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2011.08.31 (Wed)

受け取ること

 死ぬほど落ちこんだときというのは、まことにもってしょーもないことを思うものでございます。
 自分には価値がない、自分がいなくなっても誰も困らない、気にしない、………生きていても意味がない。等。

 そういうときは、「自分が持っていないものではなく、いま持っているものに目を向けよう」というアドバイスがあります。
 自分には何もない、と思っても、それは事実ではなく、他人から見ればうらやましいような何かを持っている、ということに目を向けよう。
 持っていないものではなく、持っているものを、ひとつひとつ数えてみよう。

 それらに感謝しましょう、と。

 ――それはたしかにそうなんだけども、と。
 私、さんざん考えて参りました。
 自分が持っているものを数えていると、かえって惨めになるんですけど、と。(^^;)

 結局、自分が持っているもの――ひとまずの健康とか、ひとまずの住居とか、家族とか……もちろんそれらに対して感謝しなくてはならないことはわかるんだけど、でも、それらのいずれもが、「自力で獲得したものではない」から、あんまり意味がないんだよね、という。

 結局、いま、自分が持っているもののほとんどは、「他人から、あるいは環境のなかから与えられたもの」に過ぎず、自分で手に入れたものではない……という感覚。
 自分では何もしていない、自分が努力/行動した結果ではない。
 ゆえに、やはり私には価値がない。
 
 そういう考え方。

 この考え方はまた、それと同時に罪悪感をも呼び起こすのです。
 たとえ他人や環境から与えられたものだとしても、私がそれらにいま「恵まれている」のは事実なんで、それに対する「感謝ができない」自分、というものがそこにある。
 感謝すべきものに感謝できない自分というものを、また、私は責めてしまう。そういう自分を「罰当たり」といって責めて、感謝できない罪悪感がふくらむ。

 袋小路だな――と思ってきましたのです。

 しかし。
「人生がときめく片づけの魔法」を読んで、ちょっとそのへんが変わりました。

人生がときめく片づけの魔法人生がときめく片づけの魔法
(2010/12/27)
近藤 麻理恵

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 いま、あなたのもとにあるモノたちは、あなたの役に立ちたいと思っているんですよ――という、著者のこんまりさんこと近藤麻里恵さんの言葉が、鍵でした。

 ものを大事にしないということは(使いもしないものを暗い狭い場所に閉じ込めて死蔵するばかりというのも、『大事にしていない』ことになる)、あなたの役に立ちたい、という、彼らの思いを踏みにじっていることになるんですよ。という。

 このへんではっとしたというお話は先日致しましたが。

 それで私、あらためてつらつら考えておりましたのです。周囲にある洋服なりものなりをひとつひとつ、手に取り、眺めながら。
 冬物の衣料ならこの子は私を温めてくれようとしている。夏物の肌着は、湿度と熱の不快感から守ろうとしてくれている。歯ブラシは自分自身の身を汚して私の汚れをとってくれる、鞄はむやみに重い荷物を抱えて耐えて運んでいる――という具合。

 なるほどこうしてみますと、それがどんなに小さいものでも、じつに愛しいものになるんですね。
 それで気がついたのは。

 感謝する、とは、「受け取る」こと。

 自分で自分を嫌うがゆえに、「どうせ私が使うものなんだから、どうでもいい」というような態度でものに接する、それはようは、そのもの、道具たちの無言の愛情を拒否している態度です。
 ぜひ私をつかって役立ててください、と差し出されたものを、「べつにいいのに、そんなこと」といって、じつにおざなりな態度で接する。扱いは当然粗雑になり、あげくには、ろくに使いもしないまま、そのくせ、「また何かで使うかも」という身勝手な思いで、とんでもないところにしまいこみ、――最後には忘れている。

 これはひどい。
 ――自分で言うのもなんですが。(^^;)
 こういう態度には感謝など欠片もないのは言うまでもありません。

 しかし、そういう、こまごましたものたちの「気持ち」を汲み、体を温めてくれてありがとう、湿気から守ってくれてありがとう、自分の身を汚して私をきれいにしてくれてありがとう……「大事にする」ことで、そんな気持ちが自然に出てくる。
 感謝しなければいけない、などと自分を縛るまでもなく、それは自然に出てくる気持ちですね。

 なるほど、いま持っているものに感謝するとは――そこにあるものを、「受け取」ればいいんだ、と思いました。
 どうぞ、と差し出されたものを、「そんなもの」などと言わず、「ありがとう」といって受け取ればいい。

 自分で獲得したものじゃないから意味がない――というのは、ようは、「受取拒否」なんですよね。
 受取拒否という態度に、「感謝」などあるはずもない。

 自力でとったものかどうか、は、このさい関係ない。
 そこにあり、どうぞと差し出されたなら、素直に受け取ればいい。

 うけとる、という行為自体が、すでに、差し出されたものに対する愛情表現なんですねえ。

 たとえばせっかく誰かのために用意したプレゼントを、「私はそんなものを受け取る資格はありません」などと拒否されたら、これは悲しいですよね。
 受け取る資格があるかどうかを決めるのは受け取る側では、そもそも、ない。
 そういうことにも思い至らず、ただ、自分にはそんな価値はないという考えでガチガチの頑固になっている。

 それが、いままで私がやってきたことだったんだな、と――おぼろげに感じているこのごろ。

 誰かが贈ってくれたものなら、すなおに、ありがとうと受け取ればいい。ありがたい、という気持ちはそこで自然に生まれている。感謝しなければならない、などと力む必要はどこにもない。
 感謝すべきものに感謝できない、私はなんて嫌な奴なんだろうなどという罪悪感はさらにない。

 ………こういう屈折しきった心理状態にない人には、こういう話、「なにを寝言をいってんだ」という感じにしかならないでしょうが、世の中には、こういうことで自分自身というものに苦しんでいる人間もいるということで、ご容赦ください。

 こういう人間は、できるひとは当たり前にやっていることをひとつひとつ、確認しなければならないわけですよ。
 しかしそれでも、わからないままでいるよりははるかにいいことなので。

「人生がときめく片づけの魔法」。もうちょっと読み込んでいきます。
 
 
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2011.08.30 (Tue)

21世紀の名探偵

 なんだかややこしい権利問題になってしまい、その関係で絶版となっていた、浦沢直樹さんの「MASTERキートン・完全版」!

MASTERキートン 1 完全版 (ビッグ コミックス〔スペシャル〕)MASTERキートン 1 完全版 (ビッグ コミックス〔スペシャル〕)
(2011/08/30)
浦沢 直樹、勝鹿 北星 他

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 買う!! これは買う!!!
 今日、発売なんですね。

 うちでもかろうじて本が残ってはいるのですが、いかんせん、全巻が無事とはいいがたい状態になってしまって……。
 完全版ということで、雑誌掲載時の4色2色カラーも再現ということですから………いいですねv

 完全版というか復刻版を望みたいのはあとは、個人的には、たがみよしひささんの「NERVOUS BREAKDOWN」をお願いしたい……。(^^;)
 とはいえしかし………、本棚………本当にどうしよう。
 いよいよしょーがなくなったらトランクルーム借りるとか……そういうことになっちゃうんだろうか……(遠い目)

 洋服もDVDも写真も捨てられる。しかし、本だけはどーおしても捨てられない……。
 もう読まないでしょと言われるんだけど読むんです。
 へんなときに思い出して無性に読みたくなって本棚をひっくり返して読むんですよね。
 この妙な習性がどうにかならないかぎり、本はなかなか捨てられません。
 どうしましょう……。(;_;)

       ●

 先日、NHKの、BS hiのほうで、ちと面白いドラマが放送されたのですが、ご存知でしょうか。
 イギリスBBC製作の「シャーロック」というのですが。

シャーロック Sherlock
NHK BSプレミアム
http://www9.nhk.or.jp/kaigai/sherlock/

 番組宣伝はほぼゼロだったと思うし、私もあまりテレビは見ない方なんですよね。
 それでもこの番組にちゃんと引っかかった(?)というのはエライかも。これも一種のアンテナだと思いますと。

 シャーロキアンというほどではないけれども、一時期は本当に読み込んだシャーロックホームズシリーズなので……やはり思い入れはございます。
 イギリス、グラナダテレビ制作の、ジェレミー・ブレット主演「シャーロックホームズ」はDVD全巻持ってるし。
 なんだかんだで好きなんですね。(^^;)

 そういえば、そんな話をしていたら、ルブランのアルセーヌ・ルパンが好きという方に、なんか対抗心を見せられたことがありました。

813 (新潮文庫―ルパン傑作集)813 (新潮文庫―ルパン傑作集)
(1959/05)
モーリス・ルブラン

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 よくわからないんですが、シャーロックホームズ好きとルパン好きって対抗してるんでしょうか? (^^;)←世事に疎い
 なんにしても私は(じつは)アルセーヌ・ルパンのほうは読んだことがないので、なにを言われても返事のしようがなくて、申し訳なかったです。(^^ゞ
 ……考えてみるとイギリス対フランスなんだ……それでかな?
 でも、その対抗心に、日本人は関係ないですよねえ(笑)

 ともあれ、シャーロックホームズは19世紀末が舞台となっていますが、それを現代に移しての、まあ翻案ということになりましょう。
 第一話のタイトルが「ピンク色の研究 A Study in Pink」というので思わずウケてしまいました。(サー・ドイルのほうのシャーロックホームズシリーズには『緋色の研究 A Study in Scarlet』というのがある)

 なんにしても、1シリーズがわずか3話ってどいうこと?! と思いましたが、上記、番組ブログによると「イギリスのドラマってそう」なんだそうです……どうしてなんだイギリス;; 1クールというものは存在していないのか?

 とはいえ、1話の放送時間がおおむね1時間半ということで、連続ドラマの1話分としては長い。NHKはCMが入りませんから、このドラマをもし民放で放送したら、2時間サスペンスと同じ尺になるのでしょうね。

 1話で、日本のドラマの2話分あると考えても6回分相当か……やっぱり10話もないんだ;;
 おまけにこの3話目のラストは「えーこれで終わり? 終わってないじゃんちっとも!!」という終わり方。「来週につづく!」というテロップが出るんじゃないかと思っちゃったほどです。(^^;)

 これで1シーズンを終わりにするとは大胆な。
 第2シーズン(やっぱり3話分;;)は現在製作中で、この冬にBBCで放送予定だそうです。
 日本で第2シーズン放送されるころには忘れてるんじゃないか私::

 なんにしてもけっこう大胆なシャーロック像で、楽しめました。
 ものすごいマシンガントーク(頭の回転速度に対し、発話する速度が間に合ってないんだろうなーと感じるくらい)もすごいけれども、元祖ホームズ先生よりはちと精神的にアブナいんじゃないかというところもあって、なかなか面白かった。

 ワトソン博士が、「ワトソン君」ではなく、ファーストネーム「ジョン」で呼ばれまくるのはなんとなく楽しい。(^-^)
 舞台は現代ですから遺伝子鑑定ありケータイ電話(スマホ)、パソコン、ネットががんがん使用されます。
 それでも意外や、「ホームズもの」の雰囲気が出るんですね。
 やはりこれは、ホームズ先生のホームグラウンドで制作されるだけのことはあるのでは、と思いました。

 面白いのは、原作ではワトソン博士はホームズ先生の活躍を本にしているのを、こちらの「ジョン」は、ブログに書いてアップしているんですよね。
 このへんはなるほど現代的。
 
 意外と19世紀末⇒21世紀初頭の変換は無理がなくて自然です。
 つまるところ人間のやることには大きな変化はないってことかね、などと思ってみたり。

 ホームズものには欠かせないモリアーティ教授も登場しますがその翻案ぶりも楽しかったです。
 ぜひ第2シーズンも放送してほしいです。

 私はどうもドラマは、ぐだぐだでどろどろの人間関係を描くなんていうものより、人間は当然出てくるにしても、「ストーリー」自体がばんばん進行するタイプの方が好きみたいです。
 大きな声では言いにくいですが、向田邦子、橋田壽賀子、倉本聰(文中敬称略)などのドラマ、NHKの朝ドラ、ああいったものは鳥肌が立つほど苦手だったりする;;
 ドラマで見るなら、人間それ自体にはあまり寄っていかず、スピーディに「筋書き」が展開していくというタイプの方がいいようです。
 ストーリーを主体にしてみても、もちろん人間のドラマにはなるわけなので、なにもわざわざ、電子顕微鏡で人間を拡大しまくるような作り方をしなくたっていいじゃないか、と。
 そんなふうに感じているらしいです。

 ということで「シャーロック」は私の好みといえるでしょう。
 ジェットコースターではないが展開はすばやく、人間の機微に粘着せずともきちんとその人物を描写しているという、バランスがいいのです。

 第2シーズン、いつ見られるかなあ。(^^;)
 
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2011.08.29 (Mon)

あれから2年がたちました

 秋ですね~。
 昨日はなんだか久しぶりの晴天となりまして、「こういう日に出かけるのももったいないような」と思うほどでしたが(掃除とか洗濯とか)。
 でも、出かけた先では、風に吹かれればもはや熱風ではなく、見上げれば空を流れる雲は秋の雲。
 秋だなあ……と思いながら汗を拭っておりました。
(秋だけど汗はかく程度に暑い)

        ●

 民主党の党首選については、さすがに「究極の選択もここまでくると……」と思ってしまいますが。
 海江田さんはいけませんね。
 二次補正予算、国債発行にかかわる法律を成立させる条件となった、3党合意、つまり、「バラマキ3Kといわれる、子ども手当て、農家戸別保障制度、高速道路無料化をやめたり見直しをする」という「約束」を反古にすると言っていますね。

海江田氏、3党合意の見直し視野、他候補は「順守」
2011/8/28 19:42 日本経済新聞

 いちど人と約束したことを違えたのでは、信頼関係というものは成り立ちません。
 菅直人氏のペテンにかけられたと嘆いたのは鳩山由紀夫さんでしたが、あれと同じか、あるいは、天下の公党、まして政権与党が正式にまとめた話を反古にしようというのですから、あれより悪いです。

 左巻きって、どうしてこういうこと、平気でやるんだろう。

 反核馬鹿が、反核の世論を盛り上げるためならどんなにひどいデマをでっちあげてもいいんだとばかりに、でたらめを見境なく吹聴しまくるのと、根は同じでしょう。
 自分の目的のためならなにをしてもいい、と思っている。
 ところが、さすがにそのやり方はないだろうと批判されると、泣くわキレるわ恫喝するわ。
 これじゃあどうしようもない。

 他の候補者で、「そんなこと(3党合意を反古)をしたら、そのあとの国会運営がたちゆかなくなる」と言っていましたが、そのとおりでしょうね。
 もし3党合意を反古にするなら、その合意を実行することが前提条件だった、二次補正予算なども、最初から全部やり直すのが筋ですよ。
 そんなことをしたらどうなるか、その責任を負えるのか。その覚悟があって「3党合意を反古にする」と言っているのか。

 そんなことをして復旧、復興がさらにおくれたら、海江田さんが腹を切っても間に合う話じゃなくなりますよ。

 民主党に政権をとらせたらどうなるかは「火を見るより明らかだ」と私は2009年に申しましたが、……なんでこう世の中には、「火を見るより明らかな」ことが、わからない人がいるのかな。
 わからないわけではないが、無視できると思うんでしょうかね。
 だとしたら、いくらなんでも世の中というものをなめすぎています。

 もし海江田氏がつぎの代表となり、総理大臣となり、3党合意を反古にするのであれば、海江田政権も短命にならざるをえないでしょう。
 海江田さんとしたら、たとえ半年でも三ヶ月でも、総理大臣の椅子に座れるならそれでもいいと思っているのかもしれませんが(そう思っているとしか私には思えない)。

 いまは日本も危急存亡の秋(とき)なので、そういう「ごっこ遊び」をしている余裕はないんですよねえ………。
 
 私は民主党はもはや、「大政奉還」をすべきだと思っていますよ。
 その能力がないものが政権を取ることほど国にとって危険なことはない。

 2009年夏以来、もうこれで何度目になるか………でも言わずにはいられない。
「こんな連中に投票なんかしやがったのは誰だ」
 
 ………国会はリコールできないというあたり、どうにももどかしいですね。
 
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2011.08.28 (Sun)

本日お出かけ

 本日おでかけのため、お休みです。m(_ _)m

 今年も秋田、大曲の、全国花火競技大会を見ることができました。(BS hiで)
 例年より一ヶ月遅れの隅田川花火大会も開催されてましたね。
 うちはテレビ東京が映らないので、毎年大曲の方を見ています。

 今年はそもそも、「よく開催して下さいました」という感謝感慨がまず先にきますね~。
 で、この夏の花火というのは迎え火、送り火、という意味があるわけですが、今年はなおいっそう、「祈り」の思いを見ることができたと思います。

 どこかで、お声明(しょうみょう)をBGMにしていたのがありましたよね?
 あれ、見ながら泣けてしまいました。(^^ゞ

 あとは、ハート形とニコちゃんマーク(なのか?)が印象に残りました。いいですね~v 夜空に輝き広がる笑顔です。(^^)

 大曲は最後、打ち止めの花火があがりますと、お客さんと、花火師さんたちが、それぞれ、ペンライトと発煙筒(?)を振り合っているのが、なんともいえず、いい光景ですね。
 ありがとう、ありがとう、という思いが双方からこめられた光の群れです。

 今年は大曲は桟敷席がちょっと値上げしていたようですが、それでも会場はもう、あいかわらずの人ごみでしたね~。カメラがお客さんの姿を映すたび「ひえ~;; すごい人出だ~」と軽くビビりました。(^^;)

 ビビったといえば――あれ、何時頃だったんだろう、見ていたら、救急車のサイレンが鳴りまくり響きまくり、テレビ越しに見ている私の耳にもくっきり聞こえたので、「会場でだれか気分が悪くなったとかだろうか」と思わず心配に;;

 なんにしても夏を見送る行事も終わりまして。
 秋ですねえ……。
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2011.08.27 (Sat)

吾声なく悲泣す

 やっと菅さんもお辞めになりましたが。
 あいかわらず、うちの(静岡県)知事は満天下に静岡の恥をさらしてくれて絶好調です。
「原発問題について日本人を覚醒させた功績は非常に大きかった」
 だと。

 そりゃあなんですか、さっさと非常事態宣言して事故対応に官邸が乗り出すべきところ、ぐずぐずぐずぐずして東電一社の責任に帰したがったうえ(というか、いまだに政府はこの事故対応の権限掌握してないんですよね。すごい責任回避っぷりだ)、アメリカ政府からの支援を(事実上)断り、あげくの果てには現場の邪魔をして水素爆発をばんばんやらせたことを言ってるんですか?
 たしかにあの水素爆発がなければこれほど放射性物質が拡散することは無かったし、ということはこれほど被害が拡大するはずも無かったし、それがなければこれほど世の中に放射能ヒステリーが拡散することも無かったでしょうよ。
 それが功績ということですか?
 それを功績だというのですか?

 ――て、そこの取り巻きの記者! だれか突っ込んで! 馬鹿面下げてメモなんかとってる場合か?
 などと思ってしまった昨夜の静岡ローカルのニュースでした。(^^;)
 
 でもじっさい上記の通りなんですよ。
 東電さんのあれこれに不備や手落ちがあったことは事実だが、ご丁寧にそれをよりいっそう拡大してくれたのはほかならぬ政府ですぜ。
 それで何を言うかと思えば、浜岡原発の停止、脱原発。
 そんなことばかりいって粋がっているが、肝心の震災からの復旧作業についてはなにもしていない! がれき処理ひとつきちんと法整備もできていない。
 
 菅さんの「やるべきことはやった」という言葉に
「そうですね。日本を破壊するという目的はある程度、果たしましたものね」
 と納得してます。

 しかし民主党政権による悪夢はまだつづく。
 ――ほんとにこれって誰のせいなんでしょうかね。
 私は民主党には政権を取らせてはならないと言ってきたので「いわんこっちゃない」と思うわけですが――憤懣やるかたないとはこのことでしょうか。
 結局は国民の責任なんですが……どうなんですかそのへん。

 静岡県もあんな××が知事になって、馬鹿発言を繰り返しては静岡の恥をさらしてくれているので、もう、なんとも言えない気持ちになっております……。

 こういう世相のときは、自分ができることをやる、本当にそれしかないんですねえ……。

 わかっているつもりだったけれど、日経BPオンラインで連載されている「ジェラルド・カーティスの東北ダイアリー」で現地レポートを読めば、いまの政府がいかに「なにもしていない」か、それどころか、川の淵に立っているひとを水に突き落とそうとしているかがわかります。

ジェラルド・カーティスの東北ダイアリー
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110819/222173/

 はっきりいいますが、これを読むと脱原発の話はもっとあとでいいんだと痛感しますよ。

 あいつら優先順位がわかってない、とは、私も2、3ヶ月まえには言いましたが、その言葉を繰り返します。
 あいつら、政治家のクセして優先順位がわかってないよ。
 本当にわかってないなら、あいつらもう、政治家なんかじゃないよ。
 そう思います。
 
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10:19  |  身辺雑記2011  |  EDIT  |  Top↑

2011.08.26 (Fri)

Apple

 北海道民の皆様、静岡県民のひとりとしてお詫び申し上げます。
 本当に申し訳ない。m(_ _)m

北海道知事が「ばかばかしい」静岡知事と原発バトル勃発
2011.8.25 18:42
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110825/lcl11082518430003-n1.htm

 北海道と静岡では冬の厳しさが違います。静岡の基準でよそさまについてものをいうのは「おこがましい」というものです。
 静岡の川勝知事は民主党です。
 とめる必要の無い(というか現況においてはとめてはならない)浜岡原発の停止要請を「英断だ」と抜かした人です。もともと北海道高橋知事がおっしゃるとおり、「変わったことをいう」人間です。
 ご容赦くださいといいたいが言えません。
 本当に申し訳ありません。m(_ _)m

 ちなみに私は川勝氏には票を入れていません。

      ●

 思えばMacとの出会いは……えーと……まだ20年は経ってないけどそれに近いかな。
 会社のPCは基本、リースのものでしたんで、リース会社さんが「うちはMacは使わないよ」という言葉にもめげず、
「まあ眺めるだけでも」
 と3日ほど置いていったMacを見た。
 それが最初でしたか。

 当時のパソコンはPC-98(NEC)、OSはMS-DOS(バージョンは忘れた)、内蔵HDはなくて外付けで、容量40MB。
 あたりまえですがシングルタスク、パソコンを立ち上げたときにどのアプリが最初に出てくるかを、「AUTOEXEC.BAT」を各人が書き換えるという(自分がいちばんよく使うものが起動するように書き換えるのです)、ひそかなバトルが繰り広げられているときでした。

 最初にみたMacの詳細を覚えていませんが、Performaより古いものだったのは間違いない。
 色気もへったくれもないPCしか見たことがなかった私には、すでにGUIつまり、文字ではなく画像、図、というものを取り入れた画面、当然直感的に操作できるメニューに、ものすごい「親しみやすさ」を感じてしまいました。

 なんですかあとで聞いたらMacユーザーって「マニアック」なイメージだと言われて、私はかなり驚きました。
 あんな、自分でもろにバッチを書いているようなPCに比べたら、GUIのMacの方がはるかに「素人にやさしい」のに。
 マニアとは対極にある私にとって魅力的だったんで、――なにそのイメージ? と驚いたのでした。

 後年、Performaが発売され、これならなんとか買えるというので買いまして――まだ、OSが「漢字talk7」とかだったと思います。(^^;)
 爾来Mac好きできたのは、「基本的には機械音痴な私でも、親しみやすく使える」というところがあったから。

 Windowsに関してはいまの「7」になってようやく、そんな感じになったかなと思ってます。私にとってはWindowsのほうがはるかに「(機械の)マニア」向けというイメージでしたよ。
 むきだしの「機械」な感じは、私はいまにいたるも苦手です。なんせいまだにテレビの接続には電器屋さんに来てもらうくらいで。(^^;)

 Macの、「ビデオデッキのように家電を扱う感覚で、使えるパソコンを」という概念は、私にはどれほどありがたく、嬉しいものだったか――これは同じ機械音痴の人じゃないとわかってもらえないと思う。(^^;)

 しかし、現実には、Macの市場におけるシェアはもはや風前の灯、もういつつぶれてもおかしくない状態。
 周囲にも、「そんなもの」と言われ、笑われ、馬鹿にされ、いじめられながらも、しみじみ寂しかったり悲しかったりしても、「売っている限りは使うよ」と、使えなくなることは覚悟しつつ使っていまして。
 ………どうも私の人生にはこのパターンが多いんだよなー。(^^;)
 私はたんに、自分が好きなものいいと思うものを選んでいるだけなのに、周囲からは、少数派だと言うだけで馬鹿にされるという。
 なにをいってもしても否定されるんだから、他人に期待しない、という傾向が強まるのは、無理のないことではあるまいか。

 それが、いちどはAppleを追われたジョブス氏が戻ってきてからは、iMacのヒット以来、ずいぶん風通しのいいことになりました。

 しかし――iMac、iPod、iTunes、iPhoneにiPadと、業界の常識をひっくりかえしつづけてきたジョブス氏がCEOを退任ということで。
 さてどうなるのかなあ――と思っております。

 いままでのAppleの快進撃はひとえに、ジョブス氏のアイデア、その戦略に負うところが大きいわけで。

 ことに、どういう取引の結果なのかは知りませんが、SIMフリーでくるはずのiPadの日本における販売方法には(世界でも日本だけでしょこんなことされてんの)、Appleの姿勢自体を疑わざるを得なくなりまして。
 ………正直いって、いま、ちょっと気持ちが離れかけているのですね。

 現在は私用ではMacBook、仕事では主にDynabook(東芝)を使っていますが(経理用は富士通)……次に私用マシンを買うときはどうなるか、ちょっとわかりません。Windowsもようやく、使いやすい「感じ」になりましたしね。

 ジョブス氏についてはなにはともあれ、とにかく、ご健康をお祈りしております。
 
 Appleそのものだった人が去っていくのはやはり寂しいです………。(会長に留まるにしても;;)
 
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2011.08.25 (Thu)

言葉のニュアンス

 よく拝見しているとあるブログ様の記事。
 プールに通っていらっしゃるそうですが、そこにあった注意書き。

コースロープにはみだらにぶら下がらないでください

 コースロープは、競泳用のプールで、コースを区切っている浮きですね。
 上記注意書きを見て、しばし沈黙、のち爆笑。
 みだらに?
 そりゃ「みだりに」ですよ!!!(抱腹絶倒)

 みだら、は漢字で書くと「淫ら、猥ら」。
 みだり、は、漢字で書くと「妄り、乱り、猥り、濫り、漫り」。

 というところで気がつきました。
 辞書には、みだり、のところに「みだら」に同じ。というのもある! えー?!

 上記の注意書きの場合、「やたらにコースロープにぶら下がるな」という意味ですから、「秩序を無視するさま、自分勝手、度を過ごしているさま、むやみやたら」ということで「妄り」でいいわけですが。
 なんと。
「みだり」には、「淫ら」――性に関してふまじめで、だらしがないさま。淫猥。(大辞泉)
 と同じ意味もあるんですね~。へえ~。

 ………でも使わないなあ……。
 私の中では妄り、と淫ら、はまったく別の意味の語として認識されてますねえ。うーむ。

       ●

 安心、安全、ということを、日本ではよく言いますね。
 
 安全、というのはわかる。
 しかし、安心とはなんでしょう?

 これは以前だれかから聞いたことなんですが、「安心て、たとえば英訳できないんだよね」。
 英語に限らず、何語であろうと外国語には訳しにくい言葉ですが、我々の場合、もっとも身近な外国語は英語ですから、そのように言ったわけで。

 なるほど安心というのはsafe(安全)ではない。
 日本語で安心、とか、安心する、安心できない、というのを翻訳するときは、適宜「意味」を拾って言葉を使うので、もろに該当する単語はない。
 feel relieved, reliable, dangerous(安心できない~というときの訳として)、relax なんて言葉を使う場合もある。

 日本人がいう「安心」とはつまりなんなのか。
 安全、安心な食べもの、とかいいますが。
 安全はわかります。なにか一定の基準値を設けてその範囲にあれば安全と言える。
 しかし安心は?

 訳すと、信頼とか、解放感とか、リラックスとか、――sense of security なんていうと、訳というより「説明」になっちゃう。
 いずれも、はずれではないが、「安心」(という概念)をそのまま言い得ているとはいえない。

 安心とはつまり、なにか。
 あらためてじっくり考えてみますと、なにも基準はないんですよねこれが。
 信頼、信頼性というものが関わっているのは事実でしょうが、信頼感といってしまうと――たとえば「信頼できる食べもの」というと「安心な食べもの」というときのニュアンスとは明らかにズレている。

 安心というのはじつに、考えてみりゃ曖昧な概念だよなーと思います最近。

 なにせ、口を開けば不安だの怖いだのという人がいますが、ありゃあもう、「安全」とは無関係なところに、その不安や恐怖があるわけなんで。

 ある一定の基準を満たせば安全というのが、社会における「約束」なんですが、その約束が守られているにもかかわらず、「でも不安だ」「でも怖い」というとき、そこには、客観的な根拠というものがない。
 ようは安心かそうでないかは、主観の問題。
 もっとはっきり言わせてもらうと、その人の「心の姿勢」の問題。

 どんだけ理を尽くして「安全」を説明しても、「でも不安だ」「でも怖い」――こうなってしまってはまったく無意味。
「でも」には根拠が無いんだもの。なにをもって逆接を持ってくるのか、誰にでもわかる理屈はない。ただ主観だけ。
 理屈や理論というものと無関係なところにあるんですよね、その「安心」とやらは。

 不安になれば果てしなく人は不安に「なれる」。なにごとであれ、リスクというものは「ゼロ」にはならないのですから。

 毎年うけるインフルエンザの予防接種だって、なんらかの事故に遭うリスクはゼロではないです。
 先日、気の毒な事故になってしまいました川下りのリスクについても、うちの知事は「100%の安全が確保されるまでは営業再開はない」みたいなことを言いましたが、絶対安全ということはありえません。
 今回の事故は、リスクに対する不備はあったかもしれませんが、では、その不備をなくしていれば防ぎ得たかというと、それはない。

 どーしても100%、絶対の安全を確保したいなら、川下りを認めないというしかない。

 それはまあ極端ですが、でも、世の中全てはそういうもの。
 絶対の100%の安全が確保されなければ安心できないなどといっていたら、人間は何もできません。

 安心、安心という人は何を求めているんでしょうか。
 あらためて考えていたら悩ましくなってきましたよ;;
 それは単なる信頼感とは違う。
 
 安心の「正体」はなんなんでしょうね。
 本来ならまったく問題のない商品を、なんかよくわかなんない妄想に基づいて「不安だ」「怖い」といって避けていく、そういう行動によって生じる損失が風評被害だと考えると。

 じゃあどういう状況になったら、不安と恐怖がなくなると言うのだろう。
 そう考えますと――私にはわかりかねます。(^^;)

 不安や恐怖は結局、自分で生み出しているものだ、というのが私の考え。
 私には、こういう場合の「安心」とはつまり「自分でリスクを判断しなくていい」状態のことではないかと思えてくる。

 こういうたとえ話を聞いたことがあります。
 ――野原を歩いているときに、薮の中から虎が現れた。怖いと思って(そりゃ思いますよ)逃げ出す。
 大きな木があったのでやれ安心と飛びついてみたら、頭上に蛇がいた。ふと足許をみたらこれがなんと断崖絶壁、とんでもないところに生えている木に飛びついちゃったんですね。
 虎と、蛇と、絶壁。
 追いつめられて必死に周囲を見回すと、谷底へ蔦葛(つたかずら)が下がっている。これにつかまって逃げようとする。
 蔦につかまりながらなんとか、蛇と虎とからは逃げ出せたが、今度は妙な音がする。なんだろうと思って振り返ったらリスがその蔦の根を齧って食べている――

 あれが怖い、それが怖い、と思っていると、最後には、リスにさえ命を脅かされて怯えなければならないのだ、――そういうお話。

(ところがこの話、中村天風師の著書『成功の実現』に載っていたのですが主旨がぜんぜん違うのでびっくり。(^^;) 解釈ちがいでいろんなことを説ける寓話なんですねえ)

成功の実現成功の実現
(1988/09)
中村 天風

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 びくびく怯えている人間は、最後にはそよ風ひとつでも怯えるよ、ということでした。
 元来、小心者で心配性で神経過敏で取り越し苦労が多い私としては、ひじょーに感ずるものがあり、なるほどと納得しました。
 怯えても怖がっても心配しても、目の前に虎や蛇がいることには変わりない。逃げるにしても、怯えて無闇に逃げるのと、冷静に状況を見て「対応」するのとでは、まるっきり結果が変わってくる。そう納得した次第です。
 
 リスクはどんなものにもある。それがどの程度のリスクなのか自ら考え、判断していく、というのは、本来なら、人間としては当たり前の本能じゃないかと思うんですが。
 しかしその本能を放棄して、ブランドイメージなのか、過去の実績なのか、とにかく「これは絶対大丈夫」だと「思うことができる」――それを「安心」だ、と言っているのではないか。

 よく日本は公共サービスの「過保護」も指摘されますね。
 駅のアナウンスでは、忘れ物に気をつけろだことの、電車がくるから下がれだことの、ケータイはマナーモードにしろだことの、ウルセエよ、と、外国のかたには指摘されちゃったりします。(^^;)
 私も実はそう思うことがある;;

 しかしあれは――なにか事が起きたとき、なんでアナウンスしないんだ、どうして注意しないんだ、などといって、自分の判断が甘かったのを棚に上げ、責め立ててくるクレーマー対策という側面もあるんですよね。……違う?
 それって結局、自分がすべき判断を他人に任せて「これで安心だ」と言っているのかもしれません。

 安心て、そういうものなのかな。
 だから訳のしようがない言葉、概念になっているのかも。
 一種の精神不安の裏返しですものねえ……。
 
 安心は。
 本来の「安心立命(あんじん・りゅうみょう)」に還るべきなんじゃないだろうか。これなら訳せます。
 安心立命――「人力を尽くしてその身を天命に任せ、どんな場合にも動じないこと」(大辞泉)。

 自暴自棄になれって話じゃない。「人事を尽くして天命を待つ」といいますが、どんな現実が目の前にあっても、自分にできることを精一杯やるという「覚悟」ができたとき、人間は本当の意味での安心――「動じない心」を得ることになる。

 してみると、我々がふだん見聞する「安全安心」の「安心」は、単なる甘ったれ――誰かなんとかしてくれ、私はこれじゃ嫌だし、対応する気もないから、誰かなんとかして――ということかもしれない。

 意外や、これだと訳語はある。
 dependence――これにin- がつくとindependenceで「独立」ですが、dependenceは「依存」です。

 ………ああ………なんだかすごく腑に落ちた。(^^;)
 なにしろ、put dependence in~で、「~を信頼する」というような意味になるんです。
 
「安全安心」というときの「安心」は、ただ「信頼」というのではない、と感じるのは、この「依存」というニュアンスがあるがためだったんでしょうか。

 いいかげん我々も、もうちょっと「大人」になってもいいんじゃないのかなと思います。
 ますが。
 そんなこというとまたヒスられて怒られるかな~。(^^;)
 
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10:08  |  身辺雑記2011  |  EDIT  |  Top↑

2011.08.24 (Wed)

薮の中

 今日はまたちょっとお休み状態とさせていただきます;;

誤訳御免。」様がずーっと更新されないので、ちょっと心配になるやらつまらないやら。
 夏休みだと思っていたんですけど、もう10日以上経っているので、あらどうなさったのかしらと気にしております。

       ●

 島田紳介さんが芸能界引退ということで。
 なんとNHKでもニュース速報になりまして。
 通常、芸能人が引退といってもNHKでニュース速報ということもまずないと思われるので(ニュースにはなるにしろ《速報》というのがねえ…)……それは島田さんが大物だからということなのか、それとも、引退理由がいわくありげだからなのか?

 昨夜は「?」と思ったまま寝てしまいまして、今朝、ワイドショーを見ましたけれども、……やっぱりよくわからない。
 黒い交際はたしかにいかんのでしょう。いかんのでしょうが、なんだか話があちこち腑に落ちません。

 つまり、なにがいけないので引退するというのでしょうか?
 
 暴力団ならびにその関係者とずぶずぶの関係というほどでもないようだし、そもそも、その「親しい」つきあいの証拠となったらしいメールもかなり古いもの(5年くらいまえ?)というのも不思議。
 なんでそんなメールがいまごろ出てくるんです? どこから?

 うちの母はケータイでもメールとかいっさいしない(できない)ので事情がいまいちわからないらしく、
「メールってそんなに保存しておけるもの? そんなに何年も経つんじゃケータイ買い替えちゃうでしょ?」
「基本的にはメールのデータは買い替えても移してくれないねえ。だけど古い端末にはそのまま残っているし、パソコンを使えばケータイメールの管理/保存はできる。やろうと思えばできるけどね」

 メールもすっかり日常会話の手段になってしまい、メールも通常はがんがん消去するか、機種変更のときに事実上そのまま廃棄してしまうかで、いちいち、メールを保存することはないですね、私の場合はですが。

 管理ソフトを使ったり、そうではなくてもなんらかの手段でメールをそうやって何年も保存しておくのには、なにかの理由があるときでしょう。私には経験ないけど。
 なにか大事な証拠になりそうなメールとか。
 なにかの契約に関するメールとか。

 そういうものなら、保存はしておくでしょうけど、日常会話程度のメールはどんどん消去してしまいますよ。

 そういうレベルであるはずのメールを後生大事に持っていて、ここで出してきた人は誰でその理由は何か。

 あの記者会見からではぜーんぜんわかりませんね。

 結局島田さんの引退はだれにどういうメリットもしくは理由もしくは「取引」があってのことなのか。
 目的はなにか。
 まるで見えてきません。

 先だっての送り火のときと同じだなあ。
 なにか隠していること、表沙汰にはしない(できない)部分、そこにこそ核心があるのをいわないから、ものごとの道理が立たず、意味不明なことになってしまう。
 そういう印象を受けます。

 島田さんが黒い交際っておっしゃいますが、私はどうも、吉本さん自体がけっこう黒っぽく見えるんですけど………偏見と誤解ですかね。(^^;) でしたら申し訳ないのですが。

 もともと芸能界というところは、そういう――反社会的とまではいわずとも、「堅気」ともいえない世界に属していたわけなので、私としてはそんなに驚きもないし意外でもない。
 むしろ、島田さんはなにかの「犠牲」にされているのではないかという感触を持ってしまいます。事実であるかどうかはもちろん、わかりませんけれど。

 どうにもすっきりしないお話ですねえ。

 
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10:21  |  身辺雑記2011  |  EDIT  |  Top↑

2011.08.23 (Tue)

「ほんもの」の見分け方

 ちょっと気になっていた本を買ってみました。

人生がときめく片づけの魔法人生がときめく片づけの魔法
(2010/12/27)
近藤 麻理恵

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 私も風水というものに出会って一念発起、片付けを始めて都合……えーと……もう6年くらいにはなります。
 
 原因不明の体調不良で事実上3ヶ月寝たきりになったりした関係で、それまでの私の部屋というのはまさに「汚部屋」。
 なるほどこれではいかんというので、とにかく、体調を見ながら片付けを始めたら、もう、出るわ出るわゴミの山。
 押し入れだけで、45リットルのゴミ袋で6袋分くらいはあったはず。
 それ以外にも本を処分しビデオを処分し、それらを入れていた衣装ボックスを処分し。

 風水というのは「占い」ではなく「環境学」である、ということで(西に黄色とかは考えなくていいんです、べつに)、それを参考にしながら部屋を整えて、だいぶ、よくなりました。
(考えてみたら、そうやって片付けが進むと体調も回復したんだよなあ…)

 が。
 本書に出てきますが、片づけても収納を考えても、まーだなんとなく、「すっきり」感がない。
 なぜか。
 どうしたらいいのか。

 この点について、著者の「こんまり」さんこと、近藤麻理江さんのご指摘、ご指導、いかにもごもっとも。
 まず最初に行うのは片付けではなく、「どういう部屋にしたいか」「そこでどんなふうに過ごしたいか」「理想的なお部屋で理想的に過ごす自分」を具体的に、きちんとイメージすることだというのです。
 これはなるほどと思いますね。

 ただいま、いろんな、片付けや収納のハウツー本というのはありますが、やはり、この「人生がときめく片付けの魔法」は、ちょっと群を抜いています。
 というのは、単なる技術的なことばかりではなく、「心構え」みたいなものに、かなり力点を置いているから。

 風水でも、ものを処分するとき、(ものによってはきれいに拭き取りなどしてから)感謝をしながら処分しましょう、などと言います。

 いままでお世話になったんだから、そうだよねなどと私も思ってきたんですが。
 まだ甘い。
 
 こんまりさんに言わせると、「あなたのモノは、あなたの役に立ちたいと思っている」とのこと。
 どうもこんまりさんも、独特の感性がある方で、――「なぜ、そこにそのモノがあるのか」「あなたが選んだから」「必要だったから」――つまり、すべては、人とのご縁がそうであるようにモノもご縁によってそこにあるのだ、という。
 そのモノがあなたのところにきたのも、貴重で尊い出会いであり、必ず意味があることだ、という。

 ちょっと衝撃を受けました。

 モノを大事にする、モノに感謝するということを、私はただ、言葉づら、表面を撫でていただけだ、というのを痛感しました。

 モノはあなたの役に立ちたいと思っている、だから、ものを大事にしてあげてほしい。
 そういうことなんですね。

 ものを収納するのでも、靴下をきれいに、クセのないよう、あるいはゴムを広げすぎて傷めたりしないように収納するというのが出てきますが、「技術」だけならそういうこと。
 でも、なぜ、そのようにするか。――靴下はさんざん狭い靴の中で、あなたの体重をうけとめながら頑張ってその役目を果たしている。
 洗濯して、タンスにしまうとき、というのは、靴下にとっては大事な休憩、ほっとできる時間のはず。
 それが、まるめて縛るだとか(パンストなど)、履き口をぐるんと折り返して一足分にまとめるためにゴムを広げているだとか。
 それではあまりに可哀想だ、というのですね。

 こういう調子ですべての「モノ」について、彼らの労をねぎらい、労に報いる、また、収納時にはできるだけ、気持ちよく過ごしてもらいたい。
 そんな気持ちが、もう、徹底的にあるんですね。

 なるほど――とわたくし、大いに反省しているところです。

 基本的に、私は私という人間が好きではありません。(現在はそうではなくなるように鋭意努力中)
 ということで、あまり自分というものを大事にしません。
 昔はよく、家庭科の宿題で、ちょっと友達の分も手伝ったりしましたが、そういうとき、自分の作品(スカートを作りました)はテキトーにやっていながら、友達の分は丁寧に、ミシンの縫い目がつったりしないように慎重にやりました。

 ことほどさように、私は「私が使うものだから、べつにどうでもいい」という態度でございました。

 自分を大事にしない人は、他人のこともじつは大事にできないのだ、といいますが、それは「もの」に対しても同じことだったんですねえ。

 せっかくその人のために役立ちたいと思っているものを「どうせ私が使うんだから」とおざなりに――こんまりさんに言わせれば「とても可哀想」な状態に――している、ということの重大さを、衝撃を受けつつ、感じました。
 これはもう、猛省です。

 我ながらものの扱いが粗雑だとは思ってきましたが、それは私が生まれついて粗暴な人間だったからではなく、こんまりさんが「モノはあなたの味方です」というものを、べつにいいよそんなこと、といって、その「味方」たちの無言の愛情を、拒絶しまくり、それどころかかえって踏みつけにするようなことをしていたんだなと思いました。

 ……こういう視点は、ほかの「収納術」の本ではなかなか見かけますまい。

 というか、私が片付けや掃除の参考にしてきた、風水の本だって、つまるところはそういうことをちゃんと書いてあるんですよね。
 ただ、私があまりにも、その言葉の上っ面しか読んでいなかった、ということです。
 感謝しましょうと言われて、そうだそうだと言ってはいても、なにも、心のなかでは、モノを大事にするということがわかっちゃいなかった。

 なるほどなあと思いました。
 これはもう極端に言うと、自分の生き方そのものを変えるという話になりますね。(^^;)

 もちろん収納、片付けの実践としても知恵の詰まった一冊。
 片付けても片づけても、なぜかあんまり納得できていない、という方にはご一読をお勧め致します。
 なぜ、片付いているはずなのにスッキリ感がないか、わかるかもしれません。

 それにしても思いますのは。
 これからの時代の「ほんもの」の見分け方です。

 私、最近、この先、「ほんもの」をどう見分ければいいか、わかってきたぞ、と思っているのです。

 キーワードは「愛」です。

 また愛かなんて思っちゃいけません。

 いままでの世の中は、他人を怖がらせ、不安がらせるものが商売になりました。
 メフィストフェレスみたいに、儲かりますよ、濡れ手で粟ですよと、人間の「貪欲」を刺激するもの、その貪欲を「正当化」する(と思われる)ものがウケました。

 しかしこれから先の世の中はそれでは間に合いますまい。
 いっときはいいように見えても、そういうものはいずれ淘汰されてしまいます。
 現在、世界的に、市場経済がガタガタになっていますが、――リーマンショックのときに対応しておけばよかったのに、まだ屁理屈こねて放置した結果だからしょうがない――、あらゆることが、こういうことになっていきます。

 この先、生き残る本物には必ず、愛があります。
 同じように商売するとしても、自分を愛し他者を思い、目先の利益だけではなく(目先の利益も大事ですんで)、本当の意味でその人の役に立つもの、その人の人生を豊かにするもの、そういう思いがあるものが本物として生き残る。

 他人を怖がらせて商売する、他人を傷つけることで金儲けするなんてのは、偽物だと思っていい。
 
 20世紀までは物質至上主義でやってきたけれども。
 この先の時代には、ただものがあるというだけではなく、ものや人を大事にするという気持ちがあってこそ、生きていけるという状況になるでしょうね。
 そういう意味ではたしかに「格差」が広がるのかもしれません。気持ちの格差が。

 でも、それは解消するのはそう難しいことじゃないと思うんだけどなあ。

 なんにしても自分も他人もすべての「ご縁」を、愛する。大事にする。
 そういうことを大事にしていけば大丈夫。
 そのように感じました。
 
 
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10:45  |   |  EDIT  |  Top↑

2011.08.22 (Mon)

もったいないお化け

 涼しいを通り越して肌寒い気温になっております。皆様、お健やかにおすごしでしょうか。
 いや、じっさい、暑さがなくなってほっとしたいところですが、これだと逆に風邪を引かないかなと思っちゃいますよ;;

 明日は処暑、「暑さがおさまるころ」だそうなんですが。
 処暑よりちょっと早くに涼しくなりました――10月並の気温てマジすか;;

 しかし、これでまた今週末頃から予想最高気温が33℃とかって。
 この気温差がたまりませんね。本当にどちらさまもお体をお大事に。

       ●

 私は月曜日の朝だというのにすでにバテてます……。
 平日より週末の方が忙しい(結果的に)というのはどうにかならんかなと思いますがどうにもならん;;
 また、今日は朝から肉体労働だったので…なんとも。(^^;)

 ところで昨日の、フジテレビの偏向放送姿勢の是正を求めるデモ。

 私は午前中仕事、午後私用で出かけていたので、ネットでチェックということすらできませんでしたが、なかなかの人出になったようですね。

 しかし――なるほど見ているかぎり、テレビ局はどこも――かけらも取り上げていませんね。
 今朝の朝刊、うちは日経ですが、こちらもです。
 完全にシカトか、と、逆に感心しますねえ。
 なんでそこまで無視するんだろうなあ。
 ただでさえテレビ離れと言われているわけで、そういうなかでいままでけっしてなかった、「大衆からのメディア批判」が、こうも大規模に「自然発生」した、これを取り上げない手はないと思うんだけど。
 これだって立派に社会変革ですよ。
 くだらない政権交代劇よりも、はるかに意味があることだと思います。

 従来の「権力」に対する、大衆が掲げた反旗ですぜ。
 マスコミは反権力を気取る左巻きが多いですが、自分たちこそがもっともいやらしい、自ら改革ができない、政治以上に頑迷な権力だという認識が足りてませんね。

 今回のフジテレビへの「報道姿勢の是正を求める」デモは、既成メディアの「曲がり角」を意味するものであることは確かなので、これを取り上げ、検証するのが、まっとうなメディアのすることだと思いますが如何。

 昔、たとえばトラックなどのドライバーを「運ちゃん」などというのは「差別語」であるというような、言葉狩りの自主規制、そのガイドラインができたとき、新聞記者を意味する「ブンヤ」は差別語ではない、ということになりまして。

 一部では、運ちゃんが差別でもブンヤは差別じゃないんだってさ。なんでよ。自分たちがエライと思ってんじゃないの? ――という会話が聞かれたんでございます。
 その差別語についてのガイドラインを作ったのはもちろん新聞社などでしたが、彼らは自分たちが差別されるなどあり得ない、むしろブンヤというのは「愛称」であるくらいの認識だったのかもしれません。

 結局テレビにしろ新聞にしろ彼らは特権意識があるんだろうな、と思って私は見ています。
 自分たちがすることに間違いはない、――日本の多くのエスタブリッシュメントが持つのと同じ思考回路ですね。
 ――あってはならないことは、あり得ないこと。ゆえに、それは決して起こり得ない。

 そういう「想定」をしてしまう。
 
 既存メディアは自分たちが「批判される」ということに、どーも謙虚にはなれないようです。
 個人情報保護の、このいささかいきすぎとも思える法律は、誰が悪いかって、報道機関がやりたい放題やりやがったから、こういうことになったんですよね。
 それをいっさい反省しないで法律を批判していたのは日本経済新聞ですが、あたしゃあれには心底あきれ果てましたよ。

 同じことをいま、フジを始めとしたテレビ業界もやってるんですねえ。
 批判されたことを含めて報道し、検証すれば、自分たちの業界の「体質改善」にもできることなのに、その宿痾(しゅくあ)を抱えたまま、本当にどん詰まりにまで追いつめられることを自ら選びとるとは。

 私もフジテレビを始めとする各局の「偏向報道」、恣意的にニュースをねじまげていく姿勢には反対です。
 これは日本ばかりじゃない。震災や原発の、海外報道をみればわかるとおりで、この「病気」はすべてのメディアに存在するらしい。

 世界規模で蔓延する病気を自ら治癒する機会だというのに。
 もったいないことですねえ。
 
 
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2011.08.21 (Sun)

カンカン娘で大往生

 まあ世界中どこにでもこういう馬鹿はいるということで。

川島、「フクシマ」コールに怒り 「冗談にできることではない」
2011.8.20 10:44
http://sankei.jp.msn.com/sports/news/110820/scr11082010480005-n1.htm

 川島選手が所属する、ベルギー、リールスの試合で、川島選手に対して、相手チームサポーターが「フクシマ」と連呼して挑発。
 川島選手はこれに抗議、後半は主審が試合を一時中断。
 どういう対処があったのかなかったのか、記事からは不明ですが、残念ながらその後、失点し、試合は引き分けとのこと。

 いやあ、これは正式に相手チームに抗議した方がいいですよね。
 こういうことは看過できない。
 FIFAは人種差別反対を訴えているわけですが、これはある意味、人種差別より悪質ではないでしょうかね。
 私はこのサポータの永久追放を望みます。
 その相手チームの名誉と尊厳のためにも。

 それにしても、川島選手にはありがとう、と申し上げたい。
 きちんとした対応をしてくださってありがとう。
 日本人はへんなふうに我慢してしまうことが多いけれども、言うべきことは言わなければいけません。
 これは我慢するような場面じゃない。抗議してくれてありがとう。
 川島選手は日本を、福島を守ろうとしてくれた。
 ありがとうございます。

 ………読んでいて、情けないのと腹立たしいのとありがたいのとで本気で泣けてしまった……。

      ●

 8月19日付、日経新聞夕刊の「追想録」に、小松左京さんについての記事が。
 それによりますと、

家族や親しい友人たちが歌う「銀座カンカン娘」に送られて、小松左京さんは安らかに息を引き取った。
 カンカン娘が1つのグラスにストローを2本入れて、誰かとカルピスを飲む場面がある。「チュウチュウチュウチュウチュウ」という歌詞に合わせて、小松さんは脱脂綿に含ませた、大好きな日本酒をチュウチュウ吸った。楽しそうに口を動かして、笑っているように見えたという


 大往生ですね。
 いまどき、きちんと末期(まつご)の水(酒)をとれるなんて、うらやましいですよ。

 うちの父はまあしょーがないとしても、でも、いまは、へんなふうに機械で延命させてしまうために、かえって、こういう自然なことができなくなっていますから。

 父の場合はもう自力で飲んだり吸ったりなんてことはできなくなっていたけれども、それでも、脱脂綿で唇を湿らせるくらいはしてあげられたはずだよな、と(いまごろ)思ったりして。
 
 御大は、やっぱりさすがだったんだな、と思いました。
 
 それにしても、ああ――やっぱり寂しい。

 先日も、新しく開店した本屋さんをのぞいてきたんですが、私が手に取るのはいわゆる実用書、新書ばかりで、ちっともフィクションに手が伸びないんですよ。小説のコーナーをさんざんうろうろしたんですけど、これ、という直感が働かない。
 本屋に行って、その名前を探して、嬉々として本を手に取り、いそいそレジへ向かう――そんな楽しみが、いまの私にはない。
 年を食って感性が鈍っているところもあるんで、しょうがないんだろうとも思うんですが。
 でも、リアルタイムで好きな作家、尊敬する作家――というのはいない、というのは寂しいですねえ。そこそこ楽しんで読むということはあるけれど、全身を投げ出すようにして好きと感じる「作家」はいない。好きな小説とかはあっても。

 まああれほど、情知理のバランスが、高いレベルでとれている人というのは、やはり希少だということなんでしょうが。

 そんなことを思うにつけ、スポンジみたいになんでも吸収しちゃう時期に、御大の本を買いまくり読みまくっていたというのは、幸せなことだったなと思います。

 去る人あれば来る人ありというそうですから、またそのうち――そんなふうに好きになれる作家さんとご縁ができたらいいな、と思うこのごろでございます。

  
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09:44  |  身辺雑記2011  |  EDIT  |  Top↑

2011.08.20 (Sat)

心の底にあるもの

 まあいろいろな問題が起きたり、問題の発端になっちゃったりで、「ツイッターやめよう」なんてことまで出てきてしまいましたツイッター。
 私はなぜか、いまだに、ネットにおけるコミュニケーションというものに不信感が強く、SNSやらツイッターやらにはいっさい、手を出しておりません。

 私が一番目を剥いたのはなんといっても、今回の震災後の「デマ発生/拡散装置」ぶり。燎原の火なんてもんじゃない、ものすごい拡散ぶりには心底驚きそして呆れ。
 ロンドンの若者による暴動はブラックベリーなる端末が、その「役割」を負うところが大きいというし、エジプトの政変も同様でしたね。
 ツイッターを「ばか発見器」と呼ぶ人もいたりして、そう言われても仕方がないようなデマや、考えなしの「つぶやき」を見れば、「道具をきちんと使う」のは、なかなか、難しいもんだと思うわけです。

 はっきりいえば強烈な不信感を感じます。

 そのツールの有用性を否定するものではないのですが、でも、なんかこう……信用できない、という感覚はいつも私の胸の底にあり、これはいったいなんだろう、その「根拠」は何だろうと思ってきました。
 
 日経ビジネスオンライン版のコラムでそれを読み、「あ、なるほど」と思いましたのでちょこっとご紹介。

彼らが「抗議」を受け入れた理由
小田嶋 隆
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110818/222158/?P=1

 これ、定期購読してないと登録できないのかな……会員登録後に読めるようになると思うんですが、本誌(雑誌)定期購読のサービスかもしれない。読めないようでしたらすみません;;

 ともあれ、筆者は、まずはこの、ネットにおけるツールのメリットを挙げます。

ネット上の情報は、テレビや新聞のような既存のマスメディア発の情報と比べて、自由度が高い。
 まず、双方向性を備えている。多様性も確保されている。それに、マスメディアの情報が一方的であるのとは違って、ネット上に偏在する情報は、受け手の側が、自分のほしい部分だけを選んで、自由にアクセスすることができる。この点が最も大きな違いだ


 しかし逆もまた真なりで、裏返しの現象もある。

情報収集において選択の自由が確保されていることは、普通に考えると、情報源の偏向を防ぐ効果を発揮しそうに思える。が、実際のところ、人々は、結局、自分にとって心地よい情報だけを集めるようになる。結果、情報にはバイアスがかかる


特に頑迷な人々は、認知的不協和をもたらさない情報(偏見を補強する情報)だけを選択的に収集する。
 と、偏見はいやがうえにも補強される。当然だ。
 ツイッターでも同じことが起こる。自分と反対の考えを持った人々をフォロワーから外し、不快なメンションをもたらす人間をブロックしているうちに、いつしか、タイムラインは、自分と似た考えの持ち主で占められることになる



狷介であったり偏奇であったりする人々の場合、その傾向はより強烈になる。特定の民族を排除する考えを抱いている人々は、お互いをフォローし合うことで情報交換をはかる。反対側の立場の人々もまた、反対側の論陣を補強するためにスクラムを組む。と、ツイッターの広い世界の中には、思いもよらないタコツボのような小宇宙が、無数に形成されることになる。疑似科学、ホメオパシー医療、カルト宗教、政治セクト、ネオナチ、オカルト妄想、幼児性愛、自家製乳酸菌による放射線浄化……といった、リアルな社会の中ではほとんどまったく仲間を見つけることのできないマイノリティーが、ツイッターのコミュニティーの中では、会話を交わし、友情を育て、偏見を助長し合って、行動の牙を研ぐことになる。こういうことを言うと、ネット規制を画策している政治家みたいな人たちが喜びそうで嫌なのだが、事実は事実だ。現実に、SNSはマイノリティを糾合する磁石のようなメディアとして機能しはじめている



 早い話、ネットでの情報は広範囲かつ双方向性を保っているので、発信された情報はつねにフィードバックがおこなわれ、情報の「公正さ」も保たれる――と期待されがちですが、じっさいはそうなっていない。まったく。ぜんぜん。
 むしろ「異質なものを排除」のロジックのほうが強烈に働き、そこに集まる人々の先鋭化を助長する。
 ということですね。
 
 なるほどと思いました。

 例のフジテレビについて「厭なら見るな」というご意見もあるようですが、そりゃそのとおりなんだけど、「厭だから排除」していった結果が、こういう、意見の先鋭化を招くと考えますと。
 厭なら見るなというのは、じつは、あんまり健全なご意見ではないのかもしれないですね。

 なんにしても、私も巨大掲示板を嫌い、「主流」となる意見以外は排除されていく「コメント欄」に悪心を覚えてきたことの、理由がここにあると思いました。
(ヤフコメの、コメント欄を開くと『そう思う』順に表示するのがまずデフォルトという、あれはやめてもらいたい)
(投稿日時順でいいじゃないですか)

 それにしても面白かったのは、本来、こういう頑迷で狷介(けんかい)(強情、意地っ張りで他人に心を開かないこと)な人間は、当たり前ですが、一般社会の中では孤立しがち。
 この種の人々は、本来の社会においては孤立している。迷惑なクレーマーではあっても、組織だって動くことは(でき)ないため、まあ、さほどの実害はもたらさない。

 それが、ネットツールを使うことにより、心を開いて仲間をあつめるということはしないでも、結果的に「同質のものを選り抜き、異質のものを排除する」ことによって、ネットワークを形成できてしまう。
 そういうことを可能にしちゃったのが、「双方向情報ツール」だというご指摘ですね。

 これは納得。(^^;)

 どこの地域にも、どのコミュニティにも、ちょっと頑固で変わり者で、ぽつねんとしている偏屈な人間というのはいるものですが。
 それらがぽつりぽつりと存在しているだけなら特段、社会にとっては大きな意味はないけれども、ネットによってそれが「集束」されると――

 ………ああなってしまう、と。(具体的には書きません;;)

 私はもともと、他人からなにかを強要されるということが大キライなんで、とくにSNSのように、仮想とはいえ濃密にならざるをえない「おつきあい」というものを、直感的、本能的に感じ取って、嫌がっていたのかもしれません。
 ネット社会における「偏屈もの」ですね私。(^^;)

 私は現実においては、人といっしょにいるのが嫌いというタチではなく、大勢とわいわいやっているのも好きではあるのですが、――集団心理のいやなところ、つまり、いつのまにか規制や強制が生じるというのが、どーにも苦手なんですね。
 空気を読めだなんて最悪――そう思う人間です。

 ネット上のおつきあいにおいてさえ、そういうのを嫌うのか……と、あらためて自分を認識しました。(^^;)

 自分と同じ意見の人の集まりだったら別にいいんじゃないの? と言われそうですが、そうであってもなお、――在原業平いうところの「我と等しき人しなければ」という認識は、なぜか、私には強烈にある。
「自分と同じ」というのは幻想だと思っております。べつにそれをいじけて言ってるわけではなくて、個々、それぞれ、「違う」のが人間、あるいは存在というものであり、だから、それぞれに尊厳があるのだという考えです。

 ゆえに、同質を集めるのではなく、異質を排除するのでもなく。
 どちらにも、臨機応変に対応したいなら、結局、どこにも深入りしないのがいちばんだ、という認識があるみたいです。

 器用なほうではないんでしょう。
 不即不離、という距離感が、私には必要みたいです。

 ネットコミュニケーションにたいする嫌悪感もしくは不信感は、「下手をすると巻き込まれる」ことへの警戒心だったようです。私の場合は、ですが。

――思うこと 言わでぞ ただに やみぬべき
 我とひとしき 人しなければ


 言うことをやめる必要はないんだけれども、「ひとしき人」はいないという認識を持ったうえで発言する「知恵」が、必要だということかもしれません。
 排除の論理が現実の世界以上に強烈に働く、ネットコミュニケーションにおいては、なおさらに。

 
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2011.08.19 (Fri)

電子書籍への道2

 暑いです……。
 暑いというか、蒸しますね。
 私は暑いのにはわりと強いんですが、湿気はどーも苦手です。(^^;)
 それにしても最近、やけに気候が極端になっている気がします。
 暑いとなると猛然と暑く、雨が降るとなるとあふれるほど轟然と降る。

 ……もうちょっと「中庸」というものを求めたい…;;

        ●

 じつのところ「日経ビジネス」は本誌よりオンライン版のほうが面白い気がするのですが;;
 いいんでしょうかこれで;;

 とまあそういうわけで、「うーん、タブレット端末を買おうか…」などと考え中。
 私はMacユーザーですんで、自然とiPadという選択になるかと思いきや、そうではないんですねこれが。ソフトバンクさんのおかげで。

 お盆には、家族でタイに赴任中の従姉妹が帰省してましたが、タイではiPadはどこのケータイキャリアに縛られているわけではないということで思わずうらやましがって話を聞いてしまいましたが。
 考えてみりゃそれが当たり前なんぢゃ! それがそもそものiPadの姿なんぢゃ!!
 ということにあらためて思い当たりまして。
 太陽光発電がどうこうなんて言ってる場合かよ。と完全に八つ当たりしてしまいますな。なんでぃ、日本じゃ太陽光で韓国じゃ原発賛成という二枚舌つかってさ。
(ほら八つ当たりだ;;)
 
 まあそんな八つ当たりはともかくとしても、Appleさんの最近の商売については疑問に思うことが多いので、ひとまず除外させていただきます。

 さてどうしたものか。
 キンドルは目に優しいというのは確かなようですね。あの、E Inkはじっさい、目に優しいときいて、それはいいなあ、と。
 どう考えてもパソコンなりケータイなりの液晶画面は目が疲れる……。

 キンドルは、洋書をがんがん読む人にはいいでしょうが、日本語書籍をメインにしたいユーザーにはどうでしょうか。

 と考えるとガラパゴスかなー、ということで、ときどきサイトを覗いております。

シャープ ガラパゴス
http://sharpgalapagos.jp/

 いまのところユーザーレビューなどはいいようなんですけども。
 
 興味はあるけど購入には慎重になる私が、電子書籍に至る道のりはまだ遠いか。
 とかいいながら、なにかきっかけがあれば、ぽーんと辿り着いてしまいそうな気もします。

 
 
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