「ヌメロ・ゼロ」



 読了するのが惜しくて、ダラダラ読んでました。
 ウンベルト・エーコの最後の作品となりました「ヌメロ・ゼロ」。

 たぶん、ネタバレはしないと思いますが、——なんせ本当にネタバレをしようと思ったら、相当、長い説明をする必要が出てくるので、ネタバレするのも大変、という感じですね。(^^;)
 それでもうっかりする可能性があるので一応、未読の方とは、本日はここでお別れを。
 ごきげんよう♡

 露骨なネタバレがないならいいや、という寛大なお心の方、「続きを読む」「Read more」などなどと書いてあるところからどうぞ。
(使用しているテンプレートごとに言い方が違うからややこしいですよね;;) 続きを読む

「翻訳できない世界のことば」

 今日で7月も終わりですね。早いなあ。
 今日は日曜日ってことでのんびりいきたいと思います。
 まあ実質、おやすみみたいなもので。(^^;)



 お見かけして、面白そうだなと思った本でしたが、じっさい面白い。
 ことば、とは、結局その本質は何かといえば、「イメージと概念」だと思っております。

 具体的な物体についた名前のこと、というのは言葉の基本でしょうが、複雑な概念や意志を伝える場面においては、ことばというのは、概念——「意味」のことだ、と。

 まがりなりにも翻訳っぽい作業に関わってみますと、結局「対訳」では、言葉は訳せない、ということに気がつく。
 Good morning を「よい朝」と訳すのが対訳。「おはようございます」と訳せば、それが「翻訳」。

 翻訳というのは結局「相手がなにを言っているか」をどこまで拾えるか、その意味やイメージをどう他言語で表現するか、という作業なんですね。
 言葉をただ置き換えるだけでは、意味不明どころか抱腹絶倒ものの「ハナモゲラ」語になるのは、機械翻訳を利用した方ならご存知のはず。(^^;)

 ということで、異文化においては、まったく想像もつかない概念がありますね。
 ことばは「文化」そのものを背負う。ってことで、異文化のことば、その「意味」を理解するのは難しいし、よし理解できたところで、それを外国語でいうことはできない、ということは多い。
 
 その、できない、あるいはたいへん難しいことを乗り越えていくのが翻訳という作業ですが、ひごろはかなりの力技で(ときにはあえて意味を落としたりして)いっているところを、あえて、「原語のまま」にして、「訳せないことば」として、集めた本。

 見開きで、左ページにそのことばを、右ページにはイラストと、その「意味」が説明されています。
 ことばの絵本、という感じ。
 気楽に、どのページから見てもいいし、イラストと説明をみて、そんなことばが「発明」される、その土地のこと、気候のこと、人々のことに思井を馳せる——まあとにかく食べ物関係が多いなこの国は、とか考えたり(笑)——。

 1日が終わって、家でホッとしながら靴下を脱ぐと、足にくっきり、ゴムのあとがついていたりますが、トゥル語ではこれを「KARELU」カレルというそうです。
 私どもは「靴下のゴムのあとがついちゃった」というしかありませんが。
 トゥル語はインド南西部のことばだそうです。「肌についた、締めつけるものの跡」。

 体にそんな跡がついてしまうのは、私どもにとってもおなじみの現象ですが、それに具体的に名詞が与えられてるのは面白い。

 ちょっと人から嫌味っぽいこといわれて、気分の悪さとそんなこと言われるショックとで、思わずことばに詰まってしまい、なにもいいかえせなかった——というのは、なかなかつらい経験ですよね。
 で、あとあとずいぶん尾を引いてしまうんだけれど、あとから「こういってやればよかった!」と思いついたりする。
 でも、言い返すならその場で言わないと意味がないわけで——、なんでこれくらいの切り返しを言えなかったんだろう、と、くやしいやら自分に腹が立つやら。
 しかも、けっこういい切り返しを思いついたりするんですよね。で、なお悔しさが募ったりして(笑)

 これをイディッシュ語(中欧・東欧系ユダヤ人のことば)では「TREPVERTER」トレップヴェルテルというのだそう。
 直訳すると「ことばの階段」。あとになって思い浮かんだ、当意即妙のことばの返し方。だそうです。

 日本語そのものにはないけれど、「ああ、わかる!」というものもあって面白い。
 同じような状況を経験するのに、それを表現することばが、できたりできなかったりって、どのへんで決まるのかな、というのも、興味深いですね。(^^)


 私のお気に入りは。
 スウェーデン語の「MÅNGATA」モーンガータ。

 明るい月夜、海や湖、あるいはゆったり大きな川や、池や、——水面(みなも)に月の光がおちて、まるで一本道がそこに現れたようにみえることがありますが、あの光景。

「水面にうつった、道のように見える月明かり」。

super-moon.jpg
(↑2015年のスーパームーン)

 あの光に、ちゃんと名前をつけている言語があるんだなー、と思って、ちょっと嬉しくなりまして。
 モーンガータ。
 正しい発音なぞできるもんじゃありませんがでも、やはりその名前も美しいように思います。

 あの光の道にもちゃんと名前をつけた人たちがいる——ということが、じんわり嬉しい。


 気楽に読める「ことばの絵本」。
 けっこう楽しいです。
 
 

「女性と茶の湯のものがたり」



 たぶん現在ではほぼ死語と思われますが——私が子供の頃にはまだ「花嫁修行」という言葉は生きておりまして、で、その典型としてはお茶、お花が代表的な項目にありました。

 ということで、お茶=茶道なんていうと「女性の領域」にあるものというイメージでしたが、じっさいはそうではなく、お茶は「男性のもの」であり、明治までは女性はほぼ社会的には「閉め出されていた」というのが実態。

 じっさいこういう、男のものだの女のものだという「イメージ」ってほんっと、いいかげんですよね。
 私はむしろお茶は女性がやるものだと思っていたけれど、「組織」としては、社会的には「男社会」だという現実。
 
 もうかなり以前ですがNHKの「ようこそ先輩」という番組で、京舞の井上八千代さんが母校の小学校で特別授業、というのがありまして。
 そのうちの小学生の男の子が「(舞などは)女がやること、こんなことはいや」だとゴネてまして。
 ああくだらねえなあ、と思ったことを思い出します。

 あんな年頃で(というより、あんな年頃だから、か)すでに、ああいうくだらない概念はぎちぎちに人を縛ってるんだな。と。
 なにがくだらないかって、男がやるものだとか女がやるものだとかいうのは、なんの実態も根拠もない「幻想」だから。
 ご本人の「思い込み」だけなのに、それがさも当たり前の常識であるかのように「他人に押し付ける」ところ。

 舞踊は女のするものってねえ、アンタそれ、舞踊に命かけてるおじさんおにいさんたちに同じこと言えんの? と、本気でむっとしてました。(^^;) ←おとなげない
(脳裏には、例えば、玉さまがイメージされていた)

 ということを思い出したほど、この「お茶」のイメージもずいぶんいいかげんだったな、と思いました。

 興味深いのは筆者の依田徹さん。
 とあるお茶席でのひとことが、本書のきっかけになったとか。

 席主の女性から依田さんご自身が言われたんだそうですが、
私たちは男性からお茶をお預かりしているだけです
 と。

 それはお世辞あるいは謙遜だったかもしれないが、ほんとうにそれは「妥当」だろうか。——という疑問から、この本へつながっていったということで。

 いやもう、ありがたい世の中になったねえ、と思いました。
 フェミニストも、自分たちの権利その他を訴えるのもいいんだけれど、たまには、こういう殿方に感謝の意を表してもいいんじゃないかなあ。
 こういうしなやかな発想が、少しずつでも現れるようになったというのは、ありがたいことだと思ってます、個人的には。

 ともあれ。
 本書は「お茶の女性史」として読める労作ですが、でもけっして堅苦しいものではなく、全12話のアンソロジー、といった趣きで語られていくので、読みやすく、親しみやすいのです。

 千利休の後妻となり、利休を助け、またその茶道確立にも(じつは)大きな影響を残している千宗恩が第1話の主人公。
 そこから、女性茶人をピックアップしながら、江戸時代、明治大正昭和、現在にまでその歴史が綴られていきます。
 正史は「人殺し名鑑」ともいえますが、いわゆる「正史」からちょっと外れたところにある歴史もまた、見るべきものと思います。

「しばしば言われることだが、女性の茶に関する資料はとても少ない。……しかしながら、記録が残っていないことは、決して「無かった」ことを意味するものではない。むしろ資料に残らないところにこそ、女性の茶の実態があったのではないか」



 依田さんのお言葉ですが、そのとおりだと思いますねえ。
 水屋に詰める人がなければ茶事は成り立たない。記録は残っていなくても、その働きが無かったことにはならない。
 そういうものだと思いますね。

 私も「歴史」を見るのには、下世話、俗、卑俗、といわれるものを主題にした本を読むのが好きで、ときどきとんでもなく「下品」なことを知っているのを他人から驚かれたりしますが、——でも、人間の姿とか、当時の人の「感覚」は、「正史」の記録よりも下世話なところにこそ生きていると思うんですよね。
 下品とか低俗とかいわれるもののなかに、人の「実感」がある。そうおもいます。

 だから当時のトイレ事情に(へんに)くわしいとかフェノロサには否定された浮世絵大好きとか、色街の話をけっこう知ってるとか(『男でも女でもよし町と言ひ』)、川柳、都々逸の本を読むとか、妖怪譚が好きとか……あげくのはてには春画に(へんに)くわしいのがばれてドン引きされるとか。
 でもそういうところに、「生の人間」の「歴史」があるんだからしょーがない。(^^;)

 そういうなかでも女性についての歴史は、とにかく無視され記録されずにきただけに、ちょっとでも手がかりがあると聞くとついつい、手を伸ばしてしまう。

 私はそういう関心から本書を手に取りましたが、じっさいご自分がお茶をなさる方々には、さらに面白い、興味深い本なのではないかと拝察いたします。

 とにかく少ない史料をまとめる苦労は相当なものと思われますが、そのあたりのことは、飄々としてみえる文章の奥に隠れているようです。
 奥ゆかしいことですが、「ぱっと目につくものではない」からって無視しないで、そのあたりも、味わっていただきたいなと、僭越ながら思った1冊。
 
  

「だからあなたは今でもひとり」



読書メーター」の感想・レビューで書いてる人がいましたが、じっさい、このタイトルひどいですよねー。(^^;)
 原題は「MARS AND VENUS STARTING OVER 」火星人と金星人の——この場合は「再出発」って意味になりますかねえ。start over, start all over で、(いちから)やり直す、という意味になるようなので。

 ってことで、これは副題が説明する通りで、なにか、誰かとのつらい別れ、そのつらい経験から「正しく」回復するための本。ですね。

 邦題は、原題をかすりもしていないという。(^^;)
 まあ、本屋さんに並んで、人目を引いて、手に取ってもらわにゃいかん、ということで、こういうことになるんでしょうが……あんまりインパクトありすぎて逆に手に取るのをためらわれるんじゃないの? という気がする。(^^;)

 それがどういうものであれ、なにかしら、心の傷となるようなつらい経験をまったくしない、という人も、そうそう滅多にいるものではないでしょう。
 人には、そういう傷を自分で治癒し、回復するだけの能力はちゃんと備わってる。だからそのあたりは心配しなくてもいい。ただ、——ちゃんと傷を治して、回復しているのならいいけれども、傷をそのまま放置して、ただ「ふた」をしているだけ、自分ではもう立ち直った気でいるけどぜんぜんそうじゃない。傷も痛みも、そのままにして、過ごしている人も少なくない。

 癒すべき傷をそのままに次へ進もうとしても、その傷があるためにかえって、同じことを何度も繰り返したり、自分も他人も傷つける結果になってしまったりする。
 その傷は、ちゃんと治せる。
 どれほど時間が経ってしまったものでも、「手遅れ」はない。
 治せるから、——ちゃんと治していきましょうね、というのが、本書の語るところですね。

 本書は、パートナーとの生別、死別、失恋、という経験からの「立ち直りマニュアル」でもありますが、特徴的なのは、男性女性、それぞれ、気をつけるべきことも、対処法も違うので、男女別に解説していること。

 男女ともに共通するのはとにかく「自分の傷——感情から逃げない」こと。

 それがどういう別れであったにせよ、なにか、誰かと別れるのは、悲しいこと、心の痛むこと。
 その悲しみから逃げない、目をそらさない。
 悲しみをそのまま感じるというのはなかなかつらいことですが、ここを通過しないと「回復」もない。

 その心の痛みと向き合わないと回復しない。
 本当にその痛みを乗り越えられたかどうかはわりとすぐわかることのようで——、本当に痛みから回復したのなら、あなたは傷つく以前よりも、豊かな愛を感じられるようになっているはず——とのこと。

 ただし、回復には時間がかかる。
 頭はさっさとすませていこうとするけど、心はゆっくりにしか動かない。
 頭のほうはオフにして、心のペースに合わせていくこと。——だから時間はかかる。

 以前より豊かな人間になるどころか、臆病になったり意固地になっているようなら、ちょっと考え直しましょうねというお話。

 その心の痛みから回復するにはともあれ、悲しみを味わい尽くすこと——悲しみ以外の感情、「怒り」「寂しさ」「恐れ」そして「悲しみ」、この4つを「等しく」「バランスよく」感じることで、思い出しても、もう以前のようには心の痛みはなくなり、より豊かな愛へ踏み出せる、と。

 具体的な方法は、まあ中身を読んでください、ってことで。(^^;)
 じっさいこれ、解説とマニュアルだともいえますね。12週間を使っての「回復のプログラム」や、その4つの感情に向きあい、回復していくのに効果的な質問が示されてます。
 
 で、これまであいにく、その4つの感情をバランスよく味わうことなくきてしまい、「こじらせた」状態の「症例」は、女性23タイプ、男性22タイプ、具体的に挙げられています。
 あー、あたしコレだわ、と思うタイプも、1つだけではないかもしれない。複数のタイプの混合型ということもありそうです。

 なにしろ、仮説があってフィールドワークした、というのではなく、じっさい何万人という人々のカウンセリングから得られたお話ですから、実践的です。

 で、男性と女性とではその具体的な対処法が違うのは、これはもうしょうがない。これは主義主張やイデオロギー、ジェンダーがどうたらということとはまったく無関係のレベルのことですから、そういうややこしい話は持ち込まないように。

 大事なのは傷と痛みを癒して、愛情深い人間になっていくことなんで。

 その回復期に留意することが男女では正反対ってところが面白いんですが、いまちょっとその箇所が見つからない……あとで見つけたら追記します;;

 読書メーターのレビューに、いまある心の痛みを過去の経験と結びつけるとか、親とのことにまで結びつけるのはどうなのか——という疑問を示したものもありましたが。
 まあだいたい、人間関係のつまづきは、最終的には、ごく幼い頃の親との関係のなかに見つけることができる。そういうことは多いようです。
 それは、でも、仕方がない。赤ん坊で生まれてきて成長するしばらくの間は、親が、自分にとっての世界の全てですから。

 いい悪いじゃないし、親がいいとか悪いとかじゃない。親だって人間なんだし、親子といえども相性はありますからね。
 誰を責めなきゃいけないって話じゃない。——「自分の心」の痛み。問題はそれだけ。

 こういうアプローチより他の方法のほうが「合ってる」って人も当然あるでしょうし、そのへんは、そんなにこだわらなくてもいいでしょう。

 ただ、さすがにすんごい数のカウンセリングから得られただけのことはあって、なぜ自分はこうなのか、なぜあの人はそうなのか、どうすればいいのか——とは思いつつ、答えは皆目見当もつかないし、どうすることができるとも思えないから、仕方なく「見て見ぬ振り」で過ごしてきたことが、精密機械を部品単位まで分解して整然と並べていくような解説は、読んで損はないと思いますね。

 心の痛みに誤った対応をして現れる、それぞれの「タイプ」のなかに、多くのヒントもあるでしょう。

 私個人としては、ときどき他人から「あなたはひとりでも生きていけるよね」というような言い方をされる、その「意味」がわからなかったんですが、ああそういうことだったのか——と、腑に落ちましたおかげさまで。
 その「こじらせ」たものを、いまからでも癒せるのかどうか——、もちろん著者は、できる、とおっしゃるわけですが。

 この本は、アメリカでは圧倒的に男性たちに読まれたそうですが、無理もないなあ、と思います。
 痛みや悲しみや……そういうものを、「表にあらわす」ものではない、という文化的なプレッシャーが、そうとう強い社会みたいですね。
 心の痛みの対処法をかくも具体的に示してくれるものって、なかなかないんじゃないかな。

 またこれは話としてはパートナーとの別れの痛手という話が多いのですが、主眼は「心の痛みからの回復」なので、それ以外の衝撃からの——ペットロスにしろ、著者のグレイ博士ご自身のように家族を殺されるというような事件にしろ、ひどいショックを受けた人すべてに、対応している内容だと思います。

 どれほどの古傷でも、何年も何十年も経過していても大丈夫——人は、自分の傷を治癒する能力があるから。と博士はおっしゃる。

 その痛みから回復できたときには、あなたは以前よりも、広やかで豊かな愛情をもつ人間になっているよ、——というのは、やさしい希望の言葉だな。と。
 そんなふうに思います。
 
  

「都々逸読本」



 読本は「とくほん」と読みまして、まあ、「簡単な解説書」くらいの意味でしょうか。
 最近はおみかけしない日本語なので念のため解釈を。(^^;)

 俳句・川柳は(現在は)五七五、短歌・狂歌は五七五七七ですが、都々逸は七七七五。
 都々逸(どどいつ)もまた大衆芸術の——芸術っていうとなんだか大袈裟なようですがでも芸術——ひとつでしょうね。
 三味線の伴奏で節をつけて歌われるもの。

 都々逸という名称になじみはなくても、その文句——作品群はけっこう聞いたことがあったり身近にあったりします。
 民謡は五七五調より圧倒的にこの七七七五のほうが多いそうですね。「土佐の高知のはりまや橋で…」「伊勢は津で持つ津は伊勢で持つ…」いわれてみて私も、ああなるほどと思いました。

 こちらの本は、出先で待ち時間ができてしまったので本屋さんをぶらぶらしているときに見つけたもの。
 
 著者の柳家紫文さんは音曲師、邦楽演奏家——三味線がご専門のご様子。落語協会所属。
 
 都々逸はそういうわけでまったくの民間の、というより大衆のものなので、まじめに研究されることもほぼないし、大仰な作品集もない。
 いい作品があってもあくまでも口伝え、作者名も残らないようなもの。

 でも、川柳からことわざになったものが多いように、この都々逸もけっこう知ってる、聞いたことがある、そういうものが多いです。
信州信濃の新そばよりも あたしゃあなたのそばがいい
 これも都々逸。(^^) 身近なんですよ。じつは。

 私が好きでよく引用もする「丸い卵も切りようで四角 ものはいいよで角が立つ」も都々逸でした。気がつかなかった;;
 それくらい、身近にあるものなんですね。

 俗謡といわれるもののなかでも、とくに色っぽいものが多いのも都々逸の特徴でしょうか。(^^;)
 お三味線に乗せるものなので、とくにお座敷で歌われることが多かったからなのかな。そのへんはわかりませんが。

 ということで色っぽいというか下ネタというかで、ちょっとここではご紹介しにくいものが多かったり。
 でも、世間知(せけんち)というような、なるほどなー、と思わず感心するようなものも。
世間渡らば豆腐のように 豆で四角で やわらかで
 「自分」というものをなくしもせず、だからって角目(つのめ)立ちもせず、ってことでしょうか。めざしたい境地です。

 高杉晋作によるといわれる有名な「三千世界の鴉(からす)を殺し 主(ぬし)と朝寝がしてみたい」、これも都々逸。
 これは解説いりますかどうでしょうか。

「明烏(あけがらす)」というのが落語にも芝居にもありまして、鶏がいない都心部では——遊郭・岡場所にもいませんかね——、朝を告げる鳥は鶏より烏だったもよう。
 夜が明けるのは鳥のせいじゃないっつーのに(笑)
 
 サラリーマン川柳もすっかりおなじみになり、毎年作品を拝見すると、こういう遊びが好きな精神、あるいは文化というのはちゃんと生きてるんだなと感心しますけども。
 都々逸もそんなふうになったら面白いかな。なにしろこちらは節がつくので(私は音痴なので唄えませんが;;)、読んで楽しむより、聴いて楽しめる。

 即興で歌っていくものでもありましたし、そうなると古代の「歌垣」のことも思い出され、なかなかその民族性ってしぶとく形を変えても生き残っていくのかな、などとも考えてしまいます。

 都々逸は色っぽいものが多いと申しましたが——このへん、作品を作ろうとしたら、無粋な現代人には難しいでしょうか。
 同じことを言うのでもストレートに言ったらおもしろくない。聞いた一瞬だけ「?」と思ってすぐにそうかと気がつき、素知らぬ顔でふうんといいながらちょっとだけにやっとする。そんな感じで。
 露骨にやっては下品になる。さじ加減が難しいですね。

 本書のなかでも、なるほど巧いなと感心するものも、あざとくて引いちゃうものも、「これ作ったときって絶対酔っ払ってたでしょ?!」といいたくなるようなものもある。面白い。

 歌は歌えずとも七七七五の「歌詞」は、じょうずに作ってしまう人はけっこういる気がする。
 ここであらためて人気が出てくれたら面白いなと思いながら読了しました。


 完全に余談として。
 小野小町の夢の歌の話はちょこちょこしておりますが、アンチテーゼとなる都々逸がありまして。

 ——夢に見るようじゃ惚れようが薄い 真に惚れたら眠られぬ

 忘れねばこそ思い出さずってことですかね。
 これなら小野小町さんも笑ってなるほどと言ってくれそうな気がする(笑)
 
 

【ネタバレ】「できそこないの男たち」



 こんな(失言)タイトルですが、べつに世の男性を腐(くさ)すものではないし、へんなふうに女性を称揚っていう本でもないので、そのあたりは、どうぞご安心ください。

 ノンフィクション系の本で「ネタバレ」つーのも珍しいでしょうか。(^^;)

 じっさい、どんでん返しがあるわけではないのですが、でもたぶん、書名から内容を読み始めると「あ。書名の印象とは違う」と思い、そのまま読み進んで純粋に科学のお話で、なるほどなるほどと頷いていたら、最後のエピローグはもう、完全に場外へうっちゃられた、という感じなので。

 私のみるところ、この本のいちばんのポイント、いちばん読むべきところは、そのエピローグにあるので、ここに触れないわけにはいかず、となると、フィクションのそれとは違うけどでもネタバレに含まれると思う……ということで、注意書きをつけました。

 とはいえこの本、初版が2008年の10月で——当時評判をとってすぐ買ったはずなので、私、この本をいったい何年ほったらかしていたのかと思うと忸怩といたします;;
 ネタバレもなにも、とっくに読んだ、という方もけっこういらっしゃるのではないかと。

 世界各地にある神話はいずれも、宇宙創生から話を始めますが、しかしまあ、あの一神教の始まりの話ほど、聞いて呆れるものもありませんね。
 神様はまずは男性をつくり、ついで、彼の肋骨から女性を作ったという。
 生物学はこれがむしろ反対だったことを証明している。
 ——なんて話は、聞いたことがおありかと思いますが。

 45億年ほどの地球の歴史、そこでの生物の発生の歴史を見れば、まずは女性が単性増殖しており、いわば生命は「女系」であること。
「男系」というものは生物の世界には存在せず、ただ、単性増殖だけでは限界がある、遺伝子組み合わせのバリエーションを増やし、「母から娘への遺伝子を、タテ以外の方向へ橋渡しする」のが、本来のオスの役目であること。

 性染色体にはXYがあり、オスはXYである、と学校で教わりましたが、話はそれほど単純ではないこと。
 世の中にはゲノムとしては男性でありながら見た目は女性、あるいはその逆、という人もいるわけですが、そういう人たちの遺伝子の研究から、「具体的に」本来メスであるべきものをオスにかえている、決定的な要素——ZFY遺伝子の「誤認」を経て、「真犯人」SRY遺伝子を突き止めるまでの、科学史が語られます。

 と同時に、ああいう学会というところ、研究の厳しさ、「勝利」する以外には「なにも手にすることがない」世界のお話も展開され、このあたりはサスペンスドラマさながらです。
 冷徹な科学の話が、どうにも人間臭くなるのも面白い。

 ということで。
 科学——生物学においては「生命の基本形は女性」であり、「女系」であり、オスはその遺伝子の橋渡しをすることだけを目的に「急造」された「いきもの」にすぎない。だからその体の造りは不格好であり奇妙な不都合があり、病気になりやすくて短命なのだ、と。
 
 でも。
 ここでミソジニスト(女嫌い)の皆様にはご安心いただきたいのですが、ではなぜ、現在の人間の社会(生物学とは別次元)では、あたかも男性のほうが優位であるようになっているのか、という点について。
 福岡先生の私見とのことではありますが、それは、「女性が欲張りすぎたためだろう」とのことです。

 本来、カマキリのオスのごとくに「消費」されるだけだったものを、あえて永らえさせたのは「欲深い」女性である、という、——いかがでしょう、嬉しいでしょう? こういうお話。

 私としては、なるほどそれもありそうだ、と思って聞きました。
 ただ、いまこうなっている世の中にあり、そんな遠い昔の話を現代に「そのまま」持ち込むのも意味のないことですから、なるほどねえというばかり。

 私が感動したのは、さらにその「向こう側」のお話でした。
 これこそが本書の核心であり肝要、と思います。

 エピローグで提示される「問題」こそが、本当は「核心」で、ここまでのお話はすべて「前振り」にすぎないのではないでしょうか。

 長々と本1冊かけて生殖の仕組みが語られてきましたが、ここまでいっさい触れられなかった最大の問題がここに現れる。終章という、まるでおまけのような場所で。
 目にしたとき、ぞくぞくしましたね。
「この」疑問をとりあげてくださる方があったとは。
 この疑問——、「生殖行為はなぜ、快感と結びついているのか」。

 生物学も脳科学も、この疑問には答えていない。理屈はあるけど答えになってない。

私が知りたいのは、生殖行為が、なぜあの快感と結びついているのか、ということだ。あの快感は、人間が経験できる他のいかなる快感とも異なる。……
 生物学者や脳科学者はいうだろう。それは性的快感をつかさどる神経が特別だからです……
 これもまた答えとはなり得ない。私が知りたいのは、その特別さの理由だから



 なぜ、「こんなもの」に「そんな」麻薬が付属するのかを疑問に思いながら、そんなことは考えたってしょーがない、という気でいたので、思わぬところで「同志」をお見かけしたような気持ちでした。

「それが一体なんであるか皆目見当がつかない事象に対して、科学者が成し得る唯一のアプローチは、ホモローグを探す、ということである。ホモローグとは類似するなにものかという程度の意味である。あの感覚は……何かに似てはいないだろうか」


 示されるのは、ジェットコースターです。(このへんがネタバレですの)
 ジェットコースターで得られる快感の「感覚」はなにかといえば、ようは「加速度」。
 加速度を、私どもは体のどこで、あるいは何で感じているかは不明とのこと。視覚や嗅覚におけるレセプターのようなものはここには存在しない。
 どこで感じ取るかはわかっていないが、でも、たしかに、「加速覚」はある。と。

 加速覚はなぜ快感になるのか、は、また読んでいただくことにして。
 加速の感覚はようは「時間を追い越す」速度の増加を感じることであり、私どもは普段その時間という媒体の中にいるために、時間の「存在」を知覚できない。

 海の中に生まれ、そこで一生を終える魚は、自分が水というもののなかにいることを知覚しない。そういうことですね。

 水の存在を知るには水を飛び出すしかなく、知覚できない時間の存在を知るには、時間を追い越すしかない。


 台湾の南海に位置する蘭嶼(らんしょ)には、ヤミ族と呼ばれる人々が住んでいて、彼らはトビウオを部族の象徴として尊重していた——そんなお話で本書は終わります。

……ほとんどすべての魚は水のなかで一生を過ごします。…魚たちは自分が、水という存在のなかで生きていることに全く気付いていないのです。……自分たちを載せている媒体の存在を認識できないのです。
 ただひとり、水から一気に飛び出すことのできるトビウオだけが、その存在を知っているのです




 知性とは、こういうものなんじゃないかと思いました。

 知覚すらできないものから飛び出して、自分がいる場所を、存在を、知ろう、知りたい、という——存在を知りたい、という強い欲求が、本来は、知性というものではないか、と。


 水中から飛び出したトビウオは、どれほどの快感を得て快哉を叫んでいるでしょう。
 水から飛び出し大気を切りながら。
 
 

「嵐が丘 Wuthering Heights」



 メディアミックス、という言葉を聞くようになって久しいですが。
 久しいわりには、「原作」とされるもののファンというのは、いまだに悟りを開いていないことが大半のようです。

 小説や漫画を原作にした、アニメなり、ドラマ・映画なりが製作されるというとき、原作ファンの悲鳴や怒号というのは、いまだによく聞かれますね。
 もういいかげん、そのへん、悟りを開こうよ、と思います。(^^;)

 小説が、たとえば映画になるとき——その映画は、あくまでも映画作品なんであって、原作とは「無関係の関係」くらいに思ったほうがいいと思いますよ。(^^;)
 原作ファンがよくいう、「イメージとちがう」「原作はそうではない」というような愚痴は、批判にも当たらない愚痴、泣き言でしかない。
 原作と違うって? ——だからこそ、ちがうメディアで表現されるわけなんで。
 批判にはならない。

 ほかのメディアで表現されるものは、もう、それ単体として扱うべきものではないでしょうか。
 原作まんまだったら、原作以上のものはあり得ない。そこをあえてほかのメディアが表現しようとするなら、それはもう原作にはないなにかを目指してのこと、じゃないでしょうかね最初から。

 ということで、個人的には、小説が映画なりなんなりになることについては、期待もしなければ怒りもしない、面白そうなら見てもいいけど、原作と同じタイトルを冠しているというだけで見に行くことはないなーという、たいへん薄情な態度が、私の基本的なスタンスです。

 そんなわけで、エミリー・ブロンテ「嵐が丘 Wuthering Heights」には、十二支が一巡するくらいの年月をいれあげたけれども、映画なり舞台なりは見たことがありません。(^^;)
 もし映画にするなら、制作側は原作のことは全部忘れてゼロから組み立てていくしかないだろうし、そういう思い切ったことができる人というのは、まずいない。
 小説の嵐が丘は、あのままなら、映画には「できない」。
 
 なぜというに、小説の「嵐が丘」は、恋愛小説というところにはとどまらず、「家系」をもひきずってまきこんで、世代をまたがって展開していく「因縁話」だから。(^^;)
 おもに二人の人間を追いかけていればいいというわけにはいかんのです。
 2代にわたり因縁話が、2、3時間の映画におさまるわけがない。

 先日、「嵐が丘」のタイトルを聞いて、わーなつかしい、と思い、久しぶりに再読していました。
 あいかわらず面白いとは言い難い小説です。(ゆえに、ひとさまにはおすすめしません/笑)
 でも、引き込まれる。あいかわらず。

 主人公ヒースクリフの苛烈な情熱は、——最初に読んだのは中学2年のときでしたが、衝撃そのものでした。自分がなにを読んでいるのかわからないくらい、「なんだこれは」状態でした。
 恋愛ものなのか、といわれれば、まあ、そうとしか言いようがないけどねえ。という煮え切らない返事になるばかり。
 因縁話——因果応報の物語です、なんていうと、おどろおどろしいと思われるんだろうな;;

 我ながら無謀だったと思うのは、あらすじを追うのが精一杯だったあの年で、読書感想文なんてものを書いていたこと。
 宿題だったからちょうどいいやと思って書いたんでしょうが——13、4歳の子供にわかるわけもない。(^^;)

 その後数年ごとに再読していきました。読むたびに発見があり、「構造」が見え、——ヒースクリフにしろキャサリンにしろ、あるいは語り手のネリーさん自身にしろ、彼らが「なにを言っているのか」、あるいは、「言葉にならない場所になにがあるか」を、まがりなりにもちゃんとつかめた、という感触を得たのは、12年後でした。
 作者が「嵐が丘」を書いた時と同じ年齢になっていました。ちょっと感慨深かったなあれは。


苦しみもだえて目をさますがいいんだ!……
キャシーがどこにいるって? いいや、あすこじゃない―― 天国なんかじゃない——まだ死んではいないはずだ——
…………
おれもただひとつの祈りを捧げよう、おれの舌の根がこわばるまでくり返そう——
キャサリン・アーンショーよ、おれがこの世に生きてある限り、安らかに眠るなかれと!
きみは、俺が君を殺したと言っていたな。
それじゃ亡霊となって出てくるがいい!
殺された人間は殺したもののところへ化けて出ると言うじゃないか。
亡霊が地上をさまよい歩いた実例は知っている。
いつも俺のそばにいてくれ――どんな姿でもいい、
ただお願いだ、君の姿が見えぬこの深淵に、俺を置き去りにしないでくれ。
俺はおれの命なしには生きて行けない!
俺の魂なしにどうして生きて行けよう!


Emily Brontё :Wuthering Heights
「嵐が丘」河野一郎/訳(中央公論社刊)



 こういうとんでもない「弔辞」は、ヘンタイぞろいの文学作品のなかでもとくに異様、異色です。
 ほかでは聞いたこともありません。
 ヒースクリフは一事が万事この調子で、振幅が激しく、純度が高いんですよね。
 情熱、というしかないけど本当はその言葉は合ってないとも思います。

 私は好きだけど、あんまり人にはすすめない小説です。冒頭から1/3くらいはだいぶ、のったりのったりしているし。(^^;)
 それでもいろいろと強烈な小説なんですよね。

 これを2、3時間の映画にってそりゃ無理よ——と。
 映画にするなら、なにかほかのところに焦点を当て直して、ほかの物語に組み替えるしかないだろう、と思いますし、それができる製作者は、めったにいるもんではないだろうとも思います。

 他メディアになるとき、原作とは違うものに組み替えられる、その違いの面白さをこそ、ほんとうは、楽しむべきものではないかと思います。

 原作ファンの顔色を気にして、思い切った製作ができない方々のようすを見ると、気の毒だなーという気持ちになることが多いです。

       ●

 思い出したので蛇足。

 そういうわけで文学少女で過ごしておりまして、世間ではこの文学少女というのをたいへんロマンティックなイメージでとらえていると知ったときはけっこう衝撃でした。
 文学は、人間そのものを描くもの。
 人の業といった、どうしようもないものを取り上げているんで、そういうものを好んで読むような奴がですね、そんなロマンティックで夢見がちでおっとり可愛いわけがないでしょうが。

 文学なんてのは人間のなかでも極め付けのヘンタイばかりを取り上げていくものですよ?

 そういう実態を、世間はわかってない、と知ったときは、どうしたものかと思いましたね。(^^;)

 高校のとき、友人Kちゃんと同じクラスだった子が、ちょいちょい顔を出す私をみて、「汚れを知らない、純粋、って感じ」と褒めてくださったんだそうですが。
 実態を知るKちゃんが爆笑したのは申すまでもございません。

 現在の世の中では文学少女自体が珍しい存在になったのかもしれませんが、絶滅したわけでもないようなので——世間様におかれましては、この種の誤解、そろそろ解いていただきたい。
  
 
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