憧れの方向性

 将棋は「指し」ます。
「打つ」のは囲碁です。

 ……と、思わずテレビ前で憮然としております。

 藤井聡太(ふじい・そうた)さんという、将棋界の大彗星が現れているわけですが、例によって例のごとくで、世間様の「フィーバー」、私は「跳ねっ返り」と呼んでおりますが、そういう騒ぎにいささかうんざり気味です。
 昨日もテレビを横目で見ておりましたら
「私もちょっと将棋を打つんですが」
 と言った人があったもんで、
「将棋は指すんです。打つのは碁です。……本当に将棋、おやりになるんですか?」
 思わず少々意地の悪い独り言。(^^;)

 個人的には藤井四段にはいろいろと感心しております。興味深いことも多々ございます。藤井四段ご自身に対して含むところはまったくございません。
 私がいささかムッとしているのは世間様の騒ぎの方。

 私だって将棋はネットで見る専門で、とても将棋が「わかる」とは言えませんが(門前の小僧習わぬ経を読む的に覚えることは結構ありますがその程度)、………でもさあ、将棋は指すのか打つのかも知らないような人々がなんでこんなに藤井さんに「熱狂」するのかなあ? そのへんがわからない。

 とは言え、こういう騒ぎは過去にもなんども(………なんども;;)みております。
 言っちゃなんですが一番滑稽だと思うのは「どうやったらうちの子もあんな風になるのか」という人々。
 そもそも「あんなふう」ってどのことを指しているのか。

 藤井さんであれば、あの頭の良さか。あの「大人」ぶりか。将棋が強いことか? でも将棋が好きかどうかは親が決めたことじゃない。頭の良さについては、まず親が違うということを忘れてんじゃないの?

 藤井さんの学習法なり知育玩具なりなんなり、参考にできそうだと思えばそれを取り入れるのは結構でしょうが、「うちの子」と藤井さんではありとあらゆる「背景」が違う。
 彼には効果的だった教育法も「うちの子」には合わない、ということも、ジューブンあり得るわけですよね。個性が違うんだから。

 なんでしょうかね——私は昔っからこういうのが嫌いで。

「よそ様のお子さん」と「うちの子」は、まるで別のもので、資質も背景も遺伝情報も、ものの好みも性質もその指向性もまるで異なる個性。
 まるで異なる個性なのに、「あの枠を持ってくればうちの子も、あの枠に沿ったようになる」と考えている、あるいは考えているかのような言動や騒ぎって、どうも——ひと事ながら、不快に感じます。

 うちの子だろうがよそ様のお子さんだろうが、どのみち、何かの枠を持ってきて、それその通りに(自分の思惑の通りに)人を当てはめよう、という考え方感じ方が、私には恐ろしいと共に「おぞましい」のです。

 自分の果たせなかった夢を子に託す、みたいな発想って、どうも世間には多いようですが、親子だろうがなんだろうが、人としてはそれぞれ独立した存在なんで、誰かの思惑どおりにいくはずがないんですよね。
 それでも幼い子供は必死になって親の「期待」とやらに応えようとする——これはもう健気なんてもんじゃなくて私などは本気で泣けてくる。
 ……でもそうやって、本来の自分を見失い、その後、なんとか見つけるまでに、何年もの時間を費やす人が、世の中にはどれほどいるだろう。

 もちろんこれは親子の話だけではなく、学校の先生でも、あるいは友人同士の間でも、他人を自分の思惑どおりにしようとする、そういう「関係」はそこら中にありますね。
 そこら中にある、と言わなければならないことを、私は悲しいことだと思うし怒りも感じる。

 そういうあらゆる人間関係に、他人をコントロールしようとする人の問題はあるんですが、でも、中でも、親子関係というのは、子供からすれば親というのは「生殺与奪の権を握る」——養育者はいつでも殺人者になり得る、という切羽詰まったものなので、特にここのところには敏感になってしまうようです。

「うちの子」の適性を探り、この子を「活かす」方法を見つけたい、という中で、藤井さんのお話が参考になる、というのならわかる。
 でも、目の前の「うちの子」を「無視して」、「藤井さんのようにしたい」という発想であるなら、私としては、バカタレ、くらいのことは言いたくなります。
 
 藤井さんの登場に驚き、目を奪われ、「あんなふうでありたい」と思っているのはご自分なのでは?
 自分があのようにありたいと思うのに、でも自分ではもう「手遅れ」だから、「うちの子」をなんとか……、ということじゃないのかと、大きなお世話ではありましょうが、そういう「感触」を感じることがあって、どうにも気持ち悪い。

 自分があのようにありたいと思うなら、自分がやればいい。幼稚園には入れませんが、そのメソッドを聞いて応用するなり、知育玩具を自分も使ってみるなりすればいい。
 別にこれは冗談で言ってるんじゃございません。興味があるなら自分がやれば? というだけのことです。

 それに、これは真顔で言いますが、知的な刺激って年齢関係なかったりしますしねー。
 先日は人間の知能のピークは50、60、70代、というお話をしました通りで、脳みそ自体は、いつでも知的刺激は受け入れOKという器官なんですよね。
 内臓や神経組織がバテていて、脳を生かせないことが多いってだけで。

 どうせ藤井さんすごいねと盛り上がるなら、自分自身に取り入れればいい。そう思いますね。

 私も親だのセンセイだのの「押しつけ」が嫌で嫌で嫌で嫌でしょーがなかったもので、つい、いまだに、「その人自身を見ずに勝手に他の何かを押し付ける」ものをみると、人ごとでもむかっとしてしまいます。
 
 藤井さんについては——連勝記録もすごいんですが、これ、「デビュー以来負けなし」の方が、私には驚異的に思えます。
 四段というのはまったく名目でしかなく——、実際には、どのへんが妥当な段位なのだろう、と、ぼんやり考えつつ、拝見しております。

 ついでに言うと、これほど将棋が盛り上がるのも、その基礎を作ったのはまずはニコ生将棋さんだと思うんですが、テレビを見ているとアベマ Abema TV さんのことしか言わないのも、大いに不満に思っているところです。

 ものが何であれ、パイオニアをまず敬う私としましては、アベマさんを見ることはたぶん、ないと思います。
 よほどのことがない限り、私はニコ生さんで拝見していきたいです。(← やや意固地。(^^;))
 
 
 

急遽おやすみ

ちょっとばかり手違いございまして、本日こちら、おやすみいたします。m(_ _)m

人と会う約束があったのを、日付を間違えていたようで(どちらが間違えたのかは問うまい;;)予定が大幅に変わってしまいました。

ということで、ちょっと呑気に投稿しているわけにもいかなくなりまして(誤字脱字その他に不安があるので、下書きをそのままぽんと投稿する、ということはできません、私の場合;;)、お休みします;;

どちら様にもご機嫌よろしゅう。m(_ _)m

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人のふり見て我がふり直せ

 昨日、出かけた先で、空いた時間にツイッタを見ていたとき、一瞥(いちべつ)するやブチ切れそうになったものが、ノンフィクション作家とおっしゃる降旗学(ふるはた・まなぶ)さんのコラム。



 降旗さん自身のツイート等ではなくて、「週刊ダイヤモンド」のオンライン版「ダイヤモンド・オンライン」に寄稿されたものの、スクショですね。
 ツイートについたリプがいくつか指摘していますが、この文章は今回の件についてではなく、1年ほど前のものになる、とのこと。

 ですが。
 1年前の件でも今回の件でも同じことだ。
 取材される側の市川海老蔵さんは、決して取材拒否をしているのではない。であるにもかかわらず、病院やご近所という先にまで多大なる迷惑をかけているのはやめてくれとおっしゃっただけ。
 それについての降旗さんのお考えですが、これ、早い話、私が大嫌いな「有名税」の考え方なんですね。

 取材される側もこのギョーカイなんだから、ギョーカイを支配するルールのようなものはよくわかっているはずなんで、それに逆らうことはできない。という脅迫と。
 私ども「受信者」に対しては、
「これがギョーカイの”当たり前”だ。それが嫌なら週刊誌を見るなワイドショーも見るな」
 ですとさ。

 言われるまでもないわ
 私はゴシップのこの世からの絶滅を本気で願うような人間だよ。ってことはアンタみたいな人の絶滅をもたまに本気で願ってるよ。週刊誌は自分で買ったことはここまで生きてきて一度もないよ。
 ゴシップ誌に金を出すというのはお金をドブに捨てるより「悪い」ことだと思ってるよ。
 犯罪に手を貸すようなもんですからね。
 ゆえに、ワイドショーなんか、もうかれこれ20年かそれ以上は見ていないと思う。

 見ていない、のではなくて、「見るに堪えない」といった方が正確だな……。
 あんなもんを30分だの1時間だの見てろって………拷問ですよ;;

 こういう「盗人猛猛しい」のを見てしまうと、どーしても腹が立ちます。(^^;) 人間が練れていません。

 その後も、どこかのブログで、
「メディアは受信者たちに”奉仕”している。受信者が望むものを取ってきているだけ。今回の取材側の態度が悪いというのなら受信者たちが悪いのだ」
 という指摘もありました。
 こちらについてはあんまり怒る気にならなかったのは、これはこれで、その通りだと思っているから。

 別に、セレブ、有名人とは限らず、ゴシップ好きな人というのは自分の身近な人やコミュニティにおいてもそうで、他人様のことを根掘り葉掘り聞きたがり喋りたがり、それくらいならまだいいが、「こういうことに違いない」と決めて、面白おかしいように脚色して広めるんですよね。

 そういう人たちが一定の数いるのは事実なので、そういう人の好みに合わせているのだというのも、嘘じゃない。
 ゴシップ誌でもワイドショーでも、それがお金にならなければ撤退するしかないわけで、ネットという、これほどゴシップ好きには便利な「サービス」がしかも無料または極めて安価に利用される中でも、やっぱり週刊誌もワイドショーも商売しているということは、彼らに儲けさせている人々がいる証拠ではある。

 メディアはその国のレベルを反映する、というのは間違った見方じゃない、と思うので、それで、後者の方にはあんまり怒らなかったんですが。

「あんまり」怒らなかったというだけで、怒っていないとは言ってない。

 どちらにしろ、自分の行為を他人のせいにして、誰が悪い彼が悪い、誰ぞのせいだ何かのせいだ。自分は悪くないのだ——という、この言い草がもう、筆舌に尽くし難いほど嫌い。

 内省のないところに人の成長はないと思っておりまして、そういう考えからいったら、「いいことは自分のおかげ、悪いことは他人のせい」というのは、本人が成長しないのみならず、他人の足を引っ張ったり、こうやって他人様に多大な被害を与えることになる。
 ゆえに、可能な限りこういう人には発言させてはいけないのだ、というのが私の思うところです。

 ただ。
 こういう人を見て怒るのはいいとしても、同時に、頭の片隅で冷たく思うのは、「自分は大丈夫なのか?」ということ。
 冷たい氷水で満たされている場所が脳みその隅っこにあって、降旗氏みたいな人にブチ切れそうになるたび、その冷たい水の中から「自分は?」という問いかけが聞こえてくる。

 いいことは自分のおかげ、悪いことは(全部)他人のせい——。
 そういうの、自分はやってないか? 本当に?

 これを考えると、怒りも瞬時に冷めますね。(^^;)
 人が怒ることにも、いくつか「怒りのパターン」がありますが、一番多いのは、同族嫌悪というのか、自分で自分の、こういうところが嫌だな、と思っているのを、他人に見せつけられたとき、じゃないでしょうか。
 
 降旗さんとかいう方のご意見にキレそうになったのも、——ここまで積み重ねてきた経緯があるから、というのも事実ですけれど、一番大きな理由は、自分がそうなることを恐れ、嫌悪しているから。
 そういうことはあると思います。

 自分で嫌だなと思うのを目の前に見せつけられるとカッとくるのは人情ですが、でも、もしそれを自分でもやってしまったらどうなるのか、その醜態を、身をもって見せてくださった、ということには、素直に感謝したいと思います。

 ちょっと場面や状況が違うというだけで、自分だって、こういうことをやっている——という自覚。
 それがどんなことなのかをあらためて見せてもらったのだと思うと、これはこれで感謝だな……と、ちょっと頭を冷やして、そんなことを思っている次第です。

 ………だからって「有名税」なんてくだらない考え方に、わずかにでも妥協する気はありませんが。
 それはそれ。これはこれ。(^^;)

 

都々逸になった

 明日はまたちょっと所用ありまして、こちらおやすみいたします。m(_ _)m

     ●

 昨日ツイートしていたものが、ちょっと整えたら一句できました。


——愛する人に 愛していると 言える幸せ 夏椿

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 七・七・七・五になっているので、俳句じゃなくて都々逸(どどいつ)ですね。
 こんな感じで、五・七・五にならないかな〜と思ったけど、私ではひねれませんでした。(^^;)

 柳家紫文師匠によりますと、日本語としては七・七・七・五の方が自然であるらしく、日常の言葉がそのまま七・七・七・五になっているものって多いんだそうで。
 同じ調子でリズムよくいって最後にオチがつく、というイメージかな。
 
 私は音痴なのでまっっったく! 歌えませんが、でも、都々逸というのは聞いていてなんとなく耳に心地よくて好きです。短歌、俳句のような芸術性は濃くありませんが(……よく知らないけど多分;;)、日常の、人の心の機微にはよく寄り添っているもの、という気がする。

 昨日の自分のツイートを見返して、あれ、これだけでけっこう形になってんじゃない? と気がつきまして。で、指を折って数えつつそれっぽいように考えたら、こんなものになりました。

 都々逸も形態としては自由で、俳句のように季語を必要とはしません。が、最後のオチ? として、花の名前をいくつか考えていました。
 候補として考えたのは、「夏椿」のほか、俳句で季語になっている「沙羅(さら)の花」、あと「沙羅双樹」。

 沙羅双樹といってしまうと、これは日本では自生しない植物ですから「気持ちはわかるが、うそ」ということになる。
 沙羅の花は夏椿と同じ。沙羅双樹と混同された過去があってこういう名前になっているとか。

 本物の沙羅双樹は、大辞泉によりますと、

「フタバガキ科の常緑高木。インド原産。高さ30メートルに達する。葉は長円形。花は淡黄色で小さく,大形の円錐花序につく。材は堅く建材などとし,樹脂はワニスの原料,果実は食用。シャラソウジュ。シャラノキ。」

 とのこと。まったく別物なんですね。そういうわけで日本では、温室で管理するなどしない限りは育たない。当然、日本に自然の状態で沙羅双樹はない。

 白く可憐で夏に咲く花、しかも1日しか咲かず、咲いた後は椿らしくぽとりと落ちる、そんな儚いイメージから、沙羅の花と言われたんでしょうか。

 私は短い言葉でサクッと表現する能力は欠如しているのですが、「日常の中に存在する」都々逸の形式だと、ちょっと頑張れば、意外とできたりするのかしらと思ったり。

 明日はそんなわけでこちらおやすみしますが、今日も実質、休みみたいなもんですねー。(^^;)
 どうも世間じゃ嫌な話ばかりだし、ただでさえ嫌な話なのに、誰もかれも、ますます嫌な表情と声と言葉で「わめきあっている」ので、もう、うんざりしちゃって。
 思うことはいろいろあるけれど、何もいう気にもなれない……というのが、私の現状。

 白い花を見て、静かに「その幸せ」を偲ぶ、——そんな日にしたいと思います。

 どうぞ良い週末をお過ごしください。m(_ _)m
 
 

過激思想

 まあ、私がマスコミというものに腹をたてるのはもう日常になっているので、彼らの不見識を指摘するための例として、もはやどの話題を取り上げればいいのかわからない状態なんですが……。
 でも本来は、マスコミがどれほど愚かであろうと、それを受信する側、つまりは一般市民が賢ければ何の問題にもならないんですよね。

 東京都の築地市場移転問題についても、私はあくまで(他県民だし)傍観者の立場ですから、あんまりとやかく——というよりはえらそうに——ものをいうもんじゃないと思って見ておりますが。
 あれだけの規模とネームバリューを持つものについての考えが、「満場一致」で賛成でシャンシャンとなる方が不自然なんで、それは別にいいんだけど、
「これを都議選の争点にするんだろう」
 などと憎々しげにいうツイートを多く見て、
「争点にしたくないならしなけりゃいいじゃん」
 と、ちょっとばかり呆れております。

 ネズミの嫁入り、という昔話がありますよね。
 どうも多くの人々は、よそ見ばっかりして自分を忘れ、自分に権限があるということを忘れ果てて、自分は「常に」何かの思惑に「虐げられている」「可哀想」「無力な」「弱者」であるという意識になっているようです。

 なるほど数十年かけて左巻きが騒いで刷り込んできた「弱者意識」はこういう事態を生むのだな、と思っているところ。

 投票するのは有権者だし、選挙結果は有権者の票数で決まる。
 私は民主主義も多数決というやり方も、ぜんっぜん「いいもの」「正義」「至上至高にして最高の価値あるもの」だなんて思ってはおりませんが、それでも現行の制度ではそういうことになっている。

 つまるところ、誰がどんな思惑で、どんなことを「選挙の争点」にしたいと思ったって、有権者がふーん、といって横を向いてりゃ争点になりようがない。
 そのことを忘れ果てているというところが、情けないですねえ。

 争点になろうがなるまいが、自分の思惑と自分の考えで票を入れてくればいいだけでしょうよ。なぜ、そこですでに「被害者意識」めいたものがチラチラして、その上、「怨念」にまでなっているのかが私にはわからない。
 
 自分一人が票を入れたって大勢は変わらないといじけたことを言う人もいますが、それもまた当たり前。自分一人の意思で何とかなることって、この世にいくつあると思っているのか。
 権力者と呼ばれる立場になったって、自分一人の思惑がそっくりそのまま通ることなんてない。権力者というのはあれはあれで窮屈なもので、庶民よりも多くの「縛り」がある。

 独裁者と言われる人ですら実際にはそうなんで——、まして民主主義というのは、特定の人に権限を集中させないことを目的にしているシステム。
 本来は「重い」存在すら、権限を剥ぎ取り「縛り」を増やすことで「軽く」するようにしている。
 まして庶民においてをや、ですよ。

 民主主義の厳しいところは、「権利は少なく、責任は多く」ってところ。
 民主主義がその機能を果たすためには、権利は紙切れ1枚の庶民ひとりに、成熟した政治家と同じだけの判断力を求めている点。
 投票によってものごとが決し、多数であることで「正しい」方向を見出せる、という考えを実現するには、それが「必須条件」です。
 それぞれに高度な判断力がある、という前提なしに「多数決は正義」は成立しない。
 
 その通りにできればいいけれど、…………それなりに国民の教育水準はあるはずの日本でもこの有様ですから。
 元からアナーキーに走りがちなアタクシが、民主主義だあ? やってやれっか馬鹿馬鹿しい、とヤケを起こすのも仕方ないとご理解いただきたいところです、私としては。(^^;)

 仏教徒というのは本来、ちょっとアブナイんですよ。
 開祖のお釈迦様にしたってあの時代のあのインドでカーストを否定したということがどれほど「アナーキー」なことだったか、だんだん理解するようになって、私、以前とはちょっと違う意味でお釈迦様を尊敬しました。(^^ゞ
 原始仏教は実はパンクだよね、と評した人がいますが、その通りだと思います。

 そういうところからつい現世を眺めてしまうので——、民主主義ってそんなにいいもんかい。くらいのことは平気で言います(笑)

 何にしろ。
 ことごとに他人を捕まえては被害者だの弱者だのと吹き込んで、人の自尊心を奪い続けた左巻きの言説の罪深さはこういうところに現れる——という、まあ、あんまり理解されないだろうなーというところで、ニュースなどを片目片耳で承っているこのごろです。

 有権者の皆様におかれましては、権限を持っているのは政治家ではなく、自分だ、という意識を、心のうちに立て直していただけるように願う次第でございます。

 ……そもそも、社会主義を標榜する連中の方が熱心に民主主義を「神聖にして絶対不可侵のもの」とするのはなぜなのか。そのあたり、疑問に思ってもらいたい——というのが私の思うところ。
 
 

夏越しごはん

 今日はちょっとお休みしようかなと思ってましたが、ちょっと面白いなと思ったので。

夏越ごはん 中食・外食に浸透 販売店舗 前年の2倍
2017/6/22(木) 7:01 日本農業新聞

 6月30日は「夏越(なごし)の祓(はら)え」。
 年末、大晦日には「大祓え」がありますが、それから半年後の6月末にも、半年分のケガレを払って清める行事があるんですよね。
 もし神社に行けるようでしたらお参りしてみてください。茅の輪(ちのわ)もちょっと感動する大きさですから。

 私としてはご神事も大事ですがやはりメインイベントとなるのは食べること(笑) 色気より食い気。
 こういう行事には大体、縁起ものだったり、息災を祈る象徴として食べるということが関わってますよね。

 夏越しの祓えでいただくものといえば、お菓子の「水無月(みなづき)」。
 こちらは縁起が良いというよりは「厄除け」ですね。

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 日本では古来、赤い色は魔除けの色とされ、江戸時代になっても疱瘡(ほうそう。天然痘)除けのおまじないとして、鍾馗様の絵を描くのにも、赤、朱色を用いていますね。
 端午の節句では、朱色で描かれた鍾馗さんの絵、「朱書き鍾馗(しょうき)」を飾って疱瘡除け、ひいては子供が病気になりにくいようにと祈りました。
 朱書きになったのは、赤が厄除けの力があると信じられたため。

「これは赤とは違うのでは…」とへそ曲がりの私はうっすら疑問に思いつつ、でもまあ古来、小豆も赤っぽい色というので、厄除けが期待された食べ物なんでした。
 お赤飯を見れば、ああなるほど小豆、赤いね、と思うんですけどね。(^^ゞ

 水無月は、ういろうの上に小豆を載せたお菓子で、三角形をしているのは削り出した氷を意味しているとのこと。
 庶民は暑いときに(氷室の)氷なんて手に入れようもなかったですからね-……なんかもうこのへんから「見立ての心」は始まってるんだなという気がする;;

 現在でも和菓子屋さんでは季節になると水無月を出してくれるので、もし試したことがない方いらっしゃいましたら、今年はぜひどうぞ。

 ということで、やっと話は冒頭に戻りまして。

 夏越しのお菓子は知ってたけど、「夏越しごはん」とは、また面白いことを。

 お米の消費量は減っているし、そのうえ近年は「糖質ダイエット」なんてもんが流行っちゃって、どうにもお米の立場は弱い。
 ということで業界で考え出されたのが、夏越しごはんだそうです。

 今のところメニューの内容は決まってるのかな。記事によれば「雑穀入りのご飯に夏野菜のかき揚げを載せ、おろしだれをかけた丼」とのことですが、写真を見るとやたら美味しそう(笑)
 雑穀ごはんだとGI値も(相対的に)下がることになるし食物繊維出しビタミン類だし、サラダ多めで贅沢だし、いーんじゃないでしょうか。

 暑くなると食欲が落ちがち(私は落ちませんが;;)ってことでおろしだれでさっぱり、なのかな。いいなあこれ。

 伝統行事とはあんまり関係ない、というよりきっぱり便乗といった方が適切でしょうが、でもそれで消費が増えれば幸いなこと。

 最近の日本の夏はすでに亜熱帯よりも過酷なことになってますから、またいろいろと美味しいものが考案されていくかもしれませんね。

 うちの方ではまだ夏越しごはん、みたことないけど……ちょっと探してみようかな。
 自分で作ってもいいけど、暑い季節には天ぷら・揚げ物系は自作する気力は萎える…(笑)
 
 

ただでは去らぬ人

 本日は夏至でございます。
 一年で最も明るく、美しい季節のはずですが、あいにく日本は梅雨時。
 雨に降り込められその日差しすらろくに見ないまま、蒸し暑い夏に突入していくのですね。

 因果だな〜、こんなに(晴れている日は)美しいのに、と毎年残念に思いますが、でも、この雨期があるからさまざま恵みもあるわけで——、大のご飯党の私としては、梅雨に恨み言を言うべきではありませんね。(^^;)

     ●

 昨日はニコ生さんで、将棋、竜王戦予選(竜王と対局する、挑戦者を決める)を見ておりまして。

 加藤一二三(かとう・ひふみ)九段は御年77歳。失礼ながらこのお歳で現役棋士と言うのは本当に大変なことですが、今年1月の順位戦でC級2組からの陥落が決まり、規定により、定年、ご引退が決定しました。
 が、この竜王戦予選が残っていたので、現役の扱いでしたが、昨日は高野智史四段に敗れたため、ご引退となりました。

加藤一二三九段が引退 「将棋界のレジェンド」は62年10カ月間、こう戦った
2017/06/20 HuffPost Japan  執筆者:吉川慧

勝負師ひふみんの闘志…「感想戦なし」に理解の声
高野智史四段に破れた加藤一二三九段。対局後に「感想戦」をせずに将棋会館を後にしたことに多くの理解の声があります。

Twitter モーメント


 今回の対局、加藤九段の「現役最後の対局」と言われ続けておりまして、もうこれが最後と決まったかのような言い方に、へそ曲がりの私は、「ふんなもん、実際終わってみるまではわからないじゃんか」と思っておりました。
 これはでも、なんについても言えることじゃないですかねえ……勝負事というのは、その場に立つ以上は、弱っていようが怪我をしていようが、ただの対戦者同士——そういうものじゃないでしょうかね。

 私は幼稚園生の頃から大相撲を見ておりまして、多くの人の引き際をも見てきたわけで——その感覚はもう、相撲でも将棋でもなんでも同じだな、と。

 おそらくは勝てないだろう、とは思われつつも、その場に立つ以上はその人は戦う人なんであって「敗戦決定者」ではない。
 じっさい勝負事というのは何が起こるかわかんないし、負けるつもりで戦う場所へ出ていく人もいないでしょう。最初から負けるつもりで行くとしたら、それはそれで相手に失礼なことになる。

 観客なんてもんは、所詮は無責任な第三者に過ぎないんだけれど、でも、最低限の敬意というものは払ってしかるべきじゃないんでしょうかね。
 ——というのが、昨日までの私の感覚でございました。

 ニコ生さんで将棋の対局を見ていると、ときどき盤面の上下を逆にした画像が表示され、これを「ひふみんアイ」と呼んでいます。
 これはもちろん加藤一二三先生にちなんだネーミングで、先生が以前、対局中、相手が離席したときに、相手の席に自分が立っていって盤面を眺め、指し手を思いついて勝ったというエピソードによるもの。

 地球儀や地図をひっくり返して——つまり南を上にして——見てみると、まるで違う星のようで面白いんですが、それだけで違うものも見えるし気づきもあるものですよね。

 加藤先生はそのお強さもさることながら数々の伝説をお持ちの超個性派。
 私もマトモに将棋を見るようになったのはネットで見られるようになってからで、先生の数々の武勇伝(笑)も、もっぱら人様から聞くばかりですが、でも、ニコ生将棋で解説をなさるのを見ただけでも、その伝説ぶりがしのばれました。

 何しろ恐ろしく頭の回転が早い。解説というよりは、途中からは自分が指し手を考えてしまい、それをまたものすごい速度で喋るので、聞いている方としてはボーゼンとするばかり(笑)
 なるほどこれじゃあお若い頃は本当に凄まじいくらいだったんだろうと、容易に思いつくほど。

 お人柄も楽しい方で人気者でいらっしゃいますが。
 それでも。
 昨日は、もう、素人目にも、形勢がはっきりして、それでも先生は粘っておいででしたね。いよいよという頃には長い時間、離席して、戻ってきたら、先に——立会人の方にでしたか、声をかけて、「感想戦はしません」とおっしゃり、それから、高野四段に向き直り正対し、——投了。

 そのあとはもう猛然としたスピードでお帰りになりました。
 
 その胸中は、とてもじゃないですが、「察するに余り有る」どころじゃないです……。
 何をいっても、僭越なんてもんじゃ済まない。きっと。

 私としては、今後は、あの名調子の、「みんなが置いていかれる解説」を聞く機会が増えたら嬉しいですけども。
 まあ、そんなことを言うのもね……、と。

 将棋ファンともいえないような「見る専門」のハンパな視聴者ですが、加藤先生の今後のご活躍を、さらに願う次第でございます。

 加藤先生は破天荒というよりは、どこか子供っぽいところがおありで、でもそれが可愛いと言うのかまったく憎めない感じなんですよね。
 あんなふうに歳を重ねていければいいなと思いつつ、でも、それも、年齢よりはお人柄だよなあ……と、思ってお見送りした昨日でした。
 
 
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