をする。

 いいかげんにせんかい。——と、そういうのは、申し訳ないが「健闘をたたえる」という気持ちにはならないです。

 勝負がついているにもかかわらず、相手力士をあらためて土俵下にたたき落とすという、下品なことをしつづけた横綱がかつていたわけですが、いちどああいう、よろしくない振る舞いが、力士たちの間での「常識」になってしまうと、そういう風潮を一掃するのは難しいのでしょうか。

 最近ではあんまり怪我が多いから、「もう、江戸時代とおなじに平土俵(ひらどひょう)にしたら」と、うんざりしながら見ていることもありますね。

 現在の、ああいう土俵は「盛り土俵」という。明治からこちらのもののようです。

 体育館なり国技館なりは、もう観客席はすり鉢状にできますから、あえて盛り土俵にする理由もなかろうと思います。

 盛り土俵を作るというのも、これは消滅させるには惜しい技術ではありますので、盛り土俵は巡業のときに設置すればいいと思う。屋外で、ああいう、すり鉢状の観客席の設置ができないところでは、土俵を舞台のように高くして、お客さんから見やすいようにするのは、意味があることだと思いますので。

 簡単に言うと大相撲は現在、力士のふるまい、マナーが、ちょっとおかしなことになっている、と思っております。

 粘り腰をもちろん否定はしない。しないけれども、それ以上やったら怪我をするだけだ、ということが理解できないのは、粘り腰とは違うと思う。
 勝敗がすでについているのに、「だめ押し」で相手を怪我をさせる。あるいは、負けたことはわかっていて、くやしまぎれに相手にわざとのしかかったりして相手の関節を壊しにかかる。

 そういう態度、意図が、客にばれないとでも思ってんのか? ——と、思うようになって久しいなあ私。(^^;)

 よーするに、美しくないのです。
 子供のけんかみたいな幼稚さが、しかも堅気(かたぎ)ではないふうな、危険行為をとらせている。

 まあ、白鵬関の「ひとり横綱」になって以降は、私が思わず顔を背けるようなことも減ってきているとは、思うのですが。

 客筋も、じつのところは変化しているのかもしれませんね。

 稽古を「練習」といい、取り組みを「試合」というのを聞いてしまってはもう……。(^^;)

 あ。すみません。今日はいきなり相撲の愚痴になりました;;

 ただ、「もはやここまで」という「見極め」をつけることも、人間には必要なことだ、と、カーリングを見ていて——つい、あの、「あきらめが悪いのではなく、終わり、というポイントを理解しない」人々を思い出してしまいまして。つい。(^^ゞ

 あきらめる、とは、「明らかに見る」の意であった、と聞いたことがあります。

 明らかに見る——それは「見極める力」を必要とする、ひとつの「見識」かもしれません。

 あきらめる、ということにネガティブなイメージがあるのは、じつのところ、その見極めをしたあとの態度、行動が、たいていの人はなっちゃいないから、あきらめる=悪いこと、のように思われるのかもしれません。

 きっちり状況を把握すること自体、本当は相当に困難なことであり、見極めたあと、次に自分はどうするかを冷静に判断し、行動する——ということが大事。
 それなのに、「行動」のほうは忘れられているのかもしれません。

「明らかに見る」ためには——へんな根性主義は、かえって邪魔なものかもしれない。

 腰や膝がのびきった姿勢になって「あきらめない」あげく、治りにくい大怪我を負うよりも、たとえここは負けても、腰や膝がのびきった姿勢(死に体に等しいと個人的には思います)にならないように、研究、精進する、そういう「行動」が、大事なはずですから。

 なんてね。(^^;)
 他人のことには気楽に言えるんですが、自分はどうなのかというとねえ……。(^^ゞ

 
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自分を愛するように

 本日はお彼岸のお中日(ちゅうにち)。
 今回は春彼岸、入りの日の前日にお墓参りにいきましたが、本日も行ってきます。ほんで、明けの日にはまた、掃除しがてら行ってくると。
 今年は今のところ、お天気に恵まれておりまして、ありがたいことです。

 私のiMacセッティングはだいぶ片付きました。まだiTunesが、要領を得なくてすっきりしていませんが、まあまあなんとか。

 バージョンアップしていろいろ便利にもなり、機能も複雑化すると、お引っ越しもややこしいことになるんですよね。
 ………昔はiTunesの引っ越し(データの)なんて楽なもんだったのになあ。

      ●

 お気に入りに登録している、とあるツイート主さま(こういう呼び方でいいのかな;;)。
 昨日、また拝見しようとしたら、いきなり「アカウントは凍結されています」というメッセージが出て、愕然。
 アカウントの凍結ってナニ?! と思って検索してみたんですが……、まあいろいろ、規約違反もしくは公序良俗に反する行為があると、凍結されるようです。
 さりながら、凍結される条件に合致するとは思えないツイート主さまなので、私としては「??????」状態です。
 ご本人がアカウントを閉鎖したというならわかるんですが、凍結って。

 少なくとも、日々、拝見している読者からみると、凍結されるべき理由はないんですよね。ナゾだ。

 それとも、ご本人も気づかないうちに、なにか、凍結の条件に引っかかってしまったのでしょうか。
 青天の霹靂とでももうしましょうか。私としてはそんな感じで、ぼーぜんとしてます。

 復帰をお待ちしております……。

      ●

 DHCさんが運営している(のだと思う)、静岡県は東伊豆、最寄り駅は伊豆高原駅の、「赤沢温泉ホテル」では、お食事に、なんと「糖質制限会席」が登場!
 朝ご飯はバイキングですが、こちらも低糖質のメニューがあるとか。

 体調のこと、ダイエットのこと、気になっているけど温泉旅行も楽しみたい、というかたにはすばらしいことだと思いました。
 サイトにもその糖質制限会席のお品書き(と糖質量)が公開されていますが(メニューは基本、月替わり)、低糖質とは、言われないとわからないだろうというくらい、おいしそうです。
 食事が気になる方には、これはありがたいサービスではないでしょうか。

赤沢温泉 お食事 お品書き
http://top.dhc.co.jp/akazawa/hotel/dining.html

      ●

 本は読んでいませんが(購入を検討中)、乙武洋匡さんの新著のページをながめて、ぼんやり考えております。

自分を愛する力 (講談社現代新書)自分を愛する力 (講談社現代新書)
(2013/03/15)
乙武 洋匡

商品詳細を見る


 自分で自分を愛すること、自分を受け入れること、自己肯定感、自己効力感。
 いろいろ、つらつらと考えておりますが——おそらくはそれは、人であることのいちばんの基本だと思います。

 かつて、イエス様は、「汝自身を愛するように、汝の隣人を愛せよ」とおっしゃり、仏典においては、「自分にとって、自分以上に愛しいものはない」ということを語る。

 これらを最初に聞いたとき思ったのは、「自分で自分を好きになれない人間は、どーしたらいいんでしょう?」でした。
 自分を愛せない人間が、隣人など愛しようがない、というのは、私自身の経験として、たいへんによくわかる。

 昔の人は、現代人よりもはるかに、すなおーに、自分で自分を大事にできていたんでしょうねえ。
 自分を大事にするように、ひとさまのことも大事にしましょうね、という教えを聞いて、「なるほどそうか」と思えるためには、みんなが——まあ世の中のたいていの人は、自分で自分を大事にしているようでないと、通用しません。

 現代人の多くには、この前提が存在しない。
 だから、せっかくの説教を聞いても「なに言ってんだ」ということになってしまう。

 2000〜3000年前のありがたい教えは、現代人にとっては、その前提条件こそが問題なんだよ、ということで、参考にならないところがあるようです。
 現在、ヨーロッパあたりでは意外と無神論者が増えており、カソリックの信者数もじつは減少するばかり、というのは、そういうことも関係するのかもしれません。
(ということで、ローマ・カソリック教会にとって、次なる有望な『市場』は、中南米、それからアフリカだそうな)

 人類はいつごろから、こんなふうに、自分で自分を愛せないようになり、それに根ざした問題を起こすようになっていたのでしょうか。

 現代人の悩みを昔の人が聞いたら、きょとんとするんだろうなと思います。むしろ、なんでそんなことを考え、悩んでいるのよと不思議がられるんだろうなあ。

 考えられる要因はいくつかありますが、原因は複合的なものなので、これさえ解決すればOKとはならないでしょう。

 環境がどうであれ、自分が自分を認める、愛する、ということを「つかむ」ことが、必要なことなんでしょう。
 早い話、私が自分を愛せないのは、親の扱いが悪かったからだとか、そーゆーことを言っても無意味だと言うことです。
 他人のせいにしてもしょうがないわけですよ。

 こういうのは世代連鎖する。自分が、愛情(表現)不足の親に育てられたとすればその親もまた、そうやって育てられてしまったわけです。
 こういうことは、連鎖すると同時に、代を重ねるごとにひどくなっていく側面もあるようです。

 どこかで、誰かが、この連鎖をとめなければならないし。
 それが、他ならぬ自分自身のためですから——、なんとか、踏ん張っていきたいです。

 逆に言うと、いまの世の中を作っている人々がそれぞれに、「自分を取り戻す」ことができれば、社会のありようも自然と変化していくでしょうね。

 自分に愛がないことについて、なぜ、どうして、と問うていてもしょうがない。誰も答えを返してはくれないし、たとえ、誰かが、これが原因だよと指摘してくれたところで、それが解決に結びつくわけではない。そんなことに労力を使ってもなにも前進しないし、かわらない。

 必要なことは、無理にでも、自分を愛する感覚を取り戻すこと。
 それが、あらゆることの処方箋になるようだ、と、最近では考えています。

 私が毛嫌いしている「放射脳」もまた、——彼らのあの「パーソナリティ障害」っぷりは、本当の意味での自己愛からは遠く離れたところにあるからこそなんだなあ、と思って眺めています。(←近づきたくないのはもちろんだが、本音を言うと、ああいう人を眺める——見るのもイヤ)

 ………余談ですが、昔は「人格障害」といっていたのですが、近年では「パーソナリティ障害」というようになっているそうです。
 相変わらずの言葉遊び、「言葉狩り」ですねえ……。まあいいけど。(^^;)

 
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ただいま、取り込んでおりまして

 5年前に買ったMacBookが、もうそろそろ限界の気配だったので、思い切って、iMacを購入しました。

 ということでじつは日曜日から、あれこれセッティング中。
 移行アシスタントを使えば簡単に「お引っ越し」できるかと思ったんですが甘かった。
 OSのバージョンが古すぎたのかなんなのか、うまいこと、MacBookを認識してくれませんで。

 今のところ、ネット環境を中心に、馴染んだようになるようにあれこれいじっております。
 それにしても、やはり新しいといろいろ、便利だなーと感動しますね。

 ………便利すぎて面食らっているところもありますが。

       ●

 そんなわけで昨夜も、こっくりこっくり、船をこぎながら作業しておりました。日記を書くどころでは(まだ)ありません。
 てなわけで、簡単にひとことだけ。

 WBC。
 残念でしたが、じつによくやってくれたのではないでしょうか。
 ここだけの話ですが、私の予想はもうちょっと厳しいものでした。ゆえに、準決勝まできたというのは、素晴らしいと思っています。ホントに。

 それに……こういうことをいうのはまたイヤラシいんですが、この大会でも日本が優勝などというと、じっさい、この大会の存在意義を問われかねないところもあります。
 アメリカさんが、予想以上に勝てないから、というのではなく。

 なんにしても、いつも勝ち進む顔ぶれが同じというのは、大会そのものとしては、あまり盛り上がりません。
 
 私としては、日本チームに勝ってほしいのはもちろんだけれど、この大会の「盛り上がり」を考えると、3連覇は望ましい「シナリオ」ではないな……なんてことも考えていました。いやらしくてすみません;;

 オランダがベスト4に残ったというのは率直に言えば、意外でした。
 こういう「意外性」があって、大会も盛り上がり、成熟していくのだろうと思えば、日本の今回の敗戦も、むしろ、他チームの成長、向上の結果、なんではないでしょうか。

 内容が悪い試合ではなかったし、十分楽しめました。
 お疲れさまでした、ありがとう、というのが、私の感想です。

 個人的な感想をいうなら、今大会はほんっっとーによかった。
 唐辛子たっぷりの赤い発酵食品のニオイがカケラもないということが、これほどまでに爽やかなものかと感動しました。
 次回も、こういう方式(組み合わせ)でお願いしたいと思っております。

 それにしても。
 次の大会のときには、ブラジルなどは、本気で強くなっていそうな気がします。
 ぼやぼやしていられない、という感じは、いいなあと思っています。

 ということで今大会の優勝チームはどこになるでしょうか。(^o^)

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