夢の記憶

 昨夜の、ニコ生で放送の党首討論会、私が見に行けたのはもう午後9時も過ぎてからで、ほとんど終わりのころでした。(^^;)
 がしかし——あれ、やっぱり人数多すぎたんじゃないですか;; 野田さんは最初は自民党、安倍さんとタイマンでやりたいようなこと、言ってましたよねたしか。

 ……そのほうがよかったかもしれない。
 なんだか、しまりのない討論会だなあという印象を受けてしまいました。
 あれでは、討論ではなく、どんなによくても立会演説会じゃないでしょうか。(^^;)
 しかも、こういっちゃなんだが、討論会へ臨むにしては準備してこなかったんじゃないかなあ、と思われるところもありましたし。……こういう場にしゃしゃり出てきて、顔だけ映してもらえばいい、とでも思ってんじゃないのというくらい、中身がない感じがしました。どことはいわないが。

 あ。共産党と社民党は別です。あそこは、いつでもどこでもどんなときでも、まったく同じことを繰り返し言うだけなので(まさにナントカのひとつ覚え)、あれはもう、ある意味、準備万端でしょうから。
 聞いているこっちももう飽き飽きで、彼らが何をいっても、「あー。はいはい。いつものヤツね」でほとんど聞いちゃいないし。(^^;)

 とはいえ、むしろ立会演説会のほうが、日本人には「向いて」いるかもしれません。
 討論といっても名ばかりで、対論ではななく、実態としてはヤジの応酬になることのほうが多いですもんねえ。基本、ディベート(討論)が、下手というより「できていない」ですよね日本人は;;

 あれも一定の規則、マナー、あるいはポイント、コツといったものがあるので、そういう訓練は、政治家などに限らず、一般でも勉強できるといいですよね。
 ………私は英会話の教室にいっていたはずなのに、…まあビジネス英会話が目的だったせいもありまして、このディベートの勉強、英語で(泣)ちょこっとやらされました。
 母語でだってうまくできないことを英語でやれだなんて!(泣) ——ということで、私はじつに不出来な生徒でしたが、でも、あとから考えると、いい勉強をさせてもらいました。日本じゃなかなか、こういうことって体系的には教えてもらえないもんなー。

 勉強しておいて損はないスキルです。まずはそういうことを教えられる講師を育成して、小学校、中学校からでも、勉強できるといいですね。
 ……そうすれば、ちったあ国会のようすもマトモになるんじゃないかと思いますが…いまはまるっきり学級崩壊状態ですもん。あれよりはマトモに、………いや、あれはそういう問題ではないのか……。

       ●

 その衝動を覚えることがあったとしても、私は自分からは率先して、人を殺すことはしないだろう。
 ——という気がします。

 というのは、夢の中で人を殺したことがあるのですが、その恐ろしさが、おおげさでなく、骨身にしみているため。

 二十歳になったころだと思うのですが、じつに3夜連続の「つづきもの」で、殺人の夢を見ておりました。
 3日間通して、ストーリーがちゃんとつづいていて、じつに一貫性があるんですよ。
 いやもう、さすがに3夜目は寝るのが怖いくらいでした。
 なんだったんでしょうねあれ;;

 厳密には、殺人の場面そのものは夢にもみていません。
 ただ、「人を殺した」という強い自覚があり、夢の中で、どしゃぶりの雨が降る夜、麻袋かなにかに入れた遺体を、共犯者とともに埋めているのですが。
 それがもう——いまでもはっきり思い出せるほど、その感触はリアリティがありました。

 土砂降りの雨に濡れる感じ、雨が降っているから真の闇のなか、スコップ(?)で土を掘り返す感触、たっぷり水を吸った土の重さ、雨によって、掘っても流されていく土の始末の悪さ、早く穴を掘らなければならないのに、進まない作業、——焦りと恐怖。雨でどんどん自分の体も冷えていく。息があがる。苦しい、寒い——でも早く穴を掘らなければ!
 そうして、共犯者とともに持ち上げたときの、遺体の重さ。

 じつのところ、今思い出してもなかなか恐ろしいのです、私。

 それよりなにより、「人を殺した」という自覚のあの恐ろしさ。
 あれはなんなんでしょうね、あの恐怖って。
 単に禁忌を犯したことへの恐怖ではなくて——「取り返しのつかないことをした」ときの、あの足下の土が崩れていくような。
「取り返しのつかない、『大失敗』をした」自覚。
 
 人を殺すというのは「失敗」なんですね。あの感じだと。

 1夜目はそんなわけで、殺人と、その死体遺棄のリアルな夢。
 2夜目は、その秘密がバレないかと怯え続ける夢。
 3夜目は、——もう、ホントに寝るのがイヤでしたが寝ないわけにもいかなくて、眠ったらやっぱりその夢で、夢の中で「ああ、やっぱり」と思っているところが興味深かったなあ。
 3夜目は、なぜか、殺人がおきてからもう数十年から百年がたっているようでした。遺体があることはバレていない。

 私も、殺人を犯したときの私とは異なる人物になっている感じがしました。つまり、生まれ変わって別の人間になっている感じ。
 それでも殺人の記憶はあり、満月の夜、遺体を埋めた場所に、今度は一人でいく。月に照らされて、あそこに埋めた、という場所が分かる。スコップをもって、やおら私はその場所をまた掘り始めるわけですよ。
 隠していた遺体を出すつもりで。
「あの人を、外へ出してあげないと」
 そういう意識でした。

 そこで、まるでテレビが突然の停電で電源が落ちた、みたいにブチッと消えて、目が覚めまして。

 しばらくの間はまたあの夢を見るんじゃないかと怯えていましたが、以来20年、あの夢はもう、あれっきりです。

 夢とも思えない現実感が、まるで「本物の記憶」のようにいまだに残っている。

 じっさいには私自身は殺人を犯したことはないけれども、あの夢の記憶があるかぎり、絶対、人を殺したりはしないだろうと思います。
 それくらい、本当に恐ろしかったんですよね、「殺した」という自覚は。

 殺すくらいなら殺されるほうでいい。本気でそう心に誓った夢でございました。

 そのざっと10年後には、諸般の事情(こればっかりだな;;)から、私は自分の身内に対して、「いまなら私、この人を殺せる」と思う瞬間がありました。
 ほんものの殺意だったと思います。瞬間的ですけどね。手近なところに得物があったら、本当にどうにかしていたかもしれない。

 ただ、そう思ったときに、この夢の「感触」がよみがえってきて、リミッターの役割をしてくれたのは事実。
 夢が現実に影響するというのはアホらしいと思われるでしょうが、しかし、この点についてだけは、あの夢があってくれてよかったんだろうと、いまにして思います。

 しかし、ありゃほんとになんだったんだろう。
 マジで3夜連続のドラマみたいでしたよ;;
 あれほどくっきりしたうえ、ストーリーとしても矛盾がない夢というのも、ちょっと珍しいのでは。
 
関連記事

尼僧の語ったこと

 おまへはまた何を言ってるんだと言われそうですが。
 ——いやあ……、不倫てのはやっぱり、罪深いことなんだなあ、としみじみ思いました。

 そりゃ、人間社会の常識として、不倫というものがいいものであるわけはない(不倫というのは人の道ではない、というような意味でしょうから)。
 それはそうだと思ってはいましたが、仏典テーリーガータ「尼僧の告白」を読むとちょっとビビりますよ。

尼僧の告白―テーリーガーター (岩波文庫 青 327-2)尼僧の告白―テーリーガーター (岩波文庫 青 327-2)
(1982/04/16)
中村 元

商品詳細を見る


 イシダーシー尼の告白。
 まずはイシダーシー尼が出家にいたった事情としては——彼女はすぐれて賢い女性でしたが、自分自身にはなんの落ち度もないのに、なぜか、結婚するたびに夫に疎まれて離婚、ということを繰り返したんだそうです。
 世間によくある話とは逆、お舅さん、お姑さんには可愛がられるのに、肝心の夫に嫌われる。しかも、彼女自身にはなんの落ち度もないのにです。
 そうして再婚、再々婚をしても同じ。
 その苦しみから彼女は出家をしまして、お釈迦様の教えを護持する尼僧のもとで修行をする。

 たぶん瞑想によってなんでしょうが、自分の前世をさかのぼり、その苦しみの原因となった過去生にたどりつくのですね。
 自身にはなんの落ち度もないのに、なぜ、夫に疎まれるというつらいことを繰り返さなければならないのか。その「原因」を、前世のなかに見つけたのですね。

 そのときは——前世では彼女は男性として生まれており、若気の至りで、他人の妻を寝取ったということでした。

 壮絶なのがそのあと。

 死んでのちはさんざん地獄で苦しみ、「罪業が熟して」この世に生まれたものの、それは人間としてではなく、猿として生まれた。
 群れの大猿(ボス猿でしょう)に去勢されたが、これは「かつて他人の妻を犯した行為の報いだった」というのです。

 そのつぎには目と足に障害のある山羊にうまれ、去勢され、人間たちに労働に使われてのち、病気で死亡。
 つぎには牡牛として生まれたが、これまた去勢されて農耕のために働かされ。

 ようやく次の生は人間として生まれてきたものの、「男性でも女性でもない」身だったというんですが、これ、どういうことなんだろう……。両性具有だったということでしょうか。

 その次には貧しい家の娘として生まれ、たぶん親の借金のかたに売られたんでしょうかね、ほとんど金で買われるようにして結婚したが、その「夫」には他にも妻がいて、そちらの妻は婦徳ある人として評判だったとのこと。
 たぶん、妻とはいえ、イシダーシー尼(の前世)は愛人みたいな存在だったのかな。無理もないことですが、彼女は夫を憎むようになる。

 今生(こんじょう)、自分に落ち度もないのに夫に疎まれ(じっさい、イシダーシー尼のもと夫たちは、彼女が賢く、美しく、献身的な『良妻』であることを認めつつ、理由はわかんないけどなんかイヤだ、というのです。不条理です)捨てられる、というのは、これら過去生の「業(ごう」の報いだ、とイシダーシー尼は悟ります。
 で、いまはそれらを終滅して、解脱した、というお話。

 なんですが。
 私は個人的には、しかし不倫というのはそこまでヒドイ目にあい続けなければならないほどに罪深いのか、と、いまいち、納得しきれていませんでした。

 不倫は罪なことです。それはわかるけど、じつに、さんざん地獄で苦しんだあともなお、動物の胎に生まれ、しかも、必ず去勢されるというのを繰り返し、いじめぬかれて死ぬような動物となりつづけ——。

 これは、ちょっとヒドイのではないか——と、密かに思ってきたんですが。

 最近——夫に裏切られた妻の、妻に裏切られた夫の、そしてまた伴侶を裏切った本人たちの、お話を聞く機会がありまして。
 裏切られた側の苦しみよう、裏切った側の苦悩ぶりを聞いて、胸が塞がりました。
 私なんぞは話を聞いているだけなのに——これでは、まさしくその立場にある人々、当事者は、どれほどつらいことか。

 なるほどこれは、罪が深い。しみじみ、つくづく、思いました。

 罪の重さ、深さは、行為そのものよりも、それによってどれほど人を苦しめたか、というところがポイントになるんでしょうか。
 仮にその不倫というものが、周囲の誰にもバレなかったとしても。
 自分が何をしたかは、少なくとも自分にはわかっているのですから——「心の動き」が「業」となるのであれば、バレた、バレない、の問題じゃないんでしょうねえ。罪であることは自分自身が知っている。その罪深さに、じつは、自分で自分を傷つけ、痛めつけてきた、ということなんじゃないでしょうか。

 まして、不倫相手も苦しむし、その伴侶も心臓がとまりかねない苦しみを味わうんだものなあ、そりゃ、罪が深いですよね。

 と、——お恥ずかしながらいまごろになって、私もしみじみ納得し、あのお経に書いてあることは、大げさでもなんでもないんだ、と感じました。
 死後、地獄で苦しみ、七生(ななしょう)にわたって、動物にうまれ痛めつけられ、人間に生まれても困窮と色情に苦しみつづける。
 それほどの目に遭うのも当然というほどの罪深さなのだ、と。
 
 不倫というのを軽々しく考えている人には、このイシダーシー尼の告白は、ぜひ、一読しておくといいですよ、と、おすすめしたい。
 とはいえ不倫するような人の多くは、お経なんか興味ないでしょうけどね。(^^;)

 俗に、男女の仲になることを「わりない仲となる」という言い方をする場合があるくらいですから(どっちかというとネガティブな表現)(わりない、は、「理ない」)、本人にさえどうにもならない場合もあるんでしょう。ですんで、私は、不倫におちいった人々を闇雲に責めるつもりはありません。

 それでも、——やはり不倫とは、本当に人を傷つけるものなんだな——と。
 あらためてそう思って、ようやく、かのお経が語ったことが、腑に落ちました。
 それまでの私のひそかな本音は、「不倫はそりゃよくないことだけど、これほどの目に遭わなきゃいけないほどのことなのか」でしたからねえ。
 自身や伴侶の不貞に苦しむ人にはタコ殴りにされますよね;;

 そういえばこれ、「男の浮気はいいが女はダメ」みたいなことは通用しない説でもあるので念のため。
 イシダーシー尼は、問題の前世では男性であったわけで、その男性に、不倫の業がふりかかっているわけですから。
 男はよくて女はダメという「理論」は、ここでは無効となるのは、わかりますよね。

 業には性別も性差もないんでしょう。「自分がしたことの結果は、自分が刈り取る」というのが因果律であり、因果を動かす「動力」が業ですんで、そこには、人間の身勝手な「いいわけ」はいっさい通用しない。

 でも本当には、「公正」というのは、こういうもんだよな——と思います。

 いきなりどうしたよ、と言われそうですが、——「不倫の罪業はこれほどの目に遭わなければならないほど重いものなのか?」というのが長年のひそかな疑問だったのが、ようやく得心いったもので。
 個人的に「ああ、そうなのか」と——感動したというとおかしいのですが、強く心に感じ取ったことなので、書いてみました。

 
関連記事

ひさびさ、オススメ品ふたつ

 選挙公示前ながら、政界と呼ばれるギョーカイは、なにかと騒がしいわけですが、そのなかでまた、「新党」ご誕生だそうでおめでとうございます(←イヤミ)

 ということで、滋賀県知事、嘉田氏は、既成政党には投票できない有権者の選択肢、受け皿となるような新しい党を、という主旨のご発言をなさいましたが、それをテレビで見た、うちの母の一言。
「………それで小沢(一郎)か?」
 小沢さんといえば、古い政治の究極ですもんねえ。(^^;)

 本気で、既成政党との差別化を図りたいなら、すでにその「既成政党」でやってきたひとを受け入れるのはどうかと思いますが、あまつさえ、自民党の中でももっとも古い体質を継承した小沢氏ひきいる政党のご面々を合流させるとは。
 ……笑うところなのかしらこれは。(困惑) 

 昨今の政治家のギャグセンスには、私、ちょっとついていけません。

        ●

 諸般の事情により、今日はぐったりしているので、気楽なところで、ひさびさ、「これ、いいですよ〜」というオススメをふたつ。(^-^)

 ひとつが、洗濯洗剤、「さらさ」。



 無添加、というあたりはまあいいとして(実のところあんまりそういうの、信用していない;;)、なんとなく、試してみようかしらと思って使ってみたんですが。

 最近、とある洗剤のCMでも言ってますが「戻り臭」。あれがなくなりました。いやホントに;;

 いままで、部屋干し用の、ニオイを除去、とうたった化学系洗剤を使っていましたが、どーーーーおしても、タオルの「戻り臭」があるんですよね(涙)。
 部屋干ししようが、太陽さんさんの外へ干そうが同じこと。
 乾いているときはなにも感じないけど、髪を洗ってタオルで拭き取るなどすると、そこはかとなく、もわーんとしたニオイを感じる。

 部屋干し用洗剤を使ってもこれじゃあなあ。洗濯機もちゃんと月1で掃除しているのになー。と、もうお手上げでした。

 が。
 このさらさ、化学系洗剤でもとれなかったその戻り臭が明らかに消えたので、ちょっとびっくりしております。
 あ。もちろん柔軟剤もさらさのものを使っております。

 各ご家庭で、洗濯もそれぞれ、内容、事情、環境が異なるわけですから、このさらさを使うと戻り臭が消えるよ、とまではいえませんが。
 うちの場合は、なぜか、部屋干し用洗剤よりも効果がありましたよということで、ご報告。

 もし、どの洗剤を使ってもイマイチだなあ、という方がいらっしゃいましたら、ちょっとお試しになってみてくださいということで。
 ちなみに、洗濯1回でいきなりその戻り臭が消えるわけではありませんで——えーと、うちの場合だと1ヶ月くらいかけてかな。徐々に徐々に臭わなくなって、いまはほぼ、やや古めになったタオルも臭わないようになりました。

 もうひとつのお薦めは、——男子禁制ってことでもないのですが、殿方は「ふーん」で聞き流してやってくださいまし。(^^ゞ という話題。



 私はたまたま、まだテレビでのCMもそんなに流れていないときに、ぐーぜんドラッグストアで目について買ってみたんですけども。
 
 じっさい生理用ナプキンの宣伝文句としては「多い日も安心!」てのは聞き飽きた感がありますよね。しかも、宣伝で謳うほどじゃない、という不信感付きで。(^^;)

 いまやショーツにべったり全面糊付けみたいな装着方法が当たり前になりましたが、それでもなお、えらいことになる。

 もうしょーがないんだろうと思っておりました。が。

 これ、ウィスパーコスモは本当にかなりよろしかったので、思わずおすすめ。

 私は「短期集中型」とでも申しましょうか、日数は少ないのですが、量があるときには集中する感じで。
 多い日用のものでも間に合わない、というほどでもないけれども、やはり、横漏れはしやすくて、かなり気を使います。

 しかもこのコスモ、こんなんでいいの? と言いたくなるほど薄いので、最初はこわごわだったんですが——大丈夫でした。
 で、形状がちょっと特徴的ですね。下着の形状によく合うのと、スリットが入っているので立体的に体に添ってくれるかんじ。
 
 動作が何かと粗雑らしい私めは、どうしてもズレを感じてはっとすることがあるのですが、このコスモにはそういうことはほとんどなく(ごくたまにはある)、快適。

 で、1パックで10枚入りって少ないよねと思っていたのですが、——長時間大丈夫なので、結局、枚数少なくても間に合いました。かえって経済的、かな?

 たまに、快適さゆえにか、つい、交換するのにひどく時間があいてしまうことがあるのですが、こ、これはヤバイかも! と思ってトイレに駆け込むと——そこで目にするのは感動的なまでのみごとな吸収力。
 これには私も感動してしまいまして。(^^ゞ

 なるほど、これは「看板に偽りなし」といえるか——と思うようになりました。

 これもまた個人差があることではありますが、ちょっとお悩みがあったり不便を感じていらっしゃる方に、ご参考までに。(^-^)


 
関連記事

本日おやすみ

すみません、またお休みで;;
今日のところはなんと「疲れ目対策」。

うーん困ったもんだ。デジタル時代のいま、ディスプレイが見られないと何もできない……。
でも見てると目が疲れる…。
どーにかなりませんかねこれ;;

明日には復活できると思うので……、今日のところはこれにて失礼致します。m(_ _)m
関連記事

窮鼠猫を噛む

 昨日の大河ドラマ「平清盛」。

 やっぱり祇王、祇女、仏御前の話は清盛さんの「悪役」ぶりを際立たせるよなーと思いました。(^^;)

 へえ、と思ったのは清盛さんが激昂して思わずいったこと。

あらゆるものを手に入れて、復讐するのだ

 ——復讐。
 何に?
 あるいは、誰に?

 若いころの自分探し的な葛藤を、彼は超えて来たと思っていたのですが、じつはそうではなく——やはり、悔しいという思い、瞋(いか)りが、彼の心の奥底にあったのだなあ、と思いました。

 興味深いのは、たぶん清盛さん本人でさえ、じつは自分の行動の、いっっちばんの根っこにある動機が、そういう復讐心であることに気づいていなかったらしいこと。
 自分を突き動かすものが復讐心だったとは、本人も気づいていなかったんじゃないでしょうかね。

 新しい国づくり、と、もっともらしいことを言っていても(もちろんそれも100%ウソということではありませんが)、どうもそれが具体像としては見えにくい。
「上にではなく、横へ広がる国/世の中を実現する」
 というのは絵に描いたようなリベラルな言葉に聞こえますが、しかし、やっていることときたら、ご承知のように「平家にあらずんば人に非ず」なことばかり。

 清盛の目指す新しい国ってなによ、と、——これまでも、清盛さんの近くにいた人からさえ、そういう疑問を投げつけられてきたのは当然だったわけですね。

 清盛さん本人すら、それが本当の動機、あるいは目的ではないために——つまり、復讐するのだ、というのが本当の目的なんであって、新しい国づくりてのはただの方便に過ぎない。
 とするなら、そりゃ、本人さえ本気で思っていないんだから、周囲の人々が、だんだん「なんかおかしい」と思い、最後には離れていくのは仕方のないことでしょうね。

 でも、これは。
 清盛さんのこの行為、ありさまは、他人事ではないんでしょうね、人間、誰しもが。(^^;)

 けっこう、自分の本当の動機を知らず、もっともらしいことを言っては、自分や周囲をごまかして行動している、というのは、ありがちなことだと思います。

 このドラマにおける清盛さんの復讐は、母親をまったく理不尽に殺されたこと、自分自身もまた、理不尽に殺されようとしていたことへの復讐かもしれません。
 実の父親に、母を殺され、自分も殺されかけた、ということへの復讐心ですね。

 清盛さんは先ず、この世に生まれたときから——まだ母の胎内にいたときから、存在を全否定されたわけです。お前は存在してはならない、といわれた。
 復讐は、そのことが、いちばんの根源にあるのでしょうか。
 しかし殺された母を取り戻すことは叶わず、清盛を全否定した「世界」そのものだった男ももういない。

 母を殺し、自分を全否定した実父は、すでにこの世にいないので復讐のしようもない。ゆえに、その復讐というものは封印して、もーちょい前向きに——誰かを殺すことではなく、自分がみごとに生きることで、煮えたぎるような思いを実現しようとしてきたんでしょうね。

 しかし——かりに白河院が生きていて、白河院を屈服させ、彼を殺すことができたとしても、清盛さんの復讐心は、収まるものではなかっただろうと予想します。
 じつのところ、破壊したり殺したりすることで、本当に「満足」することは、絶対ないようにできているんですよね、人間の心理は。

 満足というのは文字通り「満ち足りる」ことですが、満ち足りるというからには、そこには「得る」感覚が必要なのに、破壊も殺人も、なにかをなくす、壊す、という「得る」とは逆のことなんですから、——そりゃ、なくすことで得られるものなどありません。

 暴力がエスカレートしていくのはこのへんなんでしょう。
 殺しても壊しても、満足できた気がするのは一瞬のことだけで、それどころか、殺す、壊すことは「なくす」ことですから、本人、自覚があろうとなかろうと、とにかく、また、そこで何かを失っている。欠乏感が増すのは当然。
 欠乏感が増す。満足しようとしてさらに壊す。また壊す。さらに激しい力で。

 この欠乏を増すごとにエスカレートする暴力は、最後には、自分自身を滅ぼすことになるんですね。

 人を殴っても殺しても、満足するかに思えるのは一瞬だけで、次の瞬間にはもう、光のない闇のなかにいる自分に気づく。
 このときの絶望感は、誰かを殺す前よりも激しくなる。
 マイナスは、どんなに重ねてもマイナス。(乗算するとプラスですが、……このへんの理屈は置いといてください;;)
 深い穴の底にただ落ちていくばかり。

 そういうことなのかなと思った、ひとつのセリフでした。

 以下、余談。(というかぜんぶ余談だろコレ;;)
 窮鼠(きゅうそ)猫を噛むといったふうで、以仁(もちひと)王が平家に反旗を翻し、頼政さんたちが反攻し、頼朝さんもまた、立つ、というところで、見ていたうちの母がぼそっと。

「相手がおとなしくしているからって調子に乗って、おとなしい人をいじめちゃいけないよねえ」
 ——そうですねえ。
「いつまでも日本がおとなしくしていると思ったら大間違いだよねえ」
 ……………。
 なんの話ですか母上?!

 と思ったら、最近のシナ——中共と韓国の話でした。(^^;)

 母の脳内では、尖閣諸島とかのニュースが、残像として残っていたようです。

 まあ、清盛さんがそうであるように、最近の中共もいよいよトチ狂ってきたように思えますからねえ(韓国は、まあ、いつものことなんで)。

 こちらは、壇ノ浦まではいきたくないもんでございますね。

 
関連記事

本日お出かけ

本日お出かけのため、おやすみいたします。m(_ _)m

Kindleの辞書の件は調査待ちになりました。
へんな現象を引き起こしてすみません。と思わずAmazonさんのサポートからのメールを見て謝ってしまふ……。

とはいえ、なるほどKindle、いいですね。カバンに入れて負担なし。明るい屋外でもきれいに見える。

この軽さ、京極夏彦さんの本を読むにはうってつけですね。(^ν^)

関連記事

依然、復旧中

 kindle ですが、じつはまだトラブルが;;
 内蔵されている辞書がきれーに消えてしまいました。

 本体で使用する言語を選択すると、自動的に辞書がダウンロードされるのですが、……たしかにあったはずなのですが(私もいちおう確認している)気がつくと消えていました。
 本体から消えているのではなくクラウドからそっくりそのまま消えているのですからナゾです。
 ということで、またサポートに問い合せメール中。

 ………なんだろうこの怪現象;;

        ●

 ちょっと御無沙汰しておりましたが、また、こちらのページを拝見して参りました。

鉄道復旧状況(鉄道コム)
http://www.tetsudo.com/special/disaster2011/

 2012年10月1日現在の、鉄道の復旧状況です。

 だいぶ復旧はしているものの、やはり、海岸沿いは目処が立たない感じですよね……。
 内陸部へラインを移動させるのか、それとも、従来どおりの位置で路線を復旧させるかがはっきりしないところもあると聞いております。

 …………遅いんだよとにかく役所は! といいたくなりますが。
 こういうときこそ政治主導でばしばし役人の尻を叩いてものごとを進めていくべきなのに、民主党の連中が言うところの政治主導というのは、役人外しであり、しかしじっさいに役人をはずすとどうにもならないので事態は少しも進まないということになる。

 復興庁は名前はあって姿(実態)なきがごとしだし、復興予算はへんなほうへ横流しされているそうだし。
 とにかく、民主党政権であることで、日本はどれほどの損害を——有形無形に——受けることになったかと考えるとクラクラしてきます。

 阪神淡路大震災のときもそうだったんですが、なんで、よりにもよって無能政府のときに限ってこんな天災が起こるのでしょうか。
 じつは、民主党政権が誕生したとき、「これはいよいよ東海地震が来る」と私は身構えていたのですが……。
 間の悪いことというのはあるものです。しかし、間が悪いじゃすまされないんだから、その能力がない人々にはさっさと引っ込んでもらうしかないですね。

        ●

 その民主党。
 離党者は100人を越えたとの報道もありますが、……まったくねえ。
 第3極でも4極でも、そういうわけで、あまりにも無責任な逃亡議員だらけで、さすがの私も、もうどこへ票を入れていいかわからなくなりました。ええい。おとなしく(?)みんなまとめて日本維新の会へ移動していればいいのに、ゴキブリの子どもみたいに散らばらないでほしいわ。

 政策の問題ではない、というより、「それ以前」の問題ですね、このへんは。
 自分たちのしでかしたことの尻拭いもしないで、他の党へ移り、知らぬ顔を決め込んでまたずうずうしく議員として国に寄生しようとしているのかと思うとどうもねえ。

 民主党からの離党者をやすやすと受け入れてしまう側にも問題がある、と思います。

 今の世の中、ものごとの筋を通すということが、本当に無くなってるんだなと思います。
 離党も移籍もけっこうですが、踏むべき手順というものがありますよね。

 民主党からみどりの風に移籍した、とある議員の地元では、後援会がもうあちこちに支援を依頼していたところだったのにこんなことになり、おまけに、議員本人からはなんの相談も報告もなかったから「面目まるつぶれ」になって、だいぶお怒りとのことでした。

 そりゃそうですよねえ。

 議員、といっても、その周囲にはじつに多くの人の支援、応援があるわけですから。
 離党、移籍にあたっては、公にするまえに、地元に戻って、後援会に相談なり報告なりをするのが筋というものでしょう。

 すべて自分ひとりでできたことだという心の驕りがあるから、こういうことになるんだろうな。周囲の人に感謝していますなんていうのは口先ばかり。腹の底からそう思っているわけではないということが、こういうとき「はからずも」現れてしまうんでしょう。

 ところで、民主党は世襲を徹底排除するようですが、これ、逆に、「職業選択の自由」の侵害じゃありませんか。
 ある家に生まれたばっかりに、政治家を志すことができない、というのであれば、かつての身分制度、階級社会と同じじゃありませんか。「機会の平等」を踏みにじっているのではありませんか。

 あいかわらず、左巻きの「純粋思考」というのは、考えが浅い。

 自分たちの好き嫌いや、都合でばかりものを見るから、「本質的なこと」を簡単に見落とすんですよね。
 本質的、といわれても、しかし彼らには理解はできますまい。
 理解できないからこういうことをしてるんだものね。

 ……と、つい、こういうふうに考えるから、私も「話し合いは無駄」というところへ、すとーんと落ちてしまうんですよねー。これはこれで、いけませんですね;;(自覚はあるんだけどなあ;;)

 私は世襲にもおおきなメリットがある、と思っています。
 それは「身元は確かだ」ということです。

 どこの馬の骨だがわからない——日本人みたいな顔をしちゃあいるが、本当に日本人なんだかどうなんだか、わかりゃしない、という疑惑の気持ちが、むくむくふくれあがってくる、ということを、この3年のあいだ、なんど味わったかわかりません。

 世襲というのはそういう意味では、「身元は確か」なんですよね。そういう「保証」がある、ということも、信用社会日本においては大事なことだと思っております。

 うちなんぞもそういう意味では、なんせ、もう先祖代々同じ土地にいるので、じつに身元確かですよ。もろに庶民だけど。(^^;) 菩提寺——お寺さんも残っているから過去帳もばっちりです。
 母方のお寺で、百回忌のうちの先祖の名前をみたときは、ちょっと感動しました……。

 くどいようですが世襲が悪いんじゃなくてそこにある「弊害」が問題なの。

 ああいうことを言っているようでは、民主党はやはりいけませんでしょう。

 ……ああ、どうしよう、悪口がとまらない;;(^^;)
 
関連記事

kindle paperwhite (Wi-Fi)

 昨日の、豊川での立てこもり事件、無事、解決ということでようございました。

逮捕の男「野田首相退陣を目的にしていた」
日テレNEWS24 2012年11月23日07時19分

 衆院解散したとはいえ、あの連中じゃあ、イタチの最後っ屁とばかりに、なにをしでかすかわからない、という気持ちは私にもあるので、退陣を求めたい気持ちはわからなくもないのですが、——でも、立てこもり犯に同意するわけにはいきませんね。

 というか——なんで豊川なんでしょうね。こういっちゃなんだが、そんなところでそんな事件を起こしても意味がないというか……せめて上京したうえで、と思うけど……。
 
 なんにしても、そんなことをしても世の中が動くはずもないし、また、立てこもり、ハイジャック、バスジャックなどの事件の基本は「犯人のいうことには従わない」ことなんで。
 脅迫に屈するというのは基本、やっちゃならないことなんですから——犯人には、まあご苦労さんなことで、という他はない。

 被害者の皆様は、無事ということでなによりでした。警察のほうにも負傷者もなくてよかった。……以前の立てこもり事件のときに殉職者が出ているので、やはりこういう事件はイヤなものです。
 無事、解決ということでよかったです。

       ●

 ということで、kindle paperwhite (Wi-Fi)が届いていたのですが。
 Wi-Fi接続しようとしたらできなかったというのは昨日書きましたとおり。

kindle.jpg

 メールで問い合せしたところ、12時間以内には返事をするようにしていますとのことでしたが、4時間後には返信がありました。
 まずはパスワードが間違ってないかの確認を、とのこと。
 ほかに、使用している状況についてこまごま、わかる範囲でいいから知らせてね、と、項目箇条書きで。

 使用のルーターやらなんやらについての項目を書き入れて返信しました。

 で、またサポートからメールが来るのを待つあいだ、ネットで検索してみたら。

 やっぱり、ほかの機器はWi-Fiにつながっているのに、このkindle paperwhite はつながらないよーという人はいらっしゃいますようで。
 同じ症状で解決したという方のブログエントリがありました。

 私もそうだったんですが、ネットワークの検出まではちゃんとできているんですよね。ところが、パスワードを入力して接続しようとすると、エラーになってしまう。

 接続設定の詳細を見てみると、ちゃんと、セキュリティのところまでは認識されている、という症状も同じ。
 その方の場合は、それらの条件から推理してDHCP周りがアヤシい、と思い、スタティックで——ようするに手動で項目を入力ということなんですが、それでやったらつながったとのこと。

 私が最初とまどったのは、IPアドレスとかを「適当に振ったら」つながった、という記述でした。適当に? と思って真似してみましたが、私の場合はダメでした。(^^;)
 適当にってどういうことだろうと思いながら、どうもそれではダメっぽいぞと思い、Macのほうからルーターの設定を見てみました。

 Mac(OS 10.5.8 です;;)の「システム環境」→「ネットワーク」→使用中のネットワークが表示されるので「詳細」→DNSその他各項目を見る。

 それを見ながら、、IPアドレス、サブネットマスク、…というような項目を、kindle paperwhite に入力。
 パスワードを入力して接続したら、なるほどあっさりつながりました。

 サポートには「すみません、つながりました。お騒がせしました」とメールしておいたのですが、行き違いになったか、今朝メールがきてしまいました;; すみませんお忙しいのに;;

 で、サポートからの返信でも、やはり、ようはスタティックで手動入力を試みるようにと書いてありました。
 あとは、「ルーターのファームウェアを最新バージョンにしてみて」という指示もあり、あ、そうかそれもあったかなと思いました。

 ……いちおう最新だと思うんだけどなあ。
 と思って、Macからルータの設定ツールを開いてみてみたら、やっぱりファームウェアは最新で、「新しいソフトウェアバージョンはありません」になってました。

 なんだか無闇にどたばたしましたが、紆余曲折の末、まあ、なんとか接続できたのでよかったです。

 で、私はAmazonさんのサイトから購入したので、こまごましたことはすべて登録済みになってました。(クレジットカードや、ワンクリックで購入の設定とか)
 このへんはありがたい。

 さっそく「人生がときめく片づけの魔法2」を購入。

 こちらは紙の本。↓
人生がときめく片づけの魔法2人生がときめく片づけの魔法2
(2012/10/09)
近藤麻理恵

商品詳細を見る


 こちらが kindle 版。↓
人生がときめく片づけの魔法2: 2人生がときめく片づけの魔法2: 2
(2012/10/20)
近藤 麻理恵

商品詳細を見る


 kindle paperwhite の画面の大きさは、正味、文庫本サイズというところですね。でも、文字の大きさを変更できるのはありがたいなー。
 まだ操作も十分には覚えていないので、なじんでいくのもこれからですが、なるほど出先へ本を持っていきたいがカバンのスペースの都合と本の重さで躊躇ってしまうというときには、ありがたいですねこれは。

 私がWi-Fiバージョンをかって、3Gが使えるものを買わなかったのは、まずは電子書籍とはいかなるものかを知りたい「お試し」なので、あんまり金額をかける気はなかったということと、——出先で本を買いたいというようなことはあんまりないだろうということから。

 自宅で、Wi-Fiにつながっているところで本を買い、出かけた先で読む分には、べつに接続している必要はないわけですから(ネットを閲覧してるんじゃないから)、ま、Wi-Fiでじゅーぶんだろうということで。

 画面ですが、なるほどへんにギラギラしてなくていい感じです。フォントもきれいに見えます。
 目に対する負担はどんな感じはまだわかりませんが……。
 PCメガネ……要るんでしょうかね? どうなんだろう;; いまのところ裸眼で読んでいますが。

 雑誌とか、もう半年後には陳腐化する経済関係の本とかは、このkindle で充分でしょう。

 また気がついたことがあったらおいおい、書いてみたいと思います。

 
関連記事

本日雑談

 私信ですが、メールくださいましたM様。ありがとうございました! なんかもう、うるっときてしまいました;; ありがとうございます!
 メールしますのでよろしくお願い致します。m(_ _)m
    
       ●

 日が傾いてきましたねー。窓から太陽の光が直接入ってきてまぶしいです。カーテンやブラインドを使うことになりますが、そうすると部屋の中が暗くなってしまう。ですんで本当はね〜。明るい窓を開けておきたいんですけどね〜。
 この季節から2月頃まではホント、明るい太陽に飢えてしまいます。(^^;)

 冬至まであと一ヶ月。てことは、クリスマスまで、おおむね一ヶ月。
 いやはや、1年が早いこと。(^^;)
 まずはケーキの予約にいってくるのだ! いまなら10%割引になるので、(^^ゞ
 とはいえ、いまだに、クリスマスケーキのリーフレットをまえにして悩んでおるのです……どうしよう……どれももれなく美味しそうなんですけど……。うーむ。

       ●

 ときどき、頭の中に単語がぽつんと浮かんで消えないことがある、というお話を以前にもいたしましたが、昨夜からまたそれがきております。
「アンガージュマン」
 これが脳味噌から離れない。掃除をしていても、風呂に入るときでも、ちらっちらっと脳裏を掠めていく。

 前回みたいに意味がわかっている言葉なら「なんだろう、何かあるのか」と思うくらいでいいんですが、この「アンガージュマン」、意味を思い出せなくて、辞書を引こうと思いながら昨日はその時間もなく寝てしまいまして。

 で、今朝起きたら早々にその単語が頭の中で鳴り響いたので、「あー、わかったわかった。調べるから!」というので辞書を引きました。

 アンガージュマン。フランス語。「参加。特に、知識人や芸術家が現実の問題に取り組み、社会運動などに参加すること。」

 んだよ、英語のengagementじゃねえかよ……(つづりもそのままで、エンゲージメントをフランス語読みしただけ)となんだか脱力しました。

 なんでしょうかね。これ。
 前回は「巧言令色鮮し仁」でしたが。

 ときどきわけのわからない配線ショートを起こす私の脳味噌です。(^^;)

      ●

 本日なんでこんなにだらだらしているかというと。

 キンドルがきたんですけどね。

 どーゆーわけだか、Wi-Fi、つながらないんですよね。

 規格には問題がない、パソコンもスマホもつながっている、ネットワーク検出もしている………でもつながらない。

 あれこれやってみたけどまったくお手上げ。
 ということで、ただいま、サポートに問い合せのメールを送って返事をお待ちしている段階です。やれやれ。

 本来ならささっと片付くはずのWi-Fi設定でつまづくとは思いませんでした。ルーターが、auさんのHOTSPOTなんですけどだからダメってわけがないし。Macも窓もつながってるんだし。

 やれやれ。

 まあそんなに急いでいるわけでもないので、のんびり解決に努力したいと思います。
  
関連記事

コメント欄不要論

 いきなり私信ですが、F様、メールありがとうございましたv
 メールしますので、ちょっとお待ちください。m(_ _)m
 それにしてもホントに、静岡って、なんでこうアニメ不毛の地なんですかね〜(涙)

      ●

 BLOGOS というのを、そう熱心にではありませんが、ちょこちょこのぞいております。
 いろんな方のブログを——これ、たぶん転載になるんですかね? いまいちシステムがわからないのですが、いろんなブログを集めてあるサイトですね。

 このBLOGOS上でもそのブログ(エントリー)は読めますが、オリジナルのブログはまた別なんですね。……えーと、BLOGOSのトップページから、記事見出しをクリックするとそのエントリーが読めますが、それはBLOGOSに転載されているエントリーで、じっさい、記事の下には「この記事を筆者のブログで読む」というリンクがあります。
 このリンクをクリックすると、オリジナルブログに行けるということで。

 便利なんだか、だまされているんだか、なんともみょーな気分になるシステムなんですがともあれ。

 こちらのBLOGOSのエントリーにも、よしゃあいいのにコメント欄がついています。
 で、この転載されているエントリと、オリジナルのほうを見比べて見るとちょっと面白いんですよ。BLOGOSのエントリーについているコメントと、ご本人オリジナルのブログエントリーについているコメントでは、コメントの傾向がまったく異なるということがあるのです。これはけっこう興味深い。

 つまり、BLOGOSのトップページから見出しをクリックしてくる人というのは、行きずりとでもいうべき人なんだけれども、筆者オリジナルのブログ読者というのはやはり、常連さんが多いわけですね。
 そういう立場の違いをコメントからうかがえるのも興味深いですし。

 あとは、BLOGOSのほうではひどいコメントがついているのでびっくりして、オリジナルのほうへいくと、こちらは落ち着いて大人の雰囲気、ということもあるのも興味深い。

 ………結局、いきずりの人ってのは無責任なんだろうな、というのが私の見るところでございます。無意味な罵言もさることながら、「誤読」率の高さときたら。
 なかには、エントリに書いてあることを完全に「読み落としている」人もいて、「ちゃんと読んだ? 読んでいるわけないよね」と呆れます。

 このBLOGOSのエントリーではコメントをとめることもできますようで。
 ほとんどの筆者は、BLOGOSのほうでも「意見」というコメント欄を設けていますが、たまに、このコメント欄をとめている方がいらっしゃいます。
 私は基本、コメント欄は可能な限りみないようにしているので、特段、気にしてはいません。BLOGOSのほうではコメント欄なしでも、自分のオリジナルサイトでは受け付けているケースもあるので。

 ところが先日——どなたのエントリーでだったか、「コメントを受け付けないブログは読む価値なし」というコメントがありまして。
 面白いのは、某氏のBLOGOSページにはコメント欄がないのが不満らしいのを、ほぼ無関係の、別の人のエントリーにつけたコメントでそういうことを書いているんですよね。
 この人、よほど自分の意見を主張したいのかと思いました。(^^;)

 しかし。
 ………これ、私はブログというものが誕生したころからすでに思っていたんですが、コメント欄て、必要なものでしょうか?
 そのかたのご意見だと、コメントを受けつけないブログは読む価値がないし、コメントを受け付けないブログ筆者は「信用できない」んだそうです。

 へーえ。
 そりゃ寡聞にして初耳(のご意見)ですな。

 コメント欄は、そもそもなんのためについているのか。私はその存在意義を認められずにいるので、コメントがなにゆえそれほど大事だと——ブログエントリーの内容よりも、コメント欄の有る無しのほうが大事だ(そういうことでしょ?)というのはなぜなのか、ちょっと聞いてみたい気もします。

 よほど、自分の意見を申し述べたいというお気持ちがあるのでしょうが、であるならば、それこそ、コメント欄なんて半端なことをしてないで、自分でツイッターとかブログとか、やっていればいいんじゃないでしょうかね?

 コメント欄や、あるいは、ツイッターを見ていても思うことなんですが、
「そんなに自分の意見が、世の中において大事にされる(べき)ものだと思っているのだろうか」
 というのが、私の疑問です。

 ブログなりツイッターなりは、なにかを発信するツールなんで、個人的に意見のやり取りをするためのものでは(本来は)ない、と思います。
 意見交換なら掲示板でいいんじゃないですか。レスの応酬が目的になるんでしょう、あれ。

 本屋に行くといろんな本が並んでいます。じつにいろんな人が、いろんなことを述べています。
 読者である我々はそれを読んでは、なるほどと思ったり、ええ〜? とひんしゅくしたり(顰蹙ひんしゅくはサ変名詞。顰=顔をしかめる、蹙=眉をひそめる)、なにか自分でも、もやもやしながら考えこんでみたりする。

 それを。
 なんで。
 インターネット上では、いちいちいちいちいちいち、自分のそのなるほどや、ええ〜? や、もやもや——つまりは自分の内側の変化を。
 公開しなければならないのでしょうか。
 しかも赤の他人に。
 あまつさえエラそうに。

 私はここんとこが、どーも理解できないんですよね。

 先だっては、やはりツイッターで発信されたことにたいし、読者のかたが筆者ご本人にむかって「俺の質問に答えろ。なんで答えないんだ」と絡んでいるツイートを見かけて、「はあ?」でございました。

 ………筆者には、(いち読者である)アンタの質問に答えねばならぬ「義理」はなんにもないんだが。
 自分を何様だと思ってるんだろうかこの人は??

 自分の意見、コメント、愚痴が、それほど世の中で珍重され、誰からも尊重され、注目され、ちやほやされるべきものなのだと、信じ込んでいるらしいこの態度はなんなんだろう。

 たしかにネットの特徴は即時性と、文字通りのネットワークづくりの実現、ではあるんですけどね。
 ある発信者に対して、自分は「いち読者にすぎない」ということを失念しているのではないかという、「レスポンスに答えるのは当然」みたいな、この「思い込み」が、私にはどーしても理解できない。

 そんなにご自分のご立派な意見を世間に広めたいなら、自分でブログなりで述べてりゃいいんじゃないでしょうか。
 
 発信者は、必ずしも他人からのレスポンスは期待していないし、まして、不特定多数の中のたったひとりを、特別扱いしなければならない理由などない。

 だいたいコメント欄なんて、それこそ読む価値あるんですか? といったら怒られるのかなー。(^^;)

 コメントといえば聞こえはいいが、その実態ときたら、——ごくまれにはなるほどと思うものもありますが、ほとんどは単なる悪口と愚痴じゃないですか。
 見ず知らずの他人の愚痴に、時間を割いて付き合う「必要」は、私には認められない。よほどヒマなとき、あるいは、たとえば映画の評判はどうだろうかと気になっているとき以外は、コメント欄は、見ることもないし、見ないからと言ってなんの不都合もありません。

 ネットというのは、たびたび、不思議な「空間」だと思わされるのですが、コメント欄でいばっている人も、その不思議のうちのひとつですね。

 ネットワークは、他人の愚痴を聞くためにあるもんじゃないと思うんですけどねえ。それに、なにゆえに、本来なら、「1 対 不特定多数」という関係であり、自分はその「不特定多数の中の1」にすぎないのに、そのことをぽーんと忘れて、自分は「1:1」の存在だと勘違いするようになるのかなあ。

 有名人のファンのなかには、ファンじゃなくてストーカー化する人がいますけれど、ああいうのと思考傾向は同じに思える。

 ネットには、自分は特別な存在だと思い込ませる、そういう要素があるのでしょうか?
 ネットというのはいまのところ、どんな△△であろうとも発言の機会を与えてしまうという「問題」がありますが、発言の機会があるということで、なにか——自意識の過剰な膨張を、引き起こしやすい、そういう特性があるのでしょうか。

「個対個」のことばかり目がいって、自分は本当は「その他大勢のうちの1」、抜きん出た個ではない、ということを、失念させる——結果、自分は特別な存在だという意識の膨張を招く。
 そういうところに人を陥れてしまう性質があるのでしょうか。

 ということで、こういう勘違いしやすい人を防止する意味で、コメント欄は、基本的にはなくしたほうがいいと思っております。個人的には。

 
 
関連記事

インターフェース

 エヴァンゲリオン新劇場版:Qの、あらすじを紹介しているサイトがあったので、ネタバレを気にしないタチでもあるし、拝見してきたのですが。
 
 …………なにがなんだかさっぱりわからん;;

 これまで、序、破、ときていたので今回「急」で終わるのかと思ったら、完結していないわけですね;; 「つづく!」ですか……、うへえ;;
「急」じゃなくて「Q」になったのは、そのへんと関係がある…とか? いえわかりませんけれど;;
 つづくのはいいんだけど、終わる気あるんでしょうか……。

       ●




 例によって例のごとく、為末さんのツイートから。

 このあとのツイートに、「口角を上げて読書をすると、楽しさが増す」という実験結果があるというお話も紹介されています。じっさい、顔の表情というのは、精神状態にも逆に影響するというのは、よく聞きますね。

 今年のロンドンオリンピック、女子柔道で話題になった、松本薫選手の、試合直前くらいからの表情は気迫に満ちたものでしたが、あれも、ご本人は、「ああやって気持ちを高めている」というようなお話をしていらっしゃいました。
 そういうもんなんだろうな、と思います。

 感情が顔に出る、というのがふだんの現象ですが、それを逆手にとり、表情を作ることで精神状態を「作りこむ」ことができる。これもひとつのテクニックでしょうね。

 朝起きて、顔を整えたら、鏡に向かってにっこり笑う。できれば口を開けてあははははと笑う、というのにトライしていたことがあります。
 私の場合はちょっとひどいもんでした。鏡に向かってにっこり笑ってみるということが、それがどんなに形ばかりでいいのだといわれても、なかなかできないんですねこれが。

 自分で自分を嫌っていると、鏡に映った自分に、「形だけ」ですら、微笑むことができないわけです。他人には、心になくても笑ってみせられるのに。
 あのときはあらためて、自分がどれほど頑なに自分を嫌っているか、ほとんど憎んでいるかを実感したものでございます。

 それでもなんとか、ひきつるような顔であっても、微笑む表情を作ることはできましたが、そのあとがつらいつらい。無理に笑ったという反動の自己嫌悪がずどんとくるので。
 そんなことを繰り返しながら、いまでは、まあ、それほど、鏡を見て微笑むというのは、抵抗なくできるようになりました。

 形から入るということをときどき聞きますが、顔の表情、というのは最高の「形」かもしれませんね。
 面白いことには、自分で自分の表情は見えていなくても、意識して口角を上げるとか、気合いをいれた表情を作るとかしていると、それだけで脳が反応するんですね。
 表情を作るときには鏡を使うとしても、「よし」ということでそれで表情ができてしまえば、鏡を見ていなくても、脳は、顔の筋肉の状態から、反応するというのは。
 なかなか面白いことだと思います。

 仮面の役割もにたようなものなんでしょうね。お能の面(おもて。能では、めん、とは読まない)は、あれは完全に「よりしろ」であって、さまざまなものの霊を、生きている人間の身に「おろす」ための道具。

 お能でも、面をかけない、自分の顔のままで舞台上にいる人がいるじゃんといわれるかと思いますが、あれは「直面(ひためん)」と申しまして、たしかに仮面をつけているわけではないけれども、自分の顔を仮面にしているのですね。

 歌舞伎は仮面は使わないけれど、あの隈取りという化粧が、仮面の役割を果たしていると見ていいんでしょう。主に赤と青でその役割の性質を示すという約束事もありますし。
 ………そういう意味では宝塚の、あのすっっごい舞台化粧もそういう意味になるのかな……。

 私は宝塚の皆さんは、どなたが誰なんだか、ぜんぜん区別がつきません。(^^;) 化粧のせいで、みんな同じ顔に見えるのです;;
 それをきちんと判別できるんだから、ファンというのはえらいもんですね;;

 こうしてみるとなるほど「顔」というのは面白いなあ、と思います。

 自分の、内側から外へ向かっての「出力」装置にも思えるけれども、一方では、そうやって仮面をつけることで本来の自分を隠したり、あるいは、「べつの自分」とアクセスするための装置にもなる。
 顔は、外に対して働きかけるばかりではなく、自分の内側に向かって、働きかけてくるものでもある。
 双方向のインターフェース………なんですかね。(^^;)

 顔を作ることで、ある程度は自分の精神状態を、作り込める、制御できるというのは、ふだん思っている以上に効果の高いことのようなので。
 私も頑張って、鏡に向かったらにっこり笑うとか、はははと声をあげて笑ってみるとか、つづけていこうと思います。

 あとは——逆に、自分でまったく意識していない瞬間にいきなり、もののはずみで自分の顔をみてぎょっとすることもありますね。
 その昔——えーと、中学生くらいのころかな。街を歩いていて、視界を、なにかすごく「怖いもの」がかすめていったんですね。
 ものすごくまがまがしい、陰々滅々とした、亡霊のような妖怪のような。

 ぎょっとして振り返った瞬間にはその影は消えていて、ただ、お店のウィンドーに、私が映っていたのでした。

 あれは——怖い体験でした。(^^;)
 私はふだん、気を抜いているときは、あんなお化けのような顔をしているのかと思ったら二重でショックでしたけれども。

 そういうことは不思議と——少なくとも18才くらいのときには、なくなっていました。現在では、自分の表情にぎょっとすることはありません。………顔にシミをみつけて、ぎゃー! と叫ぶことはありますが。(^^;)

 昨日は、年をとるというのは生きるのが楽になっていくことだと申しましたが——じっさい、そういうところを感じますね。
 中学のころってのは、ほんとに、無闇矢鱈につらかったなー。(^^;) 若返りたいと思うことはあっても、あのへんの、いわゆる思春期てんですか、絶対戻りたくないわ;; なんだったんだろう、日々、拷問されているようなあの感じって;;

 
関連記事

欲望の純化

 もうこのまま年末までいっちゃいましょうかね。——ということで、大河ドラマ「平清盛」。
 すっかり月曜日にはこのドラマの感想(……にもなってない雑談;;)が定型化してきた…。(^^;)

 平家物語ではおなじみの白拍子、祇王(ぎおう)、祇女(ぎじょ)が出てきました。
 もうこのドラマでは登場しないんだろうと思い込んでいたので、「おお、ここで登場するのね」と、ちょっとびっくり。
 いやあ、この話をクローズアップすると、清盛さん、本気で女の敵って感じになりますからねー。ドラマの主人公として、視聴者から憎まれるようではいかん、ということを思うと、あのエピソードは削るんだろうなと思ってました。

 考えてみると平家物語は時系列が、じっさいとは前後しているところがありますよね。そういえば、この祇王、祇女、仏御前のあたりは、物語としては早々、巻一にあるのですが——清盛さんが何歳くらいのときのエピソードとして考えればいいのかはちょっとわからなかったり。
 
 この祇王、祇女、仏御前の物語の特徴は、時の大権力者に翻弄されながら、とくに仏御前はその権力者にカウンターパンチを食らわせているというあたりが「あはれ」であり、ある種、爽快でもあるんですね。

 白拍子という、「公界(くがい)」の——遊女であり、芸術家でもあり、つまりは俗世からは自由という、ある種の「特権」を認められた人ではありつつも、最終的には「卑賤」視される——そういう立場の、しかも女性が、ときの大権力者相手に、ひとりの人間としての矜持を示す、その潔さが、物語の中でも多くの人に愛好されてきた理由だろうと思います。

 とはいえそれも、出家という、俗世を捨てる——白拍子をつづけていれば得られる華やかな生活も、名声も捨ててしまうという、大きな代償とひきかえではあるのですが。

 ただ、下手な男どもよりははるかに潔く、決然としているのが、花の盛りの美女ばかりというところが、読む人の心をつかむのでしょうね。

 祇王、祇女、その母の「とぢ」(閉、と書いてあるけど本来的には刀自、でしょう)のふるまい、言動も、庶民とは思えない教養があって興味深いのですが、ことに仏御前というのは、いってみれば自分の「芸」に誇りをもち、プロフェッショナルな矜持を隠さず、その一方で、人としての道理をはずしまくる清盛にははっきりと「愛想をつかす」あたりがスゴイ。

 しかし、権力者に逆らったとあっては無事ではすまされないのは悲しいところで、それで出家とあいなるわけでございますが。

 ——この大河ドラマの清盛さんももう、だいぶ、老耄の域に入ってきたようですねえ。欲ボケの次は色ボケか。

 わたくし、以前、当時80歳代の男性に、「年寄りの欲は、強欲」というお話を聞いたことがあります。
 年をとって枯れていく、穏やかになるというのはウソで、年をとるほどに貪欲なものになっていくとのことでした。

 私も——初老といわれる40を過ぎて、なるほどと思うところもあります。肉体の衰えによってむしろ欲は増幅される。まして、老耄によって理性や知性による抑制が利かなくなると、その人の欲動が、ますます剥き出しにされてくる。

 そういうことはあるな、と思うようになって参りました。

 とはいえ、若いときのがっついた欲とはまた違う気がする。
 がっつくというよりも、欲望がより純化されて、人によっては「自分が本当に望んでいるもの」に、そこでようやく、初めて出会えるということもありそうです。

 年をとるということは「生きるのが楽になること」だと聞きました。
 それはたしかにあるなあ、と私も思うのです。肉体的なことはおいとくと、精神的にはまことに——むかしのことを思えば、だんだん、ホント、楽になってきている。

 そういうなかで、欲も純化されていく。

 世間体を気にしたり、無意識に親の影響を受けていたり、あるいは社会的な価値観に染まっていたりで、どうも若いときの欲というのは、「雑音」「雑念」が多い。簡単に言うと他人に振り回されている欲ですね。

 それがだんだん削げ落ちていく。そういう感覚、おぼろげながら、わかるようになってきた——と思うのですが。(^^ゞ

 そう考えると、欲が純化され、他人の思惑に振り回された結果ではない、本当に自分が望んでいることが見えてくるというのは、じつは、そう悪いことではないように思います。

 ただ。
 清盛さんのように、「なんでも自分の思いどおりにしたい」というようなものが混ざると……、欲望は、純化の「逆」になって、あれもこれも欲しいということになっていくのかもしれません。

 欲望が純化されて、他人の思惑に振り回されない、自分の本当の願いにたどりつくための条件は、——肉体の衰えや、時間制限をさとること。
 人生は有限だとはっきり覚ると、——見栄とか虚栄心、他人に気に入られたいという思い込みといった「余計なもの」にかまけている場合じゃないぞ、と実感するわけですよね。ま、たしかにそのときには多少の焦りの感覚もあるんでしょうけども。
 それでも、時間の有限であることを悟ることで、ようやく、雑音を排し、すなおに、まっすぐに、自分自身に向き合うようになるのかも。
 そうして、ゴミのようなものを振り捨てて、初めて、自分が心から望んだことに出会える。
 自分の本当の望みですから、もう、迷いもなくなりますね。ゆえに、その欲望は、非常に強いものでもあるのではないでしょうか。

 清盛さんはしかし、なまじ、そういうゴミのような虚栄心を実現しちゃったもんだから、虚栄心は虚栄心だと気づかないままになっている可能性もありそうです。

 あらゆるものを欲し、欲したままにあらゆるものを手に入れながら。
 
 ——彼自身は本当は、絶望的な、孤独の闇の中に、たったひとりでいる。そういうことなんですね。

 
 
関連記事

食べることの記憶

 本日は朝食もそこそこに肉体労働に勤しんできたため、ちょっと腕がぷるぷるしていてキーボードもうまく打てない。(^^;)

 ということで半分寝ぼけた日曜朝雑感。

 サムゲタンなるものは、Wikipediaによれば、シナの薬膳を源流とする、シナと北朝鮮の料理とのことなんですが。
 あれですかサムゲタンという言葉そのものが北京語ではないために、「サムゲタンは韓国のもの」という誤解が生じたのでしょうか。……まあ私から見ると朝鮮は南も北も同じことに思えるのですが; 起源はシナという理解でよござんすか?

 たしかにメニューとしては、材料などを聞いていると「なるほどスープなら食べやすいし栄養も取れそうなメニューだな」と思いますが……しかし…。

 たとえば熱が出るなどの体調不良のときは、やはりお粥のほうが体にはやさしいと思われますが、そのへんは個人差があるからまあいい。(私のような胃弱人間には、やはり、おかゆですねえ。油ものは言語道断)

原作では「おかゆ」を「サムゲタン」に改変 人気アニメ巡り「なぜだ」と大炎上騒ぎ
J-CASTニュース 2012/11/15 20:20

 ということで「さくら荘のペットな彼女」、原作はおかゆだったものが、アニメではサムゲタンになっていることがちょっと話題になったそうですが。

さくら荘のペットな彼女 (電撃文庫)さくら荘のペットな彼女 (電撃文庫)
(2010/01/10)
鴨志田 一

商品詳細を見る


 それにたいする、製作サイドのいいわけが、私にはちょっと悲しかった。

「何故原作から改変したかといえば、アニメとしてのわかり易い表現を求めた結果です。かつお出汁香るシンプルなお粥を美味そうに描くのは至難の業です」



 ああそうですか……。

 お若い方はご存じないかもしれませんがのう、そのかみ、「まんが日本昔ばなし」というアニメ番組がありましてのう、現在とは比較にならないほどシンプルなつくりのアニメでしたがのう、おかゆの表現はしょっちゅう出てきましたが、もれなくどれも美味しそうでしたがのう。

 ただのお粥ではない、小豆を入れた「あずきまんま」が、非常に重要な意味を持つ昔話(ああ戦慄の『キジも鳴かずば』)では、思い出してみると、詳細な描写はほとんどなかったように思うけれども、でも、あずきまんまが、主人公の少女が恋しがるほどのごちそうであること、彼女にとっては天上の美味であることを、ちゃんと視覚的に訴えてくるものだったですよ。

 ふだんのおかゆの表現だって美味しそうでしたもの。囲炉裏の自在鈎に掛けられた鉄鍋、そこでゆっくり煮えていくお粥。あのふんわりとした、温かそうな湯気、木のしゃもじで掬われるやわらかなお粥!
 たとえ、登場人物たちにはちょっと残念な、ヒエと粟ばかりというような場合でも、おいしそうだなあと思ってみていました。

 上記のいいわけは、いいわけとしても情けなさ過ぎる。——というのが、往年のアニメファンの嘆きでございます。

 いまはCGが当たり前になっているからかなあ。デフォルメや「演出」の妙というものが、もう、忘れられているのでしょうか?
 馬鹿正直に何でも細密にリアリスティックにすればいいんだと思ってない? アニメにしろ実写のドラマにしろ、見る側には想像力があるということを忘れてない?

 本気で言っているなら、アニメ演出としては勉強しなおして欲しいし、いいわけだとしたら、もっと上手に言い逃れしてほしい、と思った件でした。

      ●

 食べもの関係でちょっと思い出したこと。
 学生時代にお世話になった「ピンチのときのメニュー」。

 私の学生時代というのはいわゆるバブル期でしたが、私自身はあんまり、その華やかさとは縁がありませんでした。
 あの時代は、お金があれば楽しかったでしょうがそうではない場合は——、まあ、ご想像くださいまし、ユニクロもしまむらもなくて、洋服のアイテムは何を買うのであろうとも1万円をくだらないが当たり前みたいなショッピング事情を。
 
 バブル期てのはねえ、お金がある人にはいい時代だったでしょうが、そうではない人間にはひたすら、なにをするにも不自由だったのですよ。いまのほうが、買い物に限定していうなら、はるかに自由度が高く選択肢も豊富なのです。
 ……まわりが景気がいいときに、自分が谷間の底にいるのって、つらいよ〜;; (;_;)

 ということで、学生時代はそりゃあもう、つつましくやっておりました。子どものころから慎ましくしていたので、べつに疑問もなかったです。つつましいなかでも大学へいかせてもらってたんで、もう十分、ありがたいことでしたし。

 といったところで、お金がかけられないなかで工夫するのはやはり食生活ですよね。

 当時の、おサイフピンチのときのメニュー。
 
 その1。「大根スパゲッティ」。
 スパゲティを茹でる。大根おろしをスパゲティにかける。あれば貝割れ菜を散らす。
 しょうゆをぶっかける。
 ——以上。

 その2。「麻婆春雨」。
 これは説明するまでもないですね。(^^;)
 大根スパゲッティは、お米も尽きたときのメニューでしたが、麻婆春雨を食べるときはひとまずごはんはある状態でしたから、まだマシな感じ。
 利用していたのはじつは永谷園さんの麻婆春雨。

 結局、一人暮らしのメニューはあれこれ材料を買いそろえるとかえって不経済になることもあるわけで、そうしますとこのフライパンひとつでOKというメニューは助かったのです。
 余裕があるときはこれに卵を落として卵とじふうに。

 その3。「連日同じメニュー」。
 つまり、カレーなりシチューなりを通常どおり…3〜4人前で作り、それを毎日、なくなるまで食べ続けるのです。

 その4。学食。
 いまだに忘れられないのは、バブル物価の最中にあって、最安値だったふたつのもの。
 ひとつは、学食内のバーガー屋(名前を忘れた;;)の、220円のセット。
 ハンバーガー類、ポテト、飲み物。——これで220円。

 もうひとつは学食の、いっちばんシンプルなラーメン。同じく220円。
 しょうゆラーメンで、トッピングはワカメ、ノリ、鳴戸巻き、シナチク。
 値段の割には腹持ちがいいというので、ありがたいメニューではありました。健康のことを思うとあまり食べないほうがいいものではありますが。

 なんとなく、そんなことを思い出しました。

 大根スパゲッティはそれなりに美味しいかったように思うのですが、積極的に美味とは思っていない証拠としては——、学校を卒業してからは自分ではまったく作っていないし作る気にもならないあたりですね。(^^;)

 本当においしかったら今でも作っているはず。
 
 でも、お世話になった、ありがたいメニューだった、と、いまもときどき思い出してそっと手を合わせております。
 
関連記事
プロフィール

みずはら

ブログ内検索
最新記事
リンク
地球の名言

presented by 地球の名言

カテゴリー
RSSフィード
月別アーカイブ