今年の夏は?
2017年08月19日 (土) | 編集 |
 今年の夏の長期予報は「暑い夏」でした。
 が、今年は夏の売れ筋——ビール(ビアガーデン)、アイスクリーム等の売り上げは伸び悩み、コンビニでははやばやおでん販売もあって好調だとか。

 ………気象庁さんの3ヶ月予報ってだいたい反対になる。
 と、私は思っているので、長期予報で「今年の冬は平年より気温高め」と言われると、「もーだめだー! 今年は厳冬なんだ〜!!」と半泣きになるほど。(←寒いの大嫌い)
 それくらい、ある意味では、気象庁の長期予報を「信じている」ともいえます(笑)
(予報とは逆になる、という形で”当たる”と言えるので)

 悩むところは「平年並み」と言われたときでして……
「平年並み……平年並みかあ……、ハズれるとしたらどっちに外れるのかなあ。平年より上か、下か?」
 これは結構、難問です(笑)

 今年の夏は暑いと聞いたときは「冷夏かな」とチラッと思いました。
 それでも、冷夏だな、と確信的には思わなかったのは、日本は亜熱帯化が進む一方なので、少しくらい涼しいといってもじゅーぶん暑いはずだと思ったため。

 で、実際のところはどうかというと。
 今年は、冷夏というよりも、「日照不足」って感じですねえ。気温が低めといえば低めですが、問題なのは気温より、とにかく雨だらけで陽の光がないこと。

 それでもやはり、ビールやアイスの売れ行きには影響するんですね〜。最低気温を見ると、データだけなら熱帯夜と言える日が結構あるんですが(最低気温が25℃を下回らない)、でも、体感と言うのはそういうものでもなくて、今年は夜はそれなりに過ごしやい、と感じます。
 夜は割とちゃんと眠れるので、それは助かりますね。

 天気図を見ると今年は、太平洋高気圧が張り出して、梅雨前線を押し上げると言うことがありませんでした……。
 実質、夏がないまま秋になるんだなあ…。

 美味しそうな肉まんのニュースを聞きながら、そんなことを思う、処暑目前の土曜日。

       ●

 人生相談のサイトをちょっとのぞいて見たら、
「私の彼氏は、結婚していて、子供もいて…」
 と言う文言がいきなり目に入ってきて、
「いやちょっと待って、そう言うのは彼氏とは言わないんじゃ……」
 と焦ったら、回答者の方も、それは彼氏とは言わぬ、とズバッとおっしゃっていて、「そ、そうですよね…」となんとなくほっと息をついた次第。

 ああびっくりした;;

 彼氏でなければなんなのかと言われそうですが、……そりゃあなた、不倫としか言いようがないじゃないですか…。私はあんまり好きな言葉じゃないけど、強いて呼称をつけるなら、愛人、てんですかねえ。
 でも、呼称さえも本来は、つかないような「もの」だと思いますよ。


 私、未成年の頃から漠然と疑問に思ってきた言葉があるんですが、——「付き合う」って、なんでしょうね? 具体的にはどんなことを指しているんでしょう?

 この相談者さんも「妻子持ちと付き合っている」という言い方なんですが、相手が妻子持ちだと「付き合っている」と言う言葉が「合わない」気がするんですよね。
 付き合うとは、肉体関係があるかないかだろう、と言われたこともありますが、でも、いわゆるセフレっていうのもあるし、そういう「関係」にいて悩んでいる人も見るわけでして、そればかりとは言えない。

 なんだか不思議だな。
 語義不明で使えない言葉が私にはいくつかありますが——、中2病と女子力って言葉が、どうもイマイチ意味がわからなくて、意味がわからない言葉は使えませんから、どういう意味だろうかと思ったまま放置していますけども。
 この「付き合う」という言葉についてはもう30年ほども、どういう意味だろうかと思った「まま」なんだよなあ……と、変な方向でしみじみしております。

 回答者さん、自分も友人に不倫していた人がいたが、いくら忠告してもやめなかった、との回想。
 そうなんですよね……私もそうなんで……。忠告を聞くどころか逆にこっちが分からず屋みたいに言われて、挙句には「愛」をとうとうと説かれるわけですよ。
 でも、その愛とやらが本当なら、アンタは今の状況に置かれることはないはずなんでは? と思いつつ、さすがにそれを言ったら殺されかねないなと思って黙っていた記憶。

「あきらめましたよ どうあきらめた あきらめきれぬと あきらめた」
 
 なんて都々逸もありますから、気持ちはわかるとも言えるんですが、でも、やはりわかっている場合じゃないですよねえ……。
 

 まあ、こういったことは理性で割り切れるものではないので、そのあたりは承知しておりますが、でも……、誰にとってもいいことなど一つもない、それどころか、関係者は全員傷つくしかないことなので、情が移ってしまう前に、その場を離れる方がいいな、と。
 完全に他人事ながら思って、そっとページを閉じた次第。

 なんだか変な話になりましたね。(^^;)
(そもそもなんでそんなページを見たのかという……。いえ、もののはずみで。(^^ゞ)
 
 
上機嫌でどうぞ
2017年08月18日 (金) | 編集 |
 他人をコントロールすることはできないが自分は変えられる。なんて言葉がありますが。
 その通りではあるけれど、自分を変えるというのも、簡単なことではないですよねえ;;

 と思っていたら、斎藤茂太先生のお言葉に出会い、なるほど、とナットク。

「自分を変える必要はない。
 機嫌を変えるだけですむ。」



 難しく考えて、自分を変えよう、こういう考え方をしよう努力しようと力むことはない。
 ただ上機嫌でいればいい。

 なるほどそれはそうか、と。
 状況は同じでも、自分はイライラしてるけど気にしない人は全然気にしない、というのを見ればわかるんで、ようは、「反応の仕方」なんですね、その違いは。

 自分の性格を変えるとか、そんなことはしなくていい。ただ機嫌よくしていればいい。
 これは、いわゆる「形から入る」というのと同じ発想かもしれませんね。
 プロセスを細かく考えたり努力するのではなくて、すぱっと「結論」を「作ってしまう」感じ。

 上機嫌である、ご機嫌である、とはつまりは、どういう状態のことを言うか、と考えてみる。

「自分を上機嫌に保つコツは、実は二つしかない。
 一つは、他人と自分を比べて、どうのこうと思わないようにしていることだ。」


 ごもっともです。

「もう一つは、お金が足りないかもしれないとか、あの一言はひどいなあとかいうような、
 心を暗くすることは、できるだけ忘れてしまうようにすることである。
 この二つを身につけるだけで、人生の悩みのほとんどは、消えて無くなってしまうに違いない」



 自分の力ではどうにもならないこと——例えばお天気。雨が降るか晴天になるかは誰にもコントロールできない。
 過去に起きたことも変えられない。
 将来的なお金の不安も、もちろんあれこれ考えて手を打っておくのは大事なことですが、それでも、これで万全ということはないのが世の中というもの。今の時代は国内は良くても、海外で起きた事件が引き金になって経済も暗転、てことは実際ある。
 先のことは誰にもわからない。

 自分は自分のできることをして、あとはもう「天にお任せ」するしかない。自分の力ではどうにもならないことはどんなに悩もうが苦しもうが変わらない。変わらないことに悩むだなんて余計なエネルギーを使って消耗する必要はない、ということ。

 まあ、いい意味での開き直りとも言えますね。

 他人に好かれたいとか嫌われたくないというのも「自分の力ではどうにもならない」こと。
 自分ができる精一杯をやったなら、あとはもう相手の問題なので、よかったかなとか悪かったなとか、必要以上に考えない。

 こういうことができれば、あとは「自分が心地よくなる考え」だけを選んでいれば、「いつでも上機嫌」になるよ、と。

 結局、「考えること」も、クセなんですよね。
 世の中やなことばっかりだ、と思うけど、それでも、その嫌なことを考えていろなんて誰も命令してなどいない。その嫌な考えをわざわざ選んでいるのは「自分自身」。
 だったら、嫌な気分になるとわかってるなら自分で嫌なものを選ぶことはないでしょう。
 ——と、そういうことなんですね。

 他人のことはコントロールできない、だから自分を変えよう、というと、もっともだとは思いつつも、どうしたらいいのか気が遠のくくらいでしたが。

 なんのことはない、自分が気分良くいられるように、嫌なことは考えない、素敵だと思うことだけ考える。——それだけなんですね。

 上機嫌でいるということは、精神的な余裕をもたらす。
 余裕があれば、人のことを思いやるのも難しいことではなくなる。
 やさしさは、かなり「体力」でできている、と喝破した人がありましたが、体力の余裕は精神的な余裕にもつながる。
 自分が水に溺れながら他人のことを思いやることは、なかなかできません;;

 状況ひとつひとつについて、「自分を変える」には? などと考え込むところがありましたが、「自分がご機嫌でいなさい」とは。
 イメージしやすいし、ものすごい普遍性だし。
 なるほど、さすが。と思った次第です。

 でもそれだって簡単にはできない——と思うのは良くわかります。これができたら本当に人間、解脱してます。成仏してます。
 でも、何かあったとき、機嫌よくいよう、と「心がける」ことは、「習慣づけ」を作っていくことなので、全く何もしないよりは、半年後、1年後、3年後、5年後………少しずつでも確実に「身についてくる」。

 身につけば悩み事の大半はなくなる、とモタ先生もおっしゃるし、そりゃそうだなと思います。

 身体面、健康面のことも、だから、大事ですよね。お腹が痛い、頭が痛いと言いながら上機嫌というのもなかなかない。
 体調が悪いとき、不調があるとき、あまりにも他人に気を使って我慢するということもないように。

 いい意味で、「自己本位」であっていい、ということになりますかねえ、このへん。

 自分が機嫌よくいれば、機嫌の良さは他人にも「伝染」しますし(ニコニコしている人を見てぶすくれる人もそうはいないでしょう)、機嫌が良ければ人様に優しくすることもできる。
 自分が気分良く過ごせばひいては人のためにもなるので、妙な罪悪感を持つことはない。

 ご機嫌な人が増えてくれれば世の中の風通しも良くなるし。
「世直し」は自分のご機嫌から、と言えるかもしれません(笑)
 どうかご遠慮なく、上機嫌でお過ごしください。
 
 

チェックアウト時の片づけは
2017年08月17日 (木) | 編集 |
 夏休みなんだなあ、こんな話題が重なるとは。
 ホテル泊まってチェックアウトするとき、お部屋はどのようにしておくか? というお題。
 思ったよりもいろんな「説」があるようです。

「飲みかけのペットボトルは」 ホテル従業員の『お願い』が胸にささる
2017/08/11 grape
http://grapee.jp/373051

ホテルチェックアウト時に『部屋をきれいにして出る』っていうのはやめましょう。
 使ったものは「使いました」と分かる状態にしておいてください。
  ☆次に宿泊する人のため☆に・・・

2017/08/15 togetter まとめ
https://togetter.com/li/1140645

 前者は基本的には日本におけるホテルでの話、後者は海外でのホテル利用の方が念頭に入っているだろうけど国内でも同じことですね。

 特に後者で「部屋をきれいにしないこと」というのは、え? なんで? と思いますが、「きれいにする」ことは「ホテルで掃除の人が掃除しやすいようにする」こととは違うぞ、ってことなんですね。なるほど。

「部屋を掃除の人はね、ぱっと見きれいだと「使ってない」とみなして掃除しませんから」というのにはぎょっとしますが………、まあそういうことも考えられないとは、言えませんよね;;

 私も年に何回かホテル利用しますが、明らかに「誰かが使ったもの、使用済みの何かを触る」羽目になったことは、今のところありません。海外のホテルも……まあ数えるくらいしか行ったことはないですが、そんな目には合ってない。
 回数少ないことと運がいいことの両方でしょうね;;

 ともあれ。

 掃除する人が掃除しやすいようにしておく、というのは心がけておきたいところ。特に私はチェックアウトタイムぎりぎりまでいることがあって、そういう時は周辺のお部屋はすでに清掃が始まっていて、あの申し訳なさってなんとも言えない気持ちです。(^^;)

 ところが、どういう状態なら「掃除しやすい」ものと言えるのか、というの、なかなか奥が深い。



 使ったタオル等はまとめておくのはいいとして、「バスタブに入れる」っていうの、そーいやどこかで聞いたことがあるような…? と、うっすら怪しい記憶。
 とは言え私は実行したことがなくて、理由は、いかにホテルの部屋は空気が乾燥しやすいとは言え、翌朝にはバスタブがきれーに乾いてるなんてことはほぼない。そういうところに布類を入れるのはやだなあ、と自分で思うため。

 私は、タオル類、足拭き用のマットを、バスタブのふちに掛けるようにして置いてますが……どうなんでしょうかね…。それでいいのか、他の方法がいいのか、ちょっと聞いてみたいです;;

 むしろここまできたら、掃除の方にはどういう状態が望ましいのか、まとめて聞きたい。

 ベッドについても、お客さんがチェックアウト時に良かれと思って、きれいに整えてしまうと、「ぱっと見きれいだとシーツ類の取り替えなし、ベッドメイクなし」にされるというのはちょっと怖い。(^^;)
 私は上掛け布団を外して足元に3つ折りくらいに軽くたたみ、その上に、あればパジャマ的なもの(ワンピースみたいなの、スリーパーっていうんですかね、あれは最近多いですね)も畳んでおきます。

 私はあれは「湿気を飛ばす」くらいの気分でやってましたが、でも「このベッドは使ったよ」とわかりやすくしておけ、ということには適(かな)うかな。

 それにしても、ベッドをぐちゃぐちゃで帰るのもアレですが、自分できれいに整えるなんて方もあるんですねえ。その心がけ自体はエライなあと思うけど……うーむ。

 ツインルームをシングルユースにしてもらうことが結構ありますが、そういうとき、心置き無く二つのベッドを使ってゴロゴロするという人もあるし、私は、ベッドは1台でジューブンです、ということで片方には全く手もつけずに過ごします。

 例えそうでも日本のホテルのハウスキーピングだと、それでもベッドメイク、やり直しているんじゃないかなーとも思うんですが。(^^;) 

 まあ、ホテル泊まりというのはよーするに「人様のものをお借りする」わけですから、借りたものは、できるだけきれいにして返すというのは「人として」当たり前のこと。
 チェックアウト時にはお世話になりましたの意味も込めて、できるだけ、清掃もやりやすいように整えておきたいところですね。

 こちらも良かれと思ってやったことが、かえって邪魔になったり、手間を増やしてしまうようでは悲しい。
「こういう状態にしてほしい」ということがあるなら、また聞かせてもらえる機会があればと思いますね。

 それに、部屋を掃除しやすいようにとあれこれ片付けることのメリットはこちらにもあって、あれをやると忘れ物をする率が格段に下がる。
 時間に追われてどうしてもできない場合もあるでしょうが、できるだけ、「きれいにするというより、片付ける」ようにすると、自分にもメリットあるよってことで。

 明らかに前に泊まった人が使った何かに触る……って、そりゃショックでしょうしね〜;; (^^;)
 
 
悪口のリスク
2017年08月16日 (水) | 編集 |
 他人のことをとやかくいうことのリスク、と申せましょうか。

【叶姉妹】コミケ参加は新CMのプロモーション説に憤慨~実際、弁護士さん動いて投稿者ツイ消し
(※弁護士さんのツイート有り)

https://togetter.com/li/1140305

 きちんとした「事実に基づく」「批判」ならまだしも、これ、ただの悪口ですもんね。
(ちなみに私は、非難、悪口雑言、誹謗中傷を批判という言葉にすり替えることはいっさい認めません)
(批判ならまだいい方で、批評と言いやがるのもいますけどねえ……もうそれは論外)

 あることないことを触れて回る、というような言い方がありますが、あることないことならまだマシなんで、「ないことないこと」をいう手合いも世の中少なくないですからね。日本のメディアみたいに。

 叶姉妹さんについては、コミケ初参加とは思えないその準備とリサーチの見事さには、私も敬服するのみですが、なるほどこういう「たわごと」も、クソガキの寝言として流すのではなく、悪質であると見ればきっちり法的な手段を取るというのも、立派だなあと思いました。

 感情的になって聞き苦しいことを喚き散らす必要はないのはもちろんですが、だからと言って、見過ごすべきではない「犯罪」に対処するというのは、案外、ちゃんとできないことなんですよね。
 
 あのきっちりした仕事ぶりを見ても、叶姉妹の厳しさはわかりそうなものなんですが……、というより、こういうなんの下調べも確認作業も行わずに、自分の思い込みだけで人を「おとしめる」ことを平気で言うような人であれば、それほどちゃんと「人を見る」はずもないか……、と、勝手に納得。

 まあ、ものが何であれ、ネット上にあるものは「公共の出版物と同等」と言う判断が裁判所でもなされているので、いかにツイッターが気楽に使えるツールとはいえ、その運用までは、自分の部屋でブツブツ独り言を言っているのと同じ感覚であってはならない。

 裁判で判断されたのは、ブログにおいて、ある事件の容疑者とされた人(その後は無罪確定)について、「報道(いまはこれはフェイクニュースという意味ですが)」にあったことと、あとは自分の勝手な憶測で、無実の人を貶めた件でした。
 ブログに書いたことは、公共物としての責任があるのか、あるいはあくまでも「個人の感想」にすぎないかというところで争われたわけですね。

 で、判決は、ブログは不特定多数、大勢の人が目にする可能性がある、つまり公共性があるものであり、そこへ書き込んだことであれば、新聞や雑誌の記事と同じような性格を持つと認められる。
 故に、ブログ主には、名誉毀損罪が適用される、と。
 そんなことになったんですね。

 あの事件ではブログでしたが、ツイッターでもなんでも同じこと。誰かのエントリーにつけたコメントでも同じ。

 確かにツイッターは個人の気楽な使用を前提にしていますが、内容まで気楽にしていいものではない、ということ。

 ましてツイートは140文字しかない上に、後から編集もできない。
 できるのは削除することだけですが、削除してもいくらでも痕跡は残されるのはご存知の通り。

 ツイートの気楽さは本来は、「自分のこと」「近況、現況」を伝えるためのものであり、他人のことをあげつらうためではない。
 モノがなんであれ、他人のことを言うときは、そりゃもう慎重になって情報を集めて、自分でも確認して、さらに言葉を選ぶ、と言うくらいが「当たり前」ですが、——これは表現の自由とは別個の問題。
 
 自分に人権があるのなら、他人にだって人権はある。
 そのことを忘れていい場面は、きっとこの世のどこにもない。そう言うことじゃないでしょうかね。

 他人のことを言うのならその前に自分のことを言うか、せめて自分のことも同時に書いておくのが、ある意味「マナー」かなとも思います。
 他人のことを言わざるを得ないときもあるんでしょうが、そういうときはことさら慎重に丁寧に扱うべきなんでしょうね。
 本人が目の前にいたら自分はこのとおりに言えるのか、どうか。
 そういう自問をしてみるといい。

 そういう中でもツイートは140文字しかないので、気を使ったり慎重になったり言葉を丁寧に選んだり、ということが、かなりやりにくい。
 ならばと言ってツイートを連投する人もいますが、ツイートはひとつひとつが独立して、RTやいいねができるため、ひとつのパラグラフ(まとまった意味を持つ文章の区切り。単位は「意味」なので、ひとつの段落とは限らない)だけが抜き出されると、本来言いたかったこととはかけ離れたものになり、「誤解」される危険性が高い。
 
 ということで、
「ものがなんであろうと他人のことをとやかく言わないのは基本だけれど、中でも、ツイッターは、人の悪口を言うのには”向いて”ないなー」
 と思った「まとめ」でした。

 ツイートもひとかたまりにまとめて投稿できるような仕組みでもあればいいんだろうな、と思いますが、……あの構造では無理でしょうねえ。

 少し丁寧な説明が必要なら、ウェブのページにするか、ブログエントリーにするか、したほうがいい。
 パラグラフが分解されるのは、好ましいことではありませんでしょうね。

 もちろん一番好ましくないのは、「他人の悪口、陰口を言う」行為、それ自体ですけども。

 あと、名誉毀損罪については、過去にも申し上げましたように、これ「事実であれば何を言ってもいい」ってことじゃない。
 たとえ事実であったとしても、誰かの社会的な地位や名誉を貶めるものだった、その「意図があった」と認定されれば成立する罪。

 丸い卵も切りようで四角、ものは言いようで角(かど)が立つ、という通り、同じことを言うのでも言葉が違えば印象はまるっきり違ってくるものですから、たとえ事実であっても、やはり、言葉については慎重になるべきところでしょう。

 それにしても。
 他人の悪口を言うくらいしか話題がない人って、聞いたほうが寒々しい気持ちになるものですねえ……。人のことなんでどーでもいいだろう、と言われれば、そのとおりですが…。
 どうせだったら聞いて楽しい話をしてくれるほうがいいな。
 それは誰でも同じ気持ちだと思うんですけどねえ……(遠い目)
 
 
個性は細部に宿る
2017年08月15日 (火) | 編集 |
 着る服でも流行を追いかけたり、あるいは芸能人等の服装・髪型を真似たりをよくする人に、不思議な言い方で「羨ましい」と言われたことがあります。
 不思議な言い方、というのも奇妙な言葉に聞こえるでしょうが、私には瞬間的に意味が取れなかったので仕方がない;; 人間、あまりにも予想してなかった方向から切り込まれると、どーしても一瞬、えっと驚く方が先で言葉が素通りすることがあるもので。

 何か——私のファッションに関することが、「我が道を行く」感じで、いいなあ、というような言い方だったと思います。
 我が道を行くのでありつつ、もちろんひどく流行を外すわけでもなく、ダサいということもなく(本当か?・笑)、「自分なり」になっていて、いいなと思う、という。
 へー、そう? と、私としてはびっくりで一瞬リアクションも取れないほどでしたが(笑)

 その人自身は、私から見れば、とてもおしゃれで、それこそ髪からつめの先端に至るまで、いつも綺麗にしていて、素晴らしい、と思っていたのですが。
 本人にすると、「流行を追う」ことに、たまに、疲れを感じることがあるようでした。

 まあ、人さまン家の芝生は青く見えると言いますが、自分の良さというのは本人にはわかってないものだというのの典型ですかね。(^^;)
 あるいは、誰かから、その流行にバッチリ合ってることについて、何か言われたのかもしれません。
 所詮は人真似であり、流行り物を追いかけるだけであり、オリジナリティがない、みたいな言い方で。

 そんなこたーありません。

 流行のものと一口に言っても、実際には、例えば名称は同じワイドパンツだったとしても、すそ幅や、タックの有無、丈、ウエスト位置というのは違うんで、それをどう選びどう合わせるか、色は、その組み合わせは、バッグ等の小物はどうするか——というの、ちゃんと自分で決めてるんですから。

 たとえ、雑誌で見てこういうのとか、芸能人等のああいうイメージで、という、「イメージ」はあるにしても、それを実際自分の身に合わせるのは自分でやってるんですから(予算含めて)、創造性がないわけないでしょう。

 世の中には豪傑っているもので、自分にはそういうセンスは皆無であると見極め、お店でトルソーが着ているコーディネートが気に入れば、「あれ全部(トルソーが着ているままのものを)ください」っていう人、結構いらっしゃるそうですし。
 これはこれで、自分で自分をわかっているということで、思い切りのいい話なんで、いいと思いますよ。人には得手不得手ってありますし。

 そういうあたりからすれば、流行のものとか好きな芸能人の追いかけ状態とはいえ、自分であれこれ考え、工夫しているなら、ちゃんとその人なりのオリジナリティはありますよ。
 体型や身長の違い、顔立ちの違いは把握して、ああするこうするという方針もちゃんとあるんだし。

 ただ、そういうファッションに詳しくない人が、大雑把に見るばかりで「気がつかない」だけだと思いますね。

 個性のない人なんかいませんて。
 流行を追ってばかりというけれど、追えるのもじゅーぶん才能です。
 それに、あんまり自覚はないのかもしれませんが、流行なり好きな芸能人なりが変わると、自分もパッと変わるというの、それ自体、楽しんでいらっしゃるのでは?

 私はあまりそういうことに関心が高い方ではなく(無関心でもありませんが)、自分はこういうのが好きとかこういうのでいいとか、そのまま落ち着いてしまうことが多い。
 髪型からメイクから、さっと変えられる、というのは、それこそうらやましいですよ。(^^;) メイクなんか完全に「技術」だしさ。

 服を買うのに自分で選ぶのではなく、お店の人でも友達でも、他人に見立ててもらうことがたまにありますが、それは、自分だけではどーしてもどこかで決まりきってしまうから。
 人の見立てだと、「自分なら絶対買わない」ものを持ってこられてギョッとするも、合わせて見ると、あれ、意外にいけますね? ということで面白いから。

 そういうあたりから見れば、追いかけだろうがなんだろうが自分をパッと変えてしまえるというの、いいなあ、と思います。

 どうも現代は、個性だの創造性だの「私らしい」だのとウルセーことですね;;
 世の中の全員が全員、ファッションリーダーになるなんて事態があるわけないじゃないですか;; そんなになったら逆に服飾業界は死にますよ;;

 人の真似ばかりというけれど、人の真似をしない人なんかいませんて。
 学びということばは「真似び」だそうですよ。

 過去の偉大な「オリジナリティ」溢れると思われる映画を、系統と時系列を交差させて並べ、それらがどれほど互いに「影響し合っているか」つまり「真似」をし合っているかを示した、岡田斗司夫さんの「イタダキ・シルクロード」、あれは一見の価値があるから是非見てほしい。

 いっさい、なんの影響も受けず「真似」をせずに、作品を作った人間はいませんよ。
 そのオリジナリティなり創造性なり個性なり、ちゃんと各人持っているし、それが人の目につくかつかないかだけのこと。

 人の目につかないものは「無い」ことになるのか、というと、そんなこたーない。
 むしろ、そういうものが目の前にあっても見落とす方がボンクラなんじゃないの?

 細部に神は宿るというのはこういうときに使う言葉じゃないでしょうけど、でも、派手で仰々しいもの以外は個性じゃないみたいな考え方、あまりに大雑把すぎて、私としては賛成できません。

 真似ばかりと言われても、真似できるのも創造性でしょう。真似は学びであり、てことは学んだ後には必ず自分なりのものができている。
 それに目を止める人がいるかいないか、それだけじゃないでしょうかね。

 あんまり、個性だのなんだの言って、自分を追い詰めない方がいい。
 真似して自分なりに工夫していくのが楽しいなら、それが何より。
 楽しいこと、というのは、何にも代えがたい価値。

 自分は何が楽しいんだろう、と悩む人の方が心配なんでして、自分はこれが楽しいと思えるなら、それはそのまま大事にすべきだと思いますね。
 楽しいことは他人が与えてくれるものではないので。


 結構昔のことですが、そんな「問答」があったことを、ふと思い出しました。(^^)
 
 

夢よロマンよ
2017年08月14日 (月) | 編集 |
 わからない、ということも、ロマンだと思うんですよね。
 今すぐわからないと困るものなら仕方ありませんが、「人生とは何か」みたいな「わからないこと」なら、わからないなあと言ってずーっと考えていてもいいと思う。

 どうも昨今、安易に人に聞いたりネットで検索したりできるせいか、自分でまず考えるよりは、「正解」を出せ、とすぐにイライラし始める人があるようです。

 まあ、NHKさんのあさイチとか、民放のバラエティ等の番組でも、別にクイズ形式にしなくてもいいのにいちいちクイズにしたり、CMを挟んでCM前にやったことを繰り返し流して、ただ時間を稼いでいるだけなんでは? と疑いたくなるようなものもあって、私もあれは結構いらっときますが。

 これはどういうことなんだろう、どんな意味なんだろう、というのを、自分なりにひっくり返しひっくり返し考えるのは好き。

 それだけに、映画や本の「意味するところ」がわからない、と言ってイラつく人を見ると、わからなくてもいいじゃないですか、今は。——と思います。

 わからないことが「気持ち悪い」「気分が悪い」、というの、わからなくもないですが、結論は必ず今すぐ入手できなくても「困らない」ものなら、わからないものとして、持っていてもいい。

 今はたいていのことならネット検索で「わからないこと」についての情報を得られるせいか、たまに、どこにも参考になりそうなものがないとわかると、「え、なんで?」と戸惑うほどになりました。(^^;)
 この点について、なかば反省しているエッセイ、コラムを見ることもあります。
 わかるわー、なんだかすっかり「便利」が当たり前になってるよねー、と思ったり(笑)

 それに、ネット検索で出て来た情報が「正解」とも限らない。
 料理で言えば情報は「食材」みたいなもの。鮮度はどうか、ちゃんとした品なのか、出どころは確かか、と言った吟味や、その食材で何を作るかってことは、自分がやること。

 AIはレシピの紹介やメニューの「提案」はしてくれるでしょうが、「私は今日、何を食べたいか」は教えてくれない。
 当たり前じゃんというなかれ。「何か楽しいことない?」と他人に聞く人って結構いますが、その質問の意味は、「私は何が食べたいんだと思う?」ってことなんで。
 知らんがな(笑)
 でも、いつのまにかそんな感覚になってることがあるよ、ってことです。

 何でもかんでも、その場ですぐにわかる、正解が手に入る、それができないと「不安」になる、というのは、どれほど情報化が進もうと、それは違う、と思います。

 私も生来、気が短く、単細胞ですから白黒はっきりしないことは苦手で、いつまでーもグレイのままのものがあると、もう自分で真っ黒に塗ってでも「決着」つけるようなところがあるので、「わからない」「正解が見つからない」ことに苛立つ気持ちも、わかります。

 でもそのわからないが、別に誰にも害はないものであり、急ぎのものでもないのなら、「わからない」という箱に入れて、そのまま保留にしていてもいいんじゃないでしょうか。
 その保留箱からときどき取り出して、あれはどういうことだろう、と考えたり、あとからまた参考になりそうな、関連のありそうな情報を見つけたら、照らし合わせつつまとめておいて、また箱へ戻す……というのも、楽しみになるように思います。

 映画「君の名は」を、小学生が見てわかるだろうか、と聞かれた時、わかるとこだけ分かってりゃいいんで、成長途中で、ああそうかとわかる日は来るだろうから大丈夫、と答えました。

 何もかもをわかる必要はない。
 わかんないなあ、と言って持っているのも楽しいもんですよ。

 昔読んでも意味がサッパリだった本が、数年後に再読したら何を言っているかを理解できた、なんてときには自分で自分の成長もわかるし、どこがどう成長したかもわかるし。

 エミリー・ブロンテの「嵐が丘」、14歳の時に初読、意味わかんないけど迫力に圧倒され魅了され、でもなぜ魅了されるかがわからず、登場人物が何を言っているかさえわからない、というところから、自分なりに「読み切れた」と感じる間に、十二支が一周しましたね。
 作者が本作を書いた時と同じ年齢になっていて、年齢によるものもあるのかなあ(時代が全然違うけど)と思ったことを思い出します。

 幼稚園から小学生の頃、熱愛していた「海のトリトン」、社会人になってからビデオ全巻大人買いして見た時、そりゃー子供にこんなもん(失言)わかるわけないわ〜と思いました。
 でも、わからないながらに心惹かれ感動していたってことが、大事だったんだなあとも納得。

 わからないことを、そのまま持っていくのも、「ロマン」だと思いますね。

 自分でそうかと分かったことは、ちょっとやそっとじゃ揺らがないような、頑丈な「根」になってもくれますし。

 仏典の、やはり「空(くう)」を説明した、「ミリンダ王の問い」、そうか、と理解するのに10年かかりましたが、おかげさまで、量子宇宙論に、なんとなくでもついていけるようになりました(笑)
(その二つになんの関係が? と言われそうですが、量子の概念はまさしく空の概念)
(まだ量子論が新しいものだったとき、従来の物理学者の中に、かえって、量子論を理解しない人があったと聞いたときは、無理もないと思いました。「物質」の概念が全然違うから、既存の概念に縛られていたらまずイメージできないと思われます)

 わからないことはロマンであり、自分がなんでも知っているような勘違いをする、のぼせ上がるのを防いでくれる要素であるようにも思います。

 ということでUFOでもUMAでもネッシーでもなんでも、実在、非実在を問わずムキになって追跡し証明しようとする人を見ると、ロマンがないのう、と思ったり(笑)
 あくまでも余裕を持って、いるかいないかを「楽しむ」のは面白くていいと思いますが、いるにしろ、いないにしろ、絶対確実にしてやろうという態度は、ちょっとオトナげない気がする。

 わかんないよねえ、不思議だよねえ、というものを、ちょっとくらいは持っている方が、この世も楽しくなるんじゃないでしょうか。

 ……なんていうのも、怪談聞くのが好きなどという、ヘンタイの言い訳か自己弁護かもしれない(笑)
  
 
聖と卑は同じ
2017年08月11日 (金) | 編集 |
 本日、山の日で祝日でございます。
 が、私にとっては今日から3日間、東京ビッグサイトにおきまして開催されます「コミックマーケット92」の方が重大事。
 ということで、明日は私も「祭典」参加のため、こちら、お休み致します。m(_ _)m

 会場からツイートはしているかもしれません……が、現場に行ってしまうと意外と時間が取れなかったりするんですよね…。RTは簡単ですが。

 また明後日、8月13日にお目にかかります。m(_ _)m

        ●


 二村ヒトシさんについては、「名言」ツイートでお名前、ご著書はお見かけしていたのですが、本をちゃんと読んだことはなくて。

 ツイッターアカウント(https://twitter.com/nimurahitoshi?lang=ja)もお持ちなので、ちょっと拝見しましたが、なかなか興味深い。
「なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか」からの引用でしたが、結局、自分で自分の幸せを否定していたり、人に愛されることを怖がって拒否している、という心理状態が(無意識のうちに)あり、それがために「愛してなどくれない人」を、わざわざ自分で選んでいる、というご指摘でした。

 これは全くそのとおり。本人の表面的意識はそんな自覚はないでしょうけど、いわゆる「だめんずウォーカー」はこの典型と言えます。

 それはともかく。
 ツイート主さまは、二村さんと信田さよ子さん(心理学者、臨床心理士)の対談中の言葉にいたく感動なさってのツイートですね。ぜひこの部分を読んでくれ、と。

 ツイートを表示できないこともあるかと思いますので、その部分、抜書きいたしますね。

二村 女性の中には、菩薩とか母性じゃないけど「揺るぎないもの」があるような気がしていて……。
信田 ストレートに言ってください。
二村 すみません。女性がしっかりしていてくれれば、男がその女性に恋をしても女も狂わないし、というか、男に狂わされている場合じゃなくて、女は男とか恋愛に対しては、どっしり構えていてほしくて。男が女に右往左往させられているほうがいいのになって。
信田 わかった、わかりました。
二村 女を美化しすぎですかね。
信田 美化じゃないですよ、バカにしてるんですよ。「女性は人間じゃない」ってことの裏返しの表現。自分を美化しているんですよ。
二村 女を崇めてるんじゃなくて、むしろ自分を安全圏において自分を崇めてる?
信田 「菩薩」っていい表現に聞こえるけど、実際には「女性には頭脳がない」ってことを言ってるんですよ。





 私もこれを読んで、ヘーエ、と思ったのは、ここまで聞きかじりよりも頼りない状態とは言え、二村さんのご発言から、もう少し「わかっている」人なのかと思っていたので——、女性に「こうであってほしい」というその願望を聞いて、あら意外、と。

 頭か何かでわかっている、というのと、もっと深い場所にある欲動は別のものだということかもしれませんね。

 このツイートについたレスに、「菩薩=バカにしている、というのがわからない」というのがありまして。
 そうですか、わかりませんか…と思ったのでちょっと私も考えてみました。

 菩薩というの、確かに一見、崇めているようではありますが(そういう感情もないことはないんでしょう)、その菩薩に、人間らしいイメージはあるのか? ってことですね。
 男尊女卑思想では、女性にはおよそ人間性など認められていません。女性にも感情があり、痛覚もあるということを、まるっきり無視しているのが男尊女卑。なんせ「卑」ですから、少なくとも自分と「同等」ではない。

 菩薩もまた、人間のイメージではないはずです。
 これは、芸能人、アイドルなどと、そのファンの関係と同じ。そう言えばイメージしやすいかな?

 ファンはときに、好きな芸能人やアイドルが恋愛したと聞いただけで文字通り「発狂」しますが、あれは、対象となる人を、トイレにもいかず飯も食わない、ただひたすらに美しく輝かしく、自分の思い描く美しい「像」として、崇めているんですね。
 けれども、わずかでもその「像」から外れると(そりゃトイレくらい行くでしょうよ誰だって、というレベルのことでも)たちまち、その「愛」は逆回転を始め、信じられないくらいの憎悪になる。

 つまりは、「信仰」もまた、対象を人間扱いしていないわけです。

 歴史の中でも心理学の世界でも、この「聖」と「俗/卑」の関連性はよく言われることでして。
 表現は全く正反対ですが、根は同じ。「本質」は同じ。

 二村さんはそういうあたり、すでにご承知のはずと(もんのすんごく漠然と)思っていたので、あら意外、となったわけですね。(^^;)

 2014年にお亡くなりになりましたが、作家の渡辺淳一さん、その作品に、ものすごい勢いで反発していた女性たちを思い出します。
 渡辺作品の女性像もまた、現実の、生身の女ではない、渡辺淳一さんの思い描く願望の女性像ですね。
 しかし、その像に対する反発が、私もびっくりするくらいのものがあり——あのとき、世の女性は、自分が誰かの願望のもとに自分の姿を歪められている、現実ではなく誰かの願望の中に「閉じ込められている」と感じ、怒りを溜め込んでいるんだなあ、と思いました。

 ただ。
 
 私としてはこういう話、あんまり、男女差別の話にはしたくないんですよねえ……。

 女性の側にも、それこそ私などはビビるくらいのもんのすごい願望「像」があるし、男性を求めているようでいて、実際には「現実の」「生身の」「人間」ではない何かを求めているだけ、ということは少なからずある。

 私はかなり露骨な男嫌いですが、女嫌いの男性の気持ちは、じつは、結構わかります;;
 主張されることそれ自体が問題じゃなくて、その「感情」「気持ち」の部分ではまったく同じなんですよね。
 
 こういう話になると意外と私が困ったように黙り込むのは、そういうわけで、「問題なのは、実際には、性別ではない」ことがわかっているから。

 二村さんのその願望も、それは彼が男性だからそういう形をとっているだけで、もし二村さんが女性なら、やはり「男性を人間扱いしない」願望を持つはずです。

 問題は性別ではない。それは「表現方法」の違いでしかない。
 問題の本質は、——二村さんがご自分で書いていらっしゃるとおり、自分自身をきちんと愛していない、というところにある。

 背中が痛い、と言って湿布を貼ったりマッサージに行ったりするけどいっこうに良くならない。
 ……と思っていたらじつは狭心症の発作が起きていた、みたいなものです。

 痛みがある局所にばかり気を取られていては、心臓病という重大な病気を見逃してしまう。

 私にはどうしても、この種の「議論」は、背中が痛いからって湿布を貼って、マッサージして、整形外科へ行って、でも、どれも全然効果がない、とぼやいているようにしか見えないんですよね。

 背中が痛いと言っても、なぜ左側だけが痛むのか、ちっとも治らないのはなぜか、と、そういうことにちゃんと目を向けていると思われた人さえ、じつは本質を見ていなかった、というのが私には意外でした。

 菩薩と「バカにしている」の関係性も、もう少し理解されるといいな。

 私が、何のファンになるにしろ、どうしても頭の隅っこに冷たい氷の塊を置いてしまうのは、「カリスマに熱狂するのは、奴隷を虐待することと同じ」という認識があるから。

 それが誰であれ、生身の人間を「信仰」する「趣味」はない、とたびたび私が申しますのは、こういう理由によります。

 でもこういう態度の奴って、消費経済にはあんまり貢献しない傾向があるんで、それは申し訳ないなと思うんですが(笑)