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2012.08.31 (Fri)

これも蜘蛛の糸

 ちょこっと考えてみたこと。

その1。 自虐は内省とは違うこと。
 自分と対話するとか、自分の感情をじっくり分析するということは、内省とか、さらに深度が進むと「内観」といいますが、内省も内観も、自虐とは異なります。
 内省、内観に必要なのは、「自分を客体化すること」。
 感情によって私どもは自分で自分をだましているわけで、その弊害を除去しようとしたら、その感情がどこからきたのか、解剖するように丹念に、かつ冷静に、観察しなければならない。

 ということで、その観察には、情、というものが入らないことが前提。
 自虐というのもつまるところは心のクセであり、喜怒哀楽とは少し違うにしても「主観」に支配されているわけですから、やっぱり感情的なものではある。

 離見(りけん)の見、といったのは世阿弥ですが、自分は自分でありつつも、それを、あたかも他人を見ているように、自分を客観視するということは、芸術によらずスポーツによらず、人間にとっては必要なことかもしれません。

 主体として感じていることがあるのはべつにいいんですが、それが暴走することによっていろいろ自分でも苦しい目に遭うわけですから、——どこがどうマズくてこんな状況になっているのかを知りたいなら、「赤の他人を見るような目」で、自分を見る必要がある。

 岡目八目という言葉がありますが、主観がはいらない——勝手な思い込みが存在しない他人のほうが、ものごとはよく見えている、ということはよくあります。
 他人のことをとやかくいうときはいっぱしの口を利くが、こと、自分自身のことになるとまるっきり幼児になっている、というのは、「自分を客観的に観察する」ことが難しいからでしょうね。

 自虐というのは、内省ではない。自分で自分の心のクセに振り回されているだけ。
 自虐は内省ではないし謙虚でもない。
 このへん、勘違いしないでほしいところです。

 自分で自分を「情」を交えずに見る、というのはけっこう訓練が要るものでして——先天的に上手にできる人もいますけどね——、こればっかりは、自分でその訓練を積み重ねていくしかないことだと思います。

 
その2。感情を説明するということ。
 自分の内側で何が起きているのかを観察、分析するときには、やはり言語というのはありがたいツールです。
 仏典の、テーラガーター、テーリーガーター(仏弟子の告白、尼僧の告白、と訳される)を読んでいると、もっとも強力な方法は瞑想だというのがわかりますが。
 深い瞑想に入ることで、自分の潜在意識さらには深層意識にまではいりこみ、いまの自分が、どういうことが原因で、こんな状態にあるのかを「観る」わけです。

 興味深いのは、「こういうことがあるから、自分はこんなふうに存在しているのだ」ということがハッキリわかると、解脱を得る、ということ。
 そうか、わかった! というあの感覚——「腑に落ちる」「わかる」、というのは、まったくもって劇的な体験ですよね。

 悟るときは一瞬で悟る。
 より強固にはっきり覚るにはやはり、瞑想による内観が、いちばん強い体験となるだろうとは、思われます。
 でもこれ、誰にでもできることじゃないですからねえ;; だから、最後には、言葉というツールを頼ることになる。

 わかる、というのは、「説明できる」ということですね。
 テーラーガータなどもじつに論理的に、自分の内側の話をしているものがあります。
 わかると、概念としてくっきりするから、「掌を指すように」きっちり、説明できるようになるんでしょう。

 その昔、友達と、お互いに、お互いの不得意な科目、得意な科目を、教えたり教えてもらったりしているとき、「他人に教える=言語化する」と、自分自身にも「あ、そうか」と得心の行くことがあり、理解が、よりいっそう深まる、ということがありました。
 理解、というのは、他人に説目することで、より、その理解は体系化され、整理されて、自分でもわかりやすくなるんですよね。

 あ、そうか! とわかったことを言語化する意味はこのへんにあるわけでして、言葉にして説明することが大事なんじゃなく、言葉にするには理解していなければならない、という……。
 あれ。
 ………説明になってませんね。(^^;)

 そうか! と自分で自分に納得したことというのは、その時点では、「感覚」があるだけで、言葉として存在しているわけではない。
 しかし、残念ですが、他人とその「感覚」を共有することは不可能なんですよね。テレパシーが使える人ならともかく、私どもは他人と「心」を共有することはできないので。

 それゆえに言葉というものが発明されて、重要なコミュニケーションツールになっているわけですが、じつのところ、言葉には限界がある。
 正確には、言葉は「感覚」そのものを伝えることはできないわけです。

 感覚は心の感受作用としてある。他人の心との同調ができない限り、じっさいには、感覚の共有はできない。

 それでも、なんとか、お互いの感覚を共有したいというときには、言葉で「形にする」しかないわけですよね。
 もやもやとしたものを形にするというのはなかなか難しい。しかし難しいからこそ、形にできたときに、自分の言葉を自分で聞いて、さらに「ああ、そうか」と、理解が深まる。

 で、言葉にしたから、じゃあ他人に伝わるのかというとこれはもうね——まったく絶望するしか無いような状況にあるわけで。
 理解力、読解力という問題がまずあるし(あたしゃときどき、なにをどーすりゃそういう『理解』になるんだよ、と、他人から返ってくる言葉には本気で泣いてます)、言葉というのはようは概念、イメージなんですが、同じ単語でも、どういうイメージを持っているかは個々人によってまったく異なるので。
 ある程度、おおまかなイメージは伝達できても、言葉に対する似たような感性を持っている人間同士でないと、イメージの違いが原因となって、ものすっごい齟齬(そご)が生じてしまう。

 それでも、私どもは、言葉に依らなければならないのだ——ということですね。

 自分の感情や、好き嫌いを他人に説明すること=言語化することは、言葉にするためには冷たい論理性が必要になるので、自分を内省、内観するのに、ひとつの方法として有効である、ということ。
 仏弟子の皆さんのようにすぐれた瞑想ができるわけではない凡夫にとっては、ほとんど唯一といっていいくらいの、有効な方法だと思います。
 他人に説明する、ということは、最終的には自分自身のために行うことですね。

 屁理屈いってねーで、自分で自分の感情を説明できるくらいになってみたら? と、ちょっと、イラッとくることがあったもんですから。(^^ゞ
 イラッときたついでに、自分でも考えてみました。
 いつも思うことだけど、他人のことをとやかくいうその批判の目を自分自身に向けてみろよと、ホント、腹の底から思ってしまいますわ;;

 ついでに申しますと。
 私の乏しい経験からいって、内省、内観には、「善悪の判断」は必要ありません。ありませんというより、善悪の判断というものを放棄しないと、内省、内観は実現しないんですよね。

 いいこと、悪いこと、というのは、どんなときでも存在しない。それを勝手にいいとか悪いとか決めていることこそが、「心のクセ」であり「エゴ」と呼ばれるものなんで。

 その心のクセやエゴから解放されることを目的に行うのが内観ですから、そりゃもうね——善悪の判断は、放棄しないと始まらない。

 善悪というものが「ある」と思っている。そのこと自体が、「エゴ」なんですけれど。

 ——なかなか、「本当はどこにも善悪なんてものはないです。善悪こそがエゴです」なんてポンと言っても、理解されることではないでしょうね。(^^;)

 この深い断絶。

 それでもその断絶と断絶とのあいだに、細い糸でいいから、つなげたいと投げかけられるものが、「ことば」なんですね。

 在原業平の気持ちは痛いほどわかる。
 しかし達観はしつつも、絶望する必要も、本当はないのだと、いまの私は思っております。

 ——思うこと 言はでぞ ただに やみぬべき
   我と等しき 人しなければ




 
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2012.08.30 (Thu)

空いた場所には

 昨日、8月29日の「今日のダーリン」を拝見して、うーむとうなる。

 もう言っちゃいますが、ぼくは毎年、新年に、
 「人の悪口を言わない」とこころに決めています。
 でも、これは、ときどき破られています。 
 ただ、その約束をしたというだけで、
 当社比50%くらいの感じで、減っていると思うんです。



 糸井さんはひとさまのことは悪く言わないなあ、というのは私も感じ入っていたところでございますが、しかし、そういう糸井さんでさえも「ときどき破られている」、というところが、うーむ、だったわけでございます。

 私なども、悪口はいかんと言いつつ、朝から晩までそれを口走っているような人間でございまして——まったく、お恥ずかしい話です。
 息をするように嘘をつくと言われる人々が日本の近所にいますが、私などは呼吸のたびに悪口をいう、というくらいではなかろうかと思います。(^^;)

 自分でも、ああこれは情けないことだと思ったのは、ならばぜひ、悪口はいうまい、と決めたのはいいけれど、そうなってみると、なんと、「何を喋っていいかわからない」状態になったことでした。

 誰か、何かを悪く言うまいと決めますとですね、話すことがない。書くことがない。
 悪口以外の話をしてご覧よ、といわれると——深海の沈黙になってしまうのです。
 これは、さすがに、自分でも、参りました。
 
 悪口というのは人の知能を低下させる。これはもう科学的にデータが取れているそうですね。
 なるほどアタシの記憶力が人並みはずれて悪いのはそのせいか、と納得はしましたが、——それではどうしたらいいのかしら、と、現在、そのへんについて考えているところです;;

 というのは——先日おかげさまを持ちまして、自分自身が抱えていたトラウマが、どうやら解消の糸口かというところに手がかかりまして、ずいぶん、私としては楽になりました。
 自己否定と自己嫌悪の嵐が、40年ぶりに晴れたわけですが、——それで愕然としましたのは。

 喜び、嬉しい、楽しい、という感覚を失っている、ということでした。

 今の私が、嬉しいとか楽しいとか感じることはすべて「イベント」によるものです。なにか「いいこと」があったとか、旅行中とか、お祭り、コンサート、外食、というように、「外部からの刺激、環境」によって、初めて喚起されるというものばかり。

 しかし人間にとっての、嬉しい楽しいという感覚は、内側にこそ存在するものですよね。
 小さい子供は、本当にささいなことに夢中になって楽しみます。雑草が華麗な花に見えるのか、いつまでも「花摘み」をしていたり、いきなり声をあげて笑ったり、夢中になって遊んでいる。

 喜びとか、楽しいとか嬉しいというのは自発的なもので、格別のイベントではなくても、「舞台装置」などなくても、いまあるものの中から、面白そうなものを自発的に見つけては、自発的に楽しむ。

 楽しみというのは、お金をかけないと実現しないというものでは、本来はなかったはず。

 毎日の生活のなかで、好きなことはなんですか? 楽しいことは? という質問にあったとき、私は絶句しました。
 なにも思いつかない。
 朝起きるときにはため息をつき、夜眠るときには疲れ果てて目を閉じる。
 やる「べき」ことをこなすだけで1日が終わり、そこにはなにも楽しみなどない。ただ、無難に1日が終わってくれればいい、というだけ。
 小さな花に喜び、風に心を和ませ、なんていうことは、「そういうふり」はできるけれども、心の底から、楽しい嬉しいと感じるものは、なにもない。

 自分が「空っぽ」であることに、気がついてしまいました。

 これにはホントに、参ってます;;

 不平不満、自分自身への呪詛、それを他人に転嫁させた怨念、——そういうものはおおむね、「トラウマ」から派生したものでしたが、そのトラウマをどうやら解消したら、心は「なにもない」状態になってしまいました。

 本来そこにあふれていたはずの喜びや楽しみはいつのまにか心から追い出されてしまい、ネガティブなものでいっぱいになって、やっとそのネガティブなものを片づけたら、——そこは、がらんどうになっていました。

 これはなかなか、自分でも衝撃の発見です。(^^;)

 しかしまあ、いまは、ネガティブなものでいっぱいになっているよりは、がらんどうのほうがマシである、と思うしかありません;;

 断捨離と同じことかもしれませんね。とにかく、古いもの、もう用事が済んだものをいつまでも溜め込まないで「手放す」。手放すと、いままで要らないものであふれていた場所は、すっきりとした空間になる。

 当座、いままでの私の心がどれほど、怨念や悲嘆でいっぱいになっていたか、その結果、何かや誰かの悪口以外のことはいえなくなっていたかがわかった、というところです。
 これから少しずつ、その空いた場所へ、また「自発的な喜び」を並べていけたらいいなと思います。

 長い間のクセですから——なにか、誰かの悪口をいわず、楽しい、好きなことについてしゃべる、というのへ転換するには時間がかかるとは思いますが、まあ、気長にトライを重ねていきたいと思います。

 そんなことをつらつら考えていたところだったので。
 糸井さんのような方でも、悪口をつい、言ってしまうことはあるのかなと思うと「うーむ」だったわけです。(^^;)
 あの……、ちょっと気が楽になったというか;;
 あの糸井さんでもそうなんだ、という感じで;;

 でも、悪口ではなくても、他人からいやがられることを「言わなければならない」場面というのはあるわけでして、——糸井さんの場合は、その禁をおかすことがあるとしても、それはじつは悪口なのではなく、誰かのため、何かを守るために、繰り出していくべきものではないかと拝察します。

 それは、心がねじれたヤツが口走る「怨念の言葉」とは、もう、本質的に違うだろうと思いました。

 なにか、誰かのために、繰り出さなければならない、「他人からいやがられること」——それは悪口ではなく、やっぱり「ヘンなヤツにつけ込ませない」ために、必要な措置だと思います。
 こっちから喧嘩を売ることもないのですが、やはり、舐められてはいけないのです。舐められると、つけこまれ、喧嘩を売られてしまいます。
 相手に付け入る隙を見せないということも、「専守防衛」の、大事な作法だと思います。
 相手に隙を見せないというのは、自分にも、また相手のためにも、本当は必要なことなんですけどねえ……。

 わからん人にはわからんのでしょうね例によって。
 
 そういう、「専守防衛」のため、という場合ですら、上手にかわしていける人というのは、私は、お釈迦様くらいしか思いつきません。(^^;)

 故・中村元先生の訳による仏典を読んでいるとそのへん面白いのです。
 とにかく「相手から喧嘩を売らせない」ことと、「それでも喧嘩を売られたときの対処法」は、じっさい、見事なものだと思います。

 日常としては、喧嘩じゃなくても、やっぱりいろんな人が来て、人生相談——俗世のネガティブな話を持ち込んでくるんですよね。
 それにまともに答えると、どうしても、やっぱりネガティブな言葉になってしまうところを、お釈迦様は上手に対応する。

 相手に直接、話をするのではなくて、そばにいるお弟子の誰かに、ぜんぜん関係のないことを話しかけて、その話題の中に、さりげなーく、「ネガティブな相談事にたいする解答」がはいっている、という手法。

 あくまでも俗世のことにはノータッチというお立場ですから、ある程度以上のことは喋らない。ひたすら沈黙している。
 出家というのも、つらいもんだなあと思ってしまう場面であり、と同時に、「俗世とは関係ない」と、ぴしゃりとドアを閉めるわけにもいかない、俗世に生きる我が身のことも、考えてしまいます。

 まあ、出家するわけにもいかないんで、俗世に生きる身は「そんなことには私は関わらない」といって瞑想しているわけにもいかないんですから、多少のことは、俗人として、自分に許しを与えながらやっていくしかないでしょうね。
 俗世にいる以上、100%なんてもんはないんだ、ということで。

 当座、私はそのレベルにもなくて、とにかく、ネガティブなものでいっぱいだった心の掃除をつづけて、空っぽの心に茫然としているというのが現状。
 ここから、ほんの少しでもいいから、子供の頃にはあった、「自発的な喜び」を、手に入れていきたいと願っているところです。
 
 
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2012.08.29 (Wed)

過ちて改めざる、これを過ちという

 セカンドピアスを買いました……ちょっとドキドキです。

セカンドピアスとは(ピアスクラブコム)
http://www.pierce-club.com/second-pierce.htm

 来週末で、ピアッシングしてから6週間満了。
 ファーストピアスを外すのは病院でやってもらおうと思っているので、病院へ行くのは再来週になりますね。
 ちょっと気が早いけど、セカンドピアスを用意しました。

 特に痛み、腫れ、分泌液もないようなので、順調だろうとは思うのですが、なにしろあきらかに通常よりも耳たぶが厚いもんですから、ちょっと気になります。
 セカンドピアスはファーストピアスと同じく、ポストはチタン100%、軸の長さも12mmということでたっぷりしているので、仮に、ホールがまだ安定していなくても、セカンドピアスでまた対応できると思います。

 ファーストピアスは、衛生上、一度はずしたら2度付けはしないほうがいいだろう、というご意見には私も賛成ですんで。
 また、ファーストピアスはポスト先端が尖っているわけですから、いちど外してまたつけようとすると、ホール内部を傷つける可能性が高いですもんね。

 気長にゆっくり安全に、いきたいと思います。

       ●

 じつは左肩が「関節炎」でございまして。
 
 4月中旬くらいからじわじわ痛かったのですが、大したことないからと放っておいたら、だんだんひどくなってきて、8月からは、肩関節全体を湿布で覆っております。

 よーするにあれですよ……「四十肩」。
 私の場合はまだ軽傷で、動かすことはできます。できますが痛いです。
 炎症があるから痛いわけですが、それを放っておくと、「四十肩」「五十肩」になるよとのことでした。
 厳密に言うと、四十肩前段階、ってところですね。(^^;)

 学校を卒業して以来20年、まともに運動らしい運動はしていなくて、私の肩周辺はばりばりに固くなっていたようです。

 ジャズダンスを3月からはじめましたら、いきなりそれで肩こりがなくなったんですよね! これはたいへん嬉しいことでしたが、じつは、あまりにも肩関節がかたまっていたので、左肩には「無理」となり、組織を傷めてしまったもよう。

 組織が傷んでいる(炎症がある)時期はとにかく安静。急性期が過ぎたら、今度は無理のないようにリハビリ、ということで。

 ダンスレッスンは継続しつつ、でも、無理をしないように左肩〜腕は、ときどき休ませながらやってます。傷めたのが足じゃなくてよかった;;

 で。
 昨日は整体へいって、その左肩を治療してもらったんですがこれがもう、痛いのなんの(涙)
 今日はそのもみかえし、っていうんですか、治療の反動でなんだかかえって腕が重いので、すみませんが、長文を打つのは控えたほうがよいということで、こんなあたりで失礼致します。m(_ _)m

 私の場合、肩関節のみならず肩甲骨まで、とその範囲が広いために、なかなか、治っているという実感が薄いです。
 それでもまあ、痛みが引いたり、動きやすくなっている箇所もあるから、いつかは治ると思われます。

 関節炎の場合、傷んでいるのは筋肉というより、腱などの組織で、腱というのは筋肉と違って血管が少ない。血流が少ないので治りも悪いのだそうです。
 ということで、少しずつ動かすことは必要だが無理も厳禁。

 その見定めがなかなか難しいのですが、(^^;) ともあれ、痛みを感じたらやめるようにしています。

 もう完全に五十肩で、肩が動かなくなっていた人がいらっしゃるそうですが(私が通っている教室とは別教室)、お医者さんには、「(ほかの趣味の)油絵はやすんで。ダンスは休まないで」と言われて、痛い痛いといいながら、ダンスレッスンを続けたそうで。
 そうしましたら、半年くらいでかなり動くようになったとのこと。

 ダンスって体を柔軟にするところがありますから、リハビリとしてはいいのかもしれませんね。

 私も過去の運動不足を反省しつつ、でも、この関節炎が治ったら、柔軟な肩関節が手に入ることを楽しみに、しばらくは注意しながらつづけていこうと思います。

 ちなみに、昔は四十肩となると、痛い時期なのに無理に動かしたそうですが、これ、現在では常識がかわって、「炎症が起きている間は安静に」とのことです。
 前述のとおりで、ただでさえ、腱というのは傷ついたら治りにくいのに、炎症があるときにさらに動かすなんて言語道断! ということだそうです。
 で、炎症がおさまったら、こんどは、少しずつリハビリで動かせるようにする、という手順とのこと。

 しかし、いちど巷間に流布したことは、それが間違いであったとしてもなかなか、訂正されないんですよね。血中コレステロール値が高い人は卵を食べてはいけない、みたいな説、いまだに真顔でいう医者がいるほどで。

「四十肩の急性期は安静に」。
 これもなかなか浸透しないらしくて、「動かさなくていいの?」ということは、私もたびたび言われました。
 現在はもうリハビリ期ですから動かしますけどね…; 急性期にはかくかくしかじか、と説明しても、へーえ、と、妙な顔をされることが多いです。
 いちど信じちゃった説をくつがえすのは、人間にとっては心理的に抵抗があるんですかねえ。

 でも、間違いだとわかった説を強行して、体を傷めるのも、不合理ってもんじゃないでしょうか。

 ということで、本日はこのへんで。m(_ _)m

 
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2012.08.28 (Tue)

24時間テレビ

 すっかり晩夏の風物詩になっていながら、私自身はそういえば、見なくなってしまったなあと思いました。24時間テレビ。

乙武洋匡さん 24時間テレビへの思い(Togetter) 
http://togetter.com/li/362560

 あれをそれなりに真面目に見ていたのは小学生くらいだったような気がする。
 24時間テレビが開始されたとき、私は小学校4年生だったので(たぶん)、とすると、わずかに3年間しか見ていないということになりますね。(^^;)

 昔は特別番組として長編アニメとかやっていたので——手塚アニメが基本でしたが…「アンドロメダストーリーズ」(原作:光瀬龍 作画:竹宮惠子)が妙に記憶に残っているのは、時間が圧倒的に足りなかったせいか、なんだかすんごい破綻していたからだろうか;;
 後年、光瀬龍、という名前に妙なふうに納得した記憶があります。「百億の昼と千億の夜」も、えらい破綻してましたんで、——光瀬龍さんとおっしゃる方は、風呂敷を広げることはできても畳むことができないのだろう、と、不遜にも思った記憶が;;

 ともあれ、中学生のころはそのスペシャルアニメを目当てにしていたはずですが、高校生以降にはもうあんまり見なくなり、20歳過ぎてからは完全に「ああ、今年もやってるんだね」で通過するようになり。

 だいぶたってから、ふと気がついたら24時間マラソンという、「殺す気か?!」と叫んでしまったほどの企画ができていたりして。

 ………チャリティというのはけっこうなことだと思うのですが、しかし、どうも、演出に、ついていけないものがあるようでした。

 なんか24時間テレビは苦手だな、でもチャリティなんだし、いいんじゃないかな、という、たいへん無責任な態度でおりましたが、乙武さんのツイートを見て、
「あー……。そうか……」
 と腑に落ちるものが。

 障害者に限ったことじゃないですけども、なーんとなく、「かわいそう」というスタンスが見え隠れしてますよねたしかに。
 それでも以前には見ていられたのは、欽ちゃんこと萩本欽一さんのキャラクターによるものだったかも、と、いまにして思います。
 あのころはそんなには、「可哀想」という気配はなかった、と思うんですよね。
 たぶん欽ちゃん自身が、そういう感性の人ではないからかな。

 ともあれ、その「かわいそう」な誰か(障害者に限らず)、という、その前提そのものが好かん、というところはあると思います。
 私が小学生のころは、いうところの発展途上国の「恵まれない子供たち」のために…とかいう枕詞がついた活動がありました。

 鉛筆を買って、その収益を「恵まれない子供たち」に送るとかなんとか。
 子供心にも、この言い草が気に入りませんでねえ。(^^;)

 困っている人に、できるだけの手助けをするのはかまわないけど、「恵まれない」たあなんだ、と思っていたようです。
 恵まれない=不幸=かわいそう。そういう前提があるように感じて、それがいやだったんでしょう。

 障害者に対する理解を深めることについては。

 個人的には私は、「二階の狂女」をやめればいいんでないのと思っております。

 二階の狂女というのは、故・中島梓さんの、自叙伝風エッセイに登場します表現で、これは、中島さん本人の中の、「ものぐるい」の自分を表現しているのですが、二階か奥座敷かはともあれ、むかーしは、そうやって、障害者は、家の奥に隠して外に出さない、という風潮がありました。そのことを踏まえた表現ですね。

 私の亡くなりました大叔母も、いわゆる知的障害がありましたが、これはまったくごく軽度で、現代であれば、社会人としてほぼ、なんの問題もなく生活できた人でした。
 それが、子どものころは家の中に押しこめられ、学校にもいくことなく、ただただ、人目から隠されていた人だったんですが。

 そういうのをやめたらいいんじゃない、ということ。

 小学生のころ、盲学校との交流会というものがぼちぼち始まりまして、ミニ運動会みたいなものも催されていました。
 子供のことですから、すぐに打ち解けるんですよ。視覚障害のある人とはどうやって歩けばいいか、道案内をしたいときはどうすればいいか、基本的な「マナー」を教えてもらえれば、あとはまあ、ようは同世代の子供ですから。すぐに仲良くなって遊び始める。

 そのとき思ったのは、「学校を分けなきゃいいのに」でした。

 障害に応じた訓練なりが必要なところがあるのはわかりますが、日常生活の場としての学校、というものは、分ける必要ないんじゃないの、というのが、私の感想でしたねえ。

 先日も、新幹線の、指定席におりましたんですが、視覚障害の男性が、ひとつひとつ、シートを探って、自分の席を探しているんですよね。
 指定席ですから、何列目のシートかは、数えればわかるんだけれども、みていると、途中で数がわからなくなるのか、2往復目を始めたんですね。
 周囲の乗客は当然、その状況に気がついているのですが、誰も何もいわない。
 なんだこれは、と思って、私、ちょっと席が離れていたんですけど立っていって、「お席にご案内しましょうか」と声をかけました。
 こう声をかけて、断られることはまずないですね。

「○号車、15番、E席」とのことで、「いま、いらっしゃるところが8番ですから…」とお知らせし、ひとつひとつシートに触れて、9、10、11…と、いっしょに数えながら目指す列まで行きました。私がいきなり、こちらです、と連れて行くより、ご本人に確認してもらいながらのほうがいいかなと思いまして。

 ——慣れ、だと思うんですよね。

 障害者を見て「いやがる」人というのは、私の見るところ、「怖い」という感覚があるようですね。
 どう対応していいかわからない、わからないのに、話しかけられたらどうしよう、と。そういう「怖い」。
 え、どうしよう、どう対応したらいいかしら、とおろおろするなら可愛いのに(なんだったら、ご本人に、『どうご案内すればいいでしょうか』と聞いてもいいんですよね。じゃあ、こうしてください、と教えてくれます)、へんなふうに虚勢を張るのか、半分パニックになりながら、ドキドキしている胸をおさえて、怒った顔をして、「なんで(障害があるのに)ひとりで出歩いているんだ」なんていう。

 ちょっと落ち着いてくださいよ、と思います。

 日本語で話しかけられているのに、相手が白人だということにパニックを起こして、「ダメです! ダメダメ!」と叫んで逃げていく日本人と原理は同じです。(^^;)

 見慣れないもの、なれていないものへの、「恐怖」が、怒りに転嫁される。

 ふだんから接触がないから、どうしたらいいのかとパニックおこすわけなんで、ふだんから接触があれば、——「日常の景色」であれば、べつに、なんてことはないわけ。

 ゆえに。
 障害者を「隠す」のは、やめればいいんじゃないですかというのが、私の提案でございます。

 隠しているか? と言われるかもしれませんが、隠してますね。そうでないなら、場所を分けているでしょう。
 さすがに奥座敷に幽閉した時代よりはマシですが、それでもまだ、「隠している」ように、私には思えます。

 私自身はそういう感覚だから、「可哀想だから助けてあげましょう」的感覚には抵抗がありますねえ。個人的に。(^^;)
 
 相手が誰であれなんであれ、「可哀想」というのは、どうもこう……、相手のあり方への敬意がない態度に思えて仕方ない。

 私どもはひとりひとり、それぞれ、課題を持って、その課題に取り組んで生きている。
 課題の内容はそれぞれですが、課題に取り組んで生きているということ自体は、お互い、実に公平だと思います。

 可哀想、といってしまうと——その人が取り組んでいる課題、努力、そのなかであってこそ得られる喜び、というものを、無視してしまう気がしてしょうがない。

 生きていることはなんにしても大変なことだし、チャレンジだ、ということは、お互いに、なにも変わらないと思うんですよね。
 チャレンジャーだというなら頑張って生きている人はみんなチャレンジャーだし、そういうなかで、お互いに、できる手助けがあるならすればいいだけのことで。

 誰かの手伝いをするのに、「かわいそう」を動機にする必要はない。
 
 求めたいのは、障害者理解というより「人間理解」、ですかね。(^^;)

 私にはむしろ、そこで「かわいそう」という感性を持ち込む人の気持ちがわからないんですよねえ——、可哀想、と思う心は、どこからきているんでしょう。
 たぶん本人(たち)にも、そのへんは無意識なんでしょうね。
 無意識のことだからこそ、抵抗を感じる我々としても「そこが」とは、なかなか具体的にはつかめないんだと思います。雰囲気とか、ほんの小さな、言葉の違いに、ちらっとにじみ出るだけだから。

 チャリティ自体はけっこうなことだと思うので、こういうことって、ホント、言いにくい。(^^;)
 乙武さんであればこその、ご発言だと思います。ありがたいです。
 そのご発言をきっかけに、考えることができますので。

 で。
 パラリンピックは、私も、オリンピック並みに放送してほしいですよ……また寝不足になるのはつらいかもだけど(笑)
 
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2012.08.27 (Mon)

馬鹿が引くアレ

 馬鹿が引くという夏風邪を引いたようです…。
 ちょっと喉が痛いというくらいで病院へ行くほどではない。様子をみて、悪くなるようだったら病院へ行きます。

 私の場合、中途半端に抵抗力があるのか、完全な症状がでるのには時間がかかったりします。しっかり抵抗力があるならいずれ治るんでしょうが、治りもしない、という状態がつづくのがイライラするんですよ〜;;

      ●

 お昼なのに、玄関先に差し込む日差し(真夏の間は日は射してこないのです)を見、皎々と輝く月を仰ぎ、宵闇の向こうから聞こえてくる秋の虫の声に耳を傾け、24時間テレビも終わり、秋田大曲の花火大会も終わりまして、本格的な夏の終わりを感じます。
 …………気温以外は。

 というか、今年はまだ、つくつく法師の声を聞かないんですよね……。なんでだろう。

 昨日はちょっと野暮用で灼熱の東京砂漠へいってきましたが、蝉の声がほとんどなくて——なんとなく無気味な感じがしました。
 日本の夏で蝉の声がしないなんて。
 ………東京って、あんなに蝉が鳴かないんでしたっけ? いままでの私がうっかり過ぎただけ?;;

 なんにしてもその沈黙が無気味で、なんとなくレイチェル・カーソン「沈黙の春」を思い出してみたり。

 とはいえ、うちのほうも、蝉の声も、風前の灯かもしれませんがね。

 去年あたりから、なぜかうちの近所では、空き地や畑がつぶされて、のきなみ、住宅地になってしまいました。
 せっかくの林がつぶれ、立派な枝振りだった木がなくなり、今年の春にはじつは、住処や休憩所をなくした鳥たちがうろうろしたり、鳥の声がしなくなったりで、本当に悲しい春でした。

 人口が減ってんのに、なんで林がつぶされて家が建ってんだよ! と、思わずその理不尽さに腹が立ってきます。適度な田舎であることが私のお気に入りだったのに、住環境はここ数年、悪くなる一方で。

 そのうち本当に、鳥も、蝉もいなくなって、面白くもない屋根が連なって見えるだけの、醜悪な住宅地になるのだろうかと思うと、本当に気持ちが沈み込んでしまいます。

 木がなくなるのは、本当につらいです。

 大金持ちになったらこのへん一帯の土地を買い占めて、昔の森や林、湿地を復活させたい——と考えてしまいます。
 なるほど、ナショナルトラストというものが立ち上げられるわけだ……と(へんなほうに)納得です。

 今年は特に6月の台風で、昨年秋の台風の傷も癒えきらないうちに、のきなみ、木々が(台風の運んできた)塩でやられてしまいましたから……。
 本当なら8月では、茂った緑の葉がうっとうしいほどなのに、今年は、まるで冬枯れの木のように、葉っぱがなくて、枝が丸坊主で、痛々しい姿ばかりです。

 今年の私は緑に飢えております。

 来年には、豊かに茂った緑を見たいと思うのですが——どうなるでしょうね。
 これで今年の秋にも台風による塩害が出たら、と思うと、けっこう本気で寒気がしてしまいます…。

 うーん、今日は風邪のせいか、ちょっと気分が沈みがちで、すみません;;

 
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2012.08.26 (Sun)

本日おやすみ

 今年の夏休みは本当にどこにもいかず、何もしなかった……。
 というのもちと寂しいものがあるので、昨日は久しぶりで、外食におでかけ。

 好きなお店ですがお値段がそれなりなので、そうしょっちゅうは行けないところなんですよね。(^^;)
 今回も、じつに2年ぶり;;

 今年の夏はとうとう夏の着物は着ないで終わるのかと寂しく思っていたところだったので、昨日ははりきって、絽の小紋を着ていきました。
 いただきものの帯留め、帯飾りをつけてお出かけしました。
 満足満足。(^-^)
 ごはんも美味しかったし、夏の景色もきれいだったし。

 あれで軽く一杯飲めればなおよかったのですが、あいにく、車を運転する身は、ノンアルコールのカクテル(……ってこれ、ようはジュース;;)で我慢でした。

 それにしても今回は、そんなわけで着物で行ってしまって、お店の方が気を使ってくださり、ナプキンを2枚、くれました;;
 1枚は、通常どおり膝の上におき、1枚は、着物と帯を汚さないように胸の辺りから襟元にはさんで使いました。

 が。
 なんせガサツな自分を自覚してますから——ハネがとぶ恐れがあることは織り込み済みで、昨日は着物のみならず帯もポリエステルのものだったんでした;;
 が、せっかくのお心遣いなので、「いえ、洗えるきものですから大丈夫です」とは言わず、そのままありがたく、ナプキン2枚、使用致しました;;

 しかしこうして見るとホントに——きものって、あれこれ気を使ってもらう存在になっちゃったんですねえ…。私としてはお気に入りのワンピースを食事に着ていく程度の感覚だったんですが、周囲の扱いを見ていると、そういう感覚はある意味、いまの社会においては通用しないことを感じてしまいます。

 きものもまた、オシャレ着の一種であるにすぎず、そうそう特別なものではない、というような認識が、社会全体に広がってくれたらありがたい——ような気がします。

 ちなみに、きものを着て、サングラスをかけて、車の運転をしていると、周囲のドライバーに2度見されることが多いです……。
 珍しいですかね着物姿のドライバー。
 ……珍しいか……そりゃそうか……。(←なんとなくがっかり気味。(^^;))


 本日はこのうだるような暑さの中、またお出かけです。ということで本日おやすみいたします;;

 熱中症にならないように気をつけていってきます〜。

     ●

 気をつけるといえば。
 先日うちにも振り込め詐欺の電話がかかってきました。

 しかし——先方が名乗った当該人物とは、声が似ても似つかないので、「コレで引っかかるもんかなあ?」と思いました…。
 風邪を引いたとかなんとか、そういうレベルの話じゃない。
 それになにより「口調」ってもんがありますよね。それが違うので、さすがに、違和感は半端じゃない。
 うちの○○はそんな馬鹿っぽい喋り方はしねえよ。と言ってやりたいくらいでした。(^^;)

 声のみならず、その人の口調にも特徴というのはあるわけですから——そうそう簡単にひっかかるとは思えないんですけども……。
 そういう区別、判断ができなくなるほど、息子さんなりお孫さんなりとは、長いこと話していない、という人が、被害者の中にはいるのかもしれませんね。そう考えると切ない……。
 
 そんな感傷はともあれ、逆にこの電話を利用して、振り込め詐欺犯を逮捕するのに協力できないだろうか、と考えているうちに、相手に電話を切られてしまいました;;

 私は少し、芝居の仕方を勉強したほうがいいかもしれない;;

 ひっかかった振りをして、警察に突き出せるような状況とかにしてやればよかった、と思いまして。
 ただいま、「次回、また電話があったときの対応策」を考え中です。
 
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2012.08.25 (Sat)

それぞれの行く道

「火病」について、Wikipediaを見てみました。
 具体的な「症状」をきちんと聞いたことないなあと思いまして。
 Wikipediaですからある程度は「距離」を保って話を聞いておくべきではあるでしょうが、きっちり書籍を買い込んで勉強する気もないし (^^;)、ということで参考までに。

 ネットではなんとなく、ヒステリーみたいな言い方をしているようですが…。
 そんな程度のもんじゃないんですね;;

 これ、火病自体はたしかに精神疾患なんでしょうが、その疾患の原因となっているのは人格障害なので。

治療については完治は不可能。治療法は完全には確立されていない。


http://ja.wikipedia.org/wiki/火病

 ………ああ。

 アメリカさんは日本と仲良くやっていてほしいらしいですが、それは無理ってもんです。あきらめてもらうしかないですね。
 身内に人格障害者がいる(しかも複数人)私が断言しますが、人格障害は治るものではありませんし、こちらが彼らにつきあうとかえって事態は悪化するだけなので、最善の方法は「つきあわない」、これしかありません。

        ●

 為末大さんのツイートを拝見しては感心しきりでおります。
 昨日からはまた、「あきらめなければ夢は叶う」の危険性というこがテーマということで。

 しかし感心するのは、これ、以前にもちょこちょこと語られていたテーマで、そのたびに為末さんにからんでくる人が現れ(この場合の『からむ』は、単に相手にするというような意味ではなく、喧嘩を売る、というニュアンス)てきたんですよね。

 同じ人なのかどうかは存じませんが、また同じやりとりがあって、私としては本気で感心します。
 同じことをなんどもなんども、他人様に説明するのって、本当はかなり面倒で労力が要るうえに、そのわりには報われないことなので、私なぞはさっさと放棄してしまいますから——同じことを何度も説明する為末さんには、あらためて、尊敬の念を抱いております。

 とはいえ、「おなじことを何度言わせたら気がすむんだ」というのは、………どうなんですかねえ。以前の人と同一人物かどうかは知らないけれど(そんなことまでチェックする気はない;;)、しつこいよねー、また同じこと言ってるよ。と思っていたら、とうとう、本日の為末さんのツイートのお題が、
「『やればできる』とストーカー
 だったので、思わずモニターの前で大笑いしてしまいました……。
 
 為末さんへのリプで、「人事を尽くして天命を待つ」ということわざを取り上げた方がいらっしゃいまして。私も拝見して、あ、そうそう、これこれ、と思いました。




 人間にできること、わかることには限りがあります。その時点ではわからなかったことも、数年、数十年後に、そうかとわかったりあれでよかったと思ったりする。たぶんある程度の距離をもったときに初めてわかることというのが、多いんだと思います。

 あきらめなければ夢は叶う、も、努力は報われる、努力は嘘をつかない、といったことも、それぞれ、べつに嘘ではない。
 けれどもその一方で、為末さんおっしゃるところの、自分の努力を評価してみるとか(評価というのは褒めるという意味ではなくて、文字通り、それを『はかる』『検証する』ということ)、その検証結果次第で、また考えなおすことも、大事なことだと思います。

 べつにそれは矛盾ではないし、夢というのはなにも、山のように動かせないものということでもない。

 ようは、自分がやりたきゃやるし、やりたくないならやらなくていい、ってことだと思います。

 自分が本当に好きだったり、情熱を感じるものであれば、苦労も努力も「苦痛」にはならない。
 でも、自分がやりたくもないことをやるというのは、それがどんなに余裕綽々(しゃくしゃく)でこなせることであり、他人から賞賛されたり経済的にも満たされることであったとしても、やっぱりそれは、苦痛だし、本人にとっては拷問なんですよね。

 まず、自分が本当にやりたいことか、それを見極めることが、基本だと思います。
 だって、努力というのは、自分がやりたいこと実現したいことのために、するもんでしょ。努力するために努力してるんじゃないでしょ。努力は、目的のためにやってるんでしょ。
 なら、自分の目的はこれでいいか、検証は続けたほうがいい。なぜか人は、すぐに、自分の目的を忘れそうになるから。(努力することでいっぱいいっぱいになると、余裕がなくなって近視眼になるからかなあ)

 根性論は論外ですから除外しますが、「自分で自分を知ること」がそもそもであり、夢をあきらめるか、努力を続けるかどうするかというのは、「手段」「方法」であって、努力を続けることが目的になってはいかん、ということではないでしょうかねえ。

 本末転倒。——でも、この本末転倒を、案外我々は、うっかりやっちゃうんじゃないかな。
 だからこそ、「自分自身と対話する」ことが、まず必要なんじゃないでしょうか。

 うすうす心の底では、「この方法ではうまくいかない」「あっちのやりかたのほうが自分には向いている」「本当にやりたいことはこの『夢』とは違うこと」だと、わかっているにもかかわらず、「努力を続けること」が至上命題になってしまうというのは——これは、本末転倒でしょう。

 子どものころの夢は成長するに従って、知識も増えるし視野も広がるし人脈というものもできてくるから、違う夢があらわれてくるのは意外なことではない。

 だからといって、では、小さいころの夢が「無意味」「間違い」だったかというと、そうではない。
 以前に持っていた夢に向かって努力したことが、次の夢を発見することにつながっているはずで、だとすれば、それはもう「成長のステップ」だということですよね。

 成長や、自分の変化を、恐れることはない。
 むしろそれは、喜びではないでしょうか。
 たとえそれが、他人の目には「挫折」に見えていたとしても、自分自身が、これでいい、と、腹の底から思えるなら、それでいいんです。
 他人のことなんかほっとけ、ってことですよ。他人は、結局、自分の人生の責任なんかとっちゃくれませんよ。好きなように言わせておけばいいんです。——ということを、私が悟ったのはごく最近ですが。(^^;)

 執着というのはなんにしても、よくないですよねえ。
 頑固というのは心を固くし、意固地にし、最後には、他人からの好意さえ、敵対するものとみなしてしまうことがあります。

 執着しない。自分自身と対話をする。

 努力も「あきらめない」ことも、手段や方便であって、手段を目的にすると、本来、自分がやりたかったことからどんどん遠ざかることになる。

 ゆえに、心は柔軟に、自分自身の本当の望みをいつも自分に問いかけながら歩いていくということが、大事なんじゃないでしょうか。

 自分がやりたいこと自分の望みを見つけるというのが、そもそも、それが難しいことだったりしますしね。(^^;)
 で、せっかく見つけたことも、他人から馬鹿にされた途端にいやになっちゃう、ということも、よくあることだし。

 でも、自分の人生なんですから、他人がなんと言おうと、本当にそれをしたいなら、すればいいんだと思いますよ。

 世の中には、そういう、自分がやりたいことと、他人から賞賛されることが一致している人がいますが、そうではない人——他人から馬鹿にされたり足蹴にされたり、ぼろぼろになりながら、それでも、自分がやりたいことをやり抜く、ということを背負っていかざるを得ない人もいる。

 そこで不公平とかなんとかいうのは、違うと思います。

 まあ、誰だって、自分の望みと他人からの賞賛とを、一致させたいと願うものでしょうが、——他人から足蹴にされながらも自分を貫くことを「勉強」するために、生まれてくる人だっているわけなんで。

 人それぞれだ、という結論になる。そう思いますね。

 人それぞれだと言うためには、とにかく、いちいち他人を自分の人生に入れないこと。
 他人を拒否しろということではなくて、自分のことは自分で判断しましょうねということですね。他人から認められたい一心で、やりたくもないことを、それが自分の「夢」なのだと自分に言い聞かせ、やりたくもない努力を、「努力さえすれば夢はかなう」と、信じようとしながらつづけていくというのは。

 3歩さがって、そんな人の姿を見たとき、あなたはどう思いますか。——そういうことだと思います。
(それもまたひとつの経験だ、という言い方もできますけどね;;)

 ゆうきまさみさんの「機動警察パトレイバー」で、後藤隊長が、ふと、
みんなで幸せになろうよ
 と、ちょい無気味な笑顔でいうシーンがあって、私、あれが大好きなんですけど。

 結論はそれになるような気がする。

 どんな夢でも努力でもやりかたでもいい。
 ただ、
 みんなで幸せになろうよ。
 それが人類最大の目的なんじゃないかなあ。(^^;)

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2012.08.23 (Thu)

家庭内ストックホルム症候群(2)

 本日は二十四節季の「処暑」でございます。
 暑さがおさまる頃、だというのですが。

 ………どこの世界の話だそりゃ。
 と言いたくもなりますわね;;
 熱中症には本当にくれぐれも気をつけて参りましょう。

 それでも、夜になると秋の虫の声が響き、日差しはもうなんとなく秋めいている、というあたり、ちょっとせつなくなってみたり。
 日暮れも早くなりました。1ヶ月後はもう秋分の日ですよ〜。

       ●

 家庭内ストックホルム症候群のお話、つづきます。

 親子関係におけるトラウマがある場合、その解消のためには、親子一緒にカウンセリングを受けることが、本来としては、望ましい。

 ということは知っていたのですが、うちの親の場合、自分に何らかの問題があるのでは、などと考えるような謙虚な人間ではなかったので、父が存命中から私はそのへんあきらめておりまして、親子関係のトラウマとはいえ、その傷を背負っているのはようは私自身なのだから、自分のことは自分でなんとかするしかあるまい、と思っておりました。

 父が亡くなったときに思ったことは、「これでいよいよ、自分一人で片づけるしかなくなったのだな」ということ。
 てことは、心のどこかでは、親子ともども、この問題——愛情の欠如——に取り組めたらいい、と願ってはいた、ということになるんで、どうも人間てのはせつないねえ。と思いました。(^^;)

 それは無理だと見切ったはずのことでも、心のどこかでは、本当の終わりが来るまでは、あきらめきれないでいるところがあるんですね。「情」として。

 ともあれ。
 そういうわけで、おかげさまで、自分一人でもなんとかなりそうなところに導いてくれた「家庭内ストックホルム症候群」の解説。
 私が読んだ本はなんだったか、というと下記のとおり。
「娘の結婚運は父親で決まる」。

娘の結婚運は父親で決まる娘の結婚運は父親で決まる
(2012/03/26)
岩月 謙司

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 私ももう年齢が年齢ですので、そのへんについてはあきらめていますが、それでも、「このトラウマは親、ことに父親との関係によるもの」である以上、解決には、どうしても「父親との関係」を見直さなければならない、ということはわかっていたわけなので。

 もういまさら結婚運についてはどうにもなりゃしないが、それでも、その原因くらいは、もうちょっとどうにかしておきたい、と思い、読んでみたというわけです。
 そしたら、なんだかちょっと奇抜なイメージのタイトルとは違い、中味はひじょーにお固い、DSSというもののお話でした。(^^;)

 ……これはつまり、なんだ……「家庭内ストックホルム症候群」なんてタイトルにしていたら、まあ大抵の人には振り向いてもらえないので、こういうタイトルにしちゃったのね……;;

 中味についてはそういうわけで、きっちり、学術的なお話ですが、それでも専門用語はほとんど登場せず、カウンセラー役の先生と、そのクライアントとの会話——対話形式で書かれているので、読みやすいです。

 じっさいのカウンセリング内容を対話形式で書き留めているので、内容も具体的です。
 これを論文調に説明されたらしんどいだろうなあと思いました;; この読みやすい形式だからついていける、というところは多々あります。

 著者は、岩月謙司さんで、DSSというのは、この先生独自の「新説」ということのようです。
「思い残し症候群」の先生、と聞いて、私も、あ! と思い出していたのでした。

 そう聞くと、あれ、と思い出す方もいらっしゃるかと思いますが、岩月氏は、その「思い残し症候群」のクライアントの女性から訴えられ、いちどは証拠不十分で不起訴になったものの、結局は逮捕、執行猶予付きの判決を受けています。

 予想はしてましたが、やはり2ちゃんあたりではアンチも多いんだそうで。(^^;)

 そのあたりについては私はなんとも判断しようがありません。

 ただ、氏「個人の行状」と、その「学説の有用性」は、べつものだと思います。
 そこらへんの「公私混同」は避けてもらいたい。

 ……どのみちカウンセリングというのは難しいものですしねえ…。最終的にはカウンセラーとの「相性」みたいな問題も生じてくるし、私はそのあたりについては、「科学的に」「依存」するつもりは、ハナっからないので、この問題についても、コメントは控えたいと思います。

 ただ、私としては、長い間の重い負担を、「家庭内ストックホルム症候群」という「説明」によって、解消することができたわけで、私が取り上げているのはその部分についての話だ、ということを、お断りしておきたいと思います。

 イワシの頭も信心からと申しますが、科学的にどうだこうだなんてことより、いちばん大事なのは人の心が救われるかどうかなんで。
 科学的にご立派でも、人を踏みつけているようではお話にならず、たとえそれがイワシの頭でも、人を長い間の苦痛から解放してくれるなら、私はその有効性を認める。
 それだけのことです。

 ただ、理論もカウンセリングも、いずれも「万能」ではない。誰かになんとかしてもらおうとすると、いずれにしても、やっぱり「道を誤る」と思います。

 自分の尻は自分で拭くしかないわけですよね、最終的には。

 自分のトラウマと向き合うとき、というのは、最終的には自分一人でなんとかするもんだという「覚悟」は要ると思いますね。
 こういう学説に触れるときも、だから、ちょっとこう、距離を忘れずにいることは大事だと思います。
 こういう学説は自分が「利用する」ものであって、自分が、その学説にぬかづいてはいけない。ということ。

 お酒は飲むものである。飲まれるものではない。——というのと似ている。かもしれない。(^^;)
 主客を取り違えるな、ということを言いたいのですようは;;

 カウンセリングではおうおうにして、カウンセラーとクライアントとの「転移」「逆転移」というものが問題になります。
 感情移入や依存は、避けなければならない、というのは、まず大前提として覚えておくべきものでしょうね。

 とはいえ、感情を認めることや信頼感をもつことも同時に必要になるんで。
 やっぱり難しいですかね。
 となると、やっぱり本を読んで自分であれこれ考えてみるというのは、「比較的」安全なやりかたかもしれません。

 他人との人間関係によって自分がなにかの傷を負ったとしても、その傷を治すのは自分自身。治癒力たかめて、免疫力つけていくことをまず考えることが必要なんで、誰かが魔法使いのようになんとかしてくれる、という期待は、しないことがまず第1かなと思います。
 それは、カウンセラーへの信頼とはまた別の話。

 信頼することと依存することはまるっきり異質なんですけれども、私どもはどうもこういう混同をしてしまいがちですね。
 ………自分にとって「楽な解釈」につい、流れてしまいがち、ってことかなあ。
 依存しているだけなのに、つよい信頼関係があるのだと思い込んだり。

 この、「自分の感情にだまされる」というのは、ほんと、厄介ですね。

 なにしろ自分で自分についている嘘というのは見破るのがひじょーに難しい。このへん、よくよく心しておかないといけないんでしょうね。

 なんにしても、こういう精神分析が必要ではない人からみれば、まあ馬鹿な話をしているとしか思えないでしょうが、世の中には、こういうものによって救われる人間がいるというのも「事実」です。
 冷やかし半分、他人を見下しながらの、無責任な誹謗中傷は、していただきたくないですね。
 自分には関係のない話だと思ったらそのまま通り過ぎるのが、分別であり、マナーであり、人としての節度というものだと思います。

 こういう精神分析が必要ではない人というのは、ようは幸せな人だということですからねえ。
 幸せな人は優越感を持って、それらしい「余裕のある」態度でいてくださるように、お願いしたいところです。
 
 
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2012.08.22 (Wed)

家庭内ストックホルム症候群(1)

 ストックホルム症候群(シンドローム)については、ご存知の方も多いと思います。
 1973年、スウェーデンのストックホルムで起きた、銀行強盗、立てこもり事件に由来する精神医学用語。

 この強盗、立てこもり事件のとき、人質たちはいちように犯人に「好意」を抱き、若い女性の人質に至っては、犯人に「愛の告白」までしちゃったというお話。

 ふつうなら、人質の命を盾に立てこもる犯人には、人質は強い恐怖と憎悪を感じるはずです。それなのに、犯人に好意を持ち、犯人に協力さえし(犯人の代わりに見張りを買って出て、犯人に休息を取らせたり)、あまつさえ愛の告白とは、びっくりですよね。

 あんまりびっくりしたもんだから、精神医学の先生がたは、これはいったいどういうことなのかと研究し、——そこで明らかになった人質たちの心理状態を「ストックホルム症候群」と命名。
 
 このときの人質たちの心理としましては。
 犯人に自分の命を握られている状況からは逃れ得ない以上、犯人からの好意を引き出したほうが、生き残る可能性が増大すると判断した、ということですね。
 殺される寸前の切迫した状況における、ぎりぎりの「生き残り戦略」でした。

 人間、自分に好意と尊敬の念を示す相手のことは、なかなか、正面から攻撃はしにくいものです。好意を表明してくる人を殺すというのは、心理的に抵抗がある。
 人質たちは、そのために、犯人に先ず好意を抱き、犯人からの好意を引き出すことで、生き残りを図ったわけですね。

 ただ、特徴的なのは、これ、「無意識に」やっていることだということ。

 意識して、「犯人に好かれて生き残ろう」なんて考えていると、犯人にもそんなもくろみは気づかれてしまいます。そう気づかれてしまっては、かえって犯人を怒らせてしまう。
 ゆえに、犯人に好意を持ってみせる、というのは、無意識のうちに行われなければならない。

 人質は、生き残るために、自分自身に「嘘をついて」、自分は犯人に好意を持っている、と思い込んだ。
 ですので、表層意識では彼らは本当に、「自分はこの犯人のことは好いている」と思っているわけです。

 なんとも複雑な心理状態ですが、まことにもってこの「無意識」というのは、遠大なことをやっちゃうもんでございますね。

 で。
 家庭内ストックホルム症候群——Domestic Stockholm syndrome ——DSSというのは。
 原理はストックホルム症候群と同じ。
 違うのは、——銀行強盗事件における「犯人」が親であり、「人質」が子供である、ということですね。

 子供のうちは、親に虐待されたり、親にネグレクト(無視)されたら、死ぬしかありません。まさしく生殺与奪の権を親に握られている。
 ある意味、死の淵ぎりぎりに追い込まれた、「極限状態」にあるわけです。

 親から愛されない子供というのは、額に銃口を押し当てられている人質と同じです。
 子供は、愛されていない=自分は死ぬ、という危機感をもち、生き残るために、立てこもり事件の人たちと同じく、愛してくれない親に対し、過剰に適応する。
「犯人」に服従し、過剰な好意を示すことで相手からの好意を引き出して生き残ろうとするんですね。

 それで生き残れたなら、それはそれでいいんだけれども、問題は、そういう心理状態のまま、大人になってしまったとき。

 結局、親は自分のことは愛していないし、自分もそういう親を憎んでいるというのが「実相」であるにもかかわらず、生き残るために、過剰に親のいうことに従い、自分は親を好きなのだと言い聞かせているうちに、こんな親は嫌い、という「本当の感情」が抑圧されてしまう。
 つまりは、自分で自分をだましているわけです。
 本当は嫌いなのに、生き残るために無理に、好きなんだと思い込んでいる。

 その好意は生き残り戦略のための「方便」に過ぎないので、本来なら、その危機的状況を脱したときには——犯人から解放されたときには——もう、そんなことは捨ててしまっていいことなのに、いつまでも、それが「事実」だと思い込んでしまう。

 自分で自分に嘘をついたまま——嫌いな人間のことを自分は好きなのだと思い込んだまま——大人になると、そのころにはもう、自分で自分の「本当の感情」がわからなくなっている。
 おまけに、自分で自分に嘘をついていることを、無意識は知っているので、「一時しのぎだったはずの嘘を延々とつづけて、嘘をつき続けている」自分に、表層意識ではなんとなく、自分自身を信頼できないという感覚をもち、自己不信におちいっている。

 自分で、こんな嘘つきは信用できない、と嫌っているわけですね。
 しかし表層意識は、なぜ、どこから、そういう「自分に対する嫌悪感」が発生しているのか自覚できない。
 自覚できないまま、自分で自分が嫌い、自分を好きじゃない、ということで苦しむ。

 そういったところから、さまざまな弊害が現れてくるわけですが。

 いやもう、——「あたし、これだ」と、そりゃもう、ショックだったわけですよ。

 私の自己不信、自己否定、——7歳のときにはすでに「罪悪感」が強く存在し(生きててごめんなさい、ですよまさに)、11歳では完全に自殺願望者になっていた、その理由が、私にはまったく思い当たらなかったわけです。

 とくに親に虐待されたとか、ひどいいじめにあったとか、「トラウマ」の原因と思われるものは、どれほど考えても「後天的」な部分では見つからない、ということがなおのこと、つらかった。

 とにかく私は自己否定が強くて、恐ろしいことには、自分で自分をどれほど否定し、あげくには「殺したがっているか」、そのことさえ、ごく最近まで自分で気づかなかった。

 「無意識」はかなり巧妙です。自分で自分のことを本当に「解剖」するのは容易ではない。
 自分がどれほど自分を嫌っているかを自覚したときもショックでしたが、以来数年、その原因を突き止めようとし、同時にその自己否定の解消を試みてきたけれども、もう、なにをやっても効果がない。

 生きている人間の精神活動はきわめて複雑で、なかなか「治す」ことは難しいという話も聞いていたので、もう、しょうがないのかなと、最近ではあきらめムードでした。

 が。
 この、家庭内ストックホルム症候群というものを知って、意外なところから、求めていた答えがやってきた、という感じ。

 いえべつに、うちの親に虐待されたとかってんじゃないんですよ。むしろそういうふうに「これがトラウマの原因」とはっきりわかることがあれば、話は逆にもっと簡単だったんです。
 これは、うちの親の名誉のために言っておかないとさすがに悪いと思うので、言い添えておきますが。

 ただ、私がこうして自己否定の強い人間であるように、私の親——父親もまた、その無意識レベルでは、「愛情に欠けた」人だったというのが、いまは、わかります。
 父もまた、その親——私から見ると祖父母——から、十分には愛されていなかった人でした。
 私が聞いている話をつなぎあわせて考えると、祖母も、祖父も、親——曾祖父母から、十分に愛されていたとは、やはり思えない。

 こうしてみると、代を重ねるごとに、その「愛情の欠如」による「傷」が、大きくなっているような気がします。

 うちの一族というのはまことにもって、お互いへの愛情などというものには欠けた一族です。

 私の、このブログをご覧いただければなんとなく想像がつくかと思いますが、私自身が、口を開けば愚痴、泣き言、そして他人への批判、非難、悪口という人間です。
 感謝の言葉など、ついぞ口をついて出ない。というか、世の中にありがとうという言葉が存在しているとさえ気がついてないだろう、というくらいです。
 そういう人間が育ってきた環境。——なんとなく、ご想像いただけるのではないかと。(^^;)

 祖父が亡くなったとき、祖父の遺体の枕上で、実の子供である、私から見ると叔父と叔母が、包丁を振り回して大げんかをしたというのですから(私はまだ子供だったし、子供たちはほかの場所へ『避難』させられていたので、現場は見ておりません)、もう、どれほどひどい「修羅の家」であることか。

 そういう家に生まれ育っているわけなので——きょうだいのなかでは「比較的」まともなほうだったうちの父も、それでも、親からの愛情は十分には得られないままだったという「傷」はもっていたし、私もまた、そういう親からは、まともに愛されていないという気持ちが、あったんだと思います——幼少の頃。

 自分でいうのもなんですが、また私が、よりにもよってなんでこんな家に生まれちゃったかなというくらいの神経過敏タイプで。
 私から見ると、ほかの親戚連中は、そうとう、神経が太いようにみえるんですよね。世の中、図々しいほうが勝ちだよなあと、もう、なんど思ってきたかわからない。

 私は、自分の身内が大キライ。
 しかし、これはまったく典型的なDSSで、そういう自分を責めて、「そんなことを思ったらいけない」「おじいちゃんや、おじさんたちを嫌いだなんて思う私は悪い子だ」という、そんな意識をもって、無理矢理、彼らに好意的であろうとしてきたわけですね。

 ………そのへんは、10年ちょっとまえの「事件」のときに大爆発して、「もうやってられっか!」となったわけなんで、ある意味すっきりしていますが。

 それでも、自己否定と自殺願望は残って消えない。
 それこそ「死ななきゃなおらない」ってヤツですか、——とあきらめ半分で思っていたところに、このDSSというものが示された。

 これだったんだ、と思いました。

 子供は、無理に親に好意を持つために、記憶の改竄(かいざん)や抑圧をする、とのことですが、まったくそのとおり。
 読んでいるうちに、こういうことだと思い込んでいたけどそうじゃない、とか、忘れていたはずの不快な記憶がよみがえってきて、正直、つらかったです。

 つらかったですが、——いままでどうしても消えなかった、「自己不信」の根っこに、手がかかった、という「手応え」がありました。
 
 私は、父に愛されていない子供だった。
 私は、父が嫌いだった。

 認めたくないとかなんとかいってもしょうがない。それが「事実」であり「現実」。

 そういうことだ——と、認めたときに、ふっと楽になりまして。

 なんと申しましょうか——そういう言葉にしてしまうと、なんだかうちの親がとんでもない虐待親に思われてしまうのでしょうが、人間の心理というのはそう単純なものではない。

 愛情があっても、それを十分に伝えることができないなら、「結果的には」、愛していないのと同じことになる。そういうことです。

 問題なのは、私が、父に愛されていないと認識していたことだ、という言い方のほうが正解かもしれません。

 ともあれ、少なくとも、それが私にとっての「実相」ですし、私が、そう感じている自分をだましてきた、ということが、とにかく、最大の問題であった、ということ。

 いまは、とにかく——なんともいえない、安らかな気持ちです。

 いままで、自分で自分を嫌いながら、なぜ嫌いなのかがどうしてもわからなかった。これは本当に苦しいです。
 さりながら、「好きでもないものを好きだといって、とんでもない嘘をついている自分が嫌い」だったんだ、とわかったら、胸の奥の、どうしても消えなかった黒いカタマリが、すっと消えていくのを感じました。

 いまは本当に安らかな気持ちです。生まれて初めてのことかもしれません、この感覚。
「自分の感覚」を取り戻した。そんな感じ。

 私の場合、得体の知れない自殺願望があって、なんでだろう、と考えて、「自分で自分を殺したいほど嫌っているからだ」ということを理解するだけで数十年かかった。
 で、じゃあ、なんでそんなに自分が嫌いなのよ、ということが、これまたなかなかわからなかったが、「愛されていない自分を認めたくない。愛されていないと認めるのが怖い。だから自分に嘘をつく」「こんな嘘つきは嫌いだ」——その嫌悪感が、自己嫌悪、自己不信、自己否定になっていた。

 ああ、そういうことなのか、と。
 やっと、自分の「根」にたどりついた。

 そんな気持ちでおります。

 
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2012.08.21 (Tue)

ピアスホール都市伝説

「家庭内ストックホルム症候群」について書きたいなあとは思いつつ、考えがあまりにもまとまらないので現在、脳味噌を調整中。(^^;)

 学説としての話だけならいいんですが、その周辺についても少しは触れないといかんのだろうなと思うとなんだか、重い気分になってしまいます。やれやれ。

 学術的なお話と、個人の行状のお話は区別したいんだけど、世間様にはそういう分別がない人が大勢いるということは、私も身にしみているので、こういう場所に書くときはやはりそれなりの配慮は必要だろうと思います。

 まったくねえ……まあお聞きになりまして奥様(誰)。

春名風花、Twitterで殺人予告も「いまのところだいじょぶです」
08/20 17:53
http://woman.infoseek.co.jp/news/entertainment/rbbtoday_93250

 私は基本、芸能関係の話題には疎いので、彼女のこともよくは存じませんが、——「また、私の、ガキと馬鹿とキチガイには発言の機会を与えてはならない、という主張の裏付けが増えちゃったなー…」と思いました。
(あ。ここでいうガキというのは精神年齢のことであり、実年齢のことではありません。10歳で、もののわかった人はいるし、80歳でもどうしようもないガキというのも、いるものです)

 犯人、捕まるといいですね…。もうそれしかないです;;

      ●

 ということで本日は気楽に、身の回りのお話ということで。

 ピアスの都市伝説。

 いえね、私も、「耳にはいろんなツボがあって、ヘタにピアスホールを開けると、目のツボを傷めてしまって視力が落ちる」とか、「ホールから白い糸のようなものがでてくることがあるが、それが視神経だ」とか、にわかには信じ難いお話を聞いていたわけです。

 で、病院でピアッシングをしてもらうときに「ここを避けなければならない、という位置ってありますか」と先生に聞いてみたんですが、
「いえ、どこでもいいですよ」
 とのことでした。

 それでもちょっと不審に思っていたのですが、このたび、そのへんのナゾが解けました。

 ネットのお店で、クリアワークスと、消毒ジェルを買ったんですが(そろそろセカンドピアスを用意していてもいいかと思って物色中)、そうしましたら、お店で、「ピアス・脱毛・美顔パーフェクトマニュアル」という、小冊子をつけてくださいました。





 形成外科のお医者様監修で、ピアッシング、その後のケアについてなど、詳細に説明がされてあって、ありがたいマニュアルです。

 で、そのなかに、Q&Aのページがありまして——ありましたよ、その、視力とか神経とかいう「都市伝説」についての質問が。

 結論を言ってしまうと、むしろ、ツボというのは刺激されると、よくなるわけでしょう、とのこと。
 じっさい、昔の船乗りたちがピアスをつけていたのは、遠くをよく見る必要があったからと言う説があるほどだそうで。
 つまり、ピアスホールを開けることで「目のツボ」が刺激され、むしろ視力がよくなるというわけですね。

 これはこれで、「さあそれはどうなのか」という感じですが、(^^;) ようは、ピアスホールを開けて視力が落ちるということはない、ということですね。

 あとは、ピアスホールから出てくる「白いヒモ」についてですが。
 これは、じっさいにこういうことで病院へ来る人がいるとのことで、写真が掲載されています。本当に白いヒモみたいなものが穴から出てますね。

 しかしこれは神経でもなんでもないそうです。
 ピアスホールというのはようは「傷」で、ファーストピアスをつけっぱなしにすることで、ホールの内側に皮膚を形成するわけですね。
 しかしこの皮膚は、きわめて薄いもので簡単に傷がついてしまう。調子の悪いホールに無理にピアスを押し込み、引き出すことによって、靴下を脱いだときのように、その薄い内側の皮膚がはがれ、丸まって出てきたものが、この「白いヒモ」状のものだそうです。

 当然、神経でもなんでもありません。(^^;)

 ただ、内側が傷ついているわけなので、痛みや不快感はある。そういうあたりから尾ひれがついたのではないかとのことでした。

 ああなんだそういうことか、と、私としても詳細がわかって安堵しました。

 いやまさかこんなところに「視神経」はないべ? と思って、そんなにマトモに聞いていたわけじゃないですけども、でも、いずれにせよ体に傷をつけている、ということは事実なので、ちょっと気になっていたんですよね。

 都市伝説の正体がわかって、ホッとしました。(^^;)

 私めのピアスホールですが、いまのところ問題ありません………たぶん。
 腫れもないし出血したこともないし、分泌物もない……と思うけど、やはり見れば見るほど私の耳たぶは厚めだなあ、ということで…内部がどうなっているかはわかりません。
 たまに触るとぴりっと痛いこともあるし、なんとも言えませんですね。とくに耳の後ろ側は鏡で見てもよくわからないし。(^^;)
 今週末で4週目。目安の6週でまた病院へ行ってきたいと思います。

 無事にセカンドピアスへ移行できますように…楽しみにしていますv

 
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2012.08.20 (Mon)

潜在意識

 昨日ちょこっと(錯乱しながら)書いておりましたDSS——家庭内ストックホルム症候群についてですが、もーちょっと頭を冷やしてからかいてみたいと思います。
 今はただ、人の意識というものの不可思議さに、あらためて、茫然としているような次第です。
 
      ●

 昨日の「平清盛」。
 源頼朝さんと、伊東氏の娘、八重姫とのお話で、その結末を知っている身としては、
「えー……、あれ、やるんですか…」
 と、最初からなんだかげんなりしてました。
 イヤな話ですからねえ;;

 生まれて間もない赤ん坊を、しかも身内のものが殺すというのはイヤな話です。しかし後年の頼朝さんもまた、同じように、自分の甥に当たる赤ん坊を殺しているのですから(静御前が生んだ、義経の子)、因果は巡る小車と申しましょうか。

 源氏はともかく平家のほうですが、まあ今回は、後白河院さまがきっちり悪役でいらしてくれて、にまにましながら見てました。
 いいですよねえv 
 じつのところ、これで院さまにもうちょっと、美学というか、ご自分なりの「大義」があると、また悪役の美というものが引き立ってくるのですが、こればっかりは。
 院さまの惜しいところは、なにかの大義があってのことではなくて、あくまで、「自分の楽しみのため」「自分の利益のため」というのが、行動原理になっているところですね。

 天皇家から見れば、平家であろうが藤原家であろうが、「臣下」であることにはかわりない。ましてや武士というのは臣下扱いするのもどうなのかというくらいの「地下(じげ)」ですので、そういうものに「我が」皇家がどうこうされるようなことは許さない、というような。
 そういった、天皇家としての守るべきものとか、大義という「柱」が、院さまの言動なり行動なりの基礎にあると、もうちょっとこう、スケール感がでてくると思いますが、——しかし歴史的にみても、後白河院にはそういう気配はないですし、このドラマに関しては、ああいうぶっとんだところが院さまの魅力でもあるので、そこまで私も贅沢は申しません。

 ただ、ああいう、無言のうちのせめぎ合いはなかなか好みですので——院さまのご容貌が麗しい、というところがまた、いい味わいなのでございます、腐女子としては(笑)——昨夜もそんなわけで「うふふふふふふ」と嬉しがってみておりました。
 わが心の「腐ィルター」は健在でございます。(^^;)

 コミケあたりでは——清盛×院さまとか、その逆とか、なかったかな、とちらっと思ったり。
 いやでもさすがに、皇室関係となると畏れ多いですかなあ……。日本人の潜在意識としては。

 なんせ、どんなに権力のある人でも、ひとたび「朝敵」と呼ばれるようになると、それまでの権力すら役に立たない、一気に「極悪人」「大罪人」になってしまうというのが、日本の歴史の特徴のひとつ。
 天皇には「権力」はない。しかし、他に類を見ないほどの、絶対的な「権威」がある。
 これは面白いところですね。

 あれほどいままでの度重なる無礼、愚行にも、怒りきらなかった日本人が(気が短い私が見ていてかえってイライラするほど)、ついに今回ばかりは某国にたいしてぶっちぎれたのも、天皇陛下に関わることだったからだし。
 ついつい、日本人にとっての天皇とは……ということを、考えてしまう一件ではあります。

 潜在意識に息づくものというのは、不思議でもあり、興味深いものでもあります。

 
 
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2012.08.19 (Sun)

軽いショック状態

 29日ごろからでしたっけ、パラリンピック。
 いまからちょっと準備運動的に気合いを入れているのですが、………考えてみると、たしか前回のパラリンピックは、NHKが、教育テレビ(あ。いまはEテレっていうのか…)でダイジェスト的に放送したくらいで、えらくがっかりした記憶がある……。

 ということで期待はネット中継なんですけど………オリンピックはネット中継するけどパラリンピックはないとか、そんなケチなことはいわないですよね? こういうときにこそ、ネットのメリットってもんが生かされるんですよね?
 ——と、なんとなくすがるような、祈るような思いだったりして。(^^;)

 頼みますよホントに;;
 いまや、オリンピックより、パラリンピックのほうが、「スポーツ」としては純粋なんだからさー。(それも以前よりはアヤシいことになっているのも事実なんで、パラリンピックのほうがスポーツの楽しさがあるよね、とは、いつまで言えるだろうか、とも、ついつい考えちゃうんですけどね;;)

       ●

 現在読書中の本に、ちょっとショックを受けておりまして……なんだかぼーっとして考えがまとまらないので、本日はおやすみいたします。m(_ _)m

 そのうち、読了したらまたご紹介したいと思っておりますが、……まあ、なんと申しましょうか、「現実」というのは、ホント、身もふたもないものですよねえ……。
 その身も蓋もない現実を見たくないために、あるいは逃れたいために、我々は日々、自分自身に嘘をつく。

 とはいえ、嘘はしょせん虚像なんで、どこかで追いつめられてしまう。
 そうなるまえに——やっぱりつらくても、「現実」は、きっちり向き合わないといかんのだなと思っております。

 何にそんなにショックを受けているのかというと——単語だけぽつんと申しますと、
 DSS。——家庭内ストックホルム症候群。

 検索するとけっこう説明が出てきますので、興味がおありでしたらちょこっとご覧になってみてください。

 なんにしても。

 いままでこういう情報にたどりつけなかった自分が不思議だ……。
 わりと好きな分野なので、あれこれ本を漁るうちにはすぐにでも気がつきそうなものだったのに。
 なんで今まで、まるっきり、ご縁がなかったのか。

 情報との出会いというのも「出会い」なんで、タイミングというものがある、とは思うんですが……。
 でも、もうちょっと早くに知りたかったという気がして、いま、くらくらしているところです。

 20年前にこれがわかっていれば、という気持ちがありますが、20年まえでは、自分ではちゃんと向き合えなかったかなあ。さてどうだろう。

 子供への虐待はもう何世代でもつづいていくと言われますが、そのメカニズムもよくわかります。
 虐待というのは身体的なものとは限りませんし——心のクセ、あるいはトラウマと呼ばれるものも、個人のそればかりではなく「家族トラウマ」というものもありますし、単に家族というばかりではなくて、「家系のトラウマ」というものも、じつのところは存在していると思います。

 それがなぜ、もう何世代でも営々と引き継がれてしまうのか……、読んでいるうちにそのあまりの「救いのなさ」に、くらくらして、ショックを受けている本日でございます。
 
 明日にはもーちょっと復活していると思いますので、本日は、やや錯乱したまま、失礼をいたします;;
 
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2012.08.18 (Sat)

昔話の聞き方

 日経新聞ではスポーツ欄で、キングカズこと、三浦知良さんのエッセイが掲載されます。(どのくらいのペースなのかがいまいち私には把握できておりませんが;; 隔週とか?)
 四十路も半ばに到達しながらなお現役であり続けるお方ですし、もう、現在の日本のサッカーの基礎そのものみたいな人なので、じつにそのエッセイも、面白く、含蓄があり、なるほどと唸らされます。

 昨日のエッセイがまたちょっと面白かった。

 今回のロンドンオリンピックでは、むやみに44年ぶりとか28年ぶりとかいう——いちばんすごいのは80何年ぶり、というのがあったような——のをよく聞きました。
 男子サッカーについては、「44年ぶりのベスト4」だったわけですが、カズさんは、

「(44年ぶりというのは)事実だけど、44年にことさら注目するのはどうなのかな。比べて語るのは無理があるよ」


 ……ですねえ。

 アテネオリンピックで日本の男子体操がメダルを取ったとき、「体操王国ニッポン復活」とか言われましたが、私はあれを聞いて、
「いや、復活じゃなくて。選手たちにしてみれば『初優勝』みたいな感覚だろ」
 と思ったもんでございます。

 あ。これ、いま開催中の高校野球でも思うなあ——○○高校、20ウン年ぶり×回目の出場です! ——選手たちが生まれるまえじゃないか。選手たちには「初出場」だろうよ。と、よくひとりごとしてます。

 ということで今回のカズさんのエッセイテーマは、「今昔、引き比べ得ず」。

 まあ、お若い方が「昔」を眺めて、昔はラクでよかっただろうな、いいよな〜、と思うのは無理もないところもあるんでしょう。スピードは遅いし技術はアレだし、いまの俺があそこにいたらスーパープレイヤーだぜ、と、思ってしまうところもあるんでしょうね。
 ゆえに、「昔の人」のお話を聞いても、何も学ぶ気にもならず、「そんなもん」といって馬鹿にする、というのが、本音ではありましょうね。

 カズさん、このへんについてこうおっしゃる。

「ロマーリオが「ペレの時代なら、俺は2,000点取れた」と豪語したことがある。昔は今ほど守備が厳しくなかったから。するとメディアは「ペレが今の時代にいたら、3,000点は入れられるよ」。
 現代のトレーニングや体調管理の知見・技術があれば、キング・ペレはもっとすごかったと。」


 思わず手を打って大笑いしてしまいました。
 まったくそのとおりでしょうね。そういうことを恥ずかしげもなく言っちゃうロマーリオもアレだが、さすがにアチラのメディアも、負けてはいないなあ(笑)

 私から見ると現在のサッカー選手というのは、女子をのぞいてまことに恵まれた環境が整えられています。昔のことを思うとひじょーに「贅沢」だなあ、と感じることはありますね。

 人間というものの不遜なところでしょう。つい、自分がいまどれほどに恵まれているのかということ——自分がいま持っているものには目をくれず、「持っていないもの」——昔は楽でいいよな、というのも、いま自分にないものに注目している態度です——にばかり気を取られてしまう。

 時間は逆には流れない。(量子の世界の虚時間のことは忘れましょうね;;)
 昔と今を比べることは、自分と他人を比べることと同じくらい、無意味なことでしょうね。

 いまの我々から見て過去が楽そうに見えたとしても、それでも、その当時を現在としていた人々には、それは「高い、越え難い壁」だったのだし、本来、後世の人間が「歴史」を見たときに注目すべきなのは、「人々は、その越え難い壁とどう格闘したか」ということ。それしかないんですよね。

 他人からみて低い壁でも、その人本人にはものすごい障害になることはある。
 ——じつは私、いま、ちょっと左肩を痛めているのですが、あなた怪我のひとつでもしてごらんなさい。体の自由が利かなくなると、他の人にならなんの障害にもならないことが、えらい苦労して乗り越えなければならない事態になるわけですよ。
 
 ハタからみて、楽でいいよな、などと、無責任なことをいうもんではありません。
 別の人があなたをみたとき、「なんでそんなこともできないの」と笑っているとしたらどう思います。

 昔には昔の苦労がありましたさ。単純に、昔は楽でよかったなんて言えるもんじゃないですよ。
 これは「時間」の違いの話ですけれども、これも結局、「他人のことをとやかく言ってないで自分のことに集中しろよ」という話になるんですね。いま気がついて自分で感心した(笑)

 昔話を聞くときは、「昔は楽でいいよな」ではなく、いまの若い人がみると低いものでも、それは当時の人には高い壁であったことを思い、フォーカスすべきは「その壁を、人々はいかに乗り越えたか」だということを、理解してもらいたいと思います。
 昔の人を敬えという話じゃない。——「自分にとって大事な参考資料になる」から、そういう意識で聞いたほうが、「自分のため」になるよというお話。

 すべての人に壁は存在する。壁と格闘し続けるのが人生で、どういうものがその人にとっての壁となるかはじつに千差万別。
 他人がとやかく言うようなことじゃない。楽でいいよな。なんてね。

 見るべきものはどんな壁かではなく、その人がその壁といかに向き合っているか、ということだけです。本質というのは、そういうことだと思います。

 隣りの芝生は青く見える、というのは、考えてみたら不思議な心理ですよねえ。そんなふうに見えたところで自分にはなんの「得」もないのに。
 ——あれかな、一種の現実逃避の心理なのかな。(^^;)

 
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