おおつごもり
2005年12月31日 (土) | 編集 |
 いよいよ2005年も店じまいですねえ。
 ということで、12/29には餅搗きは「してはいけない」と聞いた、という話を書きましたところ、これを「九もち」という、と教えていただきました。
 なるほど九もちっていうんだ! と思い、思わずネットで検索をば。

 あれですね、やはり「九」が「苦」に通じるから、という理由になっているようですね。しかしながら「二九」で「ふく」=「福」に通じるからというので好む人もあるとか。
 …………うーん。なんだかけっこういい加減な……あ、いやいや……ごにょごにょ。

 お飾りが「一夜飾り」を忌むというのはまたどうしてなんだろ、と思ってついでに調べましたら、あの正月飾りというのは神様をお迎えする印なんですが、神様をお迎えするというのに大晦日にばたばた飾るというのは「誠意がない」から、ということが主流のようです。

 まあたしかに――、「一夜漬け」って、あんまりいいことじゃないですよね。
 餅搗きにしても、28日までにすませておけば、お正月の準備としても手順がいい、というか、慌ただしいながらも日程的には順調にすませられる、という気もします。
 
 そういえば、今年の正月は、町を歩いていて、ある人さまのお宅の玄関を見て、ひどく寒々しい気持ちになったことがありました。
 なかなかオシャレな外観できれいなお宅でしたが、玄関ドアにはクリスマスに飾ったと思しい、きれいなリースはかけてあったのですが、あの、お正月飾りがなかったんですよね、なにも。(--;)
 なんか、ものわびしい気持ちでした……一瞬だけ。
 いやいや、こちらのお宅はお住いなのは外国ご出身の方かもしれないし、もしくはキリスト教徒のかたかもしれない、と思い直しておりました。(^^ゞ

 「しばわんこの和の心」によれば、お飾りでお迎えする神様というのは「歳神様」。新年になって、また新しい生命力を運んできてくださる神様なんですが、これは、もとをただすと祖霊、つまり、ご先祖様、なんだそうな。
しばわんこの和のこころ

 こういう風習というもの、迷信だなんてバカにしないで、やっぱり大事にしていきたいと思います。
 荒む世相を見るにつけ、これから日本はどうなっちまうんだ、と、お嘆きの声をよく耳にしますが、家に神棚をまつり、仏壇に先祖をまつり、四季それぞれの「まつり」を行っていくことで、少しずつでも、「回帰」できればいいと思います。
 ろくでもない世の中になったと嘆く大人は多いですが、じゃあ、そういう人たちは本当にこれまで、自分達の伝統なり、風習なり、――ご先祖が自然や祖霊を身近において祀ってきた、そういうことで培われてきた誇るべき「精神」を、守る努力をしてきたのだろうか。
 私は疑問に思っています。
 ぐだぐだ愚痴をいうより、すべきことが、大人どもにはまだまだあるんじゃないですかね。
 世の中にあれこれ苦言を呈するのは古来よりご老人の役目ですが、それがただ単なる悪口や、愚痴にしかならないようでは、意味がないと思います。正直なところ。
 教え諭すのではなく、たんに悪口、愚痴をいうだけのご老人を、本心から敬う若者も、少ないんじゃないかと。いつの時代でもそれは。

 ということで。
 ささやかながら、自分なりにできることをしつつ、また、新しい年をお迎えしたいと思います。

 こういう調子でほんとにひとりごとブツブツの日記&マイペースを絵に描いたようなサイトでございますが、今年もおつき合いいただき、まことにありがとうございました。m(_ _)m

 皆様、どうぞよいお年を。

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大掃除
2005年12月30日 (金) | 編集 |
 年の瀬もいよいよ押し迫ってまいりましたなか、昨日もぽちっといって下さいました方、ありがとうございました。m(_ _)m
 ぽちっ♪とありがとうございますv

     ●

 ということで、いかな書き物好きの私でも、今日ばかりはいいかげん、パソコン前に座る時間もあんまりなくて、日記もゆっくり書いておれぬ状況になってまいりました。
 毎年毎年、これがいやだから、12月にはいったところでいろんなことをぼちぼちやってきたはずなのに、それでも最後の仕上げは1、2日、ということになっちゃうんですねー。ううむ。
 こんなときばかりは猫がうらやましい……。彼らは現在、庭に出してやった段ボール箱の上で昼寝してますですよ………うらあましい……。
 そのかわり正月が始まると、朝食メニューが変わる都合上、彼らがいつも食べている、「焼き魚の残り物」もなくなるので、正月は彼らはぶーぶー文句いいますが。

 それにしても今日はやっぱり大掃除。
 ……問題なのは本の山でして……。床の上に積み上げたものを、結局、右から左へ移すだけでは片付けたことにはなりません。
 といって、………服とか靴とかはばんばん捨てられるんですけど(←オシャレさんじゃないので執着もない)、本だけは絶対捨てられない……。
 助けてドラえもん~~~(泣)

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拍手お返事
2005年12月29日 (木) | 編集 |
年の瀬
2005年12月29日 (木) | 編集 |
 今日はコミケなんですね…;; 自分がいかないもんで、なんだかうっかりしておりました;;
 去年の12月は暖かめだったのに、コミケの日は一気に寒くなっていましたが、今年はその逆になりましたか。
 でも、朝方の冷え込みは今日も同じですよね; 12月でマイナスだなんて…!(しかも連日)
 昼間は少しでもこの寒さがゆるんで、いいお天気になってくれることを祈っております。

 私の方はいよいよ年末の追い込みということで。
 年賀状、じつはとっくに書いてあるのにいまだに投函できてません。どれほど早く準備しようが、投函できてないんじゃ同じことだよ~;;
 いやあ…、家をでるたびに、持つのを忘れてしまうので。今日という今日は、ちゃんと投函してきます!(決意!)

 昨日はお屠蘇を求めて薬局めぐりをしてしまいました。いつもの薬局に寄ってみたら、今年はすでに売り切れ。そんじゃあ、漢方の専門店ならあるのでは、と思っていったら、「材料がそろわなくて、作ってない」とのこと。なんだべそれは、と思ったのですが…、とりあえず、製薬会社がその薬局に置いていったという、「サンプル」を一包み、いただいてしまいました;;
 他に何も買ってないので、それでは申し訳ないから…と断ったら「風邪っぽくなったら来て下さい(笑)」
 ………ありがとうございます~。(T_T)
 一冬、風邪なしで過ごすことは私にはあり得ないので、今度は葛根湯でもいただきに参ります……。
 べつに、正月、どーーーーおしても! 屠蘇散がなければならぬ、というものでもないのですが…、なんだかかえって申し訳なかった。年明けにはありがたく、お屠蘇をいただきたいと思います。

 今年は母と手分けして、先週あたりから買い物はぼちぼちしていたので、今日、慌てて市場へいくということはしないですんでおります。いつだったか、年末に文字どおり、市内を買い物で走り回ったことがありますが、あれはきつかった。
 とりあえず今日は掃除……しないとな……。
 12月になった時点で「小掃除」を始めてはおりましたが、やはり、手がかかるところは残っているので。

 そしてまた。
 お餅! 伸し餅はあさってかな。昔は親戚で集まって餅つきをしておりましたが、もうここ近年は外注で。
 それにしても、これはうちのほうだけなのかな――12/29の、餅つきってダメなんですよね。なぜかこの日は餅搗きを「してはいけない」と、昔、聞きました。理由は聞いたことないんですよねえそういえば。
 他の地方でも同じこというのかな? と、いまふと気になりました。皆様の地元ではいかがでしょう?
 そんなわけで餅搗きはだいたい、12/28か、30日でしたね。大晦日にはさすがに、餅搗きはしたことないなあ。大晦日の夜に、適度に乾いてかたまった伸し餅を切り分けるので。
 ということで、うちのほうではお雑煮のお餅は四角いです。
 それにしても、もうほんとに、これで2005年も終わるんですねー。早いな-。

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拍手お返事
2005年12月28日 (水) | 編集 |
不覚!!
2005年12月28日 (水) | 編集 |
 岡野玲子「陰陽師」、新刊いつなのかなあなどと寝ぼけたことを言っていたら、じつはとっくに13巻(最終巻)が刊行済み、とTジさんから聞いて、大慌てでAmazonさんで購入。
 そしてまた、クリスマス恒例になっていた、TBS系での、小田和正さんの「クリスマスの約束」、今年はクリスマスイブではなく、クリスマスでもなく、連休入りの12/22に放送だったとわかって、床をのたうちまわって悔しがる。
 ………不覚!!!
 
 じつは「はっ。今年は“クリスマスの約束”の放送は?!」と気がついたのは12/25の夜になってから。で、サイトを見て、今年はもうとっくに終わっていることを知り、ぼーぜんとしておりました。
 ………お芝居見に行くのにすっかり気をとられて、情報チェックすら、頭から抜けていた私が悪いのでございます……。
 ああああ、ちくしょー(泣)

 「陰陽師」についても似たようなもので……。「もう刊行してたの?!」ということで、12, 13巻を一気に買い、一気に読んで、頭がぼーっとしてしまいました……。1回でわかるような内容じゃないんだよねえ;; でも、概略知りたいからついつい、やめられないとまらない。
 読了しました。感想もまた書きたいんだけど、……もうちょっと、脳味噌の整理をしてから。ほんとにいま、脳のなかが、がらがっちゃがらがっちゃでたまりません。

 Amazonさんの納品書兼領収書、「陰陽師(13)/獏,夢枕」という表示になっているのでなんとなく、感慨にふけりました。
 獏さんの原作の「陰陽師」とはもうぜんぜん違う、岡野さん独自の世界になっていると感じるので、……原作者なんだから、お名前があって当然なんでしょうけど、なんか、一瞬不思議な気がしてしまいまして。(^^ゞ

 それにしても岡野玲子「陰陽師」。12巻でホントに終わるのかなと思っていたら、やっぱり13巻が出たのですね。しかもかなりの厚さで。
 しかしともあれ、これにて無事完結。
 お疲れさまでした、と、思わず頭が下がってしまいます。この情報の処理と、出力のパワーのすごさにはホントに圧倒される。私は数学、図形がぜんぜんダメなので、尊敬する。本気で。
 で、情報処理されてこうやってまたビジュアルで出力されるわけですから……。ああ。脳味噌、すごい人ってすごいんだよなあ。
 こういう構想はしかし、どの時点でできあがっていたのだろう、と思います。連載開始当初はまだそれなりに、原作に従っているところがありましたが、途中から、もう岡野ワールド全開でしたもんね。

 私が知らないだけで、世の中にはまだいくつも、安倍晴明さんを主役にしたお話というのはあるようですが……、岡野=晴明は、群を抜いているんじゃないかなと推測してます。
 あの占術、道教、密教、占星術その他もろもろ、専門知識がこれでもかというほどがらがっちゃがらがっちゃ。おまけに独自の霊感が働いている。
 私はそのへんがわからなくても、おお、なんか面白いと思うほうですが、人によっては全然わからないので挫折ということもあるそうで……。まあなあ…; 多面体を手にしてうっとりあれこれと、宇宙を語られても、興味がない人にはつらいだろうなあ。

 宇宙の「宇」は空間の広がり、「宙」は時間の広がりを表す字だそうですが、この「陰陽師」は、たしかに、時間そのものも広げてつなげて見せてくれたのですね。
 ……あれ。
 けっこうすでに感想を語っているような。(^^;)

 いやまあしかし…終わってほしくない「陰陽師」でしたが、それでもこうして見れば、無事、完結ということでようございました。
 先日もTジさんとそんな話をちょこっとしていたのですが……、WJのあの、読者アンケート至上主義ってやつ。あれ、一見、読者尊重に見えるけど、逆だよね。読者をいちばん蔑ろにしてるよね。と、話しておりました。

 そりゃあ御商売ですから、商売にならんと思われて打ち切りというのは、“ある程度は”、やむを得ないとは思う。
 しかし、本来、作者が構想をもって、起承転結考えて、エンドマークを打ったときの「形」をきちんと考えているのを、人気があるからって無理矢理ひきのばして、構想も「形」もクソもないものにしてしまうというのは、作者にも不本意だろうし、読者にもこのうえない不幸だと思う。本来見るべき、見られるはずだったなにかを、読者はそこで永遠に見失う。

 陰陽師完結、を、過去のなぞ解きもふくめて大団円で満足したところで、「終わり」の陶酔を味わいました。
 で、そうなると、どちらにしてもそういうものをぶっ壊す、WJのアレは、やはり許せんなあ、と、あらためて思いました。
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拍手お返事
2005年12月27日 (火) | 編集 |
 ほんとにいつも拍手をありがとうございます~。いまちょっと年末進行にくじけ気味なのですが、本当にカンフルになっております。ありがとうございます。m(_ _)m
 一言下さいました方、ありがとうございます。「続きを読む」からどうぞv

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「思い出の作家たち」
2005年12月27日 (火) | 編集 |
思い出の作家たち―谷崎・川端・三島・安部・司馬
 ドナルド・キーン先生の交友録、回想録――かと思って読んだらとんでもなかった。
 谷崎潤一郎・川端康成・三島由紀夫・安部公房・司馬遼太郎、というラインナップです。うーん。すげえ。この顔ぶれそれぞれとの並ではないおつきあい………。さすが。

 しかし、この顔ぶれで、私がまともに読んだことがあるのは後ろの二人だけ、というのも問題かなあ。……というか、いちおう、それぞれ読んだことはあるものの、いずれも「ついていけません」という感じで挫折した人ばかりだったりして。(^^ゞ
 私からすると、谷崎は耐え難いヘンタイだし(愛ルケくらいでガタガタ言っちゃあいけませんぜ!)、川端はべつに好きでも嫌いでもないがそれだけだし(『山の音』は、佐伯彰一先生の名講議があって初めて読めたのだ;;)、三島はいいか悪いかもわからないうちに「仮面の告白」で大挫折して(高校生のときでした…)、苦手意識が先にしみついたし;;

 キーン先生は、それぞれの作家との交際がおありで、それにもとづく作家論だから、単なる作家作品論にはとどまらない。
 日本文学史の講議としても読めますし、それぞれの作家の作品を読んだことがなくても、楽しく読める一冊だと思います。

 三島由紀夫についてはとくに、こういう「三島論」を書けるのはやっぱり、「友人」として交際のあった先生だからこそだとも思うし、友人だからといえばそれまでかもしれませんが、キーン先生自身の、理解力にもやはり頭が下がる気がします。
 何かを深く理解するには、やはり、理屈だけではなく、共感する能力、――相手の考えや経験や、思いの道筋といったものを「我がこととして」考える、感じることが、やはり必要なのだと思わされました。
 作品についてはもちろんですが、個人個人への、先生の深い共感は、そこに身を浸すだけでも読んでいる方には楽しいものがあります。これは、先生の心持ちの気持ちよさそのもの、なんだろうなあ。

 なかでもことに、三島由紀夫の章では、先生はけっして大袈裟な表現はとらないけれども、哀惜の思いがにじんでいて、その思いに胸を打たれる気がしました。(私自身は、いまのところは、三島/三島作品にはこれという思い入れもないので)
 三島の「豊穣の海」最終章は、じつは、本人が記した「昭和四十五年十一月二十五日」よりもずっと早い、同年の夏には、三島はその原稿を先生に見せていた、そのくだりの記述には、なぜとは言えませんが、読んでいる私の胸にも、ぐっとくるものがあります。

 そのあふれんばかりの才能は、もう絶対的で文句などつけようがないといいつつ、「でも、三島はダメなんだよお~」とだらしなく挫折しっぱなしの私ですが、キーン先生のこの章を片手にしていれば、せめてものこと代表作「金閣寺」くらいはクリアできそうな気がしてきました。
(近代能楽集は読めるんだけどなー……)

 それぞれの作家についてはいろいろと私も考えることがありますが、冗漫そのものになるのでやめておきます。どうせ好きとか嫌いとかくらいしか言えないし。
 この「思い出の作家たち」は基本的には、海外の読者向けに書かれた本で(発行は2003年)、だから「日本文学ガイド」の趣もあるようです。
 しかし、ノーベル賞の推薦に関する裏話なんか読んでいると、「ま、どうせそんなこったろうさ」と冷笑も浮かびますが、非日本からみた日本文学というものを見ることができるので、そういう視座が興味深いです。
 村上春樹が海外で大人気ということは聞いていても、非日本から日本文学を「見られている」ということ自体、なんだかあんまり、こっちの意識には入ってこないから、「へえ~。そんな見方もあるんだねえ」という感じ。
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拍手&コメントお返事
2005年12月26日 (月) | 編集 |
 拍手をいただきまして、ありがとうございますv
 また、コメントもありがとうございました。(^^)
 拍手一言、またコメント、下さいました方、「続きを読む」からどうぞv

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汝殺すなかれ
2005年12月26日 (月) | 編集 |
 「贋作・罪と罰」のテーマは、本物(笑)「罪と罰」と同じテーマをひっぱってきていますね。
 つまり、高邁な理想のためなら、人を殺しても罪にはならない。というテーゼ。
 いってみれば、殺してもいい命と、そうでない命がある、のか? ということで。

 とりあえず、今回、私がぎょっとしたのは、「贋作・罪と罰」パンフレット、最初のページの野田秀樹さんの序文でした。
 野田さんの学生のころのお話ですね。学校の構内で「芝居のビラを配っていた」ときのこと。
 野田さんは芝居のビラを。ひとりの学生は、ヘルメットをかぶり、政治のビラを配っていた。
 野田さんは1955年生まれ。いちおう団塊の世代には含まれるのかな……、ですが、野田さんが学生のころにはすでに、学生運動は下火になっていたのだそうです。しかしそれゆえに、いまだに学生運動なんかやっている連中は、「その孤立感からどんどん先鋭的になっていたのだろうと思う」と、野田さんはおっしゃる。
 その日も、野田さんは芝居のビラを、その学生さんは政治のビラを配っていた。
……そこへ、五、六人のヘルメットを被った学生の群れが、一方向から走り込んできた。『足を狙え!』という声が聞こえた。次の瞬間、鉄パイプが彼の足を一撃した。……
……複数のパイプが彼の頭に執拗に振り下ろされ、見る見る彼の顔は変形し、夥しい血、などというありきたりの表現ではすまないほどの血が流れた。……その場所は……文字どおり血の川となった。三十秒もしなかったのではないだろうか。最後にその殺人者たちのリーダーがなんと言ったか覚えていない。彼らは、蜘蛛の子を散らすようにばらばらに逃げていった
……以来、私は、あの人殺しの意味を考える瞬間がある。人殺しに意味などあるはずがないと知りながら、あれは何だったのか。私の隣で、あっけなく倒れていった青年の死に、まったく意味がなかったと言っていいものかどうか。今でも、迷いながらこの芝居をやっている

 長い引用になりましたが、これは野田さんご自身の言葉でないと意味がないので、書かせていただきました。
 私も友達に遊眠社のお芝居に連れていかれてから、なんだかんだでもう20年近くになっちゃうわけですが、しかし、このお話は初めて聞きました。
 こういう体験は、やはり、そうそう話すことができないものがあるのだろうと思います。
 今回はこのことを頭に入れて、「贋作・罪と罰」を見たわけですが(開演前の時間で、パンフを買って、こういうところを一気に読むのが私のくせです)、そう思うと、この芝居が訴えてくるものが、なんだか重いのと同時に、どうも肌にひりひり痛む気がしました。

 この芝居の主人公である英(はなぶさ)は、高邁な理想のために、あんなダニのような金貸の老婆を殺したからといってなんの罪になるのか、と、自分に言い聞かせているのですね。
 ま、仮に、高邁な理想のためならダニを殺してもいいのだ、ということにしたとしても。
 英は、たまたま現場に居合わせた、金貸の老婆の妹――この人は、姉と違って人柄もいい、詩を愛するような清廉な人なんですが――をも、殺してしまう。
 金貸のお婆さんは「ダニ」だからいいのだとしても、ならば、善人を殺したことはどうなるのか。これも罪にはならないというのか。殺してもいい人といけない人というものがあるのか。あるなら、なぜ、そうなのか。

 この配置によって、野田さんはオリジナル以上に、「人殺し」が禁忌であることを、はっきり見せてくるのですね。
 同時に、英の苦悩というもの、言い訳しても言い訳しても、言い訳しきれない罪、というものがはっきりあぶり出されてくる。

 ………どうもねえ。人殺しは禁忌であるというのは人類共通の認識なんですが(なにせ、あの十戒ですら言っていることだ)、しかしその禁忌はこれもまた、有史以来やぶられっぱなしであるというのも事実ですね。
 しかしそれでも禁忌は禁忌であり、どんだけ言い訳したって罪は罪である。これは私は、「事実」ではなく「真実」だと思う。
 そういうことをもういっぺん、洗い直したほうがいいところへ、我々の社会も、きているのかもしれないですね。
 なぜ人を殺してはいけないのかと子どもに聞かれ、返事ができなかった大人がいると聞いて、若いもんや子どもが“おかしい”のは、大人がイカレてるからだという持論を確信しましたが、――禁忌ってのはなあ。やっちゃいけないことだから禁忌なんで、どうしてもこうしてもねえんだよ(ほんとはあるけど長くなる)! なんでそんぐれーのことが言えねんだこの××××××が!! と思わず放送禁止用語を駆使して、私も読んでいた新聞をびりびりに破く勢いで怒っておりましたっけ。

 その程度のことも子どもに教えられず、私が思わず××××××と罵った大人というのは、野田さんの隣にいた青年を殺した、ヘルメットを被り――どうせタオルかなんかで顔も隠していただろう――、鉄パイプを持った人々の、なれの果ての姿だったかもしれない。
 ふと、そう思いました。
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拍手お返事
2005年12月25日 (日) | 編集 |
お芝居見てきました
2005年12月25日 (日) | 編集 |
 そんなわけで昨日は、野田地図(のだマップ、と読む)公演「贋作・罪と罰」を見にいって参りました。
 しかし……、田舎もんには、毎度毎度、あのBunkamuraまでの道のりは苛酷でございます。(T_T) 道の狭さに対して人が多すぎる! と、通るたびに思う…。おのれの意志というものをしっかり持って、「誰がなんといおうとあたしはこの道を行くのよ!」と決意して突き進まないと、いつまでたっても動けない、人に流される――そんな強迫観念に駆られます。(いくらなんでも実際そのようになるわけではないですよ;;)
 まあ、渋谷ばかりじゃありませんけどねえ…。昔、新宿駅じゃ本気で道に迷って帰れなくなるんじゃないかと思ったし。
 たま~にああいうところに出かけていくと、つくづく、自分はいなかもんなのだと実感します。
 ああいう日常を生き抜く、東京の人ってほんとにすごいと思う。(←本気)

 うっかり者の私は、Bunkamuraへいくのに、109の右側の通りへ出るか、左側か、いつも記憶があやふやになっているので、以前など道玄坂へいってしまい、「あ、ここじゃねえや」と思って細い道を突っ切ってみたら、そこはある特定の目的に使用されるホテルが立ち並んだところだったという……。
 なんとなく気まずかった…。

 つーことで、10年ぶりの再演となりました「贋作・罪と罰」。
 よかったです~。(しみじみ)
 初演のときももちろん面白かったし、よかったと思うのですが、今回はこれまたやけに、じいんと胸にしみました。
 終盤、まさしく、大袈裟なものは何もないのに、なんかこみあげるものがあって、ちょっくら泣いていたりして、ひとりで照れてました。(^^ゞ できるだけ、周囲の人に気づかれないようにさりげな~く、涙を拭いてみたり。
 いい芝居を見たなあ、と、満足して帰ってまいりました。

 生の芝居の面白さは、「同時性」が、ひとつにはありますね。ただいま現在、この同じ時間を、芝居をしている、芝居を見ている、という形で共有している面白さ。
 おなじお芝居でも見るたびに違う。まったく同じ舞台はない。観客同士も、その時間を共有している「お仲間」とでもいうのか、そんな一体感があることさえある。
 居合わせたそれぞれの人がそれぞれ発する「気」のようなものが場内に満ちて、そこに「場」をつくり出すとき、その陶酔感はなんとも――堪えられません。

 舞台ってやっぱり面白い。古田新太(ふるた・あらた)さんが途中から、すっごいカッコよく見えてくる(笑)
 仮にこれが映像メディアだったら、古田さんが“坂本竜馬”を演じ、かつ、松たか子さん相手の「ラブストーリー」を演じるというのは、ちょっと苦しいかもしれない。(なんつって、ごめんなさい古田さん……と、内心で手を合わせる)
 けれども、イマジネーションというものこそが大きく働く舞台では、俳優の力量によってはそれは不可能ではなくなるし、むしろ、得も言われぬ色気、魅力、観客がひきこまれる何かをはっきり作り出す。
 古田さんかっこええ、と思ってうっとり見てました。
 松たか子さんは、…やっぱりお上手ですね。理想と、しかし打ち消しても消えない罪の意識に揺らぐさまを、「可憐」に表現していたと思います。
 出演者はどなたも、もうそれぞれの味を持っている俳優さんばかりだから、そういう人たちが噛み合ったときの芝居そのものの共鳴の高さ、躍動感がたまらないですね。
 野田さんの怪演ぶりも健在ですし。(^^;)

 やっぱり今回は――初演のときよりも、しみじみと見ていた部分が多かったです。演出が変わったからか、役者の個性か、はたまた私も年をとったからか。それら全部か。
 年のせいか涙もろくなる、というのは、どうもひとつには、「若いころよりも共感できる範囲が広がる」からだという気がします。…ま、それくらいのことがないと年をとってる甲斐もないでしょうが。

 同じセリフを聞いても人物を見ても、今回は共感の度合いが違った――というか。
 もちろん、演出の違い、俳優さんの顔ぶれによって、味わいも異なる、そういうこともあったと思います。
 そのうえでもうひとつ、私自身の感じ方も、やっぱり変わったかもな、と。
 そのとき、その人物はどんな思いでいるのか、感じる深度がより深くなる、それで気持ちが動かされる、というのはあるかもなあ。などと思いました。
 それに――やっぱり舞台では、「声」の使い方が大きくものをいうなあ、とも。
 これはいつもお芝居見に行くたびに思うことではありますが。
 声、というのは役者の肉体の一部である、ということを教えてくれたのは、やっぱり野田さんのお芝居だったなと思いました。
 じっさい、声の使い方の巧みさ(これは残念ながら、テレビドラマの出演時や、あるいは舞台の録画を見ているときには十全には伝わらない)(生の舞台で聞く声は、まさに波動そのもの)だけで、役が生きたりダメになったりする。
 ということがはっきり見えたのは、ちょっと怖かったです。(^^;)

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