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本日おやすみ

急遽野暮用でお出かけのため、本日お休みいたします。m(_ _)m

今日はお彼岸お中日、秋分の日。
まだ暑さが残るせいで夏の気分が取りきれませんが、でも、あっという間に暗くなる空に、なるほどもう秋分か、と思います。

これからいよいよ加速して冬へ向かうんだなと思うと、寒さと、昼間の時間が短いのが苦手な私としてはため息も出ますが、まあ、それはそれとして。

画像はうちの庭の彼岸花。
鮮烈な赤も綺麗ですが、白い彼岸花もちょっと雰囲気があっていいですよね。😊

それではまた明日、お目にかかります。
良い週末を。

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一汁一菜

 食べることは大事だ、という考えなんですが、そういう割に、何かあって切羽詰まると真っ先に食べることを「切る」というのも困ったものだと自分でも思ったり。
 それでも切羽詰まって時間がない、でも食べたいという「日常の食事」については、いつも示唆に富むお話を聞かせてくださいます、土井善晴さんのインタビュー。

料理がずらり並ぶ食卓でなくていい 土井さんの提言は
料理研究家・土井善晴さんスペシャルインタビュー

2017年9月20日 日経WOMAN ONLINE

 子供の頃、最初にシャーロックホームズものを読んだときは、そりゃ嘘だろうと思ったのは、とにかく先生、捜査と推理に夢中になると、パイプはふかしてもとにかく食事をしないという描写についてでした。
 まだ成長中の子供ですから何があろうとお腹が空かないというのはありえない、と思っていたんですよね。少なくとも自分はそうだと。

 ところが一人暮らしになって最初の年、試験とレポートに追いまくられて食事なんか作ってる暇はないとなったとき、1週間、コーヒーとトーストで過ごした時には自分で自分にびっくりしましたわ。
 本当にお腹が空いたという感覚がないし、食べるのは「面倒臭い」感覚で、食事に何かを「邪魔される」感じでした。

 ああホームズ先生の感覚ってこれなんだわ、あれフィクションじゃないんだわ、としみじみ思ったんでした。
 でも、体に悪いのはいうまでもない。試験が終わった途端にひどい風邪をひいて寝込み、食欲なくても食べないとダメだ、と、文字通り、身をもって知りまして。
 
 それで、どんなに忙しくてもご飯は作るようになった——と言えればカッコイイんですが、食欲がないものはない。ようは栄養取れてりゃいいんだろうと、翌年から何をしたかというと、試験前に1週間分の食事を作ること。

 と言ってもメニューを考えてのことではない。
 朝食は、目玉焼きと御御御付け、納豆、というのは不変なのでこれはいいとして、お昼は学食の定食に。
 一番の問題は夕食ですが、これのためにホワイトシチューをまとめて作って、1週間、食べ続けた。

 野菜とお肉がとれるし、冷凍しておいて温めなおせばいいだけ。
 食器洗いも最小限にという理由から、「シチューライス」にしていました。

 ご飯に、カレーのようにシチューをかけられるか、という論争もどこかでありましたが、あれは結構いけますよ。ドリアに抵抗がないなら、ホワイトシチューライスにも抵抗がないはずです。理屈ではね。
 ご飯にミルク系ってあいますよ。意外と。

 ともあれそれを1週間毎日で、よく飽きないね、とは言われましたが、平気でしたねえ。食べたくて食べてるわけではなく、本当に機械的な「作業」になってしまうので、——で、もちろん不味いわけでもないし。
 あのときつくづく、私は本当は食べることには執着の薄い、ややあぶねータイプなんだなと実感しました。

 でも、あの経験から、土井先生がおっしゃる、「褻(日常)の食事」のこの論理が、よくわかるんですよね。

 私のような食べ方は論外ですが、でも、「日常の食事」についての考え方は、おっしゃる通りだと思います。

 お貴族様じゃあるまいし、毎日毎日、何品も、彩も美しく作る「べき」だという考え方はナンセンスだ、ということですね。

 そういう贅沢をするときがあってもいいが、日常毎日のことで、そこまで気を張っていたら疲れてしまう、という。
 だからと言って粗末な食事でいいというのでもない。

 なんていうんですかね——「名より実を取る」というとちょっとズレますが、美味しくいただいて栄養が取れればいいじゃないの、という考え。

 粗食ではない。メニューを見るとわかりますが、食材は豊富ですから、「食事のピラミッド」でしたっけ? あの栄養バランスを説明したピラミッドの実現は可能。

 もちろん丁寧に見た目もきれいに、何品も作れる人はそうしたらいい。でも、そう「しなければ」ならない、という妙なプレッシャーをかけ、挙句には押しつぶされ、やけになってサプリメントに頼ったり、外食、インスタント食品、お惣菜を買い込むので自宅には包丁すらないなんてことになるのでは本末転倒。

 シンプルだけれど栄養豊富という食事は実現可能だし、「日常=褻」の食事というのは本来はそういうものだ、という考えには、私は全面的に賛成です。

 具沢山のおみおつけ、美味しいですよね。豚汁や芋煮のあの美味しさだと思えばいい。

 今の世の中はどうもいろんなことが極端化しているなと感じますが、食事もそうですねえ——家に包丁が1本もないなんて話も聞くし(子供さんは学校が休みで給食がない間に栄養失調になる。これ、本当に事実あることなんです…)、そうかと思うと、本当に、食事は何がなんでも全て手作りでないと「だめ」だという主張をする人もある。

 どーしてそう、いうことが極端になるんだよ……と、ぼうぜんとする。

 そういう中で土井先生おっしゃること、ごもっとも。と深く頷く次第です。

 気楽に、でも楽しく。美味しく。いただいて明日への力に。
 食事の「基本」、その「もと」を示してもらえる。そんな気がします。


 余談ですが、おみおつけの具にはやたらこだわる人がありますね。
 夫婦喧嘩の原因が、具が豆腐だったら一緒になる具は、わかめか、はたまた油揚げか? で揉めた、なんて、実際にあるんだそうで💧

 具沢山ならそんな喧嘩にもならんと思うけどなあ。

 どのみち、何につけ、「〜であらねばならない」という思い込みは何かと柔軟思考の邪魔になるので、可能なかぎり排除したほうがいいというのが私の思うところ。

 そもそも「こだわり」っていい言葉じゃないんですよ。本来。
 そんなことにこだわるな、と言って、人をたしなめるような表現。
 いつからこんな言葉が、あたかも一つの美徳のように言われだしたんだろう、というのが、私のひそかな疑問だったりします。

 こだわりは自分の首を絞める。
 信条や信念があるのはいいけれど、それこそ、こだわりすぎて自分を傷つけることのないように、と願います。
 私自身がひじょーに頑固なところがあって、自分でもよくないなーというのを実感しているので💧
 
 ちなみに、味噌汁という言葉はあんまり使いません。人様にまで、この言葉を使えなどとは言いませんが、おみおつけは女性言葉だとも言いますがそのせいか、響きが柔らかで好き。
 漢字で書けば御御御付け。どこまでも主食を補う美味しい副菜への敬意があるようで、ちょっと面白いなと思う、好きな言葉です。
 
 
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等身大の主語

「ダーリンは外国人」のどこかにも「大きい主語」の話ってあったっけなそういえば。と思い出しまして。


 私も先日、「(女性である)私はこうだ」というのなら、そうですか〜で済むけれど、「女性はこうだ」と言われると「そおですかあ?⤴︎」になってしまう、とお話ししたところだったので(2017/09/16「巻き込み型自己紹介」)、あ、やっぱりですか、と。

 そういうわけで「ダーリンは外国人」でも、私は〜、というべきところ、「我々は」と言って大きく出るのを冷やかす話題があったと記憶していますが(今ちょっと確認している時間がないので、後で探してきます💧)、やはりそういうの、やめたほうがいいんだなあと思いました。

 もう半分以上忘れていましたが、けっこう昔、「私は、私が、といちいち書く文章はうざい」というご意見を見かけて、ちょっと動揺し、考え込んでいたことがありまして。
 私は明らかに、私は、私が、という主語を突っ込むタイプ。そうかこれって鬱陶しいかな、日本語としては押し付けがましいというか主張したがりというのか、そういう感じになるのかな(その感覚もわかる気がする)——やめたほうがいいかしら。と。

 別に自分が名指しで非難されたわけじゃないんですが、でも気になってしまいまして。

 実際、日本語って徹底して主語を省略すること「も」可能なんですよね。それゆえはっきりしないなどと悪口を言われることもありますが、日本語のすごいところは、主語を省略しても、動詞の変化や助詞、助動詞の示す意味から、誰の発言かがわかる構造を持っていること。
(源氏物語の原文……あれはすごい……)

 わからないという場合は話し手・書き手がボンクラか、あえてぼかしているかのどちらかなので、日本語が曖昧というのは的外れの批判。
 実際、一人称一つとっても、単数、複数はもちろん、身分階級の違い、職業、性別による区別、さらには敬語、謙譲語、卑語までがある日本語は、きっちり使いこなすのには相当の論理性が求められる。
 日本語ほど論理的な言語はないだろうと私などは密かに考えております。

 ボケた日本語になるのは、話し手か、受け手のどちらか、あるいはその両方に論理性が欠けているからだと言ってもいいくらいでしょう。

 ということで。
 実際、文章の場合ですが、日本語ではあんまり主語を主張しなくてもいいんですよね、むしろ、あんまり頻出させると「うるさい」印象になる。ボコボコと小石がある未舗装の道みたいな感じ。

 でも。
 ——詩文なら主語省略でもいいが(むしろそのほうが通りがいいが)私が書いているのは、じつはけっこう人の内面に触れる繊細な話題が多い。
 主語をはっきりさせないと、自分で自分のことを反省しながら書いているのに、他人を非難したように思われる危険性が跳ね上がるんですよね。

 私には、人様のことをあげつらうような度胸はありません。ものすごい小心者です、そのへん。
 なので、「これは人様のことをいうのではありません、私はそのようである、そのように思う、というだけのこと」「通販番組でいう『個人の感想です』ってやつです」というのを補足しておかないと怖くてしょーがないのです💧 ホントに💧

 で、あれこれ考えて、
「やっぱり私は、主語をはっきりさせよう」
「うるさいとか不細工に思われてもいいや。責任の所在をはっきりさせるほうが大事」
 ということで、自分のスタイルとして決めました。

 私はこのようにします、というだけであり、他人にも同じようにせよとは言わないし、すべきだなんてなおさら言わない。——というリマーク(注釈)のつもりでおります。

 ゴツゴツして鬱陶しい文章になることは承知。でも、「これは他人様のことを言ってんじゃないんです」と示すことを優先する、と決めました。

 でもまあ、——私はそう思う、そうしている、というのを主語なしにするのも危険ですが、「我々は」と大上段に構えたり、女性は、男性は、〇〇人は、などと大雑把なグループ化をすると、そんなところに入れてもらいたくない人からは、そりゃー怒られるわな……、と、あらためて納得しました。

「主語を大きくする」とは、納得の表現ですね。……うん、ホントにそうだ。

 私はこうですとか私はこれが好きですと言ってりゃいいのに、なぜ主語を大きくしてしまうのか、というのは。
 一つには、「自分を基準に考え、自分の考えが常識だと思い込む」人間の習性もあると思われますし。
 もう一つには、やっぱり、自分だけではないはず、「お仲間」が欲しい、あるいはお仲間がいると信じたい、そんな気持ちが無意識に働くのかも。そんな気もする。

 こういう考えや態度なのが自分一人だったら嫌だから、みんなそうだよね! という、お仲間欲しさの気持ち。……そういうのってないかな。

 私はこうです、というとき、気持ちのどこかに寂しさはあるかもしれない。
 だから、誰かと「私たち」になれたとき、そう感じたときには「特別感」があり、安堵感があり、幸福感さえあるのかもしれません。

 確かに「私たち」と言い合える人はいるかもしれない——いたとしても、でも、それでも、何かを主張するときには、「我と等しき人しなければ(※)」の思いを持つことは、必須のように思います。

 自分の当たり前は誰かの非常識、ということは念頭におくべきところですが、どーしても人間は自分のことは当たり前だと思い込むので、それくらいの気持ちでいてちょうどいいかもしれません。

 なんにしろ、「主語を大きくしない」「責任の所在を明確に」ってことは、たとえ見苦しい文章になっても、肝に銘じておきたいと思います。はい。

(※)在原業平
「思ふこと 言はでぞ ただに止みぬべき 我とひとしき 人しなければ」
 
 
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不倫問答

 人生これからという現役女子高生が、昨今の連続する不倫報道には本気で疑問を感じているらしく、「なぜ”みんな”不倫をするのか」という、とんでもねーご質問を頂戴して、頼りないながらなんとかご返答申し上げておりました件。
 私の、無い知恵を絞った回答でどこまで納得してもらえたかは不明ながら、またちょっと話がずれて、自分はどうだったのかと聞かれました。

 ……すでに過去形で言われるところがちょっとせつないな、おばさん(笑)
 いや、だからこそ気楽になったところもあるんで、そこは嬉しいんですけどね。

 つまり、長いこと独身でいて、自分が不倫の泥沼にはまることはなかったのかというご質問ですね。
 ——ないよ。(シンプル)

 あれはねえ……どういう了見なのかと考えていると本当に暴行・傷害罪を犯したくなるからあんまり考えないようにしてるんだけど、既婚者でありながら、ヒマそーにしている女ならちょっかいかけてもいいだろうと思う男って本当にいるのね〜。

 私もいい加減ぼんやり生きている人間なので、最初は何を言われているのか意味不明、わかった瞬間グーで殴りたくなったわけですが。
 なんでしょうかね……どこまで人を馬鹿にしてんだテメエはというのが私の思うところであって、ちやほやされているという感覚すらなかったですね。

 もっと腹たつのは仕事関係でそういう奴がいたことですが、こちらは幸い、上司がそういうところで理解してくれて、担当をかえる等の対応でなんとかなりまして。
 やっぱり上司というのも大事なものですよね…その点では私は本当に恵まれていたと感謝してます。

 とまあそんな感じ。
 粉をかけられているだけなのに、モテているとか、ちやほやされていい気分になるとか、そう思う人もあるそうなんですが、私は男嫌いが幸いしてか、元々の気質か(基本的には平和主義ですが売られた喧嘩は買う)(既婚者にコナかけられる=喧嘩を売られたと解釈する😅)、いい気分どころか「既婚者のくせに」と怖気を震ったというのが正直なところ。

 そういうわけで、不倫する人の気持ちは私にはわからないのよねえ……といったら、女子高生、ふーんと笑ってましたが、安心したところもあるようでした。
 
 世の中はきっとロクでもない場所だけれど、あなたが思うほど「最悪」の場所でもないんだと、私は思う。

 ——最悪の場所へ引き込もうとするものに出会うことはあるけれど、それをどうするかは自分次第とも言える。
 もっとも、私が上司に助けられたみたいに、人に恵まれるなどの環境も大きい。それも確かだけれど。

 不倫する人の気持ちはわからないが、他の人のように非難もしないということについては、彼女としては若干「不満」に思うところもあるようでしたが——そのへんは私も話していません。

 基本的にそれは「他人のこと」なので、第三者が悪口を言うようなことでもないんだけど、なかなかねえ……。

 昔には、不倫中の知人から、それを「愛」だといって滔々と説かれたこともあるけど、そんなもんが愛ならあたしゃ死ぬまで用はないね、と思いました。
 が。本人にはいってない。
 そんなもの、関係する誰にとってもいいことなど一つもない。愛であろうがなかろうが、当事者になんの苦しみもないと言うことはない。
 ただでさえ苦しみがあるものを、第三者がそれ以上に鞭打つべきことではない。

 理性ではどうしようもなく巻き込まれていく場所というのが、誰にでもあって、本人にそんなつもりはないのに、どう抗ってもそうなってしまう、ということはある。
 それぞれの人にそれぞれ負うものがある。何を負うかは人それぞれだし、負ったものについてはいいも悪いも、えらいもエラくないもない。
 自分がやるべきことをやるしかない。

 不倫で苦しむこともそういうもののひとつで、その人は、苦しむこともそこから抜け出すための気づきや努力も、課題として課せられて、取り組んでいる。
 宿題がそれぞれで違うようなもんですね。他人の、他の科目の宿題に、違う科目の宿題で泣いている自分が、なぜ口出しなどできましょうか。

 やたらな非難はしないというのは、そういうこと。

 ………なんだけど、現時点では、まあいいか、と思って、そのへんは話さない。
 なぜ、他の人たち(例えば彼女の母上)のように、ああだこうだと悪く言わないのか、という疑問がもっと大きくなったなら、話してもいいけど。
 今はまだそんな用もなかろ、と思って言わないでおります。

 だからってもちろん私が不倫容認主義ってことはないし、ふざけた態度の野郎への殺意がないということでもないので、その辺りは念押し。

 しかしまあ、若い人にああいうことを言われてしまうのもいーかげんみっともないことではあるので、本当にもう、どうにかならんのかその下半身事情。
 と思っているのも私の本音です。
 

 今気がついたので補足。
「粉かける」ってわかります? これも #昭和語感 なのかあるいはもっと古いかもしれませんが(私と同年代の人であっても通じない気がする……😅)、俗な表現で、異性に声をかける、誘惑する、という意味。
 なんとなく女性が男性を誘惑するという場合には使用されないという印象を持っていたけど、そうでもなかったのかな……どうかな。
 ナンパ、逆ナンよりは悪意のある表現だと私は解釈しております。
 
 
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急がない付加価値

 これ面白いなというのと、いいなというのと、こういうのを聞いて「へーえ」というようになっちゃった経緯についての感慨と、いろいろなことが思い浮かびます。

最速、最安は本当に必要?通販サイトが「急ぎません。便」導入 狙いと反響を聞く
2017/9/19 Yahoo!ニュース/BUZZ FEED Japan

 私も通販大魔王で、買い物は通販がほとんどという地元経済に貢献しないタイプなので、どうも肩身がせまいのですが(好みと時間の都合でどうしても💧)かえり見ると、そうだよねえ、昔はそんなに急ぎだなんて言わなかったなあ。と思い出す。
 学生のときに、下着やパジャマ類を購入するのにセシールさんにお世話になったのが、通販大魔王のそもそものきっかけですが、あの頃は、注文も郵便で、注文書を投函してから届くまでに1週間くらいが目安でしたかね。

 下手をしたら忘れた頃に荷物が届くなんてこともありました。世はすでにバブルのニオイが濃くなりつつあった中ですが、そんな感じでした。あんまりスピードを競うことはなかったですね。

 有料サービスで急ぎができたのいつからかなあ。私はそういうの利用しなかったので記憶にありません。
 有料でも早くに欲しい人もあるだろうし、ふーん、という感じで横目に見てたかな。

 通販の取り扱い量が増えるに従い、競争も激しくなり、そういう中でサービス過剰になってきたんでしょうか。
 いつからこんなことになっていただろう、と、私もしばし考え込んでました。(そして考えても思い出せないという記憶力(笑))

 昔は「急ぎ便」の方が特例だったのに、今や「急ぎません」の方が特例扱いになるとは——一体いつから、世の中はここまで狂っていたのだろう、と。
 つい、ここまでの経緯を振り返りたくもなる。

 Amazonプライムでは、お急ぎ便の方が標準ですね。というか、商品の在庫がすぐにはないという場合を除くと「急ぎ便一択」状態なわけか……うーん。アマゾンプライムって開始されたの何年ごろでしたっけ?💧 あれもどんどんサービス内容が拡充されているので記憶が…💧

 もちろん早めに届いてくれればありがたいですけど、何でもかんでも急ぐ必要があるわけでもないし、せっかく早めにきてくれても、受け取るタイミングが悪くて結局、そこから数日かかることもある。
 実際には、さほど急ぎ便というのは、消費者側からは「必要性」の高いものではなかったのかもしれませんねえ。

 競争というのは市場なり業界なりを活性化させる燃料になりますが、それが過剰なものになると「害」にもなる。
 坂道を転がり落ちていく石を止めることが難しいようなもので、一度そういう変な動きが始まると、止めるのは難しい。

 それでも運送会社が撤退するしかないほどに過熱したのは異常。
 少しずつ「正常化」に向いているようですが、そういう中で「急ぎません便」というのもいいアイデアだし、それでいいです、と応じた消費者も良心的でよかったなあ、と。

 急ぎ便は、それはそれであってくれればありがたいですが、でも、しょっちゅう「必要」でもないということが今回のロコンドさんの試みからわかったってことで、この動き、他にも広がっていくといいですね。

 Amazonプライムの場合も、「急ぎません」便の選択肢がついてくれてもいいように思います。本当に急ぐときは急ぎ便でお願いするし——私は利用していませんが、日用品をボタン一つで発注できるというサービスもあることだし。ね。


 完全に話がそれるんですが、「急ぎません」という丁寧語の名称もいいなあと思いました。

 最初に聞いたときも、急ぎません便、という音の響きが柔らかでいいなとうっすら思ったんですが、昨夜はその対極の——、「内容はいいんだけど、その物言いはどうにかならない?」と思うものを見てしまって(笑)

「急がなくて結構です、今回注文分はまとめて1つの荷物で送ってください。どうぞ1箱にまとめて送ってください。複数個に分ける必要はございません、なにとぞよろしくお願いします」便——を、アマゾンさんには導入してほしい、という内容のツイートがありまして。

 主旨はその通りでいいんですが、これ、原文はものすごいぞんざいな命令文になってまして。
 ちょっと気分が悪いので、私は丁寧文に変えさせてもらいました(笑)

 お客様は神様ではない、ということがちょっとずつ言われるようにはなったものの、世の風潮してはまだまだだなあ、と思う中ですから——、客だからってこんな口を叩くようでは「急ぎません便」を選択したとしても良識を疑いたくなる。

 言葉遣いは大事ですよ。着る服に気を使うように、言葉にも気をつけた方がいい。ぞんざいで乱暴な口を利いて他人を不快にさせていながら、私は悪い人ではない、いい人です、などと名乗られても、信じる人はいないでしょう。

 ということで、プライムの注文だからって無理に矢継ぎ早に送る必要はないでしょう、急がないのでこちらはひとまとめで送ってくださいねという選択肢を導入してほしいという、そのお志には同意なんだけど、この口のききようは何? と思い、一瞬、RTするのを躊躇ったんでした。

 せっかく業者さん含めて気遣いするのなら、その気持ちが伝わるよう、言葉にも気を配ってもらえるといいんだけどな、と。

 タメ口ならまだいい方で、本当に、原文はどこのどちら様で? と言いたくなるような乱暴な口調なので。
 ひとつのシャレとしての言葉だろうとは思うんですが、ちょっとね。「急ぎません便」のネーミングに比べるとどうも嫌な印象になったので、惜しい、と思いまして。

 丁寧に言っていると140文字では足りなくなるという都合は勘案しても、でももうちょっとなんとか。
 ——と思って、ちょっと改竄しました。ゴメンナサイ。(^^ゞ
 
 
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無許可RT

 ソーシャルメディアは、Facebookやmixiから始まり、Twitter、Instagram、その後も諸々のサービスが出てきていますが、それぞれの「社会」に、それぞれの特色があるのは興味深いところ。
 私は古くはプロバイダーさんが提供する「掲示板」「日記」のサービスから、ブログへ、そこからTwitter、恐る恐るインスタ、という順序で来ていますが、それぞれの社会に暗黙の了解があるんですね。

 インスタを始めたときにびっくりしたのは「自分の投稿(ポスト)を勝手にRTする人がいる」と言って「怒っている」人を見たときでした。
 インスタは公式にはRT——リポスト、またはリグラムというものをサポートしていません。インスタ運営はそういうものを「認めていない」ことになります。ので、まあ、怒るのも無理ないのかしらとも思うけども。
(でも、インスタのポストを第三者が、Facebookやツイッターに投稿する機能はあるんだよねえ……URLをツイートするだけではあるけれど)

 インスタはそういうわけで、多分あれは画像を扱うせいかなとも思いますがいわゆるRTは認めない。それはいい。
 でも、ツイッターは「共有」という概念のもと、見た人が、これはと思ったものをどんどん他人に伝えていく、それをこそツールの目的にしている。
 ので、少なくともツイッターにおいては、RTは、許可も無許可もない。
 規約でもそのようになっている——そうです💧(←読んだはずだが記憶になかった人)



 ツイッターもRTについては試行錯誤の歴史があり、以前に問題になっていたのは「引用RT」だったそうで(この時期は私は使用していないので詳細を知りません)。
 この場合の問題は、元のツイートを引用者が「改ざん」する可能性があったから。

 RTという「再配信」はよろしいが、他人の書いた内容を勝手に変えるのはいかん、という。……ま、そりゃそうですよねえ。
 著作権自体はあるものの、使用については公共物(雑誌新聞書籍など)だという概念なんですね。

 ゆえに。
 内容を改ざんされたら問題だと私も思いますが、RT自体は文句を言う筋合いではない。面白いと思われたかバーカと思われたかは関係ない。RT自体には問題はないし、ツイートを公開にしている時点で、「無許可RT」を承知しているというのが、ツイッターの「規約」になります。

「無許可RT」されることに私が抵抗なかったのは、ブログから来ているせいかもしれません。ブログというのは裁判でも「公共物」だと認識が認められました。
 著作権はもちろん書いた人にある。でも公共物である以上、不特定多数の人々に利用されることが「前提」なんですよね。
 実際ブログエントリーはRTされるも何もありません。トラックバックという機能はありましたが(……過去形で言うのはおかしいか💦)どこでどう人様にご利用いただいているかわからない。
  
 商用利用されていたり、内容を改ざんされたり、「盗作」された場合はこちらとしては権利行使の可能性がありますが、RTに該当するものについてだけなら、まあご自由に、ということ。

 そういう概念できているので、むしろ、インスタの「勝手にリポストされた」と怒る人を見て「ネットという公共空間に公開にしているのに、なんで?」とびっくりしたんでした。

 無許可RTに怒っている人に「嫌なら非公開にすればいいのに…」とおっしゃる人々がいます。その通りですね💧

 インスタもツイッターも、限られた人にしか知られたくないなら非公開にすることは可能です。
 アカウントを公開の状態にしているというのは、——ともあれツイッターにおいては、

「コンテンツを使用、コピー、複製、改変、修正、好評、送信、表示及び配信するための、世界的かつ非独占ライセンス(サブライセンスを許諾する権利とともに)を当社(ツイッター社)に対し、無償で許諾することになります。」


 という規約があってそれを承知して、アカウントを取得しているので、しかも同じツイッターユーザーにRTされるのに許可もへったくれもない。

 私はむしろ、インスタの、「ネット上に公開しているものなのに、なぜ、(雑誌などへの転用でもない)リポストに『怒る』のだ」と、そっちの方が不思議です。(非公開アカウントならまた別ですが)

 どうもなあ——「ソーシャルメディア」という言葉を真に受けすぎるのか、グループ化されていようがいまいが、ネットというのはこれ以上ないほどの公共空間だという概念が「ない」人がいるんですねえ……。うーん。

 オトモダチとの内緒話のつもりで使用しても(そう”思わせる”機能はあるけど)、実際には、街の大通り、そのど真ん中で、メガホン持って大勢の人に聞こえるように言っているのと同じなんですよね。本来は。
 ものが何であれ、ネット上にある以上はその本質は「公共物」だということは、理解しておいた方がいいように思います。

 おめでたいことや嬉しいことなら実名は出すけど、ちょっとネガティブな話題の場合、可能な限り実名を書かないのは私のポリシーですが、このポリシーの理由でもあります。
 公共物、「おおやけ」に個人名を挙げると言うのはそれなりに配慮すべきことがある、という考えがあるからで、つまりはネット空間は公共、公の場所だだから。

 とはいえ、ツイートはこの上もなく、本当にただ単なる独り言(寝言)をつぶやいているのも事実。
 その辺を突っ込まれると私もまだ考えがまとまっていない……もう少し考えます💧
 プライバシーとパブリックの概念も、なかなか入り組んではいますよねえ……。

 
 ツイッターは「ミニブログ」だとどなたかおっしゃってましたね。私が顔本は放置、インスタは未だに使いきれずに及び腰なのに対し、ツイッターにはミョーに馴染んだのは、ブログと似たような感覚だからかもしれません。

 とはいえ、ツイッターに馴染んでのんびりやっているのは、いわゆるクソリプも来ない、気楽な立場でできているからだというのも、承知しております…。
 ブログやインスタはコメントの受付を止めることができますが、ツイッターにはその機能はありません(……よね?💧)から、他人事ながらちょっとお気の毒になって、たまに、「リプの受付、止められるといいのになあ」と思うことがある。(^^;)
 いわゆるクソリプは、他人から見ても気分が悪いものが多いので。

 ツイッターの規約には、「ユーザーの権利」の先に、まずこちらがあります。

ユーザーは、適用される法令や規則への遵守を含め、本サービスの利用および自身が提供するコンテンツに対して責任を負います。
提供されるコンテンツは、他の人たちと共有して差し支えのないものに限定してください。

(赤文字、下線、引用者)

サービス利用規約
https://twitter.com/ja/tos


 
 何よりもの前提は、こちらの方だということも、再確認が必要かもしれません。
 
  
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納豆恋しや【追記:訂正あり】

 この3連休は台風18号でかなり予定が狂っておりますね。
 中止や延期のイベントも多い…というかそもそも災害がまた心配されるところ。
 今年は水分量が多すぎる。もうご遠慮願いたいですね、つくづく💧

 私も墓参と法事のために西日本方面へ出かける予定でしたが、諸事情勘案し、中止しました。
 とにかく大きな災害とならずに、さっさと通過してくれますように。
 
      ●

 そんなわけで今日はちょっと気もそぞろ、落ち着いて書く気になれないので、しょーもないことをひとつ。

 納豆、好きなんですけど。

 現在の納豆については、深い悲しみを覚えます。

 昔——記憶では学生の頃なのでもう30年近くも前のことですが、あの頃は、わざと納豆を賞味期限よりも長く置いていたんでした。
 というのは、これは全くお好みの問題ですが、賞味期限を超えて何日か置いた方が、より熟成が進んで、ねっとりしてきて、こってり糸を引く。私はこちらの方が好みだったのです。

 がしかし。
 現在、スーパーで納豆を購入しますが、今の納豆は賞味期限を超えると、カピカピに乾いてしまうようです。
 ねっとり糸を引くどころか、乾いて、豆が干からびたみたいになっている。

 悲しい。

 つまり現在の納豆は、実際に大豆を煮て、発酵させているものではないのでしょう。
 
 ならばどうやっているというのか、私にはわかりませんが(………具体的に聞くと食欲減退しそうなので聞きたくない💧)、煮豆に納豆菌を「貼り付けて」いるだけじゃないの? という印象です。
 そうでなければあんなに豆が「乾燥する」なんてちょっと考えられないでしょう。
 納豆は発酵がすすむと、匂いが強くなるはずですが、それもない。

 賞味期限よりも長く置いても、昔のように私好みのねっとり納豆にはならないのだ、と気がついたときのあの悲しみを、なんと表現すればいいでしょう。

 発泡スチロールの容器を覗き込み、いったい私は何を食っているのだ? としみじみ思うこの悲しさを。
 誰に訴えればいいのか。

 そもそも「匂いのない納豆」なんてもんを見たときも、「あの匂いがいやだなんて、そんな奴は納豆を食うな💢」と思いましたしねえ……。
 
 嫌いなら嫌いでしょーがない。嫌いな人にまで無理に食えなんて言いませんよ。
 
 でも、納豆ではなく「納豆もどき」の方が大手を振って売られている、この現状が、ときどき、たまらなく虚しく、悲しくなるのです。
 このへんを考えていると切なくなってくるのですが、それでも、希望がないこともない。
 甘酒みたいに「本物」が復権した例もありますもんね。(無理矢理にでも前向きに・笑)

 私はどうも子供の頃から甘酒が苦手だと思ってきたんですが(どうかすれば途中でえずいてくるほど)、私が苦手だったものの正体は、「酒粕に砂糖を加えたもの」だったんですね。
 これは甘酒ではありません、麹のこの字もありません。

 言ってみれば「なんちゃって甘酒」であり、もっとはっきり言わせてもらえば「甘酒もどき」「甘酒っぽい飲料」なんですね。

 初めて本物の、ちゃんとお米と麹で作った甘酒を飲んだ時は感動しました。
 甘酒を苦手だと思っていたのに、飲み飽きるどころか、おかわりが欲しいくらいに美味しかったんですから。

 と同時に、本当の甘酒は作るのには手間と時間がかかり、かつ、大量には作れないということも納得しました。
 あの甘酒もどきは、そういう理由から、手軽な代替品として考案されたんでしょうね。ナットク。

【追記:訂正】
 酒粕を溶いて砂糖を加えるなどしたタイプのものも古く甘酒と言われていたというご指摘がありました。
 麹を使用したものの「代替品」という発生の仕方ではないのは確かなようです。お詫びして訂正いたします。

 万葉集にも登場するし、酒粕使用のものは麹発酵の設備が不要なので手軽ということからすると、米麹主体の甘酒の方が後発と考える方が自然かもしれません。このあたりはまた詳しくわかるといいのですが。
 麹使用タイプの方が甘酒の主流と見なされるようになったのは江戸時代に、夏の栄養ドリンクとして人気を博したからかもしれません。

 どちらがどうであるにせよ、この二つの飲料は全く別物ですから、であるならば、別名を名乗って欲しかったなあ、というのが私の思うところです。
 でも昔の人はそんなことにいちいちこだわらなかっただろうしなあ、とも思う💧

 また、酒といえば濁酒だった時代の酒粕と、清酒が主になった時代の酒粕では内容が異なるとも思われ、山上憶良さんが味わった甘酒はどんな風味だったのかなとも思ったり。

 さらになお、甘酒と白酒は別物。甘酒はノンアルコールとみなされますが、白酒は
「蒸したもち米にみりん、または米麹と焼酎などを混ぜて仕込み、約1ヶ月間熟成させた後にすりつぶして作られたもの。アルコール度は10%前後で、甘みが強く、酒税法上ではリキュールに該当」
 するとのことです。
(「All About 白酒と甘酒は別物!桃花酒で大人のひな祭り」)

 ゆえに未成年の方は、白酒は飲めないんですね。😅



 でも、今や甘酒は、健康飲料として見直され、少なくとも酒粕がメインではない、麹から作られる甘酒がかなり増えてきました。
 ありがたいことです。

 ということで納豆も——
 またいつか、例えば整腸作用や何かで見直されて、「ホンモノ」が復活してくれるかもしれない……と夢見ているところです。

 ……自分で作るというのも、現在、真顔で検討中です。
 毎日は無理でも、やっぱり、あのふっくり熟成した納豆………、味わいたいな。

 我ながら、食い意地が張ってお恥ずかしいところ。(^^ゞ

 でも、本当の意味で食に執着するタイプでもないこともわかっているので(何かあると真っ先に削るのは食べること)(シャーロック・ホームズ式になる)、その辺りは自分でも、ちょっと面白いなと思います。
 食べることは好きだけど、執着もない……ってところなんですかね。(謎)
 
 
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