スパゲッティの正しい「巻き方」

 昨日は、市川団十郎さんのご葬儀ということでした。
 あらためて、衷心よりお悔やみを申し上げます。

 喪主である海老蔵丈が、ご挨拶の中で、故人の辞世というのをご紹介くださいました。会葬者にも配られたとのことですが、

——色は空 空は色との 時なき世へ

 テレビニュース等でも「いろはそら そらはいろとの」と読んでいたようです。

 あのう……、これ、「しきはくう くうはしきとの」と読むのではないでしょうか。
 つまり、般若心経の「色即是空 空即是色(しきそくぜくう くうそくぜしき)」(物質=色は空であり、空が色である」。

 故人のパソコンから見つかったものだそうで、読み方までは指示がなかったでしょうか。

 私はさきに文字のほうで拝見したんですが、私は「いろ」ではなく「しき」、「そら」ではなく「くう」と(無意識に)読んでいたので、音で聞いたときに、あれっと思ったんですが。
 でも、ご遺族がそうおっしゃるからには、それでいいんでしょうね。

 時なき世——常世(とこよ)では、もう、お心安くお過ごしでしょうか。

       ●

 知らなくても別にかまわないが、知っておいて損はないこと、というのは、この世には確実にありますね。

 そのうちのひとつが、「スパゲッティの正しい食べ方」だと信じております。
 より正確には、「スパゲッティの巻き方」。

 私がそれを覚えたのは、故・伊丹十三さんの「ヨーロッパ退屈日記」によって、でした。

ヨーロッパ退屈日記 (文春文庫 131-3)ヨーロッパ退屈日記 (文春文庫 131-3)
(1976/01)
伊丹 十三

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 この本で「スパゲッティの正しい巻き方」を知り、やってみたら、なるほど、大変やりやすい。
 おかげさまで——ヘミングウェイも描写しているようなスパゲッティの食べ方をせずにすむようになり、たいへん助かっております。

「みんな非常に急いで、深刻なようすで、スパゲッティを食べていた。フォークに乗せたスパゲッティの、垂れ下がった端が、すっかり皿から離れるまで高く持ち上げられてから、口のほうへおろしてくるものもあれば、またあるものは、絶え間なくフォークを上げ下げして、スパゲッティを皿からじかにすすり込むのであった」
(ヘミングウェイ「武器よさらば A Farewell to Arms」)



 わかるわー。それやっちゃうわー。(^^;)

 というか、箸があれば話は簡単なんですが、日本人にとってはそれもまた味覚の一部でさえある、勢いよく麺をすすり込む、あのズズズズズッという音が、あちらでは無作法で、人を不快にする音とされているのですから、どうにも。(^^;)

 ということで私がよくやっていたのは、フォークでスパゲティを巻いてはみるが、結局、きれいに巻ききることができず、ひとまずは口の中にフォークごとスパゲティを放り込み、口からだらんと垂れたぶんは歯で噛み切る。もしくは、だってここ日本だしといういいわけを内心でしながら、垂れた部分はずずっとすすり上げる。

 まあ、美しくはないなあ。と思っていたので、「正しいスパゲッッティの巻き方」は、教えてもらって、本当によかったです。 
 では、その方法。

(1)スパゲッティとソースを混ぜ合わせたら、フォークでスパゲッティの一部を押しのけて、皿の一隅にタバコの箱くらいのスペースを作り、これをスパゲッティを巻く専用の場所に指定する。これが第一のコツである。

(2)スパゲッティは、2、3本だけ、フォークに引っ掛ける。


 え、2、3本? とお思いでしょうが、これ、本当に2、3本でちょうどいいです。巻いているうちに他のスパゲティも巻き込まれてきますし、その長さを完全に「巻き取りきる」ためには、フォークの容量に余裕があるくらいでいい。ホントに。

(3)フォークの先を軽く皿に押し付けて、そのまま時計回りに静かに巻いていく。

(4)また、フォークの4本の先は、スパゲッティを巻き取るあいだじゅう、決して皿から離してはいけない。これが第二のコツである。

(5)巻きすぎた、と思ったら、すぐにやり直す。


 (4)につきましては、

「フォークの先を皿から浮かすと、ホラ、巻いているうちに、最初に拾った以外のスパゲッティがどんどん縺(もつ)れこんできて、おしまいに皿中のスパゲッティを、全部一巻きにしようとしてるみたいな工合(ぐあい)になってくるじゃないの。」


とのことです。

 巻きすぎちゃって、もはや「スパゲティ巻き団子」みたいになり、これを口の中に入れようとするなら、あーん、と、ものすごい大口を開けなければならない。
 ああ……それ、やってますときどき。と思いました。

 ということで、ものは試しと、スパゲッティを2、3本だけ、フォークの先に引きかけて、心静かに、穏やかに、和敬の心持ちでもって、焦らず、落ち着いて、ゆっくりと、フォークの先を皿から離さないように気をつけて巻いてみました。

 そしたら。
 人生初! きれーいに、巻ききれたのです。
 あれは、感動したなあ。

 なんせ、フォークからはみ出して垂れ下がっている部分がないわけですよ。巻きも小さいので、なにもそんなに大口開けなくても、するっと口の中に入れることができる。

 ソースがハネ飛ぶおそれもなく、大口を開ける必要もなく、談笑しながらごくごく自然に、スパゲッティを口の中まで運べる快適さ。

 マナーというのは、やはり、知らないよりは知っていたほうが、結局は、自分自身も快適になれるものなのだと思いましたよ。

 この記事を伊丹さんがお書きになったのは1962〜1963年頃のようなんですが(アタシもまだ生まれてない)、それから半世紀たったいまも——イタめしなどと呼ばれてイタリア料理が日本においても人気になった1990年代をこえて、いまもなお、「スパゲッティの正しい巻き方」が、国内において実践される率はあまり高くなっていないのでは、と、ふと思いまして。

 ちょこっとこちらで、ご紹介ということで書いてみました。

 ちなみに、同書によりますと、スプーンでスパゲッティをすくったのち、スプーンの上でフォークを回してスパゲッティを巻き取るのは「アメリカ式」なんだそうです。
 アメリカではかまわないでしょうが、ヨーロッパあたりへおいでのさいには、おやめになったほうが無難かもしれません。
 ヨーロッパの、アメリカを(文化面では)馬鹿にすることといったら、ちょっと日本人からは想像がつかないところがありますんで。

 まあ、「アメリカ式」の無器用なことには、かのヘミングウェイも思うところはあったようだし。(^^;)

 ……私がもっとも馬鹿らしいと思うのは、なに、ヨーロッパの連中からみれば日本人なんざ、アメリカ人より馬鹿にされている存在なのに、自分もヨーロッパ文化の一端を担うくらいの気にでもなるのか、ヨーロッパの白人気取りで、アメリカさんを腐している日本人ですけどね。(^^;)

 あんた何様のつもりだね、自分が、どこの誰だかわかっているのかね、と腹の中で思って、黙って聞いてます。
(当然、同意なんかしない)
(面倒だからいちいち反論もしないけど)

 なにしろ、あのソースのハネというのは、やはり悩みとなるものでしたから。ハネをとばすこともなく、きれいにスパゲッティが食べられるというのは、やはりありがたいものです。

 日本国内においては「日本式」ってことで、箸でもってずずずっと食べるというのもアリだと思いますが。

 スパゲッティをきれいに食べる方法も、覚えておいて絶対損はない。ときどきは、日本国内にいるときでも、練習してみるのをおすすめします。

 ちなみに。

 欧米あたりじゃ、そばをすすって食べるなんて信じられないほど下品なことだというのは理解するけど、「郷に入っては郷に従え」で、日本国内で日本人がそうやってそばを食べているのをいちいちとがめないでもらいたい。

 以前いた会社の、社食でそばを食べているとき、同期の子が、ヨーロッパ某国からきている女性を同じテーブルに連れてきたことがありましたが、あれはホントに往生しました。

 ほんのすこしでも、ずずっという音が「しかかった」だけでも、露骨にいやーな感じに顔をしかめやがって、音を立てずにそばを食べるという苦行を強いられましてねえ。

 こん畜生、ここは日本だ、これは日本のそばだ、あたしゃ日本人だ、この食べ方になんの問題もないんだよ! 文句あるならほかのテーブルへ行け! ——と思いましたが、なんせ来客とあってはそうもいえず。

 強いて言うなら、その同期の子が気が利かなかったということになりましょうが、彼女ひとりで異人さんの昼食につきあって間を持たせるのも、……心細いとはいわないでしょうが、やはり、同期の仲間がいたほうが気が楽ではあったのでしょう。

 しかし——あなた、そばをですね。音を立てずに食べてご覧なさい。ぜんぜん食べた気がしないから;;

 郷に入ったら郷に従えるようにするためには、やはり「知識」が要ります。
 どこでどういう「機会」がめぐってくるかわかりませんから、スパゲッティの「正しい」「巻き方」なんか、あたしには関係ないわ、なんておっしゃらないで。(^^;)

 音が全くしないうえに、ソースがはね飛ぶこともなく、きれいに食べられるスパゲッティの巻き方は、メリットが大きいと思いますので。
 世間様にも、もーちょいと、広まることを願っております。

 
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ヨーロッパメディアの「お花畑」

 ちょっと膝をやってしまいました。
 先週からふくらはぎが痛い……かな? という感じだったのが、今週のダンスレッスンでターンをしたときにへんに膝をひねるようにしてしまい(←下手な証拠)、痛い、という感じもないし、腫れもないのですが、ビミョーに、膝に体重を乗せられない感じ。

 整体の先生にみてもらったら、たいしたことはないし腫れもないけれども、奥のほうでちょっと熱があるところがあるんだろうとのこと。

 しばし、おとなしくしています……。

 ストレッチとかちゃんとやってるんですけどねえ。
 どうもこの寒さで、筋肉自体が固くなっている気がする。ストレッチしようがマッサージしようが、どこか固いところが残っていて、怪我を招きやすい。そんな感じです。

 来週のレッスンはやすんだほうがいいかなあ。早く治ってくれんかな;;

       ●

 NHKが、昨年の韓国大統領選挙開票につづき、大統領就任式の生中継をやりやがったのには、さすがに私も頭にきております。
 韓国のヘンな時代物みたいなドラマも、ようやく終わったと思ったら、またべつのドラマの放映を始めるし。

 母ともこれは意見が一致したのは、「韓国分・割引」してもらいたい。ということ。

 とある通信系の企業がやらかした(それとも現在形?)、在留日本外国人のごく一部にだけ、お得な料金体系を適用したというようなものではなく。
 それとは逆。

「NHKの全経費のうち、韓国関連のものが占めた割合の分だけ、受信料を割り引いてもらう」
 そういう割引。

 その理由は、
「見る必要が全くない、見る可能性もない、見ればむしろ精神的苦痛になるものの分にまで、金を払う必要性を認められない」
 から。

 ニュースの時間帯にさりげなく韓国の「CM」を、あたかもニュースであるかのようにして入れてきたり、料理番組の中にさり気なく韓国料理を入れてきたり(今日の料理は和食だと思って油断して見ていると、たとえばお弁当のおかずなら、ナムルと合わせるといいですね的に差し入れてくる。あれ本気でやめてください気持ち悪いから)、そういうのも含んで、使用した経費を計上してもらいたい。

 で、韓国関連の経費を、全経費のうちどのくらいの割合が占めているかを計算し、同じ割合だけ、受信料を割り引く、と。
 たとえば、韓国関連が1割あるなら受信料も1割引で。

 ——という、じつに現実味のないアホーな話をして、親子でブツブツ言いっ放しでした。(^^;)
 いやホントに。あんなもん生中継しているヒマがあるなら、竹島の日式典を全部放送してもらいたいですわ。

 とはいいながら——あの式典中の、麻生副総理のお姿にはやっぱりウケてしまいました。
 カッコイイ。カッコいいけど、やっぱり、うふふと笑ってしまいます。
 どうしても、脳内で勝手に「ゴッドファーザー・愛のテーマ」がかかってしまって。
 似合いすぎる(笑)

 お召しのコートはどこのお仕立てでしょうか。
 あれでアルマーニのダブルのコートだったら、「アンタッチャブル」ですねえ。

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ケヴィン・コスナー、ショーン・コネリー 他

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 あの映画が公開されたあとは、街に出ると、やたら、あのアルマーニ(風)のコートをお召しの男性が目についたような記憶があります。

 がしかし……ダブルのコートって、体格(というか、骨格?)がかっちりした人じゃないと、ちょっと似合わないんですよね。肩の形と肩幅……かな。
 アルマーニのコートは同じなのに、……まあ当たり前なんだろうけど、どうも雰囲気がケビン・コスナーにはならないようだ……と思っていたものでした。(^^;)

 あの映画のアンディ・ガルシアには、私もぞっくりと参っていました。基本、おしょうゆ顔のほうが好み(刷り込みが大川橋蔵さんなので)であるため、彫りの深いラテン系のいい男には、いい男だねーとは言いつつも、じっさいにはそんなに心奪われるようなことはない。そういう人間ですが、それでも。
 あれは……素敵でした……(記憶を反芻しつつうっとり♡)

 ちなみに。
 日本放送協会は「公共放送」なんであって、「国営」ではありませんので。

 まだ間違っている人がいるよ……と、ちょっとげっそりした昨日。(^^;)

        ●

チュニジア野党指導者暗殺、超保守派の男ら逮捕
読売新聞 2月26日(火)18時57分配信

 あきらかな「失敗」がつづく「アラブの春」の唯一の良心だったチュニジアも、結局きなくさくなってきました。

 イスラム政党である現与党を批判していた、野党党首が暗殺され、政府の関与を疑う人々による、抗議デモがつづき、与党は新内閣の発足に失敗。
 混乱はちょっと収まりそうにもありません。

 だーから言ったじゃん、「アラブの春」なんて幻想だって。

 と、新聞などを見ながらつい、ブツブツ言ってしまいます。
「アラブの春」は、幻想というより、ヨーロッパ諸国、アメリカなどの「願望」にすぎませんでしょうね。

 あのとき、これでアラブ諸国も民主化がすすむという、まさしく「お花畑」なことをいっていた、ヨーロッパ諸国のメディア。ありゃあいったいなんなんでしょう。日本の近所のお国並みの妄想記事を書き飛ばしていましたねえ。

 アラブのかつての宗主国がずらりとならぶヨーロッパにおいて、ああいう現実無視の「期待」が出てくるというのが、私にはちょっと信じられなかった。

 あのへん(アラブ)との付き合いは、あんたがたヨーロッパのほうが長いし深いではないか。私ども日本人より、アラブ、ひいてはイスラムというものがどういうものか、よく知っているはず。

 であるにもかかわらず、「これでアラブも民主化」という、寝言というかお花畑というか、ちょっと信じ難いノーテンキな発言がわっとばかりにメディアにあふれかえったのを、私は、嫌悪感を持って眺めていました。

 ……日本の近所にも脳内妄想が激しい人々が多くてうんざりしているもんですから、ついね。脳内お花畑の人に対しては、ついつい態度が厳しくなります。

 これは「民主化へのプロセス」などではなく、「次の独裁政権が誕生するまでの過渡期トランジション・ピリオドに過ぎない」というのが私が見るところでした。
2011/10/25 エントリー「独断と偏見で」

 べつにひねくれているわけではなくて、過去の「実績」、イスラムというものの「性質」、アラブという「土地柄=風土、文化」を考慮していけば、自然に導き出される結論は、そういうことにしかならないはず。そう思って書いたエントリーでした。

 とはいえ、それと同時に、私のその「当然の予想」を、裏切ってもらえることも、頭の片隅では期待していたのでした。ホントです;;

 が。
 なんだ、やっぱりこうなるのか——と思った、チュニジアの現状です。

 エジプトもあやしいし、シリアはどうにもならないほどの泥沼だし、リビアは、かえって周辺の国々の治安を悪化させている——結果的に——ということで(日本人も、シリアに引き続き、先日のアルジェリアでの事件で真っ先にその犠牲になったわけですよ)、眺めているだけで、ため息が出ます。

 せめてチュニジアくらいはと思っていましたが、しかし、「革命」後、かえってイスラム勢力が伸びたというのは、まったくご多分に漏れず、ってやつだし。
 そういう意味では最近ではトルコもあぶないなと思っています。

 イスラムが政治権力をとればなにをするか。
 それは、ヨーロッパ諸国のほうが、日本よりもわかっているはずなのに。

 それなのに、あのアラブの春だなんて妄想をまき散らしていたのは、どういう理由からだったのでしょうか。

 あのときもそんなふうに思ったけど、やっぱりかー。と。
 だから言ったじゃんという気持ちと、ガッカリした感じと、やっぱりなという嫌悪感を伴う納得をしております。
 結局こうなるのねというのが、私の現在の感想です。


 これはまったくの余談ですが。
 かの「聖☆おにいさん」が映画化だそうですね。
(誰が言い出しっぺか存じませんが、思い切りましたねー)

 そのニュースを聞いた、外国の方からのコメントに、「ムハンマドは登場しないの?」というのがありまして。
 もう、わかっているうえでの冗談なんでしょうが、「登場するわけないでしょ。原作者を殺したいのか」と思いました。

 私から言わせてもらえば、イスラムはすでに「悪魔の詩」の翻訳者を殺害している。どんなにきれいごとを並べたところで、イスラムに異教徒に対する本当の意味での敬意なんてあるはずもない。異教徒は「人間ではない」のが彼らの本音なのだと言うことがよくわかりました。
 せんだっての、アルジェリアでの事件だけでも、我々日本人が、イスラムを忌避する理由には充分足りると思っております。


 それにしても、私どもよりははるかに付き合いも長いヨーロッパのメディアが「アラブの春」と持ち上げていた、あれはいったいなんだったのか。
 どういうつもりであんな脳内お花畑妄想を炸裂させ、あまつさえ、エラソーに書き散らしていたのか。

 こうなった現在からあのころを振り返ると、不思議でなりません。

 理想を語ることはいい。でも、現実を認識できないというのはいかがなものか。

 あらためてそう思って聞いたニュースでした。
 
 
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無題

 昨日は東京マラソンだったんですね。
 一般参加の方々のコスチュームのすてきなことといったらもう(笑)

 生放送のほうは見ることができませんで(午前中)、夜、BSフジで再放送したのを見てました。(全部じゃないけど)
 それにしてもボランティアの人の数がすごいなー。
 
 今日は今日で、映画の、アカデミー賞授賞式ですね。当然、見られないので予約録画中。あとでゆっくり見ます。
 たしか去年は完全に見逃していたのでした。
 去年の今頃は、とにかく胃腸の不調がすごすぎて、本来、真夏に比べると1kgくらいは体重増加するこの季節に、げっそり2kg痩せてたんだものなあ。

 吐気止めを打ってもらったのに、その直後に吐いた、あの気持ちの悪さは忘れられない;;

 それに比べて今年はなんと幸せなこと。
 好物の干し芋がおいしくってもー♡

 食べられるって、幸せです。

        ●

 体罰というものについてあれこれご意見も拝見して、あれこれ考えてもみて、その結論としては、
「最終的にはケースバイケースとしかいいようがない。ケースバイケースの基準があるとすれば、他人に対する愛情と尊敬があるかどうかだが、これは、傍目からみてわかることではないので、たとえば法律のように定めることはできない」
 というのが、私なりの結論ということで落ち着きました。

 ま、かりに、体罰が必要な場面はあるというのを認めるとしても、生徒なり選手たちなりに敬意と愛情がある人なら、体罰だとしても鼓膜が破れるほどぶん殴るとか、数十発叩き続けるとか、そーゆーことはしませんやね。

 だからといって「軽く叩くのは体罰。2発以上なら暴行。あるいは、1発であっても、怪我をさせたら体罰ではない」というような基準を設けるのもムダでしょう。

 犯罪者というのは、そういう規制があると、それがどんな規制であれ、なにがしかの抜け道を見つけてくるものだからです。
 
 まあ、怪我をさせたら、すでに暴行ですらなくて、傷害というのだそうですが。(法律上)

 なんにしても、最終的にはそういうわけで、人の心の有り様の問題になってしまうなあ、と思いました。
 人の心の有り様は、目指したい方向を語ることはできても、「規制」できるものではないので——やっぱり、体罰それ自体をまるごと規制していくしかないでしょうね。

 ほんで、調教される動物のように、痛い目にあわないと、守るべきルールも守れないというようなことがあるなら、それはもう、その場所から去ってもらうしかないでしょう。

 たとえば学校という場所ならば、通常の指導というものでは「わからない」生徒がいるなら——いくどかの指導を受けてもわからないということなら、学校という場所から去ってもらう——退学、という処置をとる。
 それしかないでしょうねえ。

 少年法の話を聞いていても思うことですが、「更生」というのを、あまりにもいままで、言い過ぎてきたんじゃないだろうかと思います。

 私は更生、というのを、あまり信じていません。
 成長というのはあるとしても、更生というのは、かなり稀なことだと思います。「善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というのは、まったくありえないとは言わないけれども、それはやはり本人の自覚なくしてはあり得ないことなんで。

 その自覚をいちいちうながすのは、じつのところ、それはもう、現在の学校教育の範疇を超えたことだと私は思います。
 ましてや、スポーツの世界では。

 無理なものは無理。と、はっきり線引きをしておくというのも必要なことではないでしょうかね。
 現在のように、無理なものは無理とはいわないまま、外観だけはとりつくろってはいるものの、本来無理なら、実質だってやっぱり無理なんで、その無理が、ああいう、体罰という歪んだものを生み、「公然の秘密」となり、へんなふうに地下に潜って問題が複雑に、より陰湿なものになっていくくらいなら。

 ドライに、できないものはできない、それはもう学校のやるべきことではない(学校は勉学の場であって精神修養の場ではない)と、はっきり決めて実行するほうが、結局は、誰にとっても納得できるものになるのではないか。
 と。

 現在はそのように考えています。

 精神修養がムダだとか意味がないとかという話ではないです。
 そういうものができるなら、スポーツであれなんであれ、より深い学びに結びついていくものでしょう。
 でも、それが(学校なりスポーツなりの)本来の役割なのか、というのなら、それは違う、ということ。

 まあ、最終的には退学でというのは、かなり悪質なケースを、私は想定しております。さすがにそこまで行くヤツというのは、そりゃもう、学校に行く前に、病院へ行くほうが先というくらいのケースだろうと思っています。

 あとは教育の場というケースで考えるなら、やはり、家庭環境が劣悪だった場合の、子供本人をいかに助けていくかというバックアップのことも、考える必要があると思います。

 体罰というほうが、むしろ話は簡単なんですよねえ。
 そういうものなしでお互いに関わっていこうとするとき、よりきめの細かい規制、制度、救済措置を用意する必要がある。

 ぶん殴ってりゃそれでいい、というほうが、本当は、話は簡単。

 ゆえに、単純でものを深く考えない人ほど、体罰でいいという結論になっちゃうのかもしれません。

 それにしても。
 愛とか敬意とか。それは人の根源、基本、基礎なのに、なんでそんなに困難なものになっちゃうんでしょうかねえ…。

 
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手を隠す

 本日はお天気はいいのですが、風は冷たく、おまけに強風になってきました。
 それでも今日は、遅咲きの品種のはずのうちの梅が1輪、ふっくりと花を咲かせているので、感動です。

 下手すりゃ桜と同じころになってやっと咲くような遅咲きなので——さて、今年はどうしたことやら。

       ●

 日曜日はゆっくりしたいなというのも人情だと思うのですが、日曜日は日曜日でなんだか無闇に用事が積み上がっているというのは、……どうにもなりませんかね。(^^;)

       ●

 以前から思っていたことなんですが——和服姿の人を写真に撮ろうとするとき、手、というのが、まことに始末に困りますね。

 バッグを持たせても片手のことですから、もう片方の手をどうするか。どういうポーズにすればいいのか、
 きもの関係の雑誌や書籍を見ると、モデルさんはじつに不自然なポーズをとっていることが多いです。
 片手は自然に体に沿わせて下ろしていますが、もう片方の手は、ちょうど椅子の背もたれに手を置いているかのような姿勢をとる。

(振袖なら、袖の柄付きを見せたいんじゃないの? とお思いでしょうが、そういう必要がまったくない写真も同じなんです…)

 本当に椅子の背もたれがあればいいんですが、これ、完全に「エア椅子」状態。

 不自然だよなあ。なんとかならんのかな、と思っておりました。

 あるとき、幕末から明治の、女性の写真をあれこれ見ているうちに気がついたのは、当時の女性はとにかく「手を隠している」ことでした。

 正座をして、手は自然にモモの上に置いてある感じですが、手首から先は袖の中に引き込んで、隠しているんですね。
 
 これは立っているときも同じで、肘をチョット曲げたりしているにしろ、手は袖の中。

 舞妓さんの、あらたまったようすの写真は現代でもみますが、あれも、たとえば正座なら、振袖を膝の上に広げるようにしてクロスさせて、手は、その袖の下に隠すようにしている。

 不思議なことに、手が隠れていると——決まって見える、上品に見える。つつましやかに見える、構図として「間抜け」にならない。
 ………と思うんですけどどうでしょうか。私はそんなふうに感じて、へえ、と思ったんですが。

 お能の、地謡、あるいは後見ということで舞台上にでてきて控えている人も——こちらは男性ですが、特に用事のないときには、袴の、あの両脇の空いているところ——股立(ももだち)——に、それぞれ左右の両手を入れて座っています。

 地謡(じうたい)の方々は、紋付、裃(かみしも)姿でして、謡をうたうときには、その股立ちからすっと両手を出し、扇子を両手に持って謡います。

 基本、何も持っていない両手が、ぶらぶら外に出ているということはないんですよね。

 うーん、なぜだろう。なぜ、手がきものの袖に隠れていると、すっきりと、あるいは構図としてきれいに成り立つんだろう。

 もうひとつ、隠れていたほうがいいのかなと思うのは「耳」。

 女優の中谷美紀さんの和服姿というのはほんとうにおきれいで、慣れている感じもあってきれいだなあと思うのですが、私が見ている限り、中谷さんは和服の髪型として、両耳を、髪で覆っていらっしゃるようです。

 きもののことですから髪はまとめ髪ですが、サイドの髪の流れで耳を覆っているわけですね。

 平安時代の貴族女性は、耳を出さないのが常識だったようで、耳を出すのは「はしたない」恰好だったようですね。源氏物語、堤中納言物語にもあります。

 だからなんだと言われても、なんということもないんですけども。すみません、ちょっと思い出しただけです。(^^;)

 ひとまず、手についてだけ言うと、手をきものの中に隠しているほうが、——きもののときは——ポーズとしてはキマる。と思う。
 それが「不思議」に思えますというお話。

 きものの雑誌で、手の置き場所に困ったかのような、じつに不自然なモデルさんのポージングを見るにつけ、
「昔の人みたいに、手を隠してみたらいいんじゃないかなあ」
 と思っております。

 私は個人的に、広げた袖の下に手を隠す舞妓さんのスタイル、股立ちに両手を隠して控える(裃姿の)男性のスタイルというものに、たいへん好感を覚えるのですが——洋服のときにやれという話じゃないんで、きもののときには、この「手を隠す」という「習慣」、復活させてもいいんじゃないかなあ。

 ちなみに。
 最近、空手(手に何も持っていないこと)で、立ったままお辞儀をするときに、両手、指先を重ねて、へそのあたりに置いて一礼するのをお見かけしますが。
 あれ、両肘を大きく張ることになるし、なんだか不自然に見えて、私個人としては好きではありません。

 立っているときに、両手を重ねて(この重ね方にもじつはマナーがありますが、まあいいや)いくと自然に、足の付け根あたりの位置で体の正面になるはずですが、あれ、なんでヘソの位置まで不自然に肘を曲げて引き上げるようになったんでしょうか。

 べつにいいんだけど、あまりにも不自然なのでどうも見ていて違和感があります。
 出どころは、デパートの店員さんのお辞儀からかなと思っていますが、どうでしょうか。

 なんにしても。
 きもの姿を写真に撮るとき、どうも手の位置の処理に困ると思ったら、手を袖の中に隠してみるというのを、ちょっと試してみたいと思います。

 控えめで、おしとやかな感じになる——かな? (^^;)

 というか、まあ、写真の構図として「間抜け」にならないなら、そのほうがいいなということで。

 
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本日、静岡県は「富士山の日」

 昨日は「猫の日」でしたが、本日、2月23日は静岡県では「富士山の日」なんだそうです。

静岡県/富士山の日
(静岡県公式ホームページ)


 静岡は富士の国とかいっちゃってますが、これ、山梨県の人にたまに苦情を言われるんですよね。
 地図でみればわかるとおり、富士山の裾の面積は山梨のほうが広いので、この苦情もごもっとも。と思います。

 まあ、その昔の幹線道路、東海道が、静岡県側を通るもので、人目についたのは静岡県側だったからなんでしょうねえ。人間の認識なんぞはそんなもんさ。(←冷淡)

 私個人は、富士山を世界遺産に、というのには、あまり熱心に賛成ではありません。
 世界遺産もけっこう胡散臭いところがあるし。
 たしかに美しい山ではあるが、それを「人類の」宝というところまで広げるのはどうなのかと思うし。
 
 なにより、世界遺産になろうがなるまいが、環境を保護し、山を守っていくのは当然だとおもうんで。
 むしろ、世界遺産がどうこうという以前にはゴミの山になっていたことについての反省が先なんじゃないの。

 世界遺産になれば大事にするが、そうではないならゴミの山でいいやというのはどうなの。

 という具合で、私は冷淡です。

 小学校5年のとき、無理矢理、富士登山に連れて行かれましたが、その山道と景色ときたら、まあ石がゴロゴロするばかりで殺風景で面白くも何ともない。(←山登りなら、天城山系の腐葉土でふっかふかの土と、ぴかぴかの緑をこよなく愛するものであります)
(浄蓮の滝では爽やかな空気が味わえて、肺まで浄化される思いですが、ここでタバコを吸って空気を汚染していた、観光バスで来ていたオッサンを見たときは、さすがの私も殺意が湧いたものでございます)
(ただ、あそこで売っているわさびアイスクリームはおいしゅうございます)

 高山病なんでしょうが、頭痛がしたところで、7合目あたりでもうリタイアして、おにぎり食べて帰ってきました。

 夏の夜には、うちからでも、富士登山の人々が灯りを持って登っていくのが、ジグザグに細い光の道を描いているのが見えます。
 なかなか風情のある光景ではあるのですが。
「………あんな砂利道を……物好きな」
 という思いがあるのも否めません。(^^;)

 木花咲耶媛命(このはなさくやひめのみこと)の御山は、遠目に眺めているのがいちばんだと、個人的には思っております。

 ところで、木花咲耶姫は美人の誉れも高いのですが……冷静に考えると、それを言い出したのって奈良時代とかですかね。
 当時の美人て、天平美人てことですよね…。

 …………現代人からみるとどうなんだろうな。
 と、たまに罰当たりなことを考えて富士山を見上げております。

 富士山が美人であるゆえ、富士山周辺には(木花咲耶媛命がつむじを曲げるので)美人が生まれないという説もあります。
 美人の基準て、でも、時代によって変わるからなあ。

 でもまあべつに、美人じゃなくても強く生きていくことはできます。

 ちなみに富士の日の今日の富士山、やや雲がかかってはおりますが、まあまあ晴れてきれいに見えています。
 日差しに力強さがもどって、春の気配。
 
       ●

日米首脳会談 TPPで共同声明
2月23日 7時10分 NHKニュース


 TPPの「交渉」に参加するにあたり、「一方的にすべての関税を撤廃することをあらかじめ約束することを求められるものではない」などとした共同声明を発表、とのこと。

 さてどうなるかと思っておりましたが、安倍総理、よく言質(げんち)をとりましたね。

 ここまできたらもう、あとはトップ同士で話をするしかない、ということでしたでしょうが、よくアメリカさんの言質を取り付けたもんだと思っております。

 過去、あれこれ話を聞いてきましたが、「関税の完全撤廃」をいっているのはアメリカくらいなもんで、他の国のエライさんたちは、日本に来るたびに日経新聞にインタビューされて答えていたけれども、そこにこだわる国はじつはほとんどないんじゃないかという感触でした。

 ようは、アレを言っているのはアメリカさんだけかよ。と私は思っておりました。
 ——それにしても、TPPにあとから参加したアメリカさんがなんでこんなに威張ってんのとは思いましたけどね。(^^;)

 他の国はわりと、「日本の懸念はもっともなこと。うちも、聖域なしでなんて思ってないよ」的なことを言ってましたから。

 それが事実なら、なにも日本だけがこんなに脅迫まがいのことを言われる筋合いはないんですけど、なにしろアメリカさんだものなー、どうなるかなーと思っていました。

 ひとまずは、「関税の完全撤廃ありき」ではないという言質がとれたのはようございました。

 ちなみに。
 日本の農業衰退の話はTPPとはまったく関係ありませんので!
 仮に参加しなくても、このままいけばジリ貧なのは目に見えてますので!

 TPPを「いいわけ」にしている人たちの顔を見ていると、たまに、それは言いたくなります。(^^;)
 じっさいの問題を、ぜんぜん関係のない他人のせいにして、騒いでいるあいだに時間切れなどという、馬鹿なことにならないように願いたいです。

 人間、マズイ問題が持ち上がると、つい、他人のせいにして「現実逃避」したくなるもんですよね。
 日本の農業はもうずっとそうやって、現実逃避しながらここまできてしまったという気がしています。

 首脳会談は、ほかのことについても破綻なく話ができたようで。
 それはよかったと思っております。個人的に。

 
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裁くことについて

 にゃんにゃんにゃん! ということで本日、猫の日。

 ……だからなんだと言われても困りますが…すみません言ってみたかっただけです……。

        ●

http://togetter.com/li/459767">義足のランナー、オスカー・ピストリウスの逮捕に思う
http://togetter.com/li/459767
乙武洋匡さん Togetter

 この事件、なんだかちっとも要領を得ない話なので、触れずにいるつもりでした。

 なんせ話は二転三転するし、地球の裏側のことなので、情報はほぼ「外電」でしかないし、どう思うもこう思うも、ひとさまの名誉に関わることでもあるのでやたらには言えませんわな。
 というのが私の基本的態度です。

 もとから、あんまりここでは不確かなことでひとの名誉をそこないかねないことは書かないようにとは、思っているんで。
 好き嫌いが激しい人間ですから、頭にくれば悪口もいいますが(悔い改めよ;;)、ただ、法的なこと、ひいては社会的な名誉、立場に関わることには、じつはこれでも、気を使っております。わかってくれとは言わないが。(^^;)

 そんなわけで、事件についてはあれこれ申しません。

 ただ、乙武さんのご意見を拝見し思ったことをちらほらと。

 拝見して、ああ、それはある、と思ったのは、




 彼らというのは障害者のことですが、——そうなんですよねえ。世の中、障害者を「怖がる」一方で、なぜか、ひじょーに聖なる存在のようなイメージが、流布してもいますよね。

 障害者を差別、あるいは嫌悪する人の根源には「恐怖心」がある、というのが私の見るところです。
 よーするに、日頃から接触がなくて「どう接していいかわからない」ことからくる戸惑いと、見慣れないものへの警戒感と嫌悪感。

 詳細は、長文ですが、下記エントリーにて。
 
24時間テレビ(2012.08.28 エントリー)
http://hsmile.blog4.fc2.com/blog-entry-3628.html

 その一方でたしかに、障害者をへんに美化する傾向があるのも事実。

 障害があろうがなかろうが、人間は人間なんであって、「聖なる」人間てのはまず滅多にない、と思うんですが。
 嫌悪する、恐怖する、というのの一方で、「神聖視する」というのも、たしかになあ。

 共通して言えるのは、どのみち、「障害者を特別扱いしている」ということ。
 その特別扱いが、ネガティブな態度か、ポジティブすぎる態度かの違いというだけで。

 だいたい——広い意味で考えると、障害が皆無の人間てのは、この世にはいないんじゃないですかね。
 私もいちおう、社会人をやらせてもらっていますけれど、とにかく記憶力が悪い。なにごとであれ、習い事なら通常の人の2倍の時間がかかる。
 ごくごく軽度の脳障害といえると思ってます。
 虚弱体質で、これまた軽度ではあるが障害ともいえる。

 言語能力が不自由、精神面がちょっと不安定、ものが片づけられない——というのも、ある種の障害といえば障害でしょうし。
 そう考えると、障害のない人はこの世にはほぼ、いないのではないでしょうかね。

 その程度がちょっと違うだけ、と考えると、………べつに、障害者というのを特別扱いする「必要」も「理由」もない、ということになります。

 健常者とされる人だってトラブルに見舞われることはある。そういうとき、誰かが困っているときには、周囲が手助けするのは当たり前のこと。
 障害者と言われる人々の活動の手伝いをするのも、その「意味」ではまったく同じことなので、特別扱いではない。

 健常者が、たとえば道に迷っているようだったら手助けするものを、目が不自由らしい人が、新幹線の中で座席を探して困っているらしいとわかっていながら、知らん顔をするほうが「特別扱い」です。

 といって——視覚障害者が、すばらしい芸術作品を作り出したとき、芸術性を評価するのみならず、なんか異様に盛り上がって、その感性と努力を賛美しまくるというのも、特別扱いではないでしょうかね。

 芸術作品がすばらしいならそう評価していればいいだけのこと。なのに「こういう障害があるのに、すばらしい」という方向で、無闇に美化して賛美しまくるのは、どうなんですかね。
 ご本人は、障害者の努力はより大きな困難があることを思って感動しているのかもしれませんが、——それはそれでけっこうなんですが、そこにばかり焦点を当てるのは、逆にハンディキャップを強調しているようにも見える。

 ふつーに、作品が素晴らしい、だけでいいんじゃないの。と私は思います。

 障害者を「怖がる」人も、「神聖視」する人も、「特別扱い」しているという態度、考え方では共通している、と思っております。

 その解決策としては、上記エントリーでも書いたとおり、障害者が自分の日常の中に当たり前にいればいいんじゃないかなと私は考えました。

 見慣れないから特別扱いしちゃうというのなら、日常で見慣れていればいいだけのことじゃん。と、思うわけです。

 いまのところは、障害がある人というのはどうしても、いわゆる健常者とは「場所」を分けられている。健常者からすれば、自分の日常には存在しない人々なんですよね。
 たまに見るからびっくりするんで、日常、隣りに座っている存在になら、障害それだけに気をとられることもあるまい、と。

 見慣れないものを警戒するのは、動物の本能としては必要なことなんで、そのこと自体を否定する気はありません。
(へんなふうに正当化する気もありませんけども。なんのための人間の知性と、社会制度と法律なのかということになるので)

 パラリンピックがオリンピックと統合していくのもいいですが、その存在を日常のものとするために、子供の学校を分けるのを、まずやめませんか——というのが、私の考えるところです。私自身の体験からもうしましても。

 それにしても、見聞きするたびにイラッとくるのは、じぶんで勝手に何かの「範囲」を設定し、そこから外れた人を見つけると、いきなり全力でツブシにかかる人たちです。

 私も好き嫌いが激しいので、「イヤだと思うものを排除したい気持ち」はわからないこともありませんが、いちいち、相手を物理的に潰しにかかるというところがわからない。
 
 私は嫌いなものは、見たくない聞きたくない触りたくない、ということで、無視してかかる。
 たとえそれがいじめという行為であろうとも、相手に接触しようとする、その態度が理解できないんですよね。

 かのブータンにもやっぱりイヤな側面はあるのでして、仏教は「因果応報」の教えであるゆえ、仏教国では、現世において障害者として生まれるのは、前世で悪事を働いた報いである、ということになるそうです。

 そこまではいいんですが、それゆえに、障害者を差別——差別ならまだしもはっきり「迫害」する風潮が強いという話を聞いております。
 これは、いただけません。

 日本において、ハンディキャップがある人をいじめる、という人々が品性下劣であることは申すまでもありませんが、その不当な行為を、宗教が補完しているというのは、よりいっそう、タチが悪いと感じます。——その不当な行為を正当化しちゃいますからね。宗教が。
 
 お釈迦様がそんな話を聞いたらさぞ不本意にお思いになることでしょうにね。
 まことに人間は愚かしい。

 私はこの、仏教の「因果応報」の考え方については、以前から大いに疑問があるのです。
 あれこれ考えた結果、スピリチュアルの人々が言うことのほうが本当ではないか——つまり、カルマというものはたしかに存在するが、それには善悪というものはない、という考え方のほうが、本当ではないかと思っております。

 なぜか。

 カルマはなるほど自分に返ってくるものだけれども、ただそれは、1を行えば1が戻ってくる、3を植えれば3を自分が刈り取ることになる。——カルマ自体はニュートラルであって、善悪というものは(人間の都合なので)ない。そういう発想のほうが、「理に適う」からです。

 必ずしも、目の前の現実に合わないんですよ、仏教が言うところの因果応報(悪事には悪果、善事には善果という教え)では。

 私の宗教的アイデンティティは、日本人である以上自動的に神道の氏子であり、と同時に仏教徒である、と自分では思っていましたが、どうもこの、「悪いことをしたから悪い結果」というのが、納得しきれませんで。

 死後の世界はあると判断した理由も、「そういうものがないとしたら、この世の有り様の説明がつかない」と思ったからなんですが。

 理由を言うと長くなるから省略しますが、似たようなことで、障害者は前世で悪人だった、というのは納得できない。
 障害が、100%、絶対確実に「悪いこと」ではないからです。

 かりに、100万光年ゆずってその前世が悪行に満ちたものだとしても。

 いま、現在、そこに存在している人を、同じく、ろくでもないことをした結果としてこの世にいる(仏教の論理ではそうなる)人間の、いったい誰に、他人の前世を裁く権利があるというのか。

 この世に生きている人間には、なにものをも、裁く権利などない。
(法律の話はまた俗世の話ですから別です。気が向いたらそのへんも書いてみたいと思います)

 まあ、あれだ——これはキリスト教のほうだけれども、イエス様の「あなたがたのうちで罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい」というお言葉に「真実」があるのでしょう。
(ヨハネの福音書 第8章)

 ゆえに、仏教的な論理でもって、現世、罪のない、ましてハンディのある人を虐待するなんざ、てめえら(そもそも)人間じゃねえ、くらいには思います。はい。

 スピリチュアルのほうでは、他人であれ自分をであれ、とにかく誰かを「裁く」ことは、おやめなさいね、ということをいうわけですが。

 耳が痛い教えではありますが、じっさいそうなんだろうなと思います。

 ——この世には許せないものなどない。
 ただ、許せない、と思う心があるだけだ。


 耳が痛くてのたうちまわりたくなりますが、それは、そのとおりなのだと思います。

 はー……(←ため息)

 
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ある文化摩擦

 いやまあ、たしかに連載誌はBL雑誌ではあるんだが……内容的にはBLという感じは(ほぼ)しないんだけどなー。それでも分類は「BL」になるのか〜。
 と、楽天ブックスのほうを見て思いました、「八犬伝 —東方八犬異聞―」。

 ジャンル分けが表記されているのですが、それが、「BL」になっておりまして。

 だとすると、南総里見八犬伝の作者、泉下(せんか)の馬琴先生にはこの翻案のことは黙っていたほうがいいのかな、とひとりごと。
 いやあ、馬琴先生、男色嫌いだったから…。
 バレたら怒られるのかな、と、つい。(^^;)

 馬琴先生が、男色というものをそりゃもうすっごい勢いでこき下ろしているのをどこかで読んで、その語調がかなり激しいものだったので、印象に残っております。

 馬琴先生が男色を罵倒しているのを見たときはびっくりしましたよそりゃ。
「近世説美少年録」なんてものを書いているのになー。

 馬琴先生の書いたものにはちょこちょこ登場する男色なので、そうも嫌いと言われると、
「ええ?! だってああいうのとかこういうのとか、書いているじゃないですか!」
 と言いたくもなるんですが……、「近世説美少年録」なんてものを書いていたのに、そりゃないでしょ、と。

 とはいえ、現代でも、すっげえやおいを読み書きする人が、現実の同性愛者にはものすごいアレルギー反応しめす例もあるとおり、フィクションと現実では違うということかもしれません。

 ちなみに「美少年録」では、悪役のほうが男色家らしいです…。すみません私は未読です…。
(馬琴先生の男色嫌いは自分の体験によるとも聞いていますが……ホント??)

 南総里見八犬伝にも、露骨にではなくてもそういう要素があるんだそうで(私は根性なくて、抄訳版しか読んだことないからわからない;;)、そのへんから馬琴先生の書簡を読むと、いきなり、あたしゃ男色は嫌い、とか書いてあるから、ちょっとびっくりするんですよね。

 ゆえに——内容的にはべつにBLでもない「東方八犬異聞」は、馬琴先生にはナイショのほうがいいんだろうかと思いました。
 が。
 原案=南総…のほうにもそういう要素があるなら、「東方八犬異聞」のほうも、お目こぼしいただけるかな〜。(^^;) どうだろう。

      ●

 なるほどジョークというのは難しい。

 あの隕石落下を見たときは、「これが都市部に落ちたら」と考えるとまことにもって、ぞっといたしました。

 隕石が落ちた湖は、地元では「聖なる湖」と呼ばれているそうですが、——今回の隕石落下は、まったくもって運がよかったとしかいいようがないことが重なっています。
 神様のお手配だったとしても驚かないレベル。ここは、素直に感謝を申し上げたい。

 と、そういうものを、ですね。
「尖閣諸島に落ちればよかったのに。トラブルがなくなるから」
 というのは、たしかに笑えない冗談ですねえ……。

 なんで笑えないかというと、本当にそれが消えてしまえばトラブルもなくなるのなら、苦笑いしながらでも「まあそうねー」くらいは言えるのですが、この件に関しては、尖閣諸島が消えたところで同じことですからね。

 中共との「トラブル」は、じつのところ、尖閣諸島が問題なのではない。
 無責任な諸外国の中にも「あんなちっぽけな島ぐらいで」というところがあるようですが、問題はそこじゃねーんだ。
 
 島が問題なのではない。
 国家の野心とその手法が問題なの。

 シナの(自称)漁船が、海保の船に体当たりしてきた件のときは、日本国内にいるシナ人が、いっせいに、「海保のほうが船をぶつけにきている」という主張をしました。あのときは、さすがに私も考え込んじゃいました。

 シナについて好意的に解釈したい人たちは、「(本土の)シナ人がああいうデタラメをいうのは(なんせ映像を見ればわかることなのに、あくまで逆を言い張る)、中共によって情報が管理されて、実態がわかっていないから」だと言い張っていましたけれど。

 私も、できることならそのように解釈してあげたいところではありましたが。

 日本に在留しているシナ人なら、情報は充分にとれているはず。
 であるにもかかわらず、中共のスピーカーになっているのを見ては、「シナ人て……」と、思うしかなかった。

 なにをどうすりゃ、ああいうことができるんですかね。

 ということで。
 そのつまらない、笑えないジョークの話を聞いたとき思ったのは、
「なんと、この人までが、ものの『本質』がわかっていなかったとは」
 という、そういう落胆でした。

 尖閣諸島が問題そのものではないのだと、わかっていれば出てこないジョークですからねえ。

 ま、シナ人ならこれを笑えるのかもしれません。

 なんせ、数年前に——もう10年経ったねえ——インターネットで選ばれたという「世界で一番笑えるジョーク」、あたしゃなんにも笑えなかったもんなー。

 分類で言うなら「ブラックジョーク」になるんでしょうが、それにしても、こういうネタで笑わないといかんの? 笑えるもんなの? と本気で疑問に思いました。

 日本人にユーモアがないわけではないのは、「笑い」に関する「芸能」が種々あることをみてもわかりますが、しかし、笑いというのも文化であるらしく、文化が違えば、笑いの「ツボ」は大きく異なるようですね。

「舶来品」でいうなら、Mr.ビーンも、アーノルド坊やも、あたしにはなにが面白いのがサッパリだったし。

 ということで、これもまた、ある種の文化摩擦ではあるのでしょうが、つまらないジョークには、「さむい…」と呟いてあげればいいだけのことで、炎上などという、それこそ文化程度が低いことを熱心にやる必要はありません。

 むしろ、ああいうことで炎上なんかすると国の恥になるからやめてもらいたい。

 みっともない、という「価値観」、復活させねばならんのでしょうか。
 私個人は、みっともない、というのは好きな価値観ではないのですが、あまりにも恥知らずになると、こういう人たちには必要なのかなと思っちまいますよ。(^^;)

 
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本日おやすみ

 本日のところはまたおやすみいたします。m(_ _)m
 年度末が攻めてくる〜;;

 G20が終わりましたが、最初から最後まで、日本の報道を見ていて違和感バリバリだったのは、現在の為替レートが「円安」のように言われていたこと。

 いままでが超ハイパー円高だっただけで、1ドル=93円だってまだじゅーぶん円高なんですから!!! しっかりして!! 寝たら死ぬぞ!(←?)
 ……と、いくどか、ニュースを見ながら呟いておりました。

 個人的には、1ドル=100円になってくれんかなーと思っております。理由はお察しでしょうが、計算がしやすいからです。(^^;)
 
 というか……ただいま手元に、100ドルのTC(トラベラーズチェック)が残ってまして、もう海外旅行の機会もなさそうだから、円に交換しようかと思うのですが、これ、1ドル=97円くらいのときのものなんですよね。
 手数料のことを考えると、やっぱり1ドル=100円くらいになってくれんかな。と。

 本気ではありませんが、たまーにそんなことも考えております。

 
 
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「場」の前提条件

 地元の和菓子屋さんで、ひな菓子(干菓子)を買ってきまして、さっそく、お雛様にお供え(というのか;;)しました♡
 春が近づいているのだな、と、——窓の外の氷雨は無視して思うようにしております。(がんばれ私;;)

       ●




 ネットにあふれる「コメント」、テレビで垂れ流す「討論」、いずれにも、なにも「交換」もなければ発展もない。ただの罵り合いならやめてしまえというのが私の考えですが、こういう——「結論を出すためではなく論点を明らかにするため」という「目的」を、まず共通して設定できればいいんでしょうね。

 現状、こういう認識を持ってその場に臨む人というのは皆無に等しいんじゃないでしょうかね。
 論点を洗い出すという目的があれば、ひとまずは罵倒合戦にはならずにすむでしょうが、しかしここでも大事なことは、「論点をいちいち整理するだれか」が必要ということ。

 発言者本人には「あたりまえ」で、いちいち意識していないことが、俎上にのせるべきことだったりしますね。
 反対意見の人からみれば、その前提条件こそが、そもそも「問題」だ、ということは多いので。
 しかしこれ、発言者本人には、「あたりまえ」なので意識化ができず、反対意見からの指摘があっても、「何を指摘されたかわからない」ということになる。(本人は意識できないから)

 ここで、他人から指摘されて、あ、そうか、と、自分が無意識に抱えている「問題点」を、悟ることができる人間が、世の中にどれほどいるか。
 あたしゃそのへん、人間そのものを信用していまへん。

 ということで大事なのは、冷静に、問題点を——賛成反対はおいといて——これがまず問題点ですね、と、取り出すことができる人。そういう作業と、そういう作業をしてくれる人、ということになります。

 でも、こういう人がいたとしても、その人が気の毒なのは、その人はただ、煮物をしていて浮いてきた灰汁(あく)を網じゃくしですくうようにして、論点をとりあげているだけなのに、発言者たちいずれからも、憎まれることがある、ということ。

 本当の中立者は、すべての人から憎まれることがある。

 この一事を見るだけでも、いかに人間が愚かがわかりますね。
 自分の味方ではないものはすべて敵。——そういう発想の人が多過ぎる。
 中立者であることは、少なくともいまの世の中ではきわめて危険なことになります。

 ゆえに、賢い人はいたとしても、彼らはなかなか、その中立者としては立ってくれない。
 全体としてはこれは大きな損失だと私は思うけれども、その身が危険に晒されるのをわかっていて、なお、中立者として立つことを求めることはできない。

 まあ、いちばんいいのは、そういう中立者がいなくても、参加者が全員で、「論点を洗い出す」作業に専念しよう、と目的意識を共有することですが。
 ここがそもそもできてないから、議論ではなくただの罵倒合戦になり、そのあまりの生産性のなさにうんざりした人間は、「いいかげんにしろてめーら」と吐き捨てて席を立つ。
 それが現状ですね。残念だけど。

 為末さんおっしゃるような認識を、発言者たちの「共通認識」にすれば、なるほど、世の中少しはまともな言論に出会えるようになるんだろう、と思いました。

 じっさい、「あんたら、なんのために発言してんの?」と、私がウンザリするようでは、そもそも、その言論の「場」が成立していないわけですよね。

 日本人はディベート(討論)が下手だと言われますが、「討論は、まず、なにを目的にするか」という教育が必要なんですね。ナルホド。

 しかし、こういう共通認識が成立するということは、基本でありながら現実にはなかなか実現しないというのも事実だったりして。
 
 言論の場というのは「結論を出すことではなく問題点(もしくは論点)を洗い出す」ための場だ、という認識がお互いにあってこそ、「話し合う」ことができる。
 その認識が共有されないとどうなるか。
 ——現状のとおりになります。

 意見としては対立することがあったとしても、そこで発言する人たちは目的を「共有」した「仲間」だということが、言論が成立し、機能するための第一条件である。
 そういうことだろうと、私は考えます。

 しかしその、目的を共有してくれない人がその場に混ざったらどうなるのか。
 考えただけで、あたしゃクラクラしてきますわ。(^^;)

 国会においても「日本の国益とはなにかを考える」という目的を共有しているのなら、最終的には国益というところで意見が(それなりに)まとまるでしょうが、日本の国益を考えるべき場に、外国の利益のために働くぞ、という人たちが混ざっている。

 なるほど国会運営がわやくちゃになるわけだわな——と、昨日の参議院予算委員会をチラ見して思いました。ふん。(←鼻から吐息)

 もっと砕いていうならば、「話し合うことでものごとをすすめていこう」という意識を共有できて初めて、話し合うことが「成立」するんで、その共有ができないメンバーがいたら、話し合いは成立しない。

 言論だの話し合いだのと、皆さん簡単におっしゃいますけれど、その「話し合いを機能させるための環境」というものが、どれほど重大であり、同時に、整い難いものなのか。
 そこらへんをあまりに気軽に無視して、自分に都合がいいときだけ、話し合いだ議論だ言論の自由だと、おっしゃるように聞こえてならないのです私には。

 だからといって、私のように、ムダじゃムダじゃと引きこもるのも、「正しい」あり方だとは思っていませんが。(^^;)

 言論とは何かその場はどういう場なのか、なにが目的なのか、共有する目的の設定はどうするか。
 そういうことを「周知徹底」することが、本当は、最初の作業になるのだろうと思います。

 ………そういう教育は、まず、子供より大人にするのが先でしょうね、現状では。

 以前にも、こんなことについて書いていたことがありました……。
 自分のメモ用として貼っておきます。

ある疑惑 (2009/01/16 エントリ)
http://hsmile.blog4.fc2.com/blog-entry-2092.html

 
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イケメン♡パラダイス

 今年の大河ドラマ「八重の桜」、昨日の回——第7回「将軍の首」ですが。
 孝明天皇と容保さんの熱烈なる相思相愛ぶりをみて、なんとなく、ぎくっとした、というあたり、あたしもやはり腐女子のはしくれなのだろうかと思いました。
 
 その役を演じている綾野剛さんが、インタビューの中で松平容保さんを「愚直」と評していますが、まーさしくそんな感じですね。
 孝明天皇の「格別のおはからい」に感激するようすが、いかにも純粋な青年そのもので、このへんがモンダイだったんだよなー。と、かえって胸が痛んでしまいました。
 純粋、ピュア、てのはいいことではあるんでしょうが(その逆よりは)、どうもねえ……。こういう時代の中では……。

 なんにしても孝明天皇と殿様(容保)の相思相愛、がっぷり四つに組んでの見つめあい、「あ、いかん。腐女子で食いつく人がいるかも」と思ってしまいました。
 ………不純ですわ我ながら。(^^;)

 さすがに天皇とあっては、いくら恐れを知らぬ腐女子でも、まさかねえ、と思っております;; 5月のイベントあたりで「×」記号を使用する本が出ているなんてことがあったらどうしよう;;(←すでに妄想)
 だ…大丈夫ですよね?(なにが)

 それにしても——なるほど回を重ねるごとにこのドラマ、「イケメンパラダイス」状態だということがわかってきました。玉山鉄二さんはうるわしいし、斎藤工さんは凛々しいし、兄(あん)つぁまこと西島さんはカッコいいし、まあ、どうしましょう♡ 状態だということが、さしもニブい私にもわかってきましたよ。(^^;)

 うーん。でも、大河ドラマの場合、主人公が充分成長するまでは、そのお父上役の俳優さんを目当てで見ちゃうということがしばしばある私としては、もうちょっとこう、年かさの、渋めの「景色のいい男」がいてくれても文句はないなーなんて♡ いえもちろん松重豊さんもすてきなんですが。
『独眼竜政宗』では北大路欣也さん、『平清盛』では中井貴一さん、主人公の父ではなくて兄ですが『花の乱』の草刈正雄さん、『太平記』は緒形拳さん、……渋くてすてきで、最初のうちは、主人公ではなく、こちらを目当てにドラマを見る(笑)

 なんせ笠智衆さんにうっとりするようなヤツですんで、10代の頃から、「きれいなおにいさん」より、渋いおじさまのほうが好みだったりするのです。(^^ゞ

 考えてみると、玉山さんにしろ斎藤さんにしろ、御武家さまのお姿を拝見するのは初めてですが(玉山さんは『天地人』のときは月代なしスタイル)、意外に似合っていらっしゃるので、ちょっと感動してます。
 とくに、覚馬さんの西島さんはよく走っていますが、難しいんですよねあれ。
 所作指導があるそうですが、それでも、腰に大小差したまま走ってあまり体が揺れないところがすごいと思います。(槍の殺陣もすてきでした)

 じっさい、ほかの時代劇のドラマで、腰の大小が左右に揺れてしまって、本人の体にがんがん当たりまくって、うわーえらいこっちゃ、というのを見たことがあります。(^^;)
 これはもう甲野善紀先生に特訓してもらうしかないんじゃないかと思いました。
 体の使い方が、もう、当時と現代とでは、同じ日本人とはいえないくらい違ってしまいましたもんねえ…。

 話をドラマの内容に戻しまして。
 斎藤工さんの演じる神保修理(長輝)さんは……(涙)
 こんなにいい男があんなことに、と思うといまから泣ける。
 白虎隊のことといい、やっぱり辛い(涙)

 歴史とはそういうものではない、とはわかっていても、ここでもまた、坂本龍馬が生きてありせば、という思いが募ります……。
 
 今回、殿様こと容保様には、尊皇派のやっていることはめちゃくちゃで「狂っている」との仰せがございましたが、まったくそのとおりなんですよね。
 今回も、密偵だったはずの人が、「ミイラ取りがミイラになる」状態で、「熱に浮かされたよう」だと自分でも言っていましたね。それが、その狂気の核心なんでしょう。

 私は、その「狂気」について考えたとき、浅間山荘事件とか、連合赤軍とかを思い出し、
「いつの時代も、たいして頭の良くない若者のすることは、本質的に同じだな」
 と思いました。

 じっさい、殿様に尊皇派の「論理破綻」を指摘されるまでもなく、あの当時の「志士」とやら、きっちりものがわかっていた「人物」は、両手の指があれば足りる程度だったんじゃないでしょうかね。よくて両手両足。

 結局、大多数のアホを、少数の「もののわかった人」たちが、苦労しながら導いていくしかないのが、この世というものなんでしょうかねえ。

 もちろん私もその大多数のアホのうちではありますが、今昔物語(でしたっけ;;)に出てくる、琵琶の名手と自分の演奏の「決定的な差」を素直に認めたヘボくらいには「わかる」ようでありたい、と願っております。

 私のひねくれた性格の、数少ないメリットと申せば、今回の「ミイラ取りがミイラ」パターンには、はまりにくい、というところでしょう。
 周囲が熱狂すればするほど冷めていく。そういう気質は、こういうときにはありがたいかも。

 ただ、こういう人間は、自分の身を置く場所を間違えると、——連合赤軍でいうなら、仲間たちの手によって「総括」(=リンチ。結果的に殺人)されちゃうわけですね。(^^;)
 残念ですが、神保修理さんも「身の置き所」を間違ったパターンなんでしょう。好きで間違えたわけではないというあたりが気の毒ですが。
(すまじきものは宮仕え、ですね)

 それでも、熱狂した阿呆に同化して自分を見失って死ぬよりは、自分自身でありつづけて殺されるほうがいい、と、そう思っちゃうところが、ひねくれものでございます。

 ちなみに、Wikipediaによると、龍馬さんの、修理さんを評した言葉は。

「長崎ニて会津の神保修理に面会。会津ニハおもいがけぬ人物ニてありたり」
(宮地佐一郎『龍馬の手紙』)



 ………「会津には思いがけぬ人物」って……。(^^;)
 いや、わかるけどさ;;
(新撰組のバックは会津だものね)

 といったところで、次回はいよいよ新撰組が登場ですね。

 ………また血なまぐさいことになるんですねえ……(げんなり)


 
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死の「価値」

 これはご一読をおすすめ、ですね。
 日本スポーツ界の「暴力」、あるいは、「日本におけるスポーツがなにを意味しているか」の考察。

日本社会=体育会体質/爲末大学
2013年2月15日2時41分 日刊スポーツ 紙面から

      ●

 自殺願望を持つ人間としてはこれは、考えてしまいます。

 小学校5年生の男の子が、母校の廃校(統廃合)をやめさせることを目的に自死した、というニュースがありました。

 小学校5年というと、まさしく、死とはなにか、人は死ぬとどうなるか、みたいなことに思いが至るようになるころですよね。
 私の自殺願望も本格化したのはそのころの年齢ですし。(^^;)
(潜在的には7才ごろにはすでにあったと断言できますが)

 私の友人は、やはりそれくらいの年齢のころに、人は死ぬとどうなるかということを考えてしまい、親に聞いたらなぜか、くだらないことを言うなと怒られたんだそうで、それで、かえって自分の中に溜め込んでいた時期もあったとのこと。
 なにも怒ることはないだろうとは思いますが、まあ、いい大人でも、死というものにきっちり向き合うことに慣れていない人は多いですから。(^^;)

 その昔、子供は自殺しないことになっていました。児童心理学のほうでは。
 しかし、その説をひっくり返して、10才やそこらの子供の自死が出てきたのが、ちょうど我々の世代ですねえ……。そのハシリの人々は現在、40代後半くらいにはなっているでしょうか。

 考えてみると「校内暴力」が問題になっていた世代と重なるなあ…。卒業式に警察が警備にくるくらい、暴力が問題になってましたっけ。
 そういう話を聞いていたので、私の場合、中学校に進学するのは「恐怖」感がありましたっけねえ。
 私の場合は幸い、そこまで荒れた学校じゃありませんでしたからよかったです。

 暴力と、生死をどう考えるかということは、つながっていることなのかしらん。といま思ったり。

 さてしかし。
 子供の自殺というものが、社会に衝撃を与えるものであることは、あれから30年以上が経った今も同じ。
 本来は、子供が自殺するのは「おかしい」からでしょうね。

 子供が自殺するような社会は、マトモなもんじゃない。とは、言えると思うのですが、じゃあ、どういう社会ならマトモなんだろうかと考えております。

 その自殺というものが社会にインパクトを与えるのは事実。それによって人々が大騒ぎし、某市長のように公権力をふりまわして他人を脅迫してまで、そのご遺族の意向に従った人がいるのをみれば、死によってひきかえにできるものは、生きて存在するよりも大きなものがあるのだと、思われても仕方ない————のでしょうか。

 そういうことは考えなかったからなー;; 私の場合は自分で自分の存在を消したいということで頭がいっぱいになっていて、それをバーターに使おうなんてことは、思ったことがないので想像がつかない。

 死者の——あるいはなにかの「犠牲」者の、思いを汲み取ろうとすることは、間違いではないし、人の心情としては当たり前のことでもあるのでしょうが。

 人々がそこまで動くのはなぜなのか。
 自死がなにかの「価値」をうみ、それによって自分が望むものを購(あがな)うことができるのだという解釈をされると、ちょっと(ぜんぜん)違う、としかいいようがないですねえ。

 亡くなった人の思いを汲もうとするのは、それは人々がその人を悼(いた)むからこそ。
 自死に「価値」があるからではない。
 死そのものには、価値はない。
 あるのは、それをどう思うか、どんな思いを寄せるか、という、人の心。
 
 たぶん、無神論、「人は死んだらなにもない」という物質至上主義者ですら、その心には、死者のためになにかを捧げたいという、やさしい気持ちがあって、「その人のためになにかしてあげたい」という気持ちがあるからこそ、人々は動くのだということ。

 つまり、誰かが死のうがどうしようが、「無視」することも可能だということ。
 自死そのものに「価値」があるなら、無視し難いことになるはずですが、そうではない。死、そのものには、なにかを購える「価値」があるわけではない。

 価値があるように見える、自死というものによって人々が、社会が、動くように見えるのは、そこには、死者を悼む人々の心、思いやりの気持ちがあるからこそなんで、死に「価値」があるのではない。と。

 そう思いながら読んだ記事でした。

 いずれにしても、子供さんを亡くしたご両親、ご遺族のことを思いますと、言葉もありません。

 最大の親不孝は、親よりも先にあの世へいってしまうこと——というのを、私もただいま、噛みしめているところでございます。

 お亡くなりになった方のご冥福を心からお祈りしております。

 死そのものに価値があるのではない——くりかえし内心でつぶやきながら、になってしまいますが……。

 
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イチロー選手のインタビュー記事(2)

 隕石落下には驚きました。すごい光景でした。

ロシア “隕石”落下
2月16日 5時2分 NHKニュース

 今のところ死者がないようなのは幸いですが、衝撃波で砕けたガラスなどで怪我をした方もいらっしゃるそうで……。

 それにしてもああいうものが東京に落ちたら、完全に日本はアウトだなーと思いました…。すごい光と衝撃でしたね。

        ●

レスリング 福田会長が国際会議へ
2月15日 7時29分 NHKニュース

 ちょっと言いにくいことだけれど、私はもとから「オリンピックはもうやめましょうよ」が本音という人間なので、なんともいいようがないんですが…。

 なにもオリンピックがなくてもその競技はできるんだし…。
 いまや国威発揚と政治上の思惑と、市場主義のお金で、人間の排泄物まみれで、どろんどろんのでろんでろん状態になっているオリンピックはもう、やめるほうが、スポーツそのものにとっては健全なことじゃなかろうか。
 ……と、本気で思っております。

 とはいえ——オリンピックの主役は本来、私のような傍観者ではなく、競技者たちですからねえ。
 子供のころ、モスクワ五輪を日本が棄権…ボイコットしたとき、記者会見で参加を訴えた、当時のアスリートたちの声、顔、その涙をみておりますので、競技者たちにはオリンピックがどれほどの舞台かは、いちおう、承知しています。

 それだけに、その人間の排泄物で汚しまくる連中には、ますます怒りを感じるわけですが、いかんせん、その、排泄物を垂れ流す人の数が多過ぎる。

 映画「千と千尋の神隠し」に、汚物まみれで大変なことになってしまった河の神さまが登場しますが、いまのオリンピックは、私にとってはあんなイメージです。

 しかし、この汚れを洗い流せる風呂もないし、詰まっていた「栓」をとりのぞけばいいというもんでもない。

 近代オリンピックはもうその役割が、本当は終わっているのだと思うのですが、——オリンピックがなくたって、各スポーツが消えてなくなるわけじゃありませんしね。
 どうしてもオリンピックを続けたいなら、続けたい人たちが、この汚染されきった川を、きれいにするしかないだろうと思いますが………。

 口で言うほど簡単じゃないですもんね;;

       ●

 といったところで、イチロー選手のインタビュー記事、つづき。

「米国、南米出身の選手の主張は強い。70(の力量)を100に見せて威圧する。僕が大事にしているイメージは全く反対で、100あるが70から80にしか見せない。それで実際には(相手を)ボコボコにする。そんなアプローチのほうが楽しいし、見る人も面白いのではないか」



 これを読んだときは思わず声をあげて大笑いしてしまいました。
 70. 80に見せておいて、向こうが舐めて掛かってきたら100の力でボコボコにする、ということの爽快さ。同感です(笑)

 いえ、私も——スポーツではありませんが、どうにもふだん馬鹿面を下げて歩いているせいで、ずいぶん舐められることが多くて。
 舐めてかかるのもほどほどのところなら、私としてもまあべつにいいか、ですむんですが、あまりにも調子に乗ってふざけた真似をされたときには、そりゃもう、のちのちのこともあるからちょっと反撃に出ます。

 たぶんジャンルがぜんぜん違うことですが、イチロー選手のおっしゃるパターンは、よくわかる気がしまして。(^^ゞ

 能ある鷹は爪を隠すと申しますが、ああいうのが——好きなのか、美徳と思われるのか。
 イチローさんのお言葉を拝見して、「あ、もしかして、これも日本の文化?」と思いました。
 これ見よがし、というのを、基本、嫌う文化ではありますよねえ。

 100しかないのを120に見せるというのは、日本人は嫌うだろうなあ。
 ふだんはそれでいいとしても、じつは100しかないことがバレたら、恥ずかしいうえに、きわめて不利な状況になるから、そういうことをするメリットが、たしかに私にはわからない。
「70、80の力を100に見せて威圧する? どんなメリットがあんのそれ?」
 としか思わないなあ……。

 ブラフとしても使えない「手」ですよね。
 それを是とする文化もあり、それを非とする文化もある。

 なるほどねえ、と思ったお話でした。

「今はまだ色紙に一言をと言われても書けない。大切にする姿勢や哲学はあるが胸を張って一言残せるほどの自分ではない。偉人の言葉を引用する年配の方がいるがあれはダサイと思う。拙い表現でも将来自分の言葉で伝えられたらなと思う。しかし結局、言葉とは『何を言うか』ではなく『誰が言うか』に尽きる。その『誰か』に値する生き方をしたい」



 自分の言葉で語るというのは、理想ですね。
 それができるのは、じっさい、もう棺桶に片足つっこむくらいの年齢になってからかもしれない、と私もときどき思っています。

 いや、片足つっこむくらいの時期で見つかれば素晴らしいほうで、完全に、棺桶にフタをして、釘を打たれて、そのあとに、ほかの人がいう言葉のなかに見つかるというほうが、多いというか、それが基本かなという気がする。

 ゆえに、とくに本邦では、亡くなった方のことは極力、悪く言わない、むしろ、「徳」の部分をクローズアップしようとするのかもしれない。

 もうものをいえなくなった人のかわりに、残された人間は、その人の「自分の言葉」になりうるものを集めて捧げる。それもまた、供養なんでしょう。

 ということで、偉人の言葉を借りることはそう非難されるべきこととも私は思いませんが(嫌われるのは、話が長いことでしょう;;)、ただ、何を話すかより、誰が話すかのほうが問題だ、というのは、そのとおりでしょうね。

 でも、ネットを見ていると、誰の言葉とはわからなくても、ぐっとくる言葉というのはあるわけなんで——さて。言葉そのものが、もう、その人となりである、とも、言える気がしますね。

 なんにしても、いいインタビュー記事だったと思います。

 
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イチロー選手のインタビュー記事

 昨日のエントリに書きましたとおり、本日は、イチロー選手のインタビュー記事について。
 全文ご紹介したいところですが、それをやったら厳密には法に触れることになるので、抜粋で。(^^;)
 日本経済新聞 2013年2月13日(朝刊)より。

「『何かのために』は聞こえは良い。でも時に思い上がっているようにも思える。人間関係にも言えることだが、誰かの『ために』やろうとすると厄介な問題になることがある。
 しかし、誰かを『思い』何かをすることには、見返りを求めることもなく、そこに愛情が存在しているから不幸な結果になることが少ないように思う」


 
「ために」、というのと「思う」というのと、どう違うか。
 あえて考えるなら、「自分を相手におしつける」かどうかの違いでしょうかねえ。

 誰かのためによかれと思ってやることと、あの人にとってこの私の行為が、よきものとなることを願いながらすることの違い。

 よかれと思って、というのは、「これはあの人にとっていいことだ」「いいことに違いない」という考えのこと。相手にとっては本当にいいことかどうか、——それは本人にしかわからないことなのに、「わかった気でいる」「勝手に決めつけている」のが、「〜のために」ということ。

 自分の行動の責任を相手任せにしている、とも言える。責任の所在が、自分じゃなくて相手になっている。
 ある行動は、自分のためじゃない、ほかの誰か、なにかのため、ということは、誰かの意向や都合に合わせている。つまりは自分の判断、責任ではない。

 思う、というのは、思っているのは自分ですから。それはあくまでも自分の発意によるもの。自分の責任において行うもの。その自覚がある。
 自分と相手の境界線が、ちゃんとわかっている態度、とでも申しましょうか。

 なるほどなあ、と思いました。
 
 相手のためにと思ってやったことなのに、望んだとおりの結果にならないと——たとえば相手が喜んでくれないと——なんで喜ばないのか、あなたのためにやったことなのに、と怒ったり、落胆したりする。

 けれども、それはあくまで自分の判断で、自分の考えで、自分の決めた行為として行ったことだ——ただ、あの人にとって、よいものであることを願いながらそうした、願ったのはあくまでも自分であって相手ではない、ということがわかっていると、思わしくない結果であっても、それは自分が決めて自分がした、自分の行為の結果だから、怒りもないし、落胆も激しいものにはならない。はず。

 愛情は、本来は、相手を受け入れることであって、相手に自分を押し付けることではない。そういうことだろうと解釈しました。

 蛇足ながら、不幸というものについて。
 以前、雑誌の投稿欄で見たことですが——、まだ幼い子供を交通事故で亡くした方がいらっしゃいまして、その方にお母様が(つまり、亡くなった子供の祖母である人が)
「不運はあっても、不幸になっちゃいけないよ」
 とおっしゃった、と。

 不幸とはなにか。どういうものが不幸なのか、——すとんと腹に落ちた言葉でした。

「努力をすれば報われると本人が思っているとしたら残念だ。それは自分以外の第三者が思うこと。もっと言うなら本人が努力だと認識しているような努力ではなく、第三者が見ていると努力に見えるが本人にとっては全くそうでない、という状態にならなくてはならないのではないか」



 こちらの言葉については、私にはなにも言うことはない、と感じます。
 じつに過不足のない言葉ですねえ。
 さすがにイチロー選手。「子供の言葉遊び」に堕することはないんだな、と思います。

 努力というものについての考察は、この言葉に尽きる。そう言ってもいいくらい。
 もう、あれこれ言うこともありませんね。

 面白いもんです。ひとかどの人物のいうことは、少しずつ表現こそ違っても、言っている内容は同じ。
 ということは、この世にも「実相」というものはある(諸般の事情により、私は滅多なことでは「真実」という言葉を使いません)、ということだろうなと思っております。

 それぞれの人が、それぞれのアプローチでたどりつくもの。言葉は違っても指し示すことは同じ、ということは、やはり、この世には、人の心には、大原則のようなものがあるのだろうと思います。

 言葉の違いはそれぞれの個性の違い。歩んできた道の違い。だからこそ、同じ地平を指し示しても、それぞれのお話が、それぞれに味わいのあるものになって、聞いて飽きることがないのでしょう。

 イチロー選手の場合はまた、言葉、というものに対する思いが、あるもののようで。

「米国に行ってから、日本語の深さや美しさを自分なりに感じるようになり、日本語をきれいに話したいと思い始めた。日本語でも自分の感覚や思いを伝えることは困難だと感じている。それが外国語となれば不可能に等しい。英語で苦労する以前に、僕は日本語で苦労している」



 まあ、コミュニケーションとして考えると、結局、話し手がどんなに的確ですばらしい表現をしていても、聞き手に言語能力が不足していたら、「通じない」わけですからねー……。

 ただ、私はこのイチロー選手のインタビューには感服致しました。

 言葉を大事にしようという気持ちって、それこそがまず大事なものなんだなと思いました。

 ネットを見ているとその日本語能力の壊滅ぶりに、私はもう、なんともいえない気持ちになるのです……。
 日本語の間違いが「わからない」というのが実態のくせに、間違いが「気にならない」と言い換えて恰好をつける。ああいう態度だけはホントどうにかしてほしい。

 間違いがわかならい、言語能力が貧弱である、ということと「言葉は変遷していく生き物」だということは、まっっっったく別次元の話。
 どのみち人間というのはどこか不得意分野があって、どこかダメなところがある。ダメなのはもうお互い様なんで、自分のダメである部分については、ダメなんだなと認めるくらいの謙虚さは持っていてほしい。
 ダメなことはお互い様だけれど、そこを認めず、へんに話題をずらしてスカしたことを言う、その根性。
 カンベンしてください。

 それにしても——言葉が大事であることに気づくためには、日本語が断絶した場所へ放り込まれるという経験が、いちいち必要ってことはないと思うんですよね。「ロスト・イン・トランスレーション」のなかへ放り込まれる経験は、手っ取り早いうえに刺激としては強烈でしょうが。

 異邦人になる、という経験がなくても、ことば、というものを大事にする——母語であろうと外国語であろうと、ことば、というもの、そのものを大事にする——感覚を持つのは、できることじゃないかと私は思うのですが、……それもなにか、思い上がった考えでしょうか。

 
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