無知を知る

 あいかわらず、為末大さんのツイートを遡って「読書」中。時間がとれないので少しずつですが。
 
 それにしてもホントに、短い言葉ですぱっと本質をつくところがすごいなあと思います。
 また、為末さんのツイートの、内容を理解していない人からの質問がまた面白い。
「へえ。そういう解釈になっちゃうの?」
 と、……言葉ってのは通じない人には通じないもんだよなということも、ついつい考えてしまいます。
 とはいえ、こういう質問をしてくる(質問ならまだ可愛いほうで、なぜか説教じみているのもある。世の中にはいい度胸の人がいるもんだ/笑 釈迦に説法ですな)人が「ダメ」だというわけではなく、それはその人のものの見方であり考え方だということで、そのこと自体を非難するわけではないです。

 ただ、意見が異なるのはいいんだけれども、相手が何を言わんとしているかは、1回、ちゃんと呑み込めるといいねえ、というお話。
 相手の言わんとするところを読み取らないまま、勝手に怒っているのを見ると、
「賛成、反対はべつにして、相手の主旨を聞いたらどうでしょうか」
 と思っちゃうのはたしかだなあ……。

 なんだか自己流の解釈をして勝手に怒っているのをみると、「いや、これはそういう意味じゃないでしょ。なんで意味を違ったふうにとらえてるの?」と思ってしまいます。
 これが——読解力ってやつなんでしょうか;;

 たとえば、自己愛という言葉の意味の解釈がぜんぜん違うあたりを見ていて、
「わからないならわからないと認めればいいものを、わからないというひっかかりを無視して、なんで強引に自分の解釈のみでしゃべっちゃうのかなあ」
 と思いました。
 わからないものって絶対ありますよね誰にでも。——自分にはこれはわからないなと思ったら、いちど、立ち止まってみればいいんじゃないかなあ。
 立ち止まって、え、それってどういう意味? と考えているべきところ、「こういう意味だろう」と自己流解釈で強行突破するんですね。
 よく分からないものに遭遇したら、ひとまずとまってみましょうよ。(^^;)

 たちどまって観察しても考えても、また、質問をして答えてもらっても、なお、わからない、ということはあります。
 そういう場合は、ひとまず脇によけちゃっていいと思いますよ。

 なぜかというと、やはり人間、わからないことというのは気になるものだし、気になることというのは、本人が意識していない間でも、ちゃんと潜在意識には残っていて、潜在意識ではあれこれ模索はつづけられるんですよね。
 ほんで、かなり長い時間の果てに「あ。あれはそういうことか!」とわかったりする。

 もちろん一生わからないこともあるでしょうけど——ま、それはそれでいいんじゃないでしょうか。
 わからないものを無理にわかろうとして、あるいはわかった振りをしようとすると、結局は、曲解、誤解ということになる。これはちょっともったいない。

 わからないものをわからないままに認められない人というのはけっこういらっしゃるようで。
 わかりませんといって質問するならわかるんだけれども——質問して、答えてもらっても、やっぱりわからないこともあるけど——、わからない、ということを認めないで、いきなり自分の解釈だけで話を押し進めようとする態度というのも、ある種のディスコミュニケーション——「伝達の拒否」の態度なんだろうと思いました。

 これは私が友人との会話などでも、ああそれは私には理解できない、と思ったら、「わからん」といい、「そうか」といって、そのまま流すということが、なんどかあったからそう思うわけですけども。
 人間同士、なにもかもわかりあえるなんてことはあり得ないわけなんで、それは親しい友人でも同じ。
 まして、見も知らぬ人が相手では。

 相手の言うことはよくわからないけれども、その相手にとってはなにか意味のあること、考えていること、価値観(の反映)なんだな、というところは、それでも了解できるわけですよね。
 私にはわからないけど、この人はそう思うのね、というところで、呑み込んでおけばいいんじゃないだろうか。
 それが、リスペクト、相手に対する敬意を払うという態度なんじゃないだろうか。

 賛成反対はまあしょうがない。しかし、「わからない」ものを無理にわかる必要も、わかった振りをする必要もない。
 相手が大事なことだと言い、自分にはそもそも、それが大事かどうかさえ判断できない(わからないから、賛成反対ともいいかねる)なら、ペンディング、保留、ってことでいいんじゃないでしょうかね。
 必要なことならそのうち、そうか! といってわかるときがくる。
 そういうもんだと思います。

 ミリンダ王の問いというお経の意味するところがわかるまで10年かかり、高校生のときに「自分のバカが分かれば馬鹿じゃない」という言葉をもらって、なるほどそうかとうなずくのに約20年かかり、——なによりも、なんでこんなに自分は苦しいのだろうということが、おぼろげにでもわかるのに、ざっと40年かかった、という人間なもんですから——私としては、
「分からないものの前で立ち止まるのは恥ではない」
 と思っております。

 曲解誤解したまま過ごすより「わからない」と思って考え続け、ある日、あ、そうか! と言えるほうが、結局は自分の身になると思う。

 現代人てのはやはり、そのへん気が短いんですかね? なにか問題に当たったら即座に理解、解決、もしくは反応しないといけないと、無意識にでも思い込んでいるのかな。
 自分で理解するのは自力でやるしかないんで、いくらすぐれた検索エンジンがあってもダメですよそりゃ。
 情報は外から来るかもしれないが、「わかる」感覚は自分の中で見つけるしかないんで。

 ひとまず、世の中には「わからない」ことをそもそも認められない人ってのが、いるもんなんだなあ、というのが、ちょっとした発見でした。

 無知の知、ってことを言っていたのは、ソクラテスでしたっけ。

 
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愚かとは

 全仏テニス、開幕しておりますが。
 昨夜の、男子シングルス、ナダル対ボレッリ………私はもう寝てしまうので録画設定しておいたのですが。(風邪を引いてしまって夜更かしできません;;)
 今朝見たら、最後まで録画されてませんでした。

 録画が途中で切れたんじゃなくて放送自体がされず、別コートでの、マレー対伊藤竜馬戦に切り替えていたんですね。
 …………あのう。
 苦情、いってもいいですかね、WOWOWに。
 
 ナダル×ボレッリ戦はもうこのセットをとればナダルの勝ちだろうというのはそりゃたしかに見えていますけどね。でも、最後まで放送されないってどうなの。
 ………私、この4大大会のためだけに、毎月2,450円払い続けてんですよ。はっきりいうけどドラマも映画も見ないの! なのに毎月払ってんの! このテニスのためだけなのよ純粋に!

 ………伊藤選手の試合を放送したいのはわかる。わかるけれども、放送を切り替えたってどーせしばらくはウォーミングアップで試合なんか始まらないわけで、その間くらい、ちゃんと、可能な限り、ナダル選手の試合を見せてくれていてもいいんじゃないだろうか!

 今朝は朝も早くから脳味噌に血が上ってしまいました。(^^;)

     ●

 エジプトの大統領選挙が予想どおりのことになってきたなーと思ったお話。

エジプト大統領選 事務所放火
5月29日 9時29分 NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120529/k10015442571000.html

 なにが「アラブの春」ですか。これは「民主体制への移行期」なんぞではなく、「次の独裁政権誕生までの過渡期」に過ぎない。——とは、私も思ってきたことですが。
 なんだかマジでそうなりそうですね。(--;)

 なんのための選挙だかわかりゃしませんわ。だから一神教、なかんずくイスラムには「民主主義」なんて無理だって言ってんのよ——と、独り言しながら聞いたニュースでした。

 ヨーロッパなんかは一神教だけど民主体制でしょ、といわれるでしょうが、私の見るところ、あれはギリシア、ローマ(共和制)の「遺産」ですね。
 一神教というのは男性原理、父性原理なので、——つまりは「実力」による、強烈な「トップダウン」の価値観、そのシステムなので、基本的には「おしなべて平等」にして、多種多様な価値観を認めましょう、というような、多神教的価値観とは、まったくもって相容れないものです。
 いいか悪いかじゃなくて、「性質」が違うということ。
 いわゆる、水と油、てんですか。

 ………男性原理、父性原理といったあとで、対比として多神教価値を、女性原理、母性原理と言い切れないところにいま、自分でちょっとひっかかりを感じておりますが。うーむ。
 でもまあ、古代における母系社会のあり方を考えると、当たり前ですが母系社会では、「実力(ぶっちゃけて言えば暴力)」による支配、というのはあり得ませんからねえ。

 今朝の日経新聞のコラムにもありましたが、じっさい、インターネットというツールを使って、そのアラブの春とやらが実現しましたが(その是非はこのさい問わない)、なるほど旧体制を壊し、旧体制の代表者を殺すという「功績」はあったものの、それに替わる新しい価値観、体制あるいは(優れた)指導者を生み出すには至っていない。

 革命論者の悪いところですよ。このへんはまったく万国共通ですね。——壊すことには夢中になるが、ものを構築する、生産するということにはなんの興味もないんですよね。

 壊すだけなら5歳の子供にもできる。
 問題は、どんなによいものを「作り出すか」ということなんですが、これは、80歳の老人になっても、身につく「知恵」ではない。

 当たり前ですがものを壊すだけでは社会そのものが壊れてしまう。そのことによって、破壊以前よりもよいものを構築するどころか、破壊以前よりもさらに悪いことになっていくんですよね。この手の革命を気取る人々に任せると。

 日本でも今、ここまで極端じゃないにしても、結果的には同じ現象が起こっているので、まったくひとごとではありません。
 ——ものを壊すだけなら馬鹿でもできんの。というか、馬鹿には壊すしかできないの。

 そのことも自覚せず、破壊者たちのアジテーションにのせられるままになっている「民衆」というもの。
 どうにかならないもんなのか。

 自分で自分の馬鹿がわかれば馬鹿ではない——という言葉の意味が、だんだん、はっきりしてきた気がするこのごろです。

 
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堪忍袋の緒が切れた

 皆様ご存知のとおり、日本の隣りには、精神か、脳味噌を病んでいる国があるわけでして、「馬鹿は相手にしない」というのがいちばんだと私は思って参りました。
 が。
 さすがにこれはもう堪忍袋の緒が切れたということで。

 韓国が国際的にご迷惑をおかけしまくっているうちの一件ですが、いわゆる従軍慰安婦の碑を、なんでかしらんがアメリカの地に建てるというのは、いくらキチガイのやることでも、限度を超えています。
 この連中、なんでいちいちよそさまに迷惑をかけるんですかねえ。アメリカではこういうことをしたり、オーストラリアの空港に「竹島は韓国のもの」という広告を出したり。
 ……関係ないでしょ、そちらさまには。

 さらに悪いことには、こういう問題に対してはあまりにも日本の政治家というのは戦略がなさ過ぎる。問題がここまでこじれ、韓国なり中国なりを増長させてきたのは、日本の対応のまずさがあるというのも事実。
 
 とはいえ。
 こんなアホーな話にいちいち外国を巻き込むというのには、いい加減、私も頭にきまして。

 こういう政治に関わるようなことをお知らせするのもどうかとは思ったんですが、まあ良識ある日本人ならさすがにこれには腹に据えかねるものを感じているのではということで、ご紹介を。

 すでにご存知の方もいらっしゃると思いますが、ホワイトハウス(もちろんアメリカ大統領府)のウェブサイトにて、このドがつくアホウな「記念碑」の撤去を求める署名を募っております。
 お気持ちのある方、ご賛同くださる方はどうぞご署名ください。

・ホワイトハウス署名サイト→http://wh.gov/yrR

 署名方法の詳細につきましては、こちらのPDF↓をご覧下さい。
 
http://www.nipponkaigi.org/wp-content/uploads/2012/05/whi-H-Syo01.pdf

 ……なんか、こういうのをご紹介するともう、ドン引きされることもあるんだろうなーとは、思いますが。(^^;)
 が、さすがに、今回のことばかりはねえ……。
 署名を募る主旨そのものには賛同できますし。

 なんですかこの署名についてはさっそく韓国メディアが悪口を言っているらしいですが、そもそもこういう「みっともないこと」を始めたのは自分たちじゃないか、って話ですよ。
 ホワイトハウスに大量のメールを送りつけて(あれは日本海呼称の話でしたか)、一時、韓国からのアクセスを拒否されていたじゃないの。

 こういうあたり、どのみち、本来なら、マトモに相手にすべき人々ではないということの証明になっているのですが、……日本と喧嘩をしているだけならべつにかまわないものを、よそさまにご迷惑をかけるというのに至ってはもう、さすがに黙っているわけにもいかんでしょう。ということで。

 アメリカにせよオランダにせよ、こういうセンシティブな問題には「第三者」は、とにかくやたらに口を挟むべきではないとも、私は思います。そもそもの原則として。
 口を挟むなら、よおぉっっっく!! 勉強してからにしてほしいが、当たり前ですけど、そんな「他人の、どーでもいい話」を、真面目に勉強する人はそうはいない。

 いずれにせよこれはアメリカなどは第三者の立場なんで、どのみち、こんな話題には、支持も反対もすべきではないこと。
 ——それくらいは日本として主張していいと思いますね。まったく。

 なんだかホントに、イヤな話になってしまって申し訳ありません。

 しかしまあ——「あることないこと」言われるくらいならまだしも「ないことないこと」を好き放題いわれて、言われっぱなしになるというのも、これはさすがに、舐められても仕方のない態度だと思いますので。
 売られた喧嘩は7がけで買う。ってことでどうでしょう。(なにが;;)

 それにしても、ひとに喧嘩を売っておいて、そうかいそんなに喧嘩がしたいのかい、といって喧嘩を「買ってあげた」ら、恥知らずだのなんだのと、ぎゃあぎゃあ騒ぎ出すというのはさすがに理解を超えています(その言葉、そっくりそのままお返ししますわ)。……理解を超えているのはもともとだけど;;

 私としても、人様に向かって声高に主張するのはやだなーという、典型的な日本人なんで、「お気持ちがある方にはお知らせしておこう」ということですので、そのへん、ご理解をいただけましたら幸いです。

 それにしても——そりゃ国際的にみると、だいたいどの国も隣国とは仲が悪いものなんですが、しかし、これほど悪質な嘘をつく国に取り囲まれている国って、日本以外にはなかなかないんじゃないだろうか。

 2002年のサッカー日韓「分催」W杯のとき、イタリアのサッカーファンに、「日本はあんな国が隣りだなんて大変だね」としみじみ同情されましたが(あのときは、日本の、アズーリファンも泣きました;;)、そういう認識を、もっと国際的に持ってもらえたらありがたいなあと思います。

《署名主旨》

WE PETITION THE OBAMA ADMINISTRATION TO:
Remove the monument and not to support any international harassment related to this issue against the people of Japan.

False accusations regarding the South Korean comfort women issue have disgraced the people of Japan for decades. Over the past few years it has come to light that many of the original charges were false or completely fabricated.

Yet despite this new information, the United States continues to lend credence to the original false charges by memorializing the comfort women in a monument in New Jersey and a street name in New York. Not only is this perpetrating historical untruths, but it also leads unnecessary racial conflict and suffering of people of Japanese ancestry.

We strongly request President Obama to remove the monument and not to support any international harassment related to this issue against the people of Japan.

【訳】
碑を撤去し、この問題(いわゆる従軍慰安婦問題)に関する日本の人々へのいかなる国際的嫌がらせも支持しないこと

韓国の従軍慰安婦問題に関する誤った非難は、数十年にわたって日本人をはずかしめてきた。過去数年の間に、元々の非難の多くは誤りであるか完全なねつ造であることが明らかになった。
しかし、この新情報にもかかわらず、合衆国は、ニュージャージー州の碑やニューヨーク州の通りの名前を以て従軍慰安婦を記念することで、元々の誤った非難に信用を与え続けている。これは、歴史的な不実を侵すのみならず、無用の人種間摩擦を起こし日系の人々を傷つけるものである。

我々はオバマ大統領に対し、碑を撤去するとともに、この問題に関する日本人に対してのいかなる国際的な嫌がらせも支持しないことを強く求める。


 
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スマホで坐禅

 髪の寝癖ってどうしてつくんでしょうかねー。
 おまけに、いちどついた寝癖って結局、次に髪を洗うまで直らないんですよね! なんでだろう。
 髪が長い部分だと、髪の重さでそのうち下に引っ張られて直ってくることもありますが、前髪は短いので、いちどハネた髪はどーしても直りません。
 水で濡らそうが整髪料をつけようがもうどにもならない。

 なんでつくんだ寝癖。そして、なんで直らないんだ寝癖。
 よろず「クセ」というのはこういうものなんでしょうか。
 人間の「心のクセ」も寝癖みたいなもんですかね。

        ●

 先週、NHKの朝のニュースで取り上げていたので、ご存知の方も多いと思いますが、「バーチャルお寺さん」の「虚空山彼岸寺」様。

虚空山彼岸寺
http://www.higan.net/

 こちらを拝見していると、大宅壮一さん(故人)が見たらなんて言うかなあ、とちょっとニヤニヤしてしまいます。………けっこうなことだと思います。はい。
 仏教というのはその始まりは、ほんと、パンクロックで一歩間違うとたいへん危険なまでにリベラルで、しかし、現在の政治的なリベラル派とは決定的に違うのは、もう情け容赦なく「現実的」だったこと。
(余計なことですがなんで現在のリベラルって、ああも妄想主義なんですかね。しかも基本、被害妄想)

 またお釈迦様は上流階級の言葉(サンスクリット語)ではなく、庶民の言葉「パーリ語」で説法をなさったのをみればわかるとおりで、仏教は本来はまったくもって、広く庶民のために、庶民のなかで生きていたものなんで。
 そもそも寺院というものがなかったわけだし——基本は遊行(ゆぎょう)——、葬式はしなかったし、戒名ないし、お布施(の額、もしくは物品)は自由だし……そう考えると、なにもかもが違ってしまった、という思いもしますね。

 日本のお寺さんが、まとめて葬式仏教と罵倒されてから40年超。
 大宅壮一の名前も知らないような(……リアルタイムでは私も知らないです;;)若い方が、こういう活動をなさるというのは、私にはとても頼もしく思えます。
 宗教についてはあれこれ思うこともありますが——宗教に限らず、なにごとも偏ることなく、さりながらオープンマインドでいけたらいいと思います。
 
 ともあれこちらで製作された、スマホ用アプリ、——坐禅アプリ「雲堂」。
 iPhone版のほか、Android版もリリースされたそうです。

 坐禅に入るときのインストラクションを聞きながら入るもよし、手順を覚えたらインストラクションなしで始めるもよし。坐禅の時間は5分〜60分の範囲内で選べます。
 私も瞑想(らしきもの)をすることがありますが、これ、音声聞きながらやると、すーっと入っていけていいですね。鐘の音がいい感じ。これでお香を焚きながらやると、お寺さんで坐禅している感じに近づけますね。
 気が散ったり眠ったりするとばしんとくる警策(きょうさく)はありませんが——バーチャルのそれはあるんですがさすがに痛みはないわけで——、でもまあ、雰囲気はあります。

 なにより自分一人で黙って呼吸法から入るより、インストラクションの声を聞きながら始めると、スムーズに「入れる」ところがありがたい。なんせふだんは雑念が多くて。(^^;) じっさいに座ってから「入る」まで、けっこう時間がかかったりするんですが、インストラクションつきだと、すーっと入れます。

 スマホにはいろんなアプリがありますが、これはいいんじゃないかなと思ってます。(^-^)

 
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本日おやすみ


 本日はまたちょっとお出かけにつきおやすみいたします。

 先日、「新テニスの王子様」(アニメ)を「科学的に検証」する動画をご紹介しましたが、同じ方による別作品——「偽物語」を科学的に検証していたものがありました。
 これは私もたまたま見られたんですよね、「かれんビー其之漆」。
 呆気にとられてぼーぜんと見ていたので、なかなか印象に強く残っていたのですが、それを科学的に検証、というのはけっこうすごいです。(^^;)





【ニコニコ動画】【かれんビー其之漆】火憐ちゃんの戦闘力を検証してみた【偽物語】

 途中までは、
「あー。テニヌに比べたらまだインパクト弱いなー。すごいなテニヌ」
 とか余裕で言っていたんですが、検証その3ではさすがに——これはさすがに、「テニヌ」も超えたかなあ。
 というか、よーするにアララギさんたちなら立派なテニヌプレーヤーになれる! ということですね。(^-^)
 ………やっぱり人外魔境だったかテニヌ;;

 私のほうはあいかわらず、ニコ動とかでの配信ではなく、テレビ放映を録画しては見ております。……新テニプリはしかし、けっこうテニミュことミュージカル版の宣伝になっている気がしますね。(^^;) あのEDのせいでしょうか;;

 私はなぜかミュージカルが苦手なので、見たこともないしぶっちゃけ興味もありません。
 テニスがどうとかではなく、ミュージカル、という形式自体が苦手なのです。なんででしょうね;; お芝居、お能は見るのにねえ。(お能は、本邦の古典ミュージカルなのに)

 なぜかミュージカルって見ていると恥ずかしくなるんです。自分でも意味不明です。なんで見ていて恥ずかしくなるのか;; でもなんか、すごくいたたまれない感じがするんですよね……。うーむ。「唄ってないで救急車よべば」とか「瀕死のはずなのになんでその声量」とかくだらないこと考えてしまいますし;;

 好み、というのは、なかなか不思議なもんです。自分でも自分に対して「なんで?」と思っちゃうものなんですよねえ。(^^;)
 
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お金について

 お金の話はやはり難しい。
 傍目には充分収入があるように見えたとしても、その人がどういう支出を抱えているかの事情を聞かないと、足りているとかいないとか、言えたものではありませんし。
 ——どのみち、ひとさまン家の収支を聞いて、その支出は無駄だのなんだの、勝手なことをいうのは「まともじゃない」と思いますね私は。
 ………大きなお世話だよハッキリ言って。

 たとえば、本来なら食うに困らない収入があるとみられる場合でも、その人が、親戚中に経済的な援助をしているなんて場合、はっきりいって本人はカツカツの生活にならざるを得ない、そういうことだってあるんですよ。
 ………うちの親父の話ですけどね、これは。
(そうやって面倒をみた親戚に、結局、後足で砂をかけられるような真似をされたのがウチの父。ひいては我々家族です)
(そういう姿を小学生のころから見ていた私が、人間不信を募らせるのは仕方のないことかと思います自分では。(^^;))

 さる芸能人の方、その母上が生活保護を受けていたという件についてですが。
 NHKまでがニュースにしちゃったから、私としては「えー…」だったです。(^^;)
 話を聞けば別に「不正受給」というほどのことでもない。理想の家族像ではないところもあるかもしれないにせよ、なんでこんな大騒ぎになってんのさ。

 ていうか、ひとさまン家のフトコロ事情を、よくもまあ調べて来たもんだね。他人の家のトイレに隠れて他人の尻の穴を調べてきたようなもんでしょこれ。(夏目漱石の『三四郎』に出てくる比喩です;;)

 私としてはこんなことをいちいち調べてきた、そのハイエナみたいな人間の存在のほうが気になるのですが、皆さんそこはスルーですか。それとも、よく調べて来たといって、こういうひとを褒めるのですか。

 どちらに転んでも感心できない話——だと思っています。

 現在、生活保護受給者も、悪いことにはその不正受給も増えているということですから、べつに不正受給ではない今回の件も、生活保護というものを考え直す機会ととらえられたのかもしれませんが。(←精一杯の好意的解釈)
 ………私としてはこの話を聞いたときに真っ先に思ったことは、
「『三四郎』でいう《探偵》の下劣さは誰も気にしないのか」
 でした。ようするに、頼まれもしないのに他人の尻を調べてくるような人間のことですね。
 
 なんにしてもそういうわけで、私もお金に関わる苦労や、それに関する人間のだらしなさというのを、イヤというほど直接に見聞きして育っているので、なんかもう、さばけてしまっているところもあるんですけどね。

 今回の芸能人さんについては、スケープゴートにされたな、というのが率直な感想で、気の毒に思う気持ちのほうが強いです。

 親の面倒をどうみるか、自分の収入をどう判断するかという問題はあるでしょうが、それは私が差し出口をたたくようなことではないので控えたいと思います。

 まあ、お金の話をしているとその人の人間性、あるいは価値観、その「優先順位」がよく見えてくるのですが——こういう話をしても品位を保っていられる人というのはあまりいらっしゃいません。
 根が下品な私は、そういうわけですから、黙っているのが一番なんですよね本当は。(^^;)

 世の中にいる4種類の人間——「金持ちの金持ち」「金持ちの貧乏人」「貧乏人の金持ち」「貧乏人の貧乏人」のうち、おおむね、「金持ちの金持ち」「貧乏人の金持ち」というのは、あまり多くないようです。

 この分類は、たとえば、金持ちの金持ちとは「経済的にお金持ちで、精神的にも豊かな人」です。
 昔の歌では「襤褸(ぼろ)は着てても心は錦」という歌詞もありました、そういう「気概」を持つのにはまったくなんのコストもかかりませんから、せめて精神的な豊かさくらいは持っていたいというのが私の考えるところ。

 しかし、そうやって、他人の尻を調べるなんて下品な行為をする人間については問わず、べつだん不正を働いたわけでもない人を吊るし上げるこの社会の風潮は、「貧乏人の貧乏人」に堕しているとしか思えません。

 かく申す私の夢は、「年金を受け取らずに生涯を全うすること」です。
 これをいうと、「年金(掛け金)、払ってるよね!?」とびっくりされるんですが——払ってますよお、厚生年金。明細見るとめまいがしますよ実際。

 それでも、私としては死ぬまで現役で働いて、自分で稼いでいられたらいいなと思っております。それが実現できるあてがあるわけではないですが、(^^ゞ まあ、夢ですから。そうできたらいいな、ということ。

 これはもしかしたら、「他人の世話になる」ことを受け入れ難いと感じる私の「欠点」なのかもしれませんが、それでも、最後まで、経済的に自立できたらいいなという気持ちが強いです。損か得かの問題じゃない。自尊心の問題。

 今回の、芸能人さんの母上も、「子供たちには迷惑をかけたくない」という、「自立」のお気持ちだったのだろうかと私は拝察しました(事実かどうかはもちろん不明ですが、そういう解釈もあるということ)。それが自立なのかと言う方もおいででしょうが、いちど家計を分けてしまうと、たとえ血のつながった親子であろうと、「お金の話では他人」になるのです。これは、そこらへんで失敗している例を目の前で見て育った私が断言します。

 うちの場合はそこで、身内だからつって甘えまくった結果、崩壊していったわけですから、この母上のように、自分のことは自分で始末をつけようとする気持ち自体は、人としては大事なことだと感じております。
 ——それが社会的に妥当かどうかはまた別でしょうが、身内に甘えて自滅するアホよりは、はるかに、私としては支持できるということです。

 お金は汚いとかいうひともいますが私はそうは思いません。
 お金は人が生きる糧のひとつですから。お金は必要ですし大事なものです。

 しかし、その大事であるはずのものを、すごく蔑ろにしているんですよね、不正を働く人も、逆に、あまりにも強い自衛の気持ちから吝嗇(りんしょく。ケチ)に陥る人も。

 浪費も吝嗇も、本質では同じもの。——お金は使うためのものなのに、そのお金に自分が支配されてしまっているわけですから。

 とまあそんなこんなで、いろんなことを考えた一件ではありました。

 
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ふくらはぎは第2の心臓

 漢方では「気血水」のめぐりの話をしますが、私はすべてのめぐりが悪い気がします;;
 なかでも、なにかっつーとすぐに体がむくむので、水のめぐりは悪そうです。(^^;)

 どこかに長時間でかけたりするともう覿面(てきめん)で、家に帰り着く頃には、足の甲には靴のあとがくっきり残り、足首がなくなっているような状態。

 それでも昔に比べればよくはなったんですけども、浮腫むということには変わりない。
 さりながら。
 火曜日に、コンサートへ出かけたときは、帰宅が夜中になったにもかかわらず、まだ足首はあり、足の甲には靴のあともなく、指輪もきつくなっていませんでした。
 これはひとえに、ふくらはぎを温めたおかげかと。

 じつは、今年の3月くらいに、こういう本↓を読みまして。

はくだけ!ふくらはぎを温めて美ダイエット! (GEIBUN MOOKS No.835) (GEIBUN MOOKS 835号 BEAUTY MOOK)はくだけ!ふくらはぎを温めて美ダイエット! (GEIBUN MOOKS No.835) (GEIBUN MOOKS 835号 BEAUTY MOOK)
(2012/02/16)
不明

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 本というかムックですかね。これに「付録」だった、もこもこ靴下は愛用して春を過ごし、——ふくらはぎをあたためるサポーターは自分で探して買いました。付録のサポータは木綿で、洗ったら縮んでしまいましたので。(^^ゞ


 ちょっとお高めではありましたがこのサポーター、本当に温かいです。
 岩盤浴とおなじような効果があるとか。
 といって、懐炉が入っているような露骨な温かさではなく、まさしく「血行がいい」と実感できる感じの温かさ。
 岩盤浴のようなこの温かい効果は洗濯しても変わりません。大丈夫です。

 ということで、今回は、膝丈くらいのスカートで行くことになったので、帰りはぱんぱんに膨らんだ足をひとさまにお見せするのも悲しいと思いまして——このふくらはぎサポーターを持っていきました。
 新幹線の中ではき、降りるときには外し、で、会場につき、着席したらさっそくこのサポータをつけておりました。

 帰りの新幹線のなかでもやはりサポータをつけ、と徹底してみたのですが、そうしましたら、本当に足はぽかぽかと温かく、むくみはほとんど出なかったという次第。

 ふくらはぎは第2の心臓ともいうとか。
 ここを温めて血行を良くすると、結局、全身の血行もよくなる、ということなんでしょう。当然の結果としてむくみも抑えられるということなんでしょうね。

 ウッカリこれを履いたまま、休憩時間にはロビーをウロウロしてしまい、はっとした、という失敗はありましたが——、とくに、先日の22日は3月並に冷え込んだせいもあり、このふくらはぎサポーターの威力、実感しましたよ。

 これからは冷房で、足許だけが冷えるという季節になりますんで、かさばるものではないから、このサポーターは鞄の中に常備しようと思います。
 生地はやわらかく、しなやかで、伸縮性があり、締め付け感はありません。なんともいえない、快適な履き心地です。

 色はピンクベージュの他に黒があるので——、黒を買えば、スカートの下から見えていても、レギンスです、みたいな感じでごまかせるかなあ……? どうだろう。
 サイズも、長さがもうちょっと長いものと、LLサイズまであります。ゆったり目が好きな方や、男性は、ロング+LLサイズがいいのかな。

 冬は冬で重宝でしょうし、これから冷房が気になる(節電してても気になるものは気になる)ので、私のような冷え性、もしくはむくみが気になる方にはおすすめです。

 腹巻きもあるので、これとふくらはぎサポーター(私は脚絆と呼んでます;;)を併用しますと、夏の寝苦しい夜、スッゴイ姿で寝ていても、寝冷えのおそれがなくなるので、そんな使い方もいいかな、と考え中。
 
 ………いえ、我ながら、夏の夜はホント、すごい寝相をしているので。(^^ゞ
 
 
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王様、裸なんじゃね? と思ったら

 ひきつづき、為末大さんのツイートを拝見しながら、あれこれ考え中。
 ……あいかわらず、図星さされまくりで耳が痛いとか、クロスボウの矢が我が心臓に的中しまくりとかで、かなりあれこれ痛いのですが、——数日、こんなことを続けていたら、その痛みがだんだん快感になってきたような……。
 ………あぶない……かな? (^^;)

 ともあれ、自分では自分のことを完璧主義だとは思ったことはなかったんですが(すぐにサボりますからねえいろんなことを)、しかしたしかに、「すべてか無か」という、きわめて極端な価値観を持っていることは事実だと思いましたです。

 すべてか無か。黒か白か。成功か失敗か。ゼロか1か。よいか悪いか、光か闇か。
 ——しかし、この世というのはそういうもんじゃないんですよね。グラデーションもあれば、あたしらなにも無闇に3次元生命体をやっているわけじゃないから、そういう直線もしくは平面ではなく、「縦、横、高さ」もしくは「奥行き」というものがあるわけなんで、——ゼロか1かに見えたとしても、そのゼロと1のあいだには、文字通り無数の「数」がある。

 ——ということを私も頭では理解していても、自分自身を評価するときあるいは自分の行動を決めるときの「原理」は、あきらかに、そういう極端な二元論だった、というのを最近、おぼろげに感じております。

 おぼろげ、じゃなくて、もうちょっとこう、実感して自分のものにできればいいんだろうなと思いつつ。

 しかしこの、二元論ではない価値観が必要なのは私だけじゃないと感じますね、あれこれニュースやら何やら聞いていると。

 私はおかげさまで、「あ。二元論はチガウな」と感じるところまではきましたが、——まあネットにあふれる、ゴミみたいな「コメント」はまさに二元論まっさかりですね。
 昨夜はひさびさ、ヤフコメをのぞいてみたんですが、あいかわらず、なんの進歩も変化もなくて、最初はそのひどいコメントに眉をひそめていたのですが、最後にはもう笑ってしまいました。
 これらに、怒るんじゃなくて笑えるようになったのは、私としてはなかなかの進歩。
 ………結局、自分の人生を生きづらいものにしているのは自分自身なんだなあ、というのを、鏡像として見せていただきました。ありがたいことです。

 とはいえ、自分の姿を鏡に映してみて、……まあショックはショックだとしても、それにいつまでもとらわれず、直したいところがあれば直そうとすることが大事ですよね。
 ただ鏡を眺めて、ああアタシってこんな顔してたのかと思うだけでは「次」へは行けないわけでして。
 じゃあどうしたらいいのかと考えてみるけれども、自分の顔を眺めているだけでは、やはり、なかなか思いつくことは難しい。

 うーんどうしよう、と悩んでいるところへ、いきなりクロスボウのゴッツイ矢がとんで来た——というのが、いまの感じなんですが——いや、ありがたいことです。
 自分で経験して自分で咀嚼吸収するのが大前提ではありますが、でも、自分一人だけだと、やはり行き詰まってしまうこともありますよね。
  
 そういうとき、やはり、ひとさまのお話を聞けるというのはありがたい。まして、自分では漠然と感じてはいても、なかなか言語化できないモヤモヤがあるとき、まさに快刀乱麻を断つ、というほどの力のある言葉に出会えるのは、ありがたい。
 言葉に出会うのも「出会い」ですよね。しみじみ……。

 ……いきなり話がそれますけども。
 そういえば最近「快刀乱麻」というのをひとつの名詞だと思っているらしい文章を見ちゃったんですけど、正確には「快刀乱麻を断つ」です。ここまでで成句となりますのでよろしくお願いします。「快刀(よく斬れる刀)」が「乱麻(もつれてこんがらがっちゃって、どうしようもなくなった麻糸)」を「断つ」のであり、「快刀乱麻」という物体が存在しているわけではありませんので念のため。

 なんか最近、この手の「考え違い」が増えているような気がして、ついつい気になってしまいます。(^^;) そこで言葉を区切ってとめたら意味が変わっちゃう、もしくは、意味不明になっちゃう、ということがすごく多い。
 ——その典型は「なにげに」ですがね;; 

 それがいかにも、日本語に熟達していない若い人が言うのならまだあきらめもつきますが、……最近は、それなりに社会的に地位もあり権威も認められているはずの人の文章や言葉のなかに見つけることが多いので、ちょっと心配しています。
 エライ人が言うと、多くの人が、「それでいいのかな」とつい思ってしまい、間違った状態のものが広まっていく——そういうことはありますので。

 王様は裸だ、と叫ぶのは勇気が要るかもしれませんが、「……もしかして裸でいらっしゃるのですか」と、確認するくらいは、習慣づけたほうが、「大人の作法」に適っているんじゃないかと思います。(^^;)

 頭ごなしにテメエなに裸になってんだ! などといきりたつのではなく、といって、じっさい裸に見える人に「すてきなご衣装ですね」などとへつらうのでもなく、「……服を着ない、というファッションでいらっしゃいますか?」と確認くらいはできるといいなと思います。

 ………こういう態度って、もしかして、たとえばマスコミに対して「疑いながら信じて、信じながら疑う」態度にも、ちょこっとだけ、通じる「精神」かもしれない。
 と思うんですが、どうでしょう。(^^;)
 
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帰って来たヨッパライ状態

 わたくし、昨夜は天国へ行ってきました。

 とはいってももちろんあの世へ行ってきたという意味ではなく、サントリーホールへ、イングリッド・フジコ・ヘミング、北東ドイツフィルハーモニー管弦楽団のコンサートへいってきたのでした。

 いやあもう………ほんと、天国でした。

 静岡からえっちらおっちら出かけていくので当然、仕事は早じまいです;; 半休とるほどでもないですが、3時頃で切り上げてお出かけ。新幹線の中で、まだ午後5時まえだけど弁当で夕食。

 うちのほうも寒かったんですが東京はさらに寒かったですね〜。今日はもう、いいお天気だし気温も25℃ほどになるということで、昨日はいったい、なんだったんでしょうかね;;

 じつは、フジコ・ヘミングさんについては、これ——「やっと聞きにいける」というものでした。
 7年前に、地元静岡のホールでリサイタルがあり、はりきってチケットをとったんですけども、折悪しく、そのときは祖母の容態が悪化しまして。
 亡くなったのはその約1年後ですから、後から考えれば「あんなに大騒ぎすることなかったのに」と思うのですが、当時としては致し方ない。

 泣く泣く、せっかくのチケットを無駄にもできぬということで、母の知人でやはりお好きな方がいたのでお譲りしたのでした。(タダで)

 以後、なんとなく日程が合わなかったり、こちらの都合がどうにもならなかったり(考えてみると、祖母が亡くなってその2年後に父が発病4年後に物故ということで——そりゃ都合がつきません;;)。
 今年の2月に、このコンサートがあるのを知り「いまから3ヶ月先の予定なんかわかんないよー」と言いつつも、チケットをとったのでした。

 フジコ・ヘミングさんのコンサートというのは本当に、「やっと」の思いでございました。

 今回はまた、ピアノのリサイタル(独奏会)ではなく、オーケストラとの共演ですからそりゃあもう、わくわくして出かけてきました。
 おまけに会場は音響抜群のサントリーホール。

 予想以上のすばらしさでした。

 プログラムとしては、まず、オーケストラによる、ベートーベンの「コリオラン」序曲。それからフジコ・ヘミングさんによるピアノ組曲、ムソルグスキー「展覧会の絵」。リスト「ラ・カンパネッラ」。

 ここで本当は休憩に入るところが、いきなりアンコールに応えてもらえて、ショパンの夜想曲。

 休憩ののち、ベートーベン、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」。

 アンコールは、やはりショパンの「別れの曲」でした。

 なんでも指揮者が体調不良のために今回は来日できず、急遽、指揮者がかわるということがあったそうで——あれ、たぶん、オケとの共演でのアンコール用の曲が用意できなかったのでは…と思いました。
 指揮者の交代がいつ決まったのかは存じませんが、いつだったにしても、大変だっただろうなあ、と思いました……。聞きにいくほうはまったく気楽なもんですが。

 なんにしてもそういうわけで、……7年待った甲斐もあった一夜でした。ホールは音響がすばらしいとは聞いていましたが本当でした……。もちろん演奏者がすばらしかったのが第一ですけども。(^^;)

 ラ・カンパネッラ………CDで聞くのとはもう全然違いますね。そら当たり前でしょうが、なんかもうね——本当に、天国へ連れて行ってもらえました。魂の浄化ですねあれは。
 途中聞きながら、「ここでいま息が絶えたら間違いなくあたし成仏できる」と思いましたです。
 結局、成仏できないで「迷う」のは、エゴの執着といったもののせいだと思っているので——そのエゴが完全に沈黙していると、成仏できるなーと思ったんでした。

 帰るころには止んでいるといいなと思っていた雨は、やはりまだ降り続いていましたが、そんなことはもう気にならない。まだ半分、魂をどこかに遊ばせたまま帰ってきました。

 それにしても——開演が午後6時半で、終了したのは9時くらい……アンコールがあったので最終的には9時を過ぎましたが、だいぶ、時間としては延長したのかな、という感じ。
 ピアノ協奏曲が終わるや、すぐさま席を立っていった人がありましたが、あれはどうやら、なにかの時間が迫っていたようです。仕方ないんでしょうが……でも、ひとごとながら残念でしたね。「別れの曲」、よかったですよ〜。(^^;)

 私は帰りの新幹線は、終電(東京駅を午後10時47分発)に間に合えばいいというつもりでおりましたので、大丈夫でした。
 
 そんなわけで天国から戻ってきたような今朝の気分です。

「帰って来たヨッパライ」状態ですね。(^^;)

 私この曲の馬鹿馬鹿しいところが大好きで。
 ——なぜか関西弁の神様ではないけれども、天国へ行って来て、「またちょっと俗世でがんばっておいで」と言われたような気持ちがしている今朝でございます。

・「帰って来たヨッパライ
(歌ネット)
http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=1240

 
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「ねこ」展

 昨日の金環日食、ご覧になれましたか?
 うちのほうでは結局、雲に遮られて見ることはできませんでした。

 が、あのなんとも言えない暗さと——急に風が冷え込んだのには驚きましたです。
 太陽が月に遮られただけで——光がこないのはわかるけれども、熱(気温)にあれほど影響が現れるとは。

 2009年の皆既日食のときは私はホテルのなかにいたので、気温については実感しませんでしたが——
 皆既日食とは違い、金環日食ではいちおう光はあることはあるので、あれほどまでに気温が変化するとはちょっと予想外でした。
 それだけに、お日様の威力というものを感じましたです。

 冷たい風に吹かれたとき、大気のない宇宙空間で、太陽などの光がない場所での温度がどれほど低いか(マイナス200℃くらい——絶対零度にも近いほどになる)ということを、ふと思い出しました。
 光がない宇宙空間はどれほど冷たいだろう。(絶対零度の話は聞いていますが想像つかない;;)

 太陽が消えたら地球もあっというまに生命が絶えてしまうのだな、というのをちょっとだけ「実感」できましたです。
 JAXAが公開した、太陽観測衛星「ひので」が撮影した、日食の画像と動画がありました。
 太陽が身近に感じられた昨日でございました。

「ひので」がとらえた日食
http://www.isas.jaxa.jp/home/solar/eclipse20120521/
JAXA/国立天文台 提供

        ●

 佐野美術館さんへいってきました。
 
岩合光昭写真展「ねこ」
平成24年4月21日(土)~平成24年6月3日(日)
neko.jpg

 こちらの本↓の写真がメインになっている展覧会です。

ねこねこ
(2010/03/03)
岩合光昭

商品詳細を見る


 今回の「ねこ」展、図録はありませんが、この写真集が図録みたいなもんですね。とはいえ、展示されていた写真は本には収録されていなかったり、収録されている写真の展示がなかったりもしました。
 なんにしましても、
「ああ。やっぱり猫はいいなあ」
 としみじみしてきた展覧会でした。

 この写真集には帯がついていて、そこに書かれたコピーはひとこと。
「真っすぐに生きてる。」
 うむ。まことに。——と深くうなずいてしまいました。

 やはり写真を目の前で見るというのも価値あるものでして、写真集ももちろんすばらしいけれども、パネルに引き延ばされた本物の写真を見たあとでは、いかにも印刷されてしまうと、失われる色がある、というのがわかるんですよねー。

 あんまり語ると本気で猫バカまるだしで、猫にはさして興味ない方には退屈なだけでしょうから省略しますが。
(猫好きさんには、私がどんだけパネルの前で悶絶状態だったかはご想像いただけるでしょうし/笑)

 なかでもやはり、犬と猫が仲良くしている写真はほのぼのしますね〜。表紙のこのにゃんことわんちゃんは同じ飼い主さんにかわれている……わけではなく、飼い主さん同士がお友達なんだそうですが、犬と猫も仲良しなんだそうです。………ほっこり♪

 例の猫の島——田代島の猫たちの写真もありました。
 猫のいる風景ってのは、なんでこう、和むんでしょうね〜。猫嫌いの人は和むどころじゃないでしょうけどね〜。

 猫というのは勝手をやっているようでいて、人間と関わるときはちゃんと距離を測っている。なかなかクレバーな連中だと思っております。
 そして、しみじみ思うのは、「猫はやはり多頭飼いのほうが面白いな」ということ。

 うちも猫が数匹うろうろしている家ですが、——なさそうであるのが猫の社会性。見ていると、複数の猫がいると、それぞれの猫の性格もよりくっきりするところが面白い。

 諸般の事情により、なかなか複数の猫を飼えないことも多いでしょうが、猫というこの玄妙なる生き物の面白さを味わうには、やはり、複数いたほうがいいだろうなあと思いました。あらためて。

 まあそんなことをいうと猫のほうからは、勝手なことを言うなと怒られそうではありますが。(^^;)

 岩合さんの写真集(猫)は何冊か持っているのですが、やはり、直接に写真を見るのはいいもんですね。
 写真集で見るよりも、より、その猫たちと人間どもの息づかいが伝わってくる感じです。
 パネルで見ていて、あとから写真集をみると、「ああ、やっぱり印刷になるとあのニュアンスは消されちゃうな」と感じたものが数枚あります。

 岩合さんの猫写真ファンならご存知でしょうが、今回の展示にはあの海(かい)ちゃんの写真もありました。思わず食い入るように見てきました。
 海ちゃんはやはり、美人さんですねえ。
 岩合さんの愛情もまたたっぷりと映し出されているいい写真だと思いましたです。

海ちゃん―ある猫の物語 (新潮文庫)海ちゃん―ある猫の物語 (新潮文庫)
(1996/10)
岩合 光昭、岩合 日出子 他

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 猫を見ていると、笑ってしまい、しみじみしてしまい、不思議に思ってしまい、ほっこりしてしまい、——そして、なぜか、泣けてしまう。
 猫にはどうしても、なにかの「痛々しさ」、「見ているほうがやるせなくなる」なにかが、あるように感じるのは——なんなのかなあ。

 そんなんなるのはお前だけだ、と言われれば、反論はいたしませんけれど。(^^ゞ

 ところでこの佐野美術館さん、今年の11月末までの展覧会が終わったら、改装に入るそうです。来年3月末までは閉館——休館? ということで。
 ちょっと寂しいですが、でも、どんなふうに改装されるのか、楽しみにもしております。

 あのきれいなお庭はもちろんそのままにしてくださると思いますが、あの池にいる鯉や亀たちは——ちょっとびっくりするようなことになるのかな。(^^;)
 
 
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シンプルな本音

 糸井重里さんのツイートから、為末大さんのツイートを知り、そのあまりの「平易な言葉で奥深い」ことに仰天し、思わずそのまま読みふけっておりました。
 ………深い。

 昨日のお話は「嘘の代償」について。——ということで。

 ……あ。私はツイッターには登録してません。Facebookも同様です。
 あいかわらず、「つながる」というキーワードで誘われる、ネット上でのソーシャルとやらにたいする、嫌悪感と不信感がぬぐいきれない旧人類やってます。(^^ゞ

 糸井さんのツイートで知ったときの、為末さんのお話の主題は「前向きな善意が引き起こすトラブル」について、でした。
 これもまた読んでいて、うーむと唸っておりましたが、この「嘘の代償」は、もう完全に、私自身の「課題」なもんですから、ひとごとじゃないというか。耳が痛くてのたうちまわりそうになったというか。(^^;)

 嘘の代償というのは——モチベーションの維持にしろ、モラール(士気)を高めるためにしろ、自分で自分を励ます、というのを、よく聞きますよね。
 自分で自分に、俺はできる、○○を実現する、大丈夫、とかって「言い聞かせる」。
 
 しかし、そうやっていくら自分の気持ちを高めようとしても、それがあまりにも現実とはかけ離れていると、それは「励まし」ではなく「嘘」になる。
 大丈夫だぜったい勝つ! なんて言い聞かせても、気持ちのどこかが「嘘をいうな」と反発してくる。——ありますよねこういうの。

 その小さな嘘は、——「理想の自分ではない、現実の自分」を否定することになり、自分で自分を傷つけてしまうことになる(場合もある)。

 ポジティブシンキングってやつ——メンタルトレーニングのつもりでポジティブシンキングを実践したものの、まさに、「自分の内側からの告発」にやられてしまい、ポジティブシンキングにとりかかる以前よりもかえって、落ち込み、自己否定、自己嫌悪がひどくなってしまう、というのも、そういうことかもしれません。

 前向きな言葉や思いが「悪い」ということではない。たぶん、それが「嘘」になっているところが問題なんでしょうね。
 自分で自分をそうやって傷つけているうちに、自分の本当の気持ち、本音、本当に欲しているものが自分でわからなくなってしまう。自分で自分を見失う、というところにきてしまう。

 ………あー………耳が痛い……。

 このへん聞いていると、ポジティブな思い込みや言葉はしょせん嘘だからダメだというように聞こえるでしょうが、そういうことでもないんですよね。
 なんていうんでしょうね……本当に自分が求めているものをはずさないことが、嘘になるかならないかの境界線じゃなかろうかと思います。

 たとえば、「理想の自分」像、というものを思い描くとします。
 いつも沈着冷静で、ものごとに動じない自分、というものを理想に描き、そのように振る舞おうともし、そのためのメンタルトレーニングにもいそしみ、ちゃんとそのための努力もしている、とします。
 そういう努力のさなかに、「無理無理」「こんなの『自分』じゃないよ」という囁きが頭の中に響くようなら、その思い描いた理想、これが自分の理想だ、こういう理想の人間になるんだ、という思いは「嘘」でしょう。

 それが嘘にならないためにはどうするか。
 ——なんでそんな理想の自分になりたいのか。
 そこを問い直す必要がある。

 冷静沈着でどんなことにも動じない「大人物」になりたい、というのが「嘘」ならば、じつは本当の目的は他にあるということですよね。
 では——なんでそんなふうな自分になりたいのかを問い直したら、ようは、「人から認められたい」からだ、ということに行き着いた。
 自分を人にも認めてほしい。どうすれば認めてもらえるだろう——そうだ、いつも冷静で立派な人物になればいいんだ。みんなに「あの人すごいね」と言ってもらえるように、いつも冷静で落ちついた人になろう——。

 この場合、人に認められたいというのが、自分自身の「本当の理由」「本当に求めているもの」。
 冷静沈着な、理想的な自分というのは、目的ではない。目的にいたるための手段として考えたものだったに過ぎないことがわかりますね。

 さりながら、——いついかなるときも冷静な人物でなければ他人からは認めてもらえない、なにかあるとすぐ動揺して騒いじゃう自分ではダメだ、こんな自分はダメだ、と思い込んでいたとすると、「冷静な人間になりたい」——これは完全に動機としては嘘ですよね。
 ひとさまから認めてもらうためには、なにも、そんな聖人君子でなければならない、ということはない。
 世の中、聖人君子はまず存在しませんから。(^^;)

 人から認めてほしいと思っているのが自分の「本音」なら、なにも、「冷静である自分」にこだわる必要はないわけですよね。人様から認めてもらうのには、ほかにいくらでも「理由」はあるのに、数あるもののなかから、なんでわざわざ、もっとも苦手な、もっとも「自分らしくない」要素——冷静であることを選んだかと言えば、その人自身、なにかあるとすぐ慌てて動揺してとっちらかす自分に、コンプレックスがあるからでしょう。

 だとするならまた原点へ戻って、そもそも、人から認められたいとなぜ思うのかを問い直す。そうすると、自分でも忘れているような、思いもかけない「心の傷」や「思い込み」に、気がついたりするわけです。

 本当に自分が求めているもの、「目的」は、ちゃんと人に認めてもらえること、なのだとすれば、そのための手段はなにも、「冷静な自分になる」ばかりではない。
 どうもこの「方法(手段)」は自分には合わないなと思ったら、目的に沿って、べつの方法を考えればいいだけのこと。
 それと同時に、どうしても冷静にはなれない慌てん坊の自分を許すことです。それはその人の個性ですから。慌てん坊の自分を認めること。慌てん坊さんのところがチャームポイントなのに、無理に冷静な人になろうとすれば、そりゃ、自分の内側から「なんでそんな嘘をつくんだ」と、叱られもしますわね。

 この場合の「本当の目的」がはっきりわかっていれば、方法Aを試してみて、どうもうまくいかんなと思ったら方法Bを試してみて、それもだめならCも考えて……と、まあ、べつに「自分はダメなんだ」などといちいち落ち込むこともなく、次々、トライしていけるわけですよね。

 このへんはまったくその人の心の問題そのものなので、他人にはわからない部分です。

 どんな挫折にあってもめげず、次から次へと方法を考えてはトライしていく人は、「自分が本当に目的にしているもの」を、ちゃんとわかっているのではないでしょうか。
 手段にこだわり、その手段に失敗したら、もう全面的にダメだ、というふうになることを、「嘘の代償」と指摘していらっしゃるのではないかと思います。

 自分が本当に求めているものというのは、突き詰めたらすごーくシンプルなことだったりするんですよね。しかしシンプルであるゆえに、日常の、見栄や虚栄心や情報のなかに埋もれてしまい、自分でも自覚できなくなったりして。

 目的がわかっている人は、そのための方法がちょっと失敗してもべつにこだわらない。あれがダメならそれを試そう、と思うだけのことでしょう。
 メンタルトレーニングはいいんですけども、そのトレーニングを試そうと思った本当の目的、そのトレーニングによってなにを手に入れたいと思っているのかを見誤らないこと。

 そこらへんに、ポジティブシンキングが、嘘になるか、立派なトレーニング(=手段として有効)になるかの違いがあるんじゃないでしょうか。

 それがどんな目標であれ、「無理」と「嘘」では意味がない。自分を疲弊させ消耗させて、最後には、挑戦していく気力さえなくなってしまいます。

 思い描く理想は、本当はなんのための理想なのか。——それを理想像とした「本当の理由」はなんなのか。
 そこを自分で押さえていければ、ある方法がちょっとうまくいかなくても、落ち込むことも自己嫌悪、自己否定になることもないわけですよね。
 理想の自分になることが目的ではない。——理想の自分になることによって手に入れられる(と思い込んでいる)ものを、手に入れることが目的である。
 
 理想の自分によってなにを手に入れたいと願っているのか。

 そこを見落とすか、きっちり把握しているか。
 そこらへんに、嘘と本当の違いがある。

 …………私ももうさんざっぱらそのへんで痛い目に遭って、遭いつづけて、あまりにも痛くて苦しいので、いっそもうひと思いに楽にしてほしいと願うようなところまでいって、それでようやく——
「あれ。違うのかな?」
 と気がついたというところにいます;;

 ゆえに——為末さんのおっしゃることのいちいちが、矢が——ただの矢じゃない、クロスボウのアレが胸に突き刺さるように感じました。

「関係のないようで、こうやって日常についた嘘が、いざ本当の大舞台で勝負をする時に、自分の動きを縛る。そして、自分を許さない嘘は自分のモチベーションを削っていく。強がりは勝負弱く、そして潔癖性は長く戦えない。日常の努力自体にも幸せがないととても戦いには耐えきれない。」

 ああ……3本くらいの矢がいっぺんに。

 わかっている人はとっくにわかっていることなのに、あたしゃあこんなトシになるまで「あれ?」とすら思えずにいたわけですよ。(遠い目)

 人にはそれぞれの学びがあるとはいえ。
 やっぱりちょっぴり悲しいなあ。
 ——というのは、現在の私は「違う、ということはわかったが、ならば、自分の本当に欲するところはなにか」が、まだ充分には見えてないため。

 ゴミやガラクタ、嘘が多すぎましてねえ。シンプルなものは、ゴミの山のなかに埋もれてしまって探すのに往生してます。それも最近ようやく、「ものを捨てる」「片づける」を繰り返してきて、あ。もしやこれか?! と思うものが出てきましたけれど。

 それでも、後生大事に執着してきたものがガラクタだとわかっただけでもよしとせねばならんのでしょうねえ。
 ——たぶん、あれですよ。為末さんのおっしゃる「嘘」を、嘘だと自覚できない私のような人間は、狐狸に化かされて肥だめを風呂だと思って浸かっている、昔話に出てくる人のような状況にあるんでしょう。

 目が覚めて見るととんでもない状況に自分がいることに気がついて、大騒ぎするわけですけども。
 まあそれも、宿題を片づけるために必要な過程なのかもしれません。

 なんにしても、いいお話を聞かせてもらいました。
 感謝です。

 
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靴脱ぎ禁止でお願い

 最近、新幹線の車内アナウンスで、「降車のときには座席のリクライニングをもとの位置に戻すように」というのが加わりました。
 自分が使った公共物は、返すときにはできるだけもとの形、もとの状態に戻すというのは基本なんだけど、とうとうこんなことをいうようになっちまったか、と思いますと、ちと情けないものがありますね。

 リクライニングくらいならまだしも、「降りるんだったら戻していけ!」と言いたくなるのは、座席を180度回転させ、向かい合わせにした場合。
 あのままにして降りていかれると腹立ちますわ。
 じつは、あのシートをくるっと回転させるとき、前後の列の人が背もたれを倒していると、回らないんですよ。回転させるときにリクライニングさせた背もたれが引っかかってしまいます。
 ですんで、ふたたび180度回転させるときには、いちいち前後の列の人に、リクライニングを一時的にでも直してもらわないといけない。

 ………正直言ってメーワクなんでやめてください。可能な限り。
 どうしても座席を向かい合わせにしたくてそのようにした場合、駅で降りるときは元に戻すのは使った人の責任ですから、降りる前に戻してください。

 ……たまに、本当にそのままにして(狼藉と言いたくなるような惨状のまま)降りていく人がいると、自分のそばを通るときにすっと足を通路に出して足払いしてやりたくなることがありますね。やりませんけど。(当たり前です;;)

 公共の乗り物でのふるまいというのも、本人に悪気がないのはわかるんだけど、困ったなーということは、起こり得るもの。できるだけ想像力を働かせて気をつけたいところですが。

 私、もうひとつ、切実にお願いしたいなーと思ったことがあります。

 新幹線車内でくつろぎたい気持ちはわかるけど。
 ——頼むから、靴は脱がないでください。
 ということ。

 先日、そんなわけで名古屋へいった帰りの新幹線なんですが……途中で、なんともいえない異臭がしたんですよね。
 え、なにこのニオイ? と思ってしばらく考えていたんですが。
 どうも——後ろの席の人が、靴を脱いだんですね。

 私、トイレに行きながら後ろの席の方を確認したんですが。

 靴を脱いで、その靴の上に足をのせて、前の座席のほうに、ぐっと両足を伸ばしてくつろいでいらっしゃる。
 リクライニングもめいっぱい倒して、もう、休む気満々なんですね。

 それはわかる。
 わかるけれども、靴は脱がないでもらえないだろうか。

 とは思ったんですが、まさかねえ……「足がクサいので靴は履いていてください」などと言うわけにもいかず。
 ………自分の目的の駅まで、その異臭とお付き合いしてしまいました。(^^;)

 途中の駅で先に降りてくれないかなーと思ったんですが、なんと降りる駅は同じでした(笑)

 しかし参ったなあ……。途中でその方がちょっとでも身じろぎなさると、ふと、またニオイがあがってくるんですよね。
 ほんとうに途中では私、むせてしまって、のど飴をなめて必死に咳をこらている始末。
 
 冬のインフルエンザ注意の季節、それから花粉症の季節にはマスクを常備しているのですが、先日は間が悪いことに、花粉も終わり、新緑も美しい季節になったことで油断して、マスクも持っていませんでした。
 ……車内販売のカートにもマスクはないですしね。(^^;)

 マスクは常備品だな、と実感しつつ、我慢し続けた1時間半くらいでした。
 帰りの新幹線じゃ寝ていこうかなと思っていたんですけど、やっぱり眠れませんでした。(^^;) ラジオを聞いて気を紛らせていたのはそのせいもありました実は;;
 ときどき強くなる異臭に噎せるのを我慢しながらでは、さすがに、眠気もやってこなかった。

 ——ということで。
 車内では、靴を脱ぐのはご遠慮ください。くつろぎたい気持ちは痛いほどわかるのですが;;

 というかああいう場合——靴を脱いだら、靴にはハンドタオルかなにかを詰めて、靴内の湿気をとりつつニオイがあがるのを防ぎ、かつ、自分は靴下を脱ぎ、鞄にしまい、汗拭き用のシートがありますよね、ああいうもので念入りに足を拭ってもらえれば、靴を脱いでもOKじゃないかと思うんですが。

 ………そこまで用意周到にする人もないかな。
 でも、そこまでしてほしい。(^^;)

 自分じゃ自分のニオイって気がつきにくいものですよね。自分では、自分の足は臭わないとお思いかもしれませんが、「万が一」ということもあり得るので(ふだんはなんでもなくても、体調で、みょーな汗をかいてニオイが出ることもあるし)、やはり、そうやたらめたら、公共の場では靴は脱がないほうがいいだろうと思います。

 しかし——まことに、こうしてみると男性というのは難儀なお体ですなあ……。
 女性にももちろん体臭はあるんだけど、やはり、男性ホルモンと、あとは皮脂の量の違いで、どうしても男性のほうが強烈なことになりますねえ。うーむ。

 その昔には電車の中で男性の脇のニオイで失神しかけ、暑い夏の日、やはり隣りの席に座った男性の体臭で気分が悪くなり、………そして今度は靴を脱いだ足でノックアウトされ。
 あんまりやかましいことも言いたくないけど、……ちょっとだけでいいから気をつけてもらえたら嬉しいですねえ。

 女性は一生懸命、無駄毛の処理にも気を使うし、デオドラントにも気を使うけど、これ、はっきりいって男性にこそお願いしたいです……。体質の問題ですから、差別がどうとかじゃなくて公共のマナーの問題としてとらえてもらいたい。

 とりあえず、私も鞄の中にマスク常備というのは、季節を問わず徹底することにいたしますので。

 あとは、やはり私も——やたら靴は脱がないことを胆に命じます。

 ……まああれですよ……これが草履や下駄が当たり前の世の中なら、こんな問題も起こらないんですよねえ。
 草履、下駄であれば当然、足許がむれることはありませんし、また、昔の人は外から帰ってきてどこかに上がるとなると足を洗ったり、最低でも拭ったりしたし、なんといっても動物性脂肪の摂取量がゼロに近いほどだったでしょうから(現代人に比べれば)、こんな問題、想像もしなかったでしょうね。

 といっても、いまさら和装が当たり前の社会にはなるまいし……。
 しょーがないんで、湿度が高い日本では、とくに逃げ場のない公共の場では靴を脱がないというマナーでいくように願いたいです。切実に。

 
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サイマルラジオ

 昨日はちょっと遠目、名古屋へ出張でした。
 無事ミッション(笑)も完了して、やれやれと新幹線にのりこみ——、ときどき新幹線の中で、ビールとか、ワンカップとか開けている方をお見かけしますが、ホント、あれはときどき無性にやりたくなりますね。(^^;)
 しかし私は新幹線を降りても車を運転しなければならないのでじっと我慢。ホームで買ったカフェラテで、ほっとひといき。
 しばらくはぼーっとしていたのですが、あ、そうだ、ラジオを聞いてみようと思い立ちました。

 電波の悪さに悩まされないところがお気に入りの、「IP(インターネットプロトコル)サイマルラジオ」、radiko。
 ときどきパソコンでも聞いていますが、スマホでも聞けるのでした。(アプリは無料)

radiko
http://radiko.jp/#

 インターネットラジオとは違い、地上波のラジオ局がそのままネットで聞けるというのが嬉しいです。しかし実のところは地上波ラジオ局に比べると局数が少ないというのはちょっと残念なところ。
 ……静岡県だと3局のみで——と嘆いていたら。
 先日、パソコン用のアプリがバージョンアップしたというのでDLしましたら、エリアが「Tokyo」の表示になり、ニッポン放送その他も聞けるようになっているのですがこれ……な、なんかの間違いでは? とちょっとドキドキしてます。
 iPhoneのアプリもバージョンアップしたけど、こっちはあいかわらず静岡は3局しかないんです……。

 なんにしてもこのradikoではまだNHK第1、第2は入らない。NHKがradikoに加わってくれたら大相撲中継が聞けるんだけどなー。(^^;) あと、夏なら高校野球、冬なら箱根駅伝。

 ともあれ、昨日はそんなわけでまず、愛知県内の配信ということで、CBCラジオを選局して聞き始めました。
 そのうち浜名湖が見えて参ります。あ、静岡県か——ラジオ、聞けなくなるかな? と思いましたが、聞ける。
 掛川。聞ける。
 静岡。聞ける。
 そして新富士駅。聞ける。

 おお、もしやいちどエリアから選局すると、ずーっと聞けるのでは?
 ………と思ったんですが。
 
 ——新富士駅を出たら、さすがに黙ってしまいました。
 富士川辺りがやはり境界線なんでしょうか。(^^;) よくわからんけど。

 自分で作ったプレイリストを聞いているのもいいですが、ラジオというのも、なかなかいいもんですよね。
 radikoで聞ける地上波ラジオ局が、もっと充実してくれたら嬉しいな、と思いつつ、聞いておりました。

 それにしても——やはりスマホは、ああやって出かけた先でその能力の有り難さを感じますねえ。私もパソコンでそんなに複雑はことはしないユーザーだからでしょうが、パソコンを持ち歩かなくてもたいていのことはスマホで間に合うというのは、ありがたいもんだと感じているこのごろです。

 iPadもいいんですが——あとは私の希望としては、「折り畳めるA4iPad」ですね(笑)
 広げればA4サイズで、それを紙みたいに4つ折りにして持ち運べるの。
 いつかは必ずできる! 何年(何十年?)かかるかはともかく。
 
 先だってもパイオニアさんが発表したAR(拡張現実)のカーナビ。

サイバーナビ(パイオニア)
http://pioneer.jp/carrozzeria/cybernavi/avic_vh99hud_avic_zh99hud/

「あー。パトレイバー劇場版2……」

機動警察パトレイバー2 the Movie [Blu-ray]機動警察パトレイバー2 the Movie [Blu-ray]
(2008/07/25)
冨永みーな、古川登志夫 他

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 と思ったのは私だけではないはず! ね! 思ったでしょ?(だれに聞いている;;)

 じっさいあの映画の中であのカーナビ(南雲さんが見ていたのは交通情報かと思いますが)を見たとき、「あ、これいいな」と思った人は多いはず。
 現行のシステム——運転しながらナビ画面を見るというのは結局、わき見運転になってしまいますもんね。しかし目の前の景色に、右へ左へ、トランスルーセントの矢印が現れるのなら、かなり、視認もよくなる。

 あれいいな、と思っていたのがついに現実に。

 ——というわけなので、「紙みたいに折り畳めるタブレット型」も、きっといつかきてくれる、と信じております。
 
 
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